※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第三章二十三節

第三章二十三節「アルヴァス・スタッカート」

 

―――昼時アルヴァス・カレッジ第二校舎屋上。

 

「はぁ……」

 

 空を見上げる恰好のベンチでねこ型バッチ付きの靴がプラプラ揺れていた。

 

 短いスカートが風に吹かれれば、中身を開陳しそうではあるが、絶対領域を侵すべからずとそのような都合の良い風は吹いていない。

 

(イクスさん。今日もいませんでした……)

 

 細い楕円形の個性的な眉が八の字になっていた。

 ハイダル・エス・トリア。

 自称イクス・ゼオの親友。

 彼女にとって昼時と言えば、今までは楽しい一時だった。

 

 孤独ではあったが、哀しくは無く。

 一人ではあったが、寂しくも無く。

 

 好きな昼食を気楽に食べる時間というのが常。

 

 それが変わったのは近頃になって幸せの味というものを知ってしまったからかもしれない。

 

 例えば、友達や仲間と呼べる人達と話しながら食事を取る一時。

 それは今までより温かかく心地良い時間に違いなかった。

 

(誰かとご飯を食べるのって楽しい事、だったんですね……)

 

 朝食、昼食、夕食。

 

 三食いつもいない母と食事をするなんて一年に三回有るかどうか。

 変態魔術師な兄はいつも研究だ魔術の実践だ教団の管理だと忙しく。

 月の半分も供に食事をする機会が無い。

 

 朝はずっと寝ているし、夕食の時間は不規則で、夜食が朝食のような人間なのだから仕方ないだろう。

 

 そうなれば、朝は自分で麺麭を一欠け。

 昼は学食で一休み。

 夜は市場の屋台で。

 という具合に食事の習慣が固定化されるのも道理だ。

 

 別段好き嫌いも無い彼女にとって、食事とは甘いもの以外は特に拘るようなものではなかった。

 

 それがずっと普通だと思っていたのは此処最近までの話。

 今では何だか一人で食べるのは味気ないと感じるまでになっている。

 

(あのバツバ―――美紗さんを誘ってみる、とか?)

 

 自分で思考しながら、彼女はすぐ気まずい空気になるのが関の山だと理解した。

 

 根本的に最初の出会いが悪過ぎた事に加え、今は面と向かって批判する要素こそ無くなったものの、まだ少年との遺恨が残っている。

 

 そうである以上、単純に昼食へ誘えるような相手ではない。

 

(ジルムスさん、は……ダメですね……)

 

 昼食時に巨漢と供にいる姿は傍目から見てもシュール過ぎる。

 

 そもそも要らぬ噂を立てられて少年に知られては事だと。

 エストリアの脳裏で瞬間的に女の打算が働いた。

 

(イクスさんにも誤解されちゃうかもしれません……今のはやっぱり無しの方向で……)

 

 ならば、と兄の姿を思い浮かべてみるも、兄が学校にいたら、それだけで彼女は恥死しかねない。

 

 過去の人ルックな魔術師に妹自慢なんてされた日には首を絞めて校舎上から投棄てたくなるのは確実だ。

 

(うぅ……やっぱりイクスさんとの昼食が一番です……あの子もいるし…)

 

 まだちょっと距離があるリーシャとは少年と共に会話しているとかなり楽しい。

 

 それは確かだ。

 

 歳が少し離れてはいるものの、ハキハキと受け答えする小獅子は心象的に一番同性としては親しみ易かった。

 

(シルルゥさん、でしたか。あの子は……お兄さんとして…好き…なんですよね。きっと……)

 

 一緒の家に住んでいると紹介された目立たない容姿の少女。

 

 少し言葉が拙くて。

 

 それでも璃紗と何やら分かり合っていた様子はエストリアの瞳にしっかりと焼き付いている。

 

(……二人ともイクスさんの事好きって言ってましたけど、お兄さんが好きとか。家の主人として好きとか。色々ありますよね?)

 

 まだ自分よりも年下なのだから、沢山の好きが入り混じっているに違いないと彼女は自分を安心させる。

 

 女性としての好きも多分に含まれているとしても、それはきっと年頃の少女の麻疹(はしか)みたいなものに違いないと自分の事を棚に上げて。

 

「うぅ……前途多難です……」

 

 少年にとって、その一つであるとの自覚も無く。

 牛肉と鶏肉のサンドイッチが一口齧られた。

 

「イクスさん。一体、何処に行っちゃったんですか……」

 

 *

 

―――アルヴァス・カレッジ武芸術部

 

 数日振りに己の居場所へと戻って来た女が一人。

 いつもの席へ腰掛けて紅茶を嗜んでいた。

 部長ウル・エイフォン・バーゲルその人である。

 

 今日は仕事があると恩人である赤鬼女(エンシェン)が昼時に来て早々、後(のち)の少年の来訪を告げてから出て行った為、置かれたカップは二つ。

 

 テーブルの上には朝から市場へと出て買ってきた菓子入りの紙箱が添えられている。

 

 ソワソワと落ち着かない様子で彼女が自分の銀の巻き毛を弄り始めて彼是三十分。

 

 その理由は超大幅に増量されて新調した制服の中ではち切れんばかりに震える乳房(おっぱい)のせいかもしれなかったし、あるいは自分の初めてを捧げた男とあの日以来の再開となるからかもしれなかった。

 

 いつ来るのか来ないのか。

 扉にチラチラ視線を向けて。

 薄化粧した顔は大丈夫かと。

 はしたない顔になっていないかと。

 そう小さなコンパクトで確認する事、二十五回。

 

 傍目にはこれから部活をするというより、デートでもするのかと聞きたくなるような様子である。

 

(ああ、イクス…まだ…来ないの…?)

 

 銀の尻尾がフリフリと楽しげに揺れて。

 

(あ、ぅ…また……///)

 

 ウルは高鳴る胸から甘い痺れを感じて自分の乳房を締め付ける下着代わりの肉紐を意識した。

 

 少年に抱かれた翌日。

 

 病院で検査をしてから医者に背中の触手に付いて簡易のレクチャーを受けた。

 

 その言葉によれば、彼女の意思に呼応して動く事から危険性は無く。

 

 また、精神中枢と直接繋がっている触手は丁寧に扱った方がいいとの話だった。

 

(合う下着が無い、だなんて……それにしても……大きく成り過ぎ、ですわ……)

 

 赤くなりながら、ウルは自分の下半身を完全に隠してしまう乳房に視線を向けた。

 

 おもむろに片手で下から持てば、ズッシリとした重量感が自身でも感じられる。

 

「ん…」

 

 薬で発情を抑え、感覚を鈍くしているとはいえ、それでも彼女の体は完全に牝として出来上がってしまっていた。

 

 医者の話に拠れば、子宮の形や大きさも既に普通の亜人のものではなくなってしまっていると言う。

 

 胃が大きく変化した為か。

 

 肛門から続く腸は完全に膣化していて、その奥は第二の子宮口となっているらしい。

 

 臍もまた内部が第三の膣と子宮口となっていて、少年の精が溢れたのはそのせいだろう。

 

 三つの膣と子宮口。

 

 そして、巨大化し厚く変形した子宮は大量の胎児を育成する為のもの。

 

 正に自分が化物の赤子を孕む為に改造されたのだと知った彼女は内心、大きく揺れた。

 

 それでもそれを正面から受け止められたのは少年に掛かるところが大きい。

 

 少年と共に味わった女の悦び。

 

 例え、それが化物達の為に作られたとしても、初めてを、自分の大切な場所を使ったのは一人だけなのだ。

 

 それはきっとこれからも変わらない。

 

 今も下着の中で擦れる剥き出しの陰核(クリトリス)も全ての膣と子宮口、子宮そのものと卵巣。

 

 どれも捧げる相手は決まっている。

 自分の腹を満たした熱い精の感触。

 

 プチプチと弾けながら心も身体も堕落させてしまう少年の子種。

 

 改造され小さくなったグチャグチャの秘部(すじ)に捻じ込みながら達した時、感じた悦楽は凡そ常人が耐えられるようなものではなかった。

 

 今も蠢く襞が待ち侘びている形がハッキリと下腹部に意識されて。

 

 此処は学校という事も忘れてウルは両手で乳房へ触れようとし―――。

 

 コンコンと音がして。

 彼女はたぶん人生最速で両手を引っ込めた。

 

「ど、どうぞ……」

 

 扉が開くと少年が彼女の方へと少し早足になってやってくる。

 

 制服に外套一つ。

 

 真っ正直に部活をしに来たのだと彼女にも分かった。

 

「あ、大丈夫だったウル?」

 

 あんな事をしたのに少し心配そうな笑顔。

 

 少なくとも前と変わらぬ距離感で接してくる少年に何と返すべきか。

 

 一瞬、迷った彼女だったが、前と変わらぬ関係も心の何処かで望んでいたのか。

 

「え、えぇ、あの後、色々と病院で検査や説明を受けていて。それで学校に出てくるのが遅くなっただけですわ」

 

 そう返していた。

 

「そっか……良かった」

 

 少年の微笑みにドキリとしたウルが高ぶりそうになる自分を抑えながら席に座るよう薦める。

 

「あ、その、今日は使用人の子も来てるんだけど、外に待たせておくのはちょっと忍びなくて。一緒でいいかな?」

 

「そ、そうなの……別に構いませんわ。使用人を労わる事は貴族の流儀に反しませんもの」

 

「じゃあ、璃紗」

「はい…イクス…」

 

 オズオズと控えめに入ってきた女給姿の璃紗が少年の座った椅子の横まで来るとウルへ頭を下げる。

 

「リーシャ・ハーモニアと申します。ええと」

「わたくしはウル。ウル・エイフォン・バーゲルと言います」

「あ、はい。ウル様。これからどうぞよろしくお願い致します」

 

 懸命に自分の主に恥を掻かせないよう礼を模(かたど)る少女にフッとウルが微笑む。

 

「あまり固くならずに。此処にいるのは貴方の主とわたくしだけですもの。イクスにするような言葉遣いで結構よ」

 

 少年に視線を向けた璃紗が頷きを返されてコクンと理解を示した。

 

「はい。ウ、ウルさん…?」

 

「それでいいですわ。貴方みたいな良い子は好きですよ。璃紗さん。ふふ」

 

 自分の半分も生きていないだろう少女の頭をウルが撫でる。

 

「ぁ…」

 

 誰かから褒められる事に慣れていない璃紗が照れた様子で手を受け入れた。

 

「それでこれからどうするか決まった?」

 

 少年からの問いに彼女が撫でるのを止めて向き直り、近頃のあらましを報告する。

 

 数日間、病院に通いながら母親とポツリポツリ話した事。

 

 戻って来ないかという言葉に心動かされたものの、まだ自分の遣りたい事を成し遂げていないと母にやんわり断りを入れた事。

 

 身体の事を心配してくれた事に感謝し、父にありがとうと伝えて欲しいと言伝した事。

 

「……まだ、わたくしには……帰れるだけの自信も力も成果も無い……だからこそ、まだ戦わなければならない。いえ、戦いたいのです……」

 

「それがどんな戦いであれ?」

 

「はい。今更途中で投げ出したら、今までの自分を全て否定するような気がして……それに今なら出来る気がするの……貴方に言われた事もちゃんと……」

 

 戦い方を間違えたのだとそう理解しながらも、戦うと伝えるウルに少年は異を唱えなかった。

 

「それが君の答え?」

 

 大きく頷きが返される。

 

「ずっと、わたくしは愛されていた。父も母も本当はわたくしを愛してくれていた。それなのに今までのわたくしは貴族という言葉に固執し、誰の言葉にも耳を貸そうとはしなかった……今回の事で自分の愚かさが身に染みました……戦いだけを求めた結果がどのようなものか……それにようやく気付いた……でも、だからこそ、今度は本当の、わたくしが出来る戦いを始めたい……そう、心から思います」

 

 今までの戦いへの頑なさとは違う。

 しなやかさも感じさせるウルの笑みに少年は同意する。

 

「うん。君がそう決めたなら、きっとそれがいい。ただ、戦えばいいだけじゃないって、感じられるようになった君なら、前より沢山のものが守れると思うから……」

 

「ぁ…ありがとう。イクス……」

 

 そっと少年の手が握られた。

 

「たぶん、これから、身体の事で色々あると思いますわ。けれど、貴方が教えてくれた事、貴方が教えてくれた強さ、それがあれば、きっと乗り越えられるとわたくしは信じます……」

 

「ウル……」

 

 璃紗は貴族の女の嫋(たお)やかな笑みに少年との関係を直感的に察した。

 

(イクスとウルさんて……でも、イクス。エストリアさんやシルルゥにも……)

 

 もしも、少年にゼオ家で初めての夜にそのままの自分でいる事の大切さを説かれなければ、璃紗がその光景に割って入る事は無かっただろう。

 

 だが、友人関係を壊さない程度に自分を出すならば、それは我侭の内だろうかと。

 

 少しだけ背中に寄って、少年の服の端を握った。

 

「その……お医者様からはまだ激しい運動は控えるよう言われていて、本格的には出来ないのだけれど、か、身体を解す事は出来ると。それで…軽い体操くらいなら……」

 

 少年は戦う為、ウルに言われて部活へ入った。

 

 それを考えるなら、そんな基礎的な事をさせるのは心苦しいというものだ。

 

 しかし、今の自分と少年で出来る事はこれくらいだろうとおずおず小さな声が切り出す。

 

「じゃあ、そうしよっか」

「え、ええ!!」

 

 不安そうだった表情が破顔するのを見て。

 少年は目の前のウルが随分変わったのだと実感した。

 

「……そっちの方がいいと思うよ」

 

「え?」

 

「そうやって笑ってる方が親しみ易くて。あの夜よりウルが身近に感じられるし……」

 

「な、あ、貴方ねぇ!! そ、そういう事は!! ふ、二人切りの―――」

 

 恥しさに身を捩って反論し、此処には小さい子もいるのだったと思わず口を手で覆ったウルは少女の視線に気付いた。

 

「あ、あのね。璃、璃紗さん。そ、その……!!」

 

「ねぇ、イクス」

「どうかした?」

 

 ニコヤカに奏璃紗は爆弾を投下する。

 

「ウルさん“とも”子作りしたの?」

「―――」

 

 ウルの顔が凍り付いた。

 

「えっと、色々とあって、まぁ……」

 

 自分の私事を聞かれた事に少し困った少年が、お茶を濁す。

 だが、問題はウルの側だ。

 

「“とも”……?」

 

「璃紗……イクスに身請けされた娼婦だから……」

 

「しょ―――」

 

「えっと、璃紗? そういうのは今言わなくてもいいんじゃ……」

 

 囲っている娼婦を愛人ではなく使用人として使う貴族というのは確かにいる。

 

 そういうのは貴族の男の嗜みの一つではある。

 しかし、だが、しかし。

 

 それはあくまで老練な貴族の男達の世界の話であって、断じて若い学生の世界で語られるような話ではない。

 

「イクス・ゼオ。少し、いえ……かなり聞きたい事があります」

 

「ウル?」

 

 ゴゴゴゴゴゴ。

 

 そんな擬音でも後ろに背負っていそうな銀ドリルが逆立っていた。

 

「その子、璃紗は貴方の何なのかしら?」

 

「ちょっと娼館で出会って。それで今は家に身請けし―――」

 

「何で学生が娼館に行けて娼婦を身請け出来るのですかッッ?!!!」

 

 怒声が校舎の端の方まで響き渡る。

 

「えっと、怒ってる?」

 

 少年が耳を押さえつつ、デリカシーの欠片も無く、訊ねた。

 

「お、おこ、お、怒ってなんていませんわ!? 強さだけは規格外、あの赤鬼女に婿にならんかとか言われるような貴方ですものね!!? ええ、それはそれは普通じゃないのは分かってましたわ!! いえ、分かったつもりになっていたのでしょう!! わたくしは!!」

 

 見るからに嫉妬全開。

 

 更に女としての矜持とか諸々が滲み出た笑顔が少年の腰を引かせた。

 

 震える声は今にも爆発しそうな火山の鳴動と然程変わらない。

 

「璃紗。イクスのものだから、一杯使われちゃったの。ね? イクス」

 

 悪魔の笑みで少女がぴとっと少年に腕を絡ませ、そのまだ服の上からでは確認も感じられもしない僅かな膨らみを押し付けた。

 

「―――イクス・ゼオ」

 

「何?」

 

「こ、この子と…な、何をしたの?」

 

 娼婦とする事なんて決まっている。

 

 今更、清い関係ですとも嘘を言えたりしない少年イクス・ゼオは半笑いでポソリと当たり障りの無い表現を呟く。

 

「えっと、褥(しとね)は伴にした、かな」

 

 慣用句。

 褥を伴にする。

 

 意味。男女の仲。または肉体関係の暗喩。

 

「褥をと、伴に……ふ、ふふ…」

 

 仄かに薄く紅(ルージュ)を引かれた唇がブツブツ呟き始めた。

 

 内容は至って常識的だ。

 

 確かに愛してくれなくていいとは言ったけれども、とか。

 

 わたくしは初めてを捧げたのに、とか。

 

「あ、あの……ウル?」

 

 プチンと何処かで不安定な女の琴線が弾けた。

 

「イクス。これから【体操】をしましょう。わたくしと」

「いいけど、その…本当に大丈夫?」

 

「何を言っているのですか? わたくしは大丈夫に決まっていますわ。ええ、貴方に救われたこの命。ちゃんと全うせずには死ねませんもの。ふふ、うふふ♪」

 

 笑顔なのに目が笑っていない。

 ガシィッとかなりの握力で少年の腕が掴まれた。

 

「さ、あちらで【体操】を。あぁ、璃紗さん。わたくしとイクスはこれから【体操】をしてくるので待っていて、ね?」

 

 キュバッと片腕で自分の胸に想い人の顔を押し付けつつ、ウルは【壷世(ムンディ・オラム)】を起動し、少女の前から少年共々姿を消した。

 

「……行っちゃった……」

 

 女の機微を年頃の少女達の万倍熟知している勤勉なる幼娼婦は微笑んで呟く。

 

「イクス……素敵な人に一杯愛されて来て……」

 

 少年の隣にいる権利を主張しつつ、少年の幸せを第一に考える老練な手管で、少女は自分の主が抱くだろう相手に少しだけ応援(エール)を送った。

 

 奏璃紗にとって、それは自然の事だったかもしれない。

 

 何故なら、彼女にとって最も大切なのは少年だ。

 

 主であり、所有者であり、自分を大切にしてくれる人が、誰かから愛される。

 

 女の独占欲的には頷けない話だが、少女はもう少年から全てを貰っているのだ。

 

 少年の初めて。

 外を歩く自由。

 

 誰かに愛され、恋するという事。

 

 沢山のものを与えてくれた相手に自分もまた与えたいと願うのは彼女の中では当然だった。

 

(おっぱい大きかったなぁ……)

 

 自分に無いものを持つウル・エイフォン・バーゲルが少年を愛するならば、それを遮る理由なんて璃紗には欠片も有りはしない。

 

(璃紗もあれだけあったらよかったのに……)

 

 黒い小悪魔は主の心地良い一時を願って、静かに瞳を閉じた。

 

 *

 

―――深夜アルヴァス・カレッジ旧特別校舎裏、鳥居の園。

 

 アルヴァス・カレッジ校舎群の裏山には七不思議の一つが存在する。

 

 曰く、見えざる鳥居。

 

 国が建国された当初に開校された経緯から亜人国家の教育の基礎を築いた由緒正しき学び舎である。

 

 様々な噂の一つや二つ。

 

 否、数百、数千と現われ消えていった流言は多い。

 

 しかし、卒業生達が代々語り継いで来た七不思議の中でどんな時代も失われずに残った噂はその始まりまで遡れば、千年近く風化しない不自然な伝承だと分かるだろう。

 

 それは残留し続ける呪いのようにも見える。

 

 ただ、五年前を境にして急激に内容があやふやになり、最近では誰も知らない七不思議として生徒達の口に上る事も少なくなった。

 

 それが如何なる理由に拠るものか。

 

 調べた者は今のところ存在しない。

 

 だが、単純な推測は出来る。

 

 噂を維持していた概念魔術の中核に異変が起きたのだ。

 

 人の意識・認識を弄る魔術というのは少なからず大陸では大きな戦の度に使われてきた。

 

 近頃は七教会の影響で非人道的だ何だと世論が五月蝿く。

 

 積極的に運用している国家は少ないが、それでも未だ大陸にはそのような魔術が多数現存する。

 

 大昔、もしもの時の保険として残されたのだろう噂を生み出す魔術。

 

 それはアルヴァス最大の謎にして最大の力。

 

 魔界へと通じる扉の保管という大業を世に知らしめる事なく密かに行う為のものだったはずだ。

 

 その真実の詳細を知る者が消え失せても、後世の者達の中から扉を必要とする者が出れば、気付く者も出る。

 

 そう期待した祖先がいたとしても、何ら不思議は無い。

 

(………大貴族の中に東部出身の者が多い事と関連しているのだろうな)

 

 二本角の大女。

 

 どっかりと原っぱに腰を下ろして鳥居を見つめていたエンシェン・イル・フォイルは霧と共に裏山に顕現した鳥居を見上げながら蒼い天蓋の星を浴びていた。

 

 さざめく異相。

 

 鳥居の先にまだ見ぬ都市を思いながら、彼女の体は周辺の気配を探っている。

 

 いつ“排除対象”たる屍蝋の仮面達が出てこないとも限らないのだ。

 

 気を抜けたものではない。

 

 そこへサクサクと草を踏み締めてやってくる足音が一つ。

 

「ようやく、か」

 

 彼女は数日間待ち続けた待ち人の来る方角へ視線を向けた。

 

 藪の中から現われたのは学生服の少女。

 

 三日前に転校して来たばかりのエーネ・ファサルトスだった。

 

 もう十は超えたように見える歳が外見そのままなものか。

 

 エンシェンは果たして自分の前に立つ少女がホンモノかどうかを見極めるよう視線を少し細めた。

 

 お人形のような。

 

 あるいは“この世の者ではない”という形容が彼女にはよく似合うだろう。

 

 身体は栄養不足かと思う程に細く。

 

 血管すらも肌の上から透けて見えそうな脆さを伺わせる。

 

「お初にお目にかかる。私はエンシェン。エンシェン・イル・フォイル。貴方が【聖王同盟(サクラム・フェデレイションズ)】の使いか」

 

 かなりの労力を割いて何とか実現した霧を打開する機会。

 

 その結果が目の前の少女だとはさすがの豪放磊落なエンシェンも疑わざるを得なかった。

 

(事実は小説より奇なり、で済めばいいが……)

 

 今にも声だけで罅が入ってしまいそうな相手。

 

 自分の手配は間違っていただろうかと彼女が訝(いぶか)しむのも無理は無い。

 

「はい。エーネ・ファサルトスと申します。エンシェン様」

 

「では、まず貴女がクラウゼン公爵家縁の者である証を見せて欲しい」

 

 エーネが懐から取り出した一枚の紙をエンシェンに手渡す。

 

 其処にはクラウゼンの紋章たる黒い十字架と血判が押し込まれてあり、その血から立ち上る呪い染みた気配はそれがホンモノだと悟らせるに十分な力を持っていた。

 

 亜人の血が濃い者程に感じられるだろう異種の気配は強大だ。

 

 様々な亜人が暮らすアルヴァスだが、血判から立ち上るモノは如何なる亜人とも似つかない。

 

「……確かに……貴女をクラウゼンの使者だと認めよう」

 

「はい」

 

「……一つ。質問して良いだろうか?」

 

「何でしょう?」

 

「どうして、クラウゼンが【聖王同盟(サクラム・フェデレイションズ)】の使いを寄越すと言ってきたのか。いや、正確にはどうしてこんな小娘からの協力要請に重要な秘密を明かしたのか」

 

 エンシェンの問いは最もな話だった。

 

 本来、彼女が求めたのはクラウゼン公爵家の助けだ。

 

 しかし、返って来た返事には七教会と正面切って闘争中の魔王の娼婦達の集りの名が有った。

 

 最初は狐に化かされているのかと彼女が思ったのも無理からぬ話。

 

 その返事は七教会が目を血眼にして追う組織に実はクラウゼンが荷担しているとの証だったからだ。

 

 わざわざバラさなくていい秘密をバラす理由。

 

 そんなもの普通あるわけもない。

 

 単なる嘘という事も考えられたが、そんな嘘を付く利点はクラウゼン側に一つも無いのだ。

 

「……此処には初めから活動の拠点を置くつもりだったようです。姉様(ねぇさま)達はもう此処の内偵は進めていました。貴女は最初から接触する対象として選定されていた……そう聞いています」

 

「そういう事か……」

 

 エンシェンが内心納得する。

 

 反七教会組織が集いつつあるアルヴァスは西部の一大反抗拠点だ。

 

 その大貴族達と繋がりを持とうと有名無名問わず多くの反七教会派の組織が今も彼女の実家に接触を持って来る。

 

 聖王同盟もその例に漏れず。

 

 実質、国を動かしている赤鬼本家の一人娘を調べていたというのは考えてみれば、当然かもしれなかった。

 

 自分達の組織に引き込む予定だったのか。

 

 あるいは利用する気だったのか。

 

 どちらにしても、秘密を知った以上、彼女が重要人物と見なされているのは間違いない。

 

「三日待たせた事はお詫びします。とても優秀な尾行者がいたもので……」

 

「尾行者?」

 

「何処からか情報が漏れていたのかもしれません。ただ、今夜は念入りに尾行を撒いて来たので安心してくださって結構です」

 

「……そうか。それは済まない事をした。以後、情報の管理は更に徹底しよう」

 

 相手から情報が漏れたとの認識はエンシェンに無い。

 

 個人で動いているとどうしても限界がある。

 

 協力者を一人得たとはいえ、それでもまだ彼女は孤立無援に等しい中で事態の打開に動いている。

 

 ほぼ反七教会の最大手と言っていい聖王同盟。

 

 彼女達にそのような抜かりが無い事は連絡手段一つ取ってみても、彼女には分かっていた。

 

「それでさっそくで悪いが本題に入りたい」

 

「はい」

 

「……クラウゼン公爵家に頼んだ例の件は可能だろうか?」

 

「答えは持参しています。どうぞ」

 

 エーネがそっと自分の黒髪を止めていたピンを引き抜いて手の上で魔術方陣を起動する。

 

 ふわりと虚空に映像が浮かび上がった。

 

『クヲ~~?』

 

『ええ、そこの摘みを捻って、そうです。はい。これで録画準備は完了しました。では、どうぞ』

 

 何処かの洞窟だろうか。

 

 光る苔を明かりにして一匹の海洋型の亜人がひょっこりと虚空の映像に現われた。

 

『クヲ。ククヲ、クヲ? クヲヲ。クックヲヲ! ククーヲヲ。クゥヲ』

 

 海月のような頭部と其処から複数伸びる交接器。

 

 そして、真白の肌にノースリーブの衣装。

 

 背後には餅を伸ばしたような尻尾がプラプラと揺れている。

 

「これが……クラウゼン公爵家の?」

 

「はい。マヲン・クラウゼン・セト・ニェハエル。クラウゼン公爵家の現当主。マヲン姉様(ねぇさま)です」

 

「何と言うか。会話、可能な方、なのだろうか?」

 

「はい。大陸標準言語は発音出来ませんが、基本的に意思疎通可能で文字も話も理解して頂けます。ちなみに大陸で使われる言語なら全て通訳無しで理解出来るとか」

 

「そ、そうか」

 

 自分が考えていたのとはまったく違うクラウゼン公爵家当主の姿にエンシェンが半ば呆気に取られた。

 

 もっと、こう、強そうな相手を想像していたのだ。

 

 しかし、出てきたのは言葉も話せない、クヲとしか言わない変な亜人の少女。

 

 妙に愛らしい仕草なので可愛いとの感想は持てるが、自分の壮大な悩みを解決してくれる相手には見えず。

 

 彼女としては困惑する以外無かった。

 

『クヲークク。クヲーヲ。クゥーヲクーヲ。クヲヲ』

 

『貴女から伝えられた件はクラウゼンの技術と血筋があれば可能だクヲ。でも、それにはかなり無茶な方法が必要になるクヲ。そもそも、基本的にクラウゼンは無償活動してないクヲ。先立つものもそれなりに必要クヲ。と仰っています』

 

 映像の外から通訳らしき少女の声がクヲ語を翻訳する。

 

『クヲーヲヲ。クックック。クゥ~~~』

 

 パタパタと鰭(ひれ)のような腕に垂れ下がった翼っぽい部位を羽ばたかせながら何やら力説するマヲン。

 

『今はちなみにクラウゼン公爵家に自分はいないクヲ。もし、必要があるなら、妹が対応するクヲ。だそうです』

 

「妹……というのは」

「はい。私の事です」

 

 エーネが頷いた。

 

『クク~ヲ。クヲヲック。ヲクク~ヲ』

 

『家の血統から誰か出すと後で問題になりそうだから、現地で相手を探すクヲ。サポートはお任せクヲ。という事だそうです』

 

 エンシェンが食い入るように映像を凝視する。

 

『クゥ~~。ククヲ~~~。クヲヲ♪』

 

『以上だクヲ。精算はニコニコ後払いクヲ。後、お土産買ってくるクヲ♪ だそうです』

 

 プツンと映像が途切れる。

 

(まさか、もう?)

 

 あっさり終わった国の運命を左右するかもしれない話に彼女は何と言っていいのか分からず固まった。

 

 録画を見るだろう妹相手にブンブン手を振っていた姿。

 

 あれはもう殆ど家族への手紙のようなものに違いない。

 

「………」

 

 実は壮大な悪戯(ドッキリ)を仕掛けられているのではないかと目元を揉み解した彼女だったが、横に佇む少女の姿が目に入って……そっと訊ねる。

 

「貴女がサポートを?」

 

「はい。公爵家から必要な機材一式と情報は持って来ました」

 

「一ついいだろうか?」

「はい」

 

「貴女は聖王同盟の中でどういう立ち位置なのか聞きたい」

 

 フッと微笑んで。

 

 少女は少し後ろに下がって髪を止めていたピンを全て外した。

 

「っ」

 

 ふわりと周辺に薄紫の魔力光が立ち上る。

 

 滾々(こんこん)と湧き出る清水のような輝き。

 

 周囲を覆っていた霧が魔力の余波に退けられていく。

 

(これは―――)

 

 青く変わっていく肌。

 

 螺旋くれ、背後へと肥大化しながら突き出していく漆喰のような黒き角。

 

 六対、十二翅の翼。

 

 正に古から伝わる悪魔。

 

 いや、魔族の姿そのものが彼女の前で偽装を解かれていく。

 

「どうめいだいさんい。えふぃりむ」

 

 黒の眼球に紅の虹彩。

 

 左の瞳がキロリと魔族出の赤鬼を見て。

 

「同盟第四位。エーネ」

 

 黒の眼球に青の虹彩。

 

 右の瞳がキョロリと自分達を侮る女を見て。

 

「どうか」

「よろしく」

「お願い」

「いたします」

 

 一組の“姉妹”はそう頭を下げた。

 

「―――散々の非礼。真に申し訳ない」

 

 動じなかったと言ったら嘘になる。

 

 だが、いきなり“使い”ではなく“幹部”が、それも第三位と四位と名乗る魔族が出てくるとは思いもしなかった彼女は内心の震えを抑えた。

 

 それは武者震いか。

 

 自分に訊ねたくも無いのが実情だろう。

 

(この姉妹の力………これを押さえるものは我が国にも……)

 

 魔族出の赤鬼だからこそ、分かる事もある。

 

 彼女達姉妹のどちらかは【自生型(アウトゲネス)】。

 

 魔族達の中でも例外なく最上位級の力を持つに至る存在だ。

 

 もう一人も【血統種(ブラッディー)】の大貴族に匹敵する魔力を持っているに違いなく。

 

 それはエンシェンの本能が全力で相手から逃避するべきだと告げている事からも明白だった。

 

(これが【聖王同盟(サクラム・フェデレイションズ)】……魔王の側近……侮っていた……大失態だ……)

 

 彼女の前にいる少女達はアルヴァスを一夜で消し飛ばす戦略兵器にも等しい。

 

 自国に引き入れた事を後悔するに十分足る。

 

 亜人達の中で地位を確立したとはいえ。

 

 それでもフォイル家の根は魔族である。

 

 祖先から引き継いだ血の騒ぎ方で相手の力量くらいは分かるのだ。

 

 魔族関連の書籍が焚書され、百年近く魔族が酷界側から殆ど現われていない事も伴って、魔族の実態はあまり大陸で認知されていないが、彼女の家にはその魔族達の本当の姿が口伝で残されている。

 

 少なくとも魔王と呼ばれる存在が、実は高位ではない中堅管理職のような地位に位置する人類種の調整役で、未だ殆ど大陸に顕現した事の無い酷界の大貴族や【自生型】は一人で大陸を沈める以上の芸当を軽くこなせる。

 

 そんな事実、人間社会どころか亜人社会でも要らぬ知識だろう。

 

 知らない事は知らないまま生きている方が幸せという事もある。

 

 本当の上位に位置する魔族は大神と全力で戦って互角以上の存在なんて話、幾ら戦闘狂が基本な赤鬼の家でも歓迎されるようなものではない。

 

 彼女も戦いを求めるのは己の性だと自覚しているが、それはあくまで戦闘が成り立つ相手に対してだけだ。

 

 指の一本も動かさずに国を跡形も無く更地に出来るような“何か”とやり合おうなんて無謀は高位の大神や人類の守護者を自称する七教会の専売特許である。

 

 もしも、ディミトリアを廃国にした魔族達がやってくれば、国の総戦力を全て合せても玉砕覚悟で撃退が関の山だと彼女は理解していた。

 

 だが、現在。

 それより状況は悪い。

 

 もしも、何かの拍子に怒りを買えば、たった刹那で自国が滅ぶ。

 

 その実感をエンシェンは姉妹達の姿と魔力に感じ取れてしまっている。

 

「だいじょうぶですよ」

 

 優しくたどたどしい言葉が紡がれた。

 

「ここにはおしごとのほかにさがしものをしにきただけですから」

 

「探し、もの?」

 

 いつの間にか背中に汗を掻いていたエンシェンが何とか訊ねる。

 

「はい。それも…もうみつかりました……」

 

「うん。とと様。ようやく見付かって良かったです……」

 

 一つの口で会話する少女達の言葉に不吉を感じて。

 エンシェンが問う。

 それは何かと。

 

「てぃあにぃさま……」

 

「シンア・ザ・クリティカルアンラッカー……」

 

「あなたたちがまおうとよぶひとです」

 

 その日、エンシェンは自分がもう戻れないところにいるのだと改めて知った。

 

 そして、不運と幸運の両天秤を抱える我が手に震えた。

 

 翌日。

 

 その“にぃさま”とやらの資料を要求され、愕然としたのは仕方の無い事だったはずだ。

 

 何せ、姉妹達が求めたのは彼女がよく見知った相手。

 

 負けて、背中を預け戦った、婿にならんかと誘った少年。

 

 近頃、人間ハーレムを築きつつあるイクス・ゼオは彼女が思った以上の厄介事(おとこ)、らしかった。

 

 *

 

―――夜明け前アルヴァス南端上空。

 

 まだ西部の国々の何処にも陽が射していない時間帯。

 

 簡素な部屋の一室で薄暗い壁に映像が投射されていた。

 

 全ては此処最近送られて来た彼ら旧教会派を取り巻く実情に関するものである。

 

 最初に映し出されたものは幾つかの地図と数値。

 

 階層化された異相内部を“浄化”して回っていた【聖征者(クルセイダー)】からの報告だ。

 

 黒で塗り潰された部分を白い浄化済みの部分がジリジリと蝕み。

 

 一層二層と白だけで一枚の地図が塗り替えられていく。

 

 しかし、途中から白い領域が増えなくなり、最後には白の領域に黒い点が染み出して斑模様を形成する。

 

 力任せ一辺倒で下層へ向かっても限界があるという状況に陥っている事を数値は示していた。

 

 全ての元凶である神々に辿り着く為には力以外の知恵も必要。

 

 そのような理由で一時撤退した詳細が事細かに文章として綴られている。

 

 次回の探索と侵攻に向けてアルヴァス内部での休息と情報収集に当たる旨まで読まれると映像が次のものに切り替えられた。

 

「……」

 

 新しく出てきたのは地図に変わって魔術師達がよく使う暗号文だ。

 

 読める者には読めるが、読み方を知らないものには単なる恋文か何かに見えるだろう。

 

 その報告はアルヴァス内部に存在する複数の魔術結社が霧に関して独自の行動を始めたと語っていた。

 

 それは少なくとも五年前に旧教会派と合同で行っていた研究を基礎としているとも。

 

 本来、結社側の研究は破棄されていたはずだが、その断片を拾い上げ、新たに後援者(スポンサー)に付いた者が指揮する事で事態は進んでいるらしい。

 

 現在、旧教会派が単独で行っている“計画”の基礎は五年前まで行われていた研究に端を発する。

 

 ディミトリア崩壊の余波で複数の主要研究が頓挫して以降、その進行速度は遅々としたものとなったが、それでも地道な研鑽結果は少しずつ出ている。

 

 霧に対抗する術としても現在進行形で実験が行われている関係上、結社の動きは見過ごせないと言わざるを得ない。

 

 五年前の研究は旧教会派抜きで進め続けるのは難しい課題が多いはずで、一体どんな後援者が結社を動かしているのかと報告書の提出者は訝しがっていた。

 

「……」

 

 最後に出てきたものは三人の人間の映像を編集したものだ。

 

 一人は老人。

 

 彼の名はミゲール・リニャン。

 

 北部の雄たる【騎士国(ヴィーリア)】建国の五父【五聖騎士(ファイブ・ラウンズ)】の一人。

 

 北部で信仰されている大神に女関係で喧嘩を売って未だ健在という逸話を持つ神槍使い。

 

 その戦場での戦いぶりは最盛期、殺される者にすら美しいと言わしめた。

 

 今も大陸に生存している旧き戦者の中で神に召し上げられるとしたら一番人気とされる老人である。

 

 一人は女性。

 

 彼女の名はユアン・クオ。

 

 言わずと知れた七聖女の一人。

 

 【善人(ボーヌム・クリートゥラ)】と教会信者から慕われる救世の守人。

 

 この数十年で斬ったものは数知れず。

 

 邪神、隕石、恒星、要塞、山脈、大海。

 

 どれもこれも逸話ばかりの聖女中、最も人々に讃えられる武人。

 

 流派“閃剣”を名乗り、大陸一の刃の使い手として今も教会の戦闘者達を指導する立場にある。

 

 一人は少女。

 

 その名はエーネ・ファサルトス。

 

 五年前を境にして現われた魔王の側近集団【聖王同盟(サクラム・フェデレイションズ)】の幹部構成員。

 

 幼い容姿に儚げな様子は少女をただの女の子に見せているが、七教会が五年で彼女達の追撃に回した【高格外套】の大半を行動不能にしている張本人との情報もある。

 

 実力の程は分からなくとも単独行動しているだけで十分に危険であるのは間違いない。

 

「……」

 

 これら三人が同時期にアルヴァス入りしているという情報は明らかに事態が加速している事を示していた。

 

 どれだけの騒乱が起きるのか。

 または起きないのか。

 

 どちらにしても、今後の大陸の動向は西部の諸々の結果如何(けっかいかん)でかなりの変動が予想されている。

 

 南部の大帝国イグニシア・クルシスの脈動。

 

 東部の大国乂羅で起こっている七教会勢力の増大。

 

 南部上方にある小国家群藩落の紛争終結と聖女に破壊されたアーズトリテの復興。

 

 北部を牛耳る北部三国による反七教会活動の活発化。

 

 五年前に現われた天蓋蒼星(メイズ)での混乱。

 

 どれもこれも一筋縄で解決するものではない。

 

 七教会の天下が終わらないとも限らないし、また大陸中が戦乱に巻き込まれる可能性もある。

 

 だからこそ、旧教会派に呼ばれる彼らに出来る事は一つだけ。

 

 究極的にはそれが可能かどうかで人類の行く末は大きく変わるだろう。

 

 “計画”とは単に彼ら旧教会派の悪足掻きや保身の為のものではない。

 

 一重に人類がこれから経験するだろう未曾有の破滅を回避出来るかどうか。

 

 その重要な選択肢の一つなのだ。

 

(……どんな事をしても、この“計画”だけは遣り遂げねばなりません……御爺様が残した可能性……今日を生きる全ての人と伴に生きる多くの者達の為に……)

 

 レア・アルトス・エール。

 

 現総主教にとって、それは個人としての夢、亡き祖父が残した命題、人生の指針ですらあった。

 

「儘為りませんね……私一人では何も出来ない……」

 

 今も付き従う多くの信者。

 

 いや、家族の苦労と功労に報いられる日は来るだろうかと彼女は映像を消す。

 

『いや、レア。君にしか出来ない事がある』

 

 少女が寝台の横を向くと金色の獅子が一匹座っていた。

 

 実像ではない。

 だが、虚像でもない。

 

 確かな質感を持って存在する獣が老人の声で続ける。

 

『だからこそ、我輩よりも大きなものを背負う君には然るべき力と仕組みが必要だ』

 

 レアは突如として現われたモノに懐かしげな視線を送った。

 

「ご無沙汰しております。おじ様」

 

『ああ、とても久しぶりだ。あいつが死んで、君が眠りに付いて以来、当然だろうが』

 

「お噂は予予(かねがね)」

 

『今では曾孫が可愛い平々凡々な年寄りだが、世間を見ていたら、そう言ってもいられなくてね』

 

「……魔術結社の後援者(スポンサー)は貴方ですか? おじ様。いえ、私も今は総主教の身。昔ならばいざ知らず。今はこう御呼びするべきでしょうか。マシア・ミクニス・アルヴィッツ陛下」

 

 黄金の獅子が微笑む。

 

『寂しいな。若者が一人前になる姿というのは……だが、大いに嬉しくもある』

 

「本当なら私も……もういい歳のお婆さんのはずですから……お気遣いは結構です」

 

『そうか……もう、そんなに時間が経ったか。随分と若い気でいた我輩が老人になるわけだ』

 

 その声に世間話でもしているような回顧を覚えて。

 

 少女は少しだけ苦笑した。

 

「―――本題をお尋ねします。一体、何をするおつもりですか?」

 

 レアの表情が静謐なものへ移り変わる。

 

 もう瞳は総主教と人々から言われる者に相応しい深さを湛えていた。

 

『今の我輩の事を何処まで知っているのか。まず訊ねたい』

 

「大陸中央諸国の首魁。【聖杯委員会(ペルスヴァル)】の委員(コミッショナー)。【新聖女(ネクステーゼ・セイント)】選抜の―――」

 

 途中で言い淀んだレアが獅子に視線を向ける。

 

『我輩は君があいつから何を聞かされたのか。薄々は知っているつもりだ』

 

「そうですか。確かに御爺様の親友だった貴方なら、総主教が代々受け継いで来た秘密と役目もお分かりになるのかもしれませんね」

 

『……これは権力者として宗教者たる総主教に言っていると思ってもらいたい……我輩はこれからの時代には新たなる世代の力が必要だと感じている』

 

「新たなる世代? それは“聖女の複製”による支配という事ですか?」

 

『違う。純然たる真の意味での“交代”が必要だと、そう言っている』

 

「交代?」

 

『旧教会派の“計画”が本来の目的に沿ったものであるならば、“完全な代理”が必要なはずだ。しかし、それには五年前に紛失したものが欠けている。違うかね?』

 

「それは……」

 

 レアはマシアの中に自分の中にしかないはずの真実が存在するのだと確信した。

 

『我輩は今も七教会側と結び付きが強い立場にある。その視点からハッキリ言うが……例え“完璧な紛い物”を作ろうと意味は無い。いや、そもそも“計画”が仮に上手くいったとしても、それで何もかも解決すると見る程、理想主義者でもない』

 

「…………」

 

 沈黙したレアにマシアは続ける。

 

『我輩は“聖女の複製”を作っているわけではない。その力を持って権力を保持しようとか、そういう意図もサラサラ無い。ただ、そろそろ我らのような旧き者は主役達も含めて舞台から退場するべきだと考えている』

 

「交代、そんな事が本気で可能だと思っているのですか? それに新しい役者が旧い役者に勝ると考えているなら、それは幻想に過ぎません」

 

『では、何故司教達は“計画”を立ち上げた? 聖女の破棄した研究を極秘裏に奪い、あそこまで漕ぎ付けた?』

 

「……信じていたからです。自分達の手で必ず世界を、人々を救ってみせると」

 

『その傲慢さがディミトリアの惨状を産み出し、今もアルヴァスで“罪”を量産し続けているのではないかね?』

 

 レアの唇が引き結ばれた。

 

『司教達、研究の当事者達ですら“計画”の本当の意味を知らずにいただろう? 彼らは自分達の生み出そうとしているものが何か。その役割を真には理解していなかった。違うかな?』

 

「―――だから、新しい聖女まで作ってやり直そうと言うのですか? 殺す為に生むなんて神だろうと許されるはずがありません」

 

『それは我々が書く脚本ではないな。新しい時代には新しい脚本が必要だ。我輩が思い描く世界には手と手を取り合って人々が永劫の繁栄を手にする未来(ビジョン)しかない。“計画”が生み出すモノも我輩が生み出そうとしているモノも、それを多くの者達が手にする為の力であり存在だ』

 

「マシア・ミクニス・アルヴィッツ。貴方は何になったつもりですか?」

 

 神になったつもりかと聞かなかったレアはもう自分の言葉が打ち負けつつある事に気付いていた。

 

『決まっている』

 

 黄金の獅子が瞳を閉じて淡々と言った。

 

『自分の事を自分で決められる。それだけの人間になったつもりだ』

 

 夜明けの日差しが雲間から浮かび上がっていく。

 

 そんな黄金の中に融けながら、未だ己を王とは言わない老人が囁く。

 

『まだ、その国にも君達にも時間は遺されている。しかし、魔王の動向次第では、その時間も無限では無いと心得た方がいい』

 

「……我々旧教会派は今も昔も“来るべき日”を迎える為に邁進するのみです」

 

『そうか……今日はこれくらいにしておこう。これ以上は君を守る者達に勘付かれそうだ』

 

 キラキラと輝く埃の中で獅子は柔和な笑みを作った。

 

『新たな時代に必要なのは時代遅れの敵役でも、万能無敵の主役でも無い。ただ、人々の為に力を尽す事の出来る凡庸な端役……そう、我輩達の世界を支えてくれる誰かだ。彼らの為にこそ、我輩はこの残り少ない人生を擲つ事が出来る。君は一体、誰の為にその使命を、“来るべき日”の到来を望んでいるつもりなのかね? レア』

 

「この不甲斐ない身の為に協力を惜しむ事なく人生を捧げて来た人々と全ての生きる者達の為に」

 

 完全に光の中へと消えた獅子の声が残響する。

 

『はは、あいつと同じ事を言う。それが総主教を継ぐ者達の意思か。ならば、それもまた事態を動かす要素のひとつとなるだろう』

 

 遠くなっていく声が笑った。

 

『乙女の寝室に無断で押し入った詫びだ。一つ贈物(プレゼント)を受け取って欲しい。では、また会おう』

 

「……ええ」

 

 室内が朝の光に満たされた。

 

 獅子が座っていた場所に落ちているものを見付けて。

 

 レアがゆっくりとソレを持ち上げる。

 

「これは―――」

 

 朝日に輝くのは既に失われたはずのものだった。

 

 赤く錆びた短剣。

 

 曲線と幾何学模様が掘り込まれ、柄の中央に空いた孔には黒の正方形が鋼の導線で固定されている。

 

 柄にはNO.001と刻印があった。

 

 それこそは五年前の研究において失われた遺失物(ロスト・パーツ)。

 

 製造者の出奔と詳細データの喪失からもう製造も複製も不可能とされた成果。

 

【崩燼源動機関(ソルヴァス・オリジナル)】

 

 七教会が管理する廃国域に取り残された回収不能の欠片。

 

 本来の“計画”遂行には欠かせない品の一つだった。

 

「……御爺様。私はどうするべきなのですか……教えてください……」

 

 短剣を両手で抱き締めながら。

 

 途方に暮れた顔でレア・アルトス・エールは呟いた。

 

 新たな一日がそうしてまた、始まる。

 

 閉ざされた可能性を開く者達の暗躍を孕みながら……。

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