第三章十八節「闇と光の中で」
―――ハガス郊外独立国営線【轟栄号】第三客車。
『え~次の停車駅は~国立中央研究所~国立中央研究所~所用時間二十四分です』
アルヴァスという国家に限らず。
西部先進国の多くは中央諸国並みの発展速度で移動手段を開発し続けている。
列車と呼ばれる乗り物もその一つだ。
何処までも続く線路。
そして、動力機関を積んだ牽引車と客車から構成される一つの物体(オブジェクト)。
これを持って新しい大量輸送手段とするのは魔術による転移技術とその開発が七教会によってほぼ独占されている現状からだ。
空を往く航空戦艦が中央諸国に此処数年で貸与され始め、大陸に存在する全ての国家に真空を渡る事すら可能な【天蓋蒼星(メイズ)】行きの輸送艦が行き渡った今も事情は変わっていない。
高度過ぎる技術で製造された輸送艦の技術収得(リバースエンジニアリング)は大陸のあらゆる国家が匙を投げた難題であり、七教会の特許を迂回して同様の技術開発を行うのは無理だったのだ。
結局、今も大陸の殆どでは馬車が輸送手段の主流であり、必要な場合は転移を併用して大概の物資が流通する事となっている。
中央諸国ではそれも【電子噐械学(エレクトロニクス)】製の動力機関を使用した車両へとシフトしているというが、【近代化】以前の輸送手段は未だ大陸で根強く運用され続ける宿命だ。
積層魔力を機械の動力として使う中央諸国の工業力と他国の工業力は天地の差。
それに抗い得る国家は大陸に数国も存在しない。
その一つこそが西部の雄と讃えられるアルヴァスであり、重工業の大躍進政策は今も日々【近代化】の文化発展速度に追い付こうと日進月歩の技術革新を促している。
それでも未だ航空輸送手段の開発までは届かず。
南部の大帝国との技術提携に乗り出すかどうか、というのが今のアルヴァス元老院の大きな議題だ。
今も他国から見れば十分に羨ましい列車という輸送手段を持ちながら、亜人の国は更なる発展を望んでいた。
「ふふ、すぐにお父さんに合せてあげますからね~」
「だぁ♪」
「それにしても良かったわね。この列車のチケットが取れて。こんなに素晴らしい乗り物だったのね。列車って」
巨大な鉄の箱でありながら、アルヴァスの列車内部は基本的に典雅な空間として仕上がっている。
それもそのはず。
大規模な輸送手段である列車に人を乗せて運ぶというのは今のアルヴァスでは殆ど貴族階級の者だけが享受する特権だからだ。
大陸中央諸国の客車が客に配慮した機能的で近代的なスタイルなのに対し、大別される南部の大帝国が要する列車は人々をギュウギュウに押し込む【怪物(ディムバール)】と言われる。
しかし、輸送手段として優雅に貴族的にという注文が付くアルヴァスの列車はこれらとも違い、その通り名は走るインテリア、または走るアンティーク、である。
百年ものの住宅から採用された飴色の木材。
格式と古さを備える魔術具の温かな灯り。
置かれた客席は全てソファー形式で横には客車一つに付き二人の乗務員が同乗している。
何か注文があれば、どんな事も大抵は叶えられるだろう。
乗り物というよりは一種の宿泊施設(ホテル)と言った方が正しい。
実際、夜が更ければ別の客車にある個室を使用する事が出来る。
そろそろ客車の中も洋光(ランプ)の光が必要な時間帯だった。
「お飲み物は如何ですか?」
「ええ」
今日の客席は満員。
と言っても一車両に合計で八人切りだ。
【獣人(ベスティア)】の赤子とその母親。
長い黒髪をした人間の女。
同じく両腕の無い人間の老人。
それから女と老人の従者らしい黒い礼服(スーツ)の者が二人ずつ。
六人の人間達の胸には札が付けられていて名誉亜人である事が窺える。
「こちらにも紅茶を」
老人の付き添いが乗務員に砂糖たっぷりの紅茶を頼んだ。
「ぉお、珍しいものを読んでいますな。お嬢さん」
向いにいる黒髪の女にそう声を掛けた老人は如何にも育ちの良さそうな顔で話し掛けた。
その理由なんて一つだろう。
単に彼女が美人だったからだ。
「お分かりになりますか? この本が」
大衆に書物が行き渡るようになってきた昨今。
大陸中央で執筆される本の数は爆発的に増加している。
老人が読むには先鋭的過ぎるものを見ていた黒髪の女にしてみれば、十分驚くに値する出来事だろう。
「はは、この歳で読み物が俄然面白くなってきまして」
「それはいい事です。どんな歳になっても学ぶ事が面白ければ生き甲斐というのは多い」
「お若いのにご立派な心意気をお持ちですな」
「いえ」
黒髪の女が和やかに笑えば、老人も微笑みを浮かべる。
「三巻ですか? 五巻まで読んだはいいが、実は仕事で家に置きっ放しで。早く続きがのんびりと読みたいものだが、中々これが上手くいかない」
「五巻まで? では、少し教えて頂きたいのですが、ご老人。この作者が言っている“全ては実現される可能性を否定出来ない”という言葉はどうお捉えになっていますか? 実は昔から学業が苦手で」
「はは、そう謙遜なさらず。この老骨なりの見解で良ければお聞かせしましょう」
「是非に」
「これは人生経験と言うよりは私の武器から学んだ事なのですが、この世界の規定というのは最初から幾分決まっていて、内包される諸法則自体も変更出切る限度というものがある。ですが、我々のような認知を可能とする意識が指す“世界”はその規定内では幾らでも変質してしまう。つまり、可能性が否定出来ないとは全てが変更可能な要素であるという事を示していると思っていいでしょう」
「全てが変更可能、ですか?」
「例えば……ふむ……もし、七教会など無く。神や魔術や異種や亜人も存在せず。大陸が幾つもあって、無数の人間だけが争い栄える世界。そういうものが実現可能だと思いますか?」
「時間を掛ければ、可能かもしれません」
「よろしい。では、それが一瞬の内に可能であると思われますか?」
老人の問いに女は少しだけ考えて顔を上げる。
「様々なものを無視すれば、可能な力はあるかもしれません」
「やはり、聡明ですな。お嬢さん」
老人が頷く。
「この星に住まう全ての者を無視して、今まで積み上げて来た歴史や情報の一切合切を無視すれば、そう出来る可能性は無くも無い。この作者はそういうものがあるとは真に理解していないかもしれないが、そういうものが有り得るという事自体は疑っていない。このファルティオーナにはこの老骨が知る限り、【万能】というものも幾つか存在する。そうである以上はまったく別の世界を一から“在った事にする”程度は可能性の内でしょう」
女が一頁を捲った。
「在り得た世界を見せられた事はありますか? お嬢さん」
「在り得た世界?」
「ええ、戦場ではよく魔術師達が占術や精神干渉系の魔術で互いに牽制していた。昔、一度とてもよく出来た術に掛かった事がある。その見せられた世界には私というものが無かった。いや、そもそも私がいた国も私が守った民も無かった。争いは世界各地で起きているのに大陸中央諸国のような先進国だけは平和そのもので。幾度の大戦の果てに兵器だけが洗練されていく。そんな世界だが、そこには確かに戦場の者達が望んでいた幸せがあった」
「それはどのような……」
「現実に倦むだけの理想があり、事実に絶望出来るだけの余力があり、希望を持てるだけの社会があり、戦争を語るだけの平和があり、己の国を守れるだけの怠惰を貪れる。そういう類のものです」
「それはまた随分と……」
女が思わず瞳を老人に向けた。
「私はそこで普通の老人として暮らしてみたいと思った。いやさ、暮らすというよりはボケ老人になって、若者に目一杯迷惑を掛けながら死んでいけたらとすら願った」
老人は未だ憧れているような響きでその幻想を語る。
「今より少しはマシだろうと。そう思える世界が若い頃は心地良くすらあったのです」
何処か懐かしむ言葉が老人の瞳にはある。
「その世界は我らの世界と比べても残酷さはそう変わらない。妊婦を蹴り殺して赤子を引きずり出し惨たらしく殺す輩や珍しい肌の者の肉を喰らう為、手足を削り落とす輩。そのような者もいた。おぞましさで言えば、魔術の贄に手ずから育てた我が子を拷問して殺す術師と大差無い。ですが、人々は混沌の中でも不幸のどん底でも本当の地獄は見なかった」
「……」
「愛する我が子を手に掛けて、微笑みを浮かべさせられる者はいなかった」
嘗て、魔王と呼ばれた者の中には人の絶望を喰らう為に半端な洗脳で殺戮を行わせる者がいたと言う。
「自分の親の臓物を食らわせて、己の手足すら喰らわせる宗教は無かった」
魔術師の興した狂気の新興宗教が民を蹂躙する事など嘗ての大陸ではよくある話だった。
「無限に己の赤子を蹂躙し続けるよう呪われた母も、自らの頭を啜って幸福を得る廃人も無かった」
厄神の呪い、狂気の麻薬、それらは実際大陸で猛威を振るったものの一つだ。
「あの世界には沢山のものが無かった。ですが、“無い事こそが幸福である”事が私には理解出来てしまった。本当の実体ある神が無ければ、人は真に人間以外からは理不尽な行為を強制される事も無い。魔術が無ければ、外道の道に外れる者は一国の民にも満たない。そも、大陸が一つでなければ、国家間の“殺し合い”は日常的に発生しない」
奴隷制度が存在する理由の大半は奴隷達の為であるという現実や理屈すら、大陸ではかなり“良心的”な方なのだ。
血道を洗う争いを国家間で幾千年続けて来た大陸に平和ボケな大陸中央諸国の民が生まれたのもつい最近の事に過ぎない。
「魂無き世界なら、絶望すら朽ち果てて尚蹂躙される事も無い」
祖先の霊。
大切な人の御霊。
そんなものが存在しないという事実は、神や魔、その他の者達に悪用されないという一点で大きな利点だろう。
「この老骨には……この大陸より“何も無い世界”の方がとても幸せそうに見えた」
数十年。
百年以上の寿命を持つ者達なら知っている事実の一つを挙げるとすれば、それは近頃の大陸が七教会のせいで今までに無い程、甘く甘く砂糖菓子を煮詰めたような甘ったるい化粧を施された事か。
嘗て、奴隷制度が無かった時代を知る長寿命の者達ならば、人間がどれ程に愛を囁きながら愚かだったかを昨日のように思い出せるだろう。
他国を責め滅ぼした国家がその国の民を殺戮し尽くすなんてまだいい方なのだ。
愛し合う者達で殺し合いをさせて愉しむ。
飼っていた獣の餌にする。
見知った者達の肉を食わせて生かす。
退廃と悪徳の限りを尽せば、吐き気のする悍しい行為は千差万別。
完全にただの家畜として“飼う”事もあれば、屠殺して食肉用に国中へ出回るようにした国もあった。
倫理感。
そのような言葉が大陸で浸透してきたのはつい二百年程前からの話。
悪しき民も善き民も存在しなかった。
それが当然のように人を利用し尽くすのが人であり、それが当然のように人を失望させるのもまた人だった。
これが同じ生き物に同じ生き物がする所業か。
知性在る亜人達や異種達は愛の魔法が解けてからも、そんな度重なる人間の業を見つめ続けて来ている。
亜人国家が受けた屈辱は人の国家が想像する万倍の残酷さに満ち満ちている。
「お嬢さん。第五巻の内容になるが、この作者は本の最後にこう記している。『人は何かを希求する事が無ければ、きっとこれ程に苦しまず、沢山の種族と幸せに暮らしていたはずだ』……と」
黒髪の女はしばし瞳を伏せていた。
老人の言葉が本当に的を射ているように聞こえたからだ。
欲求とは業。
それ無くして発展は無いが、それが無ければ人は洞穴に住んでいても幸せに暮らせていたかもしもしれない。
その言葉の意味が今とは大幅に違ってしまっているとしても、老人が語った罪業は確実に存在しなかっただろう。
「ご老人。私からも一ついいですか?」
「何かな? 若いお嬢さんからの言葉だ。どんなものでもこの老体、真摯に受け止めよう」
今までの重苦しい話が嘘のようにカラッと老人が笑う。
「私は彼方のように多くの人は見てこなかったかもしれない。でも、一つだけ確信している事があります」
「それは?」
「……きっと、人は残酷で醜悪で罪業に塗れている。でも、絶望を諦観を理不尽を目を覆いたくなるような悲哀を人はずっと黙って見ていられない。それはきっと正義や良心では無いでしょうが、“全ては実現される可能性を否定出来ない”のだとしたら、人にも見るべきところはある。可能性を否定されないよう己の中に一心(ひとこころ)持つならば、いつか悪夢から醒める日もやがて必ず来ると……そう信じたい。いや、信じられるのです」
老人は参ったとばかりに頭を掻く。
「いや、お恥しい。柄にもなく語ったからか。今更に己が恥しくなって来た。どうやら、お嬢さんの瞳は若者らしく前を向いているようだ。さっきの話は忘れてくだされば幸いだ。この老骨の戯言だと」
「いえ、有意義なお話でした。ただ、一つだけ」
「何かな?」
「今のこの世の中をどうお思いですか?」
「まだ多少苦いが甘くもあり、というところかな」
「……そうですか」
「付け加えるなら、少し色合いは良くないかも知れない。だが、それはこの老骨が意見するべき事でもない。全てはこれから生まれてくる若者が変えていくのだから」
二人が互いに苦笑した。
片や自分も年齢的には老人以上な聖女。
片や棺桶に片足を突っ込んでいる戦者。
どちらも真に世を変えてきた者達だが、どちらも自分を既にお役御免となるべきと感じている。
「あの」
「その」
両者が互いに名を尋ねようとした時だった。
突如として列車の扉が内側へと吹き飛ぶ。
「きゃっ!?」
母親が赤子を胸の内に抱き締めて庇い。
それと同時に覆面をした男達が雪崩れ込んで来た。
『この列車は我々が制圧した!! 七教会の高官を出せ!!!』
成りこそ粗末な外套と薄汚れた旅装束。
そんないでたちだったが、その手にあるのは大陸中央諸国でも珍しい軍用の最新小銃一式。
少なくとも並みのテロリストが揃えるには無理のある装備だった。
「「……はぁ」」
老人も女も同時に溜息を吐く。
母親だけが戦慄いた様子でギュッと赤子を抱えて身を縮こまらせていた。
「甘いですか?」
「ああ、甘い」
聞いたのは女で答えたのは老人だ。
即射殺。
生きたと見せかけて交渉、くらいの手際であったなら、“手緩い”と表現されていただろう。
「だが、どれほど甘くともあの苦過ぎる時代よりはいい。これでも結構な甘党でね」
「そうですか。それは良かった」
『おい!!? 何を喋ってる!!! 殺されたいか!!!』
「ひぃ!?」
母親だけが、その場でガタガタを震えていた。
赤子は最初の物音に吃驚しているらしく。
まだ、泣く気配も無い。
四人の同伴者達が動こうとしたものの自らの主に首を横に振られてピタリと止まった。
「お前さんらの探してる人間なら此処じゃよ?」
じゃ、なんて滅多に使わない言葉で演出しつつ。
老人が四人から成る覆面達の前に出て行く。
『こいつが……おい。名前は!!』
「ボケ老人と呼んでくれ。実は近頃持病の癪(しゃく)が酷くてなぁ。げほげほ(棒)」
ゴリリと老人の額に銃口が当てられた。
『いい度胸だな。オレは冗談が嫌いだ。姓名と役職を言え。次は容赦なく撃つ』
覆面の一人が銃越しに老人に告げる。
「ほぅほぅ。随分とお優しいテロリストさんじゃなぁ~♪」
マズルフラッシュが車内で漏れた。
銃弾が床下まで貫通しているのは誰の目に一目瞭然。
『次は無ぇぜ』
老人が柔和な笑みを浮かべた。
「お前さん達はホトホト良い子じゃなぁ。何せ赤子に銃口も向けず。何度も脅してまでくれる。それどころか。この老骨の足すら撃たなんだ。ああ、まったくもって世の中というのは変われば変わるもんじゃ~」
さすがの男達も片手の拳銃を老人に照準する。
『撃たねぇと思って舐めてんのか? ジジイ』
「いや、お前さんらの善良さに世界の移り変わりと素晴らしさを噛み締めただけじゃよ。昔、ワシが見た連中は赤子を大量に浚って身代金を要求した挙句。赤子は最初から皆殺し。それも水に沈めて魔術の生贄にしよった。無論、その魔術で街の自警団は皆殺し。残った女子供は全員奴隷にして辱めた後、敵国の奴隷商人に売り飛ばす有様。それに比べれば、何と優しいテロリストか。いやいや、皮肉じゃない。これは単なる賞賛じゃよ」
自分達のしている事を善人のようだと語る老人に男達は最初の気勢を削がれた。
それは単に老人が思い出話をしていると誰もが感じたからだ。
『おい。ジジイ。もう喋るな』
結局、撃たなかった覆面達に苦笑して。
老人はスッと片腕を上げた。
「?」
両腕の無い無力な老人。
そのはずだった男の無いはずの腕が上がった。
意味が分からないと覆面達は思っただろう。
だが、現実に老人の腕は上がったのだ。
無いはずのものが上がる。
無いはずのものが動く。
その矛盾。
その目に見えて明らかに現実と乖離した姿。
スゥッと老人の手が男達の前に差し出される。
「見えるか? この手が? お前さんらよりずっと罪深き手が」
『『『『?!!!!』』』』
体が動かなかった。
視線も動かなかった。
吸い付くように覆面達の瞳は老人の出した手を見つめる。
「これ戦場に赴く事4785回。抉り斬り刻み殴り下し殺した事14万2432人」
男達は動けない。
どうしたというのか。
指先の一つに至るまで動きはしない。
「抱いた女や使った椀の回数より槍を振り回した回数の方が多い。それがこの手だ。お前さんらが想像も付かんような邪悪と正義なんて下らぬものに使われた手だ」
カタカタと震え出す銃口にようやく。
本当にようやく覆面達は気付いた。
自分達が動けない理由。
いや、動かない理由を。
「止めておきなさい。こんな汚れた老骨の為に自分の一生を台無しにするのは。例え、どんな理由があるとしても、この老いさらばえた血肉を撃てば、万人殺すより穢れる事は必至。前途ある若人にそんな荷物を預けたく無い」
目の前の老人を殺せると。
脅せると。
屈服させられると。
そう彼らは信じられなくなっていた。
ボケ老人の言葉が信じられる。
否、信じられてしまうという現実。
肉体よりも心よりも先に腐臭を嗅ぎ分けた魂が近寄り難いと覆面達の手を止めていた。
「此処では何も無かった。それがお前さんらにとって最良の選択だ」
好々爺のような顔をした何かの背後に見え隠れする悍(おぞま)しい気配。
それが戦の中で磨きに磨いた死骨の気迫だと彼らは理解出来ない。
命は当に投げ捨てたもの。
戦場にて生き残り続ける者は須らく薄汚い。
生きた死者。
生きた骨。
己をそのようなものとして捉え使う戦者。
さて、それは死神か。
あるいは単なる業深き人か。
「ワシの手が槍に掛かる前なら、お前さんらに危害が加わる事は無かろう。武器を捨てて、命掛けで走り、今日の糧に感謝して、明日を夢見て眠れよ。若人(わこうど)」
響いた声は聖人にも引けを取らない。
人を惹き付け、人を導き、人を死地に追いやる。
だが、一つだけ違うのは聖人が殉教者だとすれば、老人は断罪者という事か。
何れ、己を裁く日まで。
大義の為に邪悪を為し、正義と呼ばれて罪を深める。
旧き戦者の亡霊は高々二十数年を漫然と生きただけの若者達には大き過ぎた。
絶叫こそ上がらなかったが、銃が落ちた。
慌てるというよりは必至に男達が客車から背を向けて逃走していく。
パチパチと拍手する女は感心した様子だった。
「お強いですね。ご老人」
「いや、少し芝居掛り過ぎた感が、はは……お恥しい」
照れた様子で振り返った老人の両腕はやはり存在しない。
覆面達が見たものが何だったのか。
彼らは一生知る事も無いだろう。
『え~到着致しました~国立中央研究所~国立中央研究所~お降りの際は段差にご注意下さい。停車時間は十五分となっております』
「おお、降りなければ。此処で人に合う約束があるので」
老人が女に微笑んだ。
「そうですか。私はこの先に用があって」
「では、お別れですな」
「ええ、ですが、またいつかお会いしましょう」
「ああ、貴女のような方になら、死んでもまた会いに行きますよ♪」
お茶目にウィンクして。
老人は連れ添いの男達を引き連れ、列車を降りていった。
今までの事に呆けていた母親も物凄い勢いで降りていくと事件が在ったと示すものは床の弾痕のみになる。
「ユアン様。先程の老人は」
背後の男の一人が言おうとしたが止められた。
「言わなくていい……あれが北の五戦者と謳われた【五聖騎士(ファイブ・ラウンズ)】……若い時に手合わせしたなら、負けていたのはこちらだっただろうか」
「いえ、そんな事は……」
「ふ、ハティアに見上げ話が出来たな。久しぶりに好い男を見たと」
ユアンは恐る恐る紅茶を持ってきた乗務員達にそっと人差し指を唇の前へ立てた。
何者が乗っているのか。
乗客名簿から知っていた二人の亜人は顔を真っ赤にしてコクコクと頷く。
報告義務を無視する明らかな労務違反。
だが、しかし、相手が如何なる事をしても機嫌を損ねるなと念押しされた世界最高の超越者にして政治家の一人だとすれば、それも許されるだろうと彼らは生涯口を閉ざした。
こうして何事も無く。
列車は運行され、反七教会派の用意していた数万枚にも及ぶビラは全て闇夜の松明と消えた。
元老院にも、政治中枢を纏める赤鬼にも、報は届かず。
七聖女ユアン・クオは首都を離れて鷹狩り中という国王のいる森へ無事到着する事となった。
*
ウル・エイフォン・バーゲルにとっての女とは常に窮屈な性だ。
亜人貴族の名家として厳格な父母。
母はいつも父に頭を下げ、専属の使用人のようだった。
幼い時から父を怖がった彼女を母は突き放すように父の教えに従えと躾けた。
やがて、刃も潰されていない刀片手に稽古が付けられるようになり。
いつも父に付けられた薄い切り傷に泣いていた。
母はこれしきが何だと叱咤して。
毎日のようにウルの傷を魔術で癒しては貴族として立派たれと説いた。
いつの頃からか。
自分が出来損ないだと陰口を叩かれている事を知り。
彼女はその時になってようやく知った。
父母の厳しさが己の姿故だと言う事を。
名家でありながら、人間の姿を得た娘。
そう言われても毎日のように厳しい苦行を経て来た彼女の実力は全てを覆した。
罵られた相手に負けた事なんて無い。
陰口を叩く者より劣っていた事など無い。
時が経つに連れて、ウルにとっての幼少期は輝かしいものになっていった。
寡黙で多くを語らない父が唯一彼女を褒めた日。
免許皆伝。
我が家の流派の全てを伝えたと誇らしそうに言われた日。
思わず、彼女は泣いた。
たった十歳。
駆け足で七年。
お前には才能があったようだと呟いた父の言葉はウルにとって光だった。
苦しかった事。
哀しかった事。
何もかもが報われた。
しかし、陰りは突然にやって来て。
全てを奪っていった。
決闘に負け敗者の烙印を押された父。
厳しくも凛々しかった母が目に見えて老けた。
親類達から攻め立てられた父母の姿。
何も言わずに土下座した貴族の背中。
それ以来、流派の門下も消えた。
失望と偏見と嘲笑の視線。
昔は大きかった二人の背中がとても小さく見えて。
彼女は決心した。
この家に今一度栄光を。
我が父母に今一度の笑顔を。
父は許さんと一言。
母は涙して無言。
それでも。
それまでに大きな武術の大会で稼いだ資金を元手に一人暮らしを初めて。
戦った。
戦った。
戦った。
負ける事など許さぬと己を追い込み続けた。
学業との両立は何とかなった。
学びはしたが、友は出来なかった。
遊びは知らない。
それでも負けぬまま栄光だけを浚ってきた。
これが学生の実力かと名立たる者達に言われる程の成果。
孤独でも良かった。
一人でも耐えられた。
この名声あるならば、今一度の再興も叶うはずだと考えていた。
しかし、門下になりたいとやってくる者は無く。
親類達はもう止めろと恥じを晒すなと彼女を詰(なじ)った。
幾ら成果を上げようと。
幾ら大会に勝とうと。
幾ら彼女が頑張っても、父はただ辞めろといい、母は無言で泣いた。
虚しかった。
苦しかった。
一人なのかと。
心はきっと同じだと信じた誰もがウルの努力を認めなかった。
認めて欲しいと願った二人の家族にすら……。
いつの頃からか。
大会に出る事が少なくなり、唯一の居場所だった部室すら追い出されそうになる始末。
倦んでいた。
どうすればいいのか分からなかった。
そんな時だ。
無礼者がやってきたのは
薄汚い尻尾だと。
婚約者が言い捨てた唯一彼女の身を示す尾を褒めて。
教会のような言い草で言い訳をする口。
彼女は当然のように怒った。
ずっとずっと。
渦巻いていた振り下ろす先も無い激情。
その矛先がようやく見付かった。
人間みたいな顔で。
まるで自分のように出来そこないの顔で。
何の亜人かも分からないヘラヘラした少年。
八つ当たりしたって構いはしない相手。
貴族の誇りと矜持は何処に言ったと囁く脳裏に蓋をして。
快感さえ得たような心地でやり場の無い恨み言を太刀に乗せた。
こんなのは貴族のする事ではない。
そう何処かで思っても止められはしなかった。
(醜い……わたくしが……そんな風だったから……)
相手の実力も分からず。
最後に残った彼女の拠り所。
免許皆伝の証に譲り受けた祖先の太刀も不敗の記録も失った。
(報い…なのかもしれませんわね……)
思い通りにならない肉体。
自分の奥に潜り込んで来る糸の棒。
プツプツと内部で解けて襞を突き刺し始めたソレは冷たい何かを彼女の大切な場所に満遍なく注入して。
カッと息苦しい程に下半身を熱くさせていく。
止めろとの懇願はもう声にならず。
牝の快楽を待ち侘びる身体は正直に貫かれるのを待っていて。
(ぁあ…もぉ…どうでも…いいです、わよね…もぅ…疲れましたわ……)
肉糸の注射は奥へ奥へと向かうが膜は破られず。
スルリと膜の間を抜けて最奥にまで到達する。
子宮口。
男を受け入れる最も奥で一斉に糸の先端が突き刺さった。
「ひ、ぁああああぁぁああああああああぁあぁ♡」
はしたない声を上げて。
どうでもいいと。
何も失うものは無いのだと。
投げやりに彼女は諦観の先で得た目的すら投げる事と決めた。
貴族を辞めたって誰も止めはしない。
戦うのを止めたって誰も止めはしない。
それならば、いっそ下半身から湧き上がってくる劣情に身を任せて。
今まで感じた事もない快楽に耽ったっていい。
スルリと抜けた肉糸達の感触に惜しいとすら、感じて。
もう壊れたっていいじゃないかと涙ばかりが溢れる自分を嗤って。
彼女は呟いた。
助けて、と。
届かない言葉。
誰も聞き入れてはくれない思い。
頑張って頑張って頑張って何も残らなかった虚しさ。
また、誰も自分を助けてくれないのだと確認したくて。
この世の無情を嗤ってやる為の囁き。
(ほら、誰も…わたくしの事なんて……)
瞳がそっと閉じられようとして。
「いいよ。ちょっと待ってて」
――――――。
瞳を開けば風。
涙と暗闇の中で。
全身を輝かせた誰かの答え。
彼女を拘束するものが二つに割れた。
彼女が座るものすら、割れた。
血塗れの手が落下する彼女を捉えて。
鳴動する大気の中。
そっと包むように両手で抱き締めた。
「どう……して?」
何も考えられず。
反射的に出た問いに声は苦笑する。
「武芸術部って部長がいないと部活動出来ないし。一応、部員になったばっかりで廃部はちょっと」
間の抜けた。
何とも間の抜けた答えを返されて。
思考が停止した彼女の瞳は優しげな笑みだけを焼き付ける。
『無茶をする!! こちらに寄越せ!! これは軍隊か、七教会でなければどうにもならん!!』
「今そっちに渡すから。大丈夫。少しフワッとすると思うけど、エンシェンが受け止めてくれるから」
「ぁ……」
身体が離れる。
一人になる。
その寂しさが手を伸ばさせて。
けれど、届かず。
落下したウルは大きな胸にボフンと落着した。
「まだ生きてるか? 侵蝕は? おい! 少しは返事をしろ!!」
「エン、シェン?」
「何を呆けた顔をしている。さっさと逃げるぞ。さすがに二人で神は相手に出来ん」
「か、み?」
その時、ようやくウルは鳴動している大気を震わせているものを見た。
少年の肉体が放つ輝き。
それに照らされたのは巨躯。
巨大な数百mにも及ぶ正方形の部屋。
ほぼ満杯になっている下水。
その中から屹立する巨大な何か。
あまりにも巨大過ぎて全体像も掴めない。
ただ、その表面は赤黒い紐状の肉で構成されていた。
「それにしてもこれは…厄神の類か? まさか、親玉がこんなものとは……もう少しソフトなのを期待していたんだが」
「あれ…外神の眷属……ダゴンじゃないかな」
近くの橋の上で少年が剣を片手に背中を向けていた。
「外神…外なる神々だと?!! 馬鹿な!!? そんなものが何故このアルヴァスにいる!!?」
「さぁ? でも逃がしてくれそうには見えないというか。そもそもこのままだとマズイというか」
「何?」
エンシェンが訊ねようとした時。
大気の鳴動が一気に暴力的なまでに強まった。
振動で部屋全体も震えているのか。
バラバラと建材の一部が崩落し始める。
『表面が乾いてるところは動きが鈍いのに下の方は凄い速さで蠢いてる。下水処理が止まってたのはたぶん活動する為の汚水が必要だったからなんじゃない?』
二人の耳に魔術での音声が直接届く。
エンシェンが舌打ちした。
『このままだと動き出すのは時間の問題か?』
同じように魔術での音声伝達に少年が「たぶん」と頷く。
『此処から直接上に出る道は……非常通路だけだが、生憎とあの化物の真下。【崩燼機関】の真横だ。それも外からではなく内側からのみ開く仕様でな。退路が無い』
『それなら、心配しなくていいよ』
『どうする気だ?』
『最後の一本だから取っておきたかったんだけど。この状況じゃそうも言ってられないし』
少年が片手に持っていた剣を後ろ手に握って背筋を逸らし、弓なりに引いた。
まるで砲丸投げの姿勢。
しかし、撃ち放つのは剣だ。
常識的に考えれば、魔力を込めても最も分厚い外壁を誇る大水槽の壁を破れるはずがない。
ギリギリと肉体を引き絞った少年に向かって数十本の肉紐が迫った。
ウルを持っていたエンシェンが魔術で防護しようとするより早く。
途中で加速した肉紐が分裂し、糸となって少年の肉体を貫き通した。
「イクス!!!!?」
思わず叫んだエンシェンの瞳には少年の唇が確かに読める。
―――構わず行って。
「くッッ!!?」
自らの顔や喉、肺、全身を無数の肉糸で貫かれながらも少年は呟き。
「閃剣が奥義の一つ―――砕け【崩斬(ほうざん)】」
剣が放たれた。
魔力を全て熱量にしたところで数十m以上の分厚い地層を貫けるはずがない。
しかし、剣が壁へ傾斜して突き刺さった刹那。
チンッチンッチンッチンッチンチンチンチンチチチチチチチチチ―――。
剣の表面で何かが連鎖して弾ける音と共に壁に崩落が起きた。
それどころか。
突き刺さって尚勢いを失う様子もなく。
まるで掘削機の如き進み様で剣に沿い土砂が削れていく。
少年の姿を一度だけ振り返ったエンシェンは何も言わずに剣の崩した孔へと飛び込んでいった。
一人残された少年は首筋から顎を貫通していた糸を引き千切ると肉体が断裂するのも厭わず。
下水によって全身を覆われつつあるモノを見上げる。
エンシェンと共にやってくる間に三つの予備貯水槽を迂回した少年は他の水槽が空になっている様子に出くわして疑問に思っていたのだ。
何故、化物達は襲ってくるのに有利な溢れる寸前の下水が水槽に無かったのか。
その答えが大水槽の有様だ。
一箇所に集めている途中だったのだろう。
化物達が神と崇めるものの活動と復活の為に。
「……崩斬で魔力も殆ど使っちゃったし、どうしようかな」
奥義と言うだけあって剣に投じた魔力はかなり膨大だ。
剣の表面に積層魔力と通常の魔力の層を編み。
極小の魔力刃を撓(しな)る鞭の如く留めておく技。
時間と共に通常魔力が霧散すると積層化された魔力刃が弾けて設定された方向を自動的に薙ぐ。
これを数千数万数仕掛けておく事で最終的には魔力刃の殺傷圏。
要は敵を細切れにする空間を形成するのが崩斬の真骨頂だ。
崩した建材や土砂はそのままだが、エンシェンの赤鬼としての膂力と魔力さえあれば、柔らかく崩された孔を突破する事はそう難しい事ではないと少年は判断していた。
オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛―――。
鳴動が激しさを増す。
もはや都市の一区画にも匹敵する大きさの物体が動き出そうとしているのだ。
揺れるのも道理である。
だが、それでも少年の笑みは崩れない。
「出てきたら?」
コプンと黒い下水の底から何かが水面へと顔を出した。
黒い肌は完全に下水と同化している為、一見して何かは分からない。
「君が親玉?」
聞いたところで答えは肉の糸だけだ。
更に顔面や掌まで貫き通されて少年は本来絶命しているべき傷を負いながらソレを見極める。
「ずっと、考えてた。あの魚人達は何なのかって。本来、霧が存在しないはずの場所に霧が出て、同時に魚人の行方不明者が大量に出た様子なんて都市に無かったから。僕が知らないだけかと思ったけど、この水道での被害は此処だけのもの。なら、最初からあちら側に同化されてたとも考えられる。でも、あそこは亜人の国じゃない。亜人がいたとしても多かったとは思えない。そうなると考えられる可能性はこの都市に最初からいた存在が人知れずに同化されたって事だけ。魚人の形を取ってたのは単に属性的な意味合い。同時に仮面の光点は水から離れても活動出切るように魔力を供給する魔術中核。近頃、火精の通り道が変わったのは君達のせいだ。濁った水気は炎すらも汚染する。北西部から東部に逃げて来てたんだ。属性の変化に過敏な精霊が君達みたいな存在に近寄らない為に」
糸から大量の液体が体内へと注入される。
普通の肉なら一瞬で溶解するだろうものを受け入れながら。
肉体から上がる血煙も無視して。
少年は肉糸を両腕で束ね掴んだ。
「水精ニュンフェ。この都市の水源を守護してたのは君だ」
僅かに黒い頭部が頷く。
「【隠遁者(クラウストラリス)】そうなってしまった理由を僕は聞かない。そうする事にした決断を僕は知らない。でも、この都市を、僕の傍にいる人達を危険に晒す君や君の子供達を、僕は許容しない」
瓦礫の崩落が始まった大水槽の端へと少年が歩いていく。
「ソレに頼る事。ソレを崇める事。僕にはどうでもいい事だ。でも、僕はソレが彼女達を、この都市を傷付ける事を許容しない」
ドポンと水に足が入る。
ボジュゥウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ。
もう穢れた水精くらいにしか入る事も出来ないだろう劇毒となった下水は少年の足をあっと言う間に溶かした。
しかし、骨だけは残り。
そのまま入水が始まる。
「君達の無念、君達の悲哀。理解出来なくもない。自分達が育み生かしてきた者達から穢され、命すら脅かされれば、狂いたくもなるんだと思う。でも、僕はその感情で人々を傷付ける事を許容しない」
両足。
胴体。
頭部。
崩れ落ちていく肉片。
融けていく内臓。
己を同化され続けながら、少年は一定距離を離れず付いてくる水精に語り掛ける。
「君達は間違ってない。生存競争の中で人間を殺しても生き延びたいと願った種族だって、決して悪じゃなかった」
今や骨と何ら変わらないものとなりながら、喉の声帯すら失って。
それでも少年の声は魔術に乗り続く。
下へ下へ潜っていく。
『でも、僕は僕の決断で君達の希望を黒く塗り潰す。それが僕の願いを叶える為に必要なら躊躇しない』
やがて水底。
巨大な黒き外殻が少年の前に現れた。
少し融けてはいるが、確かにそれもまた【崩燼機関(ソルヴァス・エンジン)】に違いなかった。
停止している理由はすぐに分かる。
繋がっている管。
端にある【源理粒子(イデアル)】の供給菅が巨大な黒き海神に押し潰されているからだ。
『僕を優しいって言ってくれる人が結構いるんだ。的外れなのに確信まで持って、そう言ってくれる人達が』
青黒い仮面を被った魚人。
水精の子供達が慌てたように彼へ群がってくる。
しかし、それが黒い頭部の水精の片手で止められた。
『謝らないよ。でも、君達がいた事は誓って忘れない』
もはや骨すらあやふやになりながらも。
少年の片手が揺らりと自らの胸に向けられる。
トスン。
呆気なく崩れ切った肌の奥。
未だ残っていたか。
鼓動する心臓が、骨の手で引き抜かれた。
黒を赤く染めていくソレ。
血を噴出し続ける無限の拍動。
融ける様子も無いソレをグッと。
指の関節が外れるのも構わず。
少年が握り締める。
キラキラと舞うのは燐光。
儚く手の中で血が煌めきに変質していく。
やがて心臓は硬質化し、一塊の透き通る結晶となった。
『じゃあ、いつかまた』
燐光を纏った一塊の宝玉が骨の手が崩れるのも構わずに外殻の中へと突き入れられた。
ブゥゥン。
輝きが燈る。
機能停止していたはずの機構がまるで生き物のように唸りを上げて内部で円柱(シリンダー)を主軸とした機関の回転数を上げていく。
本来在り得ない。
何の数値も入力されずに動くような代物ではない。
しかし、過剰な燃料を投下された内燃機関にも似て、機構は全力運転を開始した。
ようやく。
芥子粒のような存在が引き起こした事象に反応を見せた肉の塊が動き出して、
自分の眷属だろう魚人達にも構わず。
全てを押し潰そうと肉体を“面”として降らせた。
数万トン。
否、数百万トン以上の巨体。
次々に押し潰されていく子供達が水に溶けて絶命していくのも構わず。
水精は少年を見つめる。
『………』
何を最後まで思っていたのか。
呆気なく細い肉体は面に接触して消失した。
全ての“敵”が消え失せた水底で降ってくる神と呼ばれしソレに骸骨標本がカタカタと笑みを形作る。
『“似せようとしただけの紛い物”じゃ、コレは防げない。水が無ければ存在を維持出来ないなら、全て分離すればいい!!』
少年へ接触するよりも先に機関が唸りを上げて動作を実行する方が早かった。
下水から水素が分離され、同時に必要ない他の物質を消却していく。
オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛?!!!!!!!!!!
水嵩が減る。
巨躯が戦慄く。
分離された水素が周辺で停止していた壁に幾つか開いた孔を通して吸われていく。
のたうつ数百mもの物体が底から離れようとするも。
『君の行く場所は外じゃない。誰もいない。何も無い。ただの虚(うろ)だ』
少年がずっと片手に持っていた肉紐が水中でカラカラに干乾びながらも最後の魔力によって本体と切れる事も無く繋がりを強固に保っていた。
不動。
どんな魔術を使っているのか。
あるいは何か能力でも使用しているのか。
自分の体躯からすれば0.00001%も無い紐と少年に縫い止められて。
ダゴンは己が消え失せていく事を悟る。
一分程した頃。
完全に渇き切った世界で巨体であったソレは数十mの彫像と化していた。
それすらも消却処分。
連続した空間転移で上方から少しずつ輪切りにされ、埋層地である地下へ小分けにして埋められていく。
跡には下水の跡も崩落した壁の残骸すら失せて。
静寂だけが残った。
*
「……」
土に埋もれそうになりながらも圧倒的な膂力で土砂を掻き分け、エンシェンは己の腕の中で死んだように瞳を閉じるウルを庇いながら進んでいた。
「まったく。呆れた奴だな。このエンシェンに二度も貸しを作るとは」
「……」
応答は無い。
暗闇で只管に剣を追いかけながら彼女は下から突き上げるような地響きに僅か顔を硬くする。
「部長一人助ける為に神と真正面からぶつかる事になろうとは。いやはや、さすがの二本角も参った参った」
務めて明るく。
しかし、顔は険しいまま。
「誘ったのはこちらなのだから、普通残るとしたらこちらのはずだろう? お人よしと言うか。どんな風に育ったら、あんな性格になるのだろうな」
「……」
「最初にお前を見つけたのはあいつだ」
「……ッ」
「四つも水槽を回り、何百と相手を切り伏せて。あの大きな神の中にお前の声と姿を見つけたのはあいつなんだ」
「―――」
「早くしなければ、取り込まれるか。侵蝕されて魂まで穢されるか。そう言ったあいつは迷う事無く。肉の槍が何千降り注ぐのも厭わず、お前のいる場所だけを切り分けた」
「…………それで」
「自分が孔だらけにされるのも構わず。最後の武器すら私達を逃がす為、使い切った」
もう瞳を閉じている事も出来なくて。
溢れるものを零しながら、暗闇の中、女は顔を上げる。
「なぁ、お前は貴族で在り続ける為にあいつが支払ったものを支払えるか?」
「!!!」
「このエンシェンには、赤鬼の馬鹿な小娘には無理そうだ。例え、不死者であろうとも、支払えるものには限度というものがある」
ふわりと外気が二人の肌を撫ぜる。
「それとお前の下に行った手紙だが、あれは嘘だ」
「え………?」
「いや、それは少し違うか。正式には依頼自体断られていた。ちょっと親父殿の伝手を使って調べたが、断られた依頼内容を知ったお前の親族の一人、通信局に勤めていた奴がお前に依頼を持っていったらしい。午前中一杯調べて分かった事だが。まぁ、蛇足か」
「…………そんな……わた…くしは……何の……為―――」
ポタポタと落ちる雫の熱さがエンシェンの胸を塗らす。
「そんなに泣く事か? 確かに色々と酷い事はされたんだろう。だが、お前はもう知っているはずだぞ。我らは既に幸せ過ぎると」
「な、にを…なに、をッ!!」
「命を貰った」
「――――――ッ」
「今一度、己に問い掛けてみろ。此処にいるのは誰のおかげで、お前がお前のまま帰って来れたのは誰の犠牲の上での事だ?」
「それ…は……」
「付いたぞ。異相の侵蝕で時間もかなり狂っていたようだな。外はもう朝か」
剣が突き抜けた跡。
足を土に取られながらも進むエンシェンと抱かれたウルの視線の先には輝く光が見えていた。
片手で掻き分ける土の果て。
ようやく外へと顔を出した二人は其処が山林の只中だと知る。
ポンと外に出て全裸のウルを横へ置いた鬼女は少年の外套を上に掛けて。
自分は堂々と裸のまま通信用の魔術を起動した。
「あ~あ~親父殿。聞こえるか?」
『……ん、は!? おお、エンシェンか!? お前何処に行っていた!! 二晩帰らないとは!!?」
「そうか。こっちはそんなに経っていたのか」
『こっち? とにかくだ。さっさと家に帰って来い。叱られるのはもう十分だ!!」
「はは、またお母様に叱られてたのか?」
『お、おい!? お前!! 興奮するな!! す、すぐにか、かわ、代わるから!! だ、だから、その手は下ろ―――』
「あ~お母様。もう少し親父殿に話がある。少しそのままで」
『ふぅ。死ぬかと思った…!!』
「とりあえず。ちょっと手勢を寄越して欲しい。色々とあって、今北西部の山林の中にいる」
『……どういう事だ?』
「ああ、友達を助けに行ったら、ちょっと神様と喧嘩しなきゃならなくなって」
『ああ、お前!? だ、誰か!! 誰か!! 妻を頼む!! それで? 場所はもう特定した。すぐに転移で向かわせるが、軍を動かすのはさすがに三時間以上掛かるぞ』
「まぁ、家の手練が十人いれば何とかなるくらいの強さだと思う。医者と魔術師も寄越してくれ。友達がちょっと負傷してる。お抱えの病院に向かわせたい」
『分かった。それでお前は何とも無いんだな?』
「ああ、大丈夫だ。問題ない。ただ、服を二着頼む」
『了解した。我輩もすぐそちらに向かう』
「いいのか? 公務があるだろう?」
『我輩が要れば、その神とやらも一時間でケリが付くだろう』
「そうか。そうだな。親父殿が要れば、それくらいか」
『他に何かあるか?』
「……悪いんだが、ゼオ家の当主を呼んでくれ」
『―――友達というのはまさか』
「いや、友達を助ける為にゼオ家の客分が残ってくれた。どうなってるか分からない以上、当主を呼ぶのが筋だと思ってな」
『分かった。すぐに連絡して転移で向かってもらおう』
会話している傍から続けて魔力陣の光がエンシェン達の周辺に浮かび上がる。
「親父殿」
『何だ?』
「世の中は広いな。私は……まだまだ無力だ……」
そっと通信を切って。
エンシェンは遥か地下から溢れそうになっていた禍々しい気配の途絶にそっと唇を噛む。
「エン、シェン…」
ウルが同じものを感じたのか。
顔を歪めていた。
「必ず報は届ける。お前はまず病院に行って治療して貰え」
「………はい」
転移方陣の中から巨大な腕型の【崩燼武装(ソルヴァス・アームズ)】を身に付けた赤鬼の巨漢達が迫り出し地面に着地する。
保護されながら、エンシェンは血の味のする唇を強く、噛み締めた。
―――同刻ゼオ家。
チリリン。
【崩燼機関】製の通信機器が鳴っている。
娘が学園へ出た後。
手持ち無沙汰な彼女は重要な呼び出し以外には使われない連絡の鐘を無視した。
小さな館の奥。
彼女の寝室の横にある物置。
入ってはいけないと娘に諭してある其処へ入れば、階段が下へと広がっている。
約四十五段降りた先。
魔力を自らの内に取り込んで光る苔が仄か室内を照らしていた。
壁際には棚が幾つか。
その上には小瓶と魔術具らしき器具がズラリと並んでいる。
「……随分と無茶をしたのね」
彼女は部屋の奥。
立て掛けられた棺に納まる者にそう微笑んだ。
ふるんと尋常ではない大きな胸が震えて。
蠱惑的な薫りが辺りに広がる。
「でも、貴方らしいわ……あの頃からずっと変わらない……」
ゆっくりと棺へ近付いて。
中の者に胸を押し付け。
甘く甘く艶やかな舌がチロチロと相手の唇を舐めた。
「ふふ、また一から“作り直さないと”ね」
離れるのが惜しいと心引かれながら、彼女が棚の一つ。
その中央に位置する小箱を開き。
自らの掌にソレを乗せる。
握り拳大の結晶。
それは少年が崩燼機関に突き入れた自らの心臓を結晶化させたものと同じ輝きだった。
ちゅ。
優しく結晶に口付けして。
微笑んだ女は詠うように紡ごうとした。
愛しい者の名を。
甦るべき者の名を。
「熾きて。貴方を待っている人がいる。貴方を求める人がいる―――」
名を囁こうとした女の背中を階段の闇から見つめる瞳が二つキラリと輝く。
「あら? 貴女ね? 毎日のように“中身”を覗いていたのは」
『?!』
ボッと暗闇に炎が燈り、見ていた存在―――黒猫が火達磨で階段から落ちてきた。
声も上げずにバタバタと転げ回るとすぐに火は鎮火する。
ふーふーと身体のあちこちを息で冷ますような仕草をした後。
ジットリとした半眼で館の主。
アルゥ・ゼオが睨まれた。
「恋人の逢瀬を邪魔するものじゃないわ」
「マ~ヲ?」
『そうなの?』と黒猫の首が訊ねるように傾げられる。
「今日のところは見逃してあげる。でも、次は無いわよ」
「………」
トコトコと黒猫が階段を昇ろうと背を向けた。
次は本気で焼かれかねないと悟ったからだ。
「ああ、それと今度家に不法侵入する時は覚悟しておいてね。焼き殺すだけじゃ済まないと思うから」
楽しそうな笑みに怖気が奔った様子で黒猫はシタタタタタッと階段を駆け上がっていった。
「邪魔者が入ってしまったわね。仕切り直しましょうか」
まるで恋する乙女の如く微笑んで。
アルゥ・ゼオ。
少年の後見人は……棺の中。
手を胸に当てて眠る身体へ再び口付けした。
「ああ、感じるわ――貴方の“意思”を……“シンア”……」
眠っている。
停止している。
生きている気配すら無い。
それでも確かにそれは、その身体と顔は、彼女の娘が毎日のように起こしている居候。
イクス・ゼオ、そのものだった。