※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第三章二十八節

第三章二十八節「緑炎の葬列Ⅱ」

 

 エス・トリア家。

 アーギスト私室。

 

 既に下校時刻を過ぎ、二時間程が経っていた。

 

 夕暮れ時。

 

 いつもよりも濃い霧に巻かれるよう帰宅したエストリアが見たのは兄の困った顔と誰もいない水槽。

 

 どうしたのかと問えば逃げられたとの答え。

 

 境界踏破のミーティングの為、続々と集ってくる仲間達は少年以外を除いて全員が揃っていた。

 

 薄暗い部屋の実験器具が片付けられ、椅子に座る美紗とジルムスは早くもお手上げの状況となっているエルフ少女の捜索に付いてアーギストに白い目を向けている。

 

「つまり、探索用の魔術にも掛からず。付けておいたはずの目印(マーカー)も作動していない、と?」

 

 美紗の言葉に青年が頷く。

 

「今日は特に霧が濃いぞ。どうすんだ? あまり時間は掛けられねぇ」

 

 白い外套姿で参じた親友にアーギストは腕を組み瞳を閉じる。

 

「兄さん……」

 

 妹の声が不安そうな時点でローブ姿の青年は自分の至らなさを自省するしかなかった。

 

「もう一度。事態を整理しよう。何か気付いた事があったら言ってくれ。現時点で出揃っている情報でも何か見落としがあるかもしれない」

 

「…分かりました」

「ああ」

 

 美紗とジルムスが頷いた。

 

「まず―――」

 

 対象はエルフの少女。

 

 少女は魔術結社の売ろうとしていた違法な方法で凍結されていた奴隷。

 

 更に結社の開発したらしき解析出来ない魔術具に額を侵蝕されている。

 

 解凍の副作用で上手く歩けないはずだが、同時に副作用下においても歩く事が出来た。

 

 これは額の魔術具が作用していると思われる。

 

「大体の情報はこんなところだな。何か見落としはあるか?」

 

 ジルムスが手を上げた。

 

「あのちっこいのとの出会いはイクスの奴に抱き付いたとこからだ」

 

「ふむ。イクス・ゼオが気に入られていた、か……」

 

「それだけじゃねぇ。オレ達が倉庫内に踏み込んだ時、【高格外套(ソーマ・パクシルム・ベルーター)】が倒されていた。こいつは見逃せないんじゃねぇか?」

 

 アーギストが僅かに瞳を細める。

 

「確かに。単体であの鎧を行動不能にするとしたら、かなりの力を持ってることになる。だが、実際には額の魔術具がどういうものか分からない以上、状況証拠だな」

 

 美紗が手を上げた。

 

「ですが、額のアレが非力な少女すら恐ろしい力を持てる魔術具の可能性も高い」

 

 青年が頷く。

 

「少なくとも特殊なものであるのは確実だ。単なる肉体や魔力の向上だけで七教会の対魔王汎用兵装がどうにかなるはずもないからな」

 

「あ、あの…兄さん」

 

 手を上げたエストリアに三人の視線が向く。

 

「どうかしたか? ハイダル」

 

「その…あの子、言葉が分からなかったと思うんです」

 

「ああ、そうだな。だが、それだけでは探しようが、な……」

 

「いえ、そうじゃなくて」

「?」

 

「あの子、私達の言葉は分からないのにどうやってこの家から出て行ったんでしょう?」

 

「―――見落としていたな。そうか……確かにそうだ……」

 

 アーギストが考え込む。

 

 エストリアの言葉を上手く飲み込めなかった二人が怪訝な顔をした。

 

「どういうこった?」

 

「あ、はい。そのお二人は言葉が読めるから全然意識してないかもしれませんけど、仮にも此処は兄さんの工房。魔術師の家なんです」

 

「こっちは万年魔術講義の成績が中の下。そういう奴にも分かりやすく説明してくれ」

 

 ジルムスが回りくどい言葉に肩を竦める。

 

「あ、はい。つまり、この家には幾つかの基本的な魔術の仕掛けが施されてて。私も詳しくは知らないんですけど、言葉が理解出来ない存在はこの家から出られない仕様になってるって。昔、兄さんが……」

 

「おい。アーギスト」

 

 友人の声にアーギストが思案しつつ、答える。

 

「単純に言うと研究防護策の一環だ。使い魔だの、魔術で創造した生物だの、そういう言語を解さない存在が家から出ようとしても不可能にしてある」

 

「ああん? どんな仕組みだよ」

 

「至って単純だ。言語が分かる人間は家に入ってくる時、様々な象形と文字を途中で目にするよう物を配置してある。自己展開型の魔術。いや、催眠誘導術に乗っ取った一種の暗示と言うべきか。これを受けると一定の行動パターンを帰りには取ってしまう。だが、刷り込まれたパターンで帰らない場合は家から出られない」

 

「んだよ。パターンつーのは」

 

「各部屋から出る時、左右どちらの足で出るか、呼吸しているか、どちらの腕が先に出るか、だ」

 

「……ちなみに間違ったらどうなんだ?」

 

「監視用の魔術が間違いを感知した瞬間に屋敷内に自動で結界を生成する。ちなみに息をしなかったり、不定形の生物でも言語を解した場合には同じようなパターンを取るよう調整してある」

 

「おいおい。せめて話しとけよ。そういうのは……」

「魔術師ってのは秘密を持ってなんぼの商売だ」

 

 ジルムスは溜息を吐き。

 アーギストは肩を竦めた。

 

「では、この屋敷を出て行ったという事は……あの子……」

 

 美紗の言葉に青年が頷く。

 

「ああ、間違いなく言語を理解していたはずだ。大陸標準言語を……」

 

「まさか、自分の意思で……」

 

「それはまだ分からないが、あの子が自分の状況を多少なりとも理解していた可能性は高い」

 

「……あの、兄さん」

「何だ?」

 

 エストリアが再び発言する。

 

「もしかして、あの子……イクスさんへ会いに行ったんじゃ」

「その可能性も無くは無いが……」

 

「イクスさんが来たら、イクスさんのお世話になってるゼオ家までの道を探してみませんか?」

 

「そうだな。言葉さえ分かるなら、ただ当て所なく迷っているというのも考え辛い。イクス・ゼオの家までの道程からまず捜索を開始しよう」

 

 アーギストが了解したと遠隔操作式の監視魔術の準備を始めるより早く。

 

 部屋のドアが開いた。

 

「あ、イクスさん!! 大変なんです!!」

「エストリア…どうかした?」

「その、あの子が!!」

 

 事情を簡単に説明したエストリアに少年はすぐ頷いた。

 

「家からこっちまでは見掛けてないけど、この霧だから、絶対にいなかったとは言えないと思う。周辺の探索から初めて、連絡を取り合いながら捜索範囲を広げていけばいいんじゃないかな」

 

「はい。妥当なところだと思います」

 

 エストリアが頷く。

 

「では、さっそく取り掛かりましょう。もうそろそろ日が沈みます」

 

 美紗が立ち上がる。

 

「子供の足じゃ、そう遠くへは行けねぇはずだ。主要な大通りはオレが行く。アーギスト。この外套が有ればいけるな?」

 

 ジルムスの問いにアーギストが当たり前だと首肯する。

 

「勿論だ。その為に着てくるよう連絡したんだからな」

 

 少年が片手に持っていたものを室内の小さなテーブルへそっと置いた。

 

「これって……」

 

「あの子が喜ぶかなぁって思って。この間のお店でちょっと」

 

 エストリアが置かれた白い紙箱を見て、それが以前一緒に出向いた菓子店のものだと理解した。

 

「……早くあの子にも食べさせてあげたいです」

「うん」

 

 二人が頷き合うとアーギストが音頭を取る。

 

「話は纏まった。では、各自の持ち場はこちらで指示する。連絡用の魔術中核はもう全員に貼り付けた。都市内部でなら、何処からでも通じるはずだ。ただ、境界に入った場合にはジルムス以外に通信が届かなくなる可能性もある。エストリア」

 

「はい。何ですか?」

 

「お前はジルムスと一緒に探してくれ。これは兄としての言い付けだ」

 

 その言葉に妹は過保護過ぎるとの印象を持ったものの。

 

 危ない時、自分一人ではどうにもならないという現実を受け入れ、頷く以外無かった。

 

「解散!!」

 

 動き出した仲間達が部屋から出て行く。

 

 青年は室内に複数の魔術方陣を展開し、次々に映像を投影し始める。

 

 霧は何時に無く深い様子で都市の輪郭を朧に消し。

 

 歩く人々を影へと落とし込んでいく。

 

 彼らは各々エルフの少女を探すべく、四方へと散っていった。

 

 *

 

 少年達が行動を開始した頃。

 既に異変を感知していた者達がいた。

 彼ら旧教会派にとってハガスの観測はもはや日常の1コマ。

 故に大規模な異常を見逃すはずもない。

 遥か数千m上空を高速で回遊する飛船体。

 

 圧縮した浮遊性の稀瓦斯(レアガス)を浮力として用いる独自の船の形は太った魚のようだ。

 

 船首にある中枢ではいつものように修道女達が法衣姿で無骨な鋼の機器を弄り、複数の情報を主である艦長席のレア・アルトス・エールへ余さず伝えていた。

 

「東部に大規模な反応を検知!! 五分前より尚も増大中!! 異相側との同調率がこの短時間で232%を越えました!!? 今までの観測結果から言って、過去最高の速度です!!?」

 

「第三十二区画。周辺地域に都市機能の主要施設はありません。ですが、元老院関係者が多数在住する一角です。ただちに元老院側へ避難勧告を出すべき数値ですが、如何しますか?」

 

「では、元老院側へ被害範囲の予測結果と共に現状を報告して下さい。それと【聖征者(クルセイダー)】への緊急要請を」

 

 いつもの姿で無骨な席に座っていたレアが命を下すと修道女達は即座に動き出した。

 

「霧の船体表層侵蝕率が58%を越えました!? 順次、積層魔力を開放します!!」

 

「更に異相侵蝕領域拡大!!? このままでは東部一帯が完全に“境界”へ反転します?!!」

 

 日が完全に落ち。

 慌しいブリッジに魔術具の明かりが燈る。

 

 薄暗い室内に投影されたハガスの地図には東部で起こる様々な現象がリアルタイムで表示されていた。

 

 東部全域を呑もうかという都市直下の異相侵蝕の図は完全にこれから起こる惨劇を予告している。

 

 その中心たる一区画の映像が地図に添付され、緑色の炎が揺らめく。

 

「これは……」

 

 レアが目を見張った。

 

「魔力ライブラリを参照。この事象の源は魔力ではありません。これは……物理法則下での矯正現象であると観測部門から連絡がありました」

 

「矯正?」

 

 レアの言葉にヘッドフォン型の通信機器に耳を当てていた修道女が頷く。

 

「はい。部門長の話に拠れば、この緑色の炎に見える揺らめきは世界恒常性による存在の破却。つまり、低位の時空間干渉時に発生する抵抗現象だそうです」

 

 現総主教たる少女は早くも世界の危機が到来しつつある事を感じていた。

 

「広がっていく炎を消す術はあるのですか?」

 

「外神からの侵蝕を止めるか。または事象を空間歪曲系の結界に隔離するかの二択だそうです」

 

 細い腕が艦橋の前方に翳された。

 

「……ただちに元老院側へ報告を。現時点を持って状況シナリオAと認定。第二種厳戒態勢を発令します。これより大陸大同盟条約の二十一条四項【外神来訪特例】に則り、完全自立行動を取ります。七教会側とのホットラインを遮断。非戦闘員への空間凍結処理による封印を実施し、A級以下の戦闘員と共に後方支援基地に転送。アルディジャランの外部独立機構へ“アレ”を四時間以内に起動出来るよう通達を」

 

 まだ自分の半分程しか生きていないだろう少女に女達が頷く。

 

「了解しました」

 

「第二種厳戒大勢を発令。第二種厳戒態勢を発令。これは演習ではない。繰り返す。これは演習ではない」

 

「観測結果更新を五秒単位に変更。艦橋格納します」

 

 ガギン、ガギン、ガギン。

 

 ブリッジの周辺に硬質な音が連続して響くと床がせり上がっていく。

 

 外部を直接観測する窓にシャッターが下ろされた。

 

「ブリッジ下部に積層魔力を充填。方陣化まで四分五十四秒」

 

「観測部門に直接観測禁止と唯物原理による間接観測を打電」

 

「各ブロック密封よし。船体防護を空間歪曲に切り替えました。外部に使魔(ドローン)を射出。主砲副砲各兵装を船体と物理遮断。これより遠隔操作に入ります」

 

「入電。協力体制にある神々の二割から力の貸与を申請するかどうか確認があります」

 

 すぐさまにレアが答える。

 

「この大陸に何とか残った方々を失うわけにはいかないとお返しして下さい。これは人が処理するべき案件だと」

 

「了解しました」

 

「ただ、周辺国への被害拡大は容認出来ません。国境を最終防衛ラインとして設定し、もしも相手が侵蝕活動をその先に延ばそうとした場合は……領土内の全てを消去するようお願いを」

 

「ただちに打電致します」

 

 ほぼ全ての指示を出し終えた少女は地図の上で燃え上がり、飲み込まれていくハガス東部を真剣な目付きで見つめ続けた。

 

(………)

 

 もしもの時は内部にいる自分達諸共神々に後始末をさせるという恐ろしい事を頼んでいながら、彼女の指示に誰も異を唱えない。

 

 それは少女が船内にいる全ての人員の心を掌握。

 

 否、信仰と己の姿一つで帰依させているからであり、彼女の力を認めさせる故だろう。

 

 亜人国家の人間達を守るというのは使命の一つだが、同時にハガスを蝕む怪奇が漏れ出した場合に責任を取るのも彼らが己に課した任の一つだ。

 

 相手は外神。

 外なる神々。

 世界を飲み込む真なる虚無。

 そう知っているからこその決断は重く。

 

 人の命を軽々しく扱わないレアの苦渋を船員の誰もが理解していた。

 

(頼みましたよ。【聖征者(クルセイダー)】………)

 

 緑炎に染まる雲の上。

 

 市街地上空に到達した船はこれから始まる恐ろしい一夜を余さず見届けるべく。

 

 観測を開始した。

 

 *

 

「マヲ………」

 

 黒猫が緑炎に侵蝕されつつある東部一帯を鐘楼の上から見下ろしていた。

 

 今日も今日とて少年の頭へ張り付きに行こうとしていた先の事態である。

 

 その瞳にはハガス内部で連絡が取れなくなり、炎に巻かれながら再び集おうとする境界の踏破者達がしっかりと映っている。

 

「………マゥ」

 

 様々な力が集いつつある。

 

 異相側の亡郷都市アイウィス内部。

 

 複数の階層(レイヤー)を破砕しながら舞い戻ろうと昇る聖なる者。

 

 緑炎の出所である場所で急速に強大化していく邪悪なる者。

 

 今正に中央から東部へと向かいつつある黒き女達。

 

 見えない緑炎に巻かれて次々に変質していく都市民達。

 

 都市上空で全てを見守る魚のような船。

 

 “彼女”の姉が行動を共にする“姉妹達”の一人。

 

 この間から出入り禁止にされた館で今も我関せずを貫く魔性の女。

 

「マゥーヲ」

 

 今日も世界は騒がしい。

 溜息が出るくらいに美しい。

 全てはありのまま。

 

 煌めく流星の如く過ぎ去っていく軌跡。

 

 このまま何もしなければ、黒猫は……“彼女”は傍観者だろう。

 

 けれど、偶には盤面に上がってみるのも悪くない。

 

 そう彼女は啼いた。

 

「マァアアアアアアアアヲォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!」

 

 大陸において魔術とは結局のところ。

 最終的には“何でもあり”の力だ。

 世界を壊そうが創ろうが自由自在。

 

 神様だって滅ぼせるし、時間だって止められる。

 

 黒猫は少なくともそう知っているが、世界中の殆どの存在がそうとは知らない。

 

 生まれてから今日まで狭い住居で生き続けてきた彼女は聖女ハティア・ウェスティアリア程ではないにしろ。

 

 それなりの魔術に関する能力を持っている。

 

 彼女の姉が血統を極める本来的な意味での存在だとするならば、妹たる彼女は魔術師という血統を偶然極めてしまった末に発生した成果の一つだ。

 

 故にそれなりの芸もある。

 

「マーヲヲ・マヲ・マ・ヲ・ヲ」

 

 彼女を中心として全ての景色が捻じ曲がった。

 

 鐘楼内部に発現したのは魔術方陣、魔力方陣、魔導方陣、力ある象形の集合が齎した結果、ではなかった。

 

 方陣とは法則や概念への干渉プロセスだ。

 だが、彼女の周りの歪みはソレですらない。

 

 如何なる複雑極致の方陣を敷いたとて、彼女の周りを歪めたものは越えられない。

 

 何故ならば。

 魔術ではなく。

 

 宇宙運行を司る諸法則の一部。

 

 【根幹経典(セファー・ラジエール)】の大元たる記録。

 

 その“原本の極一部”がソレだからだ。

 

 四方を歪ませたのは重さ。

 

 顕現し、神代の時代にすら出来ないとされた秘儀の一つ。

 

【真理極典(アレーテイア・イド)】

 

 魔術世界で干渉不能とされた世の真理。

 

 現在の【魔導技術(ハイ・クラフト)】が解き明かそうとしている宇宙の原理そのものだった。

 

「マヲ・ヲーヲヲ・マ・ヲ」

 

 あらゆる魔力形質とそれを用いた干渉技術。

 

 これらは全て作動原理たる宇宙の諸法則が在って初めて機能する。

 

 だが、魔術方陣のような間接干渉の媒体を通さない“法則の顕現を扱う能力”は大陸に今のところ存在していない、という事になっている。

 

 新たな法則を造るのは魔術にも可能な範囲の出来事だ。

 

 しかし、それは世界の恒常性によって必ず矯正される。

 

 どんなに力を注いでも永劫固定化するのは不可能に近い。

 

 だから、黒猫が、周辺に展開した歪みは魔術ではない。

 

 “魔術を作動させる為に必要な全ての法則”なのだ。

 

「ヲヲ・マ・マ・ヲ・マヲヲ」

 

 その力を用いるのに魔力を運用する必要も無い。

 

 魔力形質が物理的なエネルギーに置換されるのも、魔術が法則を書き換えられるのも、全て作動原理たる【真理極典】が存在するからだ。

 

 魔術師の極致。

 

 万能の域に至る存在ですら、魔術そのものを形作る法則に頼っている。

 

 なら、もし魔術など無いと展開された法則の一部が削除されたらどうなるか。

 

 言うまでも無い。

 

 宇宙内部から魔術が消え失せる。

 

 発動すらしない。

 

 そもそも“そんな技術体系は無かった”という事になるだろう。

 

「マヲー・ヲヲ・ヲ」

 

 魔術師は優秀な魔力形質を持つ為に血統を強化する。

 

 だが、血統そのものを追い求めた家が副産物として“魔術の域を超える原理”を手にするとは青天の霹靂に違いない。

 

 神域を超え、万能に到りつつある七聖女ハティアすら無力と化す力が、黒猫の奇妙な鳴き声を合図に一つの現象を紡ごうとしていた。

 

「マゥーヲ」

 

 本来、超高次の感覚を持ってしても巨大過ぎて捉えられないはずの真理の束が空間を歪ませる程に現界し、通常空間に歪みとして発露していく。

 

 そうして。

 

 露見したなら、あらゆる魔術師達から追われることになるだろう能力が、発揮された。

 

―――ぽむん。

 

 気の抜けるような音。

 

 黒猫の首に小さな黒いチョーカーが煙と共に現われる。

 

「マヲ~?」

 

『え~こちらクラウゼン公爵家執事室。あ、クヲン様ですか? 何かお入用で?』

 

「マヲ! マヲーマヲ?」

 

『ふむふむ。何となく分かりました。明日の晩御飯はお肉がいい!! ですね!?」

 

「マヲォ?! マヲーヲヲ!!?」

 

 ブルブルと黒猫が首を大きく横に振った。

 

『何やら違うと言われているような? いや~マヲン様のクヲ語は完璧に近いんですけどね。しょうがありません。メンゼルかイストの方にお繋ぎしますね』

 

 トゥルルルルル、チン。

 

 回線が切り替わる。

 

『クヲン様ですか? 今、マヲン様と共に他の二家は上に上がっていますので、今日は我が家イストとメンゼル家でご要望を伺いますが、どうなされましたか? また培養液の交換でしょうか? それともフラスコのお掃除? ああ、お夕飯はお肉がいいというお話ですか? それならすぐ料理長に命を下しますが』

 

「マヲォオオ?! マヲヲ!! マヲゥ!?」

 

 物凄く首を横に振った黒猫は必死にマヲ語を連発してゼェゼェ息を切らした。

 

『違う、と?』

 

「マーヲ」

 

 大きく頷きが返される。

 

『では、どのようなご用件で?』

 

「マヲー、マヲヲ。マヲッヲヲ。マゥーヲ」

 

『……えぇっと、対応表対応表』

 

 ガーンと衝撃を受けた様子で黒猫が涙目になった。

 

 姉と違って、彼女の言語を完璧に理解してくれる者は極少数らしい。

 

『あ、あった。えっと、高速圧縮言語に照らして……はい。何でも仰ってください!!! 万全です』

 

「グス……マヲーヲ、マヲヲ、ママヲ、マッヲヲ」

 

『指定・座標に・アレを・送って。ふむ。アレ、ですか?』

 

「マーヲ」

 

『はい。分かりました。では、お送りします。どうぞ座標を』

 

「マヲーヲヲヲーヲヲーヲーマゥッマヲ」

 

『確かにお聞きしました。それにしても近頃何処へお出かけになっていたかと思えば、西部ですか。結構遠出しているようで。遠出先にお口出しは致しませんが、夜更かしも程々に為さってくださいね』

 

「マヲ」

 

『大変良いお返事です。今は上でマヲン様も頑張っていらっしゃいます。家を預かる当主代理として、これからもご精進の程をよろくしくお願い致します。クヲン様』

 

「マ~ヲ」

 

『では、これで。あ、あとこれは料理長からなのですが。毎日毎日夜中にキッチンへフラスコごと現われて燻製魚をくすねていくのはお止めになって欲しいとの事です。何でも入ってきた新人が毎晩現われるフラスコのお化けに怯えているとかいないとか。今はまだお家も再興の途中なのですから、下々の者が安心して働け―――』

 

 ブチッと通信を切った黒猫がお説教から逃げる事が出来て安心した様子になるとシタタタッと鐘楼の上から跳んで緑炎の中を走っていった。

 

「……マヲ~」

 

 とても、本当に、まったく、残念な事だが、魔術師なら持ってるだけで滂沱の涙を流し悦ぶだろう最強の法則具現能力者な黒猫は……魔術師として四流だった。

 

 法則の顕現、選定、干渉。

 

 どれもこれも本職が公爵家のお嬢様な彼女では手に余るものばかり。

 

 通信機代わりのチョーカーを持ってきた転移魔術は運よく見つけた法則。

 

 『空間歪曲時に発生する時空間の魔術抵抗がある一定の値から跳ね上がる』を【真理極典】上で停止した末のものでしかない。

 

 普通よりも超ローコストな転移魔術となっているが、これはほぼ例外。

 

 彼女が選定出来た有益な法則は一握りだ。

 黒猫の神出鬼没さの正体。

 

 それが宇宙の諸法則に莫大な影響を与える超絶能力を使った壮大な“無駄使い”とは誰も考え付きすらしない事実だろう。

 

「マゥ~~」

 

 もしも、大魔術師レベルで能力を使いこなせたなら、聖女と同等以上の強さを発揮し得るのだが、本人は至ってお気楽な性格を反映し、少年の頭上を占拠する以外に力を使っている様子はない。

 

 人を人外に堕する狂気の緑炎を平然と散歩しながら、黒猫はいつもの如く相手をロックオンし。

 

 屋根上からその走る標的へとダイブした。

 

「マヲゥ~~♪」

 

 クラウゼン公爵家次女クヲン・クラウゼン・イストリア・ニェハエル。

 

 姉以上に特異な変異を遂げた究極の魔術血統生物は今日も今日とて分身(アバター)を使って世界を楽しく歩んでいた。

 

 *

 

「クソッ!! クソッ!! 何なんだよアレ!!?」

 

 煙も無く周囲の構造物を侵蝕する緑光の揺らめきから逃れるように彼らは走っていた。

 

「おい!!? どうなってる!!? 何でオレ達の力が利かないんだ!!!」

 

 獣と蜥蜴の顔が怯えと焦燥に駆られながら、迷宮のように入り組んだ東部の路地裏を駆けて行く。

 

 今の彼らならば魔術で空を飛ぶ事すら容易だろう。

 

 だが、今や天を覆わんばかりに膨れ上がった異質な炎はそれを許さず。

 

 悲鳴と絶命の怨嗟に呑まれた迷宮は混乱し、化物と貴族達の阿鼻叫喚を奏でていた。

 

 救いにもならない救いがあるとすれば、それは石畳が燃えていない事か。

 

 急速に広がっていく緑炎は大半の貴族の館を次々侵蝕し、轟々と力を強めていた。

 

 それでも未だ多くの亜人や使用人たる人間達が生き残っていたのは炎が現実のものとは違って建造物を焼いていないからだ。

 

 崩落するような建物は今のところなく。

 

 しかし、生物だけが少しでも触れると瞬間的に誰も彼も黒く焦げて仮面の屍者となっていく。

 

 外部へ逃げる道はまだ残っているかも妖しい。

 

 大通りは押し合い圧し合いの地獄絵図。

 

 化物と化した黒き仮面の亜人達に蹂躙されている。

 

 自警団や貴族の警護に当たる者達が必死の抵抗をしているが、並みの魔術では太刀打ち出来ない肉体強度と高速の物理打撃、自身を包む緑炎での侵蝕という三つの壁の前に次々彼らは打ち倒され、化物達の列へと加わっていた。

 

「ひぃッ!! くそッ!! くソッ!!? 何なんだよ!!? あの化物!!?」

 

 仮面を付けた獣人の男が魔力で殴り飛ばした化物がゆらりと起き上がるのを見て顔を引き攣らせた。

 

 今や路地にも増え出した化物は二人の往く手を阻んでいる。

 

 炎を避けながら、魔力で相手を弾き飛ばしての道程。

 

 まったく堪えた様子もなく起き上がって追いかけてくる仮面は増える一方だった。

 

「最強の力じゃなかったのかよ!!? こいつさえあれば、警察機構だってどうにかなるんだろ!!?」

 

「ああ、そうだよ!! そのはずだ!!!」

 

 蜥蜴の男が仮面の下で喚き。

 

 獣人の男が渇く喉を枯らして自分達の優位性を叫ぶ。

 

 されど、現状は変わらず。

 

(クソッ、クソッ、どうしてこんな事に!!? 何でだ!!? それもこれもあのエルフが出てきてから!!!!)

 

 演説後の倉庫に突如として現われたエルフの幼女。

 

 それが全ての始まりだった。

 

 恫喝した蜥蜴男の声も聞こえない様子でその手が彼らの方に伸びて。

 

 いつの間にか二人揃って気絶していたのだ。

 

 起きた時にはもう表通りの混乱が始まっていて。

 

 警官とエルフの姿は無かった。

 

 警察機構や警備の男達が戦い一人また一人と倒れていく様子に逃げ出したのはいいが、時既に遅く。

 

 あらゆる場所で化物達は待っていた。

 小さな勝手口から飛び出してくるモノ。

 二階の窓から飛び降りてくるモノ。

 

 炎に肉体を焦がされ続けている以上、彼らは少しも触れる事を許されない。

 

 魔力による衝撃で吹き飛ばしても吹き飛ばしても何かに惹かれるよう襲い掛かってくる化物は減る事が無かった。

 

 警察機構や軍だって一部は相手にしなければならないと覚悟していた彼らにしてみれば、相手の強さはそれ程でも無かったが、状況は最悪。

 

 相手は何処を攻撃しようが不死身のように甦ってくる。

 

 その上、近接戦は炎に触れないように行うのは不可能。

 

 周辺は彼らの肥大化した身体では今にも接触しそうな場所ばかり。

 

 武器らしい武器も無い。

 援軍は期待出来ない。

 

 逃げ場所があるのかも分からない。

 

 これではどんなに強くなろうが、お手上げなのも当たり前の話だろう。

 

 敵は投降を認めるような類のものではない。

 

 生理的な嫌悪や精神的な疲労は幾ら肉体を強固にしようが、拭えないのだ。

 

 そもそも結社への開発資金供与こそ行っていたが、あの倉庫にいた者は全員戦闘員としては素人だ。

 

 【ザヴォイド】の力もあくまで旧き貴族達を脅す小道具の感が強い。

 

 二十代前半から学生くらいの彼らに実践的な戦いの心得があろうはずもなかった。

 

(もっと開けた場所から空に逃げなければオレ達はッ!!!)

 

 赤熱した様子もない煉瓦の構造物。

 

 細い路地裏の左右には今も這い出そうと蠢く化物達がいる。

 

 巨躯を縮こまらせるように疾走する二人の往く手にはまだ何体も何体も障害が屯していた。

 

「死ねよぉおおおおおおおおおおおおッッッ!!!?」

 

 ゴッ。

 

 増加した個人の魔力形質が瞬間的な爆発力を得て外部へと放出され、衝撃として出力される。

 

 舞い上がる黒き肉体。

 仮面に付けられた名は曰く。

 

【罪人(ペッカート)】

 

 服も無く。

 

 虚空に舞いながらも自分達を指向する仮面にゾッとするような照り返しを見て。

 

 蜥蜴男は絶叫しながら路地をヤケクソに突き進む。

 

「うぁあああああああああああ!!! いい加減死ねッ!! 死ねッ!!! 死ねよぉおおおおおおおおおおッッ!!!!」

 

「止めろ馬鹿!!? そんな速度で進んだら!!!」

 

 留めようとした獣人の声が届いたのも束の間。

 

 吹き飛んだ化物の一体が鞭のように蜥蜴男の背後へ手を伸ばした。

 

 ビュルビュルと護謨(ゴム)の如く迫る死。

 

 蜥蜴男が気付くよりも早く。

 

―――ペトリ。

 

 緑炎が、刹那全身へ燃え移った。

 

「う、うぅああああああ!!? け、消してくれぇえええええ!!!? 頼むぅうううううううう!!? 早くッ!!? 早くぅぅううう―――イギィイイ゛イイイイイイ゛イイ゛イイイ!?」

 

「ひ!?」

 

 獣男が一歩後ろに下がった途端。

 

 蜥蜴男の全身からフッと炎が消える。

 

「だ、大丈夫か!!? こ、この野郎ぉおおおお!!!?」

 

 周囲に魔力による衝撃が奔り、群がってきていた仮面達が吹き飛んだ。

 

 慌てて仲間へ駆け寄ったのも束の間。

 

 焦げた手が地面に付かれる。

 

「どうやら【ザヴォイド】の力はあいつらにも有効なようだな。立てるか?」

 

「……」

 

「おい!? どうした!? やっぱり、何処か怪我を?」

 

「いゃ、大丈夫、ダ……怪我なんてしてない……」

 

 安堵した様子で獣男が蜥蜴男に手を貸して立ち上がらせた。

 

「心配掛けさせるなよ。まずは此処から逃げ出す事が先決だ。一族との連絡も取らないとならない。このまま一気に駆け抜けるぞ…?」

 

 獣人特有の毛むくじゃらな手に付いた煤はまだ温かかった。

 

「少し焦げてるな。だが、すぐ回復するはずだ」

 

 蜥蜴男が常々、自分の肌の鱗を自慢していた事を思い出してフォローしたものの。

 

「……」

 

 反応の薄さを不審に思った獣男が肩を揺さぶる。

 

「おい。本当に大丈夫なのか?」

 

「あァ、大丈夫ダ。何も心配ナイ」

 

 ゆっくりと振り返って、蜥蜴男が笑みを作る。

 

「―――?!」

 

「ダイジョウブだ。ァあ、ナニも問ダイ無イ」

 

「お、まえッ!?」

 

 パキンと罅割れた仮面が【崩燼機関】ごと、その顔から崩れ落ちた。

 

「あ…レ?」

 

 後ろに身を引かせた友の事も気に留めず。

 

 蜥蜴男は落ちた仮面をを拾い上げ、再び己の顔へ宛がおうとして、気付く。

 

「おレの顔、仮面、付けテる?」

 

 顔の半分を覆っているはずのものが、自分の顔全体を覆っている事をようやく悟って。

 

「オれ、カ面、付ケて……」

 

 燻っていた肌の内側からゆっくりと埋み火が再度広がっていく様子を爬虫類の瞳が見た。

 

「そゥか。“壊サれてタんダな”……」

 

 目も口も鼻も無い屍蝋がゆっくりと残りの部分を包み込み、凹凸による刻印が刻まれていく。

 

「“お前も”」

「ひッ?!!?」

 

 煤を触った手が生物のみを焼く緑炎に這われ黒ずんでいく。

 

「う、ぁ…ご…げ…?!!?!」

 

 あまりの恐怖に、己が消える恐怖に、亜人ではない別の何かになっていく恐怖に、二重となりつつある仮面の下、獣男の瞳が裏返った。

 

 パキリと【ザヴォイド】が落ちると同時に路地裏にこの世の物とは思えない雑音が響き渡る。

 

「――――――」

 

 路地の全てが緑炎に覆われた時。

 

 東部一帯は完全に脱出不能の牢獄と化した。

 

 *

 

 館が立ち並ぶハガス東部はアルヴァス建国時から貴族達が居を構える一角として築かれてきた。

 

 貴族総数はあまり変わらなくとも、貴族の興亡が激しい国の性か。

 

 多くの館には地下道というものが設置されている。

 

 無論、もしもの時の備え。

 脱出通路である。

 人間社会程ではないにしろ。

 

 少なからず陰謀で消される者はアルヴァスにもいた。

 

 戦乱が治まった後。

 

 安定期に入ってから貴族達の居が新設される事は少なくなったが、未だ伝統的に館は当主と建築者のみが知る秘密の通路というものを持っているのが殆どだ。

 

 そんな場所をヴァルは背中に荷物を背負いながら歩いていた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 その息は荒い。

 

 全身の骨に入った罅に臓器からの出血。

 

 破壊された全身の筋組織が熱を持っていて、腫れていた。

 

 これで動いていては魔術による治癒を行っても完治には程遠い。

 

 更に言うなら、彼の魔力形質は己の筋組織を削る事で魔力を得る【体内置換性魔力(サブスティトュート・マギシス)】の一種で、幾ら破壊された筋肉が多量にあると言っても使い過ぎれば、最低限歩くだけの力すら失いかねない。

 

 辛うじて肉体の力を保てているのは事前に彼が揃えていた簡易の小型医療キットを衣服の内部に忍ばせていたからだ。

 

 全身にベッタリと治癒の呪符と疲労回復用の湿布を貼り付けているだけでどうにかなる程、【ザヴォイド】で増幅された打撃の傷は浅くなかった。

 

(この避難通路、無駄に長いな。いや、オレが遅くなってるのか?)

 

 歩みは遅い。

 

 赤子が這うような速度と言って差し支えない。

 

 誰が来ようとすぐ追いつかれるのは必至。

 

 未だ【崩燼貴族】側の追撃が無いのは彼にとって幸運だった。

 

(この可愛らしい“荷物”を捨てるわけにも行かないしなぁ。どうすりゃいいんだか……)

 

 暗闇の中。

 

 夜目が利くヴァルは痛む首を捻った。

 

 背中には温かな感触。

 

 エルフの少女が其処にいた。

 

(あそこに置いておけるわけもないとなれば、連れてくるしか方法が無かったとはいえ、なぁ……)

 

 気を失ったヴァルが起き上がった時。

 

 そこには【ザヴォイド】の仮面を付けた男が二人倒れていた。

 

 そして、その横に幼い少女もまた気を失い転がっていたのだ。

 

 何がどうなっているのか分からないまま。

 

 しかし、相手が目を覚ましてしまえば、次こそ助からないと少女を連れて避難通路を探し当てたまでは良かったが、当面の危険が遠ざかったに過ぎない。

 

 もしも避難通路に思い当たる者が出れば、追われるのは必定。

 

 一人で少女を逃がすという事も考えたが、揺さぶっても声を掛けても眠ったままの少女をヴァルは連れて行くしかなかった。

 

「まったく。ああ、通信の一つも通じないのはどうしたもんか」

 

 魔術における通信は基本的に多くの場合、周辺環境に左右される。

 

 強力な通信網設備はアルヴァスでは軍部や大貴族が独占していて、個人がこれらの設備に対して働きかける場合には大きな制限を受ける。

 

 警察機構。

 

 それも都市部の重犯罪の取り締まりを行う貴族警邏隊の隊員ならば、それなりの通信権限が貸与されて然るべきであり、実際ヴァルは長距離通信すら可能な権利を有していたが、東部地下大深度を縦横無に巡る避難通路の中ではどうしようもなかった。

 

 逃げ道というものは秘中の秘。

 

 新規建築や増築は一部の限られた工事業者が大昔から請け負って行っている。

 

 新しい秘密の通路を作る度、途中で別の貴族の通路にぶち当たるような事態にならない為だ。

 

 その結果一つ一つの通路を掘る度に深度を上げたり下げたりと無茶な調整を強いられてしまう。

 

 つまり、東部の地下は上下水道の大迷宮より深い位置に多数の逃げ道が交わりもせずに絡み合うもう一つの迷宮を要しているのだ

 

 魔術での隠蔽効果やら結界やらが地下に折り重なっているのだから、通信など容易に出来る環境ではない。

 

「ん…ぅ…」

 

「起きたかな。小さなお嬢さん」

 

 もぞもぞと背後で動き出したエルフの少女にヴァルが出来る限り、安心させるよう声音を優しくした。

 

「………?」

 

「此処は暗いが心配しなくていい。今、危ない奴らから逃げてる最中なんだ。どうしてあそこにいたのか。どうしてあいつらが気絶してたのか。そこはちゃんと保護してから聞かせてもらいたい。だから、それまでは出来れば大人しくしていて欲しいんだが、出来るかな?」

 

 しばしの沈黙が流れた後。

 

 コクリと背後で首肯する少女にヴァルは「良い子だ」と呟いた。

 

「じゃあ、しっかりと掴まっていてくれ」

 

 きゅっと背中に身体が密着した。

 

 暗闇の中。

 

「………」

 

「ん? どうかしたのか?」

 

 ヴァルは問い掛け、歩き出そうとして―――ベチャリと崩れ落ちた。

 

「な、ぁ…?」

 

 急激に意識が遠のいていく。

 

 声も出ずに倒れた彼の上から重さが引いて。

 

 通路の前後にポツリポツリと小さな明かりが燈り始めた。

 

(何、だ…これ…は?)

 

 薄れゆく彼の意識が見たのは萌え燻(くゆ)る炎。

 

 それを何故か。

 

 あの下水道で見た紅点に被らせて。

 

 警察官としての矜持が本来出せないはずの声を吐かせた。

 

 逃げろ、と。

 

「………」

 

 緑炎。

 

 湧き出す外神の侵蝕がカシャカシャという音と共に二人へと近付いてくる。

 

 小さな蟲。

 

 通路内に蔓延っていたのだろう蜘蛛の群れが黒い外殻と細い足を動かして機械的に行進を続けていた。

 

 System.Re:Start。

 NS.001。

 Code.Name/―――?.g3:;.ll:g3q4。

 Error。

 

『情報の欠落を確認。再構築失敗。最優先命令。了と判断。自己診断機能を始動。確認、確認、確認、確認、確認を終了。排除条項を参照。外部敵性体と認識。稼動状態21.03%……自己状況診断…危険度33……能力開放……人格開放承認申請。外部接続不可能。終宿主(しゅうしゅくしゅ)適性……09%……能力適性L……肉体負荷測定98.44%……魔力形質確認……24tgj0kqw;ogjwa;ogja……確認不能……能力未開放時危険度313……全診断機能停止……人格開放……能力、能力、能りょっ、りょr、ryry―――』

 

 破滅の足音が、止まった。

 

 本来、それは在り得ないはずの出来事。

 

 小型の昆虫類に畏れる脳は無きに等しい。

 

 侵蝕の末、恐ろしき力を得た蟲に忌避があろうはずもない。

 

 だが、それにも例外はあろう。

 

 何故ならば、その小さな蜘蛛達が出会ったのは世に現われた第九の力。

 

 大宇の法すら曲げる意思の具現。

 

 人の技において縛られ、御されたはずのものだからだ。

 

「………」

 

 今までErrorの文字を吐き出していた額の宝玉に耀光が宿り、割れた。

 

―――己の全てを知っている彼女はきっと七つの奇蹟すら凌駕した……単なる幸せ者だった。

 

 天井が崩れ、土砂が落ち、大地が割れて、蒼の星が照らし、萌ゆる耀きが彩り、空が開く。

 

「見つけた。大丈夫?」

 

 声がして。

 上を見上げて。

 

 彼女は込み上げるものを自覚する。

 

「怪我とかしてない?」

 

 舞い降りるのは黒き外套。

 

 あの時、あの場所で、出会った―――安寧の色。

 

「あ…ぁ…!!」

 

「えっと、誰かと一緒みたいだけど、一緒に連れて行く?」

 

 その笑みに少女は、エルフの少女は、頷いた。

 

 名前も知らないのに知っている。

 

 言葉も分からないのに分かっている。

 

 世界一、自分を幸せにしてくれた人を、彼女は、久方振りに抱き締めた。

 

「あはは……元気みたいで良かった…うん」

 

 あの日と同じように。

 あの時と同じように。

 片手も無くして。

 微笑む少年へ。

 涙しながら。

 彼女は伝える。

 

 自分のずっとずっと抱えていた想いを。

 

 ただ、ありがとう、と。

 

 きっと、それだけを言う為に運命すら呼び寄せて、彼女は其処へ来たに違いなかった。

 

【歓寄倖(ジュビラティオ)】

 

 新聖女(ネクステーゼ・セイント)計画。

 

 大陸中央諸国において進められつつある次代聖女創出プログラムにおいて確認された唯一の成功例。

 

 被験者ラタウト・ヴェルガナを使用した人造の奇蹟は今、その本当の役目を果たしつつあった。

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