※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第三章五十四節

第三章五十四節「閑話休題者達Ⅲ」

 

―――ハガス北部金融街質屋。

 

 亜人国家アルヴァスにとって金融という概念は凡そ五年前から一般化した代物だ。

 

 それまでも銀行業というものは存在していたし、貨幣経済の高度化はファルティオーナにとって七教会が進めるまでもなく行なわれていた事柄であり、亜人の国も資本というものをそれなりに理解していた。

 

 それが一気に拡大したのは【崩燼機関(ソルヴァス・エンジン)】による工業政策の激変と【原理粒子(イデアル)】の流通路開拓や重工業の発達によって国民所得や国家予算が増大し、その運用が急務だったからである。

 

 稼いだ資金の殆どを国土整備と工業化に費やしたものの、それにしても五年で恐ろしく増えた国庫の額は嘗ての比ではなく。

 

 生産性の向上と共に豊かさが隅々にまで行き渡った事で商人や資産家もまた増えた。

 

 そんな時に金融という言葉が一部の国家財政を扱う官僚や大貴族や豪商のような資本家だけのものではなくなった。

 

 人々は今まで以上に資産運用の新しい形を求めたのである。

 

 国は【崩燼貴族(ソルヴァス・ノーブル)】などの新興勢力の位置付けや財務事情の安定化と管理の為、首都北部を特区として開放し、資本家達の楽園を作った。

 

 次々に投下される金融商品は西部のあらゆる国家が買う人気商材だ。

 

 逆に国家規模の計画に投資を行なう企業体や財閥は嘗ての商工業者の運営するギルドを刷新する形で様々な業種へ幅広く資金を投下した。

 

 これを金融街近辺のスラングで泡(バブル)と誰も言わなかったのは彼らのあらゆる資産運用活動が実態に“追いついていなかったから”である。

 

 つまり、亜人国家は彼らが売買する金融商品や経済活動を受け止めて余りあるどころか。

 

 追い付かない速度で進展していたのだ。

 

 アルヴァスが一年で稼ぎ出す額は使えど使えど減らない泉のようなものであり、それを源泉とした躍進と発展は確かに亜人達を嘗て無い繁栄へと導いている。

 

 だが、だからこそ、今では時代遅れとなりつつある者達も存在する。

 

 その業種の一つが質屋だ。

 

 彼らは嘗てアルヴァスにおける金融の花形だった。

 

 大貴族や貿易商と肩を並べる存在として君臨していたのである。

 

 そんな栄華も今は昔。

 

 裕福である事に変わりはないが、それ以上の速度で富みと規模を拡大する資産家達に比べれば、存在感と影響力が薄れて久しい。

 

 何かと職業柄、古いものを好む性質が仇となったか。

 

 新規の金融形態に付いていけていない者が多い。

 

 そんな年季と時代を閉じ込めたような飴色の家具や武具、骨董品が並ぶ質屋店内。

 

 吊るされた年代物の洋光(ランプ)が静かに照らす薄暗い世界の奥でひっそりと老人がカウンター内に一人座っていた。

 

 彼の前には少年が一人。

 

 翅も消した最後の魔王が佇んでいる。

 

「どうだ? じいさん」

 

「………ほうほう。これは滅多に無い品だ。お客様は随分と剛毅でいらっしゃる。これを売る、と申しますか?」

 

「久しぶりに遊ぶ金が欲しくてな。店主、此処は一つコレくらいで」

 

 東部式の小さな独楽を弾く算盤。

 

 それが指でパチパチ弾かれた。

 

「ほほぅ。ですが、此処は質ですので。やはり、これくらいにして頂かないと」

 

 再び皺枯れた指が値段を弾き直す。

 

「商売上手な事だ。だが、人間強欲は身を滅ぼす。此処は勉強だと思って、コレくらいは」

 

 何度目かの交渉の後。

 

「ふむ。では、この額で」

 

 老人は頷いてカウンター内部から小さな煌めくコインを数枚少年の前へ置いた。

 

 ニヤリとして。

 

 イーギルフィストは懐へと通貨を仕舞い。

 

 何の未練も無さそうに質屋の薄暗い店内を後にする。

 

 その背中は何処かウキウキと年甲斐もなくソワソワしているかもしれない。

 

「さぁ、まずは……」

 

 特区の外れにポツンとある店舗を出て懐が暖かくなった彼がコインを一枚親指で真上に弾いて遊びながら中央へと向かう。

 

 途中、年季の入った商店街のアーケードへと入り、様々なものを物色。

 

 お目当ての店。

 

 服屋(テーラー)を探し当てて寄った。

 

 注文は最近流行しているらしき大陸中央諸国風のスーツ。

 

 紫紺に金糸をあしらう昔ながらの色彩を秘めた布地を頼み。

 

 魔術で採寸。

 

 アルヴァス一早いと噂の蜘蛛の亜人が即行で仕上げていく衣装を待つ事、十五分。

 

 サクッと着替えた彼はコインを一枚置いて立ち去った。

 

 最初こそお代に怪訝な顔をしていた店員も、彼の渡した通貨が如何なるものかをすぐ悟って慌てる。

 

 妙な客の取っておけとの言葉は偽りではないだろうと恐る恐る金庫の奥へ煌めくものを仕舞うのも致し方ない事だろう。

 

 何故なら、イーギルフィストの支払った貨幣はアルヴァスでも滅多に見ない金貨百枚分の価値を持つ金と銀金(ミスリル)の合金製であったのだから。

 

 小国なら国庫がそのコイン数十個で事足りてしまうような品なのだ。

 

 明らかに貰い過ぎなのは明白だった。

 

「中々……」

 

 パリッと糊の効いた服は心地良く。

 

 嘗て、魔王として君臨していた頃に魔術師や錬金術師に仕立てさせた衣装にも劣らないと思えた。

 

 如何なる力も宿らない衣装だが、彼にとってそれはそれで良し。

 

 市場を通り抜けて劇場のある通りへ向かう道すがら、その顔には笑みが浮く。

 

「やはり進んでいるな。人間というやつは」

 

 見る物全てが目新しい。

 

 高々百数十年。

 

 それだけの時間であれは何だ、これは何だ、と目移りするモノが多数。

 

 興味のそそられる品を物色し、変わったモノと変わらないモノを確かめるのに一時間。

 

 営みは変わらなくとも、民の笑みは増えたかと過去を生きた男は世の移り変わりを認識した。

 

 無論、それは彼のいる国が一際豊かであるだけの話かもしれない。

 

 だが、嘗ての大陸にはその一際豊かという表現を用いるに足るのは大国の中でも極僅か。

 

 それも庶民にではなく。

 

 貴族や富豪、豪商に属する者へ用いる言葉だった。

 

 明日の糧を得るのに必死な国々では軍事と政治と経済の頂点に立つ者達だけが肥え、どれ程に大きな国の中でも、一日一食を得るのもやっとな者が多数だったのだ。

 

 それを思えば、民が多くを享受する国というのはまさしく一世紀後だからこその光景だろう。

 

「?」

 

 いつの間にか。

 

 劇場の傍に来ていた彼の耳に小さな旋律が聞こえた。

 

 歩く度に近付いてくる。

 

 音色は決して明るいものではない。

 

 澄んだ水晶が割れるような悲哀。

 

 月夜の妖精が踊るような痛切。

 

 何時の時代にも音楽というのは胸を打つ芸術で、彼はそれを解する存在だ。

 

 だから、その決して温かくはない響きを彼はしばし聞いていた。

 

 耳を澄まして。

 

 何者にも注目されない静けさの中。

 

 人混みに立ち尽くした。

 

 劇場内部で演じられている作品に使われるオーケストラの調べ。

 

 崩燼機関製のスピーカーで流しているのは宣伝の一環。

 

 たった、それだけの話。

 

 けれど、洗練された音楽というものは昔から上流階級の嗜み。

 

 高価で澄んだ音色を出す楽器は工芸品。

 

 それを幾重にも使った多重奏は正に嗜好品としては最上として扱われていた。

 

 だが、現代それが惜しげもなく垂れ流しにされている。

 

 例え、奏者がいない録音されたものだとしても、過去には在り得なかった事柄だ。

 

「……」

 

 何も言わず。

 何も思わず。

 

 ただ、鮮やかな今の様相に唇が歪む。

 

 夢幻の如き儚い刻。

 

 いつ終わるとも知れぬ刹那の瞬き。

 

 そんな身の上でも、心を動かすものに触れるという行為は足を止めるに値する。

 

 力も金も権威も血筋も、過去……彼を満足させる事は出来なかった。

 

 だが、人間はそれ以上のものを生み出す能力に長けている。

 

 文化、芸術、美学、物語。

 

 魔王という任に就いた誰もが味わったのだろう精粋。

 

 それは今も変わらず。

 

 彼の動きを止めて、胸に多くを呼び起こさせる。

 

 彼ら魔王を倒した誰が想像するだろう。

 

 人を戮し、人に討たれた者達の誰もが、自分達の産み出した他愛ない営みを愛していた等と。

 

 だが、それこそが事実。

 

 魔族にあらゆる能力で劣る人間は創造性という一点において初めから勝利していた。

 

 愛を囁き、大陸に争いを巻き起こした人類種という生物の罪深さ。

 

 それは未だ変わらないうねりとなって、甦った魔王を逃がさない。

 

「ふ……」

 

 たぶん、最後の隙。

 

 その瞬間ならば、イーギルフィストを殺す事は叶っただろう。

 

 しかし、そんな都合と運の良い暗殺者は存在せず。

 

 たった一分にも満たない停止から目覚めて、彼は動き出した。

 

『………』

 

 そういう横顔を通りの角から見つけ、凝視する男女の姿を誰も目の端に止めない。

 

 まったく悲しい程、運が悪い復讐者達は欠片も予想していなかった魔の時間に数秒間止まって、打ち震える身体を押さえつつ、自らの望みを叶えようと動き出した。

 

『まずは塒(ねぐら)を見つけるわよ』

 

 その少年が彼らが求める復讐相手とは全くの別人格だとも知らずに………。

 

 *

 

 カポカポと馬の蹄鉄が音を立てて、一つの館の前で止まった

 

 それを聞く者はその館に一人しか居らず。

 

 使用人や侍従達も出てこない。

 

 しかし、すぐ大きな扉の横に設けられた入り口が開いた。

 

「本当に来るとは思っていませんでした……」

 

 出迎えたのは奏美紗。

 

 黄金の獅子少女。

 

 今は普段着なのか。

 

 薄い黒の私服。

 

 まるで制服のような。

 

 全身を包む羽織に近い衣装を身に纏っている。

 

「女の家に押し掛けるんだ。それなりの準備はするさ」

 

 応えた少年は南部の鉄火場で手に入れた名馬から降り、その背に括り付けていた銀製のケースを地面へ置いた。

 

「行け」

 

 館から漏れる明かりに照らされた馬の耳にひっそりと彼が囁き掛ければ、誰に導かれるわけでもなく、鞍も手綱も無い四足の獣はカポカポと何処へともなく館から出て消えていく。

 

「……」

 

 その様子を見て。

 

 美紗は瞳を僅か困惑で染めた。

 

「さて、入れて貰えるかな? お嬢さん」

 

「捕縛用の一切合切を受け切れて尚進めると思うなら」

 

 肩を竦めた美紗がドアを開けてイーギルフィストを招き入れる。

 

 それから五分後。

 

 用意していた捕縛用の魔術、総数十四種を全て受け切られて、彼女は彼を自室に招き入れる事となった。

 

 “少年の肉体”がやってきた事は既に【境界踏征(オーバー・フラタニティー)】の全員に通信で連絡を入れているので、逃げようとしても彼ら全員を相手にしなければならなくなる。

 

 並みの魔術ではどうにもならないような力量から見るに館の周囲で自分へ注目する視線に気付いていたはずだが、それを無視。

 

 大胆不敵にも館へ堂々と乗り付けたのだ。

 

 自分の寝室に入ってくるところまでは想定していなかった美紗としては相手の力を侮っていたと認めざるを得ない。

 

 故にもう、力付くでその“邪霊の如き何か”をどうにかしようと彼女は思えなくなっていた。

 

 広い室内。

 

 天蓋付きの寝台と家具や調度品が並ぶ一室。

 

 小さな椅子に腰掛けたイーギルフィストが一息付いて、持ってきたケースを白い丸テーブルの上へ置いた。

 

 室内で座る事もなく睨んでいた美紗が視線をそちらに向けると鍵穴も無い箱が開く。

 

「?!」

 

 一体何が入っているのかと思っていた彼女はまったく想定外の中身に驚き、身を固まらせる。

 

「これは……」

 

「オレが今見繕ってきたモノの中で最も優秀な品だ」

 

 イーギルフィストがザッと納められている五つの武具の一つを取る。

 

 すると、空間圧縮の魔術でも掛けられていたのか。

 

 掌の中でそれが巨大化し、柄が掴まれた。

 

「これは剣。他には盾、篭手、鎧、杖」

 

 彼が軽く手に持ったソレを振る。

 

 風切り音がしない。

 

 まるで鋼が溶けたかの如き不定形の奇形剣。

 

 白金(しろがね)の地金は鍛えられた様子も無く。

 

 薄く厚く辛うじて刃の部分が尖っているに過ぎない。

 

 他の武具も全て同じような形状でとてもまともなものではないのが彼女の目にも解った。

 

「……何故、こんなものを?」

 

 イーギルフィストが肩を竦める。

 

「身体でも要求されると思ってたのか?」

 

「ッ、そ、そんなわけないでしょう!?」

 

 美紗が言い繕った。

 

 が、璃紗から性質の悪いものに憑かれているから、気を付けた方がいいと言われていた為、何かしら性的な要求をされるかもしれないとは心の何処かで思っていたのは事実だ。

 

「残念だが、良い女は朝に堪能してきた。中々の乳だったな。あの狐娘」

 

「なッ―――」

 

 彼の言っている人物が誰なのか思い至って美紗が顔を赤くする。

 

「イ、イクスの身体で勝手な事を!?」

 

「何だ? 羨ましいのか?」

 

「そ、そんなわけ!?」

 

 狼狽した様子の美紗にニヤリとした笑みが向けられた。

 

「こいつに抱かれたいなら、素直にそう言え」

 

「あ、貴方のような邪霊にとやかく言われるような事じゃありません!!」

 

 眉を怒らせた少女が怒鳴る。

 

 剣を再び小さくするとイーギルフィストがケースに入れて閉めた。

 

「言っておくが、時間は残されてない。最後に後悔しても遅いぞ」

 

「え……?」

 

 思わずポカンとした美紗だったが、すぐにハッとして今までより必死な形相で詰め寄る。

 

「ど、どういう事ですか!? 貴方はイクスの何を知っているんですか!?」

 

「仮にもオレは高貴な身分だ。貴人に対してする態度じゃないな。それは……」

 

 余裕の表情で足を組んだイーギルフィストの言い分に言い募りたい気分に駆られたものの、相手の正体が何も解らない以上、今は我慢だと彼女が自制して一歩後ろへ下がる。

 

「それでいい。オレとしてもあまり時間が残ってない。だから、これはオレからの純然たる“悪意”だと思って欲しい」

 

「悪意……」

 

 何が言いたいのか解らず。

 

 美紗の顔が険しくも何処か不安そうなものとなった。

 

「よく聞け。こいつの事に関して世話を焼いてやるのはコレが最後になる。お前を選んだのはあの面子の中で最も冷静に話を聞ける存在だと判断したからだ。これから話す事はこいつを愛する者、敬する者、信じる者、そういう連中には重い。それこそ、壊れるかもしれないくらいにな。だから、オレはまだこいつと何の進展もしてないお前を選んだ。この話を聞いた上で、それでもお前がこいつを想うなら、その時は覚悟して抱かれろ。オレはお前ら全員にとっての“最悪”しか告げない」

 

「―――」

 

 息を止めて。

 

 唇を食み締めて。

 

 今、自分が何を告げられているのかを感じて。

 

 黄金の獅子は、少女は、救われた者は、静かに少年の黒い瞳を見つめる。

 

 その奥底へ凝る光り。

 

 それが相手の本気を彼女に教えた。

 

「………こいつの寿命と意識は後十ヶ月しか持たない」

 

――――――。

 

 停止した思考が何かを想うよりも先に言葉が重なる。

 

「本体への記憶回収が進んでる。そして、自己同一性の保持はこいつの現在(いま)の肉体では回数に限界がある。頭部及び肉体の全消滅を繰り返せる回数は残り数回。固定化された因果律導線の喪失と複数の肉体を使い回した代償だ。“入れ物”が残っていたとしても、最後には全ての意識を回収されて、こいつは停止する」

 

「―――な、にを……」

 

 言われている事の半分も理解出来ないのに。

 

 いや、理解を拒んでいる自分を感じながら。

 

 少女が何とか言葉を搾り出す。

 

「そして、此処からが最も重要だ。よく聞いておけ」

 

 耳を塞ぎたい衝動に駆られた。

 

 嘘を言うなと叫びそうになった。

 

 だが、そのどれも実行する前に少年の姿をした“何か”に彼女は絶望を告げられる。

 

「こいつが停止した後、次に本体がお前達を認識する事になったとしても、この国での記憶は一切持ち合わせない」

 

「記憶が、無い?」

 

「そうだ。こいつの今の肉体は人間達が作った仮初めの器に手を加えて新しく生み出された代物。本来の不死性を備えてるわけじゃない。そして、この器に満たされている要素は“意識”であって“記憶”じゃない。つまり」

 

 怯えた瞳の少女に最後の魔王が告げる。

 

「こいつの記憶は本体には一切反映されない」

 

 話の内容なんて分かりはしないのに。

 

 彼女の瞳からポロリと一筋、涙が伝う。

 

「元々、オレが出てこられたのはそのせいという事もある。こいつの意識はどちらかと言えば、力を司る部分だ。オレを含めて、こいつの力を司る全ての人格は神格を超えた特性を秘めた“天”として昇華されてる。言うなれば、オレ達は天の欠片。お前を救ったのはこいつ本来の力とこいつが手に入れたもう一つの天の力。使い続ければ、本来の姿に戻ろうとする復元力が働く」

 

「復元……力を使えば、どうなると……」

 

「こいつの寿命が削れる。その兆候はもう現われてるぞ。隠しているだけでな」

 

「隠す……?」

 

 呆然と。

 

 半ば、自失した彼女の呟きに頷きが返る。

 

「あの都市が緑炎に呑まれた辺りから意識の途絶回数が増えてる。途絶時間は刹那でも、それが増えていけばやがては瞳を開けていても無反応の人形になるだろう」

 

「―――」

 

 トサッと膝の力が抜けて美紗が柔らかな絨毯の敷かれた床に膝を付く。

 

「こいつにとって、この国での事は記憶にも残らない泡沫(うたかた)。一緒に笑い合った事も、誰かと愛し合った事も、大切に育んだ感情も、何一つとして残りはしない」

 

「そ、んな……そんな、の……」

 

「嘘だと思うか? そんなわけないと否定するか? それでもオレは構わない。これはあくまで“悪意”だからな。絶望する人間モドキに同情してやれる程、オレは“人間”をしてない」

 

「私、私は……」

 

「本来、こいつは全てを隠しておくつもりだった。そして、それでも尚、お前達を傷付けずに済む方法を探していた。だが、現実は非情だ。こいつにも自分を保つ方法は見つけられなかった」

 

「イクス……」

 

 一滴(ひとしずく)。

 

 絨毯が濡れる。

 

「奏美紗。獅子王の末よ。お前に話した事は全て事実だ。この情報をどうするもお前の自由。オレは一切、関知しない。ただ、覚悟だけはしておけ。こいつとの口付けは……苦いぞ。とんでもなくな」

 

 話は終わったとばかりにイーギルフィストが立ち上がる。

 

「話は終わりだ。そろそろ客を迎えに行かないとな」

 

「ま、待って!?」

 

 ドアの方へと去っていこうとする背中に声が掛かる。

 

 立ち止まった男は何も言わなかった。

 

「どうして、どうして、こんな……貴方は一体、何なの……イクスの何なの!!」

 

「……先達だ」

 

「せん、だつ……」

 

「オレは、オレ達はこの世界を、人間を、愛していた。愛していたんだ。こいつと同じように……」

 

「愛して……イクスも?」

 

「そう、こいつはオレ達以上に熱を入れていた。全てを掛けて守りたいと願った。その為なら、己の魂すら使い果たしていいと自らに誓った。お前も神と呼ばれし者の端くれなら考えろ。何を誰をどう祝福するのかを」

 

 あっさりと扉が開き。

 

 背中が去っていく間も美紗は何も返せずにいた。

 

「私、私は……イクスに……何て……」

 

 アルヴァスの崩壊。

 

 世界の破滅。

 

 それはとても重いが覆せるかもしれない未来だ。

 

 しかし、少年の姿をした“何か”が語った終焉は覆せないと言い置かれた。

 

 そんなわけない。

 

 否定する事は容易い。

 

 しかし、そんな次元の話ではもうなくなってしまっている。

 

 彼女の心は男が告げた全てを真実と受け取った。

 

 ならば、美紗に出来る事はあまりにも少ない。

 

 そうして、ようやく。

 

 本当にようやく。

 

 素直になれなかった少女は自分の心を知る。

 

「私は―――イクス・ゼオをもう好いていたんですね」

 

 きっと、理由だけなら山程言える。

 

 でも、そういう事ではない。

 

 原因なんて後付けでしかない。

 

 何故なら、少年の死を聞かされて、胸が張り裂けそうに傷む。

 

 身体が砕けたように動かない。

 

 今にも泣いて喚いて駄々っ子のように嘆きたい。

 

「………馬鹿ですか………私は………」

 

 不死者だからと。

 

 大丈夫なんだと。

 

 そう勝手に思っていた。

 

 あの巨大な力を受けても、無事なわけが無かった。

 

 謝罪の一つもしなかった。

 

 まだ時間があるからと心を持て余していた。

 

 それがどれだけの犠牲の上で成り立つか。

 

 今更に知って。

 

 後悔して。

 

(私が……助かったのは貴方のおかげなのに……自分の心の迷いに言い訳して……コレを貰った時と同じ……私は何一つとして進んでない……)

 

 未だ薬指に嵌る赤銅色の指輪。

 

 人化の秘宝。

 

 霧から自分をいつも守ってくれたソレを手で包んで。

 

 彼女は白くなるまで拳を握る。

 

「………」

 

 それから数分後。

 

 少女は自らの胸に決意を秘めて、周囲にいる面々に“何も言わず”。

 

 逃げられたとだけ連絡した。

 

 奏美紗。

 

 黄金の鬣を持つ女。

 

 その人生に二つ目の目標が出来た夜。

 

 彼女は両親へ告げた。

 

 好きな人が出来た。

 

 だから、家を出ます、と………。

 

 *

 

―――ハガス北西部突端採掘場。

 

 今も拡大を続ける都市部造成。

 

 必要とされる砂利や砂、セメントの主原料は基本的に輸入ではなく国内から自給するのがアルヴァスでは大半である。

 

 首都ハガスはそもそも痩せた土地が多い場所だった為、禿山の類を崩してそれらを確保するのは然程環境に影響するような事でも無かった。

 

 付近にある疎らな林の奥。

 

 その場所はひっそりと存在する。

 

 褐色の土肌がむき出しとなった崩された山の一角。

 

 朝になれば業者達の出入りで忙しくなるだろう無人の採掘場。

 

 周辺には高価な機材も無い為に殆どセキュリティーらしいものはなく。

 

 ほったらかしにされている場所の中央でようやくイーギルフィストは歩みを止めた。

 

 奏家の屋敷を包囲していた【境界踏征】の面々を撒き。

 

 同時にもう一組の監視者へ自分の居場所を教えつつ誘導。

 

 わざわざ徒歩でそこまでやってきたのだ。

 

 彼が尾行者達の方に視線を向けると男女が一組。

 

 夜闇の中から現われた。

 

 もう一人いるはずなのはバレているとあちらも知っているだろうが、もしもの時の予備戦力兼連絡役なのだろう。

 

 そう思うとさすがの魔王も相手の強(したた)かさにうんざりする。

 

 今日一日。

 

 殆どを他人の為に使ってしまった手前。

 

 残り時間は楽しく過ごしたいとの思いが強かったのだ。

 

 彼にしてみれば、訪問者は正に邪魔な存在以外の何者でもなかった。

 

「その白い髪……お前ら【稀呪(ヴィクス・マギア)】の純血統だな」

 

 さっそく自分の血筋を看破された男女だったが、顔色一つ変えない。

 

 フェシリア・ヴァール・ラグナロク。

 

 そして、草臥れた風体の男フラウツ。

 

 彼らにとって、相手が一目で自分達の特異性を見抜いたのは相手の強さを推し量る良い材料だった。

 

「シンア。シンア・ザ・クリティカルアンラッカーで相違ないわね?」

 

 フェシリアの言葉にまだこんな連中が時代遅れ甚だしく残っているのかと彼がげんなりする。

 

 少年の内から今まで全てを見つめてきたのだ。

 

 相手がどういう手合いなのかは何となく解る。

 

 数十年前。

 

 まだ、大戦も起きていなかった時代。

 

 魔王の強さが人間の倒せる程度のものだと少年を侮った復讐者達が跋扈した時節。

 

 よくそういう相手が肉体の主の前には立ち塞がった。

 

 殆どは十把一絡げ。

 

 まず少年を殺し続ける事も出来ないような弱卒だったが、時折……本当の理不尽というものも混じっていた。

 

 相手がそういう手合いであるのは彼単体でも手に取るように解る。

 

 悲しい程に場違いというか。

 

 何故、もっと早くこなかったのかと訝しがるに値するフェシリア達の存在は冗談の域だ。

 

 少年が復讐者達の大半を制した日々は当に過ぎ去り。

 

 今は七教会という巨大な組織との総力戦。

 

 いや、七聖女達との最後の勝負に向けての準備を終えようという時期。

 

 今更、どんな能力者や魔術師が来たところで勝てはしない。

 

 数人群れた程度で少年を殺せるわけもない。

 

 端的に言って。

 

 彼らの存在は彼にとって気に留める事すら無駄なものでしかなかった。

 

 それでも少年の身体を預かっている身であるからして。

 

 ある程度は代理としての役割を果たそうと“丁寧な対応”をしたに過ぎない。

 

「残念だが、オレはあいつそのものじゃない。せいぜいが二番目に大きい欠片ってところだ」

 

「欠片……フェシリア。これは……」

 

 フラウツが瞳を細める。

 

「……どうやら、嘘は無いみたいね。確かに……魂の色が違う」

 

 そのポツリとした女の呟きにイーギルフィストが僅かな興味を覚える。

 

「珍しいな。魂魄まで見える類の魔眼はもうこの時代、市井に現存しないかと思ったが」

 

「生憎と市井の出じゃないのよ」

 

 フェシリアが肩を竦めた。

 

「で、オレは本人じゃないわけだが。それでもやるか?」

 

「でも、欠片なのでしょう?」

 

「ああ、もしもオレを打ち倒せたなら、お前らは聖女以外で唯一。こいつの力の一部を削いだ人類になれるぞ」

 

「明かして良いのかしら? そんな話」

 

「見たところ。侮って何ら問題無し。オレはお前らをそう判断する」

 

 イーギルフィストの言葉にフラウツが顔を歪めて笑う。

 

「言ってくれるじゃないか」

 

 しかし、それを制したのはフェシリアだった。

 

「今日のところは挨拶よ」

 

「ほう? 今日一日付いて回ったにしては引き際が良いな」

 

「勝てる勝負しかしない主義なのよ」

 

「勝てない勝負を保留したの間違いじゃないのか?」

 

 からかうように告げるイーギルフィストに白髪の女が小さく微笑む。

 

「あまり舐めない方がいいわ」

 

 大気がまるで木霊のように鳴動した。

 

 瞬間、周辺に僅かな風が吹き始める。

 

「……おいおい。神格の契約者か。それもかなり高位の……準主神級くらいはあるか?」

 

 大気に混ざる気配。

 

 それを精確に捉えた彼が嫌そうな顔で溜息を吐く。

 

 仮初めの肉体に顕現しているだけの彼にしてみれば、自分本来の肉体があって全力で互角程度の相手。

 

 死者の甦りすら保障する主神級の神々は本来大戦時に少年の力で世界の外側へ放逐されたはずの存在だ。

 

 しかし、一部は残っていると彼も知っている。

 

 だが、負け戦を経験したはずの神々が今更少年に喧嘩を売る理由なんてあるはずが無かった。

 

 何らかの契約で縛られているにしても、本気で神々が忌避すれば、人間に戦わせられる事なんて有り得ない。

 

 そも少年との決着を付けようとした神々の大半は黄昏の悠久戦争に参加してしまったはずなのだ。

 

 そこで力の差を見せ付けられて存在を永らえた下位の神格達がリベンジマッチなんて望むはずもない。

 

「今日のところはお暇するわ。でも、次は容赦しない。逃げたり、隠れたりはしないでしょうけど、一応言っておくわよ。戦うのを拒否するなら、この都市を消滅させる」

 

「神格の契約者が言う事じゃないな。綺麗事やご託は何処に行った?」

 

「あら、神が正しいだけの連中ばかりと思ってるなら、痛い目を見るわよ」

 

 フェシリアの周囲から暗い白銀の色をした魔力が立ち上る。

 

 それはどう見ても人間に出せるような濃度ではなく。

 

 また、普通の神が持つには禍々しい気配を発していた。

 

 ハガス周辺の小動物達が一斉に都市から離れるようと騒ぎ始める。

 

「……蛮神や邪神、旧神の類が人類種と契約なんて聞いた事もない事例だな。連中はあくまでこいつの一件には中立のはずだが」

 

「運命は消え失せても、因果は絶えない。この時期をどんなに待ったか……」

 

「待っただと?」

 

 フェシリアの言葉にイーギルフィストは顔色を薄く変化させた。

 

(占術の類か? 星読み出来るやつはまだ残った神々の中にもいるだろうが……この時期、この場所で仕掛けろなんて吹き込みやがったのは一体何処のどいつだ……)

 

「私はフェシリア。フェシリア・ヴァール・ラグナロク。嘗て大陸に覇を唱えた大血統ニェハエルの末。シンア・ザ・クリティカルアンラッカー。その欠片よ。貴方に宣戦布告するわ」

 

 これからどうするか。

 

 脳裏で算段を付けた彼が背中の翼を顕(あらわ)にする。

 

「いいだろう。何処の物好きな神かは知らないが、人に力を与えて争いに与するというなら、応えるのが魔族の流儀だ」

 

 少年の肉体がビキビキと膨れ上がり、その相貌と容姿、衣服までも形を変えていく。

 

 十秒程で変化を終えた少年の姿は……青年と呼ぶべきものになっていた。

 

 璃紗が夢の中で出会った相手そのままの姿。

 

 背の高い貴族の風貌を宿した男。

 

 イーギルフィスト・アルストス。

 

 蒼のモーニングに漆黒のマント。

 

 魔力で編まれた衣装と顔に紅の魔力導線が幾何学的に奔り、頭部へ集約されていく。

 

 額の左右に背後へ螺旋曲がる黒角が伸び上がった。

 

「オレはイーギルフィスト。イーギルフィスト・アルストス。二万四千周期を数えた【血統種(ブラッディー)】の中三位。お前らの感覚で言えば、一角の領主と言ったところだ」

 

「何だって?! イーギルフィスト?! 前代の魔王か!?」

 

 フラウツが驚きに目を見張る。

 

「お母様から聞いた事がある……存在を変質させる仮面ザヴォイドを操り、一国を滅ぼした魔王【堊腕(あくわん)】……因果ね。私の母の祖国が貴方の滅ぼした国だなんて……」

 

「何? 大陸の世間も狭いな……あの国の生き残りがいて、その血筋と関わる事になるだと? 面白い偶然だ」

 

 呆れた様子となった青年が頭を掻いた。

 

 誰が仕組んだ話なのか。

 

 未だ解らずとも、その流れに乗ってみるのも悪くは無いかと軽く身体の調子を確かめる。

 

 最盛期であった当時に比べれば、出せる力はせいぜいが全力時の三割。

 

 それでも人間には恐ろしき脅威だろうが、超越者や神格とやり合うにはまったく心許無い。

 

「やってみろ人間。オレはいつでもお前らの挑戦を受けよう。ああ、復讐者だったか?」

 

 青年の挑発に応じず。

 

 フェシリアはフラウツを伴って空へ飛び上がり、闇に紛れて遠ざかっていく。

 

「復讐するは我にあり……必ず戦おうとした事を後悔させるわ。白滅の御手を持つ王よ」

 

 最後に気配が途絶えて。

 

 まだ相手を追跡出来るはずの青年は、その所在を探らずに力を治めた。

 

「やれやれ」

 

 未来旅行に洒落込んだはずが、いつの間にか復讐譚の敵役を拝命してしまった。

 

 心の何処かでそれに歓ぶ自分を感じながら、青年は今も世界が己の愛した頃のままである事を嬉しく思った。

 

「人間……人間か……随分と性質の悪いものに魅入られたなオレも。くくく」

 

 青年は一人。

 

 空に向かって飛び上がり、心躍る明日になるまで散歩でもしていようと進み始めた。

 

 夜でも輝きの衰えない宝石箱のような都市を飽きる事なく眺めながら。

 

 そうして一夜が朱(あけ)、二夜がやってくる。

 

 今日より善く在れと願う者達の明日は晴れ。

 

 世界は廻る。

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