※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第三章十七節★

第三章十七節「明暗」

 

 暗黒の地下水道。

 

 今や赤い光点で埋め尽くされた一帯に乱舞するのは拳。

 

 その特異な魔力運用形態を身の危険から穏行のまま遥か後方で見ていたヴァルは信じられないような心地でいた。

 

 暗闇でもハッキリと移る赤鬼の魔力痕は魔術が奔る瞳には紅く映る。

 

 ソレは一種の膜として周辺の空間を占拠していた。

 

 エンシェンの攻撃は打撃という形を取っていながら、酷く打撃とは異なる効果を発現させている。

 

 魚人と思われる屍蝋の面を付けた群勢。

 

 紅の光点を額に持つ青黒い肌の者達。

 

 これらで埋まる空間に伝播した魔力は術者の打撃に呼応して倍々の容量で増え、打撃によって押し遣られた仮面の魚人達を触れた端から“分解”していた。

 

 ボトボトと魚人達の肉体だったものが液体(ジュース)状になって霧へ溶けていく。

 

(ありゃぁ、概念魔力形質の類か? 何だ……増え方だけが別系統の魔力形質……なのか?)

 

 魔力を乗せた拳というのは常識的には魔力形質によって千差万別の攻撃となる事が多い。

 

 しかし、使われているのは大陸で最も普及する純粋波動魔力。

 

 だが、その魔力の劇的な増加は明らかに術者の肉体から出ているようなものではない。

 

 膜が打撃に巻き込まれ、魔力が急激に増加して、相手に接触して分解。

 

 触媒や手品を使っているような様子も見受けられない。

 

 打撃が増えるだけ魔力が高まり、やがては現実に光波を持つまでとなって周辺を染め上げていく。

 

 まるで歌劇舞台の緞帳(どんちょう)。

 

 厚く。

 

 熱く。

 

 膜は幾層にもなって最後には周辺の魚人達を隔離し、水道を覆う蓋のように折り重なった。

 

「フンッッッ!!!」

 

 今や紅い障壁に激突し、霧に溶けるだけの存在となった魚人達に向かって正拳が打ち込まれる。

 

 彼らとエンシェンを遮断した“幕”が水道の奥へと一瞬で通り抜けていく。

 

 光景は正に壮観。

 

 数十数百と蠢き、周囲を覆い尽す勢いで奥から溢れ出ていた魚人達の姿が一瞬で分解され、霧に同化して失われていった。

 

 その魔術よりも魔術的な光景を暗闇で遣って退けるのは果たして亜人という枠に収まる存在か。

 

 ヴァルは最悪、無力化するかもしれない相手の力量に顔を顰めた。

 

 明らかに自分より力量が上な相手に真正面から喧嘩を売るのは馬鹿のする事だ。

 

 彼の【崩燼武装(ソルヴァス・アームズ)】はもう修理から戻ってきているが、お忍びで尾行している者が持っているはずもない。

 

 一度出直すかと本気で考えたのも束の間。

 

 少年が下水の中から上がってくる。

 

 発見を警戒して虎男は思考を遮断して、石のように心音すら沈めて監視へ戻った。

 

『やはり、下の方は異相がズレていたか?』

 

『まぁ、物凄い沢山いてちょっと驚いたと言うか。どれだけいるのか想像したくないと言うか……」

 

 多少げんなりした顔で少年は片手に持っていた剣の水気を払う。

 

 服はまったく濡れていないらしく渇いたまま。

 

『……この先、かなり長くなるか……』

 

『今みたいなのは後三回くらいが限界だと思う。剣のストック的に』

 

『直接打撃もいけるだろう?』

 

『一応。ただ、得物が無いと色々と不便だから』

 

『人を拳で負かした者の言う事か?』

 

『勝負じゃなくて救出。それも学校と死地じゃ天地の差じゃない?』

 

『何処でも戦場と心得るのが我が家の家訓だ』

 

 少年が半笑いになる。

 

『では、次波が来る前に移動しよう。この程度であいつがやられるとは到底思えない。大物か。あるいはかなり特異なヤツがいると考えていい』

 

『それは同感だけど、もう遅いかな……』

 

『何?』

 

 言っている傍から暗闇の奥に紅い光点が見え始める。

 

『……面倒だ。このまま突破する』

 

『体力は大丈夫?』

 

『ああ』

 

『じゃあ、とりあえず場所の特定までは進んで。そこからもう一度どうするか決めるって事で』

 

『異存無い。では、往こうか!!』

 

 二人が次々に闇から現われる魚人達の群れへと突撃していく。

 

 その様子にヴァルは自分も行くのかと微妙に顔を強張らせながらも、己の矜持に掛けて事件の真実と解決の糸口を見つけるべく走り出した。

 

*

 

「【幸いなるかな】」

 

 初段誓言。

 

「【幸いなるかな】」

 

 次段誓言。

 

「【幸いなるかな】」

 

 三段誓言。

 

「【いと高きものに願い奉る】」

 

 奉信誓言。

 

「【我が眼前に欲するところを為したまえ】」

 

 祈願誓言。

 

「【憐れなる同胞を改めさせたまえ】」

 

 規唱誓言。

 

 教会に古くから伝わる法術の多くは数段に分かれる神への誓言を重ねて発動する。

 

 使用された誓言の数と種類、重ねた時間と訴える者の信心。

 

 これを持って万能たる唯一神から御力の一端を受けるのだ。

 

 今や神は無く。

 

 貸し与える者も無いはずの力。

 

 しかし、未だ存在する莫大過ぎる魔力溜り、神話性概念魔力が形作る大海の一滴が僅か現実に漏れれば、それはもはや奇蹟だ。

 

 暗黒の通路を疾走する鬼女と少年は拳で剣で往く手の【隠遁者】を退かしながら、軽く1kmを越えた道程も気にせず、少しずつ深くなっていく闇と霧の先へ向かっていた。

 

「【偽・聖典イグナフィア断章十二節】」

 

 少年の言葉が進むに連れて。

 

 二人を中心に燐光が舞い始める。

 

 教会の法術とは本来が七教会や旧教会に所属し、洗礼を受けた者でなければ発動しない代物。

 

 それを考えるなら、少年に使用は不可能なはずの代物。

 

 神への信仰心と正しい知識が精神に刻まれていなければ、形式上の不備で誓言は不履行。

 

 つまり、無為に語り掛け呼び出した神への冒涜から魔力の暴走、神罰が発生する。

 

 だが、そんな気配も見せず。

 

 少年の詠唱は続いた。

 

 法術にも色々と体系が存在する。

 

 従来の詠唱魔術方式は基本(スタンダード)の一つだ。

 

 神から力を借り受けてくる方式である以上、力を借りる相手を賛美するのは当然。

 

 しかし、大きく異端と言えるのは教会が認めていない偽伝の伝承を用いたところだろう。

 

「【彼らは朽ち果てたのではありません】」

 

 仮面の額。

 

「【貴方の御手の光に平伏したのです】」

 

 輝く赤い光が明滅した。

 

「【ああ、魔も正しき光に導かれん】」

 

 ビギビギビギビギビギッッッ。

 

「ぬ!?」

 

 エンシェンが倒しても倒しても湧いてくる魚人達の両手両足の異常に気付いた。

 

 強制的に折り曲げられているのか。

 

 骨の折れる音が連続する。

 

「重力か?」

 

 少年が首を横に振った。

 

「信仰心が無い者も聖人の往く手を阻む者は無いって逸話なんだけど」

 

「やはり、七教会の回し者かと疑いたくなるのだが?」

 

「教会の法術って実は裏技があって、偽伝の幾つかを使う場合は信仰心が要らないって知らない?」

 

「聞いた事もない……」

 

「教会の法術を扱う部門だと実は暗黙の了解みたいになってるとか。何でも神様が自分に服さない者にも等しく幸福はあるべきだっていう考えなんじゃないかって」

 

「なら今は世話になっておこうか。もし、此処を切り抜けられたなら、このエンシェン。教会に賽銭くらい投げよう」

 

 七教会と敵対しつつある国家の重鎮の長女。

 

 そんな己が教会の力に救われる皮肉を笑って。

 

 エンシェンは四方八方から群がってくる仮面達の折曲がる魔手を掻い潜った。

 

 上下左右無く。

 

 天井や壁すら駆けながら。

 

 豪腕が魚人達の頭や足や腕を抉り、霧に溶かしていく。

 

「気付いているか?」

 

「え、うん。何か、追ってきてる……」

 

 剣で真上から襲って来た敵を勢いのまま真っ二つに捌いて。

 

 足元から仲間達の折れ曲がった手足を積み上げるようにして跳躍した肉体を魚よろしく下ろし。

 

 何食わぬ顔で疾走へ戻った少年は息を切らした様子も無く頷いた。

 

「かなり強そうというか。あんまり狭い場所で戦いたくは……」

 

「同感だ」

 

 二人が一瞬だけ、自分達の横を奔る下水の流れを見た。

 

 次の瞬間。

 

 駆けてきた通路が爆砕する。

 

 捻じ曲がった牙が乱立する巨大な魚の口。

 

 そんなものが崩落する下水と通路を飲み込みながら追いかけてくる。

 

 明らかに口の大きさからして内部に入り切らない量の水や建材が尽きず口内へ雪崩れ込んでいる。

 

 その様子から察せられるのは内部が別の空間になっているか、または一瞬で消化されているか、という事だ。

 

「帰り道、どうにかなるかな……」

 

 少年達に遅れて数m。

 

 同胞らしき仮面の魚人までも喰らい尽くす化物の速度は速い。

 

 そのままなら往く手が行き止まりになった瞬間に内部へ取り込まれるのは確実。

 

 不死者と言えども溜息くらい吐きたくなる。

 

 死なないとしても化物の口の中で一暴れしたい願望なんて、少年は持ち合わせていない。

 

 鬼女ならば嬉々として笑い話の類にしそうだが、それにしても内部で生き残れたらの話である。

 

「やはり、異相の侵蝕で長くはなっているが、道は続いていると見ていい。このままならば、最初の予備貯水槽に到達する。貯水層と言っても都市の莫大な下水を溜め込む場だ。四方100mの舞台ならやりようくらいあるだろう」

 

「大水槽までは?」

 

「予備からすぐだと図面にはあったが、異相がかなり侵蝕しているとなると中枢がどうなっているかは未知数だ」

 

「じゃあ、まずは予備貯水槽でアレを迎え撃つって事でいい?」

 

「ああ」

 

 エンシェンが頷いた瞬間。

 

 巨大な口から何かが飛び出し、二人が互いに壁伝いに天井へと足場を移した。

 

 二人のいた場所を通過したのは人の頭程もあろうかという牙だった。

 

「本来ならば、全ての水槽が互いの機能や能力を補いつつ下水処理が行われる仕組みだが、大水槽の【崩燼機関(ソルヴァス・エンジン)】が停止してからかなり時間が経っている。予備も下水は満杯と見ていいだろう。油断するな」

 

 再び背後からの攻撃を見もせず。

 

 同時に通路の壁へ足場を移した二人は世間話でもしているようだ。

 

 だが、実際には今にも巨大な擂鉢状の大口に巻き込まれる寸前。

 

「見えてきたぞ!! あの出口の先だ!!」

 

 前方数十m先にぽっかりと道の終わりが見えていた。

 

 少しずつジリジリと狭められていた化物との距離がほぼ零に近くなった刹那。

 

 ゴッッッバッッッ!!!

 

 飛び出した二人は通路から外れて満杯になって溢れそうになっている下水へと飛び込んだ。

 

 それを追って。

 

 ようやく巨大な魚の全景が互いの視線に映る。

 

「明らかに体積がオカシイだろう!!」

 

 思わずエンシェンがツッコミを入れたのも無理はない。

 

 二人が駆け抜けてきた通路の二倍以上の巨躯。

 

 青黒い棘のある鱗と甲殻類のような複数の丸みを帯びた殻に鎧われた怪魚は直径で10m以上あった。

 

 通路を削った勢いを止められずに別の貯水層へ続く入り口に激突。

 

 ようやく止まったかに見えたが、ビッガァアンと壮絶に尾びれを壁に叩き付けて全身をほぼ真横に跳ねさせる。

 

 崩落する瓦礫と共に迫り来る巨躯。

 

 二人が慌てて潜ったのも無理からぬ話だろう。

 

 ドッボオオオオオオオオオオオオォォォォッ!!!!!

 

 水槽の中へとけたたましい音を立てて着水した怪魚が動き出す。

 

 だが、エンシェンも少年もそれどころではなかった。

 

 入った水槽には言うまでもなく赤い光点を輝かせる仮面を付けた魚人の群れ。

 

 更に怪魚の入った衝撃で掻き回された貯水槽内は複雑な濁流が荒れ狂う場となっていた。

 

(息はいいが、姿勢制御が!?)

 

 何とか魔力で己の安定性を確保しようとしたエンシェンの足をガッチリと掴まれる。

 

(引きずり込む気か?!!)

 

 足を振り払おうにも安定しない姿勢では無理な話。

 

 攻撃して何とか脱出しようとする前に真横からの一撃がエンシェンの全身を打った。

 

 強烈な一撃は怪魚の尾だ。

 

 赤鬼は生半可な打撃で傷を負うような肉体はしていない。

 

 が、強烈な一撃に気を削がれれば、引き摺りこまれるのは道理。

 

 エンシェンの瞳には怪魚相手に真正面から剣を振り被る少年が見えていた。

 

 剣が炎のような輝きを帯びて相似形(フラクタル)な格子模様を浮かび上がらせていく。

 

 同時に周囲が赤く染まった。

 

 彼女は微細な振動が水中を震わせている事に気付く。

 

(あれは……振動を溜め込めずにいるのか?!)

 

 すぐに少年の攻撃方法を看破し、同時に水中での魔力制御が甘くなっているのだと理解した彼女はようやく剣を握る腕に突き刺さった魚の鱗を見つける。

 

 巨大な鉈の如き鋭さを持ったソレはビキビキと赤黒く鼓動して、腕内部に食い込み侵蝕していた。

 

『……ッ』

 

 限界まで剣が背後に反らされる。

 

 反動で放たれるだろう斬撃。

 

 肉体を裂かれる前ならと怪魚が前へ出た。

 

 慌てる事も無く。

 

 力が失われていく片腕も気にせず。

 

 少年が剣を振った。

 

 剣から魔力刃が噴出し、30m以上にまで長大化する。

 

 ギャリギャリと実体を伴うまでに顕現した魔力の置換先と構成は光波が三割、運動エネルギーが三割、熱量が三割。

 

 だが、怪魚は突撃の姿勢を崩さず。

 

 その薄い光の刃を真っ向から受けて立つ。

 

 ギガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ。

 

 異音。

 

 光の刃は分厚い装甲を切り裂けず。

 

 されど、まるで鎖のように撓(しな)ると怪魚の体を縛り上げ、振り下げた方向へと勢いのまま方向転換させる。

 

(面白い!!!)

 

 何をしようとしているのか悟ったエンシェンが足元も定まらぬまま。

 

 己目掛けて落ちてくる怪魚にギラリと視線を向けた。

 

 【赤鬼(ラルヴァ)】は人型でありながら、神格を有する者までも排出してきた名門。

 

 その末とはいえ、未だ血統の力は衰えず。

 

 本能と膂力の赴くままに闘志を燃やせば、如何なるモノも粉砕必至。

 

 例え、それが遥か天空から落ちてくる岩塊だろうと、魚の形をした怪異だろうと。

 

 その破壊対象に向けられる意思を感じて震えないものは無いだろう。

 

 怪魚も例に漏れず。

 

 自分が突き進む先で引きずりこまれながらも拳を構えた小さな者からの先触れを敏感に感じ取っていた。

 

 ゆらりとエンシェンの角から真紅の光が水中に漏れる。

 

 それは水道突入時の戦闘でヴァルが見た魔力の輝き。

 

『往くぞ。我が家の家訓を教えてくれる』

 

 水圧既に40気圧。

 

 異相侵蝕で深さも知れない水底へと引き込まれている者の言葉では無かった。

 

 圧倒的な圧力は逆に水に掛かっている。

 

 引き込んでいた魚人達がペシャッと呆気ない音を立てて“魔力が周辺の水を押す圧力”に潰れた。

 

 水面で浮かんでいた少年は急激に貯水層の水が溢れていく光景にもう一度戦いたくはないなぁと内心溜息を吐く。

 

 本気を出される前に即行でケリを付けた前日とは違い。

 

 今一度戦えば、コレが自分の身を襲うのは確定だと理解していたからだ。

 

『一つ。周囲の事など気にするな。二つ。味方は遠くに置いておけ。三つ』

 

 もう激突寸前。

 

 怪魚はガバリと口を開け。

 

『壊しがいのあるものとは……存分に遊べ』

 

 その小さな小さな自分の十分の一にも満たない人型を前に止まった。

 

 いや、止まったというよりは押し戻された。

 

 ただの魔力にだ。

 

 純粋波動魔力。

 

 大陸で最も活用される魔力形質の一つ。

 

 それを叩き付けられるでもなく。

 

 運用するでもなく。

 

 単純に圧力のみで勢いを殺された。

 

 怪魚が見たのは水中を歩く鬼の姿。

 

 その肉体はもう衣服を纏っていない。

 

 ただ、それよりも異様なのは肉体の動きだ。

 

 ボンボンボン。

 

 水中に木霊する爆発のような音。

 

 それがエンシェンの一糸纏わぬ肉体の各所から聞こえてくる音だと怪魚は理解した。

 

 そして、その音が激しくなるに連れて魔力の輝きが増していく事も……。

 

 もう魔力の圧力で身動きも取れない巨躯の端。

 

 上唇が両手で掴まれた。

 

『お前は何分、このエンシェンを愉しませてくれる? 名も無き魚よ』

 

 恐怖。

 

 感情というものがあったなら、怪魚は絶叫していただろう。

 

 だが、微動だにしない肉体がミシミシと悲鳴を上げる。

 

 鉄の丸太かと思われるような硬度の唇が僅かに裂けた。

 

『脆い。脆いなぁ。本当にお前は敵か? この赤鬼の敵になってくれるのか? なぁ?』

 

 呼び掛ける間も入った亀裂が両手の動きに反って拡大していく。

 

 嗤う鬼女は陶酔し切りだ。

 

 何故か?

 

 こんなにも自分を晒して何かを壊せるなんて中々にして無い機会だからだ。

 

 魔族出の性か。

 

 やはり、何かを壊している時が彼女にとって最も幸せな時間だった。

 

 ボグン。

 

 ついに周辺に満ちる真紅の魔力圧に耐え切れず。

 

 怪魚の肉体の一部が内部へと凹んだ。

 

 一度構造が屈したら、後はもう何をせずとも連続して内側への圧縮が怪魚の肉体を襲っていく。

 

『ダメだな。まるでダメだ。だが、一時愉しませてくれた礼だ。受け取れ』

 

 ピンッ。

 

 軽く軽く。

 

 まるで友達の間でじゃれ合うような強さで。

 

 人差し指が弾かれ、魚の唇を弾いた。

 

 巨大な陥没。

 

 顔を内側に潜り込ませた怪魚は己の肉体が人差し指に弾かれた部分から裏返るように自らへ穿孔するのも知覚せず、絶命した。

 

 だが、肉体が水に融けても怪魚に与えられた運動エネルギーは衰えず。

 

 周辺の水を加速する。

 

 ゴッ。

 

 エンシェンの手前から水が急激に上昇した。

 

「!?」

 

 上で待っていた少年は下での異変を即座に感じて貯水槽の端。

 

 管理用の足場へと慌てて飛び移る。

 

 直後。

 

 下水が天井に向けて動く。

 

 比喩でも何でもなく。

 

 全ての下水が天井へと舞い上がり、激突。

 

 怪魚のせいで脆くなっていた内壁を破壊して、何mあるかも分からない地上まで突き破っていく。

 

「………」

 

 突き抜けた水の跡。

 

 ポタポタと外気と共に落ちてくる水滴が少年の顔を冷たく撫でた。

 

『お~~い』

 

 水の大半が無くなった貯水槽の底。

 

 無数いた魚人達も魔力の圧力に潰れ消えたのか。

 

 半身を下水に浸からせながら、引き上げてくれと全裸のエンシェンがアピールしていた。

 

 視線を逸らしつつ。

 

 どうしてこう自分の周りには物騒な女性陣が揃っているのだろうかと少年は顔を半笑いにさせる。

 

 結局、地下大水槽に直結する道は完全に崩落。

 

 二人は残った他の予備水槽への道を迂回して向かう事となった。

 

 少年の外套を貸された鬼女の姿は半ば“そういう行為(プレイ)”だと言われても言い訳できない有様で。

 

 こんな光景自分の周辺の女性陣には見せられないなぁと佳麗なる色男(ドンファン)イクス・ゼオは残りの剣の本数を数えた。

 

 二人は知らない。

 

 自分達を密かに付けて来ていた虎男が下水に塗れながら怪魚の通って崩落した道を命掛けで渡り切り、未だ監視を続けているという事実を。

 

 *

 

―――公領娼館【月兎亭】。

 

 奏璃紗の一日は基本的に朝早い。

 

 朝日が昇ってすぐに起床。

 

 近頃貰った個室でモゾモゾとブランケットを蹴散らす事に始まる。

 

 客に選ばれた【月兎亭】の娼婦は基本的に今までの下積み時代の義務を免除される慣習が存在しているのだが、生憎と選ばれた初日から“やらかした”彼女は罰(ペナルティー)という形で今までと同様の生活を送っていた。

 

 個室だけは貰えたものの。

 

 娼婦になる為、日々研鑽を積み女を磨く少女達へ混じって今日も朝から館の運営維持の雑務である。

 

 まずは館の掃除から。

 

 厳しく躾けられた少女達の姿は全て女給。

 

 勿論、璃紗も例に漏れない。

 

 薄い桃色の手袋をして。

 

 箒掛け、モップ掛け、埃掃除、窓際の空拭き。

 

 客の汚した絨毯の染み抜きやら、洗濯物の裏庭乾しやら、やる事は山の如しだ。

 

 それで一時間が潰れ、ようやくの食事となる。

 

 体の成長を維持管理するという名目で基本的に量は多くない。

 

 ただ、定期的にお茶や菓子を取る習慣も躾けられるのは貴族主義のアルヴァスだからこそのものかもしれない。

 

 無論、食べた後は歯磨きをして口内も清潔に保つ。

 

 それが終われば、家政学の授業を各大部屋で受け、先達達から午後までに性交のみならず、様々な客への対処方法、手練手管をも習うのである。

 

 昼食を取り、ようやく一息付けば、後は自由時間だが、街に出る事は許されていない。

 

 客商売である娼婦に恋心が付いては大変だという理由からだが、これこそ彼女達の最大の不満だろうか。

 

 基本的に随伴要員がいる時だけ、街へ買出しが許される少女達の脱走意欲は凄まじい。

 

 管理の仕事を一部請け負う現役の娼婦達もそれは自分も同じだったから、そう多くは言わない。

 

 ただ、客でもない男に恋をして辛くなるのは自分だと言う事だけは言い聞かせている。

 

 その為、自分達の身の置き所を知る少女達は素直に街で人に関わらないよう心掛け、極力一般人とは交わらないのが殆どだ。

 

 広大な敷地には湯殿、庭と言った基本的なものだけではなく多数の遊興施設が併設されている。

 

 物干し台を兼ねる屋上で歓楽街の街並みを眺める者も多いし、本が多数取り揃えられた小さな図書室を昼寝の場とする者も多い。

 

 アルヴァス屈指の娯楽施設という側面を持つ故の豊富さだろう。

 

 璃紗のお気に入りは中庭だ。

 

 図書室で本を読み耽るでもなく。

 

 屋上で風に吹かれるでもない。

 

 大昔の遺構でぼんやりと一日の復習をするのが彼女の日課だ。

 

 今日も今日とて倒れた柱の上に腰掛けて娼婦達のよく使う教科書(テキスト)。

 

 要は大昔から続く男女の機微を網羅した女傑達の自叙伝を図書室から借り出して。

 

 未だ高価である真っ白な紙の束に少女は内容を書き写していた。

 

「ん~」

 

 微妙に唸っているのはとある記述が彼女には気になったからだ。

 

 曰く。

 

 変な男は捕まえておけ。

 

 役に立つから。

 

 遥か数百年前の同性からの在り難いお言葉である。

 

 しかし、現在進行形で“変な少年”イクス・ゼオ専用の女であるところの璃紗にはピンと来なかった。

 

(イクスは変だけど“男”じゃなくて……何て言うか…友達とか…そういうのになりたいって言ってたし……)

 

 少年に選ばれてから、少年好みになろうと少女は努力していた。

 

 その一環が先日の可愛いフリルの多用された衣装であり、猫耳だったのだ。

 

(……イクスは間に嘘があるって言ってた……嘘って、璃紗が可愛く見せようとしてる事…なの……?)

 

 そのままの君でいいとか。

 

 ありのままの君でいてとか。

 

 歯に衣着せた口説き文句の類なら本で千遍出会った。

 

 しかし、少年が言っている事はそうではない。

 

 そうではないと、璃紗も何となく理解していた。

 

 だからこそ、娼婦ではない自分というものを想像出来ず困っている。

 

 捨てられた事。

 

 娼婦にならなければならない事。

 

 どれも【月兎亭】で暮らす者達には自明の事だ。

 

 幼くとも数年以上暮らした者でそれが理解出来ない者なんて一人もいない。

 

 娼婦というのが大陸的には職業であるのに対して、館内部での娼婦というのは生業だ。

 

 自分が生まれながらにしなければならない仕事。

 

 宿命と言い換えてもいい。

 

 誰から受け継ぐものでもないが、確かに娼婦達に育てられた彼女達は自分が男の性や満足の為に働くモノである事を年頃になれば承知している。

 

 それこそが異常。

 

 同じ年頃の少女達と彼女達の違いだろう。

 

 彼女達の中には自分が娼婦になるという事に疑いを持つ者は一切いない。

 

 そう教育された事を酷いとも思わない。

 

 本来ならば闇に葬られた人生である。

 

 永らえた代価が人生だと言うならば、それもまた彼女達には幸運。

 

 倫理という言葉とは程遠い場所かもしれないが、仲間達に囲まれて暮らす今だけが彼女達にとっての寄る辺であり、変えられない現実、変える必要もない真実なのだ。

 

 娼婦として育てられ、娼婦として生き、娼婦として死ぬ事を宿命付けられた彼女達は自らの運命を笑顔で受け入れている。

 

 であるからして。

 

 押し付けの“より善き人生”なんて必要とはしていない。

 

 教会の進める【近代化(レボリュション)】は女性の権利向上、男女平等を唱えるが、彼女達の生き方を前にしては戯言以下の妄言に成り下がる。

 

(イクス……昨日は来なかった……次はいつ来るの……はぁ……)

 

 ほんやりと璃紗は昨日の事のように少年との逢瀬を思い出す。

 

 可愛いと言ってくれた。

 

 お土産を持って来てくれた。

 

 沢山、楽しい話をした。

 

 湯殿で…初めて……自分から腰を振って、自分の意思で交わった。

 

 まだ幼い自分のすじに大きな少年自身がめり込んでくる感覚。

 

 襞を掻き分けて奥まで到達した感触。

 

 優しく体を掴まれた、抱き締められた熱さ。

 

 名前を呼ばれた嬉しさが今も璃紗の奥で息衝いている。

 

(早く来ればいいのに……)

 

 最後に気を失ってしまった自分をどうしたのか同僚で先輩の娼婦達から聞いた日はずっと恥しかった。

 

 あまりにも激しい行為で達してしまったからか。

 

 目覚めるまでの記憶がスッポリと抜け落ちていたのだ。

 

 少年が自分の下着を穿かせた下りまで聞いた璃紗の羞恥は想像を絶する。

 

 客に下着まで穿かせられて。

 

 尚且つ、寝台まで運ばれ、寝かせられた。

 

 まるで幼子だ。

 

 まだそういう歳から抜け切らない自分だとしても、もう一人前なのだと選ばれてから璃紗は思えるようになった。

 

 彼女にとって、最初こそ少年との出会いは波乱に満ちていたが、今では待ち焦がれるような感情すら抱いている。

 

 それを生暖かく見守る年嵩の娼婦達は「相手に恋をしたからだ」なんて野暮な事は言わない。

 

 娼婦として愛されるよう教育されても、彼女達は女であり、男にとっての異性だ。

 

 感情も在れば、気持ちよくもない行為へ溜息の代わりに喘ぎを漏らす女優でもある。

 

 それでも自分の人生とは違い。

 

 本当に恋して愛される娼婦がいるなら、彼女達にとっては夢のような話かもしれない。

 

 まだ小さな体で、ちょっとしか膨れていない蕾で、願うように男を待ち侘びる小さな淑女(レディ)。

 

 奏璃紗の姿は今まで育てて来た者達にも眩かった。

 

(イクス。もうご飯食べたかな……)

 

 教科書も閉じて。

 

 大空を仰ぐ少女の姿はもはや中庭の名物。

 

 大勢いる同年代の少女達はヒソヒソと噂し合っている。

 

 あれが凄く問題を起こしたが、凄く良い人に見初(みそ)められた少女か、と。

 

 自分が恵まれているとの自覚も無く。

 

 微妙に相手からの感情に対する面で鈍感な璃紗は少年との逢瀬を反芻してはフワフワした心地でいた。

 

 やがて、空が暮れ始めると中庭の人も少なくなっていく。

 

 跳ね乱れた髪が邪魔だとばかりに後ろへ撫で付けられた。

 

(そろそろ夕食食べに行かなきゃ……)

 

 少年の事は一先ず忘れて。

 

 まだ色気より食い気な少女はオズオズと自室へと教科書を置きに戻った。

 

 夕日が差し込む二階の角部屋。

 

 館の奥にある一室が璃紗の個室だ。

 

 質素ながらも装飾品と家具が年代物で統一された部屋。

 

 飴色の天蓋付きの寝台。

 

 そのよく弾む羽根(バネ)仕掛けの敷布(マットレス)の上で璃紗は一息付いた。

 

 夕食を取ろうという気力はあったのだが、物思いに耽ったせいか。

 

 幸せな感触を思い出させる寝台が急に恋しくなってしまったのだ。

 

 一先ず忘れたら、一先ず思い出してしまう失態である。

 

 寝台が恋しいというのも少し語弊がある。

 

 正確には寝台での行為が、だ。

 

(イクス……初めての時も優しかった……自分で達しないまま終わらせてくれた……今なら……お口でだってしてあげられるのに……)

 

 最初の日。

 

 縛られて目隠しをさらた自分を少年は優しく触った。

 

 触れて、舐めた。

 

 蕩けてしまうくらいに心地良い愛撫。

 

 薬のせいという事も勿論あっただろうが、少年の指の感触は未だ少女の性器や触れられた場所に残っている。

 

(イクス…怒ってなかった……サイカの言う通り……)

 

 娼館の主であるアンサルの家の長男。

 

 【賢兎(レポレム)】の少年サイカ。

 

 彼女にとって兄のような人は自分に出来た友人をこう評していた。

 

『彼は僕よりずっと優しいよ。そうだな。聖人みたいって言っても過言じゃない』

 

 他の娼婦達が坊ちゃんとかお坊ちゃまとかサイカ様と呼ぶ中で一人だけサイカと呼んでいる璃紗は唯一の友達と言っても過言では無い相手の嬉しそうな顔に衝撃を受けた。

 

 だって、そうだろう。

 

 初めて友達が出来たとか。

 

 初めて男同士の会話をしたとか。

 

 嬉しそうに初めて初めて連呼されて、自分は娼婦見習いだが友達と思っていた彼女にしてみれば、ムッとする事この上なかったのだ。

 

(今なら分かる。イクスがサイカに言われるような人だって事)

 

 娼婦から馬鹿にされて貴族が黙っているはずがない。

 

 普通なら怒るか抗議の声を上げるところだ。

 

 しかし、そんな素振りもせず。

 

 いや、それどころか馬鹿にした相手を選ぶような変人又はお人よし。

 

 璃紗にだって少しは分かる。

 

 彼女のした恐ろしい程の無礼は娼館でも例を見ない。

 

 そんな事をした自分が今も【月兎亭】で暮らせているのは間違いなく少年のおかげだと。

 

 あの選ばれてから寝台に裸で結ばれるまで。

 

 怒り心頭だったはずのベルンは、幼い娼婦見習い達にとって神にも等しき寮長は、冷たい表情をしていた。

 

 沢山言いたい事があったはずだが、言われた事の中で最も璃紗が心臓を鷲掴みにされた台詞は『此処にいられなくなったとしても、貴方は生きていけますか?』だった。

 

(きっと、イクス。全部分かって……それでも璃紗を助けてくれた……)

 

 後にサイカから直々に呼び出された彼女はいつも穏やかで多少の無礼も許してくれていた友達の表情を見て、本気で心臓が止まるかと思った。

 

 それ程に知らない顔をしていたのだ。

 

 何か哀しい決断を迫られるような顔だった。

 

 もし、一言。

 

 出て行けと言われれば、璃紗には頷く以外の選択肢が無い。

 

 でも、言われたのはそれよりも彼女の心臓を縮めるような言葉で。

 

『大切な、友達なんだよ。君と同じ』

 

 思わず泣いてしまいそうになった。

 

 璃紗が初めて己のした愚かな行為を恥じた時だった。

 

 もう、あんな事はしないと堅く約束して。

 

 少年と正面から向き合おうとしたのはその言葉が後押ししたからだ。

 

(楽しかった……サイカと話してる時よりずっと……)

 

 初めて、ちゃんと話した。

 

 通っている学校の事。

 

 楽しそうな話に思わず笑みが零れて。

 

 自分でも何がそんなに嬉しいのかも分からず。

 

 幸せな気持ちになった。

 

(イクスとだから? ぅん……きっと、そう……)

 

 お気に入りのヌイグルミを抱いて眠るより、友達であるサイカと話している時より、心地良い時が来るなんて、彼女にはちっとも知りようが無かった。

 

 湯殿で口付けされた時も言い表せぬものが胸を温かくして、胸が弾んだ。

 

(イクス……気持ちよくなってくれた……璃紗の此処で……)

 

 片手が腹部を撫でる。

 

 少年に初めて射精され、女として種付けされ、子宮を蹂躙された日。

 

 下着を穿かせていたところを見た娼婦達は腹が妊娠しているように膨れたところを見たと証言している。

 

 それが本当なら、それ程に心地良い場所だったのだと。

 

 少年にとって自分はそういう場所になれたのだと。

 

 璃紗は何処か誇らしい気持ちにすらなった。

 

 相手をご主人様として迎える事。

 

 自らの所有者として尊ぶ事。

 

 それは娼婦達に課せられた義務だ。

 

 だが、そんな堅苦しい言葉は少年との間に要らなかった。

 

 尊びたい人がいる。

 

 所有者であって欲しい人がいる。

 

 少年は璃紗にとって、そういう人になりつつある。

 

(イクス…イクス……)

 

 名前を内心で呼んで。

 

 夕闇の中で片手が腹部の下。

 

 下着の上に伸びる。

 

「ん…ふ…ぁ…」

 

 シーツで声を噛み殺しながら、本能の赴くまま。

 

 四つん這いになった璃紗は獣が交尾をする姿勢で自分のすじを上からなぞる。

 

 想像は妄想となって脳裏に少年を生み出した。

 

 次に来た時、何と言って交合(まぐわう)のか。

 

 もう少女の中では決まっているのだ。

 

 はしたなくおねだりをして。

 

 自分から四つん這いになって。

 

 少年にもう濡れて糸を引いた下着を見せつけながら脱いで。

 

 犯してくださいと頼むのだ。

 

 優しく触れてくれる少年は濡れたすじを指で弄って、舐めてすらくれる。

 

 尻を優しく撫で回されて、高ぶった幹をゆっくりと挿入されて。

 

 押し入ってくる少年はきっと大きくて堅くて熱くて。

 

 可愛いよと言ってくれる。

 

(イクス……に……一杯…一杯触って欲しい……傍にいて…全部終わった後も…朝におはようって言ってあげたい……)

 

 自分を包む優しくて細くしなやかな指を思い起こして。

 

 何度も何度も想像の中で少年に甘く甘く苛められる自分を想像して。

 

 少女は下着が完全に濡れて滑るようになっても、指で擦り上げるのを止めない。

 

 夕闇に迫る紫雲。

 

 窓から入ってくる橙色の光の中。

 

 翳る幼い媚態は牝として十分淫らだった。

 

(イクス…どうしたら…喜んでくれる…かな…)

 

 子種で孕ませてとせがむか。

 

 ずっとお仕えしますと傅くか。

 

 自分の秘所の内側まで見えるよう両手で開いて、一つになりたいと伝えるか。

 

 どれでも少年は優しく犯してくれると璃紗は思う。

 

 ただ、娼婦としてではなく。

 

 奏璃紗に会いに来ていると言ってしまうくらいだから、激しい行為よりも甘えた方が良いのかもしれず。

 

(イクスと此処で……抱き締められながら、い、いちゃいちゃ…する?)

 

 想像の中で少年は優しく少女を撫でる。

 

 可愛いよと囁きながら、甘えさせてくれる。

 

 指を絡ませ合ったり、きゅっと少し強く抱き締めたり、色々な事を話しながら、夜が来るまでそうして。

 

(暗くなったら…一杯…弄(まさぐ)られて…口付け…して……///)

 

 首筋に何度も唇の跡を付けられて。

 

(こ、擦りっこ、とか……な、名前だけ呼び合う、とか……こ、恋人ごっこ、とか……ぅぅ)

 

 まるで娼婦には似つかわしくない甘い行為の数々をふわふわと夢想しながら、指が的確に速度を上げていく。

 

 きゅんと胸と股間の奥に熱を感じて。

 

(イクス…イクス…り、璃紗のご主人様…璃紗のた、大切な…人…ふ、ぁぁ…き、きちゃ、きちゃう…い、いっちぅうよぉ……♡)

 

 喜びと悦びに彩られた顔がはしたなく蕩けた。

 

 もはや娼婦なんて言葉で誤魔化せない程に恋する乙女となった璃紗はビクビクと全身を震わせながら、ふやける程に擦っていた指を下着から離した。

 

「あ…ぅ……どうしよう…」

 

 今日取り替えたばかりのシーツには大きな染み。

 

 我に返れば、恥しさのあまり璃紗は転げ回りたい衝動に駆られた。

 

 その時だ。

 

 コンコンとノックがあったのは。

 

「ッッッ!?!!」

 

 ドキリと心臓が跳ねたのも束の間。

 

 慌ててブランケットで染みを覆って。

 

 濡れた下着のままで璃紗が返事をする。

 

「は、は~い。どちら様でしょうか?」

 

『璃紗。お話があります』

 

「べ、ベルン?!!」

 

 小さな頃からほぼ姉のように世話をしてくれた寮長。

 

 もはや母とすら言える相手を呼び捨てにするのは同年代でも幼い頃からサイカとの付き合いがあった璃紗だけだ。

 

『入りますよ?』

 

「は、はは、はい。ど、どうぞ」

 

 ガチャリとドアノブが回って女給姿の海洋性少女が璃紗の前までやってくる。

 

「……」

 

 微妙に注視されている現状に璃紗は思わず自分が慰めていた事を知られたのかと肝を冷やした。

 

 食事もせずに自慰に耽っていたなんて事が知られたら、叱られるのは確実。

 

 呆れられて罰則(ペナルティー)を追加されかねない。

 

「え、えっと。な、何か用、なの?」

 

 畏れ多くも月兎亭の生き字引にタメ口。

 

 普通の娼婦達なら慄いているに違いない。

 

 しかし、何処か静謐な瞳で少女を見ていたベルンは近付くとしゃがみ込んで視線を合わせた。

 

「璃紗。よく聞きなさい。いえ、聞いて」

 

「え、あ、ど、どうかしたの? ベルン」

 

 何故、言い直したのか分からず。

 

 驚いた璃紗が問い返す。

 

「いいから。もう貴方は立派とは言えないけれど、一人前の娼婦。相手を取って、自分を捧げる者。だから、これからは教えるものではなく。伝えるものとして話す事にしたの」

 

「ベ、ベルン?」

 

 まだ上手く飲み込めていない璃紗が恐る恐る名前を呼ぶ。

 

「璃紗。貴女の身請け先が決まったわ」

 

「え……」

 

 思わず少女が固まったのも無理は無い。

 

 【月兎亭】の娼婦が身請けされるのはかなり稀な事例(ケース)だからだ。

 

 それと言うのも全員が貴族の血筋を引いている事に起因する。

 

 例え、娼婦に堕ちようとも全員が全員血筋的には貴族なのだ。

 

 相手が例え資産家だろうと同じ貴族だろうと容易に血統の流出は認められない。

 

 身請けの条件が金のみというのが娼館界隈の掟だが、更に厳しい条件が【月兎亭】の身請けには必須だ。

 

 即ち。

 

 実家の許諾。

 

 見知らぬ他人に過ぎないとはいえ、自らを生んだ父母の許諾無しに彼女達は館を離れられない。

 

 その中でも璃紗は自分の血統が旧い大貴族であるという事は知っていた。

 

 殆ど身請けというのは在り得ない事態なのだ。

 

「今日、貴女の生家でご両親に許諾を得て来たのよ。後は先鋒の受け入れ準備が整えば、此処から出て行ってもらう事になるわ」

 

「な、何、言ってるの? ベ、ベルン。り、璃紗は…こ、此処で娼婦に…そ、それにイ、イクスだって!!?」

 

 思わず身を乗り出した璃紗をベルンが落ち着けるように両肩を掴んで止めた。

 

「大丈夫。貴女を身請けするのはイクス様の家。ゼオ家だから」

 

「え、あ、イ、イクスが璃紗を身請け、してくれたの? 嘘……」

 

 ストンと腰を寝台に下ろした少女は混乱した様子で何と反応していいのか分からない様子になる。

 

「これからもイクス様にはこの【月兎亭】をご利用して頂く事になる。でも、貴女の家は此処ではなくて。イクス様のいる場所になるの」

 

「そ、それじゃ…此処から本当に?」

 

「これからはイクス様の下でなら好きな時に外出が出来る。イクス様が許す限りの自由が貴女には与えられるわ。この館に暮らす誰もが願うものを貴女は手に入れられる」

 

「そう、なの?」

 

「ええ、だから、これは貴女に私が教える最後の教えよ。よく聞いて。璃紗」

 

 思わず頷いた少女の前でベルンは囁く。

 

「貴女が娼婦である限り、このアルヴァスでは結婚を許されない。イクス様が何処か外国に貴女を連れ立って行かない限りは。でも、それとは別に貴女は娼婦であるという自覚を忘れてはいけない。何故なら、イクス様には娼婦ではなく、本当の恋人や家族を得る権利があるのだから」

 

「本当の恋人……」

 

 璃紗の顔が何を言われているのか分からないという反応を示す。

 

「璃紗。娼婦を妻にする人間がどういう被害を受けるか。分かる?」

 

「ひ、被害?!」

 

「ええ、仕事が見付からない。親戚から縁を切られる。それだけならまだしも大陸の多くでは娼婦を家族に迎えた者は白い目で見られる事が圧倒的なの。貴女はイクス様にそういう目に合って欲しい?」

 

 ブンブンと首が横に振られる。

 

「なら、恋しても愛しても構わない。けれど、家族になってはダメよ。貴女は娼婦として身請けされた。例え、普通の生活が送れるようになっても、イクス様の人生に陰りを与えるようではいけない。大好きな人を不幸にしてまで貫きたいものが無いなら、貴女は娼婦としてイクス様に仕えなさい」

 

「………」

 

 まだ全てを上手く飲み込めてはいないのだろう少女の顔が迷いに歪んだ。

 

 どう表現すればいいのか。

 

 その気持ちを言い表せないに違いなかった。

 

 今にも泣き崩れそうな顔をベルンがそっと胸で覆い隠す。

 

「その気持ちを大切にして……璃紗……イクス様が誰かと結ばれても、誰かに恋しても、怨んだり、妬んだりしてはダメよ……ご主人様の幸せを、自分を救ってくれた人の想いを、忘れないで……」

 

 答えは無かった。

 

 それでいいとベルンは思う。

 

 代わりに流れた熱さを胸に感じながら、娼婦達を見続けてきた女はそっと幼い我が子のような頭を撫でる。

 

「家族に出来ない事。貴女にしか、身請けされた娼婦にしか出来ない事。それを見つけるの。私がこの館に全てを捧げると決めた時のように……」

 

 聞いてもいないだろう。

 

 涙で前なんか見えないだろう。

 

 だが、やがて雲は晴れると。

 

 例え、少し離れても大切な誰かとの絆は在るのだと。

 

 もう随分とアルヴァスの大地で亜人達の人生を見続けてきた女は全身で伝えるように璃紗を抱き締めた。

 

 日が沈んでいく。

 

 また今日も夜が来る。

 

 霧の出る夜が。

 

 だが、朝日もまた昇る。

 

 それこそが彼女の得た答えだ。

 

(どうかこの子の心が満たされますように……)

 

 不運に見舞われても歩いていく強さを幼い肉体から確かに感じて。

 

 悲恋の御伽噺。

 

 その代名詞たる亜人。

 

 人魚族の女は優しく子守唄を謳った。

 

 娼館に来たばかりの髪の毛だけがやたらと長い赤子をあやした時の如く。

 

 嘗て、二人の吟遊詩人が奏でた歌を。

 

 言葉にならない痛みは全て我が胸に置いていけとばかりに。

 

―――高き願いを胸にして。

 

―――笑い疵跡晒しつつ。

 

―――愛する者を守る為。

 

―――幾多戦う旅人よ。

 

―――永久の音色を語り継ごう。

 

―――捧ぐ彼方の御心へ。

 

―――いつか報いが在るように。

 

―――いつか終わりが来るように。

 

 重なった影が闇に消えて。

 

 “娼婦(ベルン)”と“娼婦(リーシャ)”は少しだけ微笑み合った。

 

 新たな門出はまだ少し先。

 

 それでも彼女は思わずにはいられない。

 

 終りの彼方まで幼き娼婦に幸在れと。

 

(あの日から、こんな“いつか”が来ると私は分かっていたのかもしれない……)

 

 初めて互いに顔を会わせた日。

 

 春の風に母恋しさの涙を拭って、抱いた。

 

 守らなければと小さな手を握り締めたのが昨日の事のようだった。

 

「璃紗……頑張るから……ベルン…」

 

「知ってる……貴女は私達の娘ですもの……璃紗……」

 

 今や女となった少女の前途は切なく。

 

 しかし、確かに沢山の祝福を受けて始まろうとしていた。

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