第三章五十節「仰ぎ見る者の讃歌」
『旅人よ』
『どうして彼女を救おうと言うのか』
『矮小なる無知蒙昧に過ぎる業を何故そのままにはしておけないのか』
『終わりを運ぶのは自らの行いであると知りながら、救うと言うのか』
『そこまでの価値があると言うのか』
『炎に没した都はもうすぐ』
『奴らは契約が果たされるまで止まりはしない』
『人は人の業にて亡ぶべし』
『なのに、足掻こうと言うのか』
『戦おうと言うのか』
『傷付こうと言うのか』
『それに一体どんな意味があると言うのだ』
『旅人よ』
何百何千の者達が嘲笑う。
何百何千の者達が呆れている。
それでも幾人かは囁く。
やってみればいい。
そう、言って、肩を竦めた。
救いたいなら救え。
全てはお前次第だ、と。
『よぉ、随分と苦労してんな。あの子を置いて逝く気か? やれやれ……あの子に此処で泣かれるのも胸糞悪いんでな。この“師匠”が飛びっ切りの呪文を唱えてやろう。だが、その分の駄賃は貰うぞ。これは契約だ。忘れるな』
老人の老婆の男の女の子供の少女の青年の少年の全ての声が順に響き始める。
この世の人を見続けてきた者達。
人を虐げ、人を殺し、人を学び、人を守り、人を征し、人を愛し、人を願った、全ての者達。
今は亡き泡沫。
だからこそ、天足る彼ら。
まったく微々たる力にて歴史に刻まれた誉れ高き星々。
それが頭部と片腕のみの有様で滅ぼされる寸前の少年を蓋う星図となり、顕現する。
【恐(かしこみ)】
【畏(かしこみ)】
【賢(かしこみ)】
【給(たも)う】
【祖(そ)は幽愁の御霊にして寡国(かこく)の徒也】
【然(しか)らば守人(もりびと)、鬼気(きき)として之(これ)に応え】
【その千早降(ちはやふ)る賓(まろうど)】
【禍截(まがた)ちの劍(つるぎ)にて亡き者とす】
【なれど、无(む)を屠(ほふ)ること能(あた)わず】
【民草(たみくさ)、彼(か)の者を名付けん】
【曰く】
【真(ま)なる皇(おう)】
【されど、異邦の字(あざな)にて】
【男御子(おのこ)、自らを称す】
【我は死魔の化身にして、化物(けぶつ)の王】
【魔王、と】
「行けよ。お前が主役だ。我らの全てを継ぎし者、この未来野郎!!!」
光が、溢れた。
*
―――アルヴァス・カレッジ校庭水貴殿異相大広間。
『あ、はは……あははは……あははははは!!!』
黄金の萌ゆる炎。
鬣と一体化した翼。
金色の【天環(ハイロウ)】を纏う者。
天使。
否、天使だったもの。
今は矮小な彼女である“彼ら”は翼に宿る瞳となって全てを見つめていた。
跡形も無く消し飛んだ。
血の跡すらも残らない。
辛うじて異相が崩壊しなかったのが彼女の最後の良心なのか。
それとも少年が攻撃を甘んじて受け入れたからなのか。
判断する必要も無いだろう。
今、“彼女”は“彼ら”に飲み込まれつつある。
そうなれば、やる事は結局のところ一つだ。
“与えられた命題”の解消。
それは単に存在を維持するだけでも達成される。
異相側から溢れ出す霧はやがて水の宮殿を制圧し、現実へと漏れ出すだろう。
黙って見守っているだけでいい。
他に何かをする必要も無い。
『イクス・ゼオ。不死身じゃなかったの? 不死者なら立ち上がってみせて。あの子達を幸せに出来るって言うなら、立ち上がって見せなさい。見せな、さい、よ……ッ』
涙一粒。
それが彼女の瓦解を加速させる。
やがては水に落とされた一滴の黒の如く。
薄まって消えてしまうだろう。
だが、それまでの僅かな時間を彼女はただ慟哭する事に費やした。
『黙ってないで!? 何か言ったらいいじゃないッ!! いつもみたいに余裕の顔で笑って見せなさいよ!! 死んだって死なないんでしょ!! 私は貴方なんか大嫌いッ、嫌いッ、嫌いッ、嫌いッ!!』
乾いた黄金の雫が水に溶けていく。
『正しければ、みんな上手くいくはずだったのにッ!! 貴方がいなきゃ、私が幸せにしてあげてたはずなのにッ!! 私、何してるの……こんな、こんなッ!! 私―――もぅ、あの子達に顔も見せられないッ、う……ぅう……ぅぁ……っ』
美しき黄金は世が照らす灯火。
自分の涙が溶けたソレに如何程の価値があるかと気付いた時。
もう、彼女の心は絶望すら朽ち果てようとしていた。
宵が迫る。
紫雲に染まる神殿と化した間に一人。
ただ、独り。
己すら見失いそうになった正義の徒が啼く。
『私、悪くなんて無いッ!! 貴方の事なんか羨ましくないッ!! 貴方は女を弄ぶ卑劣漢でッ、あの子を身請けした最低の男でッ、あの子達から私の代わりに慕われてるッ……私なんかじゃ―――敵わない……優しい人で……ッ』
もう己の名前すら解らなくなった少女が叫ぶ。
『貴方が、貴方がもしもあの子達を守りたいならッ、救ってみせなさいよぉ……ばかぁ…っぐ…ぅ……っ』
迫る夜に押し潰されていく。
終わりが近付いている。
届く事の無い嗚咽が霧に隠され、没していく。
もう何もかも遅いと。
胸の内から溢れ出した後悔で顔もグシャグシャにして。
取れない仮面の内に彼女は消える―――はずだった。
「じゃあ、そうさせてもらっていい?」
『―――ッッッ』
カシャンと地面に落ちた蒼き鞘。
その中で再び復元されていく刃。
柄が握られ、引き抜かれていく。
映し出される燐光。
指先から再構築されていく原子の繋がり、螺旋、分子、細胞。
剣身が鞘から落ちた時。
四種の鋼へ落日の刹那と共にいつもの笑みが焼き付いて。
『…ぁ……ぁあ……っ』
彼女は涙する。
「それと先輩って呼ぶのも何だか疲れてきたから、名前で呼んでも構わないかな」
『ぁぁぁ、ぁあ……っっ』
それ以外に出来る事なんて無く。
「僕は確かに、卑劣漢で最低の男かもしれないけど、一つだけ自分に約束してる事があるんだ」
夜より尚暗き外套を身に纏い。
少年が苦笑した。
「仲間は絶対に見捨てない。例え、この世の全てが敵になっても。君も、彼女達も、全員を救ってみせる」
翼が前回の一撃を上回る速度。
もはや動作時間零にすら近い一撃を少年に叩き込む。
その質量もまた速度に比例して見掛け上無限大へと近付いていく。
全ては天使だからこその技。
大陸なんて寸分手元が狂う必要もなく余波で崩壊し、惑星すら粉塵以下まで破砕するだろう黄金の御翼(みつばさ)。
防ぐ事すらおこがましい。
回避したところで意味が無い。
反撃なんて出来る速度でもない。
そのはずの力が、剣に留められていた。
力の凪いだ穏やかな世界に囁かれる文字列は常と同じ。
「閃剣が奥義の一つ」
ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――――。
世界が、揺れた。
空間が撓む。
本星より43万3232km地点。
突如として現われた運動エネルギーと重力変動の余波が膨大な出力となって、周囲の星間物質を灼熱、崩壊させ、金色の放射として星系外縁部に向かっていく。
恐ろしい力の全てを通し切った異相が崩壊し始め、水分子の全てが二人を中心に消し飛ぶ。
「飛ばせ【圏斬(けんざん)】」
本来、少年一人では到底賄い切れない魔力が剣に篭っていた。
だが、それ以外の全ての事象は少年の術が得た結果だ。
魔力刃の技の冴え。
その恐ろしき天使の力すら防ぎ切った原理。
全てはたった一人の女が超高位の邪悪を斬る為に産み出した人智。
【圏斬】
その最大の特徴は魔力による空間の干渉にある。
魔術による光の速度を超える転移の方式には幾つかあるが、その内でも別異相の空間を使った距離のショートカットを用いるのが、その剣技の原理だ。
剣は空間を解く為の道具。
そして、技は五次元以上の領域から通常空間への干渉を要求する。
時空間の連続に対して切れ目を入れるのだ。
励起した魔力で経路を拡大。
刃の占める空間だけを高次領域に引き上げる。
その上で時空連続体の結合を切り裂き、指定領域を幾つかの異相を挟んだ別の空間まで貫通、同化させる。
世界に規定された法則内で有効な物理事象は少年が選定、切り裂く事で地続きとなった空間内部へと送り込まれる為、ある程度は“無かった事”に出来る。
あらゆる事物を左右するのは宇宙の法則。
しかし、その法則が生きている空間とそうではない空間というものが存在する。
故に選定された空間内で熱量が存在しない、運動エネルギーが存在しない、という事もある。
現在、少年が展開した斬撃による空間の同化と転移現象はフィルターのように天使側からの攻撃を出来る限り無力化して遠方へと投棄していた。
転移を用いた空間防御。
高位魔術師にならば可能な芸当だが、少年はそれすら超えている。
何故なら現在知られているどんな転移の方式を用いたとしても、少年のやっている事は再現不能に近い。
魔力刃と経路の運用。
周辺異相領域の観測と選定。
高次領域から低次領域を認識する為に必要なマクロ的視野。
そのどれもを単なる智識と経験と反射と勘で補って行っているのだ。
天使の速度を超える早さで全てを終えるとなれば、もう完全に大魔術師ですら事前準備無しには不可能と言い切れるだろう。
『どうしてっ!!! 貴方はっ!!!!』
肉体が勝手に少年を攻撃しようとしているのを止められず。
しかし、天使の力そのものと化した己を動かせもせず。
彼女は、奏美紗は問う。
「前に言わなかったっけ」
空間が何処とも知れぬ虚無に彩られていく。
たった一撃だが、天使が本来振るう力を全て受け切った周辺異相が限界を迎えたのだ。
軋んで崩れ落ちていくだけ上等だろう。
「困ってる女の子は助ける。それが約束だから。可愛いなら尚更ね」
『なッ!?』
本当に現状を忘れてしまう程の狼狽。
染まった頬を隠す仮面がギチギチと変形し、まるで牙を向く獣の如く乱杭歯の顎(アギト)が吼えた。
「侵蝕された君達に同情もしよう。情けも掛けよう。でも、その子は、奏美紗は返してもらう」
片腕が仮面に喰われるのも構わず突き込まれた。
血潮の代わりに吹き上がる燐光。
黄金を塗り潰す温かな光り。
神の力ではない。
少年の力が彼女の眼前で舞い、仮面内部に一枚の方陣を描いていく。
ジタバタと黄金の翼が暴れようとしたが、その両肩にふわりと細い手が掛かる。
『拘束完了。残り23秒』
「ありがとう」
紫髪のメイドが少年の意を汲んで己の力を限界まで食い潰しながら天使を拘束する。
「我が名において命じる。人を導き、人を糾す器よ。その力の限りにおいて我が眼前の敵を滅すべし」
美紗の両手に持たれていた神器。
本来、天使達の使うはずのソレが鳴いた。
クォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ―――。
涼やかな硬質の音色が奔った途端。
ビキビキと美紗の纏う黄金が罅割れていく。
【ひひ?】
鬣と一体化した翼に浮かぶ瞳の奥。
何かが蠢き、困惑して。
黄金を砕く力に肩を竦めた。
「この神器は本来、天使達を人に戻らぬよう留めておく頚城。今更、武器として使おうなんてあの筋肉達磨だって考えないよ。でも、だからこそ今は逆利用させてもらう」
罅が完全に黄金の翼を蓋い尽し、破砕した。
【ひぃいひひひひひ―――♪】
何処か愉しげに声がその場から遠ざかっていく。
巨大化した仮面に片腕を食い千切られたまま。
少年が剣を捨てて倒れ込む少女を抱き止める。
しかし、仮面の下では未だ燐光が方陣を形成していて。
「残りの力を全部使ってこの子を璃紗の元に」
『機体破損率88%。転移実行後、機能回復までに四十八時間。その間、一切のサポートを行えませんが、よろしいですか?』
「問題ない。後は皆に任せる……それくらいは信頼してるから」
『分かりました。転移実行まで残り十秒』
もう殆ど虚無に飲み込まれ、全ての景色が消え去っている最中。
気を失っている少女の耳元に少年が呟く。
「抱き締めるのに理由なんて要らない。僕はそう思う……」
『転移実行』
【最従者(ディアコノス)】と共に転移方陣の中へ消えた少女がちゃんと妹の所までいけたかと気にしながら、少年は一人虚空に落ちて行った。
その空気の消え失せた空間で沸騰し始めた顔には満足そうな笑みと安堵だけが浮いている。
「後で謝らないと……」
最後の言葉が吐かれたと同時。
仮面を纏う無数の何かが彼の周囲を取り囲んで。
餌を求める魚の如く、群がった。
*
―――???
大きな館の庭だった。
野花(やか)の生えるままに色鮮やかな絨毯。
空は青く。
壁は白く。
遊ぶのは二人。
金色と黒。
姉と妹。
奏美紗と奏璃紗。
まだ幼いよちよち歩きの妹に何処か幼い姉が微笑む。
小さな蝶がひらりひらり。
飾のように髪に止まれば、微笑みは共に。
それを見つめて。
冷たい緑炎に焼かれた仮面が一人。
萌える鬣(たてみが)の乙女。
それがもう一人の彼女。
今も笑う己を見た屍蝋(しょうじょ)。
ザリザリとノイズが走って。
景色が、姉妹の像が途切れる。
残ったのは一人。
刃を振って、花を潰す程の本を庭で読む数年前の奏美紗だけだった。
「ッ」
仮面を両手が掻き毟る。
ガリガリと爪が痕を残す。
罅割れた景色の先に覗くのは新しい記憶。
本当の自分。
警察機構貴族警邏隊所属。
奏美紗。
容疑者と戦った。
犯人を逮捕した。
大きな勲章だって貰った。
凛々しい凛々しい写真の中で敬礼するのは亜人貴族か。
「これが私……これだけが私……誰とも出会わなかったら、疑問にも思わなかった私……」
絶望する程に薄っぺらい正義を抱えて。
悪を許さず、人に奉仕する。
ただ、それだけの存在。
『あ、美紗さん』
「?!」
振り返れば、少女が自分に笑い掛けていた。
『今、お昼を貰って来たばかりで。イクスと一緒にご飯食べませんか?』
礼儀正しい女給姿の小さなレディ。
笑顔が眩しい黒い小獅子。
「知らなければ良かった。貴女が妹だなんて……璃紗……」
『あ、今日はどうしたんですか? イクスに用事? はい。今、呼んできます』
『先輩?』
出て来た少年の姿。
それさえなければ、彼女は自分が何も出来ないただの小娘に過ぎないと知らずに済んだ。
けれども、出会ってしまった。
交わってしまった。
一緒に居れば解る。
どんなに狭い世界で狭い価値観で自分が亜人貴族だなんて自らを誇っていたのか。
ずっと、一人だったから、気付きもしなかった事を……幸せと呼んで差し支えないものの中で彼女は理解した。
『イクス!! お魚ばっかり食べてちゃダメなんだから!? お肉も食べるの!!』
『そんなに食べさせようとしなくても……あはは』
喧しいくらい賑やかな食事時。
仲間達の中で何処か居心地が悪くなったのはたぶん色恋以前に……怖かったのだ。
今までの生き方があまりにも寒々しく思えて。
安心したかったのだ。
自分は一人でも立てる人間だと。
「羨ましかった……貴方が……悲しかった……貴女が私ではない者に幸せを教えてもらっている事が……」
所詮、娼婦として囲っているだけだと。
そう少年を貶めてみても。
妹を笑顔にする方法なんて彼女には無かった。
尤もらしく近付いて。
声に出来たとしても。
事務的に血縁だから一緒に住もうとか。
自分が幸せにするとか。
そんな寒々しい言葉しか出なかっただろう。
「美紗さん?」
「?!」
振り返れば、少女がいた。
けれども、それが幻影ではないと彼女は理解する。
安堵した様子で璃紗が近付いて来たからだ。
「良かった。これならきっと……」
「璃紗、さん……」
「心配しないで下さい。絶対、助けますから!!」
頼もしいとすら言える笑み。
その笑みが誰に似ているのか悟って。
咄嗟に身を引こうとした彼女の手が掴まれる。
「知ってるんですよね?」
「―――ッ」
脈打つはずのない心臓が鳴って。
「譫言(うわごと)で御免なさいって璃紗に……」
「わ、私は!?」
「璃紗。今までずっとリーシャって呼ばれても何か違うなって思ってたんです。此処に来て、それがどうしてか分かりました」
小さな少女がキュッと彼女を抱き締めた。
「家族とか、血統の事とか。そういうの……ずっと、どうでもいいと思ってたけど……でも、璃紗は奏美紗なんです。この名前だけは捨てたくないなって。何処かで気付いてた」
真っ直ぐな瞳が仮面を見つめる。
もう一人の彼女。
羨望する者なんて、あまりにも情けなくて弱い女を。
「美紗さんと初めて会った時から、この人はどんな風に生きて来たんだろうって、自分とは全然違う世界にいるんだろうなって、そう思ってたけど」
何も言えず。
何も出来ず。
ただ、為されるがまま。
紡がれるまま。
聞いて。
「お話して。一緒にご飯食べて。そうやってる内に……名前を捨てなくて良かったなって。こんな凄くて優しい人が自分のお姉ちゃんなんだなって、嬉しくて……温(あった)かくて……誇らしくて……」
「わ―――私はそんな、そんな女じゃ―――」
「璃紗はこれからもずっとイクスの傍にいます。これはきっとどんな事があっても変わりません」
「っ」
「でも、イクスが言ってたんです。大事な人は幾ら増えたっていいって……だから」
仮面の下。
確かに奏美紗は見た。
少女がまったく自分には及ばないくらい強く。
「その……お姉ちゃんになって、くれませんか?」
未来への願いを瞳に秘めているのだと。
「家族とか。血統とかじゃなくて。璃紗が知ってる美紗さんに……なって欲しいんです。お喋りしたり、一緒にお昼ご飯食べたり、お茶をしながら色んな事が話せる……そんな人に……」
「―――私、私は―――私で……いいの?」
コクンと頷きが返された。
「だって、きっと、美紗さんと血が繋がってなくても、璃紗は……そうしたいと思ったはずだから!!」
パキリと仮面に小さな罅が入る。
「だから、美紗さんを助けます。絶対」
破れた虹彩の全てが十全に埋まり。
真白の燐光を宿し、弱くて弱くて情けないくらいに仮面の間から漏れている塩水を一滴受け取った。
「【獅子王媛天尊(レオ・ビーティテュディニス)】」
仮面が、ポロポロと崩れて。
「あはは」
璃紗が微笑する。
「お姉ちゃんは泣き虫だって、覚えておきます。皆にもイクスにも秘密で」
「まったく―――私の妹は悪戯好きみたいですね」
泣きながら、笑みながら、彼女は知る。
まるで自分の方が妹だと。
せめて、姉と誇れるよう、誇ってもらえるよう、自分は在らなければならないと。
「ごめんなさい。ありがとう……璃紗」
事件の終わり。
二人の姉妹は白く空けていく世界で、本当の繋がりを手に入れた。
彼女達が願った想いのままに……。
*
―――奏宗家一室。
エルフの少女。
仮に瑠紗と呼ばれる事となった幼子が“二人の様子”を瞳に映して微笑んでいた。
その唇から漏れるはずの無い言葉がポツリと漏れる。
良かった、と。
その姿はもう可愛らしい桜色の寝間着(ネグリジェ)になっている。
娘が不在で出ている間も使用人達は瑠紗を丁寧に扱っていたし、蔑ろにもされていなかった為、その髪は湯上りの艶を帯びていて、シットリと月光に濡れている。
寝台に入って体を起こしたまま。
祈り続けて数時間。
全てが上手くいった事を心より喜んでいたのは本人達以外に彼女もだろう。
優しくしてくれた相手の幸せを願う。
たったそれだけの事を彼女が自分に許したのは他ならぬ少年の望みであり、彼女自身の望みでもあったからだ。
本当なら何も言わず。
何も聞かず。
何も見ず。
全ての五感を出来る限り封鎖していなければならない肉体。
それでも自分というものを出さなければならないと決断した彼女の想いは強い。
この世に現われた第九の奇蹟。
【歓寄倖(ジュビルス)】
聖女達が為し得なかった事を可能とする力。
それを使う覚悟は既に出来ていた。
そのリスクが如何なるものであるか。
全てを理解しても、彼女は自分が幸せだと知っている。
肉体を失い。
精神を封じられ。
単なる物となってすら、その想いは変わらない。
いや、変わるはずがない。
それでも少しだけ。
ほんの少しだけ。
残念に思って。
もっと、少年を、少年が世界を歩く姿を見たいと願って。
それが叶わない願いだと理解した視線が部屋の暗がりに潜む黒い存在へ向けられる。
「やぁ、こんばんわ。お嬢さん」
ボリボリと口に小麦菓子(クッキー)が放り込まれていた。
「手間を掛けさせてくれたね。能力が発動しなかったら、実際見つけられなかったよ」
「……」
「賢い選択だ。その奇蹟の使い方をよく心得てる」
「……」
「睨まないで欲しいな。こっちはこれでも気を使ってたんだ。能力の発動中に意識を乱されても、厄介だからね」
「……」
「僕はN。まぁ、君が愛した男に成り損なった存在とでも名乗ろうか」
「っ」
「君をこれから連れて行く。だが、今までの開発に携わってた連中のところじゃない。ああ、ちなみに君をそういう風にした連中はもうこの世にいないから、気にしなくていい。怒りの向けどころが無くなって済まないとは思うけどね」
「貴方は……」
「だから、睨まないで欲しいな。君の能力で実際、かなり消耗してる」
「―――」
「それでいい……連れて行くところに関してだが、とあるジジイから指示を受けててね。君には養成機関へ入ってもらう」
「養成……?」
「新聖女(ネクステーゼ・セイント)。昔は次世代聖女(アドバンス・セイント)とか色々名前があったけど、諸々やってる内に結局は“創る”より“育てる”方向に計画は修正された。君以外の素材が見付からなかったという切実な事情があるそうだけど、君にとっては朗報だろう?」
「……」
「誓って、もう君のような被験者は出ない。だが、それで計画の推進者が納得するだけの成果が出てるわけでもない。その上“来るべき日”を迎える為の全てが揃ってる此処に置いておくわけにもいかない。だから」
「……」
「君を【聖楼郷(ディスコード・テラム)】へ案内する」
ザッとNが懐から長方形型の薄い紙束を取り出した。
「?」
「まぁ、行ってみれば分かる。こちらに“必ず協力してくれるだろう”君へのささやかな贖罪だ。ちなみに聖女の娘、お友達も今は其処に席を置いてる」
「っ」
「ウチに怒鳴り込んで来た馬鹿親(モンスター・ペアレント)が五年前ボコボコにしてくれてね。命令を撤回させられた挙句。面倒はちゃんと見ろとか言われてる身分なんだ。幸せ一杯、夢一杯、僕みたいな根っからの自生者(アウトゲネス)には地獄みたいな場所だけど、君みたいに倖薄そうな輩には丁度いい場所さ」
「私は、不幸じゃない」
今までのポツリポツリとした言葉とは違う。
ハッキリした宣言に少年Nがグッタリしながら溜息を吐く。
「君は初めてこの世界に生まれた例外(イレギュラー)だ。本来、奇蹟は第七までしか存在せず。また、第八の奇蹟はもしもの時の予備みたいなものだった。それを今更、人智が超えるって言うんだから、まったく人の世は業に溢れてるよ」
愚痴った後。
渡された紙束を月明かりに翳して読もうとする少女の体が抱えられる。
「じゃあ、行こうか。え~と」
相手が何を思い出そうとしているのか察して。
しっかりとした呟きが返る。
「瑠紗」
「名前なんて何だっていいさ。大人しく付いてきてくれるならね」
「……」
「ああ、それと此処の周囲は“弄っておく”約束になってる。何か“残しておきたい記録”があるなら言って欲しい。こっちはジジイの方から要請されてる条件で、君の怒りを買わないようにとの配慮だ」
「じゃあ」
僅かな呟きに耳を傾けて。
Nが頷いた。
「解った。必ずそのようにしよう」
「……」
視線が月の方角を向く。
今は蒼き星が輝く空。
その温かな光りにきっと大丈夫だと少女は胸の前で両手を重ねる。
「さようなら。ありがとう―――」
二人が消えた室内には紙束の一部だけが残されていた。
其処にはこう書かれている。
【未来を夢見る乙女達の薗~貴女も聖女を目指してみませんか?】
それは学生向けの勧誘パンフレット。
教育機関の案内書だった。
―――翌日。
家にようやく帰ってきた奏美紗は“知っているはずの事実”に少しだけ涙した。
自分と僅かの間でも家族のように暮らした少女が、もう孤児も入る事の出来る大陸中央の教育機関へ入学していたのだと“思い出して”。
奏瑠紗。
エルフの少女はそう自らを名乗り、“誰からも祝福されて旅立った”のだと。
その思いに応えられる自分でありたいと。
そう誰も居ない部屋の片隅で姉となった少女は空を見上げたのだった………。