第三章三十八節「召される因果は我に在り」
「―ス・ゼ――」
「………?」
「イ――ゼ――」
「……?」
「―ク―――オ」
「?」
ムクリと少年の頭が上がるのと紙製の懲罰鞭が打ち下ろされたのは同時だった。
バチィィッ!!!?
そんな、かなり良い音がして。
「……はい」
実技演習のレクチャー中の集団に埋もれ、船を漕いでいた不届き者は顔を上げる。
「「亜人貴族心得その19を言ってみろッ!!!」」
アルヴァス・カレッジには大陸中央諸国や先進国で言うところの教育課程に体育という項目がない。
だが、その代わりに実技演習という名の戦闘訓練が名目上は肉体の鍛錬として取り入れられている。
演習を受け持つ教諭や講師は演習項目毎の専属(スペシャリスト)が担当する事となっているが、本日六時限目の男は獣人(ベスティア)の中でも特に気性が荒く稀少(レア)な【双獣(ケルベロス)】の四十代やもめだった。
何でも妻に先立たれてからと言うもの、全てを教育に捧げて来たらしく。
熱血と豪腕を傘に来た根っからの武闘派だとか。
種族名の由来となった暗い色をした獣頭が一つの首から二つ出ている様子は人間社会なら化物呼ばわりされているだろう。
動き易いようにと大陸中央から導入された紺のジャージ姿。
無精髭を生やした頭二つが同時に怒る姿は正に魔界に住まうとされる異種【多頭狗(トロス)】そのままだ。
「えっと、亜人貴族心得その19……死を恐れぬならば、師に歯向かえ、だったかな」
「「解っているじゃないか。懲罰!!! 腕立て百回!!!」」
二つの頭は独立固体ではないらしく。
何でも右脳と左脳の役割をしているとか。
まったく同じ言葉が響くと少年は同じジャージ姿で一人演習場の横ひっそり腕立てを始めた。
その様子を一瞥した後。
グラウンド十周が男子生徒達に課される。
「「付いて来い!!」」
さすが首都の貴族御用達学校。
誰も不満に思っている様子もなく走り始めた。
(1…2…3…)
前日。
たっぷりと二人の少女から魔力を受け取っていた少年は途中で動けなくなる事無く。
演習場の外で屯する使用人達の中に璃紗を見つける。
苦笑した顔を向ければ、大丈夫だろうかとの不安顔も少しは晴れた様子となった。
何かを盛んに呟いているが、唇を読まずとも内容は知れている。
頑張れ。
気を付けて。
そういう類の言葉だ。
(今日は遅刻しちゃったから、ちょっと真面目にしてないとダメかも……)
前夜の記憶を甦らせれば、未成年お断りの有様な少年であるが、実際には少女達と二回してから本格的な交合はしていなかった。
と、言うのも今までと違って魔力を得る行為自体にも肉体が疲労してしまっていたからである。
何故か。
アルゥ・ゼオの言葉を借りれば、いつも少年の肉体を常時不死化していた能力が自己の生存本能に従い日常生活中では発現しないようになったから、らしい。
つまり、今までは何時だろうと常時オートで働いていた力が今度は頻繁にガス欠を起こし、戦闘のような非常時以外ではオフになっているというのだ。
それ故に行為中も基本的には今までと比べ物にならないくらい疲労する。
交合や射精は男にとって重労働。
さすがに腹上死までは無いだろうが、今までと違って精量の多い少年は回数をこなせなくなった。
そういう訳でせっかくの機会ではあったが、少年の疲労具合を見た二人は途中で行為を中断。
一緒に浴槽で身体を清めた後、別室において共に眠った。
(ご飯食べたら、いつの間にか昼だったからなぁ……)
次に目覚めた時。
少年の傍にいたのは共に裸のまま眠る璃紗だけだった。
横には先に学校に通っているとの流麗な文字で書置きが一つ。
時間も忘れて熾き出せば、ベルンが朝食を運んできて、そのまま食事となった。
気付けば、既に12時過ぎ。
遅刻が咎められなかったのは単に東部での境界反転事件の一件で怪我をしたという体で休んでいたからだ。
しかし、前日に思いっきり武芸術部の大会で優勝していた事は全学生や講師達が知っている。
だから、本来なら鞭どころか。
鉄拳の一つも飛ばすはずの講師が腕立て百回なんて軽いメニューを罰にしているのは慈悲なのだろう。
時間制限を付けなかった事を鑑みれば、緩々時間一杯やっておけとの在り難い指示。
意識が睡眠等とは違って“不意に飛んでいた”事を誰にも悟らせないまま。
少年は黙々と地面を見ながらの休憩と洒落込んだ。
(このまま、何も無いといいけど)
そんな、緩い日常に流されまくって、ほんわか学校生活の満喫中。
モムッと頭の上に普通ではない温かさと重みが乗る。
「……その、下り―――」
「マゥヲーッ、マゥヲーッ」
ユサユサと揺すられて、首の筋肉がジリジリ疲労させられていく。
近頃ご無沙汰だった感触。
まるで「嫌だい嫌だい」と駄々っ子のように頭を占領したのは言うまでも無く。
少年の頭部大好きな神出鬼没のちょっと普通じゃない黒猫?である。
女性の使用人達が何やら少年の方を向いてクスクスと笑っていた。
黒猫を頭部に乗せて腕立て。
どう見ても懲罰ではなくて罰ゲームだ。
それもかなり性質(たち)の悪い。
「何か近頃、物凄く厚かましくなってない?」
声を潜めて聞けば「マーゥヲ?」と無垢な黒猫の鳴き声が返る。
その様は“何も解らない子猫”のようだったが、明らかに嘘だ。
だら~っと少年の額に前足を垂らしてへばりつき、楽しそうな鳴き声を上げる悪魔は退く気ゼロの様子でテシテシと生え際を叩いた。
演習場の端では「可愛い~」とか「撫で撫でさせてくれるかなぁ?」とか女性の使用人達がきゃーきゃー言っている。
少年がこのまま百回腕立てをやる間に首の筋肉が寝違えたように痛むのだろうなぁと半ば諦観したのも無理は無い。
黒猫が今まで少年の降りて欲しいとの懇願で折れた事など一度も無いのだから。
早くも首が悲鳴を上げ始めた時。
グラウンド脇に設置された大きな【崩燼機関】製のスピーカーから呼び出しが掛かった。
『武芸術部所属イクス・ゼオ君。イクス・ゼオ君。武芸述部からの呼び出しです。武芸術部所属―――』
まだ走っている男子生徒達もそのままに【双獣】の講師がやってくると、少年の頭に乗っかった生物に変な顔をしつつも、先程までとは打って変わって静かな様子で呼び出しへ応じるよう伝え戻っていく。
腕立てから開放されたが、頭上の生物からは開放されず。
「……解ってた?」
少年はそっと訊ねる。
「マゥヲ?」
『何が?』とでも言ったのか。
黒猫はプラプラと尻尾を振って、大きく欠伸を一つした。
*
紺のジャージから制服へ着替えて十分。
例の旧い校舎に入れば、真新しい武芸術部の看板が下がっていた。
他にも部活が幾つか入っているはずの玄関先にデカデカと黒塗りの板が日光を反射している。
誰が置いていったのか。
あるいは学校側が優勝したから気を利かせたのか。
どういうわけかは解らずとも限り無く昨日と今日で扱いの差が出ている。
ウルが常々予算の一つも寄越さない癖に成果ばかり求めてくると愚痴っていた事からも武芸術部はドが付く程のマイナー部活である事は疑いようが無い。
そもそも少年が来るまではウル一人で部活だと言い張っていたし、それを生徒会や学校側も認めていたのだから、殆ど功績さえ出せば儲けものの部と見られていたはずだ。
それが何故か。
今や薄汚れていたはずの窓硝子もピカピカに磨き上げられている。
「マヲ? マゥヲ? マヲヲ~?」
黒猫すら戸惑った様子で辺りをキョロキョロしているのだから、校舎が別物に見えるのは少年だけではないらしい。
「……と、とりあえず部室に」
いつだったか。
ウルと鉢合わせした角を曲がって少年は部室の前へと辿り着いた。
ガラッと扉を開けば、昨日の今日でまだモヂモヂと挙動不審なウルが―――いない。
「あれ?」
「イクス。ウルさんは?」
後ろを三歩引いて付いて来ていた璃紗が背中から部屋の内部を覗き込んで呟いた。
「もしかしたら【壷世(ムンディ・オラム)】の側にいるのかも」
二人が中に入った途端だった。
内部空間がグンニャリと歪んでドサッと何かが床に落ちた。
「あ、ウル」
尻餅を床に付いて何やら制服を煤けさせた銀ドリル子女がハッとした様子で少年に気付き、慌てて立ち上がる。
「イ、イクス!! ど、どうして貴方が此処にいるの!? ま、まだ授業中のはずでしょう!!?」
「え……校内放送で呼び出されたから来たんだけど、ウルじゃないの?」
「校内放送? まさか!?」
ウルが何やら渋い視線を投げ掛けると壁際の空間がぐんにゃりと歪んで鬼女が出てくる。
「おう。来たか。ん? ああ、呼んだのはこのエンシェンだが、何か?」
「あ、貴女ねぇ。わたくしの部活の権限を勝手に使わないで欲しいのだけど」
半眼の視線にコスプレとしか思えない制服姿の赤鬼が呵呵大笑する。
「いいだろう。どうせ、誰も使わんのだから」
「(うぅ。恩さえ無ければ、言い返せるのに……)」
「何か言ったか?」
「いえ、この件は不問にします。ですが、今回のお願いで昨日大会に出て貰った分は相殺ですからね」
「いいとも」
ウルの言葉にエンシェンが頷く。
「今まであっちで模擬戦でもしてたの?」
少年が尋ねるとウルが何処か気まずそうに視線を俯けた。
「どうかした? ウル」
「……実はちょっと、その」
「?」
奥歯に物が挟まったような言いように少年がエンシェンを見る。
「いやな。入るならば、せめて実力が見たいというから手合わせさせてみたんだが、中々」
「手合わせ?」
何がどうなっているのか。
璃紗が首を傾げた時。
再びエンシェンの横の空間が歪み。
また誰かが出てくる。
それも二人。
「エンシェン!? 置いて行くなんて酷いじゃないかぁ~ッ!?」
一人は何故か白いフード付きの外套を被り、顔の大半を白布で覆った妖しい男。
「これで認めて貰える、だろうか?」
もう一人はアルヴァス・カレッジの制服を着用した猫耳の女だった。
エンシェンとタメを張るだろう背丈にしなやかな身体。
短い黒髪。
細く二重になった眉。
その横顔は月夜に咲く石楠花のような儚さと独特な存在感を放っていた。
何処か淡々とした印象。
まとめれば、東部風の美人と言える。
何かしらの武術を習っている者特有の身のこなしが少年に今までの会話から一つの回答を導かせた。
「もしかして。武芸術部への入部希望者?」
「ええ……どうしてもとこの鬼女が言うものだから、少し手合わせをして……して……」
ズーンとウルが激しい落ち込みようで椅子に腰を下ろした。
「まさか、負けたとか?」
「そんなにサックリ片付けないで下さい!! 部長のわたくしより強い部員が三人もいたら、わたくしの立場が無くなってしまうでしょう!?」
力説する銀尻尾が逆立つ。
まぁまぁとエンシェンがウルを宥めに掛かる。
「そういう事だから丁重にな。一応年上だが、お前の方が部員としては先輩だから遠慮なく先輩風を吹かせていいぞ」
「ちょ、エンシェン!!? 話が違うじゃないかぁ!?」
妖しい白フードの男が喚くとガッシリその首を掴んで鬼女が部屋の片隅へと連れて行った。
何やらゴニョゴニョと喋っているが、ウルは負けたらしいショックに茫然自失。
紅茶を気付け薬のように飲み干しているし、璃紗にしてもウルの妙に煤けた制服の埃を払いながら声を掛け、手が離せない様子となっている。
「………」
「………」
残された少年と三年女子生徒がとりあえず互いに視線を交わしたのは必然だった。
「その、迷惑だろうか? 私は……」
何処か肩を落とした東部美人に少年が首を横へ振る。
「いえ、そんな事は無いと思います」
「そ、そうか……」
オズオズと近付いて。
彼女がそっと少年に名前を告げた。
「私はユアル・ラオ……と言うらしい」
「らしい?」
少年が尋ねようとするより先にエンシェンが妖しい男を小脇に抱えて戻ってくる。
「と、言うわけで侵入部員のユアル・ラオだ。どうか仲良くしてやってくれ」
「ちょ、痛い!? 痛いって!? エンシェン!? こ、これでも一応君より偉―――」
ゴリッと良い音がフードの内部から響く。
「ヒギィッ!?」
プランと体が弛緩して、男は沈黙した。
「ああ、こっちはユアル・ラオの後見人でな。ちょっとした知り合いなんだ。とりあえず、これからは同じ部の仲間としてやっていく事になるかと思う。何か解らない事があったら、遠慮なく教えてやって欲しい。それと」
背中に男を背負いつつエンシェンが何でもない事のように重要な事実を告げた。
「ラオは記憶喪失だそうだ。何でも二週間前のテロ事件で精神に大きな傷を負ったとか。まぁ、些細な事だ。私とは違って毎日来るだろうが、どうか寛大な目で見てやって欲しい。おお、もう仕事の時間だな。悪いが今日はこれでお暇させて貰う」
ウルに謝ると何やら忙しい忙しいと明らかにわざとらしく呟きながら赤鬼が部室の外へ消えていく。
「……」
「……」
未だ敗北から抜け出せないウルは璃紗に寄り添われてブツブツ呟いているし、やはり残された少年とユアル・ラオと言うらしき三年女生徒は互いに顔を見合わせた。
「えっと、そのお茶でも飲む?」
「あ、えと……いいの、だろうか?」
「いいんじゃない? まだ、こっちは復活しそうにないし」
ウルと璃紗の様子は未だ変わっていない。
「そうか。ありがとう。ええと」
「僕はイクス。イクス・ゼオ」
「イクス・ゼオ……?」
「うん。これからよろしくね。ユアル・ラオだから、ラオさん……で、いいかな?」
「あ、ああ、構わない。こちらこそよろしくお願いする。ゼオ殿」
「殿なんて言われるような身分じゃないし。イクスとかゼオとか好きに呼んでくれて構わないから」
「そ、そうだろうか。殿方はそういうのを気にするのではないのか?」
「他の人にはそれでいいと思うけど、此処は部活で君は新人部員なんだから、そんなに固くならなくても」
「……解った。よろしくお願いする。ゼオ」
「うん」
差し出された細い手を少年が掴んで握手する。
「「……」」
すると、微妙な視線がその背中へ突き刺さった。
「イクス……貴方という人は……」
「女の人と仲良くなるの上手いと思う。イクスって……」
背後からの嫉妬(フレンドリー・ファイア)がグサグサと刺さるが、少年は苦笑するしかない。
そうして天井に優勝旗が飾られた部室に新たなる部員ユアル・ラオが追加された。
細やかな日常の変化はまるで雲が流れる如く。
その日、部室に賑やかな声は絶えなかった。
*
どうやらエンシェンの家に居候しているらしいラオを見送って後。
少年は微妙に艶やかな調子で距離を詰めてくるウルと少し距離を置いて話していた。
どうやら昨日は消化不良だったらしく。
璃紗とウルが同時に期待した視線を送ってくるに当たり、少年は半笑いにならざるを得ない。
魔力は回復しているが、今日はまだやる事がある。
色事に感(かま)けて、日課や日々の事を疎かにしないよう心掛けている少年にしてみれば、もう少し時間を置いてからでもいいような気もした。
しかし、自分を慕ってくれる相手に否定の言葉も投げ掛けられず。
結局、放課後のあれこれが終わってから再び月兎亭で合流する事となった。
そろそろ日も傾き始める頃合。
少年は名残惜しそうなウルにまた今夜と伝え部室を出て、市街地へと向かう。
今日、用があるのは北部の工業地帯。
それも少し寂れた一角だ。
重工業が盛んな場所で寂れているという事はそのままその地域の有する技術が必要とされていない事を意味する。
少年が降り立ったのは地下数階に渡って続く薄暗い商業テナント街だった。
夜かと思うような暗い通路の左右には看板や軒先に魔術具の明かりや洋光(ランプ)を掲げる店舗が多数。
人はそれなりにいるようでゴミゴミした印象の通路は狭い。
そろそろ飲み屋で一杯やり始めた男達や何処からか魔術で音声通信を拾って賭け事に興じている一団。
他にも何やら煙草や薬草をプカプカとパイプで吹かしている女やケバイ化粧でケタケタと笑い転げている水商売の女達。
雑多な面々が集う道の奥。
少年はひっそりと行き止まりにある小さな木製の扉を潜った。
その後ろでは璃紗がまるで怖さと興味の板挟みになった様子でオドオドしつつ、少年の外套を握っていた。
「イクス。此処ってどういうところなの?」
入った店内は人の気配も薄い落ち着いた雰囲気の酒場。
仄かに香る酒精の匂いは甘く。
璃紗は不安そうに聞いた。
「簡単に言うと精霊の召喚を専門にしてる店、かな」
「精霊の召喚?」
性的な魔術以外ではあまりそういった技能に詳しくない少女が首を傾げた。
「肉体に精霊を憑依させて特殊な効能を得たり、精霊を守護者として自分の背後に付けたり、色々と制約はあるけど、便利な能力を身体に付けてくれるお店って言えば適当だと思う」
「……精霊って、神様の小っちゃいやつみたいの?」
「そうそう」
「でも、亜人の人にも精霊みたいな人がいるって聞いた事あるわ」
「高度な肉体を獲得したり、異種との混血で肉体を持った存在が更に人と交わったりって事は言われてるけど、此処で召喚される精霊は低位の偏向した影響力を持つ生物って言うのが正しいかな」
「生物なの?」
「生き物だけど、水禍(スライム)みたいな存在って言えば分かりやすいかも」
何となく理解した璃紗がコクコクと頷く。
「今日はちょっと色々付けて貰おうと思って。アーギストさんに紹介して貰ったから、安いらしいし」
「イクスは此処でどういう精霊を付けてもらうつもりなの?」
「それは―――」
少年が言い掛けた時。
店内の奥からカタカタと糸に吊られた人程の大きさの人形がやってきた。
木製の関節だけは人間と同じだけある躯体は木目もそのままの地肌を晒している。
『お客様がご予約されたアーギスト様のご友人の方々でしょうか』
璃紗がビクッと身体を強張らせてササッと後ろに隠れた。
「あ、はい」
『準備はもう出来ておりますので、こちらの人形に付いてきてください。儀式場まで案内致します』
「よろしくお願いします」
少年が背を向けてカタカタ歩き出した人形に付いていく。
少女は何故店に人の気配が無いのか納得しつつも、ただの人形が流暢に音声を発する様子に生理的な冷や汗を掻いた。
魔術か何かで動かしているのだと頭では理解しているのだろうが、本能的な畏れというのは中々無くならないもの。
何とか付いていく足も抜き足差し足となっていた。
薄暗い明かりに照らされた通路を進んで十五秒程。
人形が通路横の扉を開いて止まった。
『どうぞ。此処です』
少年は物怖じせず。
璃紗と共に入っていく。
するとバタンと背後で鉄製のノブが回る音。
完全に閉まった扉はもう開く様子も無い。
「イ、イクス。だ、大丈夫なの? 璃紗はもう帰ってもいい気が……」
早く帰りたいとの思いを込めて呟く璃紗に少年が苦笑した。
「大丈夫。危険な事は無いから。もし、あったとしてもちゃんと守るよ。ね?」
「う、ぅん……」
そう主人たる少年に言われては頷かざるを得ない少女は天井に埋め込まれたかなり明るいライトに目を細めた。
内部はツルリとした灰色の壁で覆われている。
半径で10m四方の部屋は正方形の形をしていて。
その中央の床には幾つかの魔術方陣が重ねられるようにして描き込まれていた。
『本日の精霊召喚は基本的に儀式発動者に最も縁の深い精霊を呼び出し、その加護を使用者に与えるもので任意に効果を選ぶ事は出来ません。その代わり、呼び出した精霊に付いては生体強化を常に行う機能が付加されます。これによってどんな精霊を呼び出した場合でも、その精霊の司る物質や領域における肉体の賦活現象が常時発動する事となり、術者の肉体は多かれ少なかれ強化される事になります。ちなみに呼び出した精霊に関してですが、憑依、守護、どちらでも運用が可能で、憑依の場合は肉体の賦活現象が拡大し、守護の場合では通常の【精霊魔術(フェアリス・ロー)】やそれに類似した現象が起こせるでしょう。無論、精霊の属性によって、それらの効能や現象に差異が生じるので、そこはご了承下さい。では、発動者の方は前へ』
「マーヲ」
ひょいっと今まで一眠りしていた黒猫が東部から降りて、璃紗の胸へと飛び込む。
「ひゃ!? あ、えぅ、璃、璃紗の此処でもいいの?」
「マゥヲ~」
仮の宿扱いでOKでも出したのか。
抱留められてから、黒猫が少年の方を向いてプラプラ尻尾を振った。
そんな一人と一匹の様子に苦笑して。
少年が魔術方陣の中へと入っていく。
基本の円。
【秘儀文字(アルカナ)】による招来の文言。
描き込まれている【意匠】は三種。
まずは魔術方陣を一種の炉。
つまり、力を高める場として固定する神。
【炉神(ヘスティアー)】
古から伝わる火を起こす炉の描写。
次なるは多彩な才能を持ちながら、原初魔術振興の一柱として魔術師に信奉される神。
【多能神(トート)】
月を中心に走る幾何学模様に音符や星々、医術など賑やかなものを鏤めた描写。
最後に法と掟を司る神。
【番神(テミス)】
精霊との契約条項を司る全ての文字に使われる意匠。
曲線を使わない独特の描写。
基礎の円環を形作る二重螺旋は生命構造(モデル)の基線(ライン)。
魔術方陣に複数の神を配置すると方角や地場、天候、時間の干渉を受け大きな制約や緻密さを要求されるが、それを隔絶する為の正方形の部屋である。
多重構造の地下の一室は結界に取り囲まれている為、夜天の下で儀式を行うよりも作業量は少ない。
「いいですよ」
少年が陣の中心。
何も描き込まれていない場所に立てば、すぐさまに方陣へ魔力が流し込まれた。
純粋波動魔力による場の形成は神々からの加護を齎す【意匠】へと導力を注ぎ、最終的な結論をその場へと導き出す。
時空間において特定の相手を探し出し、召喚するというのは言わば、空間転移の一方式なわけだが、召喚術と呼ばれる類の魔術や能力の類は大きく分けて二つの種類がある。
一つは必要な【要素(エレメント)】を呼び込んで特定の“入れ物”や“時空間自体”に固定する方式。
もう一つは複雑系の一種である生命体を呼び込んで交渉または制約を課して使役する方式。
この二つの違いは召喚したモノが意思や心を持った相手であるかどうかだ。
それを考えると少年のやろうとしている召喚は前者に近い。
精霊というのは基本的に意思というものを持つ者が少ない。
在っても蟲のような、本能的な行動を行う程度のものか。
あるいはそれよりも原始的な振る舞いをしているだけ、という場合もある。
本人に最も縁の深い精霊を召喚するとしても、大抵はずっと住んでいた場所にいたとか。
または単に死んだ近親者の魂魄が珍しくそのまま存在していて祖霊として召喚されるとか。
肉体を持った精霊がそのままドーンとやってきて「お前に仕えてやる」とか言うわけではない。
「イクス~大丈夫!!」
なので、何が出てくるか見当が付かなかった少年は内心警戒する。
だが、そんな様子を見せるわけにもいかないと少女へ手を振って応える。
その間にもバチバチと方陣に注がれた魔力が飽和し、電荷として通常空間に還元されていた。
『出力定常。では、これよりカウントダウンに入ります。5、4、3、2、1』
カッ!!!!
閃光が魔術方陣を焼き切る勢いで室内を染め上げ、瞬間的に室内が暗転した。
「きゃッ!?」
「大丈夫だから」
咄嗟に声を掛けた少年の声に「う、うん」と頷きが返る。
(何か出てきたっぽいけど、まだ目が……)
とりあえず確認しなければと方陣の中から周囲に手を伸ばした途端。
ムニュン。
そんな手触りがした。
「んぁ♡ な、何が!? こ、此処は何処ですの!?」
「え?」
聞き覚えのある声に少年が慌てて小さく魔力を指先で光波に転化する。
パッと明るくなったか室内に少年は先程別れた相手を見つけた。
「あ、ウルさん」
「リ、リーシャさん?」
驚いた顔をしていたのは少年に胸を鷲掴みにされたウル・エイフォン・バーゲル本人だった。
「ど、どうして!? いつの間に?!」
「えっと、これって……」
「イ、イクス!? う、後ろの人誰!?」
「え?」
少年が思わず振り返るとフヨフヨと縮れた紫髪の少女が浮かんでいた。
何故か。
その身体は璃紗の着ているような女給姿にも近い。
主にハウスメイドと呼ばれる女性使用人の衣装を着込んでいる。
「現在時間を確認。位置特定。召喚による並列機械群とのネットワーク遮断を確認。特定パターンの因果律導線を確認。【因痕(キカトリクス)】収束率0。未確認の接続が構築されました。共通の記録から遮断されている為、内部記録に切り替えます。再起動……創造主の存在を確認。この躯体は下部2342番です。どうぞご命令を。創造主」
「「「……」」」
何が何やら分からないまま。
ブツブツと何事かを喋っていた紫髪のハウスメイドの言葉に三人が沈黙した。
『お客様。大丈夫でしたでしょうか? 現在、内部モニタリング出来ない状況が続いています。すぐに係員が駆け付けますので、しばらくそのままお待ち下さい』
少年はとりあえずどうしようかと悩み。
「マヲゥ~~~♪」
再びモムッと頭に乗っかった黒猫もそのまま途方に暮れた。
彼に最も縁が深い精霊というやつは超乳銀髪ドリルと紫髪のハウスメイド、らしかった。
*
『君と一緒には居られない。でも、きっと……夢は叶えるよ』
『行かないで、行かないでよ!! 全部、これからなのに!! ようやくこれからだって思えたのに!! 彼方が例え誰だって構わない!! 彼方がいなくなったら、私ッ』
空に虹が掛かって。
世界は鮮やかな旭に彩られていく。
何処までも続く荒野。
何も無いはずの場所に嬉しそうな笑顔で去っていく背中。
『約束する。君の夢は今日、僕の夢になった。だから、いつか、また……会う日まで』
すすり泣く声があちこちから聞こえる。
暗闇の中。
光照らす場所を過ぎ去っていく彼と手を伸ばし切れない彼女の物語が、終わる。
細やかに流れていた曲が最後の一音を奏でるより先に幕は降り。
声だけが劇場内に響いた。
『大丈夫。だって、この世界には君がいるんだから』
パチパチと響き始めた拍手がすぐに泣き声を上回り、劇場を揺らすように拡大していく。
魔術具の照明が無数付いて本日の講演は終了。
ガヤガヤと席を立つ客達の間からは未だに涙脆い者達の泣き声と来て良かったとの声。
その大半が女性のものだと言うのを考えれば、劇は大成功と言えるだろう。
貴族の上は六十代から下は十代まで。
友達や学校単位。
婦人会の団体。
甘い一時を期待してやってきた妙齢の女性すらはしゃいだ様子で今日は良かったと恋人へ興奮気味に捲(まく)くし立てている。
ハガス中央北部歌劇場。
例のテロ事件で一週間程休業を余儀無くされた舞台は夜一回の公演でロングランヒットを飛ばしていた。
毎日のようにやってくる女性客達からの評判は上々で早くも来年の上演が交渉されているという。
そんな劇場のVIP観覧席。
魔王と貧しい国の娘の禁断の恋を描いた物語にアルヴァス・カレッジで最もお堅かった(過去形)彼女もさすがに涙ぐんでいた。
金色の鬣っぽい髪型の亜人少女。
奏美紗である。
今は制服姿でオペラグラスも必要ない優良な6.0の視力が仇となったか。
涙を指で拭っている。
「ひょ、評判は聞いていましたが、こ、此処までのものだったとは、迂闊でした……」
何とか自分を落ち着かせてから、彼女が横を見る。
そこには羊の着ぐるみっぽい衣装に身を包んだ小さなエルフの少女がいた。
「た、楽しかったですか?」
美紗が訊ねるとコクコクと頷いて。
少女がオペラグラスを美紗に差し出した。
「そうですか。良かった……では、そろそろ帰りましょう」
二人が揃って立ち上がる。
他の大貴族の夫人達はもう部屋を出た後で最後の二人が彼女達だった。
「もう遅いですから、帰ったら歯磨きをしてお休みですからね……瑠紗(るしゃ)」
「……」
呼んでも返らない頷きに少しだけガッカリして。
彼女は少女の手を引き、その場を後にする。
二週間と少し前。
ヴァルに預けたエルフの幼子。
彼女を結局引き取ったのは美紗だった。
緑炎が消えた翌日。
辛うじて無事だった奏家の屋敷へ帰れば、父母と使用人達は眠るように倒れていた。
医者の手配から何から全て陣頭指揮を執ったのは何を隠そう彼女である。
混乱していた奏家の親類や家財資産の殆どを失った知人の世話に始まり。
使用人達の知人の安否確認。
国へ提出する新規建築登録書類の取り寄せ。
仕事場である警察機構への事後報告。
まるで阿鼻叫喚の仕事ラッシュだった彼女は三日程徹夜した。
そうして四日目の朝。
ヴァルが訪ねて来てエルフの少女を奏家に置いていったのである。
殆ど灰に成り掛けていた彼女は気力を振り絞って血走った目で対応し、その日の内にアーギストへ連絡。
諸々、忙しかったドサクサの内に少年との協議を経る事無く。
少女を自分の家へと招き入れた。
父母には知り合いの親族を預かっているという建前で一応は押し通し、使用人達には家族のように迎えるよう言い含め、最後に少女へ自分は味方だと言い切った挙句爆睡。
五日目の朝にゆさゆさと毛布の上から揺すられ。
使用人ではない相手を見て。
ようやく自分が強引に引き取ったのだとの自覚を得た。
それ以来になるだろう。
彼女は落ち着いた仕事の合間に少女へ家のルールを教え込み、ずっと学校が再開するまで付きっ切りで面倒を見続けた。
言葉が理解出来ても話せないらしいと思えば、声の変わりに小鐘(ベル)を用意し、名前らしい名前が無いと思えば、仮の名を与えもする。
学校が再開されてからはヴァルと連絡を取りつつ、消された情報屋の真実を知り、犯人である【崩燼貴族(ソルヴァス・ノーブル)】の子弟達を起訴する為に動いた。
結局、その行為は報われる事無く。
元老院上層部からの超法規的な措置でご破算となったが、彼女の中では何も終わっていない。
(………)
夜、少女の寝顔を見てから眠るようになった美紗は強く自分が官憲なのだと自覚するようになった。
あの日、多くを助けられなかった、守れなかった。
死んだはずの者が甦って平然と過ごしているという異常な事態が混乱を最小限に抑えてはいたが、そんな人智を越えた話は彼女にとって夢現の幻と同じ。
自分の力で勝ち取ったものではない以上、不安は拭い切れない。
何も出来なかったとは言うまい。
だとしても、何が出来たかと訪ねられたところで、何一つ答えられないのだから、力不足は否めない。
(この子を私は守れるでしょうか……)
劇場の前で待っていた馬車に乗り込み帰る道すがら。
美紗は羊の皮を被ったエルフの少女を見つめる。
緑炎の中。
少年に救われ、少年を信頼していた姿。
本当は彼の下へ行きたいのではないかと。
そう聞けないのが彼女の弱さか。
(名前を呼んでも応えてくれないのはやはり……)
自分にもっと力があったなら。
少年よりも信頼に足るだけの人格があったなら。
微笑みくらいは浮かべさせられたのかもしれない。
もしもなんて思考が虚ろでしかないと知っていても、彼女は思う。
(私では覚悟も力も何もかも……)
少年には勝てない、と。
奇蹟のように戦って。
奇蹟のように勝利して。
奇蹟のように全てを引っくり返した男。
イクス・ゼオ。
学校に出るようになってからまたいつものように顔を会わせる相手。
あの笑みであの声でエルフの少女はどうかと訪ねられた時。
ドキリと心臓が打ったのは疚しい思いを抱えていたからに他ならない。
言葉にするならば、妬みか。
境界再踏破の為、毎日のように何かしら忙しく放課後を過ごしている姿が眩しくて。
あんな事があったのに平然と日常へ溶け込んでいく背中から目が離せなくて。
苦しかったのだ。
(私に出来る事……私にしか出来ない事……奏美紗だから可能な事……それは、何?)
死んだ情報屋の一件はもう公に追及する事が出来ない。
境界踏破において大きな貢献をしているわけでもない。
国を救おうという志(こころざし)に変わりは無くとも、非力である事はどうしようも無く。
地道に自分の出来る事をするという一般論で常識論が脳裏に浮く自分を彼女は初めて疎ましく思った。
無力感。
虚無感。
感じているのはそれだ。
それを無かった事には出来ない。
出来るはずも無い。
今アルヴァスが抱える現状を変えるには地道な一歩や日常の積み重ねでは足りないのだ。
「……」
「?」
不意に袖を引かれて彼女が我に返る。
沈み込んでいた意識が浮上すれば、そこにはエルフの少女が開いた扉を背にして立っていた。
「あ、少し考え事をしていて。一緒に下りましょう。足元に気を付けて」
夜も遅いというのに玄関先で出迎えた母親の姿。
使用人達に頭を下げられながら、彼女は少女の手を握った。
「ごめんね」
少女が転ばぬよう配慮した美紗が少し早足になって先を歩く。
良くない事ばかり浮かぶのなら、今日はもう素直に寝てしまおうと。
だから、見逃した。
「……」
母親が少しだけ微笑んだ意味も。
使用人達が少しだけ目を見開いた様子も。
手を引かれ歩く幼子の口元が僅かに笑んでいた事を。
誰かの為に思い悩む。
その姿にこそ宿る力。
果して。
その「ごめんね」は何処かの誰かにとてもよく似ていた。
毎日のように謝ってばかりいる。
彼女のコンプレックスとなりつつある少年に……。