※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第三章十二節

第三章十二節「日常の始まり」

 

―――ハガス中央行政区画王城最上階第三執務室。

 

 霧の煙(けぶ)る夜。

 

 “境界”に飲み込まれた都市の一角を見つめながら、一際大きな黒檀の執務机の前で、二本の大角持つ赤い肌の男が常の礼服(タキシード)姿で送られてくる情報に目を通していた。

 

 古くから使われる魔力を使った無線。

 

 情報は虚空で下の水晶から光の文字として出力される。

 

 次々に浮かんでいく情報に彼は都市で起こっている新たな異変に逸早く気付いていた。

 

「先日の大規模な“境界”の変動に続いてコレか。前々から上がっていた警察機構からの情報で……もしやとは思っていたが……」

 

 彼、ドゥーズ・スィール・フォイルは基本的に平和主義者だ。

 

 故にあまり過激な手段は控える傾向にある。

 

 だが、アイウィスに端を発した“境界”から漏れ出す霧や多くの隠蔽工作よりも先に片付けねばならない案件が出来てしまってはそうもいかなかった。

 

 事は都市の性急な死活問題にまで発展する可能性があったからだ。

 

 吐き出される情報を揚げているのは彼の息が掛かった人員も多い水道管理局からのもの。

 

 ハガス全域の水源と上下水道の管理を一手に引き受ける国策企業。

 

 全土に水と安全を届ける超巨大インフラの守護者達。

 

 その一部からの報は数日以内にも都市生活を脅かすかもしれない鬼気迫ったものとなっていた。

 

 正規のルートならば、情報が上がってくるのは問題が起きた後。

 

 しかし、ドゥーズの有する情報網は逸早く彼へ国土全域からの報を伝える。

 

 それこそがフォイル家の当主の力。

 

 王家にも近しい赤鬼の一族が築き上げてきた財産だった。

 

(まだ、“境界”を抜ける部隊の編制と装備の開発が終わっていない内に早くもか。行方不明者の隠蔽も儘成らぬというのに……七聖女と【五聖騎士(ファイブ・ラウンズ)】の来訪、問題は山積だな。先行する何者かが、影響を及ぼしているのか? 今、動かせる戦力が……我輩の手元には……)

 

 しばし、手を組んで考え込んだ彼が隣にある通信用の【崩燼機関】製の受話器を取った。

 

『はい。こちら情報管制室』

 

「WRD-0004345に繋いでくれ」

 

『了解しました。しばし、お待ち下さい。十四秒でお繋ぎします』

 

 それからきっかり十四秒後。

 

 彼は最初の一言が肝心だと僅かに唇を湿らせた。

 

『今更、貴族の親玉が我らのような没落貴族に何の用だ?』

 

 明らかに歓迎されていない事を悟りながら、それでも彼は寛容に微笑みを浮かべる。

 

「これはこれは……まだ随分と負けん気だけはあるようだ。その気概を買いたい。確か、そちらにエンシェンと同年代の者がいたはずだな?」

 

『……』

 

「“九十対十”だろうとも構わない。一つ頼まれ事を聞いてくれないか?」

 

『話を聞こう』

 

「そうでなくては。黄金の獣……嘗て神に連なった一族の末裔たる【王狐(ヴルペス)】に卑しい魔族出の【赤鬼(ラルヴァ)】が頼むというのだ。それ相応の礼はしよう」

 

 相手の屈辱に歪む顔を思い浮かべながら、済ました顔で鬼は獰猛に提案する。

 

「何、我輩の命を取るよりはずっと楽な話だ。世の中、何が幸いとなるか分からないものだと思わないか? 友人よ」

 

 凍て付く通信越しの主に悪魔さながら、そっと囁くように願いが呟かれていった。

 

 *

 

 マヲ~~~。

 

 マヲッマヲ。

 

 マウ~~ゥヲ?

 

 マヲヲ。

 

 マヲッマヲ~。

 

 マゥ~ヲ!!

 

 マヲウ~。

 

「………熱い……」

 

 アルヴァス・カレッジの周辺が何故か火精の通り道になったと通達があったのは二日前。

 

 少年が境界の先へと向かって帰ってきてから二日目の事だった。

 

 何やら近頃は大規模な気象変動が多いらしく。

 

 精霊の定常通路が曲がった結果。

 

 局所的な熱波に襲われている、らしい。

 

 学生という身分とはいえ、貴族の子弟の学業を妨げてはならないと講堂は常に【崩燼期間(ソルヴァス・エンジン)】と【電子噐械学(エレクトロニクス)】のハイブリットな冷房機器で一定に温度を保たれている。

 

 しかし、各講堂や使用中の部屋以外には無論そんな措置が取られるわけもなく。

 

 外はと言えば灼熱地獄。

 

 太陽の日差しはいつも通りだろうと魔力形質の一つである大源(マナ)が精霊の干渉を受けて周辺地域の気温を軽く数度以上は上昇させていた。

 

 その結果。

 

 いつも外で食事を取る少年はクソ熱い裏山の中で今日も今日とて黒猫に頭を占領されつつサンドイッチを食べているわけだ。

 

 黒猫は黒猫で熱い~熱いよ~いいから木陰に入ろう入ろう入ろう熱い~~と言っているかどうかは分からないが、不満げに生え際をテシテシ叩いては盛んに視線を木陰にやっている。

 

「一番熱いのは僕なんだけど……」

 

 何せ黒猫である。

 

 熱量の吸収率は高い。

 

 それが頭に載っていて熱中症になっては洒落にならない。

 

 それでも少年が木陰にも入らず食事をしていたのはその原っぱ。

 

 “境界”が開く時には鳥居が姿を現す一角の計測をアーギストに押し付けられたからだ。

 

 何とかアイウィスから戻ってきた時、鳥居の前に転移してしまったのは彼にも想定外だったらしく。

 

 前々から少年がその場所を知っていたと美紗から聞いて、今後の為にと魔術での計測を行うよう指示したのである。

 

 ちなみに手ぶらに見える少年の脳裏には計測用の魔術が奔っていて、リアルタイムでアーギスト側へ計測した情報を送っている。

 

「………ようやく…終わった……今日はもう屋内に退散しよう……」

 

 猫に語り掛ける気力も無くして。

 

 フラフラと熱中症気味に少年は山を降りた。

 

 基本的には獣道だ。

 

 裏山とはいえ、100mくらいは距離がある。

 

 森林の中は水分が多い分だけジットリと汗を滴らせるには十分な環境だろう。

 

 何とか裏山から降りて近くの野外回廊から屋内へと入った少年はふぅ~と溜息を吐く。

 

「マ~ヲ~~~♪」

 

 比較的涼しい廊下に出たからか。

 

 黒猫はもはや堕落し切った様子で弛緩していた。

 

「とりあえず、自分で歩こうって気にはならない?」

 

「………」

 

 無言の答えに少年の溜息は深くなるばかりである。

 

「そう言えば此処って……」

 

 キョロキョロと辺りを見回して。

 

 少年は其処が幽霊部員オンリーな部活ばかりが集う例の特別校舎だと気付いた。

 

「そっか。此処って近かったんだっけ……」

 

 いつも反対側から帰っている為に気付かなかったが、いつも昼食を取る場所にも近しい。

 

 一応、因縁浅からぬ場所だ。

 

 銀尻尾にドリル髪の貴族女部長と鉢合わせして、また「おほほほ、ぶち殺しますわよ?」とか言われても理不尽極まりないので少年はソソクサとその場から離れる事にした。

 

 が、さっそく角を曲がった瞬間。

 

 その企みが初っ端から瓦解する。

 

 理由は言うまでもない。

 

 白銀の尻尾をプラプラさせながら。

 

 床に付きそうな巻き毛のドリルを揺らして。

 

 見目麗しい過ぎる感のある貴族女が楽しげに大きな錻力(ブリキ)の一斗缶を両手に抱えていたからだ。

 

 バッタリと出会った両者は顔こそ引き攣らせなかったが、額に汗を浮かべた。

 

「……」

 

「……」

 

 沈黙は会話が何処へ転がるか予想出来なかった故である。

 

 出来れば、自分から沈黙を破ってまた不興を買うのは避けたい少年だったが、無言で通り過ぎるには近接し過ぎていた。

 

「こ、こんにちわ。それじゃ……」

 

 かなり苦しい。

 

 だが、そそくさと場を離れようと少年は横に退く。

 

 ガシィィッ。

 

「?!」

 

 その片手が貴族女の片手に掴まれ、否……拘束される。

 

「……どうです? お茶でも?」

 

 少年は否定した瞬間に手首を握り潰されそうだな……という感想を抱いて、仕方なく頷いた。

 

 *

 

 泥水か雑巾の絞り汁でも出されるかと思っていた少年は薫り高い紅茶がコトリと置かれるに至って、まさか毒物は入っていないだろうと疑心暗鬼になっていた。

 

 少年的には用事らしい用事が無い。

 

 居心地が悪い以上にいつ刀を抜かれるかハラハラドキドキな青春なんてお呼びでもない。

 

 早めに帰りたいのはサクッと首を落とされそうになった身としては至極正常だろう。

 

「……毒なんて入っていませんわ」

 

「なら、遠慮無く……」

 

 そうは言ったものの。

 

 先日、少年は瀕死の重傷で死に掛けたばかりである。

 

 別に心臓が止まっても魔力さえあれば回復する身体だが、毒が抜けるまで甦り続けて地獄の苦しみを受けるというのもゾッとしない話だ。

 

 鼻腔を抜ける軽やかな薫りは仄かな苦味を伴う。

 

 だが、砂糖も乳も用意されていない事は逆に良かったかもしれない。

 

 嗜好品である紅茶だってピンキリなのだ。

 

 今飲んでいるものが最高級のものだと少年にも分かった。

 

「……そう言えば、まだ自己紹介もしていませんでしたわね」

 

「そうだったかな……」

 

「ええ、そうですわ」

 

 小さなテーブルに二人。

 

 少年は前回よりは話せるようだと僅か安堵する。

 

「わたくしはバーゲルの家の長女。ウル・エイフォン・バーゲルと言います」

 

「僕はイクス。イクス・ゼオって呼んでくれれば」

 

「イクス・ゼオ……」

 

 ジッと品定めされるような視線に耐えながら、小麦菓子(クッキー)を一枚。

 

 程よく軽い生地に控えめな甘さが紅茶とはよく合った。

 

「貴方はわたくしを打ち負かした。それは今も変わらぬ事実ですわ。それにわたくしが怒っているのも嘆いているのも本当。そして、圧し折られた家宝と貴族の誇り。わたくしの生涯の傷となるでしょう」

 

「えっと、謝ったら……怒るんだよね?」

 

 少年は何となく先を読みながらおずおずと尋ねる。

 

「あまりの怒りに血管が切れて死んでも悔いは無いとだけ……」

 

 最初に聞いておいて良かったと安堵しながら少年は続ける。

 

「じゃあ、謝らないけど。それで今日はそれを言いたくて?」

 

 何処か気落ちした様子で貴族女、ウルが視線を俯けた。

 

「わたくしは流派を伝える最後の徒弟。一応は免許皆伝の身。ですが、貴方はそれを軽々と超えた。わたくしが物心付く頃から修め続けた武術をいとも容易く退けた」

 

「いや、魔力が乗ってたら、たぶん首が飛んでたんじゃないかなぁ……」

 

「だとしても、わたくしは貴方を侮った。先入観に囚われて、家宝までも失った。家にも流派にも泥を塗ってしまった。それは変えられない事実ですわ」

 

「ぅ……」

 

 自分で命を守る為にやったとはいえ、色々と他人の人生を狂わせている気がした少年はタジタジとなる。

 

「ですが、それで貴方を恨むのは筋違いでしょう。勿論、物凄く言いたい事は多々ありますわ。でも、それは恥の上塗りに他ならない。ですから、あの日の話で貴方を責める事はもう致しません」

 

「個人的にはホッとしてるけど、それなら帰っていい?」

 

 ウルが己の髪を僅か弄った。

 

「……此処までは貴族としてのわたくしの話。そして、此処からはウル・エイフォン・バーゲル個人としての話です」

 

 少年が内心何を言われるのかと身構える。

 

「イクス・ゼオ。わたくしに貴方の強さを学ばせて」

 

「学ばせてって……どうするつもり?」

 

「先日、友人に言われました。わたくしは貴族の型には嵌っても、戦者には程遠い……つまり、お利口な強さに終始していたと」

 

「お利口……」

 

「そう、わたくしの戦い方は綺麗過ぎる。鍛え方から考え方まで何もかもが誂えたように貴族としてのものばかり。だから、勝者に学べと」

 

「……誰かに教えたりした事なんて無いんだけど」

 

「構いませんわ。ただ、貴方の傍で貴方の考え方や戦い方。そういうものを学びたいと。いえ、盗みたいと言っていると考えてください」

 

「それでもしも強くなったら?」

 

「勿論、もう一度。今度は本気で再戦を……」

 

 少年はしばし沈黙した。

 

 断ってもはぐらかしても、その真っ直ぐな瞳の前には全てが無駄な気がして。

 

「……いきなり襲い掛かってきたりしないって約束してくれれば」

 

「わたくしにとって何が無礼で何が悪か。それくらい説明して然るべきでしょう。わたくしが頼む側なのですから。では、これをイクス」

 

 一枚の紙がペラリと差し出される。

 

 其処には入部届けとあった。

 

「……断ったら?」

 

 ウルは出会った時とは打って変わって嫋やかに微笑む。

 

「ご想像にお任せしますわ」

 

 そういう事になった。

 

 *

 

 珍しく長時間頭にへばり付いていた黒猫が何やら少年に語りかけ始めたのは校舎を後にした下校時の事。

 

 欠伸をした後。

 

 テシテシと生え際を叩いての啼き声。

 

 それはまるで話はどうなったのかと訊ねているようでもあった。

 

 その矢先。

 

 校門から外へ向かおうとした少年の目が温かなもので覆われてしまう。

 

「だーれだ?」

 

「エストリア?」

 

「はい。当たりです。イクスさん」

 

 ささっと少年の前に回り込んだのは微妙に校則違反な少女である。

 

「えっと、もしかして……待ってた?」

 

「いえ、帰ろうとしてた途中で見つけたので。こっそり忍び寄ってました」

 

「そっか。一緒に帰る?」

 

「はい。途中までご一緒します」

 

 二人連れ立っての下校。

 

 そう目立つような事でもない。

 

 綺麗に舗装整備された道を靴を鳴らして歩く。

 

 たったそれだけの事なのに少女はまるで何処かへ出掛けるような笑みで前を向いていた。

 

「……今日は街に出るんですか? イクスさんは」

 

「一応、夕方から寄る処があって」

 

「じゃあ、それまで市場の方で時間を潰しませんか? 実は美味しい御菓子屋さんを見つけたんです」

 

「へぇ。じゃあ、行ってみる?」

 

「はい。今日は私も夕方までには帰るよう兄さんに言われてるので。それまで二人でお茶でもしましょう!」

 

 少女の口からは次から次へと話題が溢れてくる。

 

 学内の噂話。

 

 試験内容の予想。

 

 教師や講師達の動向。

 

 最新の化粧品や流行しているお呪い。

 

 どれもこれも少年には縁遠い話ばかりだ。

 

 相槌を打っては感心した様子になる少年からの反応が更に少女の口を軽くすれば、市場までの道程(みちのり)も、あっという間である。

 

「あ、あそこですよ!! わぁ……やっぱり大陸中央式の店舗は違いますね。凄い人集り……」

 

 繁盛しているらしき菓子店はオープンテラスになっていて、中には若い年頃の少女やその連れと思われる男子達が溢れていた。

 

「行ってみましょう」

 

 自然に手を取られるまま付いて行けば、人混みの中に埋もれそうにもなる。

 

 それで嫌な顔もせず。

 

 洒脱な店内とスッキリとした硝子のショーケースの菓子に目を奪われて、瞳を輝かせる少女は眩く。

 

「どれにしようか迷っちゃいます♪」

 

 傍らの呟きが少年の口角を緩めさせた。

 

 店内は満席。

 

 という事でお持ち帰りに箱を二つ。

 

 店の外に出れば、いつの間にか夕暮れとなっていた。

 

「もうこんな時間。楽しい時間て過ぎるのは早いんですね……」

 

 市場の端に設置された長椅子(ベンチ)に座って。

 

 少女は黄昏に染まる景色を見つめる。

 

 書き入れ時はこれからだとばかりに声を上げる市場の店員達。

 

 夕飯の買い物に忙しい主婦や労働階級の独り者が屯する飲み屋の軒先。

 

 子供を連れた母の姿はどんな世界だろうと微笑ましいものの最たるものだろう。

 

「イクスさん」

 

「何?」

 

「あの都市もきっと……こんな夕暮れだったんですよね……」

 

 アイウィス。

 

 その末路を思い出しながら、エストリアは目を細めて俯く。

 

「もうあそこに命は無い。その痕跡と成れの果ては有っても」

 

 少年が厳しい事実で返したのは少女の瞳を感傷で曇らせない為だ。

 

 躊躇や戸惑いは確実にあの“境界”の先では死に繋がる。

 

「イクスさんはそれでもあそこへ行くんですか?」

 

「うん」

 

「その……誰かに呼ばれた気がしたから?」

 

「先輩から聞いた?」

 

「その、ごめんなさい。本当は直接聞こうと思ってたんですけど、あの××……美紗さんがそう言ってるのを聞いちゃって……」

 

「別に…本当の事だから」

 

「じゃあ、本当に?」

 

「うん。誰に呼ばれてるのか。本当に呼ばれてたのは僕か。分からないけど、何となく……」

 

「それがイクスさんの命を掛けられる理由、ですか?」

 

「自分で言うのも何だけど、結構…空っぽだからかもしれない…」

 

「空っぽ?」

 

「実は此処一年くらいの記憶しかなくて。もし、僕を呼ぶ人がいるなら、それはどんな存在なのかって思って……」

 

「え?」

 

 エストリアが慌てた様子になる。

 

「あ、あの、その、それって……」

 

「記憶喪失みたいなものだってアルゥさんは言ってたけど」

 

「―――」

 

 少女が言葉を失ったのも無理は無い。

 

 少年の一言一句。

 

 其処に悲壮感の欠片も無いのだから。

 

 本当に記憶が無いとしたら、不安にならない方がどうかしている。

 

「結構、学校生活は楽しいし。そんな顔しなくても」

 

 苦笑する少年は自分が記憶喪失でも無いのに不安そうな顔の少女の頭を撫でた。

 

「イ、イクスさん……こ、子供じゃないんですから」

 

「ごめん」

 

 手を引いた少年が謝る。

 

「いえ、その、いいんです。こっちこそ、詳しい事情も知らないのに出しゃばりでごめんなさい」

 

「そんなに深刻な話じゃないから、謝らないで」

 

「で、でも……」

 

「自分が何者か知りたいとは勿論思うよ。でも、知る事が必ずしも幸せかは分からない。僕がもしも極悪人だったり、犯罪者だったとしたら、今の時間はきっと幸せだ。自分で思うよりも恵まれてすらいるかもしれない」

 

「じゃ、じゃあ……イクスさんはもしあそこに自分を呼ぶ誰かがいないって分かったら……あそこに行くのを止めるんですか?」

 

「そうするかもしれないし、そうしないかもしれない。ただ、その時その時で一番大切な事を選ぶとは思うけどね」

 

「一番大切な事?」

 

「無くしちゃいけないものだけは覚えてるから」

 

「無くしちゃいけないもの?」

 

「うん。人が誰でも大切にしたいと願うもの。とても身近で当たり前の事」

 

「それって……何ですか?」

 

「一言にすると、たぶん」

 

「たぶん?」

 

 ゴォォオオオン。

 

 市場のシンボルである鐘楼から鐘の音が響いた。

 

 二人が空を見上げれば、もう宵闇が迫って来ている。

 

「あ?! 早く帰らないと兄さんに怒られちゃいます!?」

 

「ごめん。長く引き止めて」

 

「い、いえ、またお話聞かせてください。私、イクスさんとお話するの…その…好き、ですから」

 

「うん。じゃあ、また」

 

「ぁ、はい!!」

 

 駆け出す背中が一度振り返って、ブンブンと手を振ってからまた霧の中へと消えていく。

 

 それを見送って。

 

 少年は傍らの小さな白い紙箱を片手にぶら下げ、今日の目的地へと向かった。

 

 *

 

 足音も雑踏に消される南部赤線街。

 

 歓楽街というのは何処までも闇が深いと思っている者は何処か表層を見がちだ。

 

 其処に蟠るのは現実的な打算と計算に基く産業であると知れば、深さも何も無い。

 

 光が照らしても照らしても暗がりへと引き摺り込む魔物。

 

 そんなものがいるように錯覚しているだけの話。

 

 その化物の名は強欲で、その奴隷が知性ある人型であるに過ぎない。

 

 一過性の快楽に何を支払うのか。

 

 要約すれば、古来から華街(はなまち)と呼ばれる娼館街というのは大体が客にそのようなものを尋ねる場所だ。

 

 どんな地域のどんな街とも変わりはしない。

 

 特別でもない。

 

 虚飾と悲鳴と涙には塗れても、逃れられない業が其処には在る。

 

 硬貨の落ちる音が即ち食事の量であり、刺し込まれる痛みと吊り合うかどうか。

 

 基本原則はそういうものに過ぎない。

 

 好きで身体を売る女もいれば、不平不満を言いながら男を食い物にする女もいる。

 

 奴隷も娼婦も街の住人であり、糧を得る力として己の肉体を使っているのだ。

 

 無論、理不尽を強要される事もあれば、好きでもない男に抱かれて壊れる者もいる。

 

 それでも其処に縋るのは何故か。

 

 居場所とは帰りたい場所と同義ではない。

 

 しかし、生活出来る場所は自分がいるべきだと感じる所と必ずしも同じでは無い。

 

 夢見がちな娼婦や奴隷に聞いたとしても、此処から逃げ出したいと言う者は少数だろう。

 

 少なくとも生活出来る場所が、自分を暖かく受け止めてくれる場所が、娼婦や奴隷だったとしても差別されない場所が、そんな夢みたいな場所が必要なのだから。

 

 愛の価値を説く男と明日の糧を求める女の綱引き。

 

 偽りの感情を囁いて、買う者も買われる者も大概が満足する。

 

 ならば、確かに商売は成立しているのだ。

 

 少なくとも高度に専業化された歓楽街というのはそう今に至るまで続いている。

 

 大陸基準に照らし合わせれば、随分とお気楽だと大陸の端で身体を売る者達は言うだろう。

 

 それが虚飾でも文明の光に溢れる世界は確かに照らされているのである。

 

 塵芥のように扱われ、性の道具にされた挙句、捨てられる……それもまた大陸では現実なのだ。

 

 小さな寝台で病に侵されながら死んでいける者に幸せを説くようなものかもしれないが、それでも救いはある。

 

 どんな絶望の淵で後悔に塗れて死んだとしても、アルヴァスは他の娼婦達が集う場よりも恵まれている。

 

 だから、少年は憐れまない。

 

 祝福こそすれ。

 

―――リンゴーン。

 

 巨大な館。

 

 娼館の玄関口の小さな鐘が鳴る。

 

 数秒で扉が開いた。

 

「ようこそ。【月兎亭】へ。イクス様」

 

 首筋に鰓(えら)持つ海洋性少女。

 

 いや、年齢で言うなら立派な女性(にょしょう)か。

 

 対応したベルンが女給姿で頭を下げた。

 

 二度目の来訪である。

 

「どうぞ。こちらへ」

 

 招き入られながら、今日はどうしようかと少年は片手の箱を見つめた。

 

 気に入ってくれるだろうかと。

 

―――数分後。

 

 男の亜人やら人間やらが数人いるラウンジが二人の前に見えてくる。

 

 話に華を咲かせる者。

 

 酒に肴を嗜む者。

 

 口付けしては微笑み合う者。

 

 さすがに共有スペースで秘事を始める程、品の無い客はいないらしく。

 

 紳士然とした者が多い。

 

 それよりも目に付くのは笑顔だ。

 

 会員制というのは客を選ぶ以上に女達に客を選ばせるという事なのかもしれない。

 

 少年はそう説明してくれそうな兎少年(サイカ)を思い浮かべた。

 

 女の子は笑っているのが一番。

 

 そんな理念が椅子に座る前から分かるくらいには。

 

 男も女も、その場で自然な笑みを浮かべている。

 

「さ、こちらに」

 

 鮮やかな紅は天鵞絨(ベルベット)の光沢。

 

 特等(VIP)席であるのは明らかだ。

 

 ベルンが広い室内の端から静々と連れて来たのは歳相応の恰好をした少女。

 

 フリルが多用された黒い一点物(ワンピース)を着用している奏璃紗だった。

 

 前回やんちゃな印象だったので少年が驚くのも無理はない。

 

 少女らしい恰好でお淑やかにしていると、璃紗はそれなりに良家の子女という雰囲気になる。

 

(いや、これが本来のこの子の……)

 

 何やら今日は頭に本来無いはずの黒い獣の耳まで付いていた。

 

 それが被り物だろう事は少年にも分かるものの、魔術具の類なのか。

 

 ピクピクと動いている。

 

 最初に何と言うべきか。

 

 そういう男女の機微的なものは知らずとも。

 

 家で少女のご機嫌を取る立場の少年はすんなりと褒め言葉が出た。

 

「可愛いよ。璃紗」

 

「―――ッ?!!」

 

 ボッと顔を真っ赤にして視線を逸らした少女はベルンに促されるまま少年の横にちょこんと座った。

 

「では、ごゆっくり。お飲み物で何かご希望のものはございますでしょうか?」

 

 今日は前回のように叫びっ放しだったり、眉間に皺を寄せる様子もないベルンは完璧な所作で注文を聞く。

 

「紅茶か苦い飲み物を。出来れば、砂糖と乳(ミルク)付きで」

 

「はい。畏まりました。今日は大陸南部の特産地から良い茶葉が届いておりますので、そちらをお持ち致します」

 

 静々と注文を給わったベルンが下がるとようやく緊張が解けたのか。

 

 おずおずと黒い小獅子が前回とは違って黒くない顔で少年を見上げた。

 

「……怒ってない?」

 

「それっておね―――」

 

 ビタンッと口元が両手で押さえられる。

 

 同時に物凄い睨みの利かせようで少女の視線は剣呑だった。

 

「あ、あの事は口外無用なんだから!!」

 

「小さい時はよくある事だし」

 

 口元の手を退けて。

 

 事も無げに笑う少年の様子に怒ってはいないらしいと安堵しつつも、少女はシオシオと萎びた菜っ葉みたいな悄気(しょげ)ようでモジモジと顔を伏せる。

 

「うぅ……」

 

 目端へ涙が滲んだ。

 

 寝相の悪さから少年とは真逆に寝て。

 

 更に顔とシーツへ“地図”を描いたのはそう遠い話ではない。

 

「気にしなくていいよ」

 

 蝶の羽を模った象形(モチーフ)。

 

 魔術具の洋光(ランプ)が少女の顔に陰影を付けて。

 

 仄かな赤みを覆い隠す。

 

「あ、そうだ。これ」

 

「?」

 

 跳ね乱れたボリュームのある髪に隠れがちな顔が疑問符を浮かべた。

 

「これ、何?」

 

「プレゼント」

 

 少年が持ち上げた白い紙箱を璃紗の前へと置く。

 

「え?」

 

「女の人って囲った事無いけど、何か贈り物をするべきってサイカが言ってたから」

 

「サイカが?」

 

「女性でこういうのが嫌いな子はあんまりいないんじゃないかな」

 

「……開けてもいい?」

 

「どうぞ」

 

 恐る恐る紙の箱を開けて。

 

 中を覗き込んだ璃紗の目が驚きに見開かれた。

 

「こ、これ……!?」

 

「あぁ~いいな~~璃紗そんなん貰ってる~」

 

「!?」

 

 不意に響いた声に少年が振り向くと璃紗と同年代の亜人の少女達が数人。

 

 集ってくるところだった。

 

 他の席にも“賑(にぎ)やかし”として同じような少女達が屯している。

 

「こ、これは璃紗が貰ったの!!?」

 

 思わず自分の胸元に箱を引き寄せた少女がワラワラと集って来た少女達を威嚇する。

 

 誰も彼もそう露出も多く無い衣装である。

 

 本格的に“仕事”を始めるまではそういうところにも厳しいのかもしれないと余計な思考で少年が事の推移を見守った。

 

「あ、他のお客さんも持ってきてる人いたよ。確か、今街で人気の御菓子なんだって。すごーい!! 璃紗ってば幸せものだ~うりうり♪」

 

「///」

 

 少女達が恥しさから固まってしまった璃紗の頬を突きながらクスクスと微笑む。

 

「イクス様みたいに寛容な人はいませんって言われたんだから、今度は失敗しないようにね。りーしゃ?」

 

「も、もう失敗したり、あ、あんな事したり、しないもん……」

 

 何とかそう返した璃紗を励ますよう肩を次々叩きながら、少女達はまた別の席へと向かっていった。

 

「イクス様。お茶をお持ちしました」

 

 見計らっていたのか。

 

 手押しの台と共にベルンがやって来ると紅茶を二つ置く。

 

「じゃあ、どうぞ」

 

「あ、あの……イクスの分は?」

 

「え? ああ、今日は君に買ってくるだけで自分で食べようとか思ってなかったから」

 

 どうしたらいいのかと少しだけ横で直立不動で控えるベルンに璃紗が視線を向けるものの、それくらい自分で考えろという事なのか。

 

 ベルンの視線はチラリとも動かなかった。

 

「それよりさっきの子が言ってたけど、リーシャって…綽名?」

 

「これ以上短く出来ないからって、あの子達が勝手に呼んでるだけ……」

 

「そうなんだ? じゃあ、僕もリーシャって呼んでいい?」

 

「ど、どうして?!」

 

「気安く呼んだ方が、仲良くなった気がしない?」

 

「ん……今日、これ貰ったから……好きにすればいい……」

 

「そう。じゃあ、時々はリーシャって呼ぶ事にするよ。それより紅茶が冷めない内に、ね?」

 

「ぅ、ぅん。あ、ありがとう。イクス」

 

「どういたしまして」

 

 少年の笑みに恥しさを覚えて。

 

 少女は視線を菓子だけに向けた。

 

 白い粉砂糖が掛かった白のクリームの塊。

 

 その下には柔らかな生地と甘く煮詰めた果実のソース。

 

 それから薫り高い巴旦杏(アーモンド)の層が折り重なっている。

 

「いただきます」

 

 そっと両手を合わせた少女の動作にサイカと友達だと言う少女の普段が透けて見えて。

 

 何となく微笑ましくなった少年は自然に璃紗用にミルクと砂糖入りの紅茶を作り、横へ置いた。

 

 添えられた木のフォークがサクッと音を立てて白塗りの生地に入る。

 

 ふわりと匂い立つ果実のソースが溢れて滑らかに皿を濡らした。

 

 掬い取って一口。

 

「―――?!!」

 

 微動だにせず呆然と昇天しそうな笑みになっている璃紗の様子に口に合ったようだと安堵して。

 

 少年は熱心に口へ運ぶ様子を見つめながら何も入れない紅茶を嗜む。

 

 そうして和やかな時間が過ぎ去り、菓子の形が影も形も無くなると少女は一息付いた様子で味を反芻しつつ、ふにゃりと相好を崩した。

 

「美味しかった?」

 

「うん!! とっても!?」

 

「じゃあ、その内にまた買ってくるから」

 

 すっかり警戒心が解けた様子で大きく頷く少女の背後からコホンと咳払いが一つ。

 

「?!」

 

 いつの間にか璃紗の背後に移動していたベルンが冷たい視線で少女を頭の上から見つめる。

 

 心底に縮み上がったらしく。

 

 少女はダラダラと冷や汗まで掻いていた。

 

 持て成しているどころか。

 

 逆にプレゼントを贈られて持て成されているなんて言語道断。

 

 そういう事を暗に示されたのだろうとは理解しても、基本的に“遊びに来ている”少年は緩々と首を横に振って、後ろのベルンに苦笑を浮かべる。

 

 少年の優しさに何やら仕方なさそうな、あるいは何処か困ったような表情になった後。

 

 幼年者の寮長たる女性は頭を下げて紅茶を片付けると別の席へと台を押して行った。

 

「ベ、ベルン…怒ってた?」

 

 後ろを振り返る勇気も無かった璃紗が固まったまま少年に訊ねる。

 

「前回みたいに激怒したりはしてなかった、とだけ言っておこうかな」

 

「それって怒ってたって事?! うぅ、もう迷惑掛けられないのに……」

 

「友達とか寮の子達に?」

 

「……この間は家事炊事が倍だったの……」

 

「それは……まぁ、僕としては頑張ってと言うしか……」

 

 お気の毒にという顔で耳付きの頭を少年が撫でた。

 

「ねぇ。その…今日は…していく?」

 

 キュッと袖が握られて。

 

「どうしようかな。今日は顔を見に来ただけだから」

 

「え…?」

 

 思わず少女は少年を振り向いた。

 

「近頃、忙しかったから。どうしてるかなぁって思って」

 

「……それだけ?」

 

「それだけだけど?」

 

「やっぱり、変だわ……イクスって」

 

「そう?」

 

「だ、だって、普通は娼婦に会いに来て何もせずに帰る客なんていないもの」

 

「人によりけりじゃない?」

 

「……その帽子も似合ってないし、変……」

 

「ぅ」

 

 とうとう。

 

 来るべき評価がやってきたと少年は頭上を意識する。

 

 zzz……。

 

 鳴きも動きもしなかったのは寝ていたから、らしい。

 

「帽子じゃないというか。置物でもないというか。そもそも猫なのかも妖しいというか」

 

「?」

「…マゥ?」

 

「う、動いてる?! え、え?! こ、この帽子、じゃなくて……この子……生きてる、の?」

 

「マァ~~ヲ~?」

 

 欠伸をしつつ、目を開いた黒猫がキロリと璃紗を見つめた。

 

「さ、触っても噛んだりしない?」

 

「他人に靡かない+頭の上から剥がそうとすると生え際の危機が到来するから、撫でるだけにしてくれれば」

 

「う、ぅあ~~本物だわ……凄い!? 初めて触っちゃった!!」

 

「マヲ?」

 

 何か用事かと聞きたげな黒猫が璃紗の瞳。

 

 魔眼を見つめ返した。

 

「あったかい……いい子いい子…」

 

 大人しく撫でられながらも、黒猫がテシッと生え際を叩く。

 

「あはは、イクスって猫さんの下に敷かれてるの♪」

 

「時々だけだけどね」

 

「この子ってイクスのお家の子?」

 

「神出鬼没だから飼い猫じゃないと思う。たぶん」

 

「イクスの頭が好きなの?」

 

「どうかな……」

 

「実はイクスの事を飼ってるつもりなのかも……」

 

 クスクスと笑いながら璃紗が今までに無く嬉しそうにしているのを見て。

 

 少しだけ黒猫に少年は感謝した。

 

 一頻り撫でられた後。

 

 黒猫がひょいっと少年の頭から降りた。

 

 すると、タタタタッと何やら部屋の外へと続く扉から逃げていってしまう。

 

「あ、行っちゃったわ……」

 

「神出鬼没だから」

 

「その…また、連れて来てくれる?」

 

「もし、頭に乗っかってる時に此処へ来る事があれば、ね」

 

「うん」

 

 すっかり打ち解けた様子になった事もあってか。

 

 そこからは少年が主に学校での笑い話を聞かせた。

 

 どんな事があったのか。

 

 出来る限り、愉快そうなエピソードを話せば、もうぎこちなさは二人の間に無く。

 

 そうして一時間も話し込んでいただろうか。

 

 ラウンジの客達が一人一人と消えていけば、最後に残ったのは少年と少女だけ。

 

 さすがに話題が尽きた少年も帰るべきかと思案する頃合。

 

 小さな沈黙の先で席を立ったのは璃紗だった。

 

「……行こう?」

 

 何処か儚げに。

 

 されど、微笑みのまま。

 

 初めてを終えて数日が経つとはいえ。

 

 それでも少しだけ震えて。

 

「いいの?」

 

 言葉ではなく。

 

 しっかりとした頷きで返されて。

 

 少年は頷いて手を引かれる事とした。

 

 館内を迷い無く進む璃紗は奥へ奥へと誘う。

 

 今日も妖精が屯する中庭を抜けて。

 

 前回とは違う通路の扉を潜れば。

 

 其処は一面の大きな棚と籠と革の長椅子がある脱衣所だった。

 

「……御奉仕致します。イクス様」

 

 己の役目と義務を懸命にこなそうとする羞恥に身を染めた乙女の鎧を少年は脱がせる事とした。

 

 それくらいは男からしなければ、恰好が付かないような気がしたからだ。

 

 湯女。

 

 そう言えば、娼婦の別名はそれだったな、と。

 

 少年は期待と不安が入り混じった恥らう少女を前に思い出した。

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