第三章五十三節「閑話休題者達Ⅱ」
人間讃歌というものを聞いた事があるだろうか。
彼は生涯に一度だけ、死の間際に鮮やかなソレを耳にした。
まったくもって愚かしい人類種の歓びと怱々の唄。
亡ぼした国の民と耀きに集う者達の唱。
息切れして叫ぶ者がいた。
涙して叫ぶ者がいた。
嗚咽して叫ぶ者がいた。
死にながら叫ぶ者がいた。
砕け散って叫ぶ者がいた。
血を流し叫ぶ者がいた。
肩を貸し叫ぶ者がいた。
呻きながら叫ぶ者がいた。
嘆き叫ぶ者がいた。
嗤い叫ぶ者がいた。
盾掲げ叫ぶ者がいた。
寄り添い叫ぶ者がいた。
彼らの瞳にはただ新たな夜明けだけが映っていて。
耀きの中心に立つ男だけに視線は向いていた。
今正に死に掛けようとしている悪辣な魔族ではなく。
殺したいはずの、憎むべき敵の、その死に様ではなく。
零れた剣を杖代わりに敗残兵の如き襤褸屑の鎧を纏った騎士に、である。
国を亡ぼされ、家族を殺され、故郷を蹂躙され、兵を失くし、時間の頚城に抗えず、醜く成り下がり、年老いた身体に無数の力を刻んで、弛んだ身体に轟なるものを宿した漢(おとこ)。
幻惑の谷を超えて高位の精霊の加護を得た。
蒼穹の果てに到り、古の魔術師から不死の法を学んだ。
滅びた邦(くに)の大地を使って亡者の力を喰らい。
その暗き復讐の念を糧として、魔槍を手に入れ。
今、ようやく彼と同等以上となった。
そんな勇者だけが……啼いていた。
その慟哭は何故か。
多くの者はそれをようやく全てを終わらせた英雄の血涙と見た。
だが、彼だけは横たえた体で理解していた。
最高の好敵手足り得た相手の事が解らないわけもない。
その涙は―――自分が死ぬという事の為に流されていた。
もう彼以外に男がどんな人間だったのか本当に知る者は無い。
亡郷が、民が、どんな場所で素晴らしい世界だったのか。
知る者はもう男と彼以外に無い。
復讐は果たされた。
されど、誰かと共有されていた愛するべき時間に終止符は打たれ。
騎士は、勇者は、漢は、孤独となった。
愚かしい程に人は脆く儚い。
自分を殺した男の涙が、人々の歓喜の声が、彼には最高の栄誉と思えた。
心底に楽しい時間だった。
素晴らしい夢のような一時だった。
悪辣を働き、情熱に身を浸し、復讐を誓われて、心行くまで戦ったのだ。
人類が魔界、地獄と呼ぶ酷界では考えられない英雄譚。
今まで滅んできた者達も自分と同様の事を思ったのだろうかと。
彼は満足し、幸せというものを初めて見つけたのだ。
このか弱くも狡猾な自分の源流たる人の在り様。
胸を打つ物語り。
その主演になれた事を喜び。
来て良かったと。
この世界に彼らがいて幸いだったと。
彼は自らの幕切れと退場を良しとしたのである。
他の魔王達と同じく。
人という種を想う。
無くなって欲しくないと願う。
それがイーギルフィスト・アルストス。
人の血統と姿を継ぎし【血統種(ブラッディー)】の中三位。
王というよりは領主に近い。
そんな中間管理職にして最後となるはずだった魔王の、死して尚果たされる博愛なのだ。
「オヤジ。肴と此処に在る酒精(アルコール)を全部持って来い」
「へい」
朝っぱらから自由となった師匠こと魔王イーギルフィストは魅了の魔眼で諸々の雑事、この場合は奇異の視線だとか周囲の認識等を広範囲に渡って捻じ曲げながら―――腹拵(はらごしら)えをしていた。
【駿馬の飼葉亭】
ハガスでも一番人気の酒場である。
赤線街の中央に位置していて、年中無休、二十四時間営業、娼館兼宿屋も併設。
ついでに料理も大陸中央諸国や北部、南部のものが数百種類にも及ぶ。
金さえあれば、大抵の男が楽しい一時を過ごせる楽園は今や飲めや歌えやドンチャン騒ぎ。
文無しの魔王が仕切る魔窟と化していた。
他の男達は盛り上げ役とばかりに食事処へ併設された大型の舞台(ステージ)で踊る娼婦達の舞いにやんややんやと喝采を送っている。
VIP席である黒革製のソファーの中央。
騒ぎの中心へ持って来られた大皿料理、海老と海草の南海風炒めやら蒸し鶏の北部風煮込みやらが少年イクス・ゼオの姿で魔族の証たる翼も露なイーギルフィストの口内へと消えていく。
左右背後からは小さな魔術方陣の奔った名物、氷のジョッキに麦酒(エール)やら果実酒(カクテル)やら清酒の類を持った売り子兼娼婦達がズラリと並び、食事の合間に次々口元へと流し込んでいる。
「亜人の国も中々いいな。此処を作ったのは確か……」
「魔王ゼオストスと言われていますわ。ご主人様」
ホワホワと理性の感じられない瞳の女達の中から、そんな声がした。
「ああ、そうだ。あいつの兄だ。あの頃はわざわざ死にに行く馬鹿はどんな奴だと笑っていた……ふ、明日は我が身などとは思いもしなかったな。あの時節……」
「どうぞ。ご主人様」
口元へ当てられたジョッキから珍しい南国の果実で仕込まれた甘くも爽やかな泡酒(スパークリング)を飲み干し、喉を洗い流して。
運ばれてきた分厚い豚肉のローストをフォーク一突きで持ち上げて、齧りつつ。
イーギルフィストは悠久の時。
彼ら高位魔族にしてみれば、つい数年前のような感覚で千年前を思い起こす。
随分と騒がしくなっていた大陸への赴任。
それを請け負ったという物好きで死にたがりとしか思えない相手を彼は周囲の者達との話題に上がる度、よく解らないが馬鹿じゃないのかと訝しがっていたものだった。
それが今では自分も同じ立場。
いや、それ以上の事となっている。
「世の中、何がどうなるか解らない。だが、だからこそ面白い。本当に……」
「ご主人様、あ~~ん」
モグモグとあちこちから差し出される料理を頬張りつつ、彼は百数十年前よりも余程に洗練されている料理の味に舌鼓を打つ。
「さすが未来。悪くない……」
口元をササッと湿った布で拭われつつ、まだまだ始まったばかりの宴を続行しようとした……その時だった。
バダーンと閉め切られていた扉が内部に弾け飛ぶ。
結界を張っていた為、通常の攻撃魔術程度なら数千発は耐え切るだろう強度だったのだが、早くも崩壊した事に若干驚きつつ、彼が音のした方を見やる。
下界と周囲領域を隔絶し、魅了の魔眼による洗脳効果が消え失せたせいか。
男も女もパッタリと糸が切れた人形のように床へ倒れ込んで眠り始めた。
扉を潜ってきたのは黄金の鬣の如き髪型の獅子女。
奏美紗だった。
「!!!?」
「獅子の如き少女が朝からカタール片手に押し掛けて来るとは……時代の変化を思わずにはいられないな」
彼の両手にはもう何も持たれてはいなかった。
フォークに突き刺さっていた肉の固まりや大皿の料理は跡形も無く消えている。
ついでに酒精の類もジョッキには入っていない。
全て綺麗に空(から)だ。
瞬間的に食事を終了させた手際は魔術による時空間干渉。
大魔術師が齷齪(あくせく)しながら紡ぐものとは違う。
指先一つ。
余裕で編まれた時間操作魔術の賜物だ。
術を構成する手際は殆ど人間達からしてみれば神業と同義だろう。
「―――イクス・ゼオではなくなっていると連絡は受けていましたが……」
「奏美紗。そうか。そう言えば、お前も同じ学び舎に通っているんだったか」
「!? イクス・ゼオの記憶があるのですか?! 性質の悪い邪霊に取り付かれて、別人のようになっているとの話。どうやら本当のようですね」
美紗が畸形カタールを仕舞う事も無く。
コツコツと学校指定の革靴(ローファー)でイーギルフィストとの距離を詰める。
「このオレが邪霊。まったく【堊腕(あくわん)】の名も地に落ちたな」
「貴方がどんな類の存在かは知りませんが、私の友人の身体を返してもらいましょうか」
美紗の瞳は凍っている。
その中にある光りに焦燥を見出して、彼が肩を竦めた。
「残念だが、しばらくは無理だ。それがオレとこいつの契約であるからして」
「契約? どういう事ですかッ!?」
刃を鼻先に突き付けて美紗が思わず声を荒げていた。
「そう熱(いき)り立たれてもな。言っておくが、オレは今イクス・ゼオと名乗るお前がよく知る男と同一人物だ。身体を返すも何も断片たるオレを誰も切取れはしない」
「な、何を?! 貴方がイクスと同一人物?! 寝言は寝てから言いなさい!!」
「信じるかどうかはお前次第だ。だが、オレをお得意の【東方儀礼剣(リトゥアリア・エンシス)】で撫で斬りにしても、事態はまったく改善しないとだけ言っておこう」
「な、何故ソレを!? 我が家の秘をイクスが知っているはず―――」
「オレはこいつだ。だが、こいつはオレじゃない。それだけの事だ。そして、実際どんな方法を持ってきても、この契約は覆せない。しばらくは我慢する事だな。獅子王の末」
「―――」
友となった少女達や少年にも教えていない自分の源流(ルーツ)に言及されて、美紗が僅かに刃をブレさせた後。
チンッと鞘に剣身を戻した。
「……いいでしょう。話を聞きます。ですが、嘘偽りがその口から漏れた時は容赦しません」
「結構。だが、まだ楽しめそうなところを回り切って無いからな。夜になったら、お前の家に伺おう。それまでは自由にさせて貰う」
「な、何を勝手な!?」
美紗が捕縛しようと飛び掛ったが、ソファーを引っくり返すだけに終わった。
「こ、これは幻影?!」
「では、御機嫌よう♪」
美紗の身体をすり抜けたイーギルフィストの像が畏まった様子で腕を折り曲げ、スゥッと消えていった。
「く、迂闊でした?! あの邪霊何処にイクスを……探さないと!?」
勢い良く立ち上がった美紗は近頃無断外泊と無断欠席が多い不良少女まっしぐらな身の上を気にもせず。
消えたイーギルフィストを探して、その場を後にした。
残ったのはドンチャン騒ぎの残骸と何処に請求していいのか解らない料理の明細。
そして、幸せそうな男女諸々の寝顔だけだった。
*
アルヴァス亜人国首都ハガスは今も拡大を続ける巨大都市だ。
少なくとも多くの後進国からやってくる旅行者や人間奴隷、名誉亜人、その他業者や商人達はまだ見ぬ大陸中央諸国をその光景へ被らせる。
高層建築の摩天楼。
並みの小国では信じられないだろう規模の歓楽街。
文化的な営みと洗練されたファッションが行き交う中央。
商人や技術者、錬金術師や魔導師、魔術師や技術者が目を見張る北部の工業特区と金融街。
邦(くに)一番の通りが数百数千並んでも同じにはならないだろう躍進し続ける都市の姿は見る者に驚嘆と羨望を持って迎えられる。
その例に漏れず。
自動の馬車が行き交い始めた土瀝青(アスファルト)の道を襤褸馬車で往く六人の旅人は目を丸くしながら西部の人間奴隷達や労働者階級が住まう地域を眺めていた。
「「凄い……ね♪」」
暗い肌に白い髪の双子が三人の男達に言うとコクコクと頷きが返される。
「本当にこんな都市が有るなんて……長生きはするものね」
理想郷かどうかは解らずとも。
都市があらゆる技術と文化と智識と人々の労働の結晶であると理解している馬車の操者フェシリア・ヴァール・ラグナロクは感心し切りだ。
それは他の者達にとっても同様である。
彼らが生きてきた場所というのは言うなれば、現大陸の暗黒世界。
薄暗い路地に怪しげな店が立ち並び、ケバケバしい化粧をした路娼が男を誘ってはケラケラ嗤っているような。
馬糞と人糞と畜糞の臭いに塗れた街や荒くれが集う酒場のような。
決して衛生的とは言えない宿屋に金貨を払わされるような。
そんな薄暗さと雲と夜が主役たる大陸最底辺諸国だった。
戦争で荒れ果て、今も復興する事なく。
乞食と戦災孤児が人買いに奴隷として連れ去られ、官憲は賄賂に見て見ぬふりをするような人倫が崩壊した国々を渡れば、如何に彼らの驚き様が“普通”であるかが窺い知れるだろう。
彼らはまだ地域の人間とどんな交流も持っていなかったし、相対したわけでもなかったが、確信を肌で感じ取っていたのだ。
常識が違う。
世界が違う。
自分達が廻ってきた場所とは何もかもが違い過ぎると。
「此処まで整備されてるとさぞや治安維持も全うなんでしょうね」
フェシリアが今までのように犯罪で糊口を凌ぐような遣り方は無理だろうと肩を竦めた。
巨漢のアルヴァート。
学者のエムント。
役人のフラウツ。
白い体毛の男達は先日の仕事の結果から数日の滞在ならば、どうにかなるだろうと思いつつも、明る過ぎる都市の様相に少しばかり気後れしたような顔をした。
薄暗い夜道ばかり歩いてきた彼らにとって、少なくともハガスという都市は相性が良いとは言えない。
外部からの旅行者というだけで実際にはそれなりに目立つ。
しっかりとした治安機構がある以上は大人しく静かに事は運ばなければならない。
六人が今までしてきたような軽い犯罪で生計を立て、危なくなれば即座に逃げ出すという流儀も通用するとは限らないのだ。
慎重にもなるだろう。
「じゃあ、一番安い宿を探したら、其処を拠点にしましょう」
「「寝床フカフカ?」」
「ええ、勿論フカフカよ。一息着いたら甘いものも注文しましょ」
「「お母さん。だーい好き♪」」
御者台の後ろから母の両肩を左右から抱き締めて、双子が天真爛漫な様子で笑みを浮かべた。
「こんな時だけ。現金なんだから。ふふ……」
母娘(おやこ)達の触れ合いに男達が静かに唇の端を緩めた。
彼らがそれから宿へ落ち着いたのは二時間後。
北西部の端にある油臭い臭いが立ち込める少し煤けた感のある民宿だった。
灰色の建材で構成された無機質な周囲からは浮いている木造の拠点の名は【鷺(さぎ)の嘴(くちばし)亭】。
さっそく情報収集に向かったのはフェシリアとエムント、フラウツの三名。
アルヴァートは目立ち過ぎるとの配慮から宿屋で待機。
双子も共に留守番。
そういう事になった。
しかし、二部屋取った為、アルヴァートは男部屋。
彼女達は母親からの言い付けで女部屋。
見ている者は無きに等しい。
普段は男親のような三人の男達と母の教えを守る少女達も初めて見た都市の様相に浮き足立っていたか。
好奇心を抑え切れなくなれば、共に手を取って宿屋を抜け出す事くらいはする。
巨大な市街地は正に迷宮。
行き交う人々は奇想天外。
身隠しの魔術を使って面白いものが無いかと探し始めるのは必定。
そう遠くには行かないとしても、付近をグルリと回る事くらいはいいだろうと歩みは始まった。
「「♪」」
双子は珍しいものを見ては立ち止まり、ああでもないこうでもないと二人の間だけでやり取りを交わす。
それに声は使われない。
彼女達の間には空間を越えて繋がる経路(チャンネル)があるからだ。
魔術師の才能。
思考は半ば共有されている。
産まれた時から相手の事を相互に理解していた間柄。
今更、二者間で言葉は音声として乗せる必要が無い。
小さな旅は順調。
近場にあった麺麭屋を覗いて涎を少し。
靴屋へ入って大きな靴に一喜一憂。
商店に並ぶ果実の匂いで笑みを浮かべ。
鍛冶屋の棚に並ぶ刃物に業物だ、と男親達の真似もしてみる。
それからの一時間。
彼女達の道中は面白い事で溢れ、語り尽くせない思い出となった。
味気ない景色にある旧式然とした世界とは違う。
進んだ亜人達の営みは興味深い。
ただ、何よりも二人が惹き付けられたのは宿屋から数百m先にあった菓子屋の店先。
まるで見た事の無い色彩鮮やかな菓子が硝子のケースに並んでいる。
わぁぁ……と目をキラキラさせたのはオンナノコという生き物である彼女達にとっては至極当然。
野苺よりも鮮やかな紅の光沢。
白く仕立てられた柔らかそうな純白。
薫り高く仕上がっているだろう豆(ナッツ)の褐色。
複雑精緻の技巧が見える飴色細工。
何を取っても二人が通り過ぎて来た道には無かったものだ。
後で母にオネダリしてみようと思ったのも無理は無い。
いつだって甘味とは女子の嗜みにして楽しみ。
それは如何に幼い姉妹とはいえ違(たが)うはずもない道理。
彼らが復讐の刃を研ぐ薄暗き世界の住人だとしても変わりない事実なのだ。
「「……帰ろう」」
わざわざ言葉として帰還を告げたのは互いに帰りたくないと思ってしまったから。
好奇心を満たす小旅行。
しかし、そんなのは僅か満喫するのがいいと彼女達は知っていた。
欲望というものは限りが無い。
このまま見続けたい気持ちは同じ。
されど、それが許されるような身分でも無いと二人は自分達の境遇を理解している。
後ろ髪を引かれながら、それでも母や男達へ迷惑を掛けるわけにもいかないとの思いは強かった。
しっかりとした認識と自制はやはり彼女達が高度に文明化された地域の同年代とはまるで違う生き方をしてきた事の証左だ。
少し残念そうにしながらも、立ち止まっていた足が宿屋へ取って返そうと動き出した時だった。
「マヲ~~♪」
「「?」」
変な鳴き声に双子が自分達の1m先を見た。
硝子越しに見えるケースの菓子を見つめる視線が一つ。
小さな四足動物。
俗に猫と呼ばれる生き物が、硝子にへばり付くような恰好で立ち上がっていた。
その様子はまるで美味しそう……とでも言っているかのようだ。
実際、その唇の端からはタラリと涎が垂れている。
何処にでもいそうな小さい黒猫。
彼女達は初めて見るわけでもない小動物に小首を傾げた。
「マゥ……マ~ヲ、マゥヲ~~」
何と言うか。
今にもお腹を鳴らしそうな。
そんな、人間臭さを変な鳴き声と共に双子は感じ。
少しだけ、その猫?を凝視する。
「マヲって啼いたよ」
「マヲって鳴いたね」
顔を見合わせたのも無理はない。
珍獣というものは大方、魔術で作られた生物というのが大半だが、天然物のソレはとても値段が高い。
六人での道中。
そんな生物を捕獲して売り捌いていた事もある。
マヲッなんて泣き声の猫となれば、それなりの値段がするかもしれない。
そう二人が思ったとしても誰が責められるだろう。
勝手に出てきた手前。
少し罰が悪かったというのもあって、双子は珍しい猫?をじっくり観察した。
もしも捕まえられたら、高く売れる。
そうなれば、母を含め男達だって喜ぶに違いない。
とても安直ではあるが、そう思ったのだ。
「マゥ~~~」
何処か菓子を見てウットリしている黒猫は二人の視線に気付きもしていない。
これはいけると思った双子はそろりそろり。
後ろから近付いて、そっと手を小さな身体に伸ばし。
「マゥ?」
ひょいっと二人の手が黒の毛並みを掴み揚げる事に成功した。
「捕った!」
「獲った!」
頷き合って笑みを浮かべたまま。
四つの手で珍獣マヲッと鳴く黒い子猫を確保したまま。
彼女達はタタタッと軽やかな足音を立てて宿屋へと向かう。
「マヲゥ~~~~ッ?! マヲ~~ヲ~~~」
あーれーなんて表現が見合う程。
何が何やら分からない様子で連れ去られていく人外少女クヲンは自分を掴む手に込められた力に何だか懐かしいものを感じながら、巻き込まれるまま流されていった。
今日は少年のところへと向かうつもりだったのだが、基本的に面白そうな事に餓えている彼女は運命というものをそれなりに尊重する。
事件だろうが事故だろうが、如何なる事象(イベント)も自分の人生には必要だとの認識からだ。
生きるという事は変化を見つける事。
自分を掴む双子に興味を持った彼女もまた、双子や彼女の姉と同じく。
未知というものに惹かれる性質(たち)をしていた。
こうして出会いは果たされ。
第一夜が始まる。
*
―――旧暦××××年××××国辺境。
雨に打たれていた。
空は垂れ込めた暗黒。
周囲に人影は無く。
森の中。
僅かに開けた窪地に一人。
風が七つの裂傷を吹き抜ける。
直前まで誰かと話していたような気もしたが、定かではない。
薄ら寒さに鳥肌も立たず。
もう身体から何かが流れている様子も無かった。
起ち上がろうと思えば、そう出来ただろう。
しかし、空っぽになった体が動けないと主張する。
口内から胃の奥底まで満たされる錆びた匂い。
渇いた唇を舐める気力すら湧かず。
指先一つ震えない。
それでも少しだけ視線が左手を向く。
香ったのは湯で麦の薫り。
今日は帰ってくるだろうと小さな鍋に入れていた脹(ふく)よかな日常の残滓。
一人一人に合せて。
香辛料も揃えていた。
いつも身体を動かしている二人には塩を効かせて。
片方は少し辛めのもの。
もう片方は僅か甘やかなもの。
いつも集中を欠かさない二人には涼やかな香草を効かせて。
片方は気分を落ち着かせるもの。
もう片方は意識を覚醒させるもの。
全てが交じり合って。
指先にはまだ湯の熱さと零れた麦のツルリとした感触が残っている。
「……」
炙られるような炎に囲まれていたせいか。
渇き切った水袋のように心臓が枯れていた。
砕かれた胸の内を何度も何度も寄せ集めて。
土の味を食みしめる。
この世の果てに置いてきたはずの日常(いつも)。
だと言うのに。
随分と酷い苦さが舌に広がって。
こんなにも不味いものだっただろうかと疑問が湧く。
昔は気にも留めなかった。
樹皮を削って口にして。
土と腐り掛けた芋を齧って永らえていた。
今更に懐かしいものが戻って来たに過ぎない。
焼ける首輪の熱さに比べれば、身体を覆う倦怠感が如何程の事だろうか。
水の底に沈められ、川底の魚を溺れ半分掴まされる事に比べれば、身体を横たえているだけ上等だ。
忘れていたわけではない。
思い出さなかっただけの、思い出す事もなかっただけの、無為な日々。
ようやく自分の知っている世界へ戻って来た。
それだけの話。
でも、一つだけ。
心残りなのかもしれない。
求められたのに預けられなかった。
自分の命だなんて上等なものじゃないソレを委ねられなかった。
死を望まれたのに未だ生きている。
出会う事が無ければ、消え失せていた代物。
惜しいようなものではない。
それなのに消える事もなく在るのは何故か。
捧げたと思ったのに……捧げられてはいない。
それは何故か。
何が起こったのか知らずとも、問いは呆気なく胸の内に解決する。
きっと。
―――楽しかったのだ。
―――嬉しかったのだ。
―――温かかったのだ。
失いたくないと願う程に。
「…………………」
どうすればいいのか。
どうするべきなのか。
分かりはしない。
目の前で手を差し伸べてくれていた誰も、いないのだから。
起き上がるべきなのか。
倒れているべきなのか。
判然としない古い日常(いつも)の中で自分はどうしていたか。
思い出せない。
理由も無く。
目的も無く。
生きていた。
生きていられた。
それが当たり前過ぎて、疑問にすら思わなかった。
けれど、今は違う。
違ってしまっている。
モノだった何かは大切な者と出会い、時を経てヒトとなった。
今更、モノには戻れない。
『苦しい時は無理しちゃダメだよぅ。約束だからね?』
不意に声がした。
辺りを見回しても、声の主はいない。
『倒れちゃったら、身体が回復するまでは身を潜められる場所にいなさい。あたしとの約束よ』
辺りを見回しても、声の主はいない。
『お前は弱いんだ。傷付いたら、休まなければ。約束だ』
辺りを見回しても、声の主はいない。
『自分の事。もっと大切にしてください。約束ですよ』
ようやく。
本当にようやく、気付く。
「あはは……」
守って、くれていた。
もう笑顔を見せてはくれないだろう。
一緒に食事する事もないだろう。
傍にいて星を眺める事すらないだろう。
それでも、それが真実なのだとしても、守ってくれていた。
助けてくれていた。
「……僕は……」
それは希望ではないかもしれない。
ただの逃避なのかもしれない。
だとしても、身体は、動く。
「っ、く……ぁ、ぐ……ッ」
焼かれたように痛む身を起こして。
薄暗い大地に立つ。
湿った風の中、背筋を伸ばして。
前途も見えない森の先を見据える。
「……僕は、死ねない」
それは悪かもしれない。
きっと、正しくない。
けれど、それがどんなに罪深い事だとしても、生きていよう。
そう望んでくれる人がもう誰もいないとしても。
せめて、この胸の内にあるものを守り続けよう。
砕け散った残骸でもいい。
どんなに無様だろうと構わない。
「……生きるよ……」
永劫、先の見えない夜闇だとしても、諦めるよりは歩いていたい。
この身を焼(く)べて、進み始めよう。
「……生きて、みせる」
これが約束。
いつかした。
守ると決めた。
自分を救った。
全ての人との繋がり。
―――足が一歩、踏み出した。
これが聖女と魔王の決別した日の出来事。
日常と仲間を失った少年の新たな旅立ちの理由だった。