第三章四十八節「落ちぬ涙影」
―――亡郷都市アイウィス第一層。
「イクスさん!!」
「大丈夫」
少年の蒼き鞘から抜き放たれた四種の鋼が入り混じる刃。
その煌めきが殺到していた新たな敵。
六つ足の巨大蟲。
【不叶(ネガティオ・ヴォルント)】
無数の瞳に仮面を付けた蜘蛛の足を全て薙ぎ払った。
ドゥッと最初の蟲が倒れ込み、少年が後ろへと跳躍すると同時にその20m以上背後で攻撃準備をしていたエストリアの巨大ハンマー【OEDS(エデス)】から上空に真白い輝きが打ち上げられる。
直径3m程の光の玉がまるで東部の玩具である剣玉の如く。
振り下ろされる方向へと落ちた。
「熱量開放!! 防御方陣展開!!!」
ガオォオオオオオオオオオオオオオオオオン。
猛獣の鳴き声のようにも聞こえる独特な破裂音と共に炸裂地点に太陽が産まれた。
あまりの威力に数十m以上離れているジルムスやエストリア、アーギストのところにまで熱傷を免れないだろう暴風が吹き荒れてくる。
しかし、事前に打ち合わせしていた通り。
ジルムスの空撃左官陣とエストリアの【OEDS】が生み出す防御方陣が全ての熱量を防ぎ切った。
爆裂した付近に着地したはずの少年も美紗もアーギストの短距離転移による支援で三人の後方へと退避していた為、怪我は無い。
アイウィスに生まれた太陽はすぐに消え、再び静寂と闇と月光が全てを覆っていく。
残ったのは爆風に消し飛んだ周辺の建造物の瓦礫と何も無い爆心地だけだった。
威力のみを見れば、半径20m内の生身の生物は生存不能だろう。
巨大な熱量の封じ込めと開放。
至ってシンプルな攻撃方法だったが、それ故に相手にとっては対処方法が無い時点で必滅だったに違いない。
「イクスさん!? 美紗さん!! 大丈夫でしたか!?」
振り返って二人に駆け寄ったエストリアが尋ねる。
「うん。何とも」
「良かった。美紗さんも大丈夫そうですね」
「え、ええ……」
何処か冴えない顔を隠すように鬣少女が視線を逸らした。
その事にも気付かず。
エストリアは二人と共にアーギストの処へと向かった。
「これであの蜘蛛は全滅……僕の推測が正しいなら、そろそろ」
青年が呟いた時だった。
キラキラと燐光が空に立ち上っていく。
「何が起こったんですか? 兄さん」
「行ってみれば分かる」
そう言ったアーギストが全員を伴って、数分の距離を精確に歩いた。
廃墟となった街の中。
中心街だったはずの深淵が見える道の中心。
地面に巨大な仮面が現われていた。
その仮面に刻まれた名は曰く。
【鍵穴(エクサランドゥム)】
「あ、これってこの間の鍵の?」
地面に張り付く仮面を見つめてエストリアが兄に尋ねる。
「ああ、色々と調べてはみたが、あちらの僕がアクセス出来る智識では鍵に付いての解析は不可能だった。だが、再び此処に来て現われた蜘蛛の化物に【不叶】と名前が付いていたわけだ。それでピンと来てな」
「どういう事ですか?」
アーギストが眼鏡の蔓を押し上げる。
「蜘蛛(ちちゅ)の網(あみ)という東部の言葉を思い出したんだ」
「チチュのあみ?」
「到底望みの叶わない事、という意味らしい。それで僕達の望みと言えば、何か?と考えれば……」
「それって下に行くことですよね?」
「そうだ。僕らにとってアイウィスの事態を解決するヒントは下層域にある。少なくともこの上層部分にそれらしきものは見当たらなかった。この間、採取した花にしても解析がまだ出来てない。そうである以上はもっと情報が必要なわけだ。奥に進もうとする僕らの前に尤もらしい言葉を刻んだ仮面が現れる。となれば、怪しいだろう?」
「確かに……」
二人のやり取りを聞いていたジルムスが深淵の縁を覗きこみながらげんなりした様子となる。
「わざわざ化物退治するより、此処を降りた方が早ぇんじゃねぇのか?」
「行ってみるか? その深淵内部を計測した結果を身を持って知りたいなら、だが」
「ヤバイのか?」
「空間の捻れと断裂と歪曲で一定以上の体積がある物体は……まぁ、レディーの前では言えないような状態になるとだけ言っておこうか」
「ああ、そうかよ。はぁ……」
ジルムスがスゴスゴと彼らの下に戻ってくる。
「で、だ。望みを叶えられないとか抜かす蜘蛛の化物と倒したから、この仮面が出てきたって事でいいのか?」
「何かしらの反応があると踏んだ僕の推測は正しかった。だが、これが潜れる門のようなものなのかは解析次第だ。勘だけで物事を進める程、僕は愚かじゃない。この地点をマーキングした。次に来る時までに結論を出そう」
「結局、また帰るのかよ」
「焦ったら負けだ。仮面と周囲の現状を記録したら帰ろう」
「わぁった」
ジルムスがアーギストに背を向けて周囲の警戒にウロウロし始める。
「……」
廃墟の中。
静寂に木霊するのは彼らの息遣いばかり。
だからかもしれない。
少年はずっと黙っていた美紗を見つめていた。
「大丈夫ですか? 先輩」
「え? え、ええ、別に何ともありません。それより警戒しなくていいのですか? イクス・ゼオ」
「ジルムスさんに任せるのが一番良いと思ったので」
「そ、そう……」
話は終わったとばかりに美紗が視線を逸らす。
何かまた嫌われる事でもしたのだろうかと少年が脳裏を浚ったが、そんな事をした覚えは無かった。
「イクスさん」
アーギストが記録に掛かり切りで手持ち無沙汰になったのか。
エストリアが少年の隣までやってくる。
「あ、あの……魔力、足りてますか?」
おずおずと切り出した少女の顔は仄かに赤い。
何処か浮付いたようですらある。
少年は大丈夫だと言おうとした。
しかし、それよりも早くアーギストの記録完了との声が上がる。
「も、もぅ!! 兄さん!?」
思わずこれからという時に邪魔が入ってしまった為、舌に乗せようとした言葉も言えず。
少し理不尽と自分で思いつつも、エストリアが兄の空気の読めなさにプリプリと怒って文句を言いに歩き出した。
「あはは……」
「………」
苦笑する少年の横顔を見つめながら、美紗が僅か視線を翳らせる。
「貴方は……」
「?」
振り向いた少年に獅子少女が何かを言う前にアーギストから【崩燼機関(ソルヴァス・エンジン)】のカウントダウンをするように声が掛かる。
二人が懐から取り出した黒き正方形の一面の突起に手を掛けて、零の声と共に押し込むと転移方陣が展開された。
廃墟となった都市から消える寸前。
もう声も届かない最中。
彼女は呟いた。
私の妹を知っているの、と。
全員が消え去った後には何も残らず。
【ひひひ】
と、何処からか響く声だけが夜を渡っていった。
*
―――アルヴァス・カレッジ講堂昼時。
本格的に梅雨が到来していた。
十種競技も終わった時節。
そろそろ雨季だと燥(はしゃ)ぐのは海洋型の亜人達だ。
魚、海豚(いるか)、鯔(とど)、人魚、稀少ではあるが、それなりの人数いる彼ら水辺の住人達は過ごし難い夏の季節前のカーニバルだと言わんばかりに仲間内で賑やかな時間を過ごす。
故に構内ではそういった特定の亜人限定の生徒主宰の催しが多く。
また、それに乗っかるパーティーやお祭り好きな生徒達が明るい話題を提供する。
今日は雨。
いや、今日も雨。
ここ数日降り続いている為、室内の湿度は少し高かった。
「ねぇ。イクス」
「どうかした?」
昼時。
講堂で集まってきた面々。
ウル、シルルゥ、エストリア、美紗達と食事をしていた少年が璃紗の方を向く。
「イクスはお祭りに行ったりしないの?」
「お祭りって、校内に張り出されてるやつ?」
「うん。海の亜人の人達が主にやってるんだって。従者の人達が璃紗にも招待券を配ってくれたの。これ」
璃紗がゴソゴソと小さなカードを懐から取り出して少年に渡す。
「水貴祭(すいきさい)……水着での来訪をお待ちしております?」
「何だかね!! 他の人に聞いたら、校庭を魔術で大きな水の宮殿にして、一杯催しがあるんだって!?」
目を輝かせた璃紗の言葉に少年は行きたいんだろうなぁと納得した。
いつもいつも少年の世話で苦労している少女である。
自分の従者として、娼婦として、毎日毎日頑張っている姿はとても眩い。
「いいよ」
「え?」
だから、璃紗が行きたいと言うのであれば、別に少年が拒む理由は何一つ無かった。
「お祭り。一緒に行こっか?」
「いいの!?」
ズイッと身を乗り出して来る小獅子少女の頭が撫でられ、頷きが返される。
「やったぁ!? えへへ……」
「「「……」」」
思わずにやけた璃紗の様子に他の面々がおずおずと話に割って入り始める。
「あ、あの~イクスさん。私も一緒に行っちゃ、ダメ、でしょうか?」
「エストリアも行きたいの? 別にいいけど」
「あ、はい!! よろしくお願いします!!」
「う、うん」
「イクス!!」
「ウ、ウル?」
今まで食べていたテイクアウトの小さなサンドイッチを両手で持ちながら、ズィッと武芸術武部長が少年の方へと身を乗り出した。
「わ、わたくしもその日なら、あまり用事が無いの。その……貴方にはいつも色々と世話になっているから……部活を休んで一緒につ、付き合ってあげてもいいのだけど。どう?」
「ウルも一緒に行く?」
コクコクと至極真面目に高速で頷いたウルが頬を染めつつ、再び食事へと戻る。
「イクス。お魚、イッショに食べよう!!」
シルルゥが決定事項の如く宣言した。
「お魚みたいな人達がお魚を出してくれるかどうかは分からないけど、ご飯は一緒に食べられると思うから、まぁ……」
「イッショ♪ イッショ♪」
嬉しそうに頷いたシルルゥが一人牛肉サンドの18個目をパクリと口にした。
「あ、先輩も一緒に来ませんか?」
この流れで美紗を誘わないのは不自然だろうと少年が訊ねる。
「え? あ、その……何? イクス・ゼオ」
聞いていなかったのか。
上の空だった美紗が少年に視線を向けた。
「お祭りに皆で行こうって話で。もし良ければ、先輩もどうですか?」
「お祭り……」
「美紗さんも一緒に行ってくれたら、璃紗凄く嬉しいです」
「っ」
にっこりとさん付けで自分を呼ぶ璃紗に美紗の瞳が揺れた。
「わ、私は……」
「?」
「あ、あの子も連れて来ていいの? イクス・ゼオ」
「関係者なら別に構わないみたいですけど」
少年がカードを一瞥して頷く。
璃紗の笑みに今にも唇が別の事を口走ろうとするのをグッと堪え、しばしの沈黙の後。
美紗がゆっくりと頷いた。
「あの子も、瑠紗も喜ぶと思うから、行きます。リーシャ…さん」
「はいっ」
皆でお祭り。
その心躍る想像に璃紗が破顔した。
「……」
愛らしくも溌剌とした輝き。
その本来喜ぶべき表情に胸を大きく締め付けられて。
美紗が視線を伏せる。
「あの、ば、こほん。美紗さん」
「?」
美紗が視線を上げると女性陣が全員自分を見ていると気付いて固まった。
何か、悟られただろうか。
何か、気付いただろうか。
そもそも、何を自分は畏れているのか。
否、知られるべきだと思っているのか。
脳裏に形容し難いものが廻って。
「瑠紗というのが、あのエルフの子の名前ですの?」
「え?」
ウルの声を皮切りに少女達が興味津々の様子で話し始める。
「美紗さん。御自分の名前から名付けてあげたんですか?」
「え、ええ……いつまでも名前が無かったら、可哀想ですし」
エストリアに何とか美紗がそう応える。
「ルシャ? あの子。ルシャ?」
「瑠紗……璃紗と同(おん)なじ響き……何だか嬉しい」
シルルゥも璃紗もエルフの少女瑠紗とは武芸術の大会以降会っていなかった。
だからこそなのか。
また、会えるかもしれないと笑みが浮かぶ。
「でも、リーシャはリーって伸びる」
「そう言えば、リーシャさんは自分をリーシャって呼びませんよね? イクスさんが付けてあげたんですか? 愛称は」
「え、それは、その……」
シルルゥとエストリアの最もな発言に偽名だからとは言えず。
しかし、フルネームを答えるわけにもいかず。
微かに曖昧な笑みを浮かべた従者へ少年が助け船を出す。
「出会った時に、ね?」
「じゃあ、これからはリシャさんって呼びますね」
エストリアの言葉に璃紗が少し恥しそうに頷いた。
「……」
少年と璃紗を見ていた美紗が僅か瞳を細める。
わいわいと雑談に花を咲かせる少女達。
その輪に馴染めていないと感じた美紗が食べていた途中の弁当を仕舞い始めた。
「先輩?」
少年が気付いて声を掛けるも。
「済みません。講師の方に仕事を頼まれているのを思い出しました。皆さん、では」
軽く頭を下げ、そそくさと場を後にする背中を全員が見つめた。
「じゃあ、お祭りで」
璃紗の声に僅か振り返った後。
黄金の鬣のような髪がドアの先へと消えていった。
*
奏美紗。
アルヴァス創成期より存在する最古の大貴族。
奏家の一人娘。
本来、それは覆らないはずの肩書きだ。
そんなのは考え付きもしなかった事だ。
ずっとずっと父の背中を負い掛けて来た彼女だが、家の事を幼い頃からよく教育されてきた。
少々、お転婆ではあるかもしれないが、それにしても奏家の異種としての特性。
獣のとしての本能が強いからだと問題にはされてこなかった。
“九十対十(ナインティ・テン)”と呼ばれる存在だろうと。
彼女の事を父母は大そう可愛がったし、自分の身体的境遇に負けないだけの強さも身に付けさせてくれたのだ。
だから、美紗は両親に感謝しかない。
だが、そんな思いとは裏腹に問いへの答えは返らなかった。
数日前。
両親と共に揃って食事する機会に恵まれた美紗は十種競技では残念だったと励ます父と母に尋ねた。
喉がとても渇いた事は疑いない。
脈拍も高かっただろう。
真面目な顔で娘に尋ねたい事があると言われて、二人とも最初は真剣な様子だった。
しかし、彼女の問いが発されるとその顔は僅かな驚きに支配され、同時に口は重く閉ざされてしまった。
『私に妹がいるとは本当ですか』
肯定も否定もされず。
思わず声を荒げた少女に対する父の言葉は一言。
忘れろ、だった。
それは暗に存在を認めた発言ではあった。
その時、全ての疑惑は確信へと変わった。
以来、彼女は父と母よりも瑠紗と部屋で食事を取っている。
数日で出来うる限りの伝手を使った結果。
集まった情報は四つ。
数年前に彼女の母親は妊娠していた事。
妊娠していた子供が何らかの異常を抱えたらしく医者に掛かった事。
そうして出産した後、まだ幼い嬰児がとある施設に預けられた事。
託された施設が特殊な国の補助を受ける場所であった事。
一体、妹がどんな所に預けられたのか。
警察機構で培った情報収集能力の全てを使って詮索した結果。
出てきた結論は一つ。
彼女の血を分けた姉妹は男の慰み物になるべく娼館へ受け渡されたというものだった。
無論、綿密に調査を行った為、施設の背後関係や創設理由、今も運営されている背景は情報としてある。
身体的な不利の為に堕ろすのは忍びないと預けられたのであろう事も理解は出来た。
だが、しかし、そうだとしても、彼女は自分の亜人貴族という地位と誇りが何か虚しく思えた。
同じ産まれを背負い。
“九十対十”の自分よりもハンデを抱えて。
男に媚を売って生きる。
何か一つ違えば、自分がそうだったのかもしれず。
(確かめなければ)
ようやく。
少年の傍らで笑う少女の笑みを見て踏ん切りの付いた奏美紗は昼間から早退した足で広大な敷地を持つ館の前に足を運んでいた。
既に相手方への連絡は入れている。
警察機構で培った人間関係が今ほど大きな力となった事は無い。
本来、その施設。
月兎亭は会員制であり、会員の紹介無しには如何なる場合も立ち入りが出来ないからだ。
偶然にも彼女の知る人物の一人が会員の一人と知り合いであった事は天啓だっただろう。
鋼の門扉が開いて。
館の前まで行くと人影が一つ。
首筋に鰓(えら)を持つ十代と思しき少女が一人。
彼女の来訪を待っていた。
「ようこそ。奏美紗様」
「貴女は?!」
美紗が驚く。
互いに一度だけ在った事のある間柄だ。
しかし、考えてもみれば、出会う可能性は確かにあったのだ。
「お久しぶりです。色々とお聞きしたい事はあると思いますが、まずは落ち着いて話が出来る場を設けましたので。そちらにご案内致します」
「お願いします」
女給姿の少女に導かれるまま。
開いた扉を潜って。
彼女は月兎亭へと入った。
内部では客もいない広大なエントランスを少女達が行き交っている。
客として歩く美紗に老いも若きも様々な年齢の女達が立ち止まり、頭を丁寧に下げた。
「……」
やがて、応接間なのだろう開けた一室に通された美紗が促されるままに低いテーブル越しのソファーへと腰掛ける。
「責任者の方は?」
「現在、出ておりまして。不在です。ですが、ご心配には及びません。実務の統括はこのベルンが行っておりまして」
「貴女が?」
落ち着いた亜人貴族好みの飴色の室内。
紅の絨毯を静々と進んだ少女がそっと腰を折って頭を下げた。
「申し遅れました。私がこの月兎亭の寮長ベルンと申します。卑しい身分の出故、姓が無いのはご容赦の程を。奏美紗様」
「い、いえ……」
美紗に断りを入れてベルンが対面のソファーへと腰を下ろす。
「今日お訪ねになった理由は名前を伺った時から存じております」
スッと美紗の内心でスイッチのようなものが入った。
これから重要な情報を得る。
しかし、それに動揺するようでは詳しい事情を訊く事は出来ない。
警察機構に入ってから、自分を切り替えられるようになれと彼女はヴァルから教えれてきた。
年上の相棒が今も自分を支えてくれている。
その事実が全てを問い詰めたい衝動に駆られた彼女を冷静にさせた。
「妹が預けられた経緯。そして、妹がどうして……どうしてアルヴァス・カレッジで生徒の女給をしているのか。私が知りたいのはそれだけです」
「ご尤も。ですが、まずは一つだけお断りさせて頂きたいのですが」
「何でしょうか?」
「先日、ご両親から連絡がありました」
「……そう、ですか」
先手を打たれる事は想定内だったが、それにしても此処まで来て何も話せないと言われるのかと美紗の顔が厳しいものになる。
「迷惑を掛けるかもしれないが、真実だけを話してやって欲しいと。お母上様からは涙ながらに……」
「母が?!」
思わず驚いたのも無理はない。
妊娠や出産なんて事を娘に隠していたのだ。
それが如何なる意味を持つのか解らない程、美紗も子供ではない。
全てを隠蔽し、墓まで秘密を持っていく気だったのは間違いないのだ。
それでも此処まで来たなら、全てを話すべきだと感じたのか。
それとも娘に隠し事は出来ないと諦めたのか。
どちらにしても、彼女には意外だった。
「本来、こういう事態があったとしても、当館。月兎亭では決して外部に秘密を漏らしません。しかし、秘密の当事者の方からの要請や幾つかの例外というものはあります。今回はその一例として……あくまで此処に来た一人の赤子の話をしたいと思います。よろしいですか?」
「分かりました」
「情報の取り扱い云々はこの場においては言う必要性も無いでしょう。では、まず事の起りから」
そこからベルンの説明はとても流暢なものだった。
数年前。
“いつものように”預けられた赤子。
肉体の大きな秘密を持って生まれた女児が月兎亭にて娼婦として教育されていく様子。
まるで全てが昨日の事のように話すベルンに美紗は釘付けとなった。
誰々のお乳でなければ決して呑まなかった頑固な一面。
生えたばかりの歯で偶然離乳食に入っていた魚の骨を丸齧りした事。
好奇心が旺盛で克己心が強く。
何にでも興味を示しては失敗して怒られるばかりだった幼少期。
誰かが怪我をして泣き出すと自分も泣いてしまうような優しさを備え、他者の痛みの解る性格。
「…………」
聞いているだけで。
自分の事のように想像出来てしまうような毎日。
本当に嬉しそうな笑顔で妹の事を話すベルンに美紗はいつの間にか感謝すらしていた。
それに一切の嘘が無いと。
アルヴァス・カレッジで見て知っているから。
彼女は最後まで話を聞き終えた時、ありがとうございますと目の前の少女。
自分の妹を見守ってくれていたのだろう相手に頭を下げた。
「頭をお上げになってください。これは確かに彼女の記録。ですが、此処は娼館。無論、ただ無垢に育てたような覚えもありません。この館に生きた以上は娼婦。その事実に一片の嘘も無いのですから」
頭を上げた美紗が見たのは静かな佇まいの女性(にょしょう)。
しかし、今は母親のような慈愛もその内に見出す事が出来るようになっていた。
「あの子の力は特別です。これから多くの困難があの子を襲うでしょう。国家的な力があの子の日常を壊すかもしれない。それでも私は今も本当の意味で心配はしていません。何故なら、あの子は特別なお客様に見初められ、身請けされた。まるで冗談のような優しさと強さを持つ方に……」
「イクス・ゼオ」
美紗の呟きにベルンは肯定も否定もしなかった。
「あの子を育てた者として。あの子の幸せを考える一人の母として。あの子の成長を見守った一人の姉として。あの子の巣立ちを見送った一人の娼婦として。断言します。あの子は幸せです。あの子の前途に如何なる困難があったとしても、あの子はきっと耐えるでしょう。自分を見初めた方の為に」
本来なら少年との関係を問い糾す気でいたはずなのに美紗の口からは何も出なかった。
「あの子はもう自由です。あの子を身請けした方が許すなら、どんな事も出来る。この館の一員だった頃とは違い、本当の意味で客を取る事も無い。館の規律に縛られる事もありません」
「そうですか……今日はお話をして頂き、ありがとうございました。ベルンさん」
「いいえ、こちらこそ」
頭を下げたベルンの前で美紗が立ち上がる。
「お帰りになる前に二つ程、いいでしょうか?」
「何か?」
ベルンが真っ直ぐな視線を正面へ向けた。
「まず一つ。あの子は……お客様を心の底、魂の底から愛しています」
「!?」
「あの子がどんな道を選び、どんな風にお客様を愛するのかは分かりません。ただ、どんな事になろうとあの子はお客様の為に全てを擲(なげう)つでしょう。これは娼婦でも母でも姉でもなく。女としての確信です」
「―――」
「美紗様が何をお考えであれ。あの子を今縛るものはあの子が自らに掛けた呪い。決して、産まれや娼婦としてのものではない。況してや、誰かに強制されたものでもない。ただ、永遠に解けない愛(こころ)の頚城。そう理解しております」
「もう、一つは?」
何とか。
本当に何とかそう返して。
美紗が何処か落ち着かない様子で訊ねる。
「あの子は助けを求めているわけでもなければ、自由になりたいわけでもない。そして、家族すら求めていない」
「ッッッ」
彼女の思考が今度こそ本当に停止した。
「他者を想い、想われ、共に過ごす。あの子がもしも家族を求めるとすれば、それは産まれや血筋の事ではなく。傍にいてくれる相手と自分の想いを形にしたいと願った時なのです」
顔を俯けて。
しばし、彼女が沈黙する。
「出過ぎた真似をしました。ご容赦を」
「……いえ」
ゆっくりと扉へと向かう背中に最後の声が掛かる。
「扉の前に人を待たせております。そこにいる者から水晶玉を受け取っていってください。あの子が如何にお客様を愛しているか。この館の守護を司る身がお伝え出来る限りはお教え致します。これはあくまでこのベルンの記憶。館内の情報に当たりませんので。では」
ずっと背後で頭を下げている少女からまるで逃げるように美紗は部屋の外へと出た。
歩き出した背筋にはジットリと汗が浮いている。
(私はただ……私は……)
熱に浮かされたような足取りで玄関先まで出て。
途中、待っていた猫型亜人の少女から水晶玉を受け取って。
もう何も耳に入らない様子で彼女はフラフラと月兎亭の門扉を潜った。
「――――――」
世界が歪んでいる。
いつも正しい事をと胸に刻んで生きてきて。
今更に正しさでは救えないものがあると突き付けられて。
けれど、納得出来てしまう程に学校で見る姿が煌めいていて。
恋する乙女の輝きが一言では言い尽くせない過去を背負った末のものだと理解した。
最初から解っていた事だ。
そう内心で呟いてみても。
納得出来る答えなんて無い。
自分の知らないところで妹は生きてきて。
それでも諦めずに前を向いて愛する者と出会った。
それが彼女の知り合いだと言うのは全てを横に置いておくとしても在り得るだろう。
だが、その男は、少年は、破滅の先を歩む者。
境界に向かい、己の為にと嘯いて、争う戦者。
大き過ぎる彼。
自分とは違い過ぎる彼。
何もかも敵わない彼。
任せておけば安心だろう。
きっと、何一つとして問題なんて無い。
そう、まったくない。
正義感に駆られて行動を起こした奏美紗とは違う。
少年は“優しい”のだ。
(でも)
何かしたかった。
してやりたかった。
どんなにそれが傲慢なものだとしても、彼女は姉なのだから。
しかし、言うまでも無く。
(私にはしてやれる事が無い……)
瑠紗。
エルフの少女ですら、自分の手元に置いてすら、何かをしてやれているという実感が、彼女には無い。
悲しい程に彼女が幸せにしたい人の誰も彼女を必要とはしていない。
本来、それを喜ぶべきなのだ。
絶対に応援してやるべきなのだ。
せっかく救われたのだから。
通じ合っているのだから。
(なのに……私は……)
心の奥から溢れ出すもの。
それがとても醜い感情だと自覚した時、美紗は膝から崩れ落ちそうになった。
薄っぺらな自分の善意へ絶望しそうになった。
「ああ、私は……あの子達の幸せより……」
一粒、涙が落ちて。
いつの間にか薄暗くなっている周囲に気付かず。
背後で溢れ出す霧にも気付かず。
彼女は巨大な異相の穴に輝く冷たい緑炎に飲み込まれていった。
両手で覆った顔に溢れ出すのは屍蝋。
【ひひひ♪】
何処か遠い場所で嗤い声がして。
その日、奏美紗の姿はハガスの何処からも消え失せた。