第三章二十節
第三章二十節「娼婦一片」
―――アルヴァス・カレッジ第4講堂二時限目魔術概論Ⅲ。
「え~でありまして。魔術における魔力形質の計量は基礎的な純粋波動魔力換算で数えるのが妥当であるというのが現在の魔導における基本的な考え方なのであります」
男女ともに静かな講堂。
さすがは最高学府か。
寝ている者はいなかった。
五十代程だろう蒼い鱗の爬虫類型の亜人【龍蜴(レプティリア)】が白堊(チョーク)で黒板に魔力形質間の計算式を書き連ねていく。
「一般に知られている純粋波動魔力と他の魔力形質の換算式は様々ありますが、最も比が厚い。つまり、魔力形質間の最小単位における差が大きいと言われているのは……少し当ててみましょうか。では、そこの窓際の方」
蒼い爬虫類頭の講師が手で指した先を講堂内の全員が視線で追った。
それは彼らにとって近頃とんでもないと明らかになりつつあるクラスメイトその人が当てられたからだ。
「?」
ようやく気付いた様子でノートから顔を上げた人間にしか見えない中肉中背中性的という少年。
イクス・ゼオが思わず講師を見て、自分を指差して確認する。
「ええ、貴方ですよ」
長椅子から立ち上がって少年はとりあえず回答を返す。
「【神話性概念魔力(ファブローサ・マギシス)】です」
「よろしい。では、その理由はお分かりですかな?」
「概念魔力であり、同時に公式が意思を持つ生命体の信仰や時間に関連して累乗(るいじょう)的に増大していく性質があるからです」
「完璧ではありませんね。それは増え方自体が大きいというだけの事。何故、最小単位での魔力の差が大きいのかという問いへの回答にはなりません」
「概念魔力は励起されないまま概念側に係留されていると増大の中で“自重”によって積層化され、空間に左右されず、無限に圧縮され得る性質を持っているから、です」
「……驚きました。よく勉強されているようです。答えられないと思っていたのですが」
「現在も研究が進められている概念積層魔力の研究が進めば、いつか自在に概念魔力の最小単位の換算値を無限に引き上げられるようになる、だったかな?」
「素晴らしい!! 完璧な回答です。座って宜しいですよ」
少年が座ると講師は再び黒板へと向かった。
「今の説明を噛み砕くと。つまり、概念魔力というのは空間に左右されない性質があり、同時に反応などがほぼ起こりえない概念側でならば、観測可能な最小単位でも無限に魔力として積層化が可能。つまり、1対100どころか。その気になれば1対10の数十乗まで魔力換算の値を高く出来るのです」
少し興奮した様子で目をキラキラさせながら、講師が微笑む。
「現在の教会でも最先端の【魔導技術】の研究ですが、これは過去から現在まで連綿と続いてきた魔術研究における課題でもあります。現在の魔術研究が盛んな国では七教会より早くこの技術を取得する事を目下の目標としているところもあり、今後の朗報が待たれます。概念積層魔力の自在な運用が可能になった時、魔術師達は真に万能へ到達する道程の一つを上がる事となるでしょう。そろそろ時間ですね。では、今日はここまで」
数秒後。
鐘楼の鐘が響き。
生徒達が講師の退出と共に立ち上がっていく。
昼時。
ホッと一息付いた少年はさて今日もサンドイッチを包んでもらおうと食堂に向かい、掛けた。
「イクスさ~ん」
講堂内の半分程の亜人が掃けた直後。
今日も元気に校則違反な不良少女がトコトコと笑顔で扉から入ってきた。
小さく手まで振って。
尻尾を振った犬のようにやってくる様子はクラスメイト達の生暖かい視線を集める。
「エストリア?」
「はい。イクスさんの友達のエストリアです。今日は一緒にお昼ご一緒しませんか?」
何やら笑みが張り付いているような錯覚。
少女の笑顔はこんなに固いものだっただろうかと首を傾げた少年の前へズイッと少女の顔が迫り出す。
「断ったりしません、よね?」
「え、いや、その近いというか。どうか、した?」
「どうか、した、ですか?」
エストリアの背後から魔力とも気配とも付かないものが立ち上った。
「何日いなかったと思ってるんですか?」
少女は笑顔だ。
しかし、ようやく少年は思い当たった。
ハイダル・エス・トリアは怒っていたのだ。
ずっと、行方不明だった事に。
それと言うのも三日も無断欠席した挙句。
連絡も取れない地下で旧き海の外神と戦っていたせいだ。
だが、そんな事を少女が知りようも無いのは分かり切った事である。
「物凄く心配したりなんかしてませんよ? イクスさんは強くて、きっと負けたりしないって信じてましたから。ええ、何度も何度も市場や境界付近に足を運んで兄さんに怒られたりなんかしてませんよ。欠片も」
「……ごめん。ちょっと、友達と水道に行ってて」
「水道? イクスさんは水道管理局の回し者だったんですか? それとも水道に潜る鼠みたいな欲求でもあるんですか? ええ、とりあえずはじっくりとお話を聞いて―――」
「イクス・ゼオが帰ってきたというのは本当ですか?!」
続いてクラスメイト達に聞いてバタバタと走り込んで来たのは獅子少女(ライオン・ガール)、奏美紗だった。
黄金の鬣っぽい髪が微妙に逆立っているのは気のせいではないだろう。
魔力に敏感な亜人達が慌てた様子で講堂内から逃げ出していく。
「あ、ようやく見つけま―――見つけましたわ。おほほほ」
途中で元々の“素”から“捨てられた恋人”を装ってソソクサ少年の下までやってくる。
ジロリと縦に割れた瞳が少年を睨み付けた。
『一体、何処へ行っていたんですか!!? 私が一体どれだけ境界を探したと!!? 自分が超重要参考人である事を忘れてるんじゃないでしょうね? 突然いなくなったら、何かあったか心配になると思いませんか!?』
ヒソヒソと怒鳴る美紗の気迫は鬼気迫るものがあった。
「えっと……心配してくれてたとか?」
『え?! いや、そういう事ではなく!! あくまで重要参考人として貴方に死なれてはあの世界の攻略が―――』
「イクス!! 見つけた!!」
一瞬オドオドした様子になった後、逆切れ気味に不機嫌となった美紗の言葉が遮られる。
もう殆どの生徒達が関わりたくないと席を立った後。
扉から入ってきたのはシルルゥ・ゼオ。
人間少女から一角獣少女、大肉喰らい少女とランクアップし続ける居候先の一人娘だった。
トテトテやって来たシルルゥはプクッと頬を膨らませる。
「イクス。ゴハン、イッショするって言った……」
「ごめん。立て込んでて……」
「まだ、おハナシ中?」
「ちょっと……」
「……イクス、キライ」
プイッと横を向いて拗ねた少女の頭を少年が撫でる。
「今日の夕方は一緒に帰れると思うから」
「ホントウに?」
「うん。たぶん」
「なら、イイ」
常の感情の起伏が乏しい様子とは程遠く。
シルルゥが頷いた後。
ササッと少年の背後に隠れて自分を見つめる二人から距離を取った。
その様子を同じクラスの者が見たなら驚いただろう。
いつも教室ではボンヤリと真面目にノートを取っている少女がそんなにも感情豊かである事に。
「イクスさん。その子、誰なんですか?」
微妙に半眼でエストリアが訊ねる。
「シルルゥは僕が居候してる家の子で。挨拶して。シルルゥ」
「……しなきゃダメ?」
「僕の友達だから、してくれたら嬉しいかな」
「シルルゥ・ゼオです。ヨロシク…オネガイ、します……」
少し警戒した様子になりながら、シルルゥが少年の背後から僅かに顔を出して挨拶する。
黙っていた美紗はシルルゥの事はゼオ家を訪れた際に見ていた為、初見ではない。
しかし、少年との恋人のような口付けを目撃した事が思い起こされて、少し顔が赤くなる。
内心は「こ、こんなに純真そうなのに、あ、あんな……」と言ったところか。
「何やら忙しそうじゃないか。我らが部、期待の新人は」
「エンシェン?」
何やら昨日の今日で完全に仲間認定されたのか。
大きな体躯でコスプレ美人が扉を潜った。
「な!?」
「ふぁ?!」
「ム?」
三者三様。
エストリアも美紗もシルルゥも固まった。
それと言うのも赤い鬼女のはち切れんばかりの姿態からだ。
健康です。
はち切れそうです。
とりえあず見る?
そう言わんばかりの巨乳。
少女達にして見れば、正に理想的なカップ。
そんな美人が親しげに少年の傍までやってきてバシバシ肩を叩くのだから、視線が険しくもなるだろう。
「イクスさん。誰なんですか? この人。いえ、鬼の人」
「赤い鬼……まさか、【赤鬼(ラルヴァ)】の……」
「イクス?」
三人から睨まれて少年は背筋に冷や汗を掻く。
「ええと、僕の部活の先輩というか後輩というか」
「昨日はあんなに激しくやった仲だと言うのに連れない奴だ。ははは」
エストリアの瞳から完全に光が落ち。
「あんなに」
美紗の瞳がさっそくの不貞行為発覚に蔑む視線となり。
「激しく」
一人、まだ大人な会話の内容も理解出来ず。
「ヤッタナカ?」
シルルゥが首を傾げる。
「それで何か用?」
背筋が凍えそうな視線をとりあえず置いておき。
少年がエンシェンに向き直る。
「いや、何……礼をまだ言ってなかったからな。このエンシェン。生涯の強敵(トモ)に必要な事は伝えねばと、こうして仕事先からやってきたわけだ」
「事後報告って事?」
「ああ、別にもう解決した件だ。後からでも構わないが」
「……えっと、三人ともちょっと悪いんだけど、少し離れててくれないかな」
三人が三人とも別々の理由で不満そうな顔をしたが、エンシェンが「悪いな」と毒気を抜くような笑みで頼み込んでくるものだから、承諾する以外無かった。
全員が離れると前日の様々な事が報告される。
地下水道にいた海神の完全な消滅の確認。
消却処分された地層の魔力解析の結果。
周辺異相の局所的な崩落を現在復元中である事。
結局、大水槽は異相と内壁の修復が終わるまで封印され、予備貯水槽の稼動が始まった事。
壊したインフラは必要経費で請求されず。
また、守秘義務が元老院の上部組織から通達された事。
「まぁ、ゼオ家の者という事で上の連中。私の親父殿がいる場所ではお前の事も問題にならなかった。お前は霧の“境界”や他の事に付いても色々と知っていそうだが、口外する気は無いのだろう?」
「ちょっと、潜ってたりはするけど。まぁ、言い触らしたりする理由も無いし」
「そうか。だが、親父殿が気を揉んでいた先行者というのはお前だったか……」
「先行?」
少年の問いは自分が先行していた事が察知されていた事へのものではない。
先行という言葉の背後を感じ取った故のものだ。
「家の親父殿は元老院の上部組織でも発言力がある方だ。突入部隊の編成を指揮していてな」
「それって言っていいの?」
「秘密にしといてくれ」
「いいけど。あんまり行くのはお勧めしない、かな」
「そうか。中は一体どうなっている?」
少年がエンシェンに耳打ちした。
「アイウィス、だと?」
「少なくとも僕達はそう見てる」
「ふむ。五年前に転移テロで消えた都市か。調べてみる価値はあるな……」
「帰還した時の状況から言って【高格外套】並みの戦力が一個中隊以上無いと正直全滅するか、かなり厳しいと思う」
「それは秘密にしておくべき情報か?」
「情報源は秘密で」
「分かった。親父殿に進言しておこう。独自の情報網という事で伝えておく。まぁ、虎の子の部隊をむざむざ死地に追いやる事も無い。今より時間は掛かるが、装備は十分なものになるだろう」
それ以上何を聞く事無く。
エンシェンがカラッと豪快に笑い颯爽と扉を潜って去っていく。
去り際に「また貸しが出来たな」と笑みを深くしたのは少年には印象的だった。
貸しが増えたらどうなるのか。
少年にも分からない。
更なる強さを磨いて勝負してくれと申し込まれるか。
今度は最新の武器と一緒に相手してくれと頼まれるか。
どちらにしても嫌な予感しかしなかった。
「「「……」」」
三者三様の視線が少年の背中へチクチク刺さる。
だが、これでようやく終わったかと本日の難題が終わったと油断した少年に更なるオチが襲い掛かったのは刹那。
「イクス~~~」
「この声は……」
再び扉から入ってきたのはアルヴァス・カレッジであれば、然程不自然ではない女給の恰好をした二人組みだった。
今にも走り出しそうな表情の片割れが早足で少年の懐へと飛び込んでくる。
「「「?!!」」」
「璃紗?」
「うん。イクス。ふふ……」
「すみません。本来なら夕方にお伺いする予定だったのですが、学校側の書類不備が見付かり、本人同伴と言われたもので」
喋ったのは遅れてきた海洋性少女。
首筋に鰓(エラ)を持つ【月兎亭】の生き字引。
ベルンだった。
「そうなんだ」
「はい」
「まだ、連絡されていないと思いますが、この子をゼオ家へ向かわせるに当たり、女給としての仕事をさせて貰えるよう御当主様に頼みました。話し合いの結果イクス様専従の私用人として学校への派遣が決まり、こうして……リーシャ。いつまでそうしているつもりですか?」
「あ、ごめんなさい」
そそくさと離れて。
しかし、にこりと微笑んで。
跳ね乱れた長い黒髪をささっと後ろで黒のリボンで束ね、小獅子が頭を下げる。
「この度、私用人としてお使えする事になった。リーシャ・ハーモニアです」
「リーシャ・ハーモニア?」
少年に近付いたベルンがヒソヒソと耳打ちする。
「ああ、そういう。じゃあ、これからはリーシャって呼んだ方がいいのかな?」
「イクスが呼びたい方で呼べばいいわ。だって、璃紗は、リーシャはイクスだけの私用人になったんだから」
最初の時とも二回目の時とも違う。
何処か溌剌とした笑み。
それは歳相応と言っていいものだったが、少年は微妙に首を傾げた。
「いきなりでちょっと驚いたけど。じゃあ、今日からって事?」
ベルンが頷く。
「本来なら事前にお伺いして色々と準備をするべきだったのですが、ゼオ家の御当主様から先に話を進めてもいいとお達しがありまして。やはり、出直した方がよろしいでしょうか?」
「まぁ、アルゥさんが言うなら別に問題は……」
「そうですか。では、これからどうぞ璃―――リーシャをよろしくお願いします」
頭を下げるベルンに少年が「勿論」と返す。
「じゃあ、今日からよろしくね。璃紗」
「うん。頑張るから。璃紗……ちゃんと御奉仕するから……イクス」
傍まで再びやってきて少年の服の端をキュッと摘んだ少女が恥しそうに顔を俯けた。
「イ、イクスさん…そちらの方達はイクスさんのお知り合い、なんですか?」
「うん」
エストリアの顔が微妙に引き攣っているのは璃紗の様子がもう完全に自分と同じ感情を抱いていたからだ。
要は恋する乙女。
自分より明らかに幼い少女が少年へ向ける一途な想い。
分からないはずがない。
とてもあからさまで。
でも、だからこそ純粋で。
(イクスさんは…もう!! ホントにもう!!)
自分の知らないところで一体ナニをしているのか。
物凄く問い詰めたい誘惑に駆られながらも、表面上は平静を維持しつつ。
エストリアは年上として自分より年下の璃紗へ挨拶しようと近付いた。
「こんにちわ。私はイクスさんの…“親友”…エストリアって言います」
「あ、璃紗はリーシャ・ハーモニアって、い、言います。よ、よろしくお願い致します。エストリア様」
「いえ、あの、様は別に……」
クルッと後ろを振り返ってベルンに確認した璃紗は寮長の頷きにホッとした様子になった。
「それとイクスさんの“お友達”なら私にとってもお友達ですから、堅苦しい呼び方はしなくていいですよ。そういうのは好きじゃありませんから」
「じゃ、じゃあ、エストリア、さん?」
「はい。それじゃあ、これからはリーシャちゃんも私のお友達です」
パァッと笑顔を輝かせた璃紗に「う、眩しい」と後ろ暗い嫉妬や女としての対抗心を隠していたエストリアがタジタジになる。
「シルルゥ」
「?」
「ちょっとこっちに」
今まで事の成り行きを見守っていたシルルゥが少年の呼び掛けにコクンと頷いて近付いてきた。
「凄い突然なんだけど、今日から家へ住む事になったリーシャ。仲良くしてあげて」
傍まで来たシルルゥが璃紗をジッと見つめる。
「あ、リーシャ・ハーモニアです。よ、よろしくお願い致します。シルルゥ様」
「……イクスのこと、スキ?」
「「?!!」」
いきなりシルルゥが投下した発言にエストリアも美紗も固まった。
「スキ?」
再度の質問。
璃紗は後ろを振り返らず。
少しだけ躊躇した後。
しっかりとシルルゥを見つめて頷いた。
「はい。璃紗はイクスの事が“好き”です」
「「!!?」」
誤魔化しもせず。
きっぱりと言い切った潔さ。
二人が驚くのも無理は無い。
一人シルルゥだけが静かに目の前の新しい同居人を見据えて頷く。
「シルルゥ。イクスのこと……スキ。イッショ、だよ?」
「ぁ……」
差し出された手に、自分より年上ながら、自分と同じように少年を想う少女へ。
璃紗は小さく「はい」と微笑んだ。
「トモダチ」
「シルルゥ様」
呼ばれてフルフルと首が横へ振られる。
「シルルゥでいい、よ?」
「ぅ、うん。シルルゥ」
友人がいきなり二人も出来たと心の底から喜ぶ璃紗の瞳の端に煌めくものが浮かぶ。
「………」
幸せとはそういうものか。
後ろで見つめていたベルンが何処か寂しそうに嬉しそうに顔を歪めた。
巣立っていく雛鳥を見送る者の顔。
もう大丈夫だと。
きっと、これから先も生きていけると。
そんな確信を持ってベルンは少年へ声もなく頭を下げた。
頷いた少年は最後に残った紹介相手の下へ璃紗の手を引いていく。
「リーシャ。こっちは“奏美紗”……僕の……まぁ、知り合いというか。そんな感じの人かな」
「ッ」
璃紗がピクリと反応する。
ベルンも聊か驚いた様子となった。
そんな偶然があるのだろうかと。
「リーシャさん。でしたか」
「あ、はい!!」
思ってもいなかった程に優しい声で美紗が少女へ向かい合う。
「私は奏美紗。そうですね。貴方の好きなイクス・ゼオとは……“特別な知り合い”です」
「特別…?」
「ええ、特別です。これから色々あるでしょう。喧嘩したり、罵りあったり、そういう事が……でも、これだけは覚えておいて下さい。私は私の信念の為に行動しています」
「信念……」
「はい。ですから、いつか貴女をイクス・ゼオの事で哀しませたり、苦しませたりしたとしても、私は謝りません。ですが、今はまだそういう事態にはなってはいない。だから、それまでで良ければ、私と友達になってくれますか?」
今度はイクスを見上げた璃紗だったが、少年の苦笑した顔に何となく関係を察した。
「……イクスの事。嫌い、ですか?」
「ええ、大嫌いです。ですが」
「?」
「信用は、しています。其処の女たらしはそうするに値すると」
璃紗がゆっくりと手を差し出した。
「これから、よろしくお願いします。美紗様」
「はい。こちらこそ。ただ、様は要りません。美紗。そう呼んで下さい。リーシャさん」
頷いた少女が握手して。
イクスの袖を少しだけ掴んだ。
「お腹空いたから、食堂に行かない。大丈夫かな?」
「ええ。もう用事は済みましたので」
少年の問いにベルンが頷く。
「リーシャ。くれぐれも粗相の無いように」
「はい!!」
「では、私はこれで。どうか、よろしくお願い致します」
少年は無言で請け負った。
足音も立てずに扉を潜っていく育て親の背中。
最後までそれを見つめていた璃紗の顔は今までに無い大人びたもので。
少女も成長しているのだと。
少年はクシャクシャと頭を撫でる。
「とりあえず、行こうか」
人間みたいな色男(ドンファン)イクス・ゼオの噂に更なる尾鰭が付いたのは当日の放課後。
今度は幼い侍従を雇い毒牙に掛けたらしいとの話は瞬く間に学校中へ広まった。
あながち間違いでもない噂に半笑いになった少年が無言を貫いたのは言うまでもない。
*
―――アルヴァス警察機構独房面会室。
『で、だ。ヴァルトレード・ルー警部補』
本名を呼ばれて。
ヴァルは微妙に虚ろな視線を赤鬼の女に向けた。
エンシェン・イル・フォイル。
学校から直接警察機構へ出向いた彼女が最初に向かったのが、彼の下だったのは単純に現場の士気が下がりつつあったからだ。
これで現場捜査官達に何の影響も無い人物だったなら、他の誰かに尋問及ぶその他諸々を彼女は任せていたかもしれないが、現場の指揮官が相手とあってはそうもいかない。
仕事の監視が彼女の主な家からの任務であるのは自明であったが、少年と彼女を密かに付けていたという男の手並みは並々ならぬものがある。
優秀な人材を遊ばせておく事程、管理職にとって罪深い行為はない。
『何処まで見たかは聞かない。自白させる為の薬も揃えてあるが使う必要性も感じない。そういうわけで釈放だ』
「いいのか? あんなもん見ちまった奴を釈放なんかして」
四方を厳重な結界と呪符で固められた白壁。
接見する部屋を隔てる窓硝子は一見して薄そうに見えるが、百種類近くの魔術が掛かっている。
粗末な椅子は木製でくたびれた礼服(スーツ)と外套姿のヴァルは自分がまさかその部屋に入る事になろうとは運命ってやつは皮肉だな、と。
やる気の為さそうな顔でエンシェンに訊ねる。
『何か出来ると思うなら構わない。どのように言い触らそうが許可しよう。ただ、それでどうなるか考える程度の頭は期待している』
「随分と遠回しな脅迫だな」
『思っている事を当ててみせようか? あの馬鹿デカイ神様は何だったんだ。オレ達の都市はどうなっちまってるんだ。上の連中め。何を隠してやがる。アレ以外にどんな危機を秘匿してるってんだ。と言ったところか』
「……思考読まれてんじゃないか? 此処」
『生憎とこのエンシェン。読心の能力も魔術も持ち合わせていない。勿論、此処の中でそんな魔術も能力も使えないのはご承知の通りだ』
ヴァルが舌打ちした。
『知ってしまった以上は更に知りたくなるのが人の常。亜人の常。だが、それを知ったところでどうしようもないのはアレを見れば分かっただろう』
「諦めろってのか?」
『いや、逆だ。諦める必要は無い。事件は存分に追ってくれて構わない』
「何?」
ヴァルの瞳が細められる。
『ただ、その情報はどんな些細な事でも私に伝えて欲しい』
「お前ら“上”の連中が情報を欲しがる? そこまで追い詰められてると?」
『ハッキリ言うが、私は監視を任されているだけの端役に過ぎない。現場の情報統制が乱れて要らぬ騒乱や暴動が起きないようにとのお目付け役。警部補が考えている通りだ』
「随分と饒舌だな」
『このままの現状が続けば、この国が滅ぶのに一年掛からない』
「――――――」
『だが、幾つかの可能性は検証出来る』
「検証、だと?」
『そうだ。私だってこの国の生まれだ。自分の故郷をむざむざ廃国にしたいとは思わない。だが、現状のまま加速度的に霧と混乱が広がっていけば、やがては全て白日の下に崩壊する』
「何を隠してやがんだ!!? 毎日毎日!! 何人も行方不明者が増え続けてるんだぞ!!」
『霧は異相からの侵蝕合図。そして、異相から湧き出た常人には知覚不能の化物が都市に巣食い始めた。霧に近付く者は例外なく侵蝕を受け、やがて……己も化物となる』
「ッ、んだと!!?」
息をするのも忘れた様子で虎男は鬼女を凝視する。
『国は対抗策を見つける為に異相側への侵攻計画を立てているが、侵入部隊や装備はまだ開発・編成中で化物への対処は一部の部隊と大魔術師達が国を巡回する事で行っている』
エンシェンの言葉にヴァルは嘘を感じなかった。
だが、同時に訝しくも思う。
そもそも、そんな事を一警部補にバラす理由は何なのか。
「その話が本当だとして。オレに何故話す」
『この制服を見れば分かると思うが、今更に学校というものに通っていてな』
「何の話だ?」
『これが中々にして面白い』
「何の話だって聞いてんだよ!!」
『警部補。建国紀譚は知っているな?』
ヴァルが小さく舌打ちした。
「ああ、この国の亜人なら赤子だって知ってるだろうさ」
明らかに自分のペースで話を進めるエンシェンに仕方なくヴァルが乗る。
『そもそも何故この不毛の土地に亜人国家が出来る事となったか。その直接原因は知っているか?』
「あ~何だったか。確か、魔王が使った魔界と大陸を繋ぐ扉がどーたらこーたらって話だろ?」
『そうだ。千年程前。当時のこの場所には何も無かった。だが、その頃大陸へ侵攻していた魔王が散り散りに滅ぼされそうになっていた亜人や異種を集め、人間への共闘を持ち掛けた。だが、当時、人間側にも亜人との共存を望む者達がいた』
「ああ、そんなんだったか。確か、結局魔王を倒して人間側に亜人国家を認めさせたんだろ?」
『そうだ。亜人や異種との共存を人間側に認めさせる為、亜人側の人間達は魔王が設置した扉を閉ざす事を条件に魔王軍との戦闘で疲弊していた各国へ停戦合意を取り付け、その見返りに国を持とうとした』
「で、だから、それが何なんだ?」
『物語の最後。扉はどうなったと思う?』
「あれだろ。魔王に集めらた異種やヤバイ神様連中が命を掛けて封印したとか」
『その通りだ。そして、それは今もアルヴァスに存在する』
「―――何が言いたい?」
『実は大貴族の内の数家。まぁ、私の家やその他、建国に関わっていた家々には同じ伝承が残っている』
「伝承だと?」
『そうだ。建国紀譚の大本となった話だ。魔王の開いた扉を閉ざした事で周辺諸国との和平と国家承認までは辿り着いたが、扉を持つ亜人国家はそれから数百年の間、騒乱の真っ只中。だが、実際に我が国が亡びる事は無かった。それは何故か? 簡単だ。国々は亜人国家側に付いた人間達の言い分を信用しなかった。そして、その懸念は実際に正しかった』
「まさか、扉は……」
ヴァルが聞かなきゃ良かったという顔をした。
『そんな顔をするな。警部補殿が好きそうな真実とやらだ』
「真実なら何でもいいわけじゃねぇんだが……」
『扉は使える。それも伝承が残っている家々ならば、制御も可能だ』
「おいおい。物騒この上無ぇな……」
『ただ、長年の戦乱で口伝を通して位置情報を保存していた当主達は大方が後継者に何も伝える事なく死亡。結局、扉は誰にも場所が分からなくなった』
「ダメじゃねぇか。それ以前に魔界との扉を開いてどう使おうってんだ? 化物でも呼び出して戦わせるのか?」
『異相の侵蝕そのものは現在の国家規模の力があれば、従来の魔術応用でどうにかなる。問題は異相を越えて溢れ出す霧だ。国土全域から溢れ出す霧を常時防ぐ手段は今のところ我が国には存在しない。ただ、一つの方法以外は、な』
ヴァルが苦々しい顔となる。
「話は見えてきたが……本当に有るってのか。その扉があの学園に」
『問題は扉そのものが異相と繋がるものだと言う事だ。現在のアルヴァスの異相環境から言って、あの学園がアルヴァス崩壊の引き金になる可能性もある。だが、同時に破滅を回避する希望ともなるかもしれない。では、あの学園で私は何をすればいいのか?』
「オレが答えを持ってねぇのは確かだな」
『警部補。此処まで話したのはこの機会に加わるかどうかを聞く為だ。この話は上にもしていない。いや、したところで実現の可能性が殆ど無く危険視された挙句、却下だろう。理由は単純に“爆弾を爆発させず、上手く使えるとは限らないから”だ』
「もし断れば?」
『釈放後、全ての記憶を削除させてもらう』
「この事はあんたしか知らないんだな?」
『誓って。警部補以外には教えていない』
「オレに何をさせたい?」
『学園内部にいる生徒・講師・その他関わっている全ての者を洗って欲しい』
「理由は?」
『扉の情報を私に送ってきた存在がたぶん学園に深く関わっている』
「自分で調べたわけじゃねぇのか?」
『扉の位置をご丁寧にも地図付きで送ってくれた奴がいる。だが、その誰かはそれ以上の事は何も伝える気は無いらしい』
「本当に扉なんてあるのか?」
『本体をもう確認した。ただ、問題が一つ』
「何だ?」
『扉は特定の存在にしか操れず制御出来ない。先程言った通り、伝承を伝える家々の血筋の者だ。しかし、伝承を伝える家々に操れるだけの力を持った者が現在公式に存在しない』
「はぁああ!? 一番の問題じゃねぇか!?」
ヴァルが面食らった様子になる。
『残念な事に血統の力というのはどんな亜人も例外なく大陸では薄れて来ている。そもそもが異種と人間の混血で生まれたのが我ら亜人。祖先たる異種がいなければ、血は人間側の優性遺伝を受け継いで薄まっていく。まぁ、前々から【藩落】の書籍を研究した結果は正しいらしい。一番血が濃い我ら【赤鬼(ラルヴァ)】を初めとして力の強い【王狐(ヴルペス)】や奏家の者の遺伝情報もこっそり試したが、反応が薄い上、異相を不安定化させる危険が隣り合わせだった。ははは』
「笑い事か!?」
『笑わずにやっていられるか、というのが本音だ。一応、発動と制御はいざとなれば、幾つかの最終手段がある。ただ一番良いのは場所を知っていた何者かから扉の情報を得る事。裏技でも何でもいい。とにかく、迂闊に実験も出来ない以上、一欠けらでも情報が欲しい。だが、この一件を私個人の力で調べるには限界がある』
「そこでオレの出番ってわけ、か」
『さっそくで悪いが答えを聞かせてもらおう。明日、要人と会う約束があってな。これから準備に色々と忙しい』
ヴァルはフゥッと溜息を吐いた。
今までの話が嘘とは思えない。
しかし、だからと言って迎合するには抵抗がある。
実際、市民に犠牲者が出ていると聞いて、そのままにしておくという選択肢は彼の中に無い。
「一つ聞きたい。化物ってのはあの地下にいた連中みたいに強いのか?」
『戦うなら魔術師の中位以上の能力が必要だ。【崩燼武装(ソルヴァス・アームズ)】での大規模掃討は現在の戦力でも可能だが、問題は霧での長時間活動が化物への変質を招く点にある。幾ら強くても霧からの干渉を防げなければ、化物になるのは必至。強い味方が敵に寝返っていくのでは最終的に勝ち目が無い。だからこそ、上も手を拱(こまね)いている』
「そういう事か……霧は個人の魔術じゃ防げないのか?」
『防げるとも。だが、長時間の運用に耐え、魔力消費も少なく、相手からの攻撃を受けて負傷しても霧の影響を完全に遮断する魔術となると話は別だ』
「開発中って事か?」
『そうだ。【崩燼機関】製の遮断装置も開発中だが、時間が掛かる。例外はあるが、基本的には短時間の戦闘しか出来ないと考えていい』
「あんたとあの従者の兄ちゃんは大丈夫だったはずだ。例外とやらは?」
『御伽噺にも出てくるだろう? 人と亜人の恋物語でよく使われる小道具が』
「人化の秘宝ってやつか……」
『あれは人間への変質を肉体へ強いる物。変質を防ぐのには今のところそれ以外無い』
「だが、それさえあれば……」
『言っておくが、勧めない。対策を立てる研究初期に途中で投げられた案だ』
疑問を先回りして答えるエンシェンにヴァルが顔を顰める。
『人化の秘宝の数が少ない。量産はどんなに頑張っても百年掛かりの大事業。ついでに霧の中で人化の秘宝を使い続けると霧の変質を人化する過程において固定化が発生すると分かった』
「固定化?」
『人間化した部位が変化後、戻れなくなる。それも疵を負えば負う程に顕著な反応が出てな』
エンシェンの言葉にヴァルは「そういう事か」と納得した。
「一人で戦える相手ではない。同時に戦ってもいけない。そして、関わってはならない。あちら側に戦力として吸収される事を防ぐ目的で今の現状が完成している以上、突出した戦力に霧への対策を与えられるまで我慢してもらうより他無い」
ヴァルがエンシェンの言い様に核心を問う。
「―――無垢な民を見殺しにしてか?」
『ちなみに首都へ戒厳令を敷いて外出を控えるよう措置を取らない理由も化物化する者を減らす為だと理解してもらおう』
「言い訳じゃないのか?!」
『化物化した者は基本的に変質した部位を持つ者程に強く認識出来るようになる。認識出来るようになれば、襲われる。つまり、屋内での化物化は……魚の入った水槽に天敵を入れるようなものだ。基本的に屋外での化物化が望ましい』
「必要な犠牲なんぞクソ喰らえだ!?」
『いや、最小限の犠牲に留める知恵だ』
言い切った赤鬼の顔も冴えない。
『警官一人が思いつくような解決策を上が取らないと思うか? 誰もを救いたいと願うからこそ、最も合理的な判断をするべきだ。それで目の前の被害者を無視しろとは言わない。だが、警部補。その正義感で更なる犠牲者を増やす化物となった時、貴方はもう其処にはいない。被害者を増やしたくないなら、戦闘は極力避け、同時に救える者に優先順位を付けるべきだ』
「優先順位だと?!」
『貴方の手の届く場所。貴方が救えるだけの人。それ以上は不可能だと認めろ。我々は神でもなければ、超越者でも無い。否、そのような存在だろうと真に万能たる者は殆どいない。救える者は全力で救って貰って構わない。だが、化物化を押さえる方法が現実的でない以上、最大の救いは化物となった者達が被害者を増やす前に、己の家族や恋人、同僚、そのような人々を不幸とする前に……眠らせる事だ……』
「………」
拳が壁に叩き付けられる。
血が滲んだ白壁から一筋、紅が伝った。
「資料と装備は明日中に届ける」
もう話す事は無いと鬼女が立ち上がって後ろを向いた。
「おい!!? まだ、オレは!!」
『警部補。救いたいならば、全力で任に当たれ。このエンシェンの目に狂いが無ければ、貴方はそれが出来る者のはずだ』
「どうして!! オレなんだ!! 御用聞きなんぞ幾らでもいるだろう!!?」
『この難事に立ち向かえる者が必要だ。そして、それは我らのような管理者だけではない』
言い募ろうとするヴァルはようやく相手の小ささに気付く。
例え、赤鬼だろうとも聞かされた内容を背負うにはまだまだ、その背中は若かった。
(……ちゃんと立派なつもりでいやがる……)
自分の背中はこんなに立派だっただろうかと。
若者に重い荷物を背負わせてばかりではなかったかと。
ヴァルはまだ娘のような歳の相棒の顔を思い浮かべる。
「……一つ条件を呑め」
『出来る事ならば』
「戻れなくても構わん。オレに人化の秘宝を寄越せ。話はそれからだ」
エンシェンが頷き扉を出た。
『……承知した』
閉まった鋼の先でそう声がして。
一人取り残された男は何も無い天井を仰ぎ、嘆息する。
これが最後の事件(やま)になるかもな、と。
「……やってやるよ。あいつらに国も残せなくて何が大人だ」
未だ若い同僚達。
これからの未来を背負っていく相棒。
その顔を思い浮かべながら、ヴァルは釈放を待ち続けた。
今度の上司に柄でも無く入れ込み始めた自分を感じながら……。
*
夕暮れ時。
さすがに部活も休みな放課後。
イクス・ゼオと愉快な仲間達の旅路は何故かエストリア御用達な市場まで拡大していた。
と、言うのも一通りの雑貨はゼオ家へ学校の道すがら運んだらしいものの、未だ生活するには足りないと璃紗が打ち明けたからだ。
授業が終わって即行で集った面子。
エストリア。
美紗。
シルルゥ。
彼女達は授業中ずっと講堂の外で待っていた璃紗を巻き込んで少年の下へ押し掛けた。
エストリアは「イクスさんは女の子の味方ですよね?」と市場行きを押し。
美紗は「イクス・ゼオ。貴方に慈悲と亜人の心得があるならば、分かっていますね?」と脅し。
シルルゥは「イッショに買い物……」と道草なんて一度もした事の無い優等生発言で少年の良心を刺激した。
(……どうしようかな……)
結局、三者に押し切られる形で市場へ向かった少年であるが、少年にも少年の事情というものがある。
シルルゥを早めに自宅へ送り届けて。
必要物資の補給へと向かおうとしていた矢先の市場行きは予定を大幅に狂わせた。
武器の一つも無く霧の出始める夕暮れを迎えるという事態。
今日のところは大人しく家に帰るべきかと思案したのも束の間。
モム。
「………いつもみたいに飛びついて来ないところは褒めてもいいかな」
「マ~ヲ~」
珍獣。
魔術も使える少年の頭が大好きな黒猫?が前日ぶりに頭部を占領していた。
「そう言えば、途中でいなくなってたけど、大丈夫だった?」
「マゥ」
何の事やらと惚けた様子で首を傾げる獣はいつも通り。
微妙に少年が胡散臭いなぁと感じている途中で背後から黄色い悲鳴が上がった。
「あ~黒猫さんじゃないですか!!」
テンション上げ上げな様子で駆け寄って来たのはエストリアだ。
『そんなのイクスさんには見せられません(キリッ)』と言い出した彼女は他の少女達を伴って贔屓の店に入店していたのだ。
主に女の子にしか分からない生活雑貨の入った紙袋が片手にある。
一人女の子トークに付いていけない聡明なる少年は生理用品の【東象文字(イースタン・キャラクター)】を店の看板横に解読するも何も言わず。
早くも出てきたエストリア他三人の少女達も少年の頭上でダラリと堕落している黒猫を見て駆け寄ってくる。
「イクス。おトモダチ?」
シルルゥが顔を綻ばせてツンツンと黒猫の尻尾を突いた。
「まぁ、そんな感じな知り合い?…かな」
「イクス・ゼオ。実際、この子はどういうものなんです? 明らかに普通の猫とは違うようですが」
美紗が微妙な視線で黒猫を見つめて少年へ尋ねる。
「僕に聞かれても」
「マゥ~~?」
少年に合せてか。
さぁ、と首を傾げて惚ける黒猫は明らかに会話の内容を理解している様子だったが、少年以外には可愛らしい仕草をしたという風にしか見えないだろう。
「あ、この間の猫さん……元気だった? ふふ」
璃紗が黒猫の背中を撫でる。
心地良さそうに尻尾がプラプラ左右に揺れた。
一頻り少女達が撫で終ると既に空は紫雲を靡かせ、宵が近付いていて。
「そろそろ帰ないと皆さんの御家族も心配されます。行きましょう」
美紗は霧に覆われる前に帰ろうと音頭を取って帰宅を促した。
全員が頷き。
再び東部への帰途に付く。
エストリアは美紗が送っていく事となり、途中で惜しみながらも別れ。
残るシルルゥと璃紗はこれから同じ屋根の下で暮す事になる為、少年と共にゼオ家へ。
一時間も歩けば、やがて小さな館が見えてきて。
三人揃っての帰宅となった。
『ただいま』との挨拶も家にいるはずの家主が不在では『お帰りなさい』とは返って来ず。
食堂のテーブルに置かれていた一枚のメモと三人分の夕食が三人を出迎えた。
黒猫は何故か館に入る直前に物凄い勢いで消えてしまった為、正真正銘三人切りである。
「帰りは明日になるって書いてるから。今日は一緒に食事しよっか?」
「ホントウ!? イクスいる?」
シルルゥが少年の横で目をキラキラさせる。
いつも夕食はいない少年が今日はいると言う。
新しい同居人までいるのだから、心が躍らないはずもない。
「イクス。給仕するから。ちょっと待ってて」
さっそく準備しようとする璃紗を少年の手が止めた。
「イクス?」
「此処に三人分あるって事はアルゥさんは一緒に食べて欲しいって思ってるんだと思う」
「そう、なの?」
「うん。まぁ、一応知らないお客の人が来た時はそれでいいと思うけど、僕達といる時はそういう事はしなくていいと思う」
「でも……璃紗……」
「僕はそうして欲しい。シルルゥは?」
「イッショにゴハン。食べよう?」
二人に言われては断り切れず。
何処かソワソワしながらもコクンと璃紗が頷いた。
「じゃあ、そういう事で」
常に母と二人の夕食ばかりだったシルルゥは「ハハサマもいればいいのに」と少し残念そうにしながらも、少年と璃紗がいる食卓が大いに満足だったらしく。
鶏肉と野菜の葡萄酒煮を最後まで笑みを浮かべながら平らげた。
食事が終わるとさすがに璃紗がこれだけは譲らないと皿洗いを買って出て。
少年はリビングで学園からのお知らせだの書類だのの整理。
シルルゥは真面目に今日の復習と明日の予習。
三者三様に時間は過ぎていった。
少年が書類を確認し、三日分の課題をザッと終わらせた頃。
早めに自室から引き上げて来たシルルゥが少年の座るソファーの横に座ると身体を預けた。
「もう少ししたら、終わるから。それまでちょっと待ってて」
「うん」
寄り添い目を閉じたシルルゥの顔は笑顔だ。
何をしなくとも。
ただ、傍にいて温もりを感じる。
橙色の仄かな明かりの下。
少年の横顔を見上げるだけで幸せな心地になった少女は少年に撓垂(しなだ)れ掛かる。
「♪」
ようやく全ての書類を鞄に仕舞い込んだ辺りで調理場から璃紗が戻って来た。
「イクス。シルルゥ。お片づけ終わったよ?」
「ありがとう。璃紗。もう休んでいいよ」
「はい」
すぐ近くまでやってきた璃紗がソファーの横にまるで控えるように立ち不動となる。
「……璃紗?」
「どうかした? イクス」
「いや、休んでいいから、座っても……」
「璃紗。今日から此処の女給だから、その……家の人の前では寛いだりしちゃダメだと思う……」
「別に僕は気にしないけど。アルゥさんもシルルゥもそういうのを気にする人じゃないし」
「…イクス…優しいわ…でも、こういうのはちゃんとしたい…ダメ?」
「璃紗がそうしたいなら構わないけど、辛くない?」
璃紗が首を横に振った。
「こんな風にイクスと居られる。璃紗を身請けしてくれた……辛くなんてないもの」
「ミウケ?」
微妙に話もせず少年の感触に恍惚としていたシルルゥが首を傾げた。
「まだ、シルルゥは知らなくてもいい言葉、かな」
半笑いで少年は苦笑して。
無言で璃紗が控える事に頷く。
その後、璃紗が妙に気を利かせるというか。
飲み物や摘むものでも持って来ようかと少年に訊ねるものだから。
少年は早めにリビングから切り上げ、身体を洗う事とした。
当然のように背中を流そうとする璃紗だったが、少年はシャワーのみだからと断り。
シルルゥは一緒に入ると駄々を捏ねたものの。
今日は早めに寝たいという言葉に頬を膨らませて。
結局、少年は屋根裏部屋へ早々に舞い戻った。
室内は暗い。
寝台と言っても上等な敷布(マットレス)が床に直接敷いてあるだけだ。
読み物、書き物が出来る机が一つ。
後は何も無い。
天蓋に嵌った小窓と寝台の寄せられた窓からは五年前からの月明り……つまり夜、天蓋蒼星の眩い輝きが見える以外は然して利点も無い。
久しぶりに早めの就寝時間を迎えた少年は眠気も襲って来ない為、一人には大き過ぎる寝台の上で天井を眺めていた。
(………)
今まで自分が相対してきた少女の態度とは違う。
娼婦として懸命に在ろうとしているところは何も変わっていないが、微妙な璃紗の差異が気になった。
今日も天真爛漫というよりは何処か意気込んでいたのだ。
それは身請けされた故かもしれないが、それにしても一歩引いたような感があって、前より距離が開いたような気もしていて……。
コンコン。
僅かに入り口である床が鳴る。
「どうぞ」
カポッと床の扉が持ち上げられた。
「あ、イクス。此処がイクスのお部屋?」
「璃紗?」
「その、ちょっと、いい?」
「いいよ。重いだろうし、こっちに」
「う、ぅん」
扉を嵌めて。
おずおずと少年の寝台の横までやってきた璃紗はもう一般的な寝間着(パジャマ)姿だった。
レース地の黒いドロワーズに上着。
子供っぽいという程ではない淑やかなものだ。
「此処、初めてで分かった?」
「今日、御当主様に教えてもらったの……」
「アルゥさんに?」
コクンと頷きが返される。
「あ、ぁのね……イクス……」
何処か躊躇う仕草に少年は寝台横を空けて。
此処に座るよう促した。
「///」
璃紗が寝台に足を崩す。
「……今日、もう疲れてる?」
「え、いや、別に疲れるとかは……まぁ、驚いたりはしたけど」
「そう、なんだ。その…それじゃぁ、えっと、ね……」
おずおずと少年に身を起こしている少年の胸へと璃紗が身体を寄せた。
「璃紗と……遊ぶ?」
微妙に媚びた視線。
上目遣いに見上げる瞳。
蒸気した頬が色付く。
言葉の内容なんて聞かずとも理解出来た少年は少しだけ考えて少女の身体をそっと腕で抱いた。
「ぁ……」
胸に引き寄せられた事を肯定と受け取った璃紗が全身の力を抜く。
「璃紗……」
「ん」
少年の声にもう声を蕩けさせながら、小さな顔が少年を見上げる。
「少し、聞いていい?」
「ぅん。イクスが聞きたい事なら」
「無理、してない?」
「え……?」
固まった少女の視線が揺らいだ。
自分は何かを間違えただろうかと。
相手にそう思わせるような行動をしてしまっていただろうかと。
「何か。今日はいつもと少し違ってたから」
「そ、それはイクスに身請けされて、その…色々変わらなきゃって思ったから……」
「自分を抑えてない?」
「っ」
ドキリと脈打った己の内に璃紗が自分でも思ってもみなかった程に動揺した。
「この間言った事。覚えてる?」
「えと……友達になりたいって事?」
「そう」
「で、でも、璃紗の事。イクスは高いお金を掛けて身請けまでしてくれた! それに璃紗もイクスの役に立ちたいって思うの!! まだ一杯至らない事ばっかりだけど、イクスにも私の事買って良かったって…傍にいてくれて嬉しいって…思って欲しいの……」
「ありがとう」
少女の頭を撫でながら少年が微笑む。
「そういう風に言ってくれるのは凄く嬉しい。でも、ちょっとだけ言わせて」
「イクス…?」
璃紗が含みのある言い方に何処か不安そうになる。
「僕は君が娼婦だから、身請けしたわけじゃない」
「――――――」
「僕は君が、君だから、身請けしようと思った……それは君を娼婦として独占したいとか。そういう気持ちからかって言えば、答えは少し違う」
天の蒼光が少年の顔を暗く影に落す。
少女は静かに見上げた顔の輪郭が笑むのを見た。
「君が娼婦として仕えようとしてくれる事。分かってる。沢山沢山考えて、そうしようって決めたんだと思う。でもね」
少年の唇がそっと額に口付けする。
「君が君じゃなくなったら、僕は悲しい」
「かな、しい?」
「うん。人は誰かになりたいと何かになりたいといつも望んでる。それは亜人も同じ。将来の職業とか、尊敬する人とか、そういう憧れや尊ぶ気持ちは少しも悪くなんてない。でも、それに全てを掛けて自分を捨てたりして欲しくないんだ」
「……イクスは璃紗に……娼婦になって欲しくない、の?」
緩々と少年は首を横に振った。
「君の決意を、君の想いを、否定する権利なんて僕には無いよ。ただ、それだけが自分の全てだなんて思って欲しくない。君が君である事。それはそれだけで掛け代えの無い事だから」
「……掛け代えの無いって?」
「えっと……僕達が最初に会った時の事。覚えてる?」
「凄く…失礼な事したわ……」
曇った顔を見て。
少年が指で顎を上げさせる。
「本当の事を言うと。少しだけ僕は君が眩しかった」
「え?」
「君は僕の事を嫌いだと全身で言ってた。でも、そんな君を傍にいた誰も咎めたり、告げ口したりしてなかった。君の事を誰もが想ってた。そうじゃなかったら、あそこであんな風にベルンから怒られる事だって無かったんじゃない?」
「…それは……」
「自分の意見をこんなにハッキリ言える子がどうして自分を嫌ってるのか。もし仲良くなれたらいいなって。僕はそう思った……少なくとも娼婦って言うのは世間から言ったら恵まれた職業じゃない。でも、君はそういうものに本気で成りたいと、それでも自分の気に入らないものには屈したくないと、ちゃんと主張してた。自分があんな事をしてどうなるか、少しでも分かってて、それでも君はそうした」
「ぁ、ぅ……」
言い淀む少女の頬にまた口付けが降る。
「璃紗。僕は君が欲しい。娼婦の君だけじゃない。僕に逆らう君も、僕が嫌いな君も、僕を拒む君も、それは全部君だから。僕の私用人。僕の娼婦。リーシャ・ハーモニアも。僕に真っ黒な顔なのに輝いて魅せた奏璃紗も」
まるで百面相。
何を言えばいいのか。
何を語ればいいのか。
必死に考えた少女の顔が最後に少年と少し似て。
苦笑を浮かべた。
「……イクス」
「何?」
「イクスって……きっと、世界一我侭だと思うの」
「自覚してる」
「でも、凄く優しいわ」
「本当はそんなんじゃないんだけどね」
「決めた」
奏璃紗(リーシャ・ハーモニア)が少年の顔を両手で包んだ。
「ベルンは娼婦は娼婦のまま。生きなきゃダメだって言ってた。迷惑を掛けちゃいけないって。だから、これからずっとイクスの為に生きようって思ってた……でも、イクスが望んだ璃紗がそれだけじゃダメなら。ん……」
唇が奪われて。
「ん……」
少年が瞳を閉じる。
少女も瞳を閉じた。
やがて、ゆっくりと離された幼い唇が悦びに震えて、小さく紡ぐ。
「覚悟してもらうわ」
最初に会った時の挑戦的な目付きとも違う。
女とも少女とも付かない初々しさで愉悦も歓びも我が内だと言わんばかりの強かな笑み。
「一杯、可愛がってもらうんだから」
「うん」
「沢山、我侭言うんだから」
「うん」
「その代わりにね」
少年の指を両手で少女は自分の下着の中へと導いた。
「璃紗の此処。小っちゃい…おまんこもおしりも赤ちゃんのお部屋も卵も全部あげる。イクスだけのものにしていいの。イクスの子種で孕ませてもいいの。好きな時に使っていいの。無理やりだっていいの。お口でだってするわ。どんな恰好をしたって構わない……だから……」
クチュリともう蜜で熱く濡れた下着が鳴った。
「ずっと、傍にいて……璃紗を……イクスの娼婦にして……イクスだけの女に、して?」
答えはとても簡潔に。
「頑張るよ。約束してもいい」
「うんっ!!」
輝くものが照らす蒼を映し出す。
世の宝玉の全てを足しても、その煌めきには及ばない。
そう、魂の何処かが知っているから。
少年は再び少女の唇を奪った。
甘く甘く。
壊さぬよう優しく。
吐息零す身体はもう待ち侘びて。
「イクス……大好き」
そう寝台に沈んだ。