その女勇者(魔王)、勇者に溺愛されています。 作:白千ロク(玄川ロク)
膝の上から退けられたのは、それから数時間後である。袖で涙を拭ったあとも、腰を撫でたり、頭を撫でたり、髪を弄ったり、耳を撫でたりとそんな柔らかな接触しかしてこなかった。強いて言えば触れるだけのキスはあったが、片手で足りる程度だ。
キーエル自ら胸元や頬に顔を擦り寄せて甘えたのは雰囲気に流されたわけではなく、愛撫が心地好かったからだった。ソファーの柔らかさが深く腰かける躯を受け止めたあと、赤面したままの顔を俯かせて呟く。
「勇者の顔、気持ち悪い」
「俺の顔は親譲りだが」
「オレだってそうだよ! ――って違う! オレが言いたいことはそういうことじゃなくて――」
「わっ、みみみっ、見るな! こっち見るなってば!」と顔を覗こうとするレガルドを突っ張ね、限界まで逸らしながらもちらちらと視線を送る。やはり気になるということらしいが、逆効果だということはキーエル以外はすぐに気づくだろう。
「に、にやけてるんだよ! ずっとだぞ!? 気持ち悪いったらありゃしない」
「お前が悪い」
「な、なんでそうなるんだ……」
赤い頬を手の甲で軽く撫でてやれば、震えながらも噛みついてきた。「悪いのは勇者の方だろ!」と。「勇者が悪い」と吠えまくるキーエルの頭を撫で、「戻る」と一方的に話を切り上げて立ち上がったレガルドは足早に執務机に歩を進めた。
引き出しを開けてそこからなにかを取り出し、「キーエル」と投げて寄越す。距離が短くともうまくいくとは限らないが、数冊の本をなんとか受け止められたのは加減をしてくれたからであろう。
「それでも読んで時間を潰せ」
「……それはどうも」
「ああ」
キーエルは納得していないような口振りだが、本を横に置くのを見るに時間を置けば怒りは収まるだろう。たとえ怒ったままだとしても、レゴンの実を与えれば笑ってくれるはずだ。キーエルが笑ってくれそうなやり方はいくらでもある。
だからいまは、とレガルドはイスに腰を下ろしてそれを引いた。片づけなければならない案件を片づけるために。
万年筆を走らせるレガルドを眺めるキーエルは、むっと眉間を寄せている。どうして一方的に話を切り上げるのかと怒りが湧いたが、そんなことはもうどうでもいい。
――どうしてこうも様になるのか。ラフな格好をしているはずなのに、そこにあるのはかっこよさだ。自身が男だったとしてもこうはいかないだろう。団員の女の子たちが熱い視線を送るのも解らないでもなかった。そして男たちからも熱い視線があるのがすごい。自然と目がいくような容姿であっても、限度はあろうに。
「両性からモテやがって……!」
なんて奴だ。そうごちたキーエルは一番上にある本を手に、パラパラとページを
「終わったぞ」
「ふぁっ!? あ、ああ、はいっ!?」
突如背後から声をかけられれば、物語に没頭していたキーエルは驚くほかないだろう。本を閉じて戻すにしても、残りの本を床に落としてしまった。
「大丈夫か?」
「あ、ああ……、大丈夫。びっくりしただけだから。そっ、それよりも、勇者はこのあとどうするんだ?」
ひょいひょいと落ちた本を拾い上げて全部をテーブルに置けば、レガルドの手が髪に伸びてくる。掬う指のくすぐったさに躯が跳ね、「んっ……」と吐息が漏れた。
「風呂に入って寝るだけだな」
『風呂』という単語が一気に昼間のことを連想させる。キスをされ胸を揉まれ、あわや襲われそうになった全てを。
「うわぁあぁあ! 風呂なんて言うなよバカー!」
「風呂は風呂としか言いようがないだろうよ」
手で顔を覆いながら縮こまるキーエルから髪を離したレガルドは、「俺は先に入ってくる」と離れていった。口元を緩ませて。わあわあ慌てるキーエルがなにを思い出したのかを解っているからこそ顔全体が緩んでしまうわけだ。
「待てよっ……!」
遠ざかる足音に気がついたキーエルは慌ててレガルドのあとを追い、背中に勢いよく飛びつく。むにゅりと押し潰される胸のことなど微塵も気にせずに。
「ひとりにしないって言っただろ! 勇者ならちゃんと守れよ!」
ひとりは嫌だと力が込められる手に重なるのは温もりだ。「あのな」と紡がれる声は微かに震えていたが、一度咳払いをして難を逃れた。
「俺がいない間はイルガに任せるつもりだったんだが……、そんなに俺といたいのか?」
「そんなわけあるか! 傍にいてくれるなら勇者じゃなくてもいいんだからなっ」
「そうか」
「なら離せ」と紡がれる声は自身でも冷たいと感じたほどだ。しかし『自分以外でもいい』と言われてしまえば、冷えるのも致し方ない。
腕を外そうと手を伸ばしたとたん、また背中に胸を押しつけてくる感触があった。これでは躯が固くなるばかりだ。
「離さない」
「別に俺でなくともいいんだろう?」
「そう、だけど! でもなんか、離したくないというかさ……。なんでそう思うのか、自分でも解らないけどもっ」
「お前は、本当に――」
無防備で危ない。
無理矢理は避けているというのに、これではいつまでもつか解ったものではない。我慢をするのも馬鹿らしくなるが、躯だけ繋いでも虚しいだけだ。望むのはただひとつ。
キーエルに自分を欲してほしい。心からキーエルがほしい。
酷いことばかりしている分、その望みは薄いであろうが、叶えられるならなにがなんでも叶えたい。そして隣で笑っていてほしいと思う。
「な、なんだよ。言いたいことがあるならちゃんと言えよ。本当に、の続きはなんなんだよ?」
「なんでもない。忘れろ。俺は風呂に行く」
さっぱり解らないと言いたげなキーエルの声に瞬時に我に返り、振り払いたい衝動を消すように声を絞る。
「だからっ、オレも一緒に行くって言ってるだろ!」
「好きにしろ」
吐き捨てれば背中の温もりが離れ、裾を引っ張られた。「早く行こう」と。
◆◆◆
「節約になるぞ?」
「必要ない」
「ひとりはやだ」
「女湯に入るのに、なんの不満があるんだ?」
風呂場の出入口で言い合うふたりを避ける団員たちだが、ちらちらと窺うのはその異様な光景からだ。一緒に入ると
「オレは男だったんだぞ! そんな奴に裸を見られるのは嫌だろ。だから勇者と一緒に入る!」
「裸を見られるのが嫌かどうかは、個人によって違うだろうよ。うだうだ言う暇があるのなら、さっさと女湯に行け」
「俺が嫌なの! なんで解らないんだ、勇者のバカぁ」
「わ、解った。解ったから、泣くな」
解ってくれない悔しさに涙が滲めば、レガルドは慌てて背中に手を回してきた。肩先に押しつけられる顔を上げれば、目の前で深いため息を吐いている。後頭部を掻きながら。
腕のなかにいる温もりは、泣かれると弱いことを知っているのか。それとも、ただたんに涙もろいだけだろうか。触れられるのも困るが、とかく泣かれるのが一番
「敵わないな」
その小さな声は、赤面するレガルドの最後の砦であった。自我を保つための。
そしてキーエルははっきりと解ってしまった。レガルドに触れられるのは嫌ではないと。たった一日も経っていないにもかかわらず。
キーエルだけが聖水の張られた浅い浴槽に入ったのは、それから数分後だ。治癒の意味もあったが、『一緒に入る』のは男湯や女湯では難しい。なので治癒目的で造られた第三の場所でもある『聖水の間』に連れてきた。ドアノブに『使用中』の立て札をかければ、その間は誰も来ない。『
組んだ腕を縁に乗せ、その上に顔を置いていたキーエルは「勇者」と振り返った。「なんだ?」と返すレガルドは、手桶を片手にキーエルの背中に聖水を運んでいる。衣服の裾を捲った姿で。
キーエルが一緒にと言っても、レガルドは一緒に入る気などさらさらない。そうなれば自我が崩れることなど解りきっていたから。
結論を出すのは早く、傍にいる代わりのひとり風呂である。
「そのさ、いろいろありがとうな」
「礼はいらん」
「じゃあ話を変えるな。オレが寝てる間、勇者はなにをしてたんだ?」
「なにをと言われても、普通に過ごしてたが」
背中から漂う色気に負けじとなるべく見ないようにしているが、そろそろもたない。好きな女の裸体を目の前にして、見ないというのも非常につらいものがある。――男としては。
「そういうんじゃなくて、オレのことをどうしてたのか知りたいの」
「どうと言われても、定期的に魔女に来てもらい、定期的にここに運んでたとしか言えないぞ」
「ここに?」
「ああ。魂の定着と魔力回復のためにな」
手桶のなかのぬるま湯は淡い光を放っている。人工的に作られたわけではないそれは自然の恵みなのだ。一般的には『魔女の森』と呼ばれる奥深くに湧き、回復魔法や治癒魔法を凌ぐほどの治癒力を持っていた。だから『聖なる水』――『聖水』と呼ばれている。
自然の恵みであるがゆえに値段は定まらないが、一度手にしてしまえば一定期間は有効であり、最後にはただの水となる利便性から王族や貴族といった上流階級、騎士団や中流階級、さらには一般家庭にも広まっている。市場に広く出回っている経緯はおそらく、魔女と呼ばれる者たちにしか扱えないというところに安心感があったからだろうか。要は権力を振りかざす者やその類いにも売買はするが、販売権は渡さないということらしい。たとえ裏取引であったとしても、聖水の再販売は認められておらず、必ずや魔女たちの知るところとなるのだから。馬鹿者たちにはもちろん、魔女たちの手によって
「魔女に関わらなければならないのは気に入らないが、魔力が見えるのは魔女と呼ばれる者しかいないからな。しかたがない」
「勇者はどうしてイエバのことが嫌いなんだ?」
「答える義務はないだろうよ。早く髪でも洗え」
「ええ~……」
「残念がるな。早くしろ。文句があるなら出るぞ」
「それは嫌だ」と立ち上がったキーエルはすぐに湯船から出て、置かれた風呂イスに走る。ひとつを手に適当な場所を決め、髪を洗い始めた。
シャンプーの甘い香りが鼻をくすぐり、レガルドは背中を向けた格好で壁に寄りかかる。組んだその手のひらを握りしめながら。
風呂イスに腰を下ろす細い躯は身動ぎ、ときおり色っぽい声が聞こえてきていた。泣いているのか、鼻を啜る音もする。
「ん、ん……ふっ……やだ、も……この躯、やだぁ」
泡を落とすシャワーでさえも、キーエルには毒だった。飛沫が躯を刺激し、即座に快感へと変わる。リンスも躯を洗うのも、もはや地獄の沙汰だ。
「ゆーしゃぁ、たしゅけてぇ! かりゃだ、おかひぃの、変んっ……!」
ボロボロ泣きながら腕を伸ばすが、一瞥するだけでそれを取ることはなかった。レガルドは背中を向けて項垂れたまま、動こうとはしない。
「ひとりでやれ」
「やだ……、できない……できないぃ」
「ゆーしゃぁ」と呼ぶ情けない声にもう一度視線を投げるが、頭を振っているようでその実、胸もぶるぶる揺れている。深く息を吐いたあと、駆け寄るように抱きしめるのは動きを封じるためだ。
「頼むから落ち着け」
「ふぁっ!?」
「俺を乱さないでくれ」
びーびー泣いていたキーエルは背後から抱きしめられた瞬間、躯を跳ねさせた。快楽が消えないまま触れられれば、この躯はどうあっても反応してしまうのだ。腕の感触や耳をくすぐる吐息にいまも。
「ゆーしゃ、遅いぃ」と鏡に映りこんだレガルドの姿に安堵し、口角が緩んだのは無理もない。眉を顰めているが、それでもこうして来てくれた事実がキーエルを満たしたのだから。ともすれば腹に回された腕と涙を掬う舌の温もりに、また涙を浮かべた。
「……ゆーしゃぁ……」
「泣くな」
「か、らだ、洗ってください。お願いします。勇者、じゃないと、嫌、です」
「感じやすい躯にしたのは俺だからな。その責任はとってやるが、どうなっても知らないぞ」
ぐずぐず泣くキーエルの手からボディータオルを奪い、そっと背中に添えてやればぴくんと震える。朱色に染まる躯に生唾を飲み、ふたたび息を吐いた。
「……お前はそれでもいいのか?」
「いい、よ。勇者だから。――ん、んっ!」
頷く反動で肩を滑る髪の先、赤い首輪から覗くうなじに唇を落としたのは――。
どうしようもなく触れたくなったからだ。