第三章四十三節「想い積もる夜」
またか。
またなんですか!!?
またかよ。
ま、また、こ、こんな?!
「えっと…その、何て言うか……とりあえず……ごめんなさい」
エス・トリア宅。
アーギスト私室。
この間、エルフの少女を見つけてきたばかりの少年である。
また同じようなものを見つけてきたと聞いて召集された境界踏破の仲間達の視線は一様に呆れている。
一部の女性陣は男性陣の『また厄介事か』とのニュアンスとは多少異なっているが、それは今更説明するまでもない思いに満ち満ちている、とだけ言えば事足りるだろう。
鳥居から出てきた人型。
まだ人間かどうかも定かでは無い彼もしくは彼女の身柄は現在ゼオ家でアルゥ・ゼオに管理されており、詳しい事はまだ分かっていない。
ただ、一応どういうものかを説明する為に撮られた篆刻写真が一枚全員の目に止まれば、女性陣からの不満は一つだけだった。
明らかに女の子みたいに可愛らしい寝顔。
またゼオ家。
否、少年の周りに女の影が増えた。
これ以上増やして本当にハーレムでも作るのかと白い目を向けられたとしても、文句は言えないだろう。
ただでさえ、本日朝から勃発した騒動。
武芸術部の巨乳部長同居事件(仮)が、尾を引いている。
朝から璃紗やシルルゥと登校するのが常である少年の横にいつの間にかモデル並みなプロポーションを持つ銀髪巻き髪部長、(エストリア談)が増えたのである。
朝っぱらから久しぶりに顔を合わせた美紗も加わって、喧々諤々の大論争である。
『ど、どどど、どーしてイクスさんのお家から部長さんが出てくるんですか!?!』
ちょっと早めに少年を迎えに来て『驚かせちゃいます。ふふふ♪』と甘い学園ラブコメのノリを体現していたエストリアが見たのは左手を璃紗とシルルゥに占領され、右腕を豊かな胸に埋もれさせ出てきた少年という衝撃的な場面。
何故そんな事になっているのかと説明を要求しつつ登校して喚いていたところへ美紗が出くわした。
白い視線を向けたライオン少女は一言。
『節操が無いですね』とバッサリ切り捨てた。
それに対して何処か女の余裕を醸し出すウルがにこやかな対応をするものだから、エストリアは涙目で『どういう関係なんですか!?』とアルヴァス・カレッジの四五六(ドンファン)に迫り、事態は風雲急。
いい加減どうしようかと困り切った少年が何とか無事に校門へ辿り着いたのは奇蹟に近い。
昼は昼で面倒極まる説明から逃げ出そうとする少年をエストリアと美紗が取り押さえ、色々情報を聞き出そうとするものだから、講堂にはいつもの面子と唯一少年の下半身事情に詳しい兎少年サイカ以外人っ子一人いなくなっていた。
そうして部活を休んだ少年がアーギスト私室に全員集った頃合を見計らって、昨日の異常事態を告げたわけである。
差し出された写真内の可愛い彼あるいは彼女の話題で「またか」という単語が飛び交うのは仕方ない。
一頻り昨日の状況をアーギストに伝え終った少年は横から刺さる二つの視線、半眼となったエストリアと美紗に半笑いとなった。
「そうか。鳥居から、か……仮面のような気配も無かったとすると内部に迷い込んで何らかの力で出てきた。という線も無いではないが、この間の喋る仮面の事もある。化物の件も含めて調査が必要だな……」
「こっちに連れて来るのはまだ無理そうだってアルゥさんが言ってましたけど」
「アルゥ・ゼオにはこちらから出向いて話を付けよう」
「じゃあ、そういう事で」
「ああ」
二人が話しを追えるとアーギストが室内を暗くしてパチンと指を弾く。
すると壁際に幾つかの領域の図らしきものが浮かび上がった。
「さて。では、此処からが本題だ。皆、壁の領域(レイヤー)を見てくれ。これが昨日の時点での異相境界から先。アイウィスの現時点での状態だ」
「これは、一体……穴が開いているように見えますが?」
美紗の声にアーギストが頷く。
「ああ、どうやら領域の下部まで続く大規模な空間破砕現象が起こっているらしい。そのせいでアイウィスの中央部の殆どが下層領域に直接繋がっているようだ」
「兄さん。どういう事なんですか?」
最もな妹の声にアーギストが領域の図を複数下へと重ねていく。
「色々と観測してきた結果分かった事だが、アイウィスは折り重なる多重構造の性質を帯びた領域になっているらしい。簡単に言えば、虹のように実像が複数の波帯に分かれる。同じアイウィスが領域を下げながら連なっていて、その中央が何らかの原因で最下層付近まで貫通している、という事になる」
「よく分かりませんけど、同じ都市が下に一杯あるって事ですか?」
「そうだ。そして、現在内部の構造がかなり安定している事も分かった」
「安定だと? こんなデカイ穴が開いてるのにか?」
ジルムスの疑問は最もだろう。
それにアーギストが幾つかのグラフを指し示す。
「原因は不明だが、どうやら異相内部の環境が今までの開放系から閉鎖系に移行しているらしい」
「どういうこった?」
「今までアイウィスというのは此方側に侵食してくる程に開かれた空間だったという事だ。しかし、今は一転して他者が入り込むのを拒絶するかのように空間を閉じた状態にある」
「この間の一件のせいか?」
「たぶん、な。詳しい事は内部での観測結果や探索結果から導くしかないが、現在の状態はかなりアルヴァスに取っては好都合だ。密かに調べてみたが、此処最近は誰も化物化していない。これは誰もが知るようにあの日以来、霧が出ていない事と相関関係にある」
美紗が手を上げて発言する。
「では、このままの状態が続けば、アルヴァスは……助かる、という事ですか」
「いや、内部を何とか観測して分かった事だが、物凄い勢いでアイウィスの空間が広がっている事が確認された」
「広がる?」
「ああ、アイウィスは広がっている。それもかなりの速度で……この現象を分かりやすくモデル化して映像に起こしてみた。見てくれ」
アーギストが指を弾くと地上にハガス、地下にアイウィスという表示の空間が現れる。
球状の形をしたアイウィスが地下で少しずつ膨れていくとやがてはハガスを飲み込み、更にその周辺を内部に吸収しながらやがては大陸、惑星までも呑み込んでいく。
その映像に誰もが沈黙した。
「これの時間の縮尺は?」
美紗の暗澹たる声。
「約十ヶ月。来年の四月までにアイウィスに惑星が飲み込まれる。だが、ハガスが呑み込まれる時点で九ヶ月以上経っている。基本的に最後は一瞬でこの星系が呑み込まれる、かもしれない」
「おいおい。これがアルヴァスの現状だってのか? こんなのどう考えても七教会や神が出張る事態じゃねぇか」
ジルムスの言うことは最もだった。
「そうだな。だが、そういう事態になった時点でハガスは跡形も無くアイウィスに呑み込まれてる。そうなれば、内部の人間がどうなるかは言うまでも無い」
「……兄さん。これ、本当の話なんですよね?」
「ああ、僕の計算に間違いが無ければ、そして……アルヴァスが七教会の手を借りて、この状況を打破しようとしなければ、な」
「もう、これはハガスやアルヴァスだけの問題では無くなって来ている。この情報を公開して多国間での―――」
「奏美紗。君だってそんな事は不可能だと知っているし、僕も君の内心に同情はする。だが、現実的じゃない」
「くッ」
美紗は呻くだけで反論しなかった。
アーギストに言われずとも、そんな事は実感として知っている。
しかし、それでも言わずにはおれなかったのだ。
「それで、だ。全員にもう一度だけ確認しておきたい」
四人の視線がアーギストへと向く。
「もう状況はハガスやアルヴァス一国どころか。大陸ですら納まらない規模になろうとしてる。本来なら七教会にでも情報をやってアイウィスの共同踏破でも打診したいところだが、生憎と我々の住む場所はアルヴァス亜人国だ。更に言えば、こんな状態のアイウィスに入るとなれば、状況次第では二度と帰ってこられないし、勿論命も無い。今まではイクス・ゼオに付いていく事やアルヴァス救済の為にという名目でやっていたわけだが、そういうわけにもいかないだろう。世界が滅ぶなんて現実味も無いが、それが数字で示された以上、事実だ。そこで全員に聞きたい」
アーギストの視線は冷淡なまでに冷静だった。
「死んでも守りたいものがあるか? 逃げるなら今しかない。無論、短い余生になる可能性は高いが、境界踏破の先に救済が待っているとは限らない。入ったところで無駄死にの可能性も高い。それでも、君達には自分の命を擲ってでも守りたいものはあるか? それが無いなら入るのは止めた方がいい。生きる為に死にに行くような行為をむざむざ黙って見過ごすわけにもいかないからな」
最初に手を上げたのはジルムスだった。
「テメェの実家くらい守れないようじゃ、ジジイにどやされるんでな。オレは行くぜ」
次に手を上げたのは美紗だ。
「守るものがアルヴァスだけではなく、この大陸の全てだと言うのなら、それこそ警察の官位に恥じぬ働きです」
不安げながらもエストリアが小さく手を上げる。
「世界とか、アルヴァスを守るとか、そういうのは正直自分に出来るとは思いません。でも、自分の住んでる場所を、友達を、仲間を、クラスメイトを、見捨てたり出来ませんよね。普通」
最後に事の発端たる少年は手も上げずに微笑んだ。
「僕は僕の理屈で境界に向かう。もしも、それが世界を救う事になるって言うなら、別にそれはそれで構わない。ただ、皆に死んで欲しくなんてないし、今の生活を手放す気も無い。あの先に何が待ってても、此処に帰ってくる為に戦うよ……僕の今の居場所は誰も欠けてない此処だと思うから」
眼鏡を押し上げて。
アーギストは其々の顔に浮かぶものを見つめる。
「此処からの境界踏破は今までのような温さが即、死へ繋がる。各自に武装や魔術具の支給。それから、作戦の立案に戦術の構築も必須だろう。もう素案は出来てる。各自、今日渡した資料を境界踏破当日までに頭へ叩き込んでおいてくれ。僕らは……少なくともこの大地に生きる一人だ。無為に失われていい日常等有りはしない」
アーギストが立ち上がり、壁の映像横に立つ。
「今日、この日を持って僕らのコードを決めようと思う。今までのように境界踏破をするだけの、チームですらない烏合の衆として潜れば、待つのは死だ。故に僕らは今後」
バツンと壁に映し出された文字は【東象文字(イースタン・キャラクター)】で四文字。
「【境界踏征(オーバー・フラタニティ)】と名乗る」
全員が茶化す事もなく頷いた。
「全てを得て、誰も死なずに帰ろう」
その言葉に青年の想いは集約されている。
そうして彼らは新教会暦0017年発足した。
【境界踏征(オーバー・フラタニティ)】
救世の希望は確かに芽吹いたのである。
*
ブリーフィングが終わった後。
アーギストが少年と話し込んでいるのを横目にエストリアがジルムスと美紗を見送って玄関から帰るとアーギストだけが部屋の前で待っていた。
「どうかしたんですか? 兄さん」
「ハイダル。今日はお前に僕から贈物がある」
「え?」
「イクス・ゼオはお前の私室で待たせてある。ちょっと来てくれ」
「な、何サラッと人の部屋にイクスさんを待たせてるんですか?!」
思わず抗議したエストリアだったが兄の今までに無く真面目な視線に思わず押し黙る。
「……本当は今日みたいな日が来ない事を願っていた」
「兄、さん?」
思わず呼んだ兄の瞳に浮かぶのが哀しみだと知って。
少女はそんな目を見るのはいつ以来だろうかと驚いた。
「お前が幸せに人生を終えるまで、あんなものは使わずにいられる時代であって欲しかった」
何を言われているのか。
分からずとも。
今の自分に真剣に兄が向き合っているのだと彼女はひしひしと感じて瞳を見上げる。
「だが、選んだ道に命に関わる障害があると言うのなら、この選択は間違っていないと信じたい。母さんからも前回の一件で承諾は取ってある。こっちだ」
青年が歩き出し、少女はいつかそうだったようにその背中へと付いていく。
幼い頃。
いつも弱虫で泣いていた彼女の前にいた背中。
父と母、研究の為にあまり家にも帰ってこなかった親代わりの背中。
それが目の前にあるものだった。
館の奥。
兄が出入り禁止にしていた物置という名をした鋼鉄の扉。
五年前から一度も入った事の無い場所。
「アーギスト・エス・トリア。コード―――OEDS」
『本人と確認。全生体パターン一致。遺伝情報一致。概念多層結界を一時停止します。どうぞ、アーギスト・エス・トリア様』
機械的な罅割れた声が答えて。
鋼の扉がカチャリと音を立てた。
それが開くものだと思っていた彼女は扉がガチガチとまるでパズルのように組み替えられて消えていくのを見て、其処が自分の思っていたような場所なのではないと知る。
明らかに現在のアルヴァスで構築出来なさそうな技術は大陸中央諸国の【電子噐械学(エレクトロニクス)】だと理解したからだ。
そのまま暗い扉の中へ青年の背中を追いかけていけば、内部の通路が青白い幾何学模様を奔らせて周囲を照らし出していく。
「これって……」
「五年前。母さんが自分の伝手を総動員して組み上げたセキュリティーだ」
「セキュリティー? じゃあ、この奥に何か大切なものでもあるんですか?」
「ああ」
アーギストが通路の先。
完全に暗闇になっている領域に手を伸ばして、その粘性の闇へと片腕を押し込んだ。
「アーギスト・エス・トリアの名において告げる。我が血の盟約を持って第四の機構を開く。全精霊開放。空間を開け放て」
宣言の後。
ブワッと何か熱気のようなものが通路を駆け巡り、二人の背後へと駆け抜けていく。
すると、闇が跡形も無く消え失せて魔術具の光が照らす小さな一室が現れていた。
その中央には台座が有り、その上には1m四方の不思議な銀色にも近い正方形が置かれている。
よく見れば、正方形の横に同じ色をした細い棒が一本付けられており、それを足してみるとソレはハンマーのようにも見えた。
「これって……」
アーギストが横に立ってエストリアに振り向く。
「五年前の事を覚えているか?」
「……忘れるわけ、ありません」
伏せられた視線に自分もまた過去を見つめながら、アーギストが頷く。
「お前は一度だけ見ていたはずだ。父さんの研究室にあった造り掛けのコレを」
「父さんの……そう、言えば……あの日、私……父さんの研究室に行って……あ、れ?」」
辛い日の記憶。
父が死んだ日の事。
その前後の記憶があやふやな事に彼女は気付いた。
とても怖い事があった。
それは分かっているのに記憶の始まりは暗い地下通路からいきなり始まっている。
「あの日、お前は【崩燼機関】の真実を知った。そして、父さんはお前の事を思って、その記憶を封印した」
「な、何言ってるんですか……父さんが私の記憶を封印?」
「短期的な記憶だけを関連する記憶の連結から外して想起出来ないように閉じ込めた。そんな時だったんだ。あの事件が起きたのは」
「……魔族の襲撃」
「そう、あの一件で父さんは死んで、母さんは旧教会派から抜け、アルヴァスへと亡命した。七教会に援助を求める事も出来ず。かと言って後ろ盾無く混沌とした世界を放浪する事はお前にとって良くない事だと、そう考えた末の決断だった」
「じゃ、じゃあ、アルヴァスに亡命したのは私の為だったって言うんですか?!」
「そうだ。そうして、母さんと僕の手にはコレが残された」
「一体、何なんですかコレ!? 真実とか!? どうして急にそんな事!? 兄さんは何を知ってるんですか!?」
叫ぶ少女に兄は視線を俯ける。
「……本来、お前の記憶の封印は関連付けられる記憶に対しての刺激を受けない事で保たれる。だが、此処に来てコレがお前に必要となった。それはつまり、コレの使用で封印された記憶に関連した記憶が刺激を受け続ける事を意味する」
「つ、つまり、コレを持っていれば私の記憶が……」
「そうだ。少しずつ甦るんだ」
「その記憶って言うのが何か知りません。でも、それって本当に封印しなきゃいけないものなんですか? それにコレが何なのか。まだ、兄さんの口から聞いてません」
「……父さんと母さんが嘗て研究していたものの片割れ。そして、お前が身に付けている【崩燼機関】……その本当の形だ」
「本当の形?」
「渡してくれるか?」
「は、はい……」
青年の求めに応じ、いつも空間圧縮を掛けて胸元にペンダントとして下げている【崩燼機関】が差し出される。
「元々は二つで一つのものだった。今は片方が失われ、その本当の力を顕す事も無い。だが、コレは間違いなく一つでもこの世界の全てと対の力となる」
「い、言ってる意味が分かりません?! そのハンマーみたいなのが世界と対とか?!」
青年が掌の中で元の大きさを取り戻した機関から紐を抜き、正方形の上に置いた。
ガチン。
そうの窪みに嵌った正方形がゆっくりと沈み込み、周囲のパーツが生き物のように形を変えながら内部へと引き込んでいく。
やがて、カチンと小さく音がすると不可思議な鋼で構成されるパーツの継ぎ目が内部から溢れ出した極小の歯車によって埋められ、滑らかな平面へと変化していく。
「ど、どうなったんですか? ソレ」
「……今までお前が使っていた機能は一部分。それも不完全な形のものを形式的に【崩燼機関】として使っていただけに過ぎない。しかし、今本当の形を得たコレは万全な状態として機能する。それに伴い全ての限界機構(リミッター)が開放可能になった」
「全ての? 今までのとは違うって事ですか?」
「ああ、違う。本当の力は出せないとしても、無限に力を吐き出し続ける事が出来る……それが【崩燼源動機関(ソルヴァス・オリジナル)】が持つ能力の一つだ」
「ソルヴァス、オリジナル? 無限……機関?」
「本来、お前の瞳と脳に施術されている【視宝泉(ジェミス)】もコレをリアルタイムで運用する為に開発されたもの……機能の全てを真に使いこなせば、一国を滅ぼす事も大魔術師や超越者達と渡り合う事も出来るだろう」
「ッ」
思わず目を見開いたエストリアが完全にただの金属の塊のようになったソレを見つめる。
「だが、忘れるな。コレを使えば、お前はきっと後悔する。使わなければ良かったと。どうして使わせたんだと。そうお前は戻った記憶と共に悔やむ事となる」
「………それでも」
妹が兄を真っ直ぐに見つめた。
「私、力が欲しいです。皆を守れる力が、このハガスで一緒に笑っている人達を守れるだけの力が……この間みたいに守られてばかりじゃない。そんな自分に成りたい……」
拳を白くなるくらいに握り締めて。
そう、決意を向けてくる家族にアーギストはもう何も言えず。
大きくなった。
昔とは違い自分の背中よりも前に駆けていくのだろう妹の身体を抱き締める。
「に、兄さん?!」
「………済まない……不甲斐ない兄で……済まない……お前を最後まで守れない兄で……」
「にぃさん………」
昔、そう呼んでいた。
拙い声で。
にぃさん、にぃさん。
そう呼んで背中にくっ付いて歩いていた。
けれど、今は抱き締め返す事だって出来ると。
彼女は自らを示す。
「謝ったりしないで下さい。兄さんが私の事を守ろうとしてくれていた事。伝わってきました……きっと、昔からずっとずっと守ってくれてたんですよね? 言いたくても言えなかったんですよね? なら、もういいんです。兄さんの言う後悔が何なのか。まだ、分かりませんけど……どんな事になっても……兄さんは私の大切な家族なんですから……」
しばらくアーギストは何も言わず手を震わせていた。
やがて、ゆっくりと離れた顔はいつも通り冷静で。
静かに頷きが返される。
「最後にもう一つだけ伝えておく事がある」
「何ですか?」
「……まだ推測に過ぎないが、イクス・ゼオ……彼に付いてだ」
「イクスさんに?」
「お前は彼が好きか?」
「な、何いきなり言ってるんですか!?」
「いいから、答えてくれ。好きか?」
「答えないとダメ、ですか?」
青年の真剣さに逡巡したのは僅かばかり。
微かに頬を赤くしてエストリアが頷く。
「そうか。なら……」
少女の両肩に優しく手が添えられる。
「例え、どんな事があっても、その想いを貫け。どんな状況でも、どんな事情でも、関係なく。本当に好きならば、どんな真実と向き合う事になろうとも、決して目を背けるな。それがお前の想いとお前の願いを叶える唯一の方法になる」
「に、兄さんはイクスさんのこと……記憶が無いって話。何か知ってるんですか?」
「答えは自分の手と足で探して、耳と目で確かめろ。今はこれ以上の事を言えない。憶測で全てを語るのは愚の愚だからな」
妹の肩から手を離して。
ハンマーの柄を握った青年が小く空間制御の起動キーを呟く。
すると、今までエストリアの胸に掛かっていたのと同じくらいの大きさまで全体が縮まった。
柄の先の小さな穴に紐が再び結わえられて、エストリアの手に置かれる。
「【超越解釈領土機構(オーバー・エグゼゲシス・ドミニオン・システム)】略して【OEDS(エデス)】……たぶん、現在のファルティオーナにおいて唯一七聖女フルー・バレッサに追い付き、追い越した禁忌の力……それがこの機構の本当の名前……そして、お前の新たなる力だ」
「エデス……私の力……」
「神石創造の秘儀。距離の喪失現象。表裏無き機構。禁断の粒子。その全てに人の意思と技を加えた黒き匣……父さんと母さんと僕からの誕生日プレゼントだ。受け取って欲しい」
「あ……そう、言えば。今日って」
ハッとして少女が自分ですら忘れていた事を思い出した。
「十五歳のお誕生日おめでとう。ハイダル」
「―――」
ずっと、忘れられているものと。
もう、期待なんてしていなかった記念日。
母と兄がそうせざるを得なかった理由をようやく彼女は自覚した。
あの日もそうだったのだ。
父の研究室にわざわざ迎えに行ったのは……お祝いの言葉が欲しかったから。
でも、そんな願いが叶う事は無く。
彼女達の幸せは、彼女達のいた国は、崩壊した。
ずっと、逃げているのだと。
ずっと、忘れていたいのだと。
そう過去に対して母と兄が思っていると感じていた。
でも、それは違った。
違っていたのだ。
母も兄も過去を忘れたかったのでは無かった。
守る為だった。
自分をずっと守り続ける為だった。
何も知らずに生きていけるように。
何も思い出さず生きていけるように。
そんな心からの気遣いだったのだ。
(そっか。そうだったんだ……それなのに私は……一人だけ守られてる事も知らずに……)
温かなものが、瞳から一筋、流れ落ちて。
少女は自分が愛されているのだと知った。
(良かった……生きていて……良かった……自分を諦めなくて……っ)
あの全てが緑炎に沈んだ日。
闇の中で少年は言った。
『行こう。皆待ってるよ。この仮面に書かれた名じゃない。エストリアを』
ずっと背中を追い掛けて、ようやく背中を追い越して、今本当の事を知らされた。
前に進み続ける限り、辛くても苦しくても、いつかは報われる日も来る。
待っている人がいると教えてくれた少年に今こそ、彼女は伝えたい想いがあった。
「兄さん」
首に再び紐を吊るして。
「何だ?」
少女は今まで生きてきた中で一番の笑顔を浮かべる。
「行ってきます。それと……ずっと、守ってくれてありがとうございました!!」
頭を下げた妹が自分の部屋へと駆け出していく。
その背中を見送って。
ようやく“妹離れ”した青年は苦笑する。
何処か残念そうに。
まるで父親のように。
「ああ、行って来い。お前の幸せを祈ってる」
全てを祝福するのは何も神だけではない。
愛しい者の幸せを、どんな障害の先にも願う。
それがきっと人間という生き物に違いなく。
その日、青年は親友の家に泊まる為に出掛けて、夜帰ってくる事もなかった。
『オマエなぁ……』
迷惑そうな友人に彼が呟いた事は曰く。
『男に妹を盗られた兄の愚痴にくらい付き合え』だった。
今、交わろうとする少年と少女の逢瀬は静かに……そして、ゆっくり更けていこうとしていた。