※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第三章十六節★

第三章十六節「陰り隠れしは」

 

 水音にウル・エイフォン・バーゲルが目覚めたのは主観時間にするば、実に三百時間ぶりの事だった。

 

(ん……わたくし…は……)

 

 柔らかな日差し。

 

 周囲に薄く漂う生暖かく甘い薫り。

 

 未だ夢心地でしかないのはしっかりと肉体が神経を弄繰り回されているからだ。

 

(ここ……どこ…かしら……?)

 

 ぼんやりとした意識の片隅で脳裏に靄が掛かった彼女は熱っぽい吐息を零しながら僅かに動く自分の首を動かし、視線を周囲に巡らせた。

 

 仄かな光りが入ってくるのは遥か天井の向こう側からである。

 

 薄桃色の蠕動する壁が光源を吸収するかのように熱を持ち、自ら発光させていた。

 

(あ…れ…わた…くし…服……)

 

 ウルはようやく自分の身体が何も身に付けていない事を自覚した。

 

 しかし、思考は羞恥も激情も多くは昇らせず。

 

(な…んで…わたくしの胸…こんなに…)

 

 彼女は元々豊満な胸の持ち主だった。

 

 が、今の視界に見えているのは自分でも自分のものとは思えないような巨乳。

 

 浴室で見れば慎ましい乳首と乳輪があるはずの場所には薄桃色の張り出した大きな輪とふっくりと1cm程にも肥大化した乳首があった。

 

(ぁ…ぁ…じんじんして…乳首ぃ……)

 

 胸の奥底から湧き上がるもどかしい衝動。

 

 自分の母性の象徴が心地良くも要求する刺激を何か知りえず。

 

 ウルは動かない体の指を自然動かそうとしていた。

 

 その時だ。

 

 シュルシュルと音がしたかと思うと彼女の視線の先に何か細長いものがやってきたのは。

 

 それは壁と同じ色をした蛇のような動く紐、触手だった

 

 その数はたった一本。

 

 普通であれば、彼女が恐れる事なんて何も無い。

 

(ぁ、ぁぁ…この…匂い…甘くて…わたくし…はぁ…わたくしのあ、ぁそこぉ…どうなって…)

 

 胸先の甘い痺れよりも強く。

 

 腰の奥で子宮が疼いているのをようやく戻って来た羞恥と共にウルは感じていた。

 

(何を…されて…わ、わたくし…こんな…はしたないですわ…)

 

 股間を擦り合わせようとしても上手くいかず。

 

 手を動かそうとしても上手くいかず。

 

 俎板(まないた)に乗せられた魚のように彼女は自分が為す術もないという事を理解する。

 

 にゅうぅ。

 

 壁から彼女の前まで伸びて来た触手が彼女のぼんやりとした顔の前で少し左右に振れ。

 

(?)

 

 その先端を無数、極細に分化させた。

 

 糸のような細さ。

 

 光の中ではテラテラとぬめ光る肉の糸が彼女の口内へと端を侵入させ、クイッと上下に開かせた。

 

「ふぁ…にほぉ…」

 

 首と視線しか動かないのでは抵抗のしようもない。

 

 屈辱という感情もゆっくりと取り戻し始めたウルだったが、口を閉じる事は出来ず。

 

 自分の中へ肉の糸が入ってくるのを止められなかった。

 

(何を…するの…わたくしのお口に…?……っ)

 

「ふ…ァ……ぁあ…」

 

 何処か喘ぎのように声が漏れたのは彼女の口の中から舌が引っ張り出されたからだ。

 

 そして、彼女の前で極細の肉糸がその舌へ。

 

 プチュ。

 

 何本も自らの端を突き刺していく。

 

「ぁあぁぁ……」

 

 痛みは無かった。

 

 血も出なかった。

 

 それどころか。

 

 舌から齎される痺れにウルは極上の料理を食べた時以上の快楽を感じていた。

 

 時に食事が官能的であると評論する者がいる。

 

「ひょ…ん…ひゃぁ♡ あへぁ♡ ひゃはぁ♡♡」

 

 だが、彼女の舌はまさしく官能的でしかない甘い衝撃に支配され、屈服し、尚且つ求めてすらいた。

 

 脳内が蕩けるような幸福感。

 

 だらんと垂れた舌からツプッと肉糸が引き抜かれてもそれは変わらない。

 

 糸達は次に迷う事なく口内の様々な場所へ突き刺さり、喉の奥にまで範囲を広げていく。

 

「なひ、なひしてぇ♡ ひぁはぁ♡」

 

 口の中から喉の奥まで舌と同じように甘い快楽が押し寄せてくる段に至り、ようやく彼女は自分の身体が弄られているのだと悟った。

 

(そ、んな…こ、こんなお口で…わ、わたくし…気持ちよくなるなんてぇ♡ ありえませんわぁ♡)

 

 思考が再び快楽に鈍くなっていく。

 

 初めて感じる口内快楽。

 

「ひ…ぁ…ひゃべるだけれぇ♡」

 

 舌が言葉を紡ぐ度に今まで感じた事もない程の幸福感が彼女を襲っていた。

 

 にゅるん。

 

 肉糸が口内から抜けると。

 

 その顔はもはや蕩け切った顔になっていた。

 

 それを繁々と再び観察したらしき肉糸が向うのは下腹部である。

 

「ぁ、ぁあ、ひゃめぇぇ……」

 

 心地良さに呂律も回らず。

 

 しかし、肉紐とはいえ、他の存在に自分の大切な場所を見られるという事実が辛うじて制止の声を上げさせた。

 

(ぁ…え…わくたし…今まで…こんな、かっこうを…///)

 

 視線を前よりも下げた事でウルは自分が分娩台のような壁の一部に座らせられているのを知った。

 

 今の彼女は股をM字に開いている。

 

 快楽と羞恥に顔を悩ましく歪ませて。

 

 いやいやと精一杯の意思表示をしたとしても、何も変わりはしない。

 

 下腹部まで下った紐達の幾つかが縒り合わさって四つに分岐する。

 

 すると、その内の二つがよく見えるようになった先端を捻り細い注射針状の形態となる。

 

「な、なひを……!?」

 

 ソロソロと近付いてくる針が腹部のとある二点の上で制止する。

 

「ひょ、ひょこぁ…あ…ァ…ひゃ、ひゃめ、ひゃめなは―――」

 

 プス。

 

「ひゃぁめぇぇぇぇ?!!」

 

 容赦無く双針がウルの子宮脇。

 

 女にとって最も神聖なる卵巣へと突き刺さった。

 

「ぁ、かひゅ、あ、らべぇぇ!! ひゃめへぇぇ!!」

 

 さすがに身体の底から沸き上がる嫌悪感に大声を上げるものの。

 

 それで動きを止める触手でも無かった。

 

 弛んでいた触手の根元。

 

 壁際からゴポンと音がしたかと思うと。

 

 大きな瘤のように触手の内部を液体が移動していく。

 

「ぃ!?」

 

 目の端に涙を浮かべながら首を何とか拒絶しようとしても身体は弛緩したまま。

 

 ついに針の根元まで来た瘤が針の奥へと壁から湧き出た得たいの知れない液体をウルの卵巣に注入し始めた。

 

「―――ひ、ぎ、ぃうぅぅぅぅぅぅぅぅぅ?!!!」

 

 ジュクジュクと肉体の奥底から激痛とも熱とも分からないものが卵巣を蹂躙していく。

 

 その感触に今まで何とか耐えていた涙がポロポロと零され始めた。

 

 だが、しかし、その叫びすら口内では舌と喉を中心に甘美な衝撃へと変わっていく。

 

 何とか口元を閉じて我慢しても、緊張を強いられた口内や食道は形容し難い快楽をゾクゾクと背筋の奥へと送り出していく。

 

 それは脊椎を通り、背骨を越え、今正に衝撃に跳ねている下腹部へと到達した。

 

「ッッ~~~~?!!!」

 

 途端。

 

 今までの苦しさが嘘のように引いていき。

 

 逆に激しい痒み。

 

 もどかしい衝動が体内で蠢き始めた。

 

 コプン。

 

 そう音がして。

 

 今まで膨れていた肉糸の瘤が消え失せ、液体を全て卵巣へと注入した事を物語る。

 

 スルッと呆気なく針が引き抜かれた。

 

 自分の卵巣が放つ猛烈なもどかしい感触にウルが刺された場所を凝視するも針の跡も見えない。

 

(なぜ…わたくしが…こんな…わたくし…なにもしてない…こんな風にされる……事なんて…)

 

 甦ってくる屈辱が今までとは別の涙を零させる。

 

 ただ、そんな乙女の感情を解しない肉糸は次の獲物へと狙いを定めた。

 

「?!」

 

 声を出せば、必要以上に感じてしまうと押し殺しながらも、彼女は叫びたい衝動に駆られる。

 

 何故なら、女性の持つ部分で最も感じ易い部分へと二つの紐が忍び寄ったからだ。

 

 陰核(クリトリス)。

 

 まだ自慰も知らないウルだったが、小さい頃から触らないようにと一族の女性達からは躾けられていた。

 

 そういう性の知識を理解する歳になっても、洗う時以外は何もしてこなかった場所は小さく皮を被っている。

 

 ニュワ。

 

 一本の肉紐は今までのような極細のものとなり、 もう一本が先端をプツプツと膨れさせて逆さにしたお椀情の形状を取った。

 

 2cm台のお椀の中には極小の肉粒が無数に生え始める。

 

 クニィ。

 

 複数の肉糸が包皮をゆっくりと剥いて伸ばした。

 

「ひ、はッ―――ッ?!!」

 

 今までの行為で敏感になっていた陰核が僅かな接触で背筋に冷や汗を掻かせるような衝撃をウルの背筋に走らせる。

 

 しかし、本当の衝撃はそこからだった。

 

 残った極細の肉紐の先端が先程のように捻られ、先端を針と化す。

 

(うそ、うそ、うそですわ?!! そんな事したら、したら?!! わ、わたくし―――)

 

 内心で震え上がった彼女が必死に手を動かそうと試みる。

 

 無論、針はそんな事もお構いなしだった。

 

 プツツツツツツツ。

 

「――――――?!!!!」

 

 一気に突き刺された0.001mmにも満たない針が直接神経と擦り合わされ、少しずつ液体を注入し始めた。

 

「ん、ぉ゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛ぁ゛ぇぇぇぇぇッッッ?!!」

 

 舌をダランと垂らして思わず蕩けた顔で獣のような叫びを上げたウルが半分白目を剥く。

 

 その間に他の余っていた極細の糸達がダブ付いた包皮の根元に小さく小さく孔を開けていく。

 

 全方位から開けられた孔は痛みこそ与えなかったものの、包皮を完全に身体から乖離させた。

 

 切り取られた皮がポイッと糸の一つに捨てられる。

 

 僅かに血が滲んだ切り取り痕に肉糸達がプツッと浅く刺さり、また液体を注入。

した。

 

 すると剥き出しになった陰核の周辺の肉が見る見る内に黒ずんでいく。

 

 シュルッと糸達が黒ずんだ部分に潜り込むとパリッと音がして瘡蓋(かさぶた)のように剥がれた。

 

 糸達が全てのそれを除去すると中からツルンと桃色に染まった皮膚が再生しているのが見て取れるだろう。

 

「ぁ、ぁ……へぁ…ぁ…」

 

 涙と唾液を垂れ流しにして半ば意識を飛ばし、ピクピクと痙攣していたウルの剥き出しにされた陰核が……注入された液体の成果か。

 

 ほっそりと小さな花弁の如く膨らみ尖っていく。

 

 ツヤツヤとした桜色。

 

 先がツンと立った其処へ次の処置が待っていると急かすように今度はお椀型の触手がカポッと覆い被さった。

 

――――――。

 

 声にならなかった。

 

 そもそも口は開いていても、空気は出ていなかった。

 

 飛んだ意識を引き戻した衝撃は足の爪先まで瘧(おこり)のように震わせる。

 

 背筋は弓なりに反り返り、プシャァァッと蜜と黄金色の尿が同時jに噴出し、完全にウルの意識は刈り取られた。

 

 しかし、それで責め苦から開放されたわけではない。

 

 椀の中で蠢くブラシ状の肉粒が陰核を分泌された粘性の液体で丹念に全方位から扱きあげていくのだ。

 

「ッッッ?!!!?」

 

 痙攣しっ放しの全身に奔る衝撃で叩き起こされ、同時にまた背骨を焼く甘美な衝撃で意識を飛ばされる。

 

 この繰り返しに牝であるところの彼女の肉体は抗う事、能(あた)わず。

 

「や゛め゛へぇええええええええええええッッッ!!!?」

 

 そんな淫らな絶叫で懇願する事しか出来なかった。

 

 それから何度絶頂を迎えただろう。

 

 涙と鼻水と唾液で汚れた顔は既に以前の彼女のものではない。

 

 少しずつ過剰な快楽に慣れてきた事で今度は絶頂し続けながら意識も失えなくなった為、快楽地獄はより深まっていく。

 

 やがて、体液という体液を零したのではないかという水溜りが部屋の中に出来ると陰核を攻め抜いた椀は呆気なく引かれていった。

 

 粘液で扱きに扱かれ磨き抜かれた花弁はふっくらとしてツヤツヤと周囲からの光を照り返している。

 

 空気の中で震えているだけでも感じてしまう淫らな器官。

 

 もう二度と包皮に包まれる事の無い其処は生きている限り発情し続けるだろう。

 

 数分か。

 

 数十分か。

 

 時間感覚も麻痺したウルは自分の身体が完全に変質してしまっている事を責め苛むような快楽の波の中で実感していた。

 

 呼吸する。

 

 唾を飲み込む。

 

 声を出す。

 

 それだけで心地いいという事実。

 

 下腹部は変化した卵巣の部位からズグンズグンと心臓のように脈打ち、快楽を求めるよう複数のホルモン分泌を促している。

 

 乳房はもう自分ものではないような大きさで更に乳輪と乳首を肥大化させ、刺激を待ち侘びていて。

 

 股間から下は濡れていない場所が存在しない。

 

(う…ぁ…ふ…ぐ…わ、たくしの…からだ……もうおかしくなって…)

 

 もう涙も枯れ果てたのにようやく哀しみや不安が快楽と綯い交ぜになって押し寄せてくる。

 

 耐えられると思っていた。

 

 どんな傷にだってうろたえたりしないはずだった。

 

 そう自負した自分が実はとても脆い女の性に負けてしまう牝であると。

 

 彼女は、ウルは認めるしかなかった。

 

 グゥゥン。

 

 分娩台の背凭れが起き上がり、視界には肉体の惨状がよく見えるようになった。

 

「ぅ…あ…わたくし…わたくしの身体……淫らになっちゃったぁ……う…ふ…ぅぅ……」

 

 頬を染めて。

 

 快楽に身を任せて。

 

 泣けば。

 

 其処にいるのはもう貴族の子女でも流派の子弟でもなく。

 

 ウルという女だった。

 

 剥ぎ取られた矜持。

 

 最低限、女としてすらの幸せすら壊された。

 

 彼女とて好きな者とそういう事をしたいと思っていた。

 

 それは一生無理かもしれなくとも、女としての自分もまた大切にはしていた。

 

(わたくしには…もう…何も……)

 

 まだ処女こそ奪われていないが、それは何の慰めにならない。

 

(この…まま…わたくしは……)

 

 思考が致命的な一線を越えようとした時。

 

 グニュンと彼女の前へ数本の肉紐が壁から伸びてくる。

 

「ひ!? や、やぁ?!! こ、こな、いでぇ……」

 

 シュルシュルと手足に数本が巻き付き弛緩している四肢を拘束した。

 

 そうして、残った幾つかが三本にゆっくりと縒り合せられていく。

 

 その形はまるで針金で出来た棒だ。

 

 内部には何も無くスカスカ。

 

 しかし、棒という構造がウルに本能的な恐怖を呼び起こす。

 

 叫ぶ事も出来なくなって。

 

 彼女は肉紐へと視線を釘付けにした。

 

(わたくし…は……)

 

 宴は終わる気配も無く続く。

 

 一匹の獣と化した女の肉体を一つの目的の為に磨き上げながら……。

 

 *

 

 ヴァル警部補。

 

 それが貴族警邏隊の実働部隊の中でも中核に位置する彼の愛称だ。

 

 “五十対五十(フィフティ・フィフティ)”の理想的な亜人警官。

 

 今年で四十二歳の中堅管理職。

 

 彼こそ実働部隊の実質的な隊長であり、ハガスの都市犯罪を取り締まる鋼の男。

 

 狩人気質の獣人である【黄虎(ティグリス)】であり、いつも妙にやる気無さげな顔だが現場での評価は高い。

 

 黄色い体毛で覆われ、鼻腔が前に突き出した精悍な顔付きと無精髭がトレードマークである。

 

 近頃の彼が追い掛けている事件は大まかに二つ。

 

 一つはハガスで密かに力を蓄えている反七教会派の内偵。

 

 もう一つは不可思議な霧が出るようになってから多発している被害者のいない連続怪奇殺人。

 

 前者は元老院から直轄で情報を上げるよう言われいて、摘発ではなく監視が主な任務となっている。

 

 それは七教会に叛旗を翻そうとする国内機運の行きすぎを抑制する働きを期待されての事だ。

 

 七教会に対して様々な非合法活動をしている者達を暗黙の了解で見逃しているのである。

 

 いつか激突するかもしれない敵勢力への嫌がらせ。

 

 せいぜいがそういうものと言えるだろう。

 

 五年前の大規模テロ以降、同じような企てはその全てが優秀過ぎる七教会の専門部署に潰されている。

 

 反七教会を表立って掲げてはいないものの、内実疎ましい亜人貴族は多い。

 

 彼らの意向は七教会を弱体化させる反七教会勢力への支援という形を取っているが、国内でのテロは望んでいない。

 

 故に行き過ぎる行動を監視し、制御する者が必要とされた。

 

 それが現在の貴族警邏隊。

 

 警察機構の特別実働部隊だ。

 

 後者の事件。

 

 謎が多い連続怪奇殺人に関しては不気味という以外無いだろう。

 

 先日、容疑者らしきものを確保し損ねた。

 

 いきなり現われて消える“歪んだ像”。

 

 それが人型だと確認したまではいいが、それだけだ。

 

 結局、被害者が存在しない以上、霧に巣食う妖しいものを片っ端から捕まえていくしかない。

 

 そんな事情が変わり始めたのはつい最近の事。

 

 毎日のように行方不明者が出るようになり、連続怪奇殺人との因果関係が検証されるようになった。

 

 人々は果たして何処へ行ってしまったのか。

 

 幾ら追っても、その影はすぐ消えてしまう。

 

 まるで一瞬の内に“何処か”へ連れ去られてしまうように。

 

 連日、行方不明者の周辺とデスクを行ったり来たりする毎日。

 

 常なら彼も疲れを同僚や部下に見せる事は無いのだが、本来傍にいるはずの相棒がいないのでは仕事量から言ってもそうはいかなかった。

 

「美紗に結構預けっ切りだったんだなぁ」

 

 現状報告の書類を書きながらのぼやきに同僚の一人が反応した。

 

 犀(サイ)のような角と灰色の肌を持つ筋骨隆々の亜人である。

 

「ついに鋼の男もあの子の気立ての良さに気付いたか?」

 

 四階建ての庁舎ビル。

 

 その三階の角部屋。

 

 夜勤の者や仮眠に行く者達が行き交う午後7時丁度の時間帯。

 

 からかい半分に言われて、ヴァルがげんなりした顔となる。

 

「そんなんじゃねぇよ」

 

「だから、言ってるだろ? さっさとものにしちまえって♪ そうすりゃ、あの子の停職も解けるってなもんだ」

 

「あっちは大貴族様でこっちは最下級貴族出の罰一男やもめだぞ?」

 

「ははは、そんな理由でお前が諦めるような奴か? 歳だって貴族ならまあまあ在る話だろ?」

 

「諦めるも何もオレにとって美紗は相棒であって、それ以上でも以下でもない」

 

 やれやれ堅物め。

 

 そんな声を残して同僚が去っていく。

 

「ったく」

 

 溜息を吐いて。

 

 ヴァルは今は傍いない気高く美しい相棒の事を思った。

 

 奏美紗。

 

 配属されてきた当初はとても堅かった大貴族の少女。

 

 もし、自分に子供が出来ていれば、そんな歳だっただろうかと。

 

 何かと気を使って最初は接していた。

 

 だが、二人組のコンビとして動くようになってからは随分とヴァルも助けられるようになった。

 

 書類仕事や現場で必要な書類一式の作成。

 

 事件現場での犯人への武力制圧。

 

 現場重視なヴァルが近年苦労していないのは確実に美紗の功績だろう。

 

 そんな唯一無二の相棒が連続怪奇殺人の参考人の正体らしきものを見て、極秘に潜入捜査を開始した。

 

 自分の母校内部で内偵を進めているのは彼以外には誰も知らない。

 

 だが、問題は美紗が内偵で何か大きな問題を抱えてしまったらしいという事だ。

 

 らしい、というのは彼にもその詳しい情報が伝わってきていない事を示す。

 

 内偵開始から数日後。

 

 署長から美紗の資格が停止されたと通達があった。

 

 今は無期限の停職中。

 

 どうしてだと食って掛かった彼に署長、豚の亜人である男は男絡みだと言った。

 

 あの美紗が、堅物で真面目で器量良しで完璧に何でもこなす才女が、どうして男で停職になるのか?

 

 同僚達が今世紀最大の謎だと首を傾げたのも頷ける話。

 

 そもそも“男とのいざこざ”が停職理由に成り得るのかも正直彼ら同僚には分からなかった。

 

 その男は何者なんだと問い詰めた彼を署長は「君が知らなくてもいい事だ」と切って捨て。

 

 以降、一度も署に美紗は出向いていない。

 

 最後に会った時に会話したヴァルは何か言いたそうだとは思いつつも、何も聞けなかった。

 

 相棒が悩んでいるとしても、言わないならば言わないなりの理由があると踏んだからだ。

 

 瞳の色を見れば、諦めていない事は明らかだったからこその信頼である。

 

 だが、それからずっと顔を合せていないし、連絡も取り合っていないという状況になっている。

 

 今、何をして、事件の真相に迫っているのか。

 

 本来なら自宅へ押し掛けても聞き出したいところだが、上からの圧力……接触は署長命令で禁じられていた。

 

(また元老院の差し金か。あるいは大貴族……いや、あの鬼女の線も……)

 

 貴族警邏隊の名が表す通り。

 

 ヴァル達は通常の警察機構の中でも元老院や貴族等が関わる案件で優先的に捜査を行う部署だ。

 

 故に権力の上層部からのお達しは絶対。

 

 破れば、即降格という事にもなりかねない。

 

 故にヴァルが美紗の置かれた不審な状況に疑念を抱けば、その矛先は当然“上”に向う。

 

 元老院、大貴族。

 

 これらの者達のパワーゲームで捜査が止められる事も多いのだから、当然と言えば当然だろう。

 

 だからこそ、最後に思い浮かべた相手をヴァルはかなり怪しいと踏んでいた。

 

 大貴族を超える名門中の名門。

 

 【赤鬼(ラルヴァ)】の家の長女。

 

 そう紹介された連続怪奇殺人事件の外部顧問(アドバイザー)。

 

 まだ歳若い豊満(グラマラス)な姿態の赤鬼はエンシェン・イル・フォイルと言った。

 

 署長からは事件の情報を全て上げるよう言われているが、現場総出で“部外者”の干渉を嫌った結果。

 

 情報は全て魔術で相手へ流す事が決められた。

 

 事件概要が勝手に上がる以上は現場に素人、あるいは“事件の監視役”を置く必要はない。

 

 という事でお引取り願ったのである。

 

 豪快な赤鬼の気質を体現したかの如き女は「大いに結構!!」と呵呵大笑(かかたいしょう)して彼らの前から姿を消した。

 

(オレ達の監視が目的だったのか。事件の監視が目的だったのか。どちらにしても、何か知ってるとオレの勘は囁いてる……この連続怪奇殺人に被害者らしき者が見え隠れし始めた以上、これから“上”の動きも慌しくなってくだろうな……)

 

 一日寝ずにいたヴァルはそろそろ半日の睡眠と休憩に入る頃だと部署の壁に掛かる時計を見上げた。

 

「ヴァルさん。チーッス」

 

 入ってきたのはヴァルと同じ【獣人】の若い同僚達だった。

 

 制服はパリッと糊が利いており、出してきたばかりの香りを漂わせている。

 

「おう。オレはこれから寝る時間だ。お前らちゃんとやれよ?」

 

「へいへい。分かってますよ。あ、そういや聞きました?」

 

「何がだ?」

 

「さっき、赤鬼女が来てたらしいっすよ」

 

「何? そりゃいつだ」

 

「つい十分程前だったかな。下の子が話してました」

 

「ちょっと詳しく聞かせろ。何であの大貴族様が此処に来る必要があったんだ」

 

「いや、何か一般の部署で事件の問い合わせをしてたみたいっす」

 

「事件? 何のだ? あの女は連続怪奇殺人の為だけに此処へ来たはずだろう」

 

「そんな事言われても……ただ、受付の子に聞いたら、水道とか何とか言ってましたよ」

 

「水道? この間の取り逃がした件か?」

 

「いえ、何だったかな。機関が壊されたとか何とか」

 

 ヴァルはそれを聞いて自分の荷物をまとめた。

 

 と言っても制服の上に灰色の外套(コート)を纏っただけだ。

 

「何処に行くんすか?」

 

「ちょっとした野暮用だ。オレの勘が囁いてんのさ」

 

「はぁ、いいですけど。もう赤鬼女出て行っちゃってますよ?」

 

「構わん。一日徹夜しただけでオレの鼻が馬鹿になってなきゃ追いつけるさ」

 

「そういうところは尊敬しますけど、昇進とは無縁なんだよなぁ。ヴァルさんて」

 

「ほっとけ、余計なお世話だ。もし、オレが定時に来なかったら、事件現場を回ってますって言っとけよ?」

 

「はいはい。じゃあ、言ってらっしゃいませ。我らが隊長様」

 

「言ってろ」

 

 ヴァルは急いで大部屋を出た。

 

 その足で受付へと行き、エンシェンの確認した事件の内容を聞き出し、その事件の担当者を捕まえて必要な資料を出させ、署から殆ど駆け足で飛び出す。

 

 ここまでがざっと十分の出来事である。

 

 警察機構の内部関係を知悉(ちしつ)した彼だからこその早業だ。

 

 おかげで担当の刑事達には後で高い店を奢る羽目となったが、それもまぁ彼の日常の一部である。

 

 ハガス中央にある署から現場の北西部までは徒歩で二時間以上。

 

 目的地は地下大水槽。

 

(ここからだとざっと……二十分てとこか)

 

 亜人の脚力と被疑者を押さえる為に鍛えた熟練の足腰は移動時間をかなり短縮する。

 

 労働者階級が北部の重工業地帯へと向う道には夜勤に向う者達と常勤で今帰る者達が交差していた。

 

 人々の上。

 

 建造物の屋根を魔力を込めた足で蹴り飛ばしながらの疾走。

 

 夜霧で空を見上げる者が無ければ発見する事も困難だろう。

 

 姿見やる者があれば、アレはなんだと尋常ならざる速度の影に怯えを隠せないはずだ。

 

(今日は濃いな)

 

 次々に高速で流れ去っていく景色の果て。

 

 走っても走っても霧ばかりの都市をヴァルは最短で走破した。

 

 地下水道の迷宮が最終的に行き着く場所がようやく見えてくる。

 

 ドスンと地面に降り立ったのは事件概要の資料を頭の中に叩き込み終えたのと同時。

 

「到着っと」

 

 疎らな樹木が生える都市郊外はハガスの昔の姿を今に伝える一角だ。

 

 五年前より以前。

 

 水こそ何とか汲み上げていたが、首都の周囲は衰えた土地ばかりで食い物は殆どが地方に頼り、少し郊外に出れば樹木も少なく実りは期待出来ない場所が広がっていた。

 

 それが今や都市の民にとって過去の出来事になったのは無機質な大規模建造物が森林奥に鎮座している姿からも容易に分かろうというものだろう。

 

 水道管理局の点検用資材置き場兼管理業務用の倉庫。

 

 ハガス全域の水道管理を一手に引き受ける水生生物系亜人達の巣。

 

 もう今日の業務は終わっているのか。

 

 建物は灯りも消えて静まり返っていた。

 

(まだ、来てねぇようだな)

 

 ヴァルの瞳には探査用の魔術が奔っており、周囲の状況を事細かに分析した数値が表示されている。

 

 施設周囲には防犯用の魔術中核が複数樹木に埋め込まれて点在しており、魔力の波を放って動物や侵入者が無いかを記録していた。

 

(周辺にあの赤鬼特有の魔力痕も無い。大貴族なら転移の符なんて使い放題だろうに……徒歩か?)

 

 最初こそ匂いを辿ろうとしていたヴァルだったが、途中で行き先を目的地への最短ルートに変更したのは単に転移や自走車両等の大貴族御用達の移動手段があると気付いたからだ。

 

 しかし、どうやら先んじて目的地へと辿り着いたようだと感じたヴァルはジッと茂みの中で息を潜める。

 

 彼ら警察機構の捜査は基本的に足を使うものばかりだが、張り込みで待つのも仕事の内だ。

 

 最短で半日。

 

 最長で数ヶ月以上。

 

 延々と監視任務での忍耐を試される事もある。

 

 当てが外れていなければ、必ず来ると踏んだヴァルの予想理由は二つ。

 

 一つはエンシェンが微妙に急いでいたと水道局の事件担当が言っていた事。

 

 もう一つは目的地の場所をワザワザ地図で確認し、水道局の閉まる時間を聞いていた事。

 

 正に何か用があって今から確認しに行きますと言わんばかりの行動だ。

 

 少なくとも数時間以内。

 

 長くとも数日以内には来るだろうとヴァルは踏んでいた。

 

 それから一時間も経った頃だろうか。

 

 閑散とした森林の中に足音が二つ近付いてくるのを彼の耳が捉える。

 

(来やがったな。もう一人は……従者か?)

 

 一度聞いた足音を忘れない脳裏にはエンシェンの靴音がしっかり残っている。

 

 聞き間違えるはずがない。

 

 これからかなり後方を追跡していってもバレないし、見失わないだろう。

 

 ただ、付けようとする相手に同伴者がいるとなると少し慎重にならざるを得ない。

 

『此処?』

 

『ああ、水道局の本部はハガスの東部にある。此処は管理の為に置かれた支部の一つらしい。少し待っていてくれ。今から開ける』

 

 闇の中でも相手を見通す瞳が見たのはエンシェンと彼女に付き従う少年。

 

 何やら二人ともが学生服を着ている様子にヴァルは目を細めた。

 

(あれは美紗の通ってるアルヴァス・カレッジの制服じゃねぇか……)

 

 怪しい。

 

 相棒が近頃音信不通なのはまさか赤鬼女と関係があるのだろうかと勘ぐったヴァルは同伴者である少年の顔を記憶した。

 

 カチリ。

 

 そんな鍵の外れる音がして。

 

 建造物の裏口。

 

 鋼の扉が重く開く。

 

『此処から地下水道に入る。四層下に降れば、そこから1km先が目的地だ。今は誰も気味悪がって近付いていないらしい。水道局は出来る限り、この件を隠蔽したがっていたようだが、要らぬ時間稼ぎをしてくれたものだ……』

 

 水道局の上層部と折衝でもしてきたのか。

 

 フゥッとエンシェンが溜息を吐く。

 

『そんなに大変だった?』

 

『このエンシェン。貴族に生まれて良かったと思える事は多いが、貴族で無ければと臍(ほぞ)を噛んだ数もまた多い……』

 

『あんまり詳しくは聞かないけど、他にも誰か行方不明者とか出てたりする?』

 

『ああ、既に行方不明者が作業員達にも出ている。まだ、表沙汰にはなっていないようだがな』

 

『……ちなみにインフラとか壊しちゃっても?』

 

『構わん。何が巣食っているか分からないのでは使いようも無い。あの堅物が囚われるような実力だとすれば、多少の被害は目を瞑る』

 

 頷いた少年がエンシェンと連れ立って開いた扉の中へと消えていった。

 

(何だ? 隠蔽? 行方不明者? まさか、連続する失踪者とも関連してるのか? なら、霧とも……それより“巣食ってる”てのは……何か事件を起こしてる原因を特定しつつあるのか……あの赤鬼女…やっぱり情報を隠してやがったな……)

 

 二人の気配が遠ざかるのを待ってヴァルも扉へと向った。

 

 *

 

 地下水道の迷宮には基本的に色々なものが流れ着く。

 

 塵は勿論の事。

 

 捨てられた魚だの魔術具だの違法な魔術で創造された生物だの。

 

 その種類は多種多様だ。

 

 鼠達も住んでいるが、内壁を構成する建材が頑丈極まりない為、孔を開けたりはせず。

 

 あまり水の流れ込まない小さな配水管に巣を作っている。

 

 無論、其処は常闇の世界。

 

 作業点検を行う者達が来ない限り、魔術具が灯される事は無い。

 

 が、既に準備を済ませていたエンシェンは事も無げに管理者用の洋光(ランプ)を往く手に付けていく。

 

 二人の通った後は水道内は真昼ように明るかった。

 

 コツコツ。

 

 響く足音が反響するとまだ明かりの無い闇の奥行きが実感されて、少年は道程は長そうだと内心警戒度を引き上げる。

 

 と、言うのも目的地までの道程がほぼ一本道なせいだ。

 

 元々は作業員達が【崩燼機関】整備の為に使う直通路であるらしく。

 

 隠れられそうな場所や遮蔽物が全く無い。

 

 唯一身を潜められそうなのは途中から道に合流した下水の流れの一つだけだ。

 

 深さはそれ程無いとエンシェンは事前に伝えていたが、それにしても水という媒体がある時点で様々な状況が想定出来る。

 

 仮にも戦闘の玄人(プロ)に近い実力を持っていたウルが囚われるような相手だ。

 

 死んでいるにしても生きているにしても連れ出して逃げ出すまでが重要なのは明白。

 

 敵に背を向けて逃げ出す事になれば、遮蔽物の有無はかなり大きい。

 

 例え、相手をその場で倒す事になろうとも、場所は地下である。

 

 何があっても助けは期待出来ない。

 

 エンシェンにノコノコ付いて来た少年にしても誰に何かを言い残してきたりはしていないのだ。

 

 自分の強さを過信していないからこそ、何が来てもどうにか出来るという驕りとは無縁の思考で最善の一手を考えるのは当然。

 

 早くもどう逃げるか。

 

 その算段を脳裏で組み立て始めた少年は延々と続く下り道を見つめていた。

 

「一つ聞いていいか?」

 

「答えられる事であれば」

 

 エンシェンの言葉に即答しながら、それでも何一つ見逃さぬよう見る事は止めず。

 

「お前にとっての大切なものとは何だ? イクス」

 

「どうしてそんな事を?」

 

「昨日、実家に帰ってから自問自答してな。自分にとって大切なものを考えてみたのだ。貴族の誇り、我が家の名、己の武名、どれもこれも大切なものばかり。だが、それの為に戦った事はこのエンシェンもそう多くない。すると、お前の事が気になった。あんな条件を出すお前は一体どんな大切なものの為に戦っているのかと」

 

「僕にとっての大切なもの……」

 

「ああ、そうだ」

 

 少年は真っ直ぐに前を見据えながら、しばし沈黙して考えた。

 

「例えば、空気は大切だと思うかどうか。あるいは太陽を大切だと思うかどうか。そういうものの為って言ったら?」

 

「空気に太陽、か。確かに生存に不可欠かもしれないが、それは個人で“大切に出来る”ものなのか?」

 

 最もな指摘に少年が頷く。

 

「でも、僕の大切なものって言うのはそういうものかもしれない。家族と言える人々。友達、仲間、知り合い、誰もが必要としていて当たり前のようにあるもの。環境って言い換えてもいい、かな」

 

「環境か。七教会の広報のような事を言う」

 

 クツクツと赤鬼女は皮肉げな笑みを浮かべる。

 

「まるで愛国者だな」

 

「愛国者?」

 

「お前がもし軍事独裁国家の子供なら、このエンシェン。それで納得も出来ただろう。だが、お前の事を知らずとも、一つ確信している事がある。それはお前がこのエンシェンすら凌ぐ力を持ちながら“優しい”という事だ」

 

「優しい……」

 

「よくよく考えてみれば、大切なモノの為に戦わない者はいない。同時にそれ以外で戦おうとする者は少ない。誰も彼も戦う理由は己の大切なモノの為と言ってもいいだろう。だが、それにも優先順位というものがある。お前が言う大切なモノの基準は少なくとも絶対に譲れないモノと私には感じられた。だが、お前は環境が大切だとご高説を垂れている。この差は一体何だ?」

 

「それは……」

 

 少年が言われた事に対して言葉に迷う。

 

「いや、聞き方が不味かったのかもしれん。では、今一度問い直そう」

 

 こほんと咳払いをして。

 

 エンシェンが再度少年に訊ねる。

 

「お前にとって“守りたいもの”は何だ? イクス」

 

 苦笑しながら少年は決まり切った答えを脳裏に思い浮かべた。

 

「何が可笑しい?」

 

「他人に矛盾を指摘された事って無かったから」

 

「それで何故笑う?」

 

「僕は……今、この瞬間が大切だと、守りたいと思える。自分の傍に誰かがいてくれる。家族が、仲間が、友達が、知り合いが、大勢の人達が、僕をイクス・ゼオとして受け入れてくれる今が……」

 

「それで?」

 

「僕はそれを環境と言った。でも、少し誤謬(ごびゅう)があったかもしれない」

 

「誤謬とは?」

 

「きっと、ちゃんとした言葉に置き換えたら、これはきっと……“世界”……そう言うんだと思う」

 

「―――」

 

 エンシェンが目を見開いた。

 

「……世界、か。はは、まさかそう来るとは……このエンシェンもさすがに思わなかったぞ」

 

「何か可笑しい事言ったかな?」

 

 不思議そうに訊ねる少年に赤鬼の女はフッと笑む。

 

「本当に七教会の手先ではないかと疑いたいところだが、世の中にそういう奴が一人くらい居てもいい」

 

「?」

 

「何、そう大した事じゃない。お前はきっと神様よりも神様みたいなやつだって事だ。イクス」

 

「そう?」

 

「ああ、このエンシェンが保障しよう」

 

 二人のやり取りがそこで止まったのは今まで付いていた明かりが突如として消えたから。

 

 周囲が一瞬で闇に落ちた最中。

 

 遥か遠方から何かが迫ってくる。

 

 水音に足音。

 

 スゥッと坑道内部に冷たいものが流れ込んでいく。

 

(まさか、これは……霧?)

 

 少年はいきなりの事に驚く。

 

「ほぅ。あの“化物共”に似ているが、今度は“何の文字”やら」

 

「―――近付いてきてるのが何か知ってるの?」

 

「そういうお前こそ、何やら知っていそうな顔だぞ? イクス」

 

「まぁ、色々と」

 

「そうか。こちらも同じだ」

 

 二人が互いに顔を見合わせる。

 

「話は後にしよう。そろそろ来る」

 

「……うん」

 

 サッと背中合わせになった即席タッグが片や魔力に満ちた拳を、片や残り少ない剣を、構える。

 

「さぁ、あの真面目一本槍を打ち負かした力。見せてもらおうか!!」

 

 周囲に赤く灯る無数の瞳。

 

 水音に忍ぶ者達が姿を現した時、戦いは始まった。

 

 水掻きや鰓持つ青黒い肉体。

 

 仮面の中央にはただ一文。

 

【隠遁者(クラウストラリス)】とあった。

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