※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第三章四十二節

第三章四十二節「とある家族の肖像」

 

 薄曇が多くなってきた季節。

 

 都市に時折降るのは細い光。

 

 兆しのように注ぎながら、天を閉ざす鍵穴にも見えるだろう。

 

 シトシトと濡れる学校指定ではない外套(コート)を羽織り。

 

 制服を少しだけ改造した少女が密やかに歩く。

 

 誰も彼女がハガスの名門に通う者だとは思わないに違いない。

 

 顔は人間。

 

 良いところに仕える奴隷か。

 

 その家族だと思うのが関の山だ。

 

「……」

 

 ハガス北部へと続く道の途中に其処は存在する。

 

 前は二人で来た。

 

 今は一人で訪ねる。

 

 カランと小さな鐘の音が何処からかして。

 

 扉の中に入れば、声。

 

「あ~ら♪ いらっしゃ~い。ま、今日もお一人なのねぇ? 晴れてたのが急に曇り始めたから、もう誰も来ないんじゃないかと思ってたの。んふ♪ さて何をお探しかしら? お嬢さん」

 

 あまりにもドギツイ桜色の衣を纏った筋肉達磨。

 

 非合法の品を扱う店員。

 

 彼に導かれるように“今日も”少女は地下へ。

 

 ポソポソと品の在り処を尋ねれば、にんまりとした笑顔で何階の何処に目当ての品が在るかと男は示した。

 

 そうして、一人。

 

 背筋をそわそわと落ち着かなくさせながら、心の何処かでイケナイ事をしているとの罪悪感に駆られながら、彼女は小さな猫型のバッジが付いた靴を鳴らして深く深く下りていく。

 

 やがて、二層、三層と降りれば、目的の品がある場所が見えてきた。

 

 地下とは思えないような明るさの中。

 

 色違いの器具が数多く陳列される棚が壁際へ並ぶ。

 

 小さな小指程の物もあれば、明らかに男根の形をした物もある。

 

 禍々しい意匠の物もあれば、可愛らしい物もあるが、一様に柔らかな素材を使っているのか。

 

 どれもこれも本物に近い質感を再現する事に成功していた。

 

 棚の横にある掲示板には大陸中央諸国より入荷との文字。

 

 大きさ、長さ、太さ、形状、使用場所、どれもこれも違う性具が数百種類ばかり。

 

 女を悦ばせる為だけに開発されたソレらが少女の前で納められている。

 

 恥しさを堪えながら繁々と並ぶ商品を見つめる事、十数分。

 

 ようやく少女は事前に調べてきたお目当てのものを見つけた。

 

 それを持って階段を上がれば、誰もいない店内には彫像のように筋肉達磨が鎮座していて。

 

「ふふ、お買い上げですか? お客様」

 

 にんまりと笑みを作って訊いてくる。

 

 それを無視して赤い顔を俯け、値段に書かれていた通りの金額をバンとカウンターに置けば、もう満面の笑みで『お買い上げありがとうございました~』との常套句。

 

「では、今日もおまけしておきますね? んふ♪」

 

 ウィンク一つ。

 

 紙袋に商品の他に何かを入れてから渡した巨漢が頭を下げる。

 

 少女はもう何も知らないと受け取ってから早足に店を去った。

 

(買っちゃった……また、お小遣いで……ぅぅ……こ、こんなの……はしたない、ですよね……)

 

 モジモジと股間を擦り合わせながら、震えて熱の篭る身体を急がせて。

 

 彼女は家路に着く。

 

 誰かに見られやしまいかとオドオドしながら。

 

 誰か顔見知りに出会わないかとドキドキしながら。

 

 汗を掻いた額。

 

 ジットリと濡れるのは雨のせいではない。

 

 そう知っているから、路は急がれる。

 

 中央から取って返して東部へ。

 

 今や建設ラッシュに沸く真新しい館の群れの間を砂利道で行けば、工事関係者以外早々出会いはしない。

 

 まだ残っていた旧き館の群れ。

 

 その奥まった場所にある屋敷の玄関まで辿り着いてホッとしたのも束の間。

 

 中から開いた扉に思わず少女は仰け反った。

 

「ん? ハイダルか。少し遅かったな。いつものお菓子屋通いか?」

 

「あ、は、はい。いきなり曇ってきたので、ちょっと早めに璃紗さんやシルルゥさんと別れて切り上げてきたんです。に、兄さんこそ、外出するなんて珍しいですね」

 

 ハイダル・エス・トリア。

 

 大人の玩具の入った紙袋を後ろ手に隠して微笑む妹にアーギストは僅かに目を見開いた。

 

「……」

 

「ど、どうかしたんですか? 兄さん」

 

「い、いや……」

 

 兄に何か見透かされただろうかと背筋が冷えたエストリアだったが、すぐに兄が何故か上機嫌のまま出掛けるのを見送って、一息吐いた。

 

(一体、何だったんでしょう?)

 

 まさか、皮肉の一つも言われずに微笑まれるなんて。

 

 この間の一件で見直されたに違いない。

 

 そう兄の威厳を取り戻した気になっているとも彼女は知らず。

 

 とにかく邪魔者は消えたとイソイソ玄関に上がり、自室へ戻ろうとした。

 

 しかし、その目に入ってきたのは途中のリビングに散らかされた本の山。

 

 本当なら無視したって構わなかっただろう。

 

 しかし、片付けられない人間代表たるアーギストは一日でも現状を維持すると環境が悪化する事はあれ、改善する事が無い。

 

 故に紙袋を一端部屋に置いてからだろうと片付けねば。

 

 そう妹の掃除心はモヂモヂした下半身の事情を差し置いても行動へと傾いた。

 

(まったく。兄さんたらまったく。本当にもう……)

 

 疚しい時間を邪魔された事を表立って怒るのは筋違いだが、常々言っているお小言をまるで聞いていない兄に唇を尖らせるくらいはいいだろうとリビングで掃除は開始された。

 

 兄お気に入りのソファーの上。

 

 本が無造作に積まれている。

 

 大半は魔術研究に使用するものばかりだが、反七教会関係の機関や組織が出している定時広報紙や大陸の軍事情勢、その他ジャンルを問わない書籍も点々と落ちている。

 

(兄さんも大概濫読の気が……こんな本何処から持ってくるんでしょうか?)

 

 彼女の手には大陸中央諸国辺りでしか一般には出回っていない映像が飛び出す絵本。

 

 中身の片隅には七教会の広報が協賛している旨の文言と七つの剣が突き立つ丘が描かれている。

 

「?」

 

 テキパキとジャンル毎に分けてソファー横に積み上げている途中。

 

 バサリと一冊の本が床に落ちて開いた。

 

 中身は単なる幼児向けの童話らしい。

 

 だが、しっかりとした印刷で新しい装丁の割に出版元も書かれておらず。

 

 明らかにアルヴァスの正規出版物でもない。

 

 アングラな辺りからまた変な本を買ってきたに違いないと値段が安い事を祈るエストリアだったが、ちょっと内容は気になって最初の頁(ページ)を開いた。

 

 それでもしも下らない内容だったら、後々兄を追い詰める材料にするつもり満々のまま……。

 

「まず初めに幸福は不幸を亡くす事から始めなければなりませんでした?」

 

 エストリアがそんな書き出しの文章に目で追う。

 

―――まず初めに幸福は不幸を亡くす事から始めなければなりませんでした。

 

 いつもいつも誰かの上で嗤うばかりの不幸さえいなければ、幸運は誰の上にも輝けたはずだからです。

 

 死んでしまうのも、餓えてしまうのも、憎んでしまうのも、全ては不幸のせいでした。

 

 だから、幸福は最初に全ての元凶である不幸を消してしまう事にしたのです。

 

 不幸が幸福に消されてしまうと誰の上にも幸福は輝けるようになりました。

 

 誰にも笑顔が溢れて幸福は本当に良かったと皆を祝福しました。

 

 もう憎しみに顔を歪めたり、餓えて他人を傷付けたり、誰かが誰かを虐げたりする事は無くなったのです。

 

 幸福に誰もが感謝しました。

 

 よくぞ不幸を消してくれたと褒め称えました。

 

 けれど、その内に全ての者の顔からは少しずつ笑顔が失われていきました。

 

 それは誰もが不幸を知らなくなってしまったからです。

 

 それは他人の痛みが分からなくなってしまう事と同義だったのです。

 

 自分が傷付くから、他人も傷付いたら痛いのだと、誰も考えなくなってしまう。

 

 それはとても恐ろしい事でした。

 

 不幸は消えてしまったのだからと、誰もが誰もを助けない世界。

 

 不幸は消えてしまったのだからと、誰もが誰もを救わない世界。

 

 それは誰かに大丈夫だよと笑い掛けたりしない世界だったのです。

 

 幸福は思いました。

 

 誰もが誰もを虐げない、憎まない、殺さない、餓えさせない、蔑まない、そんな理想が叶ったのに、どうして笑顔が消えてしまったのだろう。

 

 もし、また笑顔を取り戻そうと思うなら、自分には何が出来るのだろう。

 

 不幸がいた時は本当に酷い事ばかりでした。

 

 幸福が誰かの上に輝くのはほんの短い間だけ。

 

 でも、幸福が輝いた下にいる誰かは本当に優しくて温かい、とても良い笑顔をしていたのです。

 

 その笑顔が好きだった幸福はもう自分がそんな笑顔を浮かべられる事が無いのだと知って、とても、とても悲しい顔をするしかないのでした。

 

 何故なら、もう不幸が戻ってくる事は無いと知っていたからです。

 

 それ以来、笑顔を失った世界には幸せだけが残りました。

 

 誰もが幸せに感謝しない世界だけが………。

 

「これって教会批判の本?」

 

 本の内容をパラパラと再び飛ばし読みしてみると。

 

 収録されている話のどれにも幸福と不幸という言葉が出てくる。

 

(幸福が七教会だとして、不幸は反七教会派? でも、何か違うような気も……)

 

 繰った頁の最後。

 

 片隅に小さな署名を見つけてエストリアが目を細める。

 

「イルゼ……イグナフィア? 何処かで聞いたような……」

 

 はて?と思案して、ポンと手が打たれる。

 

「ああ、確か劇場で」

 

 近頃の流行を逃さず。

 

 中央北部の劇場でちゃっかり恋物語に涙していれば、その名に聞き覚えがあって当然だろう。

 

 劇の大本となった書の著者こそ、イルゼと呼ばれる女流作家だからだ。

 

(もしかして、同人雑誌みたいな?)

 

 よく売れない作家が合同で一つの題材に付いて執筆して本を出す事がある。

 

 昔ながらの魔術書や魔導書と呼ばれるものも、系統としてはそれに近く。

 

 ある種のコミュニティー内では高値で取引されているという。

 

 そういった関連書籍を扱う過程で手に入れたのだろうかとエストリアはちょっと興味の出てきた本を胸に抱いた。

 

「いつも片付けてるのは私なんですから、ちょっとくらい……いいですよね……」

 

 誰に言うでもなく。

 

 イソイソと自室へと帰っていく背中はこれから寝台の上での行為を意識して、シットリと汗ばんでいる。

 

 彼女にいつもの冷静さが少しあれば、気付いていただろう。

 

 本が埋もれていた場所に散らばっている魔術関連の書籍。

 

 その全てが呪術や心理学系統であった事に。

 

 結局、帰って来なかったアーギストは本がどうなったかを知らず。

 

 月光の下。

 

 小さな喘ぎが漏れる部屋で本は薄らと輝き始めていた。

 

 誰に悟られる事も無く……。

 

 *

 

「次官。率直にお聞きします。ゼオ家とは一体何なのですか?」

 

 ハガス中央に聳える白亜の城砦。

 

 政治中枢たる周辺施設の一角。

 

 移民奴隷登録局。

 

 そう記された札の掛かる建造物。

 

 もう仕事の終わった職員が帰宅した廊下を抜けた先にある最奥。

 

 其処で約束通りの相手とアーギストは座って話し込んでいた。

 

 亜人の中でも稀少な海洋型。

 

 それも魔力持つ白き海豚(いるか)を祖に頂く者が其処にいた。

 

 下半身を特別製の台車付きの水槽に漬けた姿。

 

 普通の亜人達からすれば、不便極まりないだろう下半身。

 

 それでも顔と肌が海豚そのままの男はプカプカとパイプを吹かして後、傍らの小さな皿に灰を捨てた。

 

 青い制服に身を包んでいながら、役人らしい傲慢さも見せず。

 

 何処か自由気ままな雰囲気を漂わす初老。

 

 彼がそっと顔を上げたのは傍らの机から大きな封筒を取り出してからだった。

 

 取り出された何枚かの書類。

 

 その一つが余所行きの外套姿であるアーギストの前へ提示された。

 

「これは……登録証の写し、ですか?」

 

 部外秘と亜人特有の文字で判が打たれたソレの中身を読み込んで。

 

 アーギストは不自然な点を見つける。

 

 項目の幾つかが塗り潰されるか未記入だったのだ。

 

「つまり、ゼオ家の登録は超法規的な措置が取られている、と?」

 

 普通、こんな虫食いのように未記入の項目で移民が認められるはずが無い。

 

 アーギストがようやく掴んだゼオ家の情報。

 

 五年前を境にして移民してきたという母娘(おやこ)の話には確かに裏があるらしかった。

 

「………」

 

 言いたくないと顔に書いてあったがズバリと聞く若者に淡々と二枚目の書類が差し出される。

 

「登録許可の種別……まさか?」

 

 以外そうな顔。

 

 それもそうだろう。

 

 移民登録時にどんな職業の移民として来るかは大きな問題だ。

 

 例えば、高度な技術を必要とする種別で登録されていた場合、数年毎にそういう職に付いているかが調べられ、審査の対象となる。

 

 普通の移民として登録されているのかと思いきや。

 

 書類にはアーギストが考えもしなかった種別で登録が完了されている。

 

(高度戦闘技能習得者? だが、ゼオ家の人間は軍務や護衛のような業務に付いているような素振りは……)

 

 明らかなる不自然。

 

 だが、提示された三枚目を見て。

 

 青年の顔色が変わる。

 

(馬鹿な?! 大貴族待遇での非常勤登用?! しかも、王族と元老院上層部全員からの推薦状付きだなんて何かの間違いじゃないのか!?)

 

 書類に添付されていた複数の小さな写しに唸って。

 

 思わず海豚の次官を見たが、初老の男は青年に何を言うでもなく。

 

 仕方なさそうな手付きで最後の一枚を差し出した。

 

(非常召集時の特別編成部隊? これは一体……)

 

 最後に提示されたのは戦闘技能の保持者が戦時特例が発令された場合に編入される部隊の戦時徴用登録書類。

 

 つまり、非常時の召集命令で何をさせられるのかを定めたものだ。

 

 そこに書かれている部隊が正規軍とは別働部隊としての性質を帯びる予備戦力かと思っていたアーギストだったが、最後の欄を読んで目を剥いた。

 

 それは任せられる部隊員の数だ。

 

「これに一切手が加えられていないと、言えますか?」

 

 海豚の次官が大きく頷いて書類を全て封筒に戻し、机の引き出しに仕舞い込む。

 

「今日は大変に有意義な情報が得られました。今回の件はこれでお終いにしましょう。どうぞ、お納め下さい。これが手元にある映像の写しと関係書類の全てです。誓って他に複製はありません。もう会う事も無いでしょう。では、これで」

 

 頭を下げたアーギストが自分の懐から取り出した封筒を渡した。

 

 中身を確認した次官が安堵した様子になる。

 

 もう引き上げようと背中を向けて歩き出した青年の背中に声が掛かった。

 

「新しき風を運ぶ家の方」

 

「何ですか?」

 

 振り返らない青年に何処か迷うような素振りを見せてから男がひっそりと呟く。

 

「世の中には知らない方が幸せな事というのが確かに有るんですよ。間違いなく、ね」

 

 何も言わずにアーギストは扉を開けて廊下に出た。

 

 今まで何事も無かったかのように転移方陣が展開され、瞬時に施設から姿が消え失せる。

 

「ゼオ家にエス・トリア家。我ら亜人国家に彼らが齎すのは本当に変革と力なのですか。ドゥーズ様」

 

 ポツリと囁いた後。

 

 男は静まり返った部屋で窓の外を眺め、霧も無い天を仰いだ。

 

「………」

 

 *

 

 歯車。

 

 それを技術の象徴と言った者は轍を刻む車輪を産み出した。

 

 歯車。

 

 それを時間の象徴と言った者は律を刻む時計を産み出した。

 

 歯車。

 

 それを世界の象徴と言った者は社会の誤謬を解き明かす学問を産み出した。

 

 象徴とは誰かが意味付けなければ、多くはただの物に過ぎない。

 

 どんなに素晴らしい機構も技術も学問も全ては意思在る者達の存在が前提としてある。

 

 だから、彼女にとってソレは何処までも原罪としか言いようの無いものだった。

 

 しかし、同時にソレは彼女の夫との最後の繋がり。

 

 絆とすら言い換えていいかもしれない。

 

 もしも、自分ではない誰かがソレを産み出したのだとすれば、夫は死ななくても良かっただろうかと。

 

 そう、いつもいつも後悔で目が醒める。

 

 行過ぎた過去。

 

 情熱に燃えていた若き日。

 

 まだ、子供達も生まれていなかった。

 

 全ては上手く行くはずで、全ては順風満帆。

 

 明日が良いと信じられた。

 

 未来は明るいと感じていた。

 

 それは幼子のような何も解らない無知故の無垢か。

 

 それとも単なる錯覚だったのか。

 

 解らない。

 

 だが、解らずとも、彼女は幸せだった。

 

 本当の本当に幸せだった。

 

 だから、夫と共に理想の形を追い続けられた。

 

 理想機関の創造。

 

 それこそ彼女の追った夢。

 

 偉大なる聖女の下。

 

 来る日も来る日も開発に勤しんだ。

 

 魔術師でも無い。

 

 能力が高かったわけでもない。

 

 それでも自分の容を納めるのはソレしかないと打ち込んで。

 

 子を宿したのが解った頃。

 

 たった一つの閃きとたった一つの技術に出会い。

 

 ソレは生まれた。

 

 【無限機関】とも違う。

 

 有限の灯火。

 

 基本はクラインの壷。

 

 表裏無きメービウス。

 

【無辺空間制御(イメンサ・マンデータ)】による零次元化の副次効果を閉じ込めたソレは内部に取り込んだ力を機関内部なら“何処にでも存在する”状態に置き換える。

 

 入力1は1のままだが、機構内部なら何処にでも1がある状態となるのだ。

 

 同時に内部は境界の無い無辺。

 

 つまり、“何処でも無い”状態でありながら、メービウスの輪の如く機構内部と機構外部という物理的な隔たりが存在しない無い状態となる。

 

 そうして。

 

 機構の核心部分には存在するかもしれない入力と内部と外部の境が無い機構が完成する。

 

 高度な魔術的事象や法則を覗けば、世界の大きな理は熱量の第二法則に準拠するのが普通だ。

 

 しかし、夫と共に産み出したソレは入力された力を消費する時、機構の内部であり外部、非領域化状態にある全域から1を取り出す事が出来る。

 

 1を入力した時、出力出来る力は1を確実に超える。

 

 内部と外部の境が無い機構。

 

 それは世界との境が無い事を意味する。

 

 実際には非領域化した時空間。

 

 軌跡、位置にのみ発現する現象ではあるが、あらゆる力に溢れる世界側から否応にも入力が為されてしまい、暴走する可能性は非常に高かった。

 

 だから、ソレには皮が被せられる。

 

 無辺を内臓する黒き正方形の完成だった。

 

 まだ名も無き機関を見つめながら、夫と共に笑いあったのはいつの日か。

 

 これで今までの苦労が報われる。

 

 彼女が思ったのは基本設計が終わり、実際の試作が終盤に差し掛かっていた頃。

 

 理論上は完璧だった。

 

 でも、元々理解し切れていない技術に手を出した酬(むく)いか。

 

 どんなエネルギーを入力しても出力が為される事は無かった。

 

 何が悪いのかと師に問えば、自分で考えてごらんとの答え。

 

 泣いて泣いて。

 

 悲嘆に暮れたのを慰めてくれたのは夫だった。

 

 共同での研究ではあったが、同時に他の計画にも携わっていた夫は過去の研究資料を貪るように漁って、来る日も来る日も出力出来るエネルギーを探してくれた。

 

 そうして、何もかもが徒労に終わろうとしていた時。

 

 流産しそうになり、病院の寝台で泣き腫らしていた彼女の下へ夫はやってきた。

 

 ソレに適合する力が見つかったと。

 

 表側はもう何十年も前に止められたはずの研究。

 

 それでもずっと続けられていた実験。

 

 数年後には魔王との戦争が控えていた教会で夫は何もかもを投げ出して、師が処分した資料を復元し、密かに力を生み出した。

 

 その入力された物の名は【源理粒子(イデアル)】。

 

 それでようやく何故、機構が他の入力されたエネルギーを出力出来なかったのか解明された。

 

 距離を喪失し、世界や時空間という頚城から逸脱する技術。

 

 その非領域化環境においては如何なる力も因果律を保てない。

 

 在った事を確定出来ない。

 

 原因と過程と結果。

 

 その齟齬によるロスが如何なる存在をも許してはいなかったのだ。

 

 改めて技術を使いこなす師の偉大さを知り、己の矮小さを知った。

 

 だから、もし研究を師に引き継げば、それで新たな理想機関は多くの人々を照らす光として普及する

 

 そう、彼女は思っていた。

 

 そうなる、はずだった。

 

 だが、夫は彼女に哀しい現実を告げて。

 

 それが不可能だと知った。

 

 何故なら。

 

 如何なる状況下でも因果律の喪失に見舞われない力は―――禁忌の粒子だった。

 

 諦めるしかなかった。

 

 手立てを探して結局見付かりはしなかった。

 

 師に知れれば、破門。

 

 たぶん、技術の源たる智識を奪われて、一般職に配置転換されるだろう。

 

 希望は絶望に取って代わり、全てを嘆いた挙句。

 

 彼女は流産した。

 

 涙して飛び降りようとしたのは本当。

 

 それを見て抱き締めた夫に教会を抜けようと言われ、頷いたのも本当。

 

 その選択は間違いだと知りながら、その選択肢しか選べない自分を呪った。

 

 罪悪感に苛まれて、研究者としての自分も見失って。

 

 それでも支えてくれた人と共にならば、何処までも行けると信じた。

 

 信じて、信じて、信じて、夫の所属する旧教会派の手引きで見知らぬ国に身を寄せ、二人の子供を得た。

 

 師を裏切っておきながら、教会を裏切る研究に手を染め、幸せに包まれた。

 

 だから、ソレは原罪。

 

 何もかもを代償として持っていく咎。

 

 触れるだけで業深く。

 

 忌々しくも手放せなくなった呪い。

 

「……あなた……それでもわたしはあの子達の為に……この国を……」

 

 今日も神に祈る事無く。

 

 彼女は起き上がる。

 

 散乱した設計用紙の上。

 

 凡人たる我が身を嘆きながら。

 

「きっと………」

 

 涙の滴った眼鏡の下。

 

 昇る朝日に全てを振り切るよう。

 

 何処かの少女に似た目元が力を取り戻す。

 

「だから、見ていて……いつか、あなたの下に行くまで……」

 

 机上のフォトフレームが伏せられる。

 

 思い出より未来に生きると決めた手によって。

 

『リヒス・エス・トリア博士。定例会議のお時間です』

 

 例え、そこが地獄でも、子を守る母は何より強いのだと教えてくれた子供達の為、五十代の主任博士たる女は立ち上がった。

 

「五分で行くわ」

 

 そう応えた彼女の背後。

 

 黒き正方形が無数に詰み上げられている。

 

 ソレこそはエス・トリア家の象徴にして、彼らを今も呪い、支える力。

 

 その名を人々はこう呼んだ。

 

【崩燼機関(ソルヴァス・エンジン)】

 

 全てを崩し、灰燼と化す機構、と………。

 

 *

 

―――???

 

『……追いつかれたか』

 

『クルス・エス・トリア……非常に残念です。フルー様は貴方達を非常に可愛がっておられた』

 

『マディクト様。随分と大人数をお連れですね』

 

『それはそうでしょう。七教会の特一級極秘事項に属する情報を奪って逃走。聖女様方は減刑なさるでしょうが、本来なら死罪ではなく“無かった事”にする部類の罪状です』

 

『リヒスはこの私が無理矢理に連れて来た。そして、今は眠っている……』

 

『言い訳ですか?』

 

『いえ、単なる善意を期待しただけです』

 

『貴方のそういう強かな部分も含めて、フルー様は研究に関しては信を置いていた。それは理解出来ていますか?』

 

『無論』

 

『一応、理由だけは聞きましょう』

 

『リヒス。いや、妻の研究はこれからの人類を照らす光となるはずだ。それを闇に葬るような事はしたくない。それだけの事と言っておきましょう』

 

『……今ならまだ復元奪取した情報の破棄で済ませられますが』

 

『その気は無い。フルー様は例え帰ったとしても、妻の研究を封殺するおつもりだ。それくらいは凡人にも分かる』

 

『三つ言い添えますが、貴方達は基本的に誤解している部分がある』

 

『誤解? お腹の子を失って憔悴し切った顔を見ていれば、こうもなるでしょう』

 

『まず一つ目。フルー様は確かに彼女の研究に付いては秘匿か凍結で対応するおつもりでしたが、研究自体は続けさせてもいいと考えていた』

 

『世間にも出さず。何も生み出さない研究者。そんなものに成り下がれと言われて頷く奴がいるなら、私はそんな連中を軽蔑する』

 

『二つ目。貴方達夫婦。おっと、まだ籍は入れていませんでしたか。貴方達二人の研究はそもそもがオリジナルでも何でもなく。フルー様が昔に終えられた研究の追随でしかありません』

 

『何、だと?!』

 

『貴方達の研究資料は教会にとって失われて惜しいような技術ではない。この点で我々は交渉する余地が無い』

 

『……全て神の掌上、か』

 

『三つ目。貴方の奪取した情報は貴方が思っている以上に重い意味を持つものだ。高々【無限機関】を造る為に流出してよいものではない』

 

『私も魔王の完全な複製が作れるとは思っていませんよ』

 

『だが、不完全な複製でも十分に意味はある。その派生技術にしても、本来は存在自体知られるべきではない』

 

『それは七教会の言い分でしょう?』

 

『クルス・エス・トリア。貴方達の研究が完成すれば、七教会にとって看過出来ない事態だ……旧教会派との契約にどんな条項があったのか知りませんが、それの完成は不幸を呼び込む。とても勧められない』

 

『その言葉が戯言だとは思わない。だが、単なる信仰心だけで決断したと見ているなら、彼方は私を見縊り過ぎている。マディクト様』

 

『……そうですか。では、こちらも貴方達が納得出来るだけの切札(カード)というものを出さざるを得ないですな』

 

『妻はもう覚悟を決めていた。私もだ。それを一体、どんな手品で翻意させるのか? 洗脳も誘導も直接、頭(ここ)を弄らない限り、不可能ですよ』

 

『そんな道徳に悖(もと)る行為をする気はありません。まぁ、今から開く手札が道徳的だとは思いませんが』

 

『………』

 

『流した子の名前は決めてありましたか?』

 

『……男ならアーギスト。女ならハイダル』

 

『では、もし戻ってくるつもりなら、その彼もしくは彼女の“甦り”を七教会と七聖女フルー・バレッサ。唯一神の名の下に許可しましょう』

 

『!??』

 

『ちなみに魂も肉体も既に回収済み。時空間能力者による死亡時刻時点までの脳内情報の遡行復元及び魂の再定着と秘匿技術の一つである遺伝情報の書き換えもお付けします』

 

『ッッッ、それが教会のやる事か!!!! マディクト・ナシエ!!!!?』

 

『命を冒涜しているつもりは毛頭ありませんし、不完全な技術で騙そうとするようなチャチな事をする必要性もない。貴方も知っての通り、魔術を極めれば死者の蘇生は可能な範囲。それを技術と能力の再現で可能にする世界最高の科学者がいて、貴方達の為にわざわざ封印した技術までも解放しようと言っている。喜びこそすれ、嘆く事も怒る事もお門違いでしょう』

 

『……命はッ!!?』

 

『何にでも一つだと? それがもしも何も知らない大陸の民から吐かれた言葉なら、考慮には値するでしょう。しかし、大陸中央諸国における道徳の問題は常に我ら七教会が担って来た。中央出身の人間にとやかく言われる筋合いはありません。公には出来ませんが、こういった技術が普通に使われる時代も既に予測想定された範囲の出来事でしかない。その先取りに何ら抵抗を感じる要素はありませんな』

 

『ぐッッ』

 

『ちなみに死亡した経緯に付いてですが、天地神明……我が主フルー・バレッサに誓って、何も干渉はしていません。その子の遺伝情報が母体内部で変質し、生体の育成に異常を来たしていたところに過度の重圧(ストレス)が重なった。検死報告に疑いの余地はありません。ギリギリの水準で投薬し、魔術による蘇生行動も行われた旨は貴方達も知っての通りです』

 

『……七教会が今ほど黒く見えたことはない』

 

『研究者も人だと言いたいなら主張としては正しい。人並みの倫理と法と道徳に守られた生活を送ってきたのですから、当たり前の反応でしょう。ですが、その人並みのものを大陸中央諸国で実現してきたのは他ならぬ七教会でしか在り得ない。そして、法と倫理を犯して逃げたのは貴方達の方だとお忘れなく』

 

『罪人を更なる罪で誘惑するのが悪魔だと聖典にはある』

 

『これを神の恵みと見るか。悪魔の誘惑と見るか。実際はどちらでもありません。我々からの現実的な妥協と限界の譲歩がコレだと言うだけの話です』

 

『妻から二度も奪うと言うのか。子も研究も』

 

『ええ。ですが、もう一度得る機会を与えたという事も見逃さないで貰いたい』

 

『それは詭弁だ』

 

『ですが、現実的な譲歩です。研究者としての彼女は死ぬでしょうが、母としての彼女はこれから幸せになる道もある』

 

『我らを追い詰めている者がそれを語るとはお笑い種だ』

 

『いつだろうと七教会が目指して来たのは人々の幸福。それに仇為す者にさえ、それなりの裁量で幸せになる機会は与えて来た。貴方達は特にフルー様のお気に入りだった。その恩恵を今この時も譲歩という形で受け取っている。この現実を否定したところで何も変わりません』

 

『………灰色の世界、か』

 

『どういう意味です?』

 

『【総主教(パトリアルヒス)】様が言っていた。このままでは七教会は何れ光でも闇でも混沌でも無いものになると』

 

『彼はもう死んでいます』

 

『だが、言葉はまだ私の中にある』

 

『この提案を断った場合の処遇は全て一任されていますが、覚悟は?』

 

『例え、それがどんな死に方だろうと子供に二度死ぬ苦しみを課すくらいなら、私は大地に返してやりたい』

 

『二度生まれる喜びを我が子に与えたいとは思わないと?』

 

『マディクト・ナシエ……私は私の信仰とは関係なくソレを間違いだと断じよう』

 

『?』

 

『二度生まれる喜びを感じるのは我ら両親であって、我が子ではない』

 

『……もしも貴方が教会の司祭だったなら、私は喜んで今の席を譲ってもいい。ええ、本気でそう思いますよ。クルス・エス・トリア……』

 

『私達は帰らない。旧教会派と共に行く』

 

『ふぅ……聞き分けの無い若造だとは思っていましたが、此処まで来ると筋金入りと言うべきか』

 

『今、此処で命を断たれようと意見は変わらない』

 

『………アレを』

 

『これはまさか?』

 

『生まれてこれなかった子の棺桶です。分子停止処置を施しておきました。どうするかは二人で決めるといい。それから……』

 

『リヒスに何をする気だ!!?』

 

『確保した魂は母体に返却を。もし、母体に再び同化するまでに第二子が出来れば、生まれ変わりとはいきませんが、共に強い子として生まれてくるでしょう』

 

『何故だ!! 何故!?』

 

『命令です。もし、この老骨の説得でも折れなかった場合は速やかに返却するようにと』

 

『……フルー様は……ッ』

 

『総員撤収。全情報の破棄。速やかに記憶洗浄の後、通常待機へと戻るよう』

 

『どうするつもりだ? 私も妻も自分の研究を曲げるつもりはない』

 

『ふ……存分に研究するといい。ただ、一つだけ言っておきます。もし研究の完成の後、不幸が呼び込まれれば、それはたぶん人間二人では背負い切れない罰と贖を要求される事態となる。その時、今日の事を後悔する事となりますよ? この老骨の勘ですが』

 

『……罪を重ねても、贖切れないものを背負っても、私も妻も止まらないだろう。そして、もし命で精算する日が来たなら……笑って死ぬさ』

 

『その意気や良し。では、もしそうなったなら、地獄で待っていて下さい。何時になるかは断言出来ませんが、かなり遅くなっても、そちらへ押し掛けます。その時は存分に説教する事としましょう。では』

 

―――リヒス……済まない。

 

「どくとる?」

 

「ああ、久しぶりに友人の顔が見たくなって。旧い記録を展開していたところだ」

 

 地下大深度。

 

 化石の壁に寄り掛かるようにして男が一人虚空に映像を魔術で投影していた。

 

「我輩も友の顔が恋しくなるとはもう歳か」

 

「?」

 

「どうかしたかな?」

 

「……同じ顔」

 

 声の主が男にポツリと漏らす。

 

「ああ、地下で回収して以来、快適に使わせて貰っているからな。“この肉体は”」

 

「?」

 

「まぁ、肝心の品が回収出来なかった点で五年前は失敗だった。今回の探索が上手く行ったら、“コレ”を返しに行くのもいいかもしれない。あの聖女の副官に習ってみるのも一興だろう」

 

 男が立ち上がる。

 

 すると、丁度闇の先から駆けてくる足音と声。

 

『ドクトル!! ドクトル・ファウストゥス!! 出来ました!! 出来ましたよ!!? 研究が一部完成しました』

 

「それは良かった!!」

 

 歩き出した男の顔は確かに七聖女の副官マディクト・ナシエと話していた男のものだった。

 

 クルス・エス・トリア。

 

 その男の顔をした最古の魔術師はまだ幼い卵達の成果を受け取る為、闇へと没していく。

 

「さっそく運用してみようじゃないか!!」

 

 昼夜無き大伽藍。

 

 術者の卵達が試作した【外神獣(アウタン)】の成果が一部運用された日。

 

 彼らの本拠地は無作為に放たれた攻撃による地盤の破壊で地下水脈の濁流に水没し掛けた。

 

 ただ、そんな中でも陽気に生徒達を励ます男だけは変わらず。

 

 微笑んだ顔が一部の女生徒達の間で人気を博す事となった。

 

 それが今もハガスで研究を続ける未亡人の辿った道だと未だ誰も知らない。

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