第三章「インタールード」
第三章「インタールード」
―――???
男が一人。
独房の中で座り込んでいた。
椅子以外の者は何も無い場所だ。
最低限の上下水道の設備すら無い。
灰色の空間には魔術具の洋光(ランプ)が一つ切り。
自分の吐く吐息以外には音もしない。
まるで脱獄してくださいと言わんばかりな鍵の無い牢。
その先には廊下の冷たい床と独房と同じ灰色の壁だけが広がっている。
誰が来るでもない為か。
その廊下から外へと出入り出来る扉は存在しない。
男の服装は以外な事に黒の礼服(スーツ)だった。
大陸中央では珍しくも無い。
仕立ての良い生地は洋服屋(テーラー)の精密な縫製で男の体にピッタリと張り付いている。
男の声がしないのは無駄だと知っているから。
立ち上がりもしないのは立ち上がるだけの理由が無いから。
其処は監獄だが、看守はいない。
腹も減らなければ、汗も掻かない。
熱くも無ければ、涼しくも無く。
喚こうが叫ぼうが決して声が誰の耳に届く事も無い。
ただ、俯いた男の右手にある黒の柄(グリップ)だけが磨り減っていて。
現実感を醸し出していた。
何年。
いや、何十年。
それを握り締めていただろう。
丁度、親指が掛かる部分には丸く赤い仕掛(ボタン)が付けられている。
男が此処に入る時。
唯一説明された事は押せば出られるという事。
だが、同時に押せば全てが白日の下になるという事。
嘘は付けない。
黙秘も出来ない。
だから、それでもいいなら押せばいいと投獄者は言っていた。
ああ、男はその日からずっと悩んでいる。
いや、悩むと言うよりは震えている。
最初こそ。
投げたり、壁に叩き付けたりしていたが、とある時点を境に離せなくなってしまった。
それは柄(グリップ)だけが現実感を与えてくれるものだと彼が気付いたからだ。
それを失くしてしまったら終わりだと。
それ以来、眠る事すら出来ない、疲れもしない、苦しみも痛みも無い、そんな世界で男は、彼は、凡庸な四十代の髭面は、己の名前すら忘れそうな静寂の中でずっとずっとソレを握り締め続けている。
「……………………………………もう、いいよな」
男はようやく決心が付いて。
両手で柄(グリップ)を握り締める。
もし話せばどうなるか。
仲間達がどうなってしまうのか。
理解していながら、男は赤い仕掛(ボタン)へ指を掛けた。
全身がガタガタを痙攣し、泡すら口の端から吹き、笑みを浮かべながら、男は言う。
「もう、いいよな? いいよな? な? 頑張ったよな? オレ、頑張ったはずだよな? こんなの、無理だって……こんなの無理、絶対、誰だって、言っちまうって。な? な? 許してくれるよな? 悪くないよなオレ? だって、だってよぉ」
瞳の端から流れる涙は誰の為のものか。
「……オレ、もう限界だ……」
ガッと男が仕掛(ボタン)を押し込んだ。
誰かが来る。
これで出られると。
希望と共に仲間を売ってしまった失望に泡を吹きながら。
「……?」
しかし、何も起こらない。
いや、起こる気配すらも無い。
声も聞こえない。
足音も聞こえない。
ガチガチと何度も男は仕掛(ボタン)を押した。
しかし、何も、起こらない。
「―――」
男は押し続けた。
何が変わらないとしても押し続ける以外無かった。
男の絶叫が声も枯れない監獄の中に響き渡ったのはそれから十分後。
入獄して凡そ43432日目の事だった。
―――同刻。
「入獄者。十二分で落ちました」
「よし。ただちに情報を吸い出し、逮捕時の場所に下ろせ。これで地下に潜った革命闘士の派閥情報は大半を押さえたな。実働部隊に連絡しろ。これより一掃を開始する」
「了解。情報の吸出し完了しました。解析を開始……どうやら嘘は無いようです。武器弾薬はやはり西部の亜人部落を経由して密輸しているようですね。支援者の名は……ビンゴ!! やはり【蒼い幸甚】です!!」
「そうか。まずは連中の爪を剥がす。実行者を掃討すれば、指が動き出すはずだ」
「はい。これで長年内偵している者もようやく報われます」
「ああ、そうだな」
黒の礼服(スーツ)に腕章を付けた男達が忙しく立ち働くフロアの一角。
超高層建築が夥しく乱立する【近代化(レボリュション)】の最前線。
七教会の治安部門の中でも民の安全とテロを未然に予防する為、五年前に新設された機関。
それこそが男達の働く場。
七教会治安部門特務対策課だった。
大陸中央諸国の盟主たるアルヴィッツ。
その第二の都市ディアーク。
王都の宗教都市然とした様相からは想像も付かないだろう巨大な摩天楼群が屹立する商業と経済の中心。
最新の建築工学を用いた商用の超高層建築(ビルディング)と郊外の広大な住宅地で構成される大陸最先端を行く世界。
七教会が影響下の国を的確に動かし治めていられるのも情報部門と治安維持部門という二つの部署がディアークを中心に日々活動しているからに他ならない。
近頃、大陸で流行(トレンド)になりつつある反七教会の機運。
その一つが革命闘士と呼ばれる若者中心の運動だ。
七教会を憎む者達が生み出した大きなうねりは七教会影響下の国々で燻っていた反社会的な志向を持つ者達へと大きな力を与えつつあった。
七聖女の一人が独断で行った大陸南部【藩落】内での蛮行。
幾ら“恐ろしい実験”をしていたと七教会の広報が広めたところで、都市一つが壊滅した事実は大きい。
教会に懐疑的な視線を向ける輩は増えたのは致し方ない事だろう。
五年前の同時期に起きた大規模なテロによる政情の不安定化もそれに拍車を掛けた。
七教会が万能でも無ければ、穢い事もしている。
という報道は社会の水面下では大きな波紋を呼んだのである。
それを機に動き出した廃滅した王家、皇族の残留資本を中核とした反教会活動の活発化は凡そ教会関係者の想定外の拡大を見せ、ほぼ支配域に置いた国家群の中にも闇が蠢き始めた。
大陸全土で未然にテロを防ぐ目的で創設された特務対策課は分室を大陸全土に2000持つ殆ど局級の部署でありながら、未だ課として存続している。
それと言うのも正面切って七教会との闘争を始めた地下組織群による巧妙なテロ計画が増加の一途を辿っているからだ。
力で押さえ付ける象徴を立ち上げれば、機運は更に高まるかも知れず。
草の根的に浸透する反七教会シンパから組織そのものを見え難くするという面からも特務対策課は並列化されたネットワークの形を取った部署として機能していた。
「さぁ、行くぞ」
礼服(スーツ)姿の男達に号令が掛かる。
「あのー何処へ?」
最初に声を上げたのは課の玄関にいた男。
今正に突入部隊の指揮をするはずの五十代。
「あ、オレそう言えば明日友達と約束してて。すんません。上がらせて貰います」
「!?」
号令を掛けたオフィスの一番奥。
課を統括するスキンヘッドの男が職務放棄という異常な行動に出た。
「あ、そういや、嫁に今日早く帰るって言ってたんだ。すみません。課長!! 早めに上がらせて貰いますわ」
次にオフィスから出て行こうとしたのは情報を統括し、これからの作戦をプランニングした顔に刃物疵を持つ男。
「ああ!? そういや、今日拳闘大会の参加チケット持ってたんだ!!? 課長!! 悪いですが、明日辺りにまた」
今度は課の新人。
「合コンの時間に遅れちゃう!?! 課長、ちょっと今日は都合悪いんでお茶は自分で出してください」
課の雑務を取り仕切る中年女性を皮切りに女性職員達が男漁りへと出発し。
やがて、課から誰もが捌けていく。
「――――――」
その光景に唯一違和感を覚えた課長。
厳つい顔の亜人。
蒼い肌持つ鬼が机下の非常警戒ボタンを押した。
「精神干渉か!? 馬鹿な!? この一帯に掛けられた聖女様の加護が突破される事など在り得るはずが!!!」
七教会にとって最も厄介な相手は基本的に精神干渉系能力者か洗脳系列の魔術を極めた者だ。
治安維持。
テロ対策。
軍事機密。
どれもこれも人の意思で管理される重要案件。
故に洗脳、精神干渉に対する七教会の防護能力は大陸においてほぼ最強。
一部の大魔術師クラスを除けば、一部署が乗っ取られるような事態は起こり得ない。
それですら、七聖女直々の加護に守られた都市内部では長く持たず。
そういう類の攻撃は一時的な効果しか齎さない。
時間にすれば10秒もあるかどうか。
だが、しかし、そんな現実を嘲笑うように課の職員達が晴れ晴れとした様子で課から去っていく姿は常識が覆った事を蒼き鬼の亜人に思い知らせた。
「事態が動き出す前に芽を潰されては困ります」
「?!!」
青鬼が背筋を凍らせる。
自分の背後。
街を見下ろす位置に何かがいた。
咄嗟に動こうとしたものの、動けず。
「安心してもらって構いません。彼らの命も精神も弄ってはいませんから。この件と切り離しただけです」
「貴様は―――」
若い女の声。
それが誰なのか。
直感的に感じたのはさすが無数の職員達を率いてきたテロ対策の統括者と言えただろう。
「【蒼い幸甚】の!!?」
「ご名答。ですが、貴方もしばらく休むといい」
「そんな事が!!? 貴様等のテロを防がずに人々の安寧が守れるか!!?」
ようやく男が振り返る。
そこには赤い長髪を束ねた少女がいた。
その後姿。
古びれた外套を着込んでいる以外に何か特徴らしきものはない。
ただ、腰に帯びた鞘だけが若さには不釣合いで。
「苦労させられました。あの女達の張り巡らした加護の量。人員の質。悟られずに全て切り離す為、随分と手間取った」
振り返った女の顔は背後からの日差しに見えない。
だが、その二つの眼球。
美しい蒼き瞳だけが男の脳裏に焼き付く。
「聖女の殆どが宇(そら)に上がり、残った者も全て“あの国”に釘付け。機会は一度切りの賭けでしたが、成功した以上は貴方もそろそろ職員達と共に休日へ向かうべきです」
「ああ、そうだな。お前は誰だ。お前は誰だ。お前は―――」
「無理やりに思い出そうとしても無駄です。因果の破断は無かった事にはしませんが、その結果との結び付き自体を遮断する。ディアークはもはや他国との間に巨大な因果を保てていない。再び、恒常性によって回復するまでに数年は掛かるでしょう」
「お前は何だ。お前は何だ。お前は―――おお、そろそろ時間だ。久しぶりに飲むかな」
青鬼がにこやかな笑顔を作ると少女が目に入っているのに無視して職務放棄のまま退室していく。
「情報管理業務もこれで少しは処理量が落ちるでしょう」
少女はフロアの外へと歩き出した。
やがて、正規ルートで出てきた彼女を一台の馬車が出迎える。
二頭立ての貴族が使用する立派なものだ。
だが、この技術と科学を信奉する都市で動物愛護条例に違反する馬車が未だ存在する事自体、在り得ないはずの光景だった。
「すみました。出して下さい」
馬車に入った少女が外に声を掛けるとフードを被った男が舗装された道専用の蹄鉄を付けた馬で車体を走らせ始める。
座席に座った彼女の前で何処かと通信が繋がった。
『ん? お前は……済まない。思い出せそうにない。だが、確かにお前は重要な人物の、はずだ……たぶん』
「ええ、それさえ分かっていれば構いません。ディアークを落しました。【蒼い幸甚】の首領は貴方です。これで全ての準備が整った。後は上に昇って開放するのみ。これで全ての契約は終了……この五年中々にして楽しい思いをさせて貰った事、心より感謝します」
『名前は、確か、そうだ。名前は、お前の名前は―――』
「思い出さなくて構いません。私は私の為に貴方へ力を貸し、貴方は貴方の願いの為に私へ力を貸した。それだけの事です」
『―――そうか。もう終わりなんだな……』
「この通信を最後に貴方は私を忘れるでしょう。ですが、私は忘れません。貴方の目指した世界。語った夢。貴方は貴方の常識で世界を創っていい。それだけの事をあの女達に思い知らせてやって下さい。きっと、あの女達に間違いを気付かせる方法はそれしかない」
『必ず、お前に恥じない生き方をすると誓おう。サヤトネ』
「ええ、期待しています。キリア」
通信が呆気なく途切れて。
馬車の中。
ようやく己の五年を精算し終えた女は、魔王の騎士は、遥か頭上。
月より大きく美しい天蓋を見上げる。
「待っていて下さい。シンア」
ルヒ・サヤトネ。
五年の月日の一日たりとも少年の為に生きない日は無かった少女はその夜、宙へ上がった。
天で振られた最後の剣を再び執る為に。
百合の花の紋を背中に背負って。