※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第三章五十九節

第三章五十九節「真実と出会う時」

 

 大陸ファルティオーナにおける社会思想(イデオロギー)と言うものが実は大概にして歴史家の後付けで知識層の認知を受けてきただけの代物である事はあまり知られていない。

 

 それらは後になって誰かが評価する事で日の目を見た事実ばかりであり、歴史の当事者達が深く考えて、理論構築をしていたわけでもないのだ。

 

 思想、主義、運動、社会という名の複雑系に端を発する概念の多くに名前が付いたのは大方の諸々が過ぎ去った後というのが常識だったのである。

 

 が、現在の大陸はとても珍しい事に歴史の当事者達の要請と国家軍官民あらゆる幅広い層の者達自身の手によって、その様々な活動へ名前が付けられ、評価され、意味が発展変容、再生産されている。

 

 この一連の流れが生まれたのは一重に七教会の説く【近代化(レボリュション)】または教会のとある部署の成果である。

 

 七教会広報部門。

 

 もしも、彼らがいなければ、大陸の人間は後百年以上、自分達のやっている事がどんな活動であり、思想であり、主義であり、概念であるのか詳しく知る事も無かっただろう。

 

 大陸数千を数える国家の中でも情報に重きを置く者達はその知られざる“沈黙の部門”をいつも意識し、自らを俯瞰するのがお決まりだ。

 

 七教会の軍事や経済力に目が吸い付けられるのは彼らの所業から見ても致し方ない事であるが、この現代の大陸において七聖女よりも恐ろしい存在があると知る者は大半が口を閉ざす。

 

 彼ら智識層の中でも頭が切れる者達は己の知る事実を多くの人々は知らない方が幸せであると理解する。

 

 凡そ数十年前。

 

 広報部門が誕生したのは新たなる魔王の再臨を諸国へ伝える為だった。

 

 教会の一部署に過ぎない輩が出す情報は幾つもの国の運命を左右したし、多くの国を救い追い詰め打ち壊し助けた。

 

 魔王の事だけではない。

 

 部門が出すありとあらゆる情報が人という種族を大きく静かに動かしていたのだ。

 

 例えば、広報が“経済発展の為に社会の在り方をもっと深く探求する必要がある”と言えば、多くの国がそれに興味を示し、その検討される社会形態に付いての議論を行なった。

 

 例えば、教会の官報に“新しい軍事形態が旧い常識を打ち破る”との説話が出れば、多くの知的階級者達が、取り分け……現在の社会に対しての苛立ちを持つ不満分子がこぞって、その説話の内容を討論した。

 

 七教会という理不尽の塊。

 

 その組織から出る情報ならば無益なものではなかろうとの暗黙の了解が大陸では紛争への介入が始まってからずっと形成され続けていたのである。

 

 これら多くの“誘導”が七聖女フルー・バレッサの使う大陸の常識改造、社会改造、国家改造ツールの一つであったというのが、少数の賢明な者達の結論だ。

 

 世界一の頭脳による“社会構造の変容実験”を担う広報部門の仕事は多くの賢明ではない人々を動かし、七教会の干渉力を高める隠れた社会基盤(インフラ)として運用されていたのだ。

 

 現在の大陸における社会思想(イデオロギー)が自己で認識されるものとして扱われる実情も殆どは昔ながらの“頑迷な人々”を説得する“賢明な人々”を育てる為に七教会が仕掛けた大規模な市場活動(マーケティング)というやつであり、多くの国を掌上で転がす手管と言える。

 

 この独善的とも言える大陸の民への誘導と向上“教会の善意”をどう受け止めるかによって、その組織の形は悪魔にも天使にも見える事だろう。

 

 ただ、教会の活動によって多くを失った者達にとっては“自分をこんなにも賢くしてくれた悪魔の所業”という認識で一致する為、結論は出ている。

 

「つまり、一体何が言いたいかと言えば」

 

 バガッと黒板が思い切り叩き割られた。

 

「あのクソ生意気な善意面を取り合えず笑ったり泣いたり出来なくしてやりたいッッ!!!?」

 

 アルヴァス・カレッジの講堂内。

 

 歴史の講義が本日四次限目に入っていたわけだが、憤懣遣る方無い面持ちの猿顔の亜人。

 

【鬼猿(イラシミア)】の老紳士は怒り狂った様子でゼハーゼハーと粉々に手の中で握り潰した白いチョークを演壇横の塵箱へと捨てた。

 

 いつも温厚を絵に描いたような人物像とは掛け離れた醜態。

 

 そもそも途中から何やら歴史学の講義が脱線したのは明らかに講師としては頂けない話だ。

 

 だが、それも仕方なかろうというのも生徒達の一致した見解である。

 

 季節は夏。

 

 崩燼機関の蒸気が再び街を染め上げるも、春頃の常軌を逸した霧とは無縁の晴れ上がった7月。

 

 アルヴァス亜人国には転機となる事件が起きていた。

 

 公式な七教会からの会談要請。

 

 そして、七聖女に次ぐ地位を持つ筆頭文官にして教会業務の頂点たる男の来訪。

 

 頭の禿げ上がった壮年。

 

 マディクト・ナシエ。

 

 仕える聖女フルー・バレッサの愛称曰く。

 

 つるピカ。

 

 実質的な教会のまとめ役が元老院と歴史的なやり取りをしたのだ。

 

 実務者協議はそれ以前にも極秘裏に進められていたらしいが、その期間は恐ろしく短かったとも新聞には書かれている。

 

 さて、西部の先進国たる亜人国家にいったい教会が何の用なのか?

 

 そう会談内容をすっぱ抜いた報道各社の月末売り上げは四倍近くまで伸びた。

 

【七教会、西部の大規模異相調査に乗り出す。先頃のテロ前後の異変も異相環境悪化に端を発するものか?】

 

 このような文言が大方の紙面の書き出しだった。

 

 大陸における領土領海領空の概念は教会が各国に良くも悪くも紛争解決の為、先鋭的な中央諸国式の理屈で“教育”してきた経緯がある。

 

 だが、一つだけ現在もとある空間に対する扱いが多くの国では決められていない。

 

 それが領有する異相に関する定義だ。

 

 つまり、国家が存在する空間と近しい現実とは異なる空間に対する見解である。

 

 七教会は西部の異相に異変が起きていて、様々な災害の原因やテロのインフラに使われている、とアルヴァスへ注文を付けに来たのだ。

 

 具体的には“貴国の領有する異相領域内部での活動許可が欲しい”という事だった。

 

 つまり、七教会の大規模な調査部隊を異相側に入れさせろとの、実質的な戦力持ち込みに関する要請である。

 

 今までアルヴァスでも他の国々と同じく。

 

 異相に干渉し扱うのは魔術師達の極一部だけだった。

 

 その為、それらの定義に関しては曖昧なままでも問題にはならなかったが、これからはそうもいかなくなったのである。

 

 七教会は西部における異相に大規模な災害や災厄と為り得る環境の悪化を確認したと大々的に広報部門を通じて報じた。

 

 それを機に主にアルヴァスで頻発していた大規模な異変やテロと言ったものが異相と関連しているかもしれないと触れ回った。

 

 此処でアルヴァスが調査部隊の駐留を許さなければ、再びアルヴァスを中心にして異変が起こった場合、彼らが頑ななせいで解決しないのだと七教会は言い張れてしまう。

 

 逆に受け入れを表明すれば、アルヴァスもさすがの七教会には敵わなかったかと集いつつあった反七教会の流れは立ち消えとなるだろう。

 

 前者はアルヴァスの隙を生む行為に他ならない。

 

 後者は反七教会派との交流に多大な悪影響を及ぼす。

 

 これでは退くも地獄、進むも地獄。

 

 会談内容が終始教会に圧倒された事はアルヴァスの誰もが知る事実だ。

 

 七教会広報はこの歴史的な会談を後日、映像で大陸中央諸国他、教会の影響下の地域にも流した。

 

 元老院がマディクト・ナシエの堂々とした物言いに対して顔を固くし、ニコリとも出来なかったのは謀略や手練手管で老獪な元老院の貴族達にしてみれば、明らかな失態だろう。

 

 拍手こそされたが、内心渋面だった事は見ている者にしてみれば想像の範疇。

 

 相手の大きさにようやく気付いたような顔だと見られたに違いない。

 

 大勢の貴族達にしてみれば、自分達が喧嘩を売ろうとしていた相手の実態をやっと心の底から理解した、というのが正しかった。

 

 国民は自分達を纏める元老院の固くなさに不安を覚え。

 

 教会の広報は西部でその雰囲気を助長する。

 

 まったく見事な宣伝戦。

 

 如何に西部先進国と嘯こうが、井の中の蛙。

 

 自分達が多くの面で劣っているのだと貴族も国民も思い知るところとなった。

 

 亜人達の反応は主に三つ。

 

 反七教会派の機運から一転してハト派に鞍替えするか。

 

 更に教会へのイメージを悪化させるか。

 

 あるいはぶつけどころは理解していてもぶつけられない憤りを吐き出すか。

 

 いつも温和で歴史研究に秀でた老紳士は三つ目に該当したわけだ。

 

「今日の講義はこれでお終いにしましょう。では、諸君……レポートの提出を忘れないように」

 

 何とか怒りを収めた男が出て行くと講堂には弛緩した空気が流れ始めた。

 

 其処彼処での話題はアルヴァスの未来に付いて。

 

 七教会の実力に付いて。

 

 前者だろうと後者だろうと明るい展望を持った生徒は一人もいない様子で昼時の食事へと各々笑顔とは程遠い顔で繰り出して行く。

 

「……いきます」

 

「はい。行きましょう。姉様」

 

 独り言を呟いて。

 

 エーネ・ファサルトス。

 

 そう今は名乗る一人にして二人の麗しい姉妹がいそいそと講堂を後にした。

 

 学校の外は既に熱波で景色が揺らいでいる。

 

 涼しい場所で食事というのが貴族の子弟達にとっては日課になっているが、彼女達に限ってはそうも言っていられない。

 

 近頃は諸々の雑務に追われていた為だ。

 

 熱くとも外気に触れて地道な活動。

 

 例えば、少年イクス・ゼオの周囲の人々の監視や都市内部での異常の感知、発生した霧の封鎖を彼女達は単独で行なっている。

 

 国家クラスの能力が無ければ、無謀にも程があるだろう膨大な情報を瞬時に処理して判断を下し、影からの治安維持に自分の能力の多くを割く。

 

 本当は今すぐにでも少年の胸に飛び込んでいくなり、記憶を取り戻す為のあらゆる手段を取りたいところだったが、現在のハガス周辺の状況はそれを許さなかった。

 

 彼女達は【境界踏征(オーバー・フラタニティ)】の存在も境界の先に少年が周囲の人間と共に潜っている事も、少年に関する事ならば殆どを理解している。

 

 たった一人でハガスのあらゆる情報を見聞きしているのだ。

 

 当然と言えば当然だろう。

 

 例外的な事象は幾つかあるが、特に秘されたわけでもない会話程度なら都市の何処からでも感知出来る。

 

 それが気を付けて観察している相手の声ならば尚更だ。

 

 霧と化物。

 

 境界とアイウィス。

 

 それを取り巻く様々な勢力と思惑。

 

 彼女達にとってはどれもこれも一つずつ整理していくには過ぎた案件ばかり。

 

 シンア・ザ・クリティカルアンラッカー発見の報は既に【聖王同盟(サクラム・フェデレイションズ)】の主要構成員へ伝達済みではあったが、かと言って今すぐに少年をハガスから連れ出すというのも出来なかった。

 

 少なくとも少年で無ければ多数の死傷者と悲劇を生み出していたであろう春の緑炎騒動から始まって霧の排除や大天使級存在の確認、“欠片”と思われる魔王の復活や巨人による地脈の大変動、南部盆地の消滅と復元、七教会の文官筆頭たるマディクト・ナシエの来訪と立て続けに起った物事の全てを総合的に判断すれば、アルヴァスという国で更なる騒乱や混乱、恐ろしい事態が起きるのは必定。

 

 不用意にその中心たる少年を事態から引っこ抜けば、不安定な積み木の土台を弾いたように全て崩れ去る結果とも為りかねない。

 

 この五年で姉妹二人、多くの修羅場を潜って来た。

 

 その判断能力は仲間達の中でも随一。

 

 そんな二人が決めたのだ。

 

 このまま様子を見る、と。

 

 彼女達の下へまだ返事は来ていなかったが、彼女達【聖王同盟】の誰もが二人を支持するのは間違いない。

 

 少なくとも、少年の記憶が戻ったところで、アルヴァスを見限り放っておくなんて出来はしない。

 

 それはエフィリムにもエーネにも自明だった。

 

 記憶を取り戻すよりも誰かを守る為に己が身を削る。

 

 それこそが過去を失おうとも変わらないシンア・ザ・クリティカルアンラッカーの意思。

 

 姉妹が救おうと誓う少年の気持ちなのは疑いようもなかった。

 

 記憶が在ろうと無かろうと。

 

 少年はいつも傲慢で優しくてお人よし全開。

 

 今はイクス・ゼオと名乗る彼の日常を裏からひっそり見ていた彼女達はそう再確認している。

 

「今日は境界の方に?」

 

「ゆうがたのごじから、だそうです」

 

 テクテクと午後の講義をサボタージュする気満々で二人は一つの足を動かし、都市の中央区画へと向かう。

 

 白き砦。

 

 行政の中心近くには監視の目も多いが、それ故に本当の中心は監視の目が薄い。

 

 誰にも悟られず。

 

 誰にも認識されず。

 

 彼女達の脚はいつの間にか空を踏み締めていて。

 

 十数分後には都市中央の真上。

 

 ハガスの全てが見える高空へと辿り着いていた。

 

 瞳を閉じれば、手に取るように少年や少年の周囲の人々の情報が聞こえてくる。

 

 ウル・エイフォン・バーゲルが今日は少年が来ないという理由で早めに部活を切り上げようと呟いた事。

 

 奏美紗が少年の事を案じてさり気無くいつも傍に付いている事。

 

 ジルムス・デダルが己の情けなさを恥じ、学校をサボって鍛錬と奥義の習得に明け暮れている事。

 

 アーギスト・エス・トリアがアイウィスで手に入れた物体の解析の為に日夜伝手を頼って情報の収集をしている事。

 

 ハイダル・エス・トリアが本日の境界踏破を目前にして自らの武器である超先鋭技術の塊である機器の調整とプログラミングに余念が無い事。

 

 シルルゥ・ゼオが今日も少年はいないのかと少し不満そうにしながらも、自棄食い気味に学食の肉料理を食い尽くしている事。

 

 エンシェン・イル・フォイル、彼女達の協力する赤鬼宗家の長女が己の目的の為に国王たる赤毛の青年を自室に匿い雑用にこき使っている事。

 

 ドゥーズ・スィール・フォイル、アルヴァスの実質的な支配者が軍と研究機関と元老院を忙しなく往復して持続的な境界踏破の為のスケジューリングに忙殺されている事。

 

 どれもこれも彼女の五感は情報の大半を筒抜けにしていた。

 

 時には見てはいけない事、聞いてはいけない事も解ってしまうが、それはハガスを影から守っている彼女達のささやかな特権だろう。

 

 主に少年と周辺の少女達の睦み事が駄々漏れなだけである。

 

 少年達がいない間。

 

 異相側からの極所的な侵蝕活動を圧し留め、化物達が現われるより先に異相側で処理している彼女達の働きが無ければ、無用な被害と悲劇が量産されていてもおかしくないのだから、必要悪と断言してもいい。

 

 毎日のように少年と少女達の会話を見聞きしているのはさすがに気が咎める話だったが、本人が忘れているとはいえ“当事者”である彼女達にとって、少年の恋愛事情は他人事とは程遠い。

 

 自分ではない誰かを抱く少年を外からずっと見守るだけの作業は辛いものだが、少年の無事と健康を知れるだけ今までよりマシと彼女達は遠慮せずにいた。

 

「……また……」

 

 不意に少年の周囲の音を拾っていた彼女の耳に幾つかの雑音が掛かった。

 

 一つは地下から。

 

 彼女達の超絶の感覚をすり抜ける何かしらの異変が起きている事を示すもの。

 

 一つは更なる高空から。

 

 彼女達から隠れるようにしてアルヴァスを回遊する巨大な旧教会派の本拠地が何か投下した音。

 

 一つは国境の外側から。

 

 大量の高格外套がアルヴァス周辺地域での秘匿訓練で出す魔術方陣の発した高周波。

 

 不穏な空気の振動は近頃増え続ける傾向にある。

 

 何処まで事態が動いているのか。

 

 多くは解らないが、それでもかなりの確率でこれから再びの騒乱が発生するだろう事は彼女達の勘が告げるまでもなく明白だった。

 

「絶対、守ってみせます。とと様を……」

 

「がんばりましょう。えーね」

 

「はい。姉様」

 

 姉妹は一つの口で語り合いながら、ハガスの治安を守る為、空で留まり続ける。

 

 それが終わりを迎えるのは次の朝、登校するまでだ。

 

 誰に知られずとも、誰が気にせずとも、確かに小さな身体の守護者達はハガスを守っていた。

 

 己の存在を秘したまま。

 

 愛すべき者の為に………。

 

 *

 

―――ハガス南端路地裏。

 

 夕暮れ時。

 

 家屋も疎らで小さな畑が点在する一角。

 

 【境界踏征】のフルメンバーが人目に付かない空き地に集合していた。

 

「今回は此処から下層へ向かう。都合六回目の探索。そろそろ緊張感が緩んでくる頃かもしれないが、気を抜く事が無いよう釘を刺させてもらう。前回と同じ場所に向かうとしても、其処が同じ環境とは限らない。敵も雑魚が強くなってきた。狐型のような大物はまだ出てきていないが、これからもそうだとは限らない」

 

 親友と妹にそう言い聞かせながら、白い外套が転移の準備に幾何学模様を奔らせ、アーギストが地面にも方陣を浮かび上がらせていく。

 

「言われなくても分ぁってる。それにしても……一々集まる場所が変わるのは何とかならないのか? 前はハガス北部の荒地。その前は西部住宅街の外れ。同じ場所から前回の場所まで飛べねぇのは不便極まるぞ?」

 

「これでもかなりの無茶を通してる。毎回毎回同じ場所に跳べるだけでもありがたいと思って欲しいくらいなんだが」

 

「徒歩で疲れてちゃ世話無ぇだろ?」

 

 げんなりした様子のジルムスにアーギストが溜息を吐いた。

 

「転移を多用すると肉体にも負荷が掛かるからな。踏破前には出来るだけ徒歩が望ましい。それにハガス内部から異相に跳ぶ為に複数の経路(チャンネル)を経由して、空間への干渉を最小限としつつ、五人同時にアイウィス内部まで跳ばすのは大魔術師でも普通一週間に一度が限度なんだ。それを数日に一回。何も変わらないように見えるかもしれないが、一回ずつ測量の―――」

 

 まずいと感じたジルムスが手でアーギストの言葉を制した。

 

「分かった!! お前の苦労は分かったから!! だから、もう黙れ」

 

「なら、いい……」

 

 ジルムスが不用意に友人のスイッチを押してしまった事を悔いる。

 

(言わんとしてる事は分からなくも無ぇんだが、長いからな……こいつの説教は……)

 

 斜陽の下。

 

 何処まででも説明を繰り返しそうなアーギストは実際、魔術師にしか分からない様々な壁を努力と己の持てる全てを使って何とか乗り越えている。

 

 それは彼らにしてみれば、最初から分かっていた事だ。

 

 アイウィスまでの転移方法を確立しただけでも凄まじい空間制御魔術への造詣と理解がいる。

 

 そもそもアーギストがいなければ、異相まで往く手段どころか。

 

 異相内部でどちらに向かったらいいのかすら彼らには分からないのだ。

 

 殆どの準備を任せている手前。

 

 刺激するような事を愚痴れば、百万言となって返ってくるのは言うまでも無い。

 

 如何に何気ないものとはいえ。

 

 アーギストに愚痴を言うべきでは無かったとジルムスは自省した。

 

「イクスさん。魔力の方は大丈夫ですか?」

 

「うん。そっちの方は全然。昨日も結局貰っちゃったし……」

 

「え、あ、ぅ……はい……大丈夫ならいいんです……」

 

 少し照れた様子でエストリアが微笑む。

 

 兄達のやり取りの横で二人だけの空間が形成されつつある事を感じ取った美紗がコホンと咳払いをした。

 

「ん、んぅ!!」

 

「っ」

 

 エストリアが思わず自分の様子を省みて赤くなった。

 

 艶事と分からないよう気を付けて話してはいたが、それでも女性である美紗には分かってしまったのだろうとこそばゆさと羞恥が体温を上げていく。

 

「イクス。魔力が足りているのは分かりました。では、身体の調子はどうですか?」

 

「別に大丈夫だけど」

 

「もし、何か少しでも異変があったら言ってください。フォローします」

 

「うん。ありがとう。美紗」

 

「―――いえ、仲間として普通の事を言ったまでですから……」

 

 顔を逸らし気味に美紗が呟いた。

 

「そう?」

 

「この間の一件で貴方の事を傷付けたのは私です。そのせいで何か貴方にあったら、私は自分を許せない……貴方が生きて元気にあの子の下へ帰る……それが今、私にとって最も重要な事柄です」

 

「アルヴァスや世界を救うんじゃなかったっけ?」

 

 何処か悪戯っぽく少年が笑えば、その顔に思わず赤くなって、美紗が更に視線を逸らす。

 

「優先順位として同じだけ重要。それだけです……ええ、そう、そうです……」

 

 二人のやり取りにエストリアが内心少しだけ頬を膨らませた。

 

 あの少年が水貴殿内部で仮面(ザヴォイド)化した美紗を助けて以来。

 

 少年と獅子少女(ライオン☆ガール)が微妙に近しくなった事を彼女は知っている。

 

 ただでさえ満員ギリギリである少年の寝台は激戦区なのだ。

 

 女としてのエストリアにしてみれば、これ以上夜の好敵手(ライバル)が増えて欲しくは無い。

 

 が、だからと言って、それをそのまま口に出せる程、彼女の肝は太くなかった。

 

 故にさらりと話題転換を図る事としたのは正しい判断だろう。

 

「そう言えば、美紗さんと璃紗さんが姉妹だったなんて、驚きでした」

 

 二人は美紗の仮面騒動と少年の憑依騒動が終わって以降、知り合いに姉妹である事を打ち明けていた。

 

 微妙に仲間内では驚かれたものの。

 

 別にそれが驚愕の真実!!というわけでもなかった彼らは何気なく自然に二人の新しい関係を受け入れている。

 

「あ、ぅ……その、あの子と私はあまり似ていませんから……」

 

「そう? 二人とも違うところは全然違うけど、そっくりなところも一杯じゃない?」

 

「え……」

 

 思わず顔を上げた美紗に少年が指折り、彼女と璃紗の似ているところを上げていく。

 

「例えば、甘いものが実は好きなところとか」

 

「それってオンナノコにとっては普通の事なんじゃ……」

 

「他にも思い込みが激しいところや頑固なところも似てると思う」

 

 思わず突っ込んだエストリアに少年はそう反論する。

 

 本人を前にして悪口の類。

 

 悪気は無いのだしても、スラスラ性格の難点を口にする辺り、空気の読めなさは半端ではない。

 

「後は笑ったところや悩んでるとすぐ顔に出るところも結構似てるような気がする、かな」

 

「イクスさん……それ、褒めてますか?」

 

 エストリアが半眼になる。

 

「?」

 

 何か不味い事でも言っただろうかと首を傾げる少年へエストリアと美紗が二人同時に溜息を吐く。

 

「まったく……」

 

「はぁ……」

 

 二人からのダメなものを見る視線。

 

 いつもの半笑いで誤魔化す少年はポリポリと頬を掻いた。

 

「この話はこれくらいにしましょう。そろそろ兄さんの準備も出来るようですから」

 

 助かったとばかりに少年が安堵の息を付く。

 

 三人が見れば、もう地面には複雑な方陣が多重に展開されていた。

 

「あ、そう言えばイクスさん。聞きたい事があるんですけど。いいですか?」

 

「何?」

 

「前々から思ってたんですけど、技を使う前に何か薬みたいなのを飲んでますよね? あれって何なんですか? 何か兄さんが前日に怪しげな儀式をしていて……その儀式術の中央に錠剤が沢山在ったので……」

 

「ああ、あれ? アーギストさんから貰った積層魔力を安定化させる食べても問題ない触媒だけど」

 

「魔力を安定させる……それって魔力の増幅とかそういう?」

 

「えっと、あの小さい錠剤自体が魔力を入れておける結晶構造だとか何とか。日常的に魔力を溜めておいて必要になったら、あれを体内に戻して使う感じ、かな」

 

「その、そんな事して大丈夫なんですか?」

 

 何処か不安そうにエストリアが尋ねた。

 

「外に出してずっと置いておくと魔力が変質して身体に合わなくなったりするって聞きますけど」

 

「そういうのとは今のところ無縁だから、気にしなくても。そもそも積層魔力の固定化補助を触媒でしてるだけで変質とかは……」

 

「そうですか……」

 

 少年の受け売りを聞いても顔は晴れず。

 

 しかし、気分の下がったまま境界の先へと潜るのもまずいとエストリアが顔を無理矢理明るくして切り替える。

 

「イクスさんがそう言うならいいです。でも、何か身体に異変があったりしたら、ちゃんと教えて下さい。イクスさんはいっつも無理ばかりしてるんですから」

 

「あはは、肝に銘じておくよ。うん」

 

「準備が出来た。転移まで一分。カウントを開始する」

 

 アーギストが方陣に意識を裂いて瞳を閉じた。

 

 数回の潜行によって下層域へと至る扉や階段、断崖、穴、諸々を仮面の化物達を退けながら進んだ結果。

 

 それなりに深い場所にまで彼らは自らの足跡を付けるに至っている。

 

 今では転移の準備も長くなっていて、第一回の頃とは違い方陣の発動時間も長くなっていた。

 

「………」

 

「どうかした?」

 

「っ、あ、いえ……別に……」

 

 少年の顔をマジマジと見ていた美紗が本人に尋ねられて顔を逸らす。

 

「心配しなくても無茶したりしないし」

 

「―――そう、ですね」

 

 内心。

 

 少年の身体を乗っ取っていた存在から聞いた話を反芻していた獅子少女は少年の気安い言葉に戸惑いと同時に喜びを感じた。

 

 が、それもすぐ少年の寿命や記憶といった事柄で曇っていく。

 

「今は一人じゃない……皆が助けてくれる……美紗も、ね?」

 

 いつもと変わらない微笑。

 

 自分の寿命も記憶も存在の特異さも全て秘した顔。

 

(私はこの顔に何を返せるの……何を……)

 

 きっと、とても特殊な生まれや過去を持っていると自分でも薄々は知っているのだろう相手の優しさを見つめて。

 

 彼女はこの数週間の事を思い出す。

 

 家を出て。

 

 少年を救う為に沢山の調べ物をした。

 

 自分が持てるだけの伝手を頼って情報を集め、憑依した何者かが残した言葉を一言一句精確に吟味した。

 

 詳しい素性こそ分からなかったが、不死者である事、大きな能力を持っている事、大小自分が知る様々な症状から導き出された答えはとても普通ではない。

 

 魔族。

 

 それもかなり高位の存在。

 

 少年はきっとそんな過去を持っている。

 

 記憶を無くして、過去を無くして、肉体も仮初めで、動いているのが不思議なくらいの傷を何度も何度も回復してきた。

 

 其処から導き出された結末は言われた通りのもので。

 

 どうにかする術なんて無いのだと。

 

 そう、大方の事を調べ終えた時、分かっただけだった。

 

(救えない。助けられない。そんな事……絶対、絶対認められないっ)

 

 自分には、奏美紗には少年の未来に待っている運命を変える力が無い。

 

 それが現実。

 

 だが、諦められるわけがない。

 

 自分を救って、何度も何度も救って、その度に傷付いた、傷付けた。

 

 仲間達を救い続け、ハガスを、アルヴァスを、多くの人々を助けた少年が救われないなんて嘘だ。

 

 それでは彼女が今まで掲げて来た如何なる正義も善意も嘘になってしまう。

 

 自分が薄っぺらい正義と善意を振り翳してきたと知って。

 

 でも、それを信じてきた事は間違いじゃないと、少年や仲間達との日々で感じている。

 

 ならば、最後まで諦めぬ事だけは心に決めようと彼女は思ったのだ。

 

 戦って戦って戦って、少年の過去に触れて、何がどうなるのか分からずとも、何かをどうにかしようと足掻く。

 

 無力だとしても、今の奏美紗が少年へ返せるものは、捧げられるものは、それしか無かった。

 

「転移開始!!」

 

 アーギストの声にアイウィス内部へ跳ぶ寸前。

 

 彼女の手は少年の手に重ねられていた。

 

(この手を離さない……私が今出来る事はきっと、それだけ……)

 

 五人の姿が燐光と共に消え去り、空き地に夏の風が吹き渡っていく。

 

 その場所が見える小さな塔の天辺(てっぺん)。

 

 顔の半分を覆う黄金の仮面が耀く。

 

【ひひひ♪ ナーリヤ連れて行く♪ ナーリヤ連れて行く♪ 偉い!!】

 

 素肌に布を纏ったダークエルフの少女はいつものように笑った。

 

 まるで新しい遊びを思い付いた子供のように………。

 

 転移中。

 

 小さな違和感と共に彼ら五人は気を失い。

 

 そして、多くが同じ場所へ辿り着く事は無かった。

 

 *

 

 月明りだけが照らす世界に煙草(モク)を吸う男が一人。

 

 悼む者無き瓦礫の都市を見渡す鐘楼で元々は吊られていたのだろう大きな鐘に座っていた。

 

 錆び付いて床にめり込んでいる赤銅の椅子はもう奏でられる事も無い伽藍を外に向けている。

 

 その縁で足をぶらつかせた彼の視線の先。

 

 巨大な穴が開いた都市中央部の虚空で火花が散っていた。

 

 戦闘に入って十二分。

 

 頃合かと彼が腕の時計を確認すれば、途端に激突していた片方が吹き飛ばされ、都市の構造物を薙ぎ倒して土煙を上げつつ遠ざかっていく。

 

 決着は付いた。

 

「さて、そろそろ準備しようか」

 

 しかし、まだ時間が掛かるだろうと男が床に降り立った。

 

 四十代程の痩身が柔和な笑みを浮かべる。

 

 片腕にある銀の刺青が紫紺の生地に金糸の刺繍が入った衣装の端から覗く。

 

 黒縁のズレ掛かった眼鏡が指で押し上げられ。

 

 背中に【宇宙樹(ユグドラシル)】の意匠を縫い込まれた外套が翻される。

 

 緊張感の欠片も無い緩んだ顔には無精髭。

 

 【博士(ドクトル)】または【超高位魔導高弟者(ハイグランエクスライン)】。

 

 もしくは御伽噺の男の名を関してドクトル・ファウストゥス。

 

 そのように呼ばれる魔術師の祖たる神格保有者は鐘楼の外。

 

 虚空へと足を踏み出す。

 

「アイン。サンプルの確保は終わったかい?」

 

「はい。どくとる」

 

 クリアーな音声が空中を歩いて事態の中心へ向かう彼の耳に響く。

 

「そうか。ぼかぁ幸せものだなぁ。こんなに優秀な助手がいて」

 

 何気ない賞賛。

 

 されど、彼の正体を知っていたなら、大概の褒められた者が誇らしく感じるだろう。

 

 人類に魔術智識を教え広げた祖。

 

 人という種にどれだけの発展と栄光と豊かさを齎したのか数えるのもおこがましい歴史の大偉人の一人。

 

 それこそが彼の正体なのだ。

 

 彼に褒められるというのはそれだけ名誉な事だし、それ以上に魔術的な恩恵を受ける贈物でもある。

 

 まだ魔術師の卵たるアルヴァスの魔術結社の卵達には分からなかったかもしれないが、彼の一挙手一投足には恐ろしい程の魔術的な意味合いが含まれている。

 

 神格すらも有する存在なのだ。

 

 現在は魔力を封じられているが、その存在自体が飛び切りの希少価値(レアリティー)であり、魔術師には大きな力となる。

 

 その吐息を受ければ、魔力の基礎運用効率が上がり、その視線に晒されれば、魔力や魔術の淀みが失せ、その身体に触れれば、魔術師達はその接触した部位と接触された部位に関する魔術があらゆる意味で向上する。

 

 その舌と語らい合えば、論理は研ぎ澄まされ、その内容によっては大いなる閃きと答えに辿り着くかもしれない。

 

 凡そ理論的どころか。

 

 概念論の権化のような、冗談に近い能力。

 

 いや、存在の影響が魔術師の卵達を日々向上させているのだ。

 

 魔力を使うまでも無く。

 

 彼は世界最高の魔術師ハティア・ウェスティアリアとタメを張る真性の術者なのである。

 

 褒められただけで、その相手は魔術師達や錬金術師達が生む秘薬に身を浸したのと同じ状態となる。

 

 具体的には体力の回復や体内の疲労物質や老廃物の除去、何一つ摂取していないにも関わらず消費されたカロリーの補充、基礎代謝の向上、細胞の治癒から始まって強化や進化にまで効能は及ぶ。

 

 ファウストゥスという存在で語るより、冗談が服を着て歩いていると言った方が限り無く事実に近い。

 

「どくとる。なにかくる」

 

「おや? まだ、この階層にはあの天使君以外来ないかと思ってたが……二人、それもこの反応は……」

 

 アインと呼ばれた存在がファウストゥスの横まで虚空を一息に蹴って戻ってくる。

 

 その手には霧に戻る事も無く。

 

 【外神獣(アウタン)】と書かれた仮面が張り付いた首が持たれていた。

 

「まぁ、いいか。そろそろイベントが無くて飽きてきたところだ。帰る前に彼ら“兄妹”の驚く顔の一つでも拝んでみようじゃぁないか」

 

「これは?」

 

 アインが首をどうするのか訊ねるとファウストゥスの外套がバサリと広げられて、ポイッと首が投げ入れられた。

 

「このまま驚かしてやるのもいいが、二つもネタがあるんだから、此処は感動の再会を優先といこう。覚えていないかもしれないが、アイン。君もあの子達とは一度会った事があるんだよ」

 

「あう?」

 

「ああ、そうともさ。この身体の持ち主と共に……」

 

「………」

 

「ほら、来るぞ。しっかりと妹さんの方は受け止めてあげたまえ。せっかく同じ貌をしてるんだからねぇ」

 

 彼らの視界の前方。

 

 数百m先で歪んだ転移方陣が形成され、瞬間的に破砕。

 

 内部から人間が二人落ちてくる。

 

 言われた通り、アインは落ちてきた妹の方へ。

 

 ファウストゥスは兄の方へ向けて同時に虚空を蹴った。

 

 邂逅が果たされる事の意味。

 

 真実が近付いてくる足音。

 

 何の準備も無く。

 

 ハイダル・エス・トリアはそれらと向き合う事になる。

 

 その扉足り得る存在と出合った時。

 

 彼女は一つの名前を呟いていた。

 

「……イクス、さん?」

 

「あいん。なまえはない」

 

 月明りに落下する彼女はいつも感情豊かな少年と同じ貌をしたモノと出会い。

 

 そして、不完全な転移の衝撃に再び意識を失った。

 

 少年の姿をして、少年と同じ制服を身に纏った五年前の実験の産物はチラリと気を失った少女を見て、一言。

 

「どくとる。これもさんぷる?」

 

 そう自らの主に訊ねたのだった。

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