※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第一章~東部御門編~
第一章十二節


第一章十二節「戦闘」

 

―――麦の家に住んで春を待とう。

 

―――土の音に抱かれて蟲を共に。

 

―――泣き錆びた瞳で君と暮らそう。

 

 明け方の紫雲の空から降ってくる言葉を聞いたのはその時間帯から仕事を始めるもの達だった。

 

 建物も扉も関係なく響いている詩。

 

 美しい声は幼さを孕んで。

 

 まるで詩篇のように言葉を編み上げた。

 

 如何に無法地帯といえど、人の営みは変わらない。

 

 どれだけの悪徳と罪と理不尽に塗れても生きていく事を人は止められない。

 

 声が語る人の暮らしの情景は自然と聴く者に涙を零させた。

 

 郷愁。

 

 いや、こんなにも美しいものが未だ人の世にあるのだと知らしめて。

 

 一人の聖女は空の中、謳う。

 

―――歩んでくる旅人が声を運んで。

 

―――死の風がこの原を吹き抜けても。

 

「君と伴ならば、この世の果てまで」

 

 詩篇の最後を謳い継いで。

 

 今まで宿屋の一室にいたはずの少年が雲を下に一人立っていた。

 

 眩い夜明けの中。

 

 聖衣を纏った少女ハティア・ウェスティアリアは予定調和に事が進んだ事を確認して、遥か数千m下にある一帯に予め用意しておいたものを垂らした。

 

 小瓶から風に溶けていくのは融けた黄金。

 

 熱も持たずに液状となっている触媒は落下し、薄く薄く一帯に広がっていく。

 

 変化は劇的に。

 

 変性した不変の象徴は全ての原子を網目のように繋げて、在り得ない速度で地表に“激突”した。

 

 刹那に起こった事象は凡そ人の手に余るものだった。

 

 世界はまるで菓子を上からナイフで切り分けるように上空からの脅威によって切断され、地域に住まう全ての命は格子状の“区切り”に囚われる。

 

 蟲も鼠も人間も平等に上空から落ちてきた全体に相似する黄金の結界(フラクタル)に囲われ、他者との関わりの一切を遮断されたのである。

 

 人々にしてみれば、一瞬にして上空から降り注いだ何かが自分を覆っていると錯覚しただろう。

 

 だが、実際には蜜蜂の巣のように地域を覆い尽した極大の結界が内部の存在を一人ずつ的確に封印したというのが正しい。

 

 透明な黄金壁は少なくとも一帯に近付いている艦船からの砲撃や爆撃では傷一つ付かない完全な防壁として、これから想定されている如何なる力も遮断する守りとなった。

 

「久しぶり。ハティア」

 

 金色の髪を風に靡かせて。

 

 自分を睨む聖女に少年(ティア)は微笑んだ。

 

「待っていました」

 

「あ、うん。ごめん」

 

 今正に開始されようとしている生存を掛けた戦い。

 

 それを目前として尚まったく普段と変わらない少年は親しい者に向ける笑みで謝る。

 

「謝らないでください」

 

 片や聖女の顔は決して明るく無い。

 

 これから殺し合いをしようという相手に笑みを浮かべる事もない。

 

 その目は静かに少年の行動を注視しながら、仕掛ける機を探している。

 

「いきなり詩が聞こえてきたから、少し驚いたけど。あれって確か君の故郷のだったっけ?」

 

「どうして……」

 

「?」

 

「どうして……そんな風に笑えて。変らないんですね。貴方は……」

 

 何かを悔やむように。

 

 何かを噛み締めるように。

 

 魔導と慈愛の聖女は顔を歪めた。

 

「まずは、お礼を。君がこうやって僕を呼んでくれなかったら、幾らか地域に被害が出てただろうから。それと誰も傷付かないよう準備してくれた事にも」

 

「―――私は!!!」

 

 決して人前で、夫の前で、声を荒げた事のないハティアは、少年の本当に何も変らない様子に、心の内から溢れてきた反発の感情をぶつける。

 

「私は貴方を殺しに来たんですッッ!!!」

 

「知ってる。でも、ほら、人に感謝する機会なんてそう多くないから。これから君と戦うんだとしてもお礼くらいは言っておきたかったんだ。これからこういう機会がどれくらいあるか分からないし」

 

 自分の命を抉るだろう少女へ少年は変らず、本当に何一つ常と変らず、穏やかに言った。

 

「あの結界は大戦で貴方を捕らえたものを更に改良したものです。これなら私は全てに構わず全力を出す事が出来ます。力の一切を使わない貴方に勝ち目はありません」

 

 もう激昂もなく。

 

 静かに聖女は少年に死刑宣告を行う。

 

「一度だけ訊くけど。退いてくれない?」

 

「大人しく討たれてください。それがこの世界の人々の、いえ……この世界に住まう全ての命にとっての幸せです」

 

 聖女はその残念そうな笑みに、もう答えを知りながら、それでも訊いてくる少年に、決然と言い放つ。

 

「うん。知ってる……」

 

 寂しそうに笑って、少年が腕を己の横の虚空へ突き刺した。

 

 空間が歪んで腕が消失する。

 

「でも、僕は生きるって決めたから」

 

 突き込んだ何処とも知れない空間の奥から何かが掴まれ引き抜かれていく。

 

「それに今は一人じゃないんだ。昔みたいにはいかないかもしれないけど、大切な人が出来て……今、あそこで静かに眠ってる。みんな良い子で……僕なんかを買被ってくれてて……」

 

「全てまやかしです。貴方は誰とも決して分かり合う事はない」

 

 少年の言葉に篭る想いを否定して、聖女は厳然たる事実を述べる。

 

「例え、そうだとしても。僕は僕の責任を全うする。君が立ちはだかるなら退けてもみせる。それがあの大戦で僕が勝ち取った我侭だから」

 

 少年が武器を引き抜く前にハティアならば、腕を落とす事も出来ただろう。

 

 少年を構成する物質の構造を瞬きの間に崩して、蛋白質と水の汚泥に変える事も容易だったはずだ。

 

 しかし、彼女はそうしない。

 

 いや、出来ない。

 

 力の殆どを使わないとしても少年を殺し続ける事は容易ではない。

 

 その隙が無かったかと言えば、無かったとしか彼女は思わない。

 

 腕を落とせたかもしれないが、腕を落としたところで戦局が優位にはならない。

 

 肉体の欠損も力の使用制限も実質的に少年の不利となる事は無いだろう。

 

 そもそもが聖女達は過去の大戦で敗北を喫した。

 

 人類中、最上位の能力を持つ者が七人総掛かりで結局殺す事は出来なかった。

 

 だからこそ、ハティア・ウェスティアリアは追討師団を創設し、戦力を増強しつつ、少年を追っていたのだ。

 

「今更、手加減の効く得物を使う貴方が、私は嫌いです」

 

 虚空から少年が引き抜き終えたのは一本の剣だった。

 

 とてもみすぼらしく古ぼけた。

 

 材質は鉄。

 

 柄の部分には粗末な布が巻かれているだけの刃。

 

 恐ろしい切れ味があるわけでもなく。

 

 何かしらの加護があるわけでもない。

 

 もし、ただの人間が使えば、多少切れ味の良い普通の鉄剣と言えるだろう。

 

 長さも幅も誂(あつら)えたように大陸の至る場所で見られる規格。

 

 これを振って名剣と言う者はきっと大陸にも数人いるかどうか。

 

 その達人でさえ、それを剣として使った時には“鈍ら”と評するはずだ。

 

 だが、彼女は知っている。

 

 この世界で唯一。

 

 たった一人。

 

 その剣を真に使いこなす少年の事を。

 

 剣に刻まれた唯一の能力を駆って、あらゆる存在を退けてきた。

 

 如何なる力をも防ぎ、モノを裂き、超常の力と技術を無為と成す。

 

 自分の奇跡よりも奇跡的な光景を彼女は知っている。

 

 その刃、幾多の戦場を駆けて無欠。

 

 幾多の者を裂き無尽。

 

 そう讃えられる正式な銘も無い一振り。

 

 相手した者が囁く名は少ない。

 

 それでも刃鳴らぬ鈍らに多くはこう言った。

 

【永劫不刃(えいごうぶじん)の大業物(おおわざもの)】

 

 誰かがアイオンと呼んだソレを少年が片手でハティアに向ける。

 

「昔、ソィラが言ってたよ。僕には人を殴って殴られる勇気が無いって」

 

「(ARBRES)」

 

 戦闘開始の初撃が大気を鳴動させた。

 

 予め地域一帯において七教会工作部隊が準備していた触媒。

 

 それが聖女が口の中で呟いた一言に反応する。

 

 急速に膨れ上がる気配に少年は自分に向けて放たれる激甚の濁流を地上に見た。

 

 それはまるで液体のように吹き伸びて少年を捉えた。

 

 三秒にも満たない内に高度数千mの上空へ。

 

 地域周辺から湧き上がったもの。

 

 それは複数の【宇宙樹(ユグドラシル)】だった。

 

 ただの樹木がそれ程の成長を行えるわけもない。

 

 ファルティオーナにおいて大森林と呼ばれる複数の地域は宇宙樹と袂を別つ種が永い時を掛けて定着したものと言われている。

 

 大陸に存在する宇宙樹は例外無く幾つかの基本機能が共通していて、武具の素材として扱われる事もあり、そのどれもが伝説となるような聖剣や聖具となった。

 

 教会が扱う伝説級の法術や御技にも触媒として使われる破片は【近代化(レボリュション)】の進む大陸にあっても未だに値段の付けられない教会秘奥の一つだ。

 

「フルーが改良に成功しました。これだけの種が採取出来ていれば、少しはあの時の勝率も上がっていたはずです」

 

 複数の宇宙樹は少年を中心として渦巻くように結合し伸びてゆく。

 

 その高さは一分を待たずして高度二万kmを超えた。

 

 宇宙空間にまでも進出した樹木は正に名前の通りの存在だ。

 

 超高速の成長は樹の寿命を極端に縮ませる。

 

 それを理解しながらも聖なる樹を複数使い捨てにして、聖女は時間を稼ぐ。

 

 樹の基本的性質は三つ。

 

 内部に取り込んだ者の生命力を吸収する。

 

 成長と共に細胞の全てを硬質化させる。

 

 触媒として使用した場合、その様々な術の体系に関係なく力を増幅する。

 

 ビュルビュルと地上から伸び続けた樹の成長が止まったのは一分三十秒後。

 

 急激に成長した大樹のせいで惑星の大気層が不安定化。

 

 オーロラが空を埋め尽くし。

 

 雲という雲が晴れていく。

 

 国境地帯を飲み込んで成長した大樹は大陸の彼方からも見える程の大きさとなりながら、威容を誰にも見せつけた。

 

 少年を呑み込んだ時点で手を祈りの形にして、脳裏で術を編み込んでいた聖女は長さにすれば地球半周以上はあるだろう記号の羅列を調整し終え、監視部隊が収集してきた情報を基礎に術を作成した。

 

 魔導は近年魔術や法術や大陸で扱われてきた超常の力、技術を収集する過程で聖女が生み出した複合的学問だ。

 

 最初こそ特色が無いと多くの超常の技能を扱う者に揶揄されたが、旧来の慣習や禁忌とされた領域も人道に則りつつ、多くの者を集いながら解明した結果。

 

 今や【真理(アレーテイア)】と呼ばれる宇宙の法則の全てを解き明かすに足ると言われている。

 

 それを主導してきたハティアにとって、戦いとは己が積み上げてきた実績と結果の量を比べる行為であり、始まった時点で結果が出ているものだ。

 

 幾つもの手を同時に打つのは下策。

 

 目の前の存在が最初から自分を上回っているという想定において、限界まで絞り込んだ方法を使う。

 

 それが唯一少年を打倒する道だと彼女は考えていた。

 

 故に彼女が残す攻撃方法は後二つ。

 

 ギ、ギィィと成長の止まった宇宙樹が真空にも関わらず鳴動した。

 

「(予想よりも早い!? 魔力の一欠けらも使わないで世界樹を?!!!)」

 

 術の発動まで残り数秒。

 

 しかし、この後に及んで術が最大の効力を発揮する領域、大樹の中心から脱出されては効果も怪しい。

 

「【聖絶(ヘーレム)】より効果が薄くとも直撃さえさせれば!!! 術式中核(セントラルコア)を【秘儀(プァンクトゥム)】へ」

 

 速度を重視した聖女の判断は正しく。

 

 大樹の中から轟いた破壊音が巨大となる寸前、雄叫びと共に術が発動する。

 

「【柄(つか)司(つかさど)る女神(メリア)の抱擁(ほうよう)】(マグナ・アメト)」

 

 予備動作も何もなく。

 

 一本となった宇宙樹全体が激烈な閃光に包まれた。

 

 それは大陸の果てまで遍く観測出来る程の耀き。

 

 太陽の光を超えて。

 

 地上の全てを大樹の灯は照らし出した。

 

 *

 

『まったく。どうしてああなのだ。お人よしにも程があるのではないのか……』

 

 曖昧な意識の底。

 

 揺蕩いながらも明確な意思が波紋を作った。

 

『何故、ああも人助けが趣味なのだ。あの馬鹿者は……』

 

 何に怒っているのか。

 

 イフィミスラは自覚すらせず愚痴る。

 

『わ、我にはまだ……してないのに……あ、あんなにはしたない…おねだりしたのに……』

 

 少女の記憶が一つ舞い上がり、少年が赤くなるような行為を再生した。

 

『てぃぁぁ♡ われにぃ♡ じょうずなぁ、おまんこぉ♡ おしえてぇ♡』

 

 その時は殆ど無意識だった。

 

 少しそういう知識はあったから、こういう事を言えばいいのかなと考えていた言葉がスラスラと出てきただけだ。

 

 別にいつもそういう事を思っているわけではない。

 

 そう自分をイフィミスラは弁護する。

 

『まったく。どうしてああなのだ。まったく……ぅぅ……』

 

 あんなはしたないおねだりまでしたのに。

 

 だというのに。

 

 少年はそれ以来欲望を我慢出来るようになったイフィミスラに“そういう事”はしなかった。

 

 それは自分を思ってくれる故だと分かっていたから、それなりに嬉しくはあったけれども、少女にとってそれはもどかしい時間だった。

 

 ようやく一息付ける場所を見つけて。

 

 夜には帰ってから“してくれる”と約束したのに。

 

 少年が帰ってきたのは夜中。

 

 それだけならば、少女は怒りなんて感じなかっただろう。

 

 夜中になるまで帰ってこない少年を心配していた顔のまま、少年を労わっていたかもしれない。

 

 けれども。

 

『てぃあにいさまにみうけされました。えふぃりむ・えーね、です』

 

 ちょっと少年の背後から顔を出した自分よりも幼い少女の姿にイフィミスラは最初呆然とした。

 

 身請け。

 

 主に娼婦や奴隷の身柄を売買する事。

 

 七教会の大百科にはそうある。

 

 どうして旅の資金を稼ぎに行って、どう見ても自分より幼い少女を数時間の内に身請けしてくるのか。

 

『わ、訳が分からぬではないか!!!』

 

 恥ずかしがる少女の外套をとって大丈夫だからと頭を撫でる少年の姿。

 

 自分以外にそうやって……優しくしながら、頭を撫でる姿。

 

 それが少女には思いの他ショックだった事は否めなかった。

 

『それにあんな魔族の血を引いているとか。我より小さくて、可愛くて……それに……』

 

 イフィミスラの脳裏に蘇るのはエフィリムと名乗った少女の恥じらう姿。

 

 そして、最大級の衝撃を齎す言葉。

 

『てぃあにいさま。このおねえさまたちも……てぃあにいさまのこだねをもらっているのですか?』

 

 何だか興味があって聞いた風だった。

 

 だが、聞き捨てならないのは“このおねえさまたちとも”という言葉。

 

 ギロンとたぶん今世紀最大に鋭い視線をイフィミスラは少年に投げた。

 

 そして、少年の口からとんでもない言葉を聞いた。

 

 金貨に変えられないチップの変わりに景品として。

 

 少女を貰う事になってしまった。

 

 その条件はエフィリムの処女を奪う事だった。

 

 断れば少女の身の置き場は無く。

 

 そのまま賭場との揉め事にもなる。

 

 諸々の事情を考慮した結果。

 

『それでまぁ。一緒に旅をしてもらう事にしたんだけど……イフィミスラ?』

 

 全て手に取るように自体は理解出来た。

 

 出来てしまった。

 

 少年は決断したのだ。

 

 このまま身の置き場も無く外に出れば死んでしまうだろう少女。

 

 その人生を助けるという選択を。

 

 此処で女子供がどう扱われるのか。

 

 知っていたからこそ、そうしたのだ。

 

 更に言えば、外見だけでもエフィリムは生きていくのに不利だ。

 

 魔族の血を引く。

 

 これだけでもう人間の社会では生きていけない。

 

 いや、他種族の中ですら異端なのは目に見えている。

 

 だから、自分と関わり合いになった子を放ってはおけなかったのだ。

 

『ティアは正しい事をした。そんなの我にも分かる。でも、我だって……』

 

 衝撃的過ぎて、見知らぬ少女に少年を取られてしまったような気がして。

 

 どうしていいのか。

 

 何を言えばいいのか分からなくなった。

 

 結局、何も言わずイフィミスラはそのまま寝台に潜り込んだ。

 

 少年はその後ろ姿をずっと見つめていた。

 

 エフィリムをナーリャと共に寝かせて。

 

 自分は一人床に座って扉に腰掛けて。

 

『怒っているだろうか。あんな我の態度を……いや、きっと……』

 

 困った笑みを、少し悲しげな笑みを浮かべているのだろうなと。

 

 イフィミスラは身体を震わせた。

 

 嫌、だった。

 

 少年に悲しげな顔をさせるなんて。

 

 いつも笑いながら大丈夫だよと励まして慰めて。

 

 慈しんでばかりの少年。

 

 それに救われて、それに癒されて、此処まで旅をしてきた。

 

『我はそう……あの優しそうな笑顔が曇るところなど見たくないのだな。はは……何をしているのだ我は……こんなにいじけて……嫉妬して……』

 

 自嘲を零しながら、少女は思う。

 

 少年に触れて欲しかった。

 

 少年に貫いて欲しかった。

 

 そんな欲望から嫉妬して、無視して、それを当然だと勝手に憤慨して。

 

 何て自分は愚かなのか。

 

 イフィミスラ・ハージェット・テトス・エルデナンド。

 

 皇国の姫はそんなに小さな女だったのかと。

 

 少年を独り占めしたい気持ちは胸の中でとても大きい。

 

 けれど、真に心を占める想いは別にある。

 

 そうだ。

 

 少女はあの日から、命を救おうと見ず知らずの少女を抱き締めて落下した少年から、学んだ。

 

 誰かの為に何かを成す尊さを。

 

『それなのに何と矮小なのだ。我が心は……』

 

 少年のように成りたいと思った。

 

 その憧れは決して小さなものではない。

 

 それに。

 

『我が求めていたならば。きっと真に望んだならば……ティアは……』

 

 応えてくれる。

 

 そう確信が少女の中にはあった。

 

『馬鹿だな。我は……』

 

 話してみよう。

 

 そう少女は思う。

 

 エフィリム・エーネ。

 

 そう名乗った小さな魔族の血を引く子と。

 

 少年を自分みたいに見つめていた子と。

 

 起きたらきっとそうしようとイフィミスラは思った。

 

 *

 

 黄金壁に囲まれた一室。

 

 少年の加護故か。

 

 一人一人分断される事もなく部屋全体を結界(フラクタル)に囲まれた少女達はナーリャを除き、未だ眠っていた。

 

 多くの人々もそうだろう。

 

 未だ人が動き出すには早い時間帯。

 

 娼館の客だって日がもう少し高くならねば、娼婦の横で寝ている。

 

「ティア……」

 

 近頃、新しい革服を買って貰った為、ワンピースを寝間着にしているナーリャは透けて見える壁の外の威容をジッと見つめていた。

 

 巨大な何かが世界を取り囲んで、激しい光が乱舞する。

 

 何の音も気配も伝えてこない静かな戦い。

 

『二人の事頼むよ。もし、何かあったら此処に僕の使者が来るはずだから』

 

 そう何処からか聞こえてくる詩に空を見上げながら、少年は言った。

 

 瞬きの内にその場から転移していった。

 

 まだ朝も早い時間帯。

 

 よく早朝に目が覚めるナーリャは起きていきなり少年にそう言われたのだ。

 

「死なないで。生きて、いて……ティア……」

 

 今も外で何かと戦っているだろう姿を思い浮かべて。

 

 確信して。

 

 それでも何も出来ず見ているしかない己が情けなくて。

 

 ナーリャ・ナーシムは。

 

 いつも子供っぽいダークエルフの少女は。

 

 手を組んで祈る。

 

 誰に教えられたのかは知らない。

 

 何に祈っているのかも分からない。

 

 それでも、そうするべきだとナーリャの心の奥底で声がした。

 

 それはとても深い場所。

 

 まるでいつもの自分とは違う沢山の言葉が溢れる場所。

 

 自覚もせず。

 

 覚悟もせず。

 

 ナーリャは其処から溢れる想いを、願いを、誰かの声を、自分の声を、詩にした。

 

 カチリと何かが少女の中で嵌る。

 

―――時に置き去られた我らが神よ

 

―――願わくば善きものを使わせ給え

 

―――いみじくも在る尊き奇蹟よ

 

―――そなたの名をどうか遣わさせ給え

 

―――世に在る全ての嘆きよ

 

―――この終わりなき終末の糧と果てて

 

―――どうか静かに眠り給う

 

 ゴキュンと何かが呑まれる音がした。

 

 今まで少女達の部屋を覆っていた黄金壁。

 

 正式には【錬金果(テオフラストゥス・ドグマ)】と呼ばれる錬金術の最果てに近い、全ての変性を拒絶する概念にも近い、非相転移高次結界が、一部失われていた。

 

 薄暗い部屋の壁の奥。

 

 影になった場所から空を見上げるナーリャの背後にそれが近づく。

 

 意識の全てを祈りに捧げている少女は気付かない。

 

 それは黒いものだった。

 

 “古ぶるしきもの”と呼ばれるかもしれないものだった。

 

 ティア。

 

 そう短く呟きがソレから漏れて。

 

 不意に地域一帯の人々は、部屋にいる三人の少女以外全て“幸福”に襲われた。

 

 *

 

 ドロドロに解けていく肉体を感じながら、少年は未だ動く筋肉を総動員して剣を振り続けていた。

 

 複数の宇宙樹のレプリカが合流した大樹の中心。

 

 生命力を常に吸い上げ。

 

 今正にその上から内側に向けられた摂氏数百万度近い高温の檻。

 

 外側には耀きだけを漏らしているのだろう蝋燭の中心で傷付く度に零す耀きに苛まれながら、骨格と僅かな筋肉のみになりつつある少年は抵抗を続ける。

 

 傷は治り、融け、治り、融けを繰り返している。

 

 既に内臓は無く。

 

 既に肌は無く。

 

 既に輝く骸骨と化していても、少年は一向に冷静なまま、此処まで準備していた聖女の、ハティア・ウェスティアリアの執念を感じていた。

 

 少年は死なない。

 

 正確には死ぬが、元に戻る。

 

 少年は終わらない。

 

 正確には意識が途切れる事なく、頭部を潰されようが、脳髄を消滅させられようが、肉体の構成原子一つ一つまで別ものにされようが、肉体の終わったゼロ起点を軸に全てが保存される。

 

 詳しく魔王を調べた七教会の研究部門の最終報告として「魔王の存在は“破れぬ場”のようなものを起点とする」となっているが、その情報を本当に理解するのは一握りだ。

 

 だから、実質的に少年を殺すというのは消滅させるとか存在を消し去るとかそういうレベルで語られるものではない。

 

 実際には“消滅させ続けられる状態を維持する”が正しい。

 

 外部から出力される力で少年の消滅状態を維持する。

 

 これが魔王との大戦における七教会の最終目標であった。

 

(このままだと。状況を固定化される可能性も……)

 

 色々と儘為らない身でそれでも決して死なない不死という一点において全てを覆す力を持つ少年は忍び寄る永劫の孤独と灼熱を思いながらも、剣を振る。

 

 その灼熱の中にあって尚剣は歪まず融けず形を保ったままだった。

 

 不変という唯一の理を体現する剣。

 

 それは嘗て少年が一人の仲間から授けられた刃。

 

 今は七教会の【高格外套(ソーマ・パクシルム・ベルーター)】が使う鉄剣。

 

 そのオリジナル。

 

 刃鳴らぬ剣と言われもするソレ。

 

 如何なるものを切り捨てようと自身は音を出さない。

 

 衝撃も伝わらせない。

 

 腐食もしないし、どれだけ特殊な攻撃も受け切る。

 

 しかし、その特性も全方位からの同時波状飽和攻撃を維持されていては有効に使いようもなかった。

 

 少しずつ激しくなっている熱量や生命力の吸収はやがて少年の状態を肉体の消滅で固定し続けるようになるはずで、それより前にどうにかしなければ、少年は七教会の後続部隊からの補給で状況維持を更に強固にするだろう聖女を前に敗北する事になる。

 

(こんな時、サヤトネがいてくれたら……元気かな)

 

 こんな時にいない従者の気遣いをして。

 

 和んだ少年の顎が僅かに揺れた。

 

 唇など無い骸骨と化して。

 

 それでも少年はもう既に痛覚の死滅した全身を緩ませた。

 

 ポロポロと骨がとうとう赤熱に耐え切れなくなって焼け零れていく。

 

 外部からの攻撃に一度でも隙が出来れば、どうにかなる。

 

 そう思いながら諦める事なく。

 

 少年は周囲の再生しながら燃料となる大樹を削った。

 

 もうダメかとか。

 

 諦めようとか。

 

 そんな事は一欠けらも思わずに。

 

「これで……何とか……」

 

 少年の呟きも知らず。

 

 術に己の生命力やら魔力やら地脈から吸い上げた力やら他諸々の動力を注ぎ込み続けていた聖女は己の勝利を半ば確信していた。

 

 この段に至って少年の従者が出てこないのは望外の機会。

 

 例え、いつかやってくるのだとしても、それまでこの地に魔王を留め置けるならば、聖女総員の力を持って迎撃くらい出来る。

 

 そうすれば、そうなれば、全て終わる。

 

 戦いは終わる。

 

 大陸は、人は、新たな時代に入る。

 

 不幸を呼ぶものはもうない。

 

 全ては輝かしい未来へと向かっている。

 

 誰にも笑顔を。

 

 誰にも幸福を。

 

 戦ってきた七教会という組織も、関わった多くの人も、大乱で失われた多くの命も、報われる。

 

 そう信じて。

 

 聖女は全ての力を術に注いだ。

 

『ハティアはそういうところで少し力を抜いた方がいいと思う』

 

「え……」

 

 聞こえるはずはない。

 

 その声の主は正しく今ハティアが術の中央に捕えているのだから。

 

 幻聴か。

 

 それがもしも幻ならば、自分はどうしてそんなものを聞くのか。

 

 分からず。

 

 いや、分かっていながら、ハティアはその声に頭を振った。

 

『こんな僕を助けてくれた。何の力もない僕を……いつか、君を守れるくらい強くなったら、その時はその……後ろを任せて欲しい、かな』

 

「―――!」

 

 バクンと心臓が鳴る。

 

『その……ハティア……可愛いよ。髪飾り』

 

 ドクドクと身体が震える。

 

「な、んで……今、更ッッ!!!」

 

 優しい声。

 

 そう、少年の声。

 

 嘗て、傍にあった声。

 

『その夢……僕も一緒に見ていい? みんなを幸せにしたとしても君が……ハティアが幸せじゃなかったら、僕が嫌だから……ごめん。生意気だったかな?』

 

「どうしてッッ!!!? 私はこんなッッッ!!!!」

 

 声を振り払おうとして。

 

 しかし、意識を乱して術を緩めるわけにもいかず。

 

 声が、ハティア・ウェスティアリアの過去が、あの頃が、脳裏へと蘇る。

 

『いいよ……だって……ここにあるの……は……君が……すくってくれた……いのち……なん、だから……ハ、ティア……』

 

 ずっと前。

 

 大戦が起こるよりもずっとずっと前。

 

 まだ魔王とすら呼ばれていなかった少年の姿が。

 

 聖女の脳裏に浮かんだ。

 

 血塗れで。

 

 まだ傷だってすぐ治らない彼の姿が。

 

 七つの剣を突き立てられる、彼が。

 

 その内の一つを、彼の心臓に、少年の胸に。

 

 歪んだ視界の中で、剣を突き立てる自分が。

 

『ごめん……』

 

―――最後に少年の涙を見たのはいつだっただろう?

 

 パキンと軽い音が大樹の表面で弾けた。

 

 精密な制御を求められた術が一部暴走した。

 

 内側からの圧力がその一点に集中する。

 

 ズドンと遥か上空。

 

 いや、真空で内部から爆砕された大樹の一部が焼け落ちて。

 

 中から輝けるものが空へと飛び出した。

 

 治っていく。

 

 血管が現れ、血を廻らせ、肉が付いていく。

 

 内臓が現れ、筋肉が覆い、肌の色で染めていく。

 

 同時に黒い外套が、少年を包み込んでいく。

 

 自由落下に任せながら、ようやく地獄のような環境から解放された少年は何が起きたか正確には把握していなかったが、それでも一撃の為に剣を大振りに背後まで下げて。

 

 投げ放った。

 

 爆砕。

 

 少年の肉体が自身の力に耐え切れず血の雨となって空に撒かれる。

 

 だが、剣に与えられた運動エネルギーは激的で。

 

 遥か世界の頂きにある大樹の先端。

 

 術の中核部分へと閃光のように奔り、衝撃波を伴って貫いた。

 

 灯が失せる。

 

 今まで上を向いていた巨大な大樹の幹が罅割れた。

 

 セーフティーとして宇宙樹に備えられていた術式が地表へ膨大な質量が倒れ込む事を許さず。

 

 構成する物質の全てを霧散させていく。

 

 巨大な大樹がまるで幻のように失せていく光景に呆然と聖女は見入った。

 

 自分のミスだと自覚して。

 

 それを取り戻せないと感じて。

 

 再び肉体を再生させて落ちてくる少年を見上げる。

 

 ほんの一瞬だけ、目があった。

 

 少年は柔らかく微笑んで、ただこう呟いていた。

 

 またね、と。

 

 *

 

――――――極東【乂羅(がいら)】詮議の間より。

 

 轟々と音を立てて停泊する七教会の航空戦力。

 

 三十隻以上の航空艦隊。

 

 途中で増援をも迎えて、ディシグニア国境地帯へと“治安維持”の名目で押し寄せた艦隊の姿を見つめながら、一人の女が軽く溜息を吐いていた。

 

 黒羽色の足元にまで届く長髪。

 

 東方美人と言うのだろう。

 

 流麗な姿態と麗しい鼻梁は大陸南部の彫りの深い顔立ちとは違って見るものに清廉な印象を与える。

 

 高い身長も女の月下美人と讃えられる立ち姿を絵画のように見せている。

 

 七教会の金糸と絹で折られた聖衣を着た女は唯一姿に不釣り合いな腰に下げた刀(もの)をチラリと見て。

 

 今正にディシグニア東端を制圧した七教会の艦隊の姿を映し出す水晶を見て。

 

 先程まで繰り広げられていた戦いの様子を思い出して。

 

「往くか」

 

 そう決断した。

 

 少女というよりは女という年齢だろう。

 

 女の名はユアン・クオ。

 

 極東の地で唯一聖女となった七聖女の一人にしてハティアの親友。

 

 マロウ・ブレステンドを除けば事実上、当代最強の刃の使い手だった。

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