※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第三章十五節★

第三章十五節「武芸術部校外活動Ⅰ」

 

―――大陸南西部砂漠地帯ディアンゾの泉より。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……お母さん。もう、少しだからね」

 

 まだ十歳程の少年が道無き道を急いでいた。

 

 その煤けた灰色の上着(ジャケット)と下穿(ズボン)を見れば、彼が労働階級の人間である事が分かるだろう。

 

 赤く腫れた手が持つ太い綱は背後に魔術で浮かぶ粗末な荷台に繋がっている。

 

 白幕が張られた荷台の隙間には女性が一人。

 

 昏睡するかのように静かな吐息を立てている。

 

 少年が先を見れば、長い縦列が砂漠の端に途切れている。

 

 少なくとも10km以上の距離で視認不能になっているのだ。

 

 炎天下。

 

 本来ならば、少年が誰かを連れて歩けるような環境ではない砂漠に在って。

 

 列を作る者達は誰一人倒れる事無く。

 

 黙々と寝台を地平の果てへと運んでいく。

 

 少年と同じように浮いた粗末な荷台を引きながら。

 

「……辛かったら、もういいのよ…」

 

「!?」

 

 背後からひっそりと呟かれる声に少年は涙が出るかと思った。

 

 諦めろだなんて言われて。

 

 心の何処かでそうしたくなってしまった自分を殴りたくなった。

 

 どうして此処まで来たのか。

 

 覚えていないはずは無いのに。

 

「行くよ……」

 

 綱を引いて。

 

 少年は熱した砂漠の砂を裸足で踏み締めた。

 

 焼けるような熱さ。

 

 今にも一生焦げて使い物にならなくなるのではないかという不安。

 

 全ての恐怖を飲み込んで。

 

 背後から同じような荷台を持った男が少年を通り越していった。

 

 白幕の中に浮かぶのが自分とそう変わらない年齢の子供だと気付いて。

 

 少年は居もしない父という存在を少しだけ羨ましく思った。

 

 揺ら揺らと陽炎が道を飾り、遥か遠方の光景を道往く者達に運んでくる。

 

 それは水溢れる街並み。

 

 砂漠に隣接する七教会影響下の都市のものだ。

 

 まるで道往く者を嘲笑うように水を飲む人々。

 

 食事をして、恋人と語らって、子供の手を引く“幸せな世界”が彼らの気を散らせる。

 

 そちらの方向へ走ったら、自分もその楽しげな場所の一員になれるような気すらするのだ。

 

 惹かれぬはずはない。

 

 こんなに辛い事をしてまで、苦行のように歩かなければならないなんて、馬鹿らしいと思うのも道理だ。

 

 彼らの世界に未だ届かない文明の光。

 

 きっと、薬の一錠で治る病気の為に命を落とさずに済む場所。

 

 楽土。

 

 その砂漠の縦列に参加した者達は一人残らず同じ感想を持つ。

 

 だが、一人として、誰一人として、綱を引く使命から逃げた者はいない。

 

 やがて辿り着く砂漠の果て。

 

 一つの泉が見えてくれば、彼らは例外なく涙を零して。

 

 背後の者達に告げるのだ。

 

 助かるよ、と。

 

 大丈夫だよ、と。

 

「見えてきた……お母さん!! 見えてきたよ!!!」

 

 少年は綱を引いて走った。

 

 最後まで諦めずにいて良かったと。

 

 焦げて黒くなった足にすら気付かずに。

 

 泉の傍。

 

 白い法衣姿の修道女達が綱引く者達を出迎え、縋るように叫ぶ人々へ丁寧に応対し、頷き、どうすればいいのかをそっと教えている。

 

 泉の畔。

 

 大きな幕屋の中へ急ぎ足を早める者達が小さな列を作り、和を乱していないのは彼らの誰もが泉に辿り着くまでに備えた忍耐故だろう。

 

 少年は自分を出迎えた修道女達を前にしてジッと話を聞き入った。

 

「まずお断りしておりますが、この泉にいる限りは病状や怪我の具合は悪化致しません。同時に一つ言っておかなければならないのは此処で傷病が治ったとしても、それは一度切りであるという事です。次にどんな怪我や病に掛かろうと治療は出来ません。そして、これがこの治療の最大の壁ですが、此処での治療は改宗するか入信した者のみに授けられる一度だけの“奇蹟”だとご了承下さい。我々は七教会のように無償の愛や福祉を持ち合わせてはおりません。何を信じ、何を選ぶのか。その余地を皆様に提供させて頂いているだけなのです。ただ、此処での治療にはお金も奉仕も必要ありません。唯一、神に縋るか、信じるか。それだけが対価だとお考え下さい。ちなみに入信後に我らが貴方達へ何かを求めるという事もありません。他の神々を信奉しても、我らには止める権利は無く、嘘を吐かれたとしても構いません。ですが、入滅……死後、その魂は我らの御神の下へと旅立つ事となります。どうか、それだけはお忘れなく」

 

 女達が頭を下げる。

 

 その横を少年は通り過ぎ、言われるまでも無く幕屋に続く列へと加わった。

 

「…………」

 

「……坊や……お母さんは―――」

 

「聞きたくない」

 

「でも、お母さんは……神様を裏切る事なんて出来ないよ……」

 

「僕達の神様が何をしてくれたのさ……」

 

「坊や。そんな事を言うもんじゃ」

 

「本当の事じゃないか。幾ら祈ったって神様は何もしてくれなかった。神官は神への奉仕だって言って僕らみたいな貧しい人間を働かせても、奇蹟なんて起こしてくれなかった……」

 

「それは……」

 

「神の為の聖なる戦いだって言ってお父さんは死んだんでしょ? 何の罪もないあの国の人を沢山殺そうとして、何も出来ずに一人で」

 

「……それは私達の信仰をあの国が脅かしたからなのよ」

 

「七教会が言ってる事……分かるよ。神の名の下に戦ったって何も良い事なんて無かった……」

 

「坊や。あの国の言葉を聞いてはダメ。あの国は神官様が言うんだから、悪い国なのよ?」

 

「お母さん。僕、将来就きたい仕事が出来たんだ」

 

「………」

 

「僕、政治家になるよ。どんな事をしてでも……こんな国にした大人がいなくなるように……もしかしたら、国を出るかもしれない」

 

「坊や……」

 

「勉強なんて経典しか読んだ事ないけどさ。でも、お母さんみたいな病気に掛かる人を少しでも減らしたいんだ……」

 

 目に浮かぶ涙がどんなものか。

 

 背を向けているのに震えて嗚咽する我が子に……女はそっと微笑んだ

 

 きっと、自分とは違う道を往く。

 

 父親とも反対の道を往く。

 

 しかし、未来は閉ざされていない。

 

 そんな希望が一人の母親に笑みを浮かべさせた。

 

「僕達の番だ……」

 

 ようやく幕屋の前に来た少年が綱を引いて中へと入っていく。

 

「【我らが愛する我らが神よ。どうか、夢語れぬ者を癒したまえ】」

 

 法術。

 

 神の力を使う呪法。

 

 その奇蹟が横たわる者達を癒していた。

 

 少年の前に緩く縮れた亜麻色の髪の少女がやってくると、そっと頭を下げた。

 

 レア・アルトス・エール。

 

 現【総主教(パトリアルヒス)】の地位を受け継ぐ乙女。

 

 本来、傅(かしず)かれるはずの存在。

 

 簡素な麻の貫頭衣を着た法術の主が少年の持ってきた荷台の白幕を剥がす。

 

「……ッ」

 

 細い手だった。

 

 白い手だった。

 

 本当に労働を知らぬ者の手だった。

 

 もし、何も知らずにその手を見れば、少年は手の持ち主を憎んだかもしれない。

 

 働いた事の無い相手を内心で罵倒していたかもしれない。

 

 しかし、そんな事を欠片も思わなかったのは、少女が自分の母親を救ってくる相手だからではない。

 

 その手が血に濡れていたからだ。

 

 少年の母の上に己の手の甲を翳して。

 

 もう片方の手で刃一つ。

 

 不思議な光沢を持つ鋼。

 

 銀金(ミスリル)製の短刀が無垢な手を貫く。

 

 傷は癒えていないのに躊躇いも無く。

 

 不思議な程に出血は少ない。

 

 だが、一滴、命の雫が零れて落ちる。

 

 虚空で弾けた紅が燐光として舞い、母親を包んでいく様子を少年は僅か震えながら見つめた。

 

 怖かったのではない。

 

 怒っていたのではない。

 

 心の底から言い知れぬ感情が沸き上がったからだ。

 

「………」

 

 頭を下げて。

 

 手を退けたレアが次ぎの傷病人の下へと向かう。

 

 その背中に少年は国の聖典に載る女神を思い浮かべた。

 

「坊や。終わったの?」

 

「うん。大丈夫だよ。お母さん」

 

 母の瞳を閉じたままの問いに少年は頷いた。

 

 治っていないとか。

 

 嘘だったとか。

 

 一つもそんな事は思い浮かべずに。

 

 だって、おかしいではないか。

 

 あんなにも身を削る力で人を助けて。

 

 なのに、治っていないなんて。

 

(痛くないはずがない……苦しくないはずない……だって、あの人……)

 

 少女は少年の前で痛みを堪えるように顔を堅くした。

 

 そして、自分の身を捧げて行う呪法を行っているのに燐光が治まると少年へ笑い掛けた。

 

「……帰ろう。お母さん」

 

「…ええ……坊や………」

 

 綱を引いて幕屋を出て。

 

 少年は背後を一度だけ振り返る。

 

 もう燐光は見えない。

 

 だが、少女は幕屋から吐き出される治癒した者の数だけ己を削っているに違いなかった。

 

「お母さん。大事にしなきゃね。身体……」

 

「そうね。せっかく治療してもらったんだものね」

 

「違うよ」

 

「え?」

 

「治療してたんじゃない。あれは……」

 

「坊や?」

 

 治療していたのではない。

 

 そう感じたのは直感的な事だ。

 

 だが、間違っていると少年は思わなかった。

 

(きっと……命を分け与えて……)

 

 少年は中天の砂漠を再び戻っていく。

 

 自らの足が治っている事も、もう砂が熱くない事も、全てを噛み締めるように。

 

 旧教会派。

 

 その活動の一環。

 

 七教会の影響が薄い国々を回り、治癒の奇蹟を授け回る歴訪は彼らが中央諸国より追われて満百回を超える。

 

 彼らが治した者は延べ十五万人。

 

 七教会が行う大陸規模の福祉政策からすれば、微々たる人数。

 

 しかし、彼らの下で傷を癒した人々の多くは無言で彼らを支援すると言う。

 

 粗末な荷台を引かせ、目的地まで徒歩で来る事を条件にする彼らの行為が多くの者に受け入れられている理由はあまり知られていない。

 

 聖人の苦行を真似させているのだとも、病人を減らしているのだとも、様々な憶測が流れているが、声高に叫ばない極一部の者達は理由をこう語る。

 

 どんな苦難の先にも救われて欲しいと願われた命にこそ、奇蹟を授けているのだと。

 

 数十年後。

 

 西部の一国が旧教会派を国教とする事になるが、それはまだ遠い遠い未来(さき)の話……。

 

 *

 

 今日も引き続き熱い日が続くアルヴァス・カレッジの端。

 

 旧特別校舎裏で少年はいつに無く追い詰められていた。

 

「イクス・ゼオさん。そろそろ教える気になりまして?」

 

 いつものように女難である。

 

 もはや呪われているとしか思えない程の確率で学校は毎日がカーニバルだ。

 

 大食い肉食少女や官憲獅子少女や不良人間少女や銀髪ドリル女や戦闘赤鬼女までも網羅した少年に女性が食って掛からない日はあまりない。

 

 今では学園の“九十対十”を侍らせるドンファン。

 

 もとい東部で言うところの紐。

 

 つまり、四五六(ジゴロ)と大変評判の悪い人間少年(イクス・ゼオ)である。

 

 何故か。

 

 その悪評は学園の隅々にまで行き渡っていて。

 

 今や少年を見れば、女生徒は怯えや期待と言った感情を剥き出しにして“過剰な噂”を真に受ける者ばかり。

 

 同時に男達からはやっかみ+妬み+漢としての尊敬までも集めている。

 

 まぁ、そこまでは良しとしよう。

 

 少年は実害の無い噂ならば、やがては終息するに違いないと踏んでいたからだ。

 

 だが、懸念は現実となってしまった。

 

「えっと、本当に知らな―――」

 

 ダンッと校舎の古びれた板壁に手が突かれた。

 

 女の怒った顔というのは心底に怖いものだが、少年は半笑いで押し黙る。

 

「あの方は無断で学校を休まれるような方ではありません」

 

「そう言われても……」

 

「出入りしているようだとは聞いていましたが、まさか部員になっていようとは……言いなさい!!? あの方を、ウル様をどうしたんですか!!? 貴方はッ!!!」

 

 もはや鬼の形相。

 

 少年を壁に押し留めているのは【龍精(ドラコ・ファイリィ)】。

 

 一際珍しい薄い七色の翅を持つ爬虫類に近い顔を持つ少女だった。

 

 その肌はくまなく白い鱗で覆われている。

 

 人間というよりは人間の皮を被った龍と言うべきか。

 

 流行の短いスカートにブレザー姿は人間側からすれば、かなり奇異と映るだろう。

 

 ただ、亜人達にはまったく違うようで。

 

 少女の取り巻きの灰色な【獣人(ベスティア)】や蜻蛉の翅と触覚を持った【蟲人(ベルミ)】の少女達は男にそこまで物言う翅持つ爬虫類少女を輝いた瞳で見つめている。

 

 まるで「ああ、こんな不潔な人間男に颯爽と立ち向かうなんて!?」とでも言いたげだ。

 

「近頃、教室で落ち込んでいるようだったから、ずっと心配していたんです。まさか、あの発情獅子女(ライオン・ガール)みたいに、き、傷付けて捨てたんじゃッ!!?」

 

「どう思われてるのかは分かったけど、今日来なかった理由に心当たりは無いかな」

 

「そ、そうやって白を切るなんて益々妖しい!!? い、言いなさい!! ウル様をどうしたの!! 言いなさいよ!!」

 

 ズイッと少女が更に問い詰めようとした時だった。

 

『こ、こっちです。誰かが苛められてて!! 早く来て下さい!!』

 

「「「「「!!?」」」」」

 

 少女達が一瞬硬直した。

 

「必ず。聞き出してやるんだから!!」

 

 捨て台詞を吐いて少女達が一目散に校舎裏から駆け出していく。

 

 それから数秒後。

 

「……エストリア?」

 

「はい。イクスさんの友達のエストリアです」

 

 何処か不機嫌そうな顔でひょっこりと人間不良少女が角から顔を出した。

 

 そのままスタスタ歩いてくると校舎に付いていた背中の埃がポンポンと優しく払われる。

 

「ありがとう。エストリア」

 

「……イクスさん。イクスさんは女の人に誤解され易いんですから、ちょっとは考えて行動してください」

 

「怒らせるような事したかな?」

 

「怒ってはいませんけど……」

 

「不機嫌な気が」

 

「それは……また、イクスさんの噂が流れて来たから……」

 

「噂?」

 

「はい……」

 

 ちょっと拗ねたような顔で少女が暮れ始めている明後日の方向を向いた。

 

「今度は武芸術部の人を……」

 

 ゴニョゴニョと暈(ぼか)されたものの。

 

 少年は何となく噂の内容を察する。

 

「尾鰭(おひれ)が付きまくってるのは何となく分かった……」

 

「信じてはいません。でも、その…」

 

 少女の言いたい事は少年にも分かる。

 

 立て続けに浮世を流しているとしたら、疑いたくもなるのだろう。

 

 少年自身。

 

 もしエストリアがそういう人間だったとしたら気になる。

 

「部活には入ったから、噂に真実味が出てるのかも……けど、単に戦って欲しいって色恋沙汰とは無縁な理由で誘われてて、桃色な展開なんて欠片も無いんだけど」

 

「そうなんですか?」

 

「基本的に怒られてるか、刀や拳を向けられる場所だし」

 

「た、大変なんですね。イクスさんも……」

 

 エストリアの同情の視線に少年は苦笑するしかなかった。

 

「そう言えば、さっきの人達“来てない”とか喚いてたようですけど、もしかして相手の部長の人が?」

 

「うん」

 

 少年はエストリアに部活へやってきてからの一部始終を話した。

 

 前日は今日も部活だという話だった為、武芸術部へ赴いた事。

 

 そこで知らない少女達の一団に囲まれた事。

 

 どうやら同級生らしい上級生の話を総合すると今日は部長が無断で学校を休んだらしい事。

 

「それでさっきみたいな事に?」

 

「何か酷い事して登校出来ないようにしたんだろうって」

 

「心当たりとかはあるんですか?」

 

 少年が肩を竦めて首を横に振った。

 

「このままじゃ、またあの人達イクスさんの事を狙ってくるんじゃ……」

 

 エストリアが少女達の走り去って行った方向に視線をやった。

 

「誤解を解くには本人に説明してもらうのが一番だと思うけど、連絡先とか住所とか知らなくて」

 

「個人情報はきっと講師陣に聞いても教えてくれないでしょうし、訊ねていく事も出来ないとなると……」

 

「まぁ、何とか」

 

 難しい顔で眉を下げた少女の頭をポフポフ叩いて。

 

 少年は微笑んだ。

 

「ぅ……」

 

 子ども扱いするなと前に言った少女だが、自分で言う程その行為を嫌っていないのは明白で。

 

 少し赤くなって撫でられるままとなった。

 

 ヒュン。

 

 何かがいきなり少年の頭上からドシッと落ちてくる。

 

「ひゃ!?」

 

 エストリアが思わず後ろに下がった。

 

 首の骨やら背骨の骨が逝ってしまいそうな衝撃に耐えた後。

 

 馴染みの感触が頭に張り付いている事を確認して。

 

 少年が溜息を吐く。

 

「神出鬼没なのはいいけど、せめて穏便に頭の上に乗ってくれない?」

 

「マ~ヲ~?」

 

 いつもの黒猫だった。

 

 実際は猫かどうかも妖しい存在。

 

 いきなり現われては少年の頭を占領する黒い災厄。

 

 生え際に爪を立てるわ、首を折りそうな勢いで頭に引っ付くわ。

 

 殆ど害獣な小動物である。

 

 だが、近頃は命を救われている+それなりに友とのコミュニケーションツールの一つとなりつつある為、積極的に排除してはいない。

 

 だが、それにしても今日の登場の仕方は止めて欲しいと切に願う少年だった。

 

 屋根の上から直接降り立ったに違いない。

 

 回復するとはいえ。

 

 常時、痛覚を遮断しているわけでもない少年にしてみれば、悪意無き不意打ちはかなり痛い。

 

 例えるなら、自動で箪笥(たんす)の角が小指にぶつかってくるようなものだ。

 

「マゥ~」

 

 少年の複雑な心境に配慮する様子もなく。

 

「マ~ヲ、マヲマヲ」

 

 テシッと黒猫は少年の生え際を肉球で叩く。

 

「な、何だ~黒猫さんじゃないですか。驚かせないで下さい。それとイクスさんの首が大変な事になっちゃうんですから、もう少し静かに乗ってくださいね? いいですか?」

 

「マァヲ?」

 

 愛らしく小首を傾げて“何の事やら”と動物のフリをする何かが少年の頭に顎を付けてプラプラと尻尾を揺らす。

 

「ふふ。黒猫さんはイクスさんの頭が相変わらず大好きなんですね♪」

 

 微笑ましいと思われても、本人の首は猫に乗っかられていると結構疲れる。

 

 回復する端から疲労が蓄積していくのであまり少年としては長時間していたいスタイルでもない。

 

 近頃はナデナデしても大人しい為、「もう少しで抱っこさせてくれるはず!!」と。

 

 年頃らしい微笑ましさで黒猫に優しいエストリアだが、そんな日は来ないだろう。

 

 何故なら、黒猫は基本的に無害を装っているだけに過ぎず。

 

 徹底的に自己の利益を最優先にする気(け)があるからだ。

 

 熱いと何処かに入れとばかりに少年を促すし、どんなにお願いしてみても動きたくない時は頭の上から決して離れないのである。

 

 それだけならばいいが、近頃は学業の間に乗られた事もあった。

 

 授業中の事である。

 

 何とか昼時まで教師に気付かれぬようやり過ごしたのだが、一向に頭上から剥がれる様子も無く。

 

 昼食を共にする事となった。

 

 学食では奇異の視線を生徒達から向けられ、学食のウェイター達からは眉を顰められた。

 

 その上、肩身の狭い思いをしつつサンドイッチをテイクアウトするとダラァッと額を濡らされた。

 

『マァ~ヲゥ♪』

 

 美味しそう……とでも言ったのか。

 

 唾液塗れにされたオデコはベトベト。

 

 ドン引きな店員に「ぁ、ありがとうございましたぁ……」と恐々言われたのは少年にとって胃が痛い事実だ。

 

 総合すると。

 

 近頃の黒猫は調子に乗っているというか遠慮が無くなってきている。

 

 引き剥がされるという事は今まで以上に考え難い。

 

 生え際の危機は未だ去っていないのだ。

 

「とりあえず、明日になってから色々考えるよ。今日はちょっと早めに行きたいところがあるから、これで」

 

「あ……えっと、その…イクスさん」

 

「どうかした?」

 

 少年が校舎裏から退散しようとした時、声が掛かる。

 

「その、今日は何処へ行くんですか?」

 

「この間、剣を壊しちゃったから、何本か補充に」

 

「そ、そうなんですか。あ、あの付いて行っちゃダメ、ですか?」

 

「いいよ。でも、女の子には面白くないと思うけど」

 

「い、いいんです!! 私、実はこの間の事があってから少し武器に付いて思うところがあって」

 

「基本的に工場とか回るだけだから、待ってるだけになっちゃ―――」

 

「イクスさんの事をもっと知りたいんです!!」

 

「僕の事を?」

 

 思わず力説したエストリアがハッとした様子になる。

 

「え、あ、知りたいって言うのはこれからも“境界”の先に行くなら、イクスさんの戦力を詳しく知っておいた方が何かといいんじゃないかって事で、ええと……」

 

「じゃあ、一緒に行く?」

 

「は、はい!!」

 

 納得した少年が頷くと少女は顔を輝かせて駆け寄った。

 

 こうして再び少年と少女は街へ繰り出す事となる。

 

 誰が何処から見ても御付き合い中な二人に見えただろうが、少年は至ってエストリアの言い訳を間に受けたまま。

 

 今日は早く帰ってくるに違いないと夕食を早めに準備する兄の気持ちは壮絶にスルーされた。

 

 *

 

 元々大陸西部は痩せた不毛地帯が多い。

 

 それ故に物に付加価値を付ける為の技。

 

 技術というものが発達する土地柄でもあった。

 

 それはどんな分野にも言える事で西部の創意工夫は建築技術から冶金学、果ては魔術に至るまで幅広い分野での気質として捉えられるかもしれない。

 

 大国が高い技術を持つのが常であった歴史上、小国が大国よりも高度な技能を有するという事例は多くが西部に集中している。

 

 生計を立てる術として確立された西部の技術の多くは総じて実用的なものばかり。

 

 同じような研究者や技術者達にしてみれば、西部の連中は“夢が無い”という事になるだろうか。

 

 しかし、利益、実益最優先という形で構成される西部の様々な技術体系は極めて合理的だ。

 

 数字が強いと言えば西部の者。

 

 歴史書を書かせるなら西部人に限る。

 

 そんな風に揶揄されるくらいには重宝されてきた。

 

 特に冶金学が発達した地域であり、多くの国が貧しく分裂や統合を繰り返していた一帯では“流れ鍛冶”と呼ばれる流浪の鍛冶師達が多く。

 

 その中には大陸に名を轟かす伝説の武具を生んだ者達が多数いた。

 

【質量武装(イングネス・アームズ)】

 

 今では大陸全土で研究が進められている武具の基礎理論を確立したのも元々は流浪の鍛冶師であったとされている。

 

 火砲の開発も七教会の一部署が西部で技術収集を行っていた際に複数の鍛冶師達が独自に運用していたものを発見し、七聖女フルー・バレッサに概要を報告した事から、一気に兵器としての開発が進展した。

 

 西部には大陸を動かす力がある。

 

 少なくともそういう人材が眠っている。

 

 これが大陸の通説なのだ。

 

 そもそも七教会の拡大に寄与した世界最高の科学者であり、技術者であり、資産家であるフルー・バレッサが伝説の鍛冶師の娘であるというのは幅広く知られた話だ。

 

 現代に残る鍛冶師や金属加工業者達の間では祭神としてすら祭られる男は一振りで空を裂く品までも産んだとされている。

 

 現存する遺作全てが国家規模で収蔵合戦を繰り広げられ、その技術の解析に西部の大半の国家が莫大な年間予算を付けているのは周知でもある。

 

 アルヴァスもそんな西部の一国には違いなく。

 

 現代の技術革新である【崩燼機関(ソルヴァス・エンジン)】も西部だからこそ生まれたと実しやかに囁かれている。

 

 亜人だろうと西部の者には違いなく。

 

 今も遥か過去から連綿と受け継がれてきた技術者魂を宿す者は多い。

 

 ハガス北部。

 

 元々は鍛冶師達が集る一角であった場所が【崩燼機関(ソルヴァス・エンジン)】の生産と開発を一手に仕切る重工業地帯として生まれ変わって数年。

 

 大規模な工場に勤める工業労働者ばかりが押し寄せるようになってからも、ひっそり昔ながらの金属加工技術を伝える者達は小さな工場を維持し、儲けにはならなくとも確かな仕事をしている。

 

 そんな北部の外れの工場の一つへ少年と少女は出向いていた。

 

「ふぁ……」

 

 巨大な炉で熱している鉄が砂の型へと流し込まれていく様子にエストリアはすっかり圧倒されていた。

 

 工場の横。

 

 事務所らしき場所で少年が年上の亜人。

 

 海豚っぽい顔の男と話し込んでいる。

 

「えっと、この間買ったインゴットが欲しいんですけど」

 

「いや~オレ達も昔造った在庫が掃けるってんなら嬉しいんだけどさぁ。さすがに少し思うところもあるわけよ」

 

「何か問題でも?」

 

「ぶっちゃけ、ここだけの話。あんなの何に使うの? この間はウチのジジイが大量に作って倉庫に放っておいたのが売れて喜んでたんだが、そのジジイがさ。あれを誰に売ったって五月蝿いんだよ。そもそもボケてるのに何であんな儲けにならなそうな配合で鋳造したブツの事だけは覚えてるんだか」

 

「えっと、ちょっとした剣を作るのに必要で」

 

「剣? あんなデタラメな配合で剣なんか作れるわけ―――」

 

「お祖父さんが五月蝿いのはたぶん、あれが大量に必要になる事態が、戦時下を思い出させるからじゃないかと」

 

「戦時下?」

 

「元々、あのインゴットは数十年前に国が頼んでいたものだと思います。休戦条約下で無用の長物になったものが消えたから、また戦争になるんじゃないかって心配なんじゃないかな」

 

「国が? あれの用途あんた知ってるのか?」

 

「元々、鋳造してもらうつもりだったのが最初から有ったので手間が省けたんですけど。あの配合はそもそも鉄の構造を氷みたいに一つの結晶から“育てて鋳造する”魔術と冶金工学の成果なんですよ。基本的に単結晶、一繋がりの構造だとどんな魔力も奔らせ易いし、強度も桁違いです。ただ、加工が難しくて。通常の工業用途には向かないのを知ってたから、たぶん倉庫に……」

 

 海豚顔の男が目を細めた。

 

「坊主。あんた何もんだい?」

 

「【武芸術部】の方から来ました」

 

 少年が“本当の事”を言った。

 

「武芸術って。ああ、今時の若いのは自分の武器まで手作りするのかい?」

 

「やっぱり手作りの方が色々と融通が利いていいので」

 

「……分かった。倉庫にある分でよければ譲ろう」

 

 領収書に金額が書かれると少年が懐から袋を取り出して金貨を机に積み上げる。

 

「ホント貴族ってのは気前がいいなぁ」

 

「いえ、いつでもニコニコ現金払いが良いって聞いたものですから」

 

 頭を下げて少年は炉を工場の外から興味深そうに見ている少女を引き連れ、工場横の倉庫の奥からインゴットを魔術で懐に消し、その場を後にした。

 

「イクスさん。これで今日の用事はお終いですか?」

 

「いや、後二件程回らなくちゃいけないんだけど……退屈してない?」

 

「いえ、こういうところって中々来ないので面白いです」

 

「そう?」

 

「はい!!」

 

 少女の笑顔に無理はしていなさそうだと少年は次ぎの工場へと向かった。

 

 歩いて一時間。

 

 区域一つ分程先にある場所が次の目的地である。

 

 小さく寂れた廃屋のような場所。

 

 外に漏れているのは金属が高速で削れる音だった。

 

 何の看板も出ていない。

 

 しかし、少年は何も言わずに奥まった場所にある入り口へと入っていく。

 

「ん?」

 

 粗末な小屋の奥で旋盤を回しているのは黒猫の顔をした老人だった。

 

 金属の削り滓が周囲には散乱している。

 

「あんた、あの時の?」

 

「あ、はい」

 

「……今、こっちをやっちまうから、それまでそこで待っててくれ」

 

 汗に塗れて灰色の繋ぎを着た老人は皺枯れた手で椅子を指した。

 

 少年と少女が今にも崩れそうなボロい長椅子へ座ると機材が再び金属を削り出していく。

 

 チュイィィィィィィィ。

 

「ぅ……」

 

 微妙に額へ汗を浮かべたエストリアに少年がどうしたのかと尋ねた。

 

「そ、その、この音が何だか歯医者さんの音に似ていて」

 

「エストリアって歯が悪そうには見えないけど」

 

「い、いえ、私じゃなくて兄さんが甘いもの好きなのでよく虫歯で通ってたんです。今じゃ魔術で歯を生まれ変わらせる事が出来て口内環境もバッチリとか言ってますけど、昔は歯が数本欠けてて」

 

 微笑ましい兄妹のエピソードに相槌を打ちながら待つ事数分。

 

 ようやく老人が一仕事終えたらしく。

 

 二人の方へと振り返った。

 

「それで、またあの厄介なのを持ち込んで来たのか? あんた」

 

「ええ、まぁ」

 

「出しな」

 

「どうぞ」

 

 少年が魔術具の一つである皮袋から明らかに体積上入らないだろう太さのインゴットを数本取り出し、切り株で出来た机に置いていく。

 

「こんな削り難いもの。よく手に入れたな」

 

「まだ在庫が余ってたので」

 

「……この間の形でいいのか?」

 

「いえ、今日はこういう形に」

 

 少年が懐から取り出した一枚の紙を老人に差し出した。

 

「……まさか、こいつをもう一度見る事になるとはな……」

 

 老人が何処か不機嫌そうに溜息を吐いた。

 

「見た事が?」

 

「ああ、八十年も前に一度同じもんをオレのオヤジが削ってた。この歳になってようやくどういうもんか分かるようになったが、自分で削る事になるたぁ世間てのは狭いな」

 

「これって……」

 

 エストリアが紙を覗き込んで描かれているものに首を傾げた。

 

 一言で言うと魚の骨。

 

 そんな構造にも見える諸刃の剣だった。

 

 切っ先と剣の中心は細く。

 

 しかし、肝心の刃の部分は骨のような構造が多数並んで櫛状になっている。

 

「全部で……七本か。二日欲しい。明後日の午後に来い」

 

「ありがとうございます。お代は此処に」

 

 皮袋から金貨を取り出して少年が三列に積み上げた。

 

「ああ、毎度あり」

 

 明らかに普通の値段ではない。

 

 だが、それが適正料金なのか少女には判断のしようもなかった。

 

 少年が頭を下げてから工場を出る。

 

 再び響き始める金属の削れる音を後にして少女は傍らの少年に色々と聞きたくなっていた。

 

「あの、イクスさん」

 

「何?」

 

「あれってどういう構造なんですか? 櫛みたいになってましたけど、あれじゃ剣としては使えないんじゃ?」

 

「ああ、あれはあの後、肉付けしてから磨くやつだから」

 

「肉付けして、磨く?」

 

「櫛状になってる隙間にまた別の鉄を入れ込んで溶接。その後、磨いてもらって完成。だから、そこまでいけば普通の剣に見えるようになるよ」

 

「どうしてそんな事を?」

 

「大体の魔力形質は魔力を物体に通す時、構造に沿った流れに歪む。けど、単結晶だと上手く全体に魔力が行き渡るようになる。でも、それだと魔力を局所的に集中させるのが逆に難しくなるから、所々を繰り抜いて流れを…って、分かる?」

 

「あ、はい。こう見えても結構、理系なので!! つまり、鉄の魔力経路を限定して特定の動作をし易くするんですよね?」

 

「うん。エストリアって結構頭いい?」

 

「結構は余計です。これでも一応母さんが博士ですから。昔からこういうのはちょっと詳しいんです」

 

 えっへんと胸を張るエストリアに少年が僅か驚いた。

 

「へぇ」

 

 感心した様子で講義は続く。

 

「基本的にこういう構造だと最初から魔力の通り道が限定されてるから、肉付けした部分だけ欠けるように出来る。そうすると、魔力刃の運用での一欠けが少なくなるから、同じ技を使っても前よりは長持ちする」

 

 少女は自分の命を掛ける道具に拘りを見せる少年が少し輝いて見えた。

 

 普通、武術を志す者でも出来合いの武器を使うのが殆どだろう。

 

 しかし、少年は自分の目で確かめたものを使うよう心掛けている。

 

 本来、戦者と呼ばれる戦場の主役達は自らの道具をそのようにして選んでいた。

 

 勿論、国から支給されたものだけを使う者もいたが、傭兵を初めとして戦巧者達は道具までも自作するのが一種の美徳だったのである。

 

 戦うのが化物とはいえ。

 

 少年もまた旧き貴族達が掲げる騎士道の一端を知らず実行している。

 

 その姿はエストリアにとっては“恰好良く”思えたのだ。

 

「でも、それだと剣としての切れ味とか損われるんじゃないですか?」

 

「溶接後に磨く過程で削って、後は自分でちょっと研ぐぐらいだから、確かに切れ味は普通のナイフくらいかも……でも、別に切れ味は魔力刃の使い手にはあんまり関係ないんだよ」

 

「関係ない?」

 

「魔力の積層化や形成。構成の良し悪しで大体は技の精度が決まる。そうすると本来の切れ味って言うのはそこまで必要にならない。小さな砥石でちょっと刃を削って欠けさせるくらいが実は一番切れ味って良いし」

 

「そうなんですか? 全然知りませんでした」

 

「切れ味の良い剣って言うのはよくよく見ると刃が少しギザギザになってて、切れ味の悪い剣って言うのは刃がツルンとしてるか欠け過ぎてるか。鋼材や鍛造の差が出るような業物は基本的に工芸品。どんなに切れ味が良くても十回くらい何かを切ったら、それで切れ味が極端に落ちたりする。それは繊細な品の欠陥みたいなもので、一々研ぎ直す必要に迫られる。あの境界でそんな悠長な事を言ってられないのは分かるよね?」

 

「つまり、イクスさんの剣は実用品て事ですか?」

 

「超短期決戦で特定の相手と戦うなら工芸品でもいいかもしれない。でも、僕達が戦う事になるのはどんな相手かも分からなければ、その数も未知数。そうなると最終的に必要なのは……」

 

「耐久性と魔力刃の効率的な運用が出来る構造?」

 

 少年がナデナデとエストリアの頭を撫でた。

 

「正解」

 

「ぅ……」

 

「あ、ごめん」

 

 思わず手を引いた少年だったが少女は気分を害した様子も無く。

 

「い、いえ……それにしてもイクスさんて博識なんですね。ちょっと、吃驚しちゃいました」

 

「全部、図書館で仕入れた知識だけどね」

 

「ぁ……ご、ごめんなさい」

 

 記憶喪失という話を思い出してエストリアが謝る。

 

「謝らなくても。そろそろ付くよ」

 

 少年が苦笑して次の目的地が見えてきたと少女に教えた。

 

 北部工業地帯を一歩出ると高層建築(ビルディング)が乱立する金融街だ。

 

 しかし、実は金融街にも程近い工業地帯との隙間に怪しげな店が幾つも存在する。

 

 魔術具や魔術に使う媒質、秘薬、様々な供物、その他アングラな辺りでしか手に入らない品を置く場である。

 

 市場や南部の歓楽街近くにも同じような店は存在する。

 

 しかし、それはあくまで合法。

 

 少年が向かっているのは全て非合法品を流通させている。

 

 貴族達も使うという理由で警察機構から半ば黙認されている店々だ。

 

 その内の一つ。

 

 看板に古の言葉で魔力を意味する“シャルム”と書かれた商店の古惚けた木製の扉を少年が開ける。

 

 連れられて中に入ったエストリアは内部の様子に思わず目を瞬かせた。

 

 外側は地味で何の店かも分からないのに内部はキラキラと輝く宝飾品と一面透き通った桜色の壁紙で彩られていたのだ。

 

 魔術具の灯りが室内を燦々と日光が降り注ぐような明るさに保っている。

 

「あっら~、いらっしゃ~~い。ま、この間のちょっと可愛いシャイボーイじゃない。んふ♪ 元気だった?」

 

「ひぁ!?」

 

 店舗の奥。

 

 少女は見てはいけないものを見てしまう。

 

 髪も眉も髭も無いツルンとした光沢の肌。

 

 無駄に筋肉の付いた体脂肪1%以下としか思えない肉体。

 

 揺ら揺らと七色の光が混沌と変化するド派手なドレス。

 

 口紅(ルージュ)が惹かれた口元がにんまりと口角を緩めれば、不吉な印象しか残らない。

 

 要は明らかに男女(オカマ)な筋肉達磨が恐ろしく意味が分からない服装でクネクネと少年に頬を染めていた。

 

「こんにちわ。ちょっと品を見せてもらっていいですか?」

 

「んも~~♪ いいわよいいわよ。可愛い子なら何時間でも何日でも何年でもいてくれて構わないわ」

 

「じゃあ、少しだけ」

 

 ペコリと頭を下げて。

 少年はへたり込んでいるエストリアの手を取って立ち上がらせた。

 

「大丈夫?」

 

「は、はは、はひ!? い、いいい、イクスさん。ちょっとこっちへ!!?」

 

 混乱した様子で少年を店の片隅に引っ張っていった少女は思わず訊ねていた。

 

「な、何なんですか!!? アレ!! アレ!!」

 

「え、いや、店員さんだけど」

 

「そ、そういう事を聞いてるんじゃないんです!!? こ、此処ってまともなお店なんですか!!?」

 

「まともじゃないかも。非合法な品しか置いてないし」

「そうなんですか。あはは、じゅなくて!!?」

 

 一瞬、少年の何ともなさそうな顔に流されそうになったものの、ハッと我に返ったエストリアは小さく店の奥でクネクネしている男女(オカマ)を指差した。

 

「あ、あ、あんな店員さんとか。絶対オカシイですよ!!?」

 

「そう?」

 

「はい!! 絶対、そうです!!」

 

 視線をカウンターの方へと向けてウィンクされた少女は背筋をゾゾゾッと凍り付かせた。

 

「―――うぅ……こ、此処で一体どんな買い物があるんですか?!」

 

「ちょっとした薬品とか、魔術具の類とか、かな。色々と既製品じゃ“境界”で通用しない事が多くて。効果が強い非合法品が売ってる店で一見さんお断りじゃないのが此処だけしかなかったから……」

 

「そ、そうなんですか。でも、非合法品て、何か危ない気がしますけど」

 

「品によりけりだと思う。危ないものって言っても使い方を間違えたら死ぬ薬くらいだし」

 

 少年が少女に説明し終えたとばかりに一人宝飾品が飾られた棚の前まで行くと片手で壁に据え付けられている台を押す。

 

 すると。

 

 キィッと後ろへと棚の壁が開いた。

 

「か、隠し扉!?」

 

「じゃあ、行こっか?」

 

 少年の笑みに押される形でエストリアは初めてとなる非合法な店の地下へと誘われていった。

 

 階段を数十段下りた先。

 

「凄い……」

 

 最初に少女が驚いたのは店の地下が思っていた以上に広大な領域を誇っていた事だった。

 

 地下数階まである事を示す中央の吹き抜け。

 

 中規模な図書館くらいありそうな面積はかなりのものだ。

 

 それより何より壁一面の棚に置かれた無数の珍品は恐ろしい程の品揃えである。

 

 中央の天井から吊るされた魔術具の光が地下と感じさせない程の光量を放っていて、室内は真昼のように明るく、影も殆ど無い。

 

 少年は長い壁際の通路を少女を伴って歩きながら、必要そうな品を視線で追っていた。

 

 開放感のある空間は非合法の商品を売る場所とは思えず。

 

 エストリアはさっきまでの取り乱し様も忘れた様子で周囲をキョロキョロと見回す。

 

 棚には小瓶に小さく名札が付けられただけのものもあれば、水晶の原石や小さな羽根らしきものもあった。

 

 何がどんな非合法品なのか少女に分かろうはずもなく。

 

 しかし、少年は時折、品を見定めては少し止まって、何も無かったように歩き出すという事を繰り返している。

 

 ワンフロア全てを見て回った後。

 

 置かれていた長椅子(ベンチ)で休憩を入れて。

 

 エストリアは今日一日分とは思えないような疲労感に襲われた。

 

 歩いただけではない。

 

 少年の日常の一端に触れたというのが少し興奮するくらい新鮮だったのだ。

 

 まるで玄人顔負けに業者と交渉したり取引したりする姿。

 

 自分の武器をどんな風に作っているのか。

 

 品行方正とは程遠い。

 

 非合法な店の出入りまでするのだ。

 

 普通ではない。

 

 これを少女の言葉に置き換えるなら簡単だ。

 

「イクスさんて、“大人”ですね」

 

「そう?」

 

「……はい。傍にいて何となくそう思いました」

 

「言われる程、大した事はしてないけどね……」

 

「イクスさんは…その…今日、ご迷惑じゃなかったですか?」

 

「エストリアと来れて結構楽しかったよ」

 

「そ、そうですか?」

 

「君を危ない事に巻き込んでる僕が言うのも何だけど、毎日がこんな風に楽しかったら幸せだと思う」

 

「え……?」

 

「ずっと幸せって単語があんまり現実味とか無かったんだ。今までは……でも、近頃色々な人に出会って、エストリアと友達になってからはいつも退屈とは無縁で……こういう日がずっと続けばいいなって……そう思える」

 

「イクスさん……」

 

 賑やかな毎日。

 

 少女も少年と出会ってから多くの事が変わった。

 

 身近に迫っていた危険に真正面から向かい合う事になったとしても、沢山の事実と触れ合った時間はきっと掛け替えの無いものに違いなかった。

 

「そう言えば、兄さんが“境界”で収集した声を魔術具経由で秘密裏に七教会へ送る事にしたそうです」

 

「そっか……あの人の家族とか、知り合いの誰かに届くといいね」

 

 大きくエストリアが頷いた。

 

「そうですね。遺された言葉が届くって、きっと凄く大切な事ですから」

 

 会話が途切れて。

 

 少年が無言で立ち上がり、手を差し出す。

 

「マァ~ヲ?」

 

 その時、大欠伸でずっと頭に乗りっ放しだった黒猫が鳴き声を上げた。

 

「あはは……」

 

「ふ、ふふ……」

 

 手が取られ、互いに笑みが零れる。

 

 そうして、二人の放課後はようやく終わりへと向かっていく。

 

 一階で筋肉達磨に番号を告げた少年は幾つかの品を大きな紙袋に包んでもらい、代金を支払って「ありがとうね~」との媚び媚びな声を背に店を後にした。

 

 オマケとして渡された小さな紙袋をエストリアが持っている。

 

 東部への帰り道。

 

 もう宵が迫ってきている空を見上げながら、何処か寂しい気持ちに駆られて。

 

 エストリアは少しだけ少年と距離を近くした。

 

「これ、何なんでしょうね?」

 

「さぁ? 二人で使ってねって言ってたたから、エストリアも使えるようなものだとは思うけど。最初に危険な品じゃないって確認は取ったし、もし欲しいなら今日のお礼にあげるよ?」

 

「いいんですか?」

 

「うん。必要なものは揃ったから」

 

「じゃ、じゃあ、貰っておきますね。ありがとうございます!」

 

 頭を下げた少女がホクホク顔でもう暮れ掛けた空の下、少年に微笑む。

 

「どういたしまして」

 

 放課後の短い時間とはいえ。

 

 二人で買い物をした一時は少年にとっても楽しい時間となっていた。

 

 しかし、夕暮れが過ぎれば、もう霧が濃くなる頃合。

 

 境界の先へ行かないとしても、少年の彷徨(ほうこう)は続く。

 

 それはもう少年にとって日常の一部であり、少女が見なくていい厳しい現実の把握手段でもあった。

 

 あの境界突入から一週間以上が経っているが、その間にまた少年は黒逝者となる都市の住人達と何度か遭遇していた。

 

 無論、霧の中を徘徊し、犠牲者を出す前に倒したのは言うまでも無い。

 

 そのような事があったからこそ、予備の剣が不足する事を前提として今日の調達に赴いたのだ。

 

 何も霧を取り巻く環境は変わっていない。

 

 穏やかな時間とは裏腹に夜のハガスは魔都としての色合いを深めている。

 

「じゃあ、これで」

 

 エストリアが自宅の前で少年に頭を下げた。

 

「うん。また、明日」

 

「はい!!」

 

 小さな紙袋を胸に少女が門を潜っていく。

 

 玄関先で手を振られて、少年も振り返した。

 

 姿が扉の先に消えれば、もう夜は目前。

 

 薄く空の彼方へ光が引いていく。

 

 少年の時間はこれから。

 

 その顔にはもう喜色が抜け落ちている。

 

(まずは市場に行って。そこから、かな……)

 

 再び中央へと引き返して行く道すがら、大きな紙袋は少年の持つ皮袋の奥へと消された。

 

 空間制御の魔術具は見かけ以上の容量を確保する重さも殆ど感じさせない優秀な品だ。

 

(今日は霧が濃い……また誰か犠牲者が出るかも……)

 

 イソイソと道を急ぐ住人達。

 

 何も知らず。

 

 夜に呑まれるかもしれない人々を横目に少年は一人歩く。

 

 中央の行政中枢。

 

 王城近くまで来た時だった。

 

「ほぅ。珍しい顔だな」

 

「?」

 

 少年が振り返ると王城方面から見知った赤い肌の女がやってくる。

 

 エンシェン・イル・フォイル。

 

 昨日出会ったばかりの赤鬼女だった。

 

 今日は部室に見えなかった姿は霧の中でもハッキリと存在感を放っていた。

 

「えっと、先輩?」

 

 一応、相手は年上。

 

 部長であるウルにはもう命賭けで戦わせられたのでタメ口な少年だったが、他はそうもいかない。

 

「はは、そう畏まるな。我らは同じ武芸術部の同志。ウル相手のように話せばいい」

 

「えっと、じゃあ、そういう感じで」

 

「硬いな。このエンシェンを打ち負かしたのだから、堂々としていればいいものを」

 

「性分だから」

 

「そうか。まぁ、いい。今日の部活はどうした?」

 

「誰もいなかったら、そのまま街に」

 

「やはりか…」

 

「やはり?」

 

 何かを逡巡するような素振りを見せた後。

 

 エンシェンが少年の前まで来るとしっかりとした瞳で見据える。

 

「……本来なら何も言わずに己一人でやるところだが、お前はこのエンシェンに打克つ程の男。そして、武芸術部という範疇に無い強さも持っている。故の願いだと承知して欲しい」

 

「何かあった?」

 

「ウルが行方不明だ。探す当てはあるが、戦力が欲しい。共に来てくれないか?」

 

 少年はエンシェンの見せる顔にそれが冗談の類ではないのだと悟る。

 

「今日来なかったのは……」

 

「ああ、昨日から行方知れずだからだ。あの真面目一本槍が無断で学校を休む事は在り得ない。学校側に聞いたら、あっさり住所は割れたのだが、どうやら慌てて出て行って帰って来ていないらしい」

 

「……」

 

 思わず“境界”に迷い込んだか、化物になったか。

 

 そう勘ぐった少年だったが、その不吉な予測がすぐに覆される。

 

「これは親族から聞き出した話だが、どうやら地下迷宮。水道の奥へと向かったようだ」

 

「地下迷宮?」

 

「ああ、このハガスの下の上下水道設備は殆ど迷宮の域でな。迷い込めば、骨になるまで出られないと専らの評判だ。前々から不具合や怪奇現象が起きていると警察機構にも報告が上がってきていたが、どうやらウルの家に調査依頼があったらしい。つまり、あいつは家の事情で地下に潜り、何らかのアクシデントに襲われたと考えられる」

 

「事情は分かったけど。そうなるとハガス全域の地下水道を探さないといけないんじゃ……」

 

「そこは心配無用だ。何処に用があったのかは特定済みだからな」

 

 エンシェンが懐から小さな地図を取り出した。

 

 それにはビッシリとハガス全域の下水道管理の通路が記載されている。

 

 その端にかなり大きな空白があった。

 

「中央大水槽?」

 

「ああ、このハガス全域の下水処理を担う場所だ。水以外を全て消滅させる超弩級【崩燼機関】が埋設されている。不具合が頻発していて、今では殆ど停止状態になっているそうだ」

 

「そこに?」

 

「十中八九いるだろう。そうだ。これを…」

 

 少年が地図を繁々見ているとエンシェンが小さく正方形に磨かれた灰色の石を取り出した。

 

「外部から肉体への干渉を遮断する魔術中核が埋め込まれている。これさえあれば下水道の大型配管内や水中でも活動可能だ」

 

 手渡された石を懐に仕舞って少年が頷く。

 

「では、武芸術部初の校外活動と行こうか。まぁ、最初の一回目が部長の捜索とは情けない限りだが、な?」

 

 ウィンク一つ。

 

 二人の部員はハガス北西部へと向かった。

 

 己の部の長の安否を確認する為に。

 

 その先に何が待っているかも知らず……。

 

 *

 

 夜。

 

 微妙に半眼な兄の視線を受けつつ食事を終えた少女は眠る前の入浴も歯磨きも終えて。

 

 後はただ就寝するだけの体で寝台に寝そべっていた。

 

 エストリアの私室は基本的に可愛いもので溢れ返っている。

 

 様々なぬいぐるみで埋まるクローゼット脇の角。

 

 薄桃色の壁紙。

 

 黄色いデフォルメされた顔の麺類(パスタ)が外套を纏って妙にカッコイイ姿勢(ポーズ)を取っている張紙(ポスター)。

 

 シュールな絵の下には勉強机。

 

 窓際には小さな鏡台が置かれている。

 

 絨毯の上には小さなテーブルが一つ。

 

 学校の課題の資料がやり掛けで投げ出されていた。

 

「………ふふふ……えへへ……♪」

 

 コロコロと寝台の上で枕を抱いて転がりながら。

 

 エストリアは今日の事を反芻する。

 

 二人切りで放課後出掛けた。

 

 行くところは色気の欠片も無かったかもしれないが、少年と少し近くなった気がした。

 

 少年に頭を撫でられた時。

 

 少年と黒猫の声に笑い合った時。

 

 何かが通じたと思えた。

 

(イクスさんにはきっと普通の事だったのかもしれませんけど……)

 

『エストリアと来れて結構楽しかったよ』

 

 少年はそう言った。

 

 相手が自分といて愉しんでくれている。

 

 それだけでも少女には嬉しい事だ。

 

 友達の一人もいなかった過去。

 

 同じクラスになれば、新顔の誰もが少女の存在に嫌な顔をした。

 

 そういう経験はアルヴァスに来てから数え切れない。

 

 エストリアは勉強がそう出来るわけではない。

 

 身体にそう自信があるわけでもない。

 

 実力社会とはつまり、実力無き者には冷たい世界だ。

 

 そこに人間という容姿も加わればどうなるか想像に難くない。

 

(……帰ってくるの……また伸びたんでしたっけ……)

 

 テーブルの課題の横。

 

 いつも身に付けている【崩燼機関】が目に入って。

 

 少女は何処か複雑な感情を覚えた。

 

 母が唯一くれたお守り。

 

 自分の取り得と言えば、それが上手く使えるくらい。

 

 でも、それは母との約束で危険に出会った時しか使えない。

 

(……あの“境界”の先で、少しだけイクスさんの役に立てて……嬉しかった。私にも誰かを助けられる力があるんだって…)

 

 少年に口付けした時の事を思い出されて。

 

 少女が枕に顔を埋める。

 

(……イクスさんは……初めて、だったんですか?)

 

 自分に頼んだ顔。

 

 死んだらして欲しいなんて、その時は酷く混乱した。

 

 けれど、それは感傷的な話ではなくて。

 

 他人の魔力があれば、体を回復させられるからで。

 

(あの××……美紗さんに頼まなかったのは……)

 

 自分にして欲しかったからなのか。

 

 そう問えない自分は勇気が無い。

 

 エストリアは自覚しながらも、今より少しだけ踏み込む自信が持てず。

 

(イクスさん……私、初めてだったんですよ……責任取ってください……)

 

 なんて。

 

 言えない事を心の内で思ってみても、虚しくなるだけで。

 

「イクスさんは私の事……どう思ってるんでしょうか……」

 

 ポツリと本音が出た。

 

「うぅ……」

 

 少女は嫌な妄想を振り払って、答えの出ない疑問を延々考えるより楽しい事を反芻する方へ逃げた。

 

「そう言えば、これ何なんでしょうか?」

 

 小さな紙袋がその視線の端に映り込んで。

 

 今日の思い出の品になるかもしれない紙袋がイソイソと寝台の上に運ばれる。

 

 明日、話す時の話題になるかもしれない。

 

 そんな軽い気持ちでエストリアは中のものを取り出した。

 

「?」

 

 妙にツルンとした触り心地。

 

 【崩燼機関】製の照明器具の下。

 

 その全容が露になる。

 

「これは……?」

 

 掌に治まる小石くらいの大きさ。

 

 ショッキングピンクの色合いは毒々しいのだが、別に何か特別魔術の気配もしない。

 

 表面はスベスベとした質感で端から透明で細い管(コード)が伸びている。

 

(どうやって二人で使えば?)

 

 最もな疑問を持ちつつ、エストリアは紙袋の奥に入っている一枚の紙を見つけた。

 

「あ、取扱説明書があるんですね。どれどれ」

 

 何気なく取り上げた一枚の小さな紙には使用方法がそっと文面で綴られている。

 

(えっと……『本商品は冗談(ジョーク)商品(グッズ)です。以下の使用方法以外では使わないで下さい。使用方法。まず、小型の【崩燼機関】に管の端を接続します。後に最小出力で以下の値を入力します』)

 

 指示されるがまま。

 

 少女は長い管を自分のお守りに繋いだ。

 

(『女性一人でもご使用出来ますが、男性がいるとより愉しむ事が出来るでしょう』……意味が分かりません?)

 

 エストリアの頭の中は疑問で一杯だった。

 

 入力した値の物理量(エネルギー)出力が小石みたいな物体を静かに振動させ始める。

 

(えっと、『まず片手に本体を持ち、四つん這いになり、そっと陰唇に当て……インシン?)

 

 しばし、沈黙が部屋に訪れた。

 

 長いような短いような。

 

 ただ、一つだけ確かなのは顔が赤くなっていく事だけだ。

 

「こ、これって……ま、まさか、あ、あの、噂に聞く///」

 

 冗談商品らしい震える本体を持ったエストリアの頭からボシュゥッと湯気が立ち上った。

 

(い、『陰唇に触れさせる、陰唇内部に入れる、乳首に触れさせる、陰核に触れさせる、肛門に入れる、使用後は酒精洗剤で洗ってから再度ご使用下さ』―――)

 

 最後まで説明を読んでしまった少女は思わず本体部分を手から放して寝台の隅に退避した。

 

 ブゥゥゥゥ。

 

 静かな振動は部屋の中で妙に反響する。

 

 ゴクリと無自覚に唾を飲み込んだエストリアが恐る恐るソレを、世間一般ではまだ出回っていない性具、俗にアングラな辺りではローターと呼ばれ始めている小物の管を持ち上げた。

 

「ふ、二人でこ、これを……はぅ?!!」

 

 思わず妄想してしまったエストリアの顔が呆けたものとなる。

 

『エストリアって、こういうの好きだよね?』

 

『優しく使ってあげるから、もっと見せて…ね?』

 

『これより僕の方がいい?』

 

 溢れ出す淫らな空想を思わず両手で消すような仕草をした後。

 

 我に返った少女は未だ振動する危険物(ローター)を凝視した。

 

 それから数分後。

 

 随分と葛藤があったらしき悩める乙女がそっと部屋の灯りを消した。

 

 そして、ゆっくりと寝台の中に入ると片手に持ったソレを自分の股間へと持って行く。

 

(こ、これは、そうです!! よ、予行演習!! 予行演習なんです!! もし、使い方を知らずにイク―――相手の人が困ったら私が教えてあげなきゃいけないんですから)

 

 グビリと唾を飲み込んで。

 

 性具に興味津々、好奇心旺盛な少女は自己正当化の末に危険物(ローター)の運用を開始する。

 

 最初はそろそろと寝間着(パジャマ)越しに股間へ。

 

 ゆっくりとブランケットの下で近付けていく手は既に汗ばんでいる。

 

 そして。

 

「ん……」

 

 二重の布越しに感じる震えに少女はモゾモゾと太腿を擦り合わせた。

 

 そんなに強い刺激ではないのだ。

 

 けれども、いけない事をしているという高ぶりが吐息を少しずつ熱くしていく。

 

(もう少し近い方がいいんでしょうか……?)

 

 ゴクッと喉を鳴らして。

 

 寝間着の下穿きの隙間へとローターを持った手が滑り込んでいく。

 

 最初に期待していたような刺激を得られなかったからか。

 

 今度は躊躇無く桜色の小物は下着の上からすじの上に押し当てられた。

 

 途端。

 

「ひゃぅ?!」

 

 可愛らしい声を上げて思わず少女は手を胸元へと引っ込めた。

 

 下着一枚を隔てて当てられた振動が思わぬ程に背筋へ衝撃を走らせたのだ。

 

(あ…うぅ…こ、こんな…下着越しなのに……///)

 

 自分のまだ毛も生えていない場所がジュンと熱を帯びて、湿ってしまった事を自覚して。

 

 エストリアが僅かな躊躇を覚えた。

 

 未だ手の中で震えるソレを何秒も触れさせてしまったら、自分は一体どうなってしまうのかと。

 

 でも、そんな些細な理性の抵抗もすぐさまに好奇心と高ぶった感情に押し流されてしまった。

 

(こ、今度はちょっとずつ……)

 

 ゆっくりと手が股間へとローターを持っていき。

 

 そっと湿っている下着越しに割れ目に押し当てられた。

 

 ブゥゥゥゥゥ。

 

(は、ぅ、んぁ ふ……くぅん♡)

 

 背筋を昇る甘い痺れに少女は眩暈がしたような錯覚を覚える。

 

(こ、これぇ…擦ると…ひぁ…ん、ふ…ふぁ♡)

 

 優しく先端をすじに沿ってなぞるように動かすと。

 

 その度に下腹部が熱くなっていく。

 

 初めての快感。

 

 最初こそ触れる面積を少なくしていた少女だったが、次第に慣れてくる快楽の波に飲まれて押し付ける力が強くなっていく。

 

(ひぁ!? こんなぁ♡ ぁ…下着濡れちゃうよぉ♡)

 

 シーツで声を噛み殺して。

 

 蕩け始めた顔が愉悦に歪む。

 

 もう下着は湿っているどころか。

 

 明確に縦の染みを広げていた。

 

 クチュ。

 

 蜜で下着の内部が粘着いていても、いけない遊びを早くも覚えてしまった指先は摘んだローターを放さず。

 

(こ、これ……一杯押し付けたら……ど、どうなっちゃうんですか…こ、こんなに気持ちいいのに…)

 

 自分の大切な場所に快楽を貪る為だけに作り物の道具を押し当てる。

 

 想像するだけでも期待は膨らむ。

 

(……イクスさんだったら……私にこれを……)

 

 名前を考えただけだというのに。

 

 少女の身体は正直だった。

 

 プチュッと新しい蜜を吐き出して染みが多くなっていく。

 

「イクス…さん…ッ…ん…はぁぁ…名前呼んだだけなのにぃ……こんなぁ♡」

 

 大切な友達。

 

 気になる人。

 

 その名前を呼びながらイケナイ遊びをしてしまったという事実に震える程の罪悪感を感じながら、それ以上に自分の性器を責め苛む快楽が、ローターの振動でグチュグチュと音をさせ始めた下着が、どうしようもなく少女の牝の部分を掻き立てていく。

 

「イクスさん…ん…イクス…さん…イクスさぁん♡」

 

 戦慄く身体が高ぶった果ての恍惚へと誘われ。

 

「んぃひぃ♡ イクしゅしゃ…ぁ…ぁア…くぅぅぅん♡」

 

 最後には手が濡れてしまうのも構わずに少女はローター全体をすじに押し当てていた。

 

「ひっ、ゃぁぁぁぁぁぁ♡♡♡」

 

 ビュチュ。

 

 下半身がブルブルと震えて。

 

 背筋を逸らしたまま、何度か背筋を焼く初めての快楽に少女は蕩けた顔で涙を零していた。

 

(すごいよぉ……いくしゅさんのこと考えたらぁ♡ お、おまんこぉ♡ ぐちゃぐちゃになっひゃったぁ♡♡♡)

 

 少女がローターを持っていた手を引き上げれば、ベッタリと汗と蜜で濡れていた。

 

 グチュグチュと下着が濡れてしまっている事に正気を取り戻せば。

 

 一気に羞恥と少年への罪悪感が押し寄せてきて。

 

(ごめんなさい……イクスさん…)

 

 治まって来た興奮の中。

 そう少女は想い人に内心謝っていた。

 

 夜中。

 

 密かに下着を【崩燼機関】製の自動洗濯器へ掛けた彼女を見つけた兄が鬼の形相で追い払われたのは致し方ない事だっただろう。

 

 少女の未来は前途多難。

 

 そして、恋の行方も未だ五里霧中であった。

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