※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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百話を超えたのでその内にエロ内容の早見表を投稿します。


第三章~西部「銀狐地底編」~
第三章十四節


第三章十四節「誘う水」

 

 アルヴァスは小国とはいえ、全部で四十七の都市で構成される比較的領土の多い国だ。

 

 首都ハガスの四方の都市に四つの政務庁の下部組織が置かれ、そこから国土全域を統治している。

 

 大陸中央諸国以外では珍しい舗装済の道路が国土の隅々にまで敷かれ終わったのはつい最近。

 

 この交通インフラの完備によって国家のエネルギー効率は飛躍的に上がり、今や地方の国境域の都市ですら大規模な税関を持つに至り、その富みは国民を潤している。

 

 その全ての基礎は言うまでも無く【崩燼機関(ソルヴァス・エンジン)】だ。

 

 それを使用した工業製品の収益は国家予算の規模を二十倍近くまで引き上げた。

 

 大急ぎで運用された資金の大半は国土開発と工業インフラに当てられたが、それを差し引いても莫大な富が毎年毎年流れ込む国庫の額面は西部でも三本の指に入る。

 

 各国への技術支援と言う名目で自国の製品を広め、その動力源たる【源理粒子(イデアル)】を販売する流通網を開拓し、七教会の影響力が中央諸国の次に強い西部において多大なる利益を上げた手際は賞賛されて然るべきだろう。

 

 金だけではない。

 

 西部の奥底で渦巻いていた反七教会派の機運までも道は運んできた。

 

 反七教会の筆頭。

 

 戦いの矛持つ担い手としてアルヴァスが選ばれたのである。

 

 アルヴァスへと流入する反七教会側の人材は亜人のみならず人間も数多い。

 

 それも失われた王家や皇家の没落者達がかなりいる。

 

 そういう者達が嘗て蔑んでいた亜人へ期待し、協力し、支援するというのだ。

 

 事実を知る亜人貴族達にしてみれば、気分の悪いわけもない。

 

 祖先が受けた迫害の歴史を見るならば、ようやく人が亜人を受けれざるを得ない状況になったのだ。

 

 この五年は人間に亜人を認めさせたという点でアルヴァスの黄金時代と言ってもいい。

 

 人間奴隷達との間に摩擦こそ持つものの。

 

 それでも現在のアルヴァスという国は表面上憂いなんて微塵も無い先進国。

 

 その躍進を続ける姿は南部の大帝国イグニシア・クルシスにも似ると西部では評判である。

 

 だが、そんな輝かしい日々の裏にも影は存在する。

 

 全ては表裏一体。

 

 この五年でアルヴァス内部では大きな争いが起こった。

 

 要は権力争いだ。

 

 実力主義の亜人貴族社会で台頭してきた新興勢力。

 

【崩燼貴族(ソルヴァス・ノーブル)】

 

 元々が技術・工業に聡い下級貴族や平民達の成り上がり者。

 

【崩燼機関】の国家的な開発計画を推進し、莫大な富を背景として一気に表舞台へ躍り出た者達。

 

 彼らの急激過ぎる台頭が旧来の貴族達に反感を買ったのである。

 

 国の舵取り役として貴族がこれから教会とどう付き合ってゆくべきか。

 

 その意見が真っ二つに割れた。

 

 新しき工業を統べる貴族達は“七教会誅すべし”と自らの資本と【崩燼武装(ソルヴァス・アームズ)】という力を盾に強攻策を唱えた。

 

 旧き知恵を持つ貴族達は“奢るなかれ。それは死を招く”と教会との融和策を唱え、新興の者達を制止する事が多かった。

 

 これで国が纏まるはずもない。

 

 となれば、解決方法は只一つ。

 

 どちらがより導くに足る力を持っているか。

 

 比べるのみである。

 

 ただ、それで国力を衰退させる事は両者の勢力とも望まなかった。

 

 結果、二家の大貴族が両者の先鋒に立ち、己の技量を尽して結論を導く事が決まった。

 

 決着は決闘という極々シンプルな方法で付けられ。

 

 結局、彼女の家は敗北と共に全てを失った。

 

 新興に付いた一家の名はバーゲル。

 

 神の眷属と讃えられた血統の末裔。

 

 大陸の東方より来りて亜人国家建国にも資した大貴族。

 

 敗北の責を取って貴族から身を引く事を了承したのも誇り高き一族だからこそだった。

 

 貴族を廃業するまでの猶予期間は数年あったが、敗者への世間の風当たりはそれよりも早く没落を招いた。

 

 ウル・エイフォン・バーゲル。

 

 彼女こそ、そのバーゲルの本家唯一の長女である。

 

 古式ゆかしい仕来りに則った許婚だっていたし、家は大豪邸であり、将来は親類を婿として迎えるずだった。

 

 だが、家の誇りも活気も全ては敗北の二文字に持っていかれた。

 

 バーゲルと親しかった家々は遠ざかり、彼女の家は見るからに衰退し続けている。

 

 関わり合いになりたくないと婚約は一方的に破棄され、彼女の親類縁者は職にも事欠く有様で肩身の狭い思いをしつつ、新興貴族達に頭を下げては嘲笑され続ける運命。

 

 最低限困窮していないのは嘗ての栄光によって蓄えた身代(しんだい)を食い潰しているからに過ぎない。

 

 そんな彼女にとって、唯一残ったものが伝来の流派だった。

 

 名が泥に塗れても、人生の大半を掛けて習得した技能だけは嘘を付かない。

 

 廃部寸前の武芸術部を預かったのも家の名を少しでも挽回する為。

 

 様々な武芸大会に出て優秀な成績を叩き出したのは家の者達を少しでも勇気付け助く為。

 

 部室に増えていく優勝杯代わりの剣が彼女の実力と努力の証である事を彼女以外には知らない。

 

 それでも、そうまでもしても、家は未だ蔑まれ、一族の誰も再興が果たされるとは考えていない。

 

 それどころか。

 

 恥じの上塗りだと。

 

 潔く身を引けと。

 

 勇気付けようとした親族達から言われる始末。

 

 倦(う)んだとしても、誰が責められるだろうか。

 

 努力が報われないとは、人を諦めさせる最良の薬だ。

 

 そんな中での敗北だった。

 

 正にダメ押し。

 

 焦燥と諦観に曇った瞳で戦い、負けた。

 

 祖先から伝わる刀まで折った。

 

 もはや、失うものなど何も無い。

 

 だからだろう。

 

 いきなり現われた友人に目覚めてから言われた一言が突き刺さったのは。

 

『そんなに嫌なら止めればいい。それが出来ないなら死ぬまでやれ』

 

 死ぬまで。

 

 命を掛けて。

 

 どうせもう何を失う事も無いならば、そうしてもいいような気がした。

 

 故に彼女は、ウルは、最後の一押しをした男に提案したのだ。

 

 学ばせて欲しいと。

 

 強くなりたいと。

 

 勝手に盗むと。

 

 恥じも外聞も無い。

 

 それは予定調和。

 

 何もかもを失ったからこそ。

 

 逆に冷静で合理的な判断を下した。

 

 絶望も諦観も何も変わってはいないとしても……。

 

 だが、彼女はまた己への深い失望で糸の切れた人形のようになりながら、少年を見上げる。

 

「大丈夫?」

 

 部屋の魔術具が生み出した10km四方の巨大な空間で部活動と称した実戦を行った後。

 

 丘の上でウルは地面に手と足を付いて自問自答を繰り返すしかなかった。

 

 何故、勝てないのかと。

 

 一分前まで立っていたが、もう立てない。

 

 否、立とうとしても衝撃が肉体から抜け切らない。

 

「今日はもうこれくらいで……」

 

 曖昧で困った笑みを浮かべて。

 

 手まで差し出してくるのは後輩。

 

 黒髪で中肉中背、中庸な顔立ちの少年。

 

 イクス・ゼオ。

 

 今はブレザーの上に外套を羽織って、鉄剣を片手に持っている学生のような“何か”。

 

(どうして? 絶対取ったと思ったのに……理不尽ですわ……)

 

 さっそく顔を出した少年を部活動だからと戦闘へと引き込んで五分。

 

 実質、一時間以上ぶっ通しで戦ったような疲労度が彼女に自分と少年の絶望的な差を教えていた。

 

 目の前で自分を見る相手には疲労なんて欠片も見えない。

 

 それに比べ、息が切れて青息吐息となった自分の無様さは自殺ものだ。

 

 そうウルは死んだ魚の目で思考する。

 

(刀の強度が足りなかった?)

 

 そんなはずはない。

 

 彼女個人が収蔵する一品は軽々と鉄を裂き、その強度は並みの鉄剣よりも高い。

 

(間合いを測り間違えた?)

 

 そんなはずはない。

 

 彼女が今回の“部活動”で使用した観測魔術は先祖伝来のものと現代の様式を混合した独特のもの。

 

 空気の流れ、汗の滴り落ちる様すら明確に彼女は知覚を可能としていた。

 

(魔力の積層化が万全じゃなかった?)

 

 そんなはずはない。

 

 魔力刃を使う武芸一般では奥義や秘儀に類する魔力の整え方。

 

 その中でも彼女の家に伝わる魔力積層化の様式は彼女の家の魔力形質と合せても通常では在り得ない程の精密さを確約する。

 

(相手の技量が単純に高過ぎる?)

 

 在り得る。

 

 大いに在り得る。

 

 だが、認め難い震えが彼女の心を揺らした。

 

「大丈夫?」

 

「ええ……」

 

 沈み込んだ様子で項垂れたウルを少年は心配そうに覗き込む。

 

 ゆっくりと立ち上がった彼女は刃に魔力を込めてすら聊かも揺るがなかった少年を見つめた。

 

「一つ教えて欲しいのだけれど」

 

「え、うん。何?」

 

「今度は魔力が奔った刃を使ったのに貴方は苦戦しなかった。前回は手加減していた、という事かしら?」

 

「普通、いきなり殺されそうになった相手へ手加減したりしないと思うけど」

 

「なら、魔力が乗っていれば首が飛んでいた、という先日の発言と辻褄が合いませんわ」

 

「単純に心構えが出来てたからって考えてくれれば」

 

「心構え? そんな事だけでわたくしの一撃が受け切れると?」

 

 明らかに気分を害した様子のウルに少年は半笑いになる。

 

「敵でもない誰かの首を反射で刎ねたりしたくないし」

 

「―――」

 

 少年は剣を手の中へと消し、柄を握るふりをしてウルへと突き付けた。

 

「例えば」

 

 ひゅんっと何故か風切り音を聞いて。

 

 彼女が咄嗟に飛び退く。

 

「どうして、今飛び退いたのか聞いていい?」

 

「な、何かの魔術で剣が見えないだけだったでしょう!!? 今!!」

 

「いや、僕は剣を握ってなかった。問題はそこじゃなくて、何も無いはずのものに君は反応したって事」

 

「……つまり、あの時のわたくしの剣は貴方を警戒させた?」

 

「戦う人には分かると思うけど、どんな風に向き合うべきか分からなかったら、相手への力加減とか結構躊躇する。手加減出来るくらいに弱ければいいけど、強かったらどれくらいの力で向き合うべきか微妙に悩む。そういう迷いがある時に受けたから、“あの時”なら君は魔力刃を使ってれば僕の首を落とせた」

 

 丘に吹く風の中。

 

 最初で最後の機会(チャンス)はもう終わっていたとでも聞かされたような顔で、ウルは沈黙する。

 

「今日はもう無理みたいだし、お開きでいい、かな?」

 

 その笑みは何処か爽やかな汗を流したような清々しさに満ちて。

 

 本当に“部活動”をしているようだとウルは頷く以外無かった。

 

 *

 

 アルヴァス・カレッジ旧特別校舎。

 

 【武芸術部】

 

 過去、多くの武人を輩出した部は今や部員三人という弱小部活となった。

 

 それと言うのも戦場の理が一世紀の間に様変わりし、火砲が練武というものを嘲笑するに足る成果を上げるようになったからだ。

 

 少なくとも小火器が一般にも出回るようになった昨今。

 

 国単位では武術や魔術だけに置いていた戦力の比重を最新の火砲へと寄せる傾向が高くなっている。

 

 素人の個人でも戦力として数えられるようになる簡便な火器の開発は教会の横槍や特許の壁があるとしても、国家の最優先事項。

 

 それは教会の特許という壁を【崩燼機関】という新技術で乗り越えたアルヴァスにとっても同じである。

 

 結果。

 

 実際に戦場及び国内で運用される武芸の大半には銃術という科目が新設される事となった。

 

 憖(なま)じ、魔術や超常の力との融合を果たしつつある現在の火砲を越える威力を発揮する【崩燼武装(ソルヴァス・アームズ)】がある分、開発状況はアルヴァスにおいて激化している。

 

 魔術師達の一部が己を貶めた火砲を必死になって研究し、それを超える術を産もうともがく様を嘲笑うように……。

 

 結果として旧態然とした武芸術。

 

 つまり、武芸と魔術のみを用いて戦力を構築する思想は時代遅れのものとなり、新設された武芸術の後継である部活に人は流れた。

 

 それでも未だ廃部になっていなかったのは貴族主義の延長。

 

 合理主義より騎士道精神というやつが未だ旧い貴族達にとっては重要視されているからだ。

 

 実質的に部員が零だろうと精神論を唱える部活の一つも無いのかと貴族達に謗られなければ、学校側としては良かったのである。

 

 そこにウルという個人が介入し、部活動としての実績を積み上げる事で旧き良きものが未だアルヴァス・カレッジには残っていると学校側は宣伝(プロパガンダ)に利用した。

 

 個人と組織の利益が一致したと言えるだろう。

 

 彼女は貶められた家名を少しでも回復する為に。

 

 学校側は貴族社会からの圧力を少しでも受け流す為に。

 

 そうやって与えられたものが旧特別校舎の部室なのだ。

 

 そこはウルにとって最後の抵抗。

 

 いや、牙城。

 

 無数に剣が立て掛けられた壁は来訪者へ彼女の家を宣伝する小道具であり、舞台の書割なのである。

 

「おぅ。それがお前を圧し折った学生か?」

 

「な!? 何で此処に?!! ど、どうしていますの!!?」

 

 別異相となる【壷世(ムンディ・オラム)】の空間から帰ってきたウルが見たのは勝手に彼女のお気に入りの茶葉を入れて紅茶を嗜む学生服姿の赤鬼女(エンシェン)だった。

 

 しなやかな筋肉が制服をパツパツに内部から盛り上げている様は何処か仮装(コスプレ)したようにも見える。

 

 というか、そのようにしか見えない。

 

 明らかに学生という気配ではないのだ。

 

「この間言っただろう? 此処へ世話になると。このエンシェン、一度吐いた言葉に二言は無い」

 

 実際、権力だけなら大貴族以上に持っている鬼女の言葉は偉そうだった。

 

「えっと、初めまして」

 

「おっと、これは失礼したな。エンシェン。エンシェン・イル・フォイルだ。見ての通り、赤鬼(ラルヴァ)の家系で其処のドリル女の知り合いだ」

 

「ド、ドリル女ですって?!!」

 

 ビキッとウルの額に青筋が浮かぶ。

 

「ははは、そう怒るな怒るな。あまり怒ると眉間に皺が寄るぞ?」

 

「くッ」

 

 明らかに遊ばれている。

 

 が、没落貴族の長女と国王にも近い元老院に絶大な権力を持つ家の長女では格の差が在り過ぎた。

 

 貴族として振舞えと言えば、現状で知り合いとして振舞っている鬼女を無駄に権威付けするだけになると知るからこそ、ウルは苦虫を噛み潰したような顔で怒りを飲み込む以外無く。

 

「僕はイクス。イクス・ゼオって言います」

 

 エンシェンが僅かに片方の眉を上げる。

 

「ゼオ? まさか、ゼオ家の者か? いや、だが、あそこには娘が一人切りと聞いていたが?」

 

「血は繋がってませんけど、アルゥさん。ゼオ家の当主の人が後見人になってくれてて」

 

「ほほぅ? そうか。ゼオ家の者だったのか。確かにそれならこの真面目一本槍が敵わないのも道理か」

 

「ど、どういう事です? イクスの家が有名な武門だとでも? わたくしはそのような家、聞いた事がありませんわ」

 

 ウルが自分の知らない事を知っているらしきエンシェンに眉を顰めて訊ねた。

 

「ああ、“武門だから”知らないのは当たり前だ。それは我らのような裏方の家にとっての“有名”だからな」

 

「……イクス。説明してくださらない。貴方の家はどういうところなのかしら?」

 

 エンシェンの家の事を十分に知っているウルは国の裏の統治者に名が響く家とはどういうものかと少年へ訊ねる。

 

「え? いや、アルゥさんは良い人で。僕を助けてくれてるってだけだから、家名云々とかそういうのはちょっと」

 

「よく分からないと? 自分の後見人の事なのに?」

 

「まぁ、色々あるから」

 

「……」

 

 ふぅっとウルが溜息を吐いたのは“色々ある”の内容を自分が聞き出せるような立場に無いと知っていたからだ。

 

 気にはなっても、基本的に彼女は敗者で少年は勝者だ。

 

 部活に“入ってもらった”のは半ば脅しだったが、同時に貸しでもある。

 

 そこで少年の内情に手を突っ込む程、彼女も無作法では無いつもりだった。

 

「そう。分かりましたわ。では、この件はこれで終わりにしましょう。でも、まだ入部届けも出してない人間にこの部室の敷居を跨がせるつもりは―――」

 

「ほれ」

 

 ピラリと承認済みの印が押された紙が一枚ウルの前に突き出される。

 

「ぐッ……」

 

「さて、さっそくで悪いのだが、イクス・ゼオ。いや、今は同じ学友なのだから、イクスと呼ばせてもらおうか。私と立ち会って欲しい」

 

「えっと……」

 

 少年がウルを見る。

 

「この筋肉女は武芸に関して、それなりの才覚があって。それで興味のある相手に喧嘩を吹っ掛けるのが趣味、という事ですわ」

 

 呆れた様子で嫌そうに説明するのを見て。

 

 少年は喧嘩を吹っ掛けられた一人なのだろうと少しウルを不憫に思った。

 

 何故か?

 

 少なくともウルよりは戦い慣れしているように鬼女(エンシェン)が見えたからだ。

 

「受ける理由とか無い気が……」

 

「おいおい。それは無いだろう。仮にも此処は武芸術部。自らの武芸を磨く場ではないか。そして、イクス。お前は私と同じ部員。となれば、戦うのは必定。いや、運命というやつだろう?」

 

「部員なら部長の意見を聞くものではなくて?」

 

「む!? 確かに……如何にお前より強いとはいえ、部の長の意見を聞かずには部員ではないか」

 

 ビギッと二つに増えた青筋を宥めるように額を揉んで。

 

 ウルがフゥッと深呼吸する。

 

「………後悔しますわよ?」

 

「おぅ。後悔しに来たからな!! 我が家名こそ掛けないが、我が名を掛けて戦うならば、それこそ我が強さに泥を塗られる可能性は多大だ。この覇道歩む事間違い無しのエンシェンに泥を塗るのだから、それはその者にとって最高の武名となるだろう!!」

 

 常識的に考えれば、もはや傲慢の域。

 

 しかし、少年は楽しそうに自分の名に泥を塗られに来たと、戦って後悔してみたいのだと言い切った豪快なる傑物に少しだけ苦笑してしまった。

 

「えっと、ちなみに結構本気で戦ったりしないと怒ったり―――」

 

「本気かどうかは関係無い。問題は戦えるかどうかだ。戦うならば戦者として我が前に在る壁を打ち壊すのみ。生死を掛けたいかどうかは確認させてもらうが、保障は出来ない」

 

 少年は自らを遮り、清々しく言い切ったエンシェンの言葉にチラリとウルを見た。

 

「昔からこういう物言いなのです。この女は……」

 

 明らかに生死を掛けた戦いに保障は出来ないと宣言されたのだ。

 

 躊躇わない方がどうかしている。

 

 だが、相手は銀ドリルに“この女”呼ばわりされる存在。

 

 また、無用に命掛けの戦いを強いられるのは少年にとって本望とは程遠い状況である。

 

「得るものとか無い気が……」

 

 一応、言い訳として少年は言ってみた、ダメ元で。

 

「ふむ。私が掛けられる最大のものである名では不服か。いや、そうだな。今は実利、合理主義こそが正義という風潮もある。相手にただ死合えと強要するのでは辻斬りにも劣るか。ならば、要望は?」

 

「いや、要望とかは特に……」

 

「金は?」

 

 即行で現金を提示。

 

 普通なら侮辱と取るだろうが、少年は首を横に振った。

 

「権力や金には興味が無いか?」

 

「どんなものも程々在れば十分じゃないかなぁ……」

 

 視線を逸らし気味に笑みが半笑いとなる。

 

「それもそうだ。だが、そうなると実利で何かやれるものは多くない。そう言えば、お前は何をやった? ウル」

 

「な、そ、そんな話が貴方に関係無いでしょう?!! エンシェン」

 

「やはり、何かやったのか?」

 

「ぅ……」

 

 しまったという顔をしたウルが顔を背ける。

 

「お前の事だ。負けた時に侮っていたなら、何か掛けただろう? 命と等価のものでも差し出さねば、相手の命を取ろうと思えまい?」

 

 自暴自棄になっていた時に色々話してしまった事が仇になった形だ。

 

 言わなければ良かったと思っても今更遅い。

 

 嘘なんて貴族の誇りに掛けて付いた事の無い純真な銀尻尾少女はポツリと呟いた。

 

「………何でも」

 

「何?」

 

「わたくしの出来る限りのものを何でも、と言いましたわ……」

 

 エンシェンが一度目を瞬かせてから、爆笑し始めた。

 

「ははははは!!? まさか、何でもか? ほ、本当に何でもと、そんな約束をしたのか? お前ッ!!」

 

「え、ええ!! そうよ!! 何か問題でもあるのかしら!!?」

 

「いや、無いとも。そうか、何でもか。何でも……ふふ、だが、さすがにそこまでは出来ないな。だが、相手に己を委ねるという選択は悪くない。求めたい時に求めればいい。それなら、使い様もあるだろう」

 

 ギラギラと瞳を輝かせて。

 

 エンシェンが立ち上がり、少年の前へ出た。

 

「このエンシェン。負けたならば、我が身の手が届く範囲で、己の家を傾けない範囲で、自らの出来る限りの事をしよう。金だろうと権力だろうと、我が身そのものだろうとな」

 

 少年は何となく察した。

 

 もう逃げられないと。

 

 そして、根本的にウルとエンシェンは似通っていると。

 

 他人の話を聞かないという点で確かに二人は友達なのかもしれない。

 

「……逃げたら」

 

「追うぞ」

 

 即答されては戦うしかない。

 

 そもそも戦いたくも無いのに戦えと強要するからこその宣言か。

 

 そこまでして戦いたい性が如何なるものか。

 

 少年には理解し難かった。

 

 大切なものを掛けてまで自らで争いを巻き起こす。

 

 ある種、少年にとっては縁遠い話だ。

 

 大切なものを守ったり、見つけたり、そういう事の為ならば、少年だって戦いは辞さない。

 

 だが、戦う為に大切なものを掛けるのは何だか本末転倒な気がした。

 

「……じゃあ、一つだけ」

 

「おうとも。何が望みだ?」

 

「これから戦う時は誰かを何かを自分を他者を大切なものを守る時だけ戦う。そう約束してくれますか?」

 

「―――」

 

 少年の瞳はただ、エンシェンの顔を映すのみ。

 

 まるで鏡のように自分を“写す”瞳の奥にゾッとするような何かを見て。

 

 エンシェンが今までの豪快な笑みを消した。

 

「本気か?」

 

「はい」

 

 今度は少年が即答する。

 

「このありとあらゆる面で戦いこそ全てだと、学業だろうが戦争だろうが経済だろうが、全てを戦って掻っ攫う赤鬼の性に対し、戦いたいから戦うなと。お前はそれを所望するのか?」

 

「僕が戦う理由はそういうものですから」

 

「……分かった。もし負けたなら、その望み生涯を賭して守ろう」

 

「エンシェン?!! 貴方、正気ですの!?」

 

「正気だとも。このエンシェン。二言する気は毛頭無い。それと今までの非礼を詫びよう。イクス」

 

「?!!」

 

 ウルが息を飲んだ。

 

 頭を下げる。

 

 それは貴族にとって最大の誠意だ。

 

 そして、彼女の家が背負った屈辱でもある。

 

 何一つ瑕疵無き誇り高き赤鬼が頭を下げる様子等、たぶん七度生まれ変わっても一回見られるかどうか。

 

 その姿を他人に晒す勇気はきっとウルにだって無い。

 

「頭を下げられるような事は何も……」

 

「そうか。では、ウル。お前に審判を頼みたい」

 

「何を……審判が必要な戦いとは思えません……」

 

「だが、この血が騒ぐのだ。もし、相手を倒したら、自分でも貴族としての己を保てるか分からない。今、私はきっとお前が感じた以上に怒りとも焦燥とも付かないものを感じている。それに突き動かされている。早く戦いたいと、相手を地べたに這い蹲らせたいと、本気で思っている……こんな事、今まで一度も無かったのだがな」

 

「―――分かりましたわ。何を言っても、無駄でしょうから。でも、わたくしもイクスとは因縁浅からぬ身。先に行っていて。後でちゃんと向かわせますから。バーゲルの家名において」

 

「ん、そうか。では、先に行っている」

 

 カンッとエンシェンが靴の踵を鳴らすと姿が薄くなり、消えた。

 

「………生きて帰れるつもりなのかしら? あの女は、強いですわよ?」

 

「えっと、まぁ、ウルよりは強いかもしれないけど」

 

「く、ズケズケと。やはり、乙女心が貴方に分かる日は来ないのでしょうね。イクス」

 

「乙女は普通問答無用に戦いを吹っ掛けてきたりしないと思う……」

 

 少年の呟きにウルの額に青筋がもう一本浮いた。

 

「いいでしょう。でも、死なないで。此処で死なれたら、わたくしは貴方を一生恨みますわ」

 

「死んでも恨まれるような事したかな?」

 

「ええ、勿論!!」

 

 怒れる声と共に再び異相へと舞い戻った少年は既に丘の上で全身から激烈な気配を立ち昇らせるエンシェンに溜息を吐いた。

 

 蒼い空。

 

 白い雲。

 

 穏やかな風が吹く丘で。

 

 少年は儘ならない現実を見つめる。

 

 女性心理は難しい。

 

 つくづく女難が続く学校生活はそうして新たな戦いを迎えた。

 

 *

 

「参る!!!」

 

 血生臭い戦闘は夜霧の境界先だけで十分。

 

 本来、かなり平和主義者な少年は剣を手の甲の方陣を光らせ取り出しながらも、相手の出方を見た。

 

 後の先を取ろうとか。

 

 そもそも相手をどう倒すとか。

 

 そんな事は一切考えずに。

 

 もし、少年の極めて優れた素質を上げるとすれば、その何事を前にしても失われない冷静さよりも、その冷静さの上に立脚する“見(けん)の姿勢”が上げられるだろう。

 

 戦のほぼ全ては戦う前から決している。

 そう説いた戦術家は多い。

 

 勿論、運と呼ばれる不確定要素がある事を否定する者は無いが、それでもそういうものをも想定して戦闘行程を組んだ者が強いのは道理である。

 

 一見して何事かを見切る。

 

 これこそが少年にとっての強みだ。

 

 不死者である事。

 

 戦いにおいて絶大なアドバンテージであるが、それ自体はあくまで彼の見る行動の長さや正確さを保障するものでしかない。

 

 アイウィスでの戦闘の時もそうだ。

 

 もし、少年に見る力が無かったら、如何に死なない体を手にしていても、少年は今以上に苦戦し、あるいは敗北していたかもしれない。

 

 【墓標(ピエタ)】を倒した時、少年は襲われてから間髪入れずに速攻で倒した。

 

 それは海龍の機動力と橋の上という戦場がこの上なく有利だったからだ。

 

 もし、戦場が街や境界へと押し戻されて移行したり、空中戦になっていたら、倒すのに倍以上の時間が掛かっただろう。

 

 相手が橋上で奇襲してくれたからこそ、少年はその勝機を掴んだのである。

 

 【欺瞞】との戦いもそうだ。

 

 相手の正体を見抜けなかったなら、少年は他の仲間達を無傷で脱出させる間も無かっただろう。

 

 それはつまり、少年にとっての敗北に等しい。

 

 ウルとの戦いも、エンシェンとの戦いも違いはない。

 

 等しく。

 

 見て、決める。

 

 これこそが少年にとっての強さの秘訣だ。

 

 学生相手に本気を出したり、強さを綿密に測ろうとしていなかったからこそ、少年は上手くウルに手加減出来なかった。

 

 もう少し状況が切迫していれば、相手の刀を折る事も無かったのは少年にとって自明だった。

 

「ふッ!!」

 

 ウルより武芸を嗜む者として基礎的な部分で強く。

 

 同時に容赦も驕りも無い。

 

 その上で精神的な高揚で威力の増したエンシェンの初撃はかなり少年にとって、戦い易かった。

 

 明確な敵意。

 

 いや、闘志。

 

 相手を粉砕するという意志。

 

 それを乗せる攻撃が単純な打撃というのも大きい。

 

 受け易く。

 

 返し易く。

 

 その上で打てば響くような戦者の思考は明朗に手の内を読ませる。

 

 第一撃の正拳突きに続く猛烈な連打、回し蹴り、振り返り様の肘、裏拳、身体を開いた上での震脚、更に踏み込んだ先で捻り込むような掌(てのひら)、掌底(しょうてい)までも剣で受け流すのは“楽”だった。

 

「ッ」

 

 一連の流れを読まれて的確に防御されたと見るや。

 

 エンシェンの動きが変わる。

 

 今までのが轟の拳だったならば、今から使われるのは柔の拳。

 

 拳は緩く。

 

 指先は猫の如く。

 

 揺れる肉体は旋律(リズム)を刻んでいるようで、実はそれに乗ってくるのを誘っているに過ぎない。

 

 少年の見はその中にある轟を決して見逃さなかった。

 

 近付かれる刹那はもはや残像。

 

 瞬間的な足捌きと緩急を付けた動きによる間合いの読み難さが聊か面倒ではあるものの、基本的に人体の可動限界を超えないならば、剣一本で受け切るのは容易。

 

 絡みつくような手の感触。

 

 掴まれれば関節を決められるか。

 

 あるいは強制的に剣を落されてから蹂躙されるのが基本(パターン)だろう。

 

「シッ!!?」

 

 人体は曲がるようにしか曲がらない。

 

 無理やり逆に曲げようとすれば、抵抗は強くなる。

 

 しかし、曲がるまま極端に無理な体勢を取らせれば、自然相手は余計に曲げざるを得なくなる。

 

 敵の斬撃の勢いを利用して、相手の剣を弧を描くように軌道を変えさせれば、自刃させる事も容易。

 

 どんな武器も魔術も、その力には流れ方がある。

 

 どんな流れで使われる武器か、武術か、戦術か。

 

 そのようなものを見続ければ、相手の動線。

 

 つまりは肉体や武装の可動域とその派生が見えてくる。

 

 相手の動きを予測して対策するのはどんな流派も一緒だ。

 

 しかし、問題は逆に相手に見せ付ける動きを過大評価させる技術までもある事だろう。

 

 右と思って左。

 

 左と予想すれば右。

 

 どちらにしても避けられない。

 

 あるいは受けるしかない。

 

 という状況まで持って行くのも多くの武術では定石。

 

 だが、それはあくまで駆け引きが出来る間合いまで詰められたらの話である。

 

 だから、少年は距離を詰めようとするエンシェンに対して壁を生む。

 

 地面には土。

 

 硬いが掘れない程でも無い。

 

 剣が衝撃に撓むだけ力一杯打ち付ければ、片腕から血飛沫が上がるものの、土石が爆砕し、相手に防御を選択させる、はずだった。

 

「フッ!!」

 

 襲い掛かる衝撃波と礫の波。

 

 それをものともせず。

 

 前進し、間合いを強引に詰めようとしたところまではエンシェンもよくやったと言えるだろう。

 

 しかし、それも全ては想定内。

 

 少年は剣を手放した。

 

「?!」

 

 そうして、未だ土石の礫に抗って間合いを詰めようとしている鬼の懐へと飛び込む。

 

 まるで猫のように真下から。

 

 土石の礫で動きが鈍る事は無くても、礫の痛みに筋肉は反射的な防御を選択する。

 

 それは一瞬の切り返し、攻防の入れ替えが命取りになる近接格闘においては遅延だ。

 

 不死者(しょうねん)の優れた肉体の資質が一つあるとすれば、それは攻撃に対する反射的な防御。

 

 精神的にも肉体的にも、そういうものを無視出来る点にある。

 

 それはつまり、肉体を省みないという事だ。

 

 痛みが無ければ、痛さに身を竦める必要が無い。

 

 そのような不自然である。

 

 無論、痛みは感じるし、反射的な防御を捨てるという事は肉体を攻撃に直撃されるという事を意味する。

 

 余計に傷を悪化させるのだから、害は大きい。

 

 しかし、この場は言うまでも無く一瞬で決着が付く。

 

 肉体の損傷の度合いを無視出来る不死者にとっては利の方が大きい。

 

 致命の傷を受けても相手へ捨身の一撃を叩き込む。

 

 これを完全に成し遂げるのは人型なら己の命を精神でも肉体でも明確に“明らめる”事が出来る法僧のような修験の道を究めた者達か、魔術においてそのような肉体や精神を生む者のみである。

 

 それも結局は生涯一度打てるかどうかの博打に過ぎない。

 

 でも、そのような心配が不死者にあるはずもなく。

 

 何度でも本当の“捨て身”で自らを扱い、その全てを完璧に遣り遂げるだろう少年の一撃は赤き肌へ容赦なく突き刺さった。

 

「ガッ、ハッァ゛ァ゛?!!!」

 

 腕での防御も間に合わず。

 

 胃の上を拳で直撃されたエンシェンは足を5cmも浮かせた。

 

 胃液と同時に僅かな血を吐き散らしながらも、チャンスだと腕で抱き込もうとした彼女が知るのは己の腕が動かないという事実。

 

 最初から肉体を魔力で強化し、同時に皮膚の下にまで魔術方陣を展開し、並みの威力なら、大砲を真直で直撃されても防ぎ切る防御力を得ていた。

 

 そう自らを過信していたエンシェンは危険(リスク)を受け切るという覚悟が聊か少年よりも足りなかったらしい。

 

 防御をしながら相手を下す。

 

 自らの命を捨てて相手に一撃を見舞う。

 

 この思考の差。

 

 それが戦場なら、生き残るのは前者だろう。

 

 しかし、この決闘のような戦いの場にあっては前者が致命。

 

 少年は最初からエンシェンの防御の方法を見抜いていた。

 

 そうして同時に相手の力量から、どれ程の一撃なら受け切れるか測っていた。

 

 故に勝負がどうすれば付くか理解していたのだ。

 

 格下の相手が自らの肉体の事を考えつつ、反撃の手段を用意して一撃は受けてくれる、そう看破した時点で少年の勝利は決まっていたに違いない。

 

 打撃を剣で受けている時から、少年の勝利目標はたった一つ。

 

 相手を倒す、というようなものではなく。

 

 赤鬼の女性を行動不能にする打撃を一撃叩き込む、であった。

 

 エンシェンが高ぶる感情のままに力と技を振るっていたのとは対照的だろう。

 

 この時点でどちらが明確に相手を倒す合理的な思考を行っていたかは明白。

 

 赤鬼の娘は負けるべくして負け。

 

 不死の少年は勝つべくして勝ったのだ。

 

 勝敗を分けたのは互いの思考の差、力量の差、意識の差。

 

 だが、最も影響したのは経験値の差か。

 

 一瞬一瞬、二手、三手先の少年の動きを読んで戦っていたのはエンシェンも同じ。

 

 もし、彼女が一撃の防御を達成して、少年に反撃していれば、イクスは神経が崩壊するレベルの致命傷を負って、勝負事としては負けていただろう。

 

 死にはしないとしても高ぶった本能のまま、グチャグチャの肉塊にされていた可能性は高い。

 

 だが、“境界”での経験から蓄積された相手を見切る力量は既にエンシェンの底を露呈させていた。

 

 少年の拳に込められた力は相手の肉体の魔力強化と方陣による対魔術、対衝撃の方陣防御を抜け、内臓をショック状態にして行動不能にする程度の威力。

 

 砲弾に換算すれば、大砲を同じ場所へ同時に十発分程だ。

 

 その一撃は“境界”で魔力刃や動魔術に費やされていた魔力の全てを指と関節部分のみに集約して放たれた。

 

 エンシェンの肉体強度を綿密に思考上で丸裸に出来たのは常に境界からの離脱を考え、化物を最小限度の労力で倒すよう心掛けて来た少年の努力と経験の賜物。

 

 これこそが少年と女の、戦い続けた者と戦いたい者の差だった。

 

(―――ぐッッッ、微、塵も……ッ、動か、ない……ッ、か……)

 

 全力を出せば、小さな一戸建ての建造物を持ち上げる事すら可能な膂力。

 

 赤鬼の全力を出す間も無く。

 

 反撃を準備していたエンシェンは完全に自分の意識から制御が離れた内臓の動きを抑えようと猛烈な勢いで方陣防御に組み込んだ内蔵回復の術式を動かしていた。

 

 しかし、それも虚しく。

 

 トス。

 

 そんな音と共に抱き付くような姿勢でいた彼女の首筋へ少年の手刀が直撃する。

 

 最初から方陣の魔力を回復に振り分ける瞬間を待っていたとしか思えない手際の良さ。

 

 赤鬼の娘は唇の端が吊り上がるのを自覚して、ゆっくりと意識を落していく。

 

(何だ……この無様は……はは……まったく…魔族出の赤鬼(ラルヴァ)が赤子扱い……さすが、あのゼオ家の客分という事、か……こんな“化物(はんりょ)”に恵まれて……みたい……ものだ……)

 

「一本。勝者イクス・ゼオ」

 

 見守っていたウルは嬉しそうな笑みで立ったまま気絶したエンシェンを呆れた様子で見つめて、その敵だった女を背中に担ぐ少年へ溜息を吐いた。

 

 早めに着いた決着から小一時間後。

 

 何とか意識を取り戻したエンシェンは晴れ晴れとした顔で少年と肩を組んだ。

 

 物凄く楽しげな様子で。

 

 剰(あまつさ)え「このエンシェンの婿にならないか?」とウルの顔を驚愕に固まらせた。

 

 冗談として受け流しつつ、今日の部活動はこれでお終いだとばかりにソソクサ部室を少年が後にしたのは正しい判断だっただろう。

 

 泥に塗れた小僧のような悪戯っぽい笑み。

 

 エンシェンは武勇を競うだけの相手を得たとばかりの喜びようで少年を見送り、ウルはもう疲れたと言わんばかりに部室を閉じた。

 

 部室の前で二人は分かれ、エンシェンは仕事先である警察機関へ。

 

 ウルは一人自宅へ向かう。

 

(……はぁ)

 

 溜息がちに帰る彼女が学校から直接赴いたのは東部の本邸ではなかった。

 

 中央の王城や商業区を越えた先。

 

 北部の重工業地帯にも程近い労働者階級が使う単身世帯用の集合住宅(マンション)である。

 

 正方形が積まれたような西部の建造物との差はその高さか。

 

 超高層建築には及ばないものの、それなりに高い場所にある高額労働者階級(ミドルクラス)が使う複合建築。

 

 さながら、天に伸びる灰色の樹木のような構造体。

 

 一階の狭い玄関には専用の赤い私書箱(ポスト)が無数縦列しており、その横を住人達が夕飯を食べに出て行く。

 

 一人だけ逆に入って行く彼女は迷った挙句にようやく巣へ帰ってきた鳥のようにも見えた。

 

 内部の飾り気も無い灰色の通路を歩けば、中規模の階段が一つ。

 

 住人達には不満だろう長い部屋への道のりがウルには調度良い散策の場だ。

 

 八階033号室。

 

 最も奥まった場所にある角部屋。

 

 夕景が美しい以外は簡素な寝台と小さなテーブルと椅子が二脚。

 

 調理用の小型のコンロ、小さな浴室と浴槽があるだけの部屋。

 

 それだけでも大陸標準からすれば十分恵まれている。

 

 腐っても貴族の子女。

 

 不動産業者にしてみれば、不興を買わぬよう精一杯の機能を詰め込んだのだろう。

 

 これで召使や侍従の一人でもいれば完璧だが、生憎と彼女の家の使用人達は長い暇が出されている。

 

 アルヴァス・カレッジに入学してから一人暮らしを始めたウルは最初こそ何でも一人でやる事になれなかったものの、今では家事炊事を自ら賄う事が出来るようになっていた。

 

「ふぅ……」

 

 今日はいつもよりも疲れた様子で寝台に横たわる彼女は無駄に賑やかな事となってしまった部室での出来事を反芻する。

 

 どんなに言い繕っても部長である自分が一番弱いという現実。

 

 それは言うまでも無くズタズタだった矜持(プライド)を跡形も無く粉砕するに足りる事実だった。

 

 少年の強さ。

 

 エンシェンの強さ。

 

 自分の強さ。

 

 一体何が違うのかと己に問い掛ければ、答えはおのずと知れる。

 

(わたくしはきっと本当の戦いというものを知らない。いえ、知らないままでも貴族の武門としてやっていけると驕っていたのでしょうね……)

 

 何を言い訳しようとも強さとは基礎の差が最も大きく出る。

 

 才能、努力、資質、技能、経験。

 

 どれを取っても自分は高位にあると知りながら、それは遠く二人の部員に及ばない。

 

 ウルにだって分かっている。

 

 相手が尋常ではないという事は。

 

 片や得たいの知れない強さを秘めた赤鬼が知る家の者。

 

 片や魔族出でありながら、亜人としてほぼ最上位に近い高能力を有する血筋。

 

 没落する前ですら、神の眷属と自らを自称していながら、バーゲルの家は血が薄くなっている事を悩んでいた。

 

 その最たる象徴はウル自身だ。

 

 本来、一族は金毛を持って生まれてくるのが性と言われていたのに銀の毛を持って生まれ。

 

 更に容姿が“九十対十”となれば、血統の衰退が囁かれても仕方のない話である。

 

 没落するのは最初から決まっていたと貴族達から陰口を叩かれても文句は言えない。

 

 だからこそ、彼女は没落貴族と嘲弄されながらも実力で示す必要があった。

 

 バーゲルの家は健在だと。

 

 しかし、今や彼女は自分の往く道を見失ってしまっている。

 

 家族も親族も彼女のしている事を快く思ってはいない。

 

 再興なんて不可能だと諦めて、貴族以外の生き方を模索し始めている。

 

 ウル以外の者にしてみれば「まだ、生き恥を晒させるつもりか」という事になるだろう。

 

 言われる通り、生き恥を晒し、敗北の二文字に心も刀も圧し折られてしまった。

 

 それでも、心の底から湧き上がる諦観に身を委ねながらも、彼女は空ろになった自分を突き動かすのだ。

 

 再興なんて不可能だと心の何処かで気付いていながら、知っていながら。

 

(………全部、投げ出しても、何も変わらないのだとわたくしは知った。なら、戦うしか……強くなるしか……この身に残っているものは……)

 

 あの嘗て幸せだった日々を取り戻したかった。

 

 笑みが誰の顔にもあった世界を取り戻したかった。

 

 脆く崩れ去る砂の塔を作る徒労だとしても、諦めてしまった願いだとしても、彼女は、そうせずにはいられなかった。

 

 もう、他に彼女の中に残っているものは無くなってしまっているのだから。

 

『そんなに嫌なら止めればいい。それが出来ないなら死ぬまでやれ』

 

 今や希望すら失う事無き身。

 

 なら、止められないまま、流されるがまま、死ぬまでやってやろうと彼女はもう開き直っている。

 

(明日も戦おう……それでダメならまた明日、そのまた明日も………死ぬまでやれば……わたくしにもいつか届くかもしれない……)

 

 見送った二つの背中を思い描きながら、彼女は不意にテーブルの上の白い封筒を発見した。

 

「これはお父様からの?」

 

 封筒には用件も宛名も書かれていなかったが、唯一封蝋の下に彼女の家の花押である百合の象形が描かれている。

 

 自分の部屋に勝手に誰かが来た事よりも、半ば家出娘のように扱われている自分に父親から手紙が来る方が驚きで、ウルはしばし、その封筒を手に取るかどうか迷った。

 

 親族、家族と疎遠になっている現在の彼女にとって。

 

 家からの手紙というのは基本的に二択の意味しかない。

 

 一つは帰って来いとの催促。

 

 もう一つは火急の用件。

 

 つまり、冠婚葬祭に関してだ。

 

 親族に自殺者が出る可能性はあったが、まだ日々の暮らしに困窮する程ではないはずで、敗北者の家と婚約を結ぶ貴族がいるとも思えない。

 

 となれば、中身を見るのを躊躇うのも致し方ないだろう。

 

 それでも見て見ぬふりが出来ない己の心情に突き動かされるまま。

 

 封が切られ、手紙が取り出される。

 

「これは―――」

 

 視線を落して文面を目で追ったウルの手が僅かに震えた。

 

 最後の一文を読み終えた後。

 

 ふわりと手紙が床に落ちる。

 

「お父様…………」

 

 再び取り上げられた手紙が何度か読み返された後。

 

 慌しく部屋の内部で彼女は着替えを始めた。

 

 そうして十分もすると目立ちそうな白銀の百合が背中に刻印された羽織を纏い。

 

 背中に自身の身長分もあるだろう長い黒の袋を背負って。

 

 ウルは部屋の外へと出掛けていった。

 

 残った手紙が勝手に燃え散ったが、誰にも気付かれず。

 

 燃え滓に判読出来る文面は彼女の願って止まない単語ばかりが、三つ。

 

 家、再興、機会。

 

 明らかに不自然な文面だったが、その手紙が彼女に疑問を持たせなかっただろう事は想像に難くなかった。

 

 そうして。

 

 翌日。

 

 ウル・エイフォン・バーゲルの姿はアルヴァスの何処からも消え失せた。

 

 *

 

―――首都直下総合下水処理施設中央大水槽。

 

 らんらん、らら、らん。

 

 らんらら、ら、らん。

 

 ららん。

 

 生態系。

 

 それは大まかに言えば、命の複雑な相互補完を意味する。

 

 樹木と蟲や微生物、細菌、菌類、その恩恵を享受する貧毛類(みみず)や小型の鳥、小動物や肉食動物。

 

 生物達が行う自然の行為が他の生物達の恩恵となる関係。

 

 自然が自然を豊かにする輪環は実によく出来ている。

 

 らんらん、らら、らん。

 

 らんらら、ら、らん。

 

 らららん。

 

 誰が決めたわけでもない。

 

 意思疎通が出来るわけでもない。

 

 そもそも存在すら認識しない。

 

 そんな関係だとしても、小さな蟲や大きな獣が小さな単細胞生物や目に見えないウィルスと共に活動している。

 

 らんらん、らら、ら。

 

 らら、ららら、ららん。

 

 ららら。

 

 社会構造、有機体、複雑な巨大分子、あるいは人の叡智を積めた珪素の塊。

 

 それらにも似て。

 

 いや、当然の如く似て。

 

 ら~ら~らら~ら~。

 

 ら~ら~ららん。

 

 らららら~らん。

 

 それが征服と既知による傲慢を軸としていても、人は見えないものとも共存してきた。

 

 神も魔も現実にある実体だと知っているならば、霧のように自らを惑わす不安の種にならない。

 

 それでも蠢く物を照らす光無き世界では、無智の闇に全て組み込まれる事もある。

 

 らららんらんらんらんららん。

 

 赤い非常灯の灯る薄暗い巨大な水底で灰色の繋ぎを来た亜人の男が一人。

 

 独特な魚のような顔を見れば、彼が【魚人】である事が分かるだろう。

 

 その顔は天井を見上げているが、もう瞳に光は無い。

 

 顔がプカプカと浮いてはいるが、半ば黒い水に同化している。

 

 ――――――。

 

 響く歌声は誰のものか。

 

 複雑に入り混じる配管と汚水が混濁する水槽の群れの中。

 

 その区切られた内海に不自然な波紋が浮かぶ。

 

 凡そ、都市一つ分。

 

 それらの開発の末に出た汚泥からは孑孑(ボウフラ)と蛆(うじ)が湧き。

 

 今も流れ込み続ける都市排水と共にあちこちで渦巻いている。

 

 都市インフラの最深度設備。

 

 浄化の為の超弩級【崩燼機関】は遥か水槽の底で沈黙するばかり。

 

 本来の力である水素原子の抽出と他の物質の消却を行っている様子はない。

 

 ら~~~~~~~~~~。

 

 楽しそうな声は謳う。

 

 もう少し。

 

 もう少しだと。

 

 少しずつ。

 

 ほんの少しずつ上がっていく水嵩がやがて天まで届くよう。

 

 声は謳う。

 

 毛むくじゃらの亜人の頭を抱きながら。

 

 真っ黒な手で愛おしそうに撫でながら。

 

 チュプチュプと音がしたかと思えば、男の顔が急激に動き出した。

 

 愉悦、あるいは恍惚。

 

 水音に消されながら、男はこの世のものとは思えない快楽に堕落し切った顔で唇を歪める。

 

 だが、その歪みが人体の限界を超えて少しずつ男の頭蓋を変形させていった。

 

 やがて唇は割け、腐臭をさせながら、瞳が、顔面の皮が崩れていく。

 

 ピュルリと蛆が口元から湧いたかと思えば、そのまま一気にガスを噴いて顔がぺしゃんこになる。

 

 しかし、そんな状況にありながらも、己の状態も知らぬような顔で男は最後まで笑みを崩さなかった。

 

 それどころか。

 

 祝福すらした。

 

 黒い手が新しく捕まえた者を。

 

 美しい銀の髪が壁に張り付き、粘ば付いた糸のような肉の紐が新たな犠牲者を絡め取っていく。

 

「……お、父……様……」

 

 水底の仄暗きモノの宴はようやく水音(みなおと)を超えようとしていた。

 

 極上の生贄を手に入れた喜びに沸きながら……。

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