※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第三章六十一節

第三章六十一節「過去からの来訪者」

 

―――?年前ディミトリア公国首都先進教導技術研究所地下三階。

 

(父さんも弁当を忘れるなんて、子供みたいなところがあるな……)

 

 その日、両親の通う研究所に彼アーギスト・エス・トリアがやってきたのは単に忘れ物を届けるという行為の為だった。

 

 よく妹と遊びに来る少年を研究所の職員達はよく可愛がっていたし、検問所の衛士も快く通してくれた。

 

 家にあった弁当箱を入れた包みを下げて歩けば、彼にお父さんは地下の施設だよと多くの白衣姿の研究者達は教えてくれたし、決して小さくない施設に迷う事も無かった。

 

 だから、アーギストにしてみれば、その日は何ら特別な事も無い日。

 

 そう、普通の日常の一コマに過ぎなかったのである。

 

 父がいるはずの実験器具が置かれた一室。

 

 其処に別の人間がいるというイレギュラーさえ無ければ。

 

「これはこれは可愛いお客さんだなぁ」

 

 そう言ったのは一言で言えば、“風景に溶けた影”だった。

 

(認識阻害の魔術? でも、光学的なアプローチは感じない……認知を弄る精神干渉……父さん一体どんな奴と研究してるんだ……)

 

 数mもあるだろう白い天球儀。

 

 その前にいる明らかに怪しい誰かを少年は最初かなり警戒した。

 

「ははは、そう構えないでくれたまえ。こう見えてもぼかぁ、研究中は人畜無害で通った筋金入りの机の虫だよ。この姿には訳があってね。いや、中々にして複雑な事情があるんだ。これが」

 

「複雑、ですか?」

 

「ああ、単純に言えば、女性関係という事になるんだが」

 

「……」

 

「いや、冗談ではなく」

 

「其処を怪しんで沈黙したわけじゃありません」

 

「おお、そうか。てっきり、不審者が侵入したと疑われているんじゃないかなんて思ったものでね」

 

「此処まで来るのに十四の魔術と二十三の生体認証、四つの暗号が必要な時点で貴方が正規の研究所のスタッフなのは明白ですから」

 

「ほぅ? あれに気付いたのか……あれはぼくがこっそり仕込んでおいた監視用なんだが」

 

「何ですって……?」

 

 アーギストの眉根が寄せられた。

 

「ああ、魔術に関しては昔から人並み以上でね。此処のセキュリティーが甘かったから七つ程、監視用の術を追加しておいたんだ。これを見破ったのは君のお父さん以来、二人目という事になるかな」

 

「……父の事を?」

 

「ああ、同僚なんだ。かなり親しい、ね」

 

「……」

 

「ちなみに監視用の魔術は十四じゃない。十五、だ」

 

「え……?」

 

「だが、見込みはありそうだな。同年代に比べても大きく先を行っている。その才能……まぁ、二千五百万分の一程度のものでしかないが、十分だろう」

 

「そこまで評価されるような事は何も……」

 

 ジリッと少年の足が後ろに下がる。

 

 その脳裏にあるのは警戒というより自分でもよく分からない類の感情。

 

 今まで誰にも抱いた事の無いもの。

 

 畏怖、だった。

 

 天才的な研究者である両親を持った少年にしてみれば、自分もまたそれなりの才能を持っているというのは自明の事であった。

 

 故に両親達の周囲にいる多くの優秀な人材に対しても尊敬以上の気持ちを持った事など無い。

 

 が、彼が現在目の前にしている相手に限って言えば、その自分の優秀さに拠る心の安定、凪ぎというものは失われていた。

 

「君には資質が無い。超常の力も大そうな魔力形質も……だが、君には過去……始原の魔術師達が持ち合わせていたものがある」

 

「何を……」

 

 影が少年の前まで来るとヌッと手を差し出した。

 

 本来、影は影でしかない。

 

 しかし、その影が一部だけ人に形を取り戻している。

 

「この世に運命はもう存在しないが、人の宿命は残った。そう、君はそのようなものの上に自らの力を置いている。それは昔々、まだ自分達が無力だと知っていた者達が己に課した目標であり、因果だ」

 

「言われている事が……分かりかねます」

 

 気後れしたように少年が顔を歪める。

 

「そうかね? 本当に?」

 

「………」

 

「君は自分が思っているよりも向上心が強い、それだけの事さ。如何なる力も無いのなら、如何なる力も創り出そう。それが魔術師だ。血統もそれに拠った才能も結局は始めた者達が望んで、そうなったに過ぎない」

 

 いつの間にか。

 

 少年は自らの手を差し出そうとしていた。

 

 何故か。

 

 言っている事の半分も分からないのに。

 

 その男、今は分かる“彼”の言葉が自分にとって必要だと、脳裏の何処かで理解していたからだ。

 

「君にはぼくのお気に入りの言葉を送ろう」

 

 細やかな手が少年の手を掴み、握手を交わす。

 

「無力とは才能である」

 

「無力が、才能?」

 

「己の限界を知る者にこそ、魔術……真(ま)なる業(すべ)は扉を開く。ようこそ人間……此処からが君の新しい始まりであり、終わり無き旅路の交差路だ」

 

 手が離れ、何故か慌てた様子でやってきた父に手を引かれ、その男にあまり関わるなとの有り難いお達しを喰らい、家に帰り、自らの床に付いても―――少年はその言葉を忘れる事が出来なかった。

 

 それから西部の魔術論壇において神童と謳われた、自らの限界を幼い時から理解していた少年は、ひっそり出会った男に術の伝授を受ける事となった。

 

 父にも母にも妹にすら言わなかった秘密が一つだけあるとすれば、それはその出会いだけだろう。

 

 自らの才能に失望すらせず。

 

 この程度でしかないと諦観していた少年にとって、魔術というものが特別になった日。

 

 彼は握り締めた手に自らの知らないものを掴む喜びを知った。

 

 探求者。

 

 彼の人生の行路が決まったのは必然だったかもしれない。

 

 己には過ぎたもの。

 

 届かないもの。

 

 その“未知”が希望であると知ればこそ、人間はそれを食い潰し、絶望に変えながら歩いていくのだ。

 

 それはまるで星を消費して、命を消費して、他者を消費して、永遠に無駄を吐き出し続ける人間の原理そのものに違いないと、後に彼は理解する事となる。

 

 アーギスト・エス・トリア。

 

 彼が常識的に考えて、己程度の才能では如何ともし難いものを乗り越えていく時。

 

 その脳裏にあったのはいつも師の言葉だった。

 

 だから、感謝はしていたのである。

 

 過去の思い出と化した相手に対して。

 

「やぁ」

 

 だが、何がどうなったか。

 

 何をどうすればそうなるのか。

 

 今、全てが分かる故に。

 

 自らの父の姿を模る自らの師へ青年は凍て付いた視線を向ける。

 

「まさか、生きていたとは……いえ、そんな姿でいるとは思っていませんでした。師よ」

 

 月明りが照らす廃墟。

 

 時折現われる仮面達から避けるようにして建造物の屋根の上に昇った二人は視線を交わした。

 

 膝立ちで気を失っている妹の身体に異常が無いか検査しつつ、一切の警戒を解かずにアーギストは自分の父の皮を被った男と今の“助手”だと紹介された少年を注視する。

 

「久しぶりだねぇ。あれから随分と苦労したようだ……」

 

「貴方がそれを言いますか?」

 

「どういう意味かな?」

 

「当時の事を詳しく母から聞いたわけじゃありませんが、あの日……本来、警備責任者であった貴方があの場にいれば、僕らは助かった可能性が高い」

 

「生憎と外敵を退けるのに忙しくて、駆け付けた時にはもう全てが終わった後だったよ……」

 

 その名前も知らない。

 

 否、訊く事すら躊躇われた本当の魔術師。

 

 それを師と仰いでいた幼い自分が過去どれ程両親に心配を掛けていたのか。

 

 今となれば、アーギストにも理解出来た。

 

 大魔術師に匹敵するだけの技量と叡智を蓄積した彼にとって、気配の変わらない男の内実を外側から推し量るのは難事でなくなっている。

 

 過去、直感的に理解していた事は現在になってハッキリと形を現す。

 

 畏(おそ)ろしい。

 

 心の底からの実感が寄せては返す漣のように彼の心をゆっくりと圧迫する。

 

「今日はサンプル採集に来たんだ。君が潜ってたのは知っていたが、別に会う事になるとは思っていなかった。何かしら細工をしたわけじゃないのは初めに言い添えておこう」

 

「……信じるかどうかは別として、三つ程尋ねたい事があります」

 

「言ってくれ。これでも弟子には優しい方なんだ♪」

 

 お茶目にウィンクする男。

 

 ドクトル・ファウストゥスを今の生徒達が見れば、皆驚いていた事だろう。

 

 教師役をしている時は打って変わった軽快な笑顔。

 

 状況を愉しんでいるのは明白。

 

 生徒からの問いを受け付ける時よりも生き生きした魔術師の始祖は何ら重い空気を意に介していなかった。

 

「一つ。サンプルとは仮面の事ですか?」

 

「勿論だとも。此処は外なる神々にも近しい個体の巣だ。それはつまり研究材料の宝庫という事。丁度、アルヴァスで今、卵の育成をしていてね。彼らの研究用サンプルを調達していたところなのさ」

 

(―――やはり、外なる神々……推測はしていたが最悪だ……此処がそうだとすれば、この不自然な空間の構成にも納得がいく……)

 

 今までアイウィスが何故これ程の変貌を遂げて異相側に存在しているのか。

 

 明確な理由は明らかになっていなかった。

 

 しかし、ドクトルの回答にアーギストは自分が最も恐れていた事態が現在進行しているのだと確信に至る。

 

「二つ。その“助手”は……“何番”ですか?」

 

「一番だ。あの時、失われる寸前だったのを回収させてもらった」

 

(母さんの言葉を信じるなら、研究所の方で失われているはずの……ならば、イクス・ゼオ……彼はやはり……)

 

 アーギストは次々に明らかとなる事実を組み合わせ、ハガスに起きている怪奇事件の数々の原因、真実を己の内側に構築していく。

 

「三つ。もしも、仲間達がいる場所を知っているなら、教えて下さい」

 

「ふ、ふふ、くくく、本当に良い目をするようになったなぁ。アーギスト」

 

 どうして父親の肉体を乗っ取ったのか。

 

 そう訊ねない息子のような青年に無精髭を撫でながら、ドクトル・ファウストゥスは心底嬉しそうに笑みを浮かべる。

 

「知っているのか。いないのか。お答えを」

 

「知っているとも。途中の行き止まりまでは天使連中が掃除してくれたおかげで楽に行けた。その工程で各層は既にマーキング済みだ。其処までの階層で起こった事象は全て把握している。今、現在地を見せよう」

 

(天使? イクス・ゼオが作ったアレか? いや、あれは現実へと帰天したはず……まさか、旧教会派が……)

 

 青年が思考する間にも虚空に三次元式の立体図、無数の層が連なるアイウィスの全景が映し出される。

 

 まだ【境界踏征】が行っていない場所も全て網羅されたソレには幾つも付箋代わりの光点が描き込まれ、様々な情報が載っていた。

 

「!?」

 

 自分が思っていた以上に深く。

 

 また、自分が予想していたよりも遥かに状況が悪いと知ったアーギストの顔色が変わる。

 

 仲間達の情報は地図上に名前で描き込まれていた。

 

 アーギストとエストリアの現在地は潜ろうしていた階層よりも少し下の中層域。

 

 美紗は四回目の潜行時に辿り着いた上層域。

 

 ジルムスは三人よりも下の中層域の中程。

 

 だが、最も不味いのはイクス・ゼオが存在している場所。

 

「まさか、最下層域のど真ん中とは……」

 

「ああ、勘違いしないでくれ。あくまでこれは突破出来なかった部分までの地図なんだ。現在の最下層域より下にも層は連なっていると見ていい。ただ、入り方が分からなくてほったらかしにしてるだけで。いや、面目ない」

 

 もう己の師の言葉を殆ど青年は聞いていなかった。

 

 彼の技量ではマーキングも無しに階層を大きく飛び越えて少年のいる場所まで跳べない。

 

 ただでさえ、アイウィスは下りる時には無駄に請った工程(ギミック)が満載なのだ。

 

 化物を倒したり、特定の階段を規則正しく通ったり、追ってくる化物を倒さず一緒に階層を下らなければならない、なんて仕掛けまであった。

 

 ほぼ上下十層以内にいる美紗やジルムスは何とか回収出来るとしても、少年のいる層までは四十五層。

 

 それは絶望に足りる数と言って差し支えない。

 

(予備の積層魔力を全て使って強引に階層を転移で突破しても三十層程が限界。それも何処に出るかは選べない。美紗とジルムスの合流を優先して、再度必要な積層魔力を掻き集めて戻れば、五時間程度で……いや、ダメだ。こちらの時間が早い以上、一日近い時間あの状態のイクス・ゼオを最下層域に留め置けば、どうなるか分かり切ってる!! クソッ、打つ手が、無いッ?!!)

 

「ん……ぁ、兄、さん?」

 

「起きたのか? ハイダル」

 

 薄らと瞳を開いたエストリアがアーギストの腕の中で身を起こした。

 

「はい。他の皆さんは? さっき、イクスさんが助けてくれたんです。あ、イクスさ―――!?」

 

 見知らぬ男が自分の想い人の隣にいるのを見てギョッとした少女だったが、更にその顔を見るに至って、思考が停止した様子となる。

 

「兄さん……これ、夢……ですよね?」

 

「ハイダル。よく聞け。其処にいるのは僕達の父さんじゃない」

 

「え? だ、だって、あれどう見ても父さんですよ?! お父さんじゃないって、兄さんどうしてそんな?! と、父さんですよね? お父さん何ですよね?」

 

 思わず起き上がろうとしたエストリアを青年が強く掴んで制止した。

 

「な、離して下さい!? あれは父さんです!! イクスさんも無事だったんですね!?」

 

 喜色を浮かべた彼女が兄を振り切ろうとした時、アーギストは久しぶりに妹へ怒鳴った。

 

「ハイダルッ!!! あれは父さんじゃない!!? あれは、あの身体だけだ!!!」

 

「何、言って」

 

「ハイダル・エス・トリア君。悪いが、アーギストの言ってる通りだ。ぼかぁ、クルス・エス・トリアじゃない」

 

「じょ、冗談、ですよね?」

 

 止まったエストリアに緩々と男が首を横へ振る。

 

「ぼくの名はドクトル。ドクトル・ファウストゥス。君のお父さんの研究仲間で友人だった。そして、この身体はあの事件があった日、クルスからぼくが譲り受けたものだ」

 

「え……」

 

「信じられないのも無理はない。だが、魂は別物なんだよ。期待させて悪いとは思うんだが、それが現実だ」

 

「父さんじゃ、お父さんじゃ……無い?」

 

「ああ、冗談で感動の再会に水を差したりはしないさ」

 

「……そんな……」

 

 エストリアの身体から思わず力が抜ける。

 

「それとぼくの隣にいるのは君の友人じゃぁない」

 

「何、言って……イクス、さん?」

 

「どくとる。じかん」

 

 アルヴァス・カレッジの制服を着た少年イクス・ゼオに瓜二つの顔が拙い言葉を紡いだ。

 

「そうか。もうそんな時間か。悪いがそろそろお暇させてもらおう。これでも実は多忙なものでね」

 

「そうですか……」

 

 まだ事態が飲み込めず付いていけていないエストリアは兄と父や少年に見える誰かのやり取りに怒りを感じていた。

 

 自分が知らないところで何かが起こっている。

 

 それなのに蚊帳の外に置かれているという事実。

 

 昔、何も知らずに地下の公道を抜けて訳も分からず逃げていた時と同じ。

 

 また、自分は全てを知らされないままなのかと兄に声を上げそうになったのも無理はない。

 

 しかし、それよりも早くドクトルが話を続けた。

 

「ああ、そう言えば、絶望するにはまだ早い。もしもお仲間を助けたいなら、【OEDS】の裏コードを使うといい」

 

 思わずアーギストが目を見開いた。

 

「そう驚かないでくれ。これでも開発者の一人だ。その程度知ってるとしても何ら不思議じゃないだろう?」

 

「裏コード。そんなものが?」

 

「お母上。彼女から【OEDS】本来の使い方は教えてもらっているか?」

 

「ええ、ですが、三つ目の部品が揃わない今、それは……」

 

「兄さん!! いい加減に何がどうなっているのか教えて下さいッッ!!」

 

 大噴火した妹の声に男が肩を竦めた。

 

「おっと、ご機嫌を損ねたようだ。もう退散する事にしよう。使えるかどうかは操者次第だが、使えたなら最下層まで往く事も簡単だろう。システム・カーネルの応答プログラムに君達の誕生日を連番で入れてみたまえ。それが我が親友クルス・エス・トリアが“来るべき日”の到来に際して準備したサプライズだ」

 

 手を振るとドクトルがアインを伴って屋根の上から飛び降りた。

 

 未だ怒った妹の顔が自分を向くに辺り、青年は緊急の事態を告げる為に最短の言葉を選ぶ。

 

「イクス・ゼオが危ない。助ける為に力を貸してくれ。ハイダル」

 

「―――後でちゃんと話して下さい。お願いします。兄さん」

 

「ああ、勿論だ。まずはお前のソレに番号を打ち込んで欲しい。順に―――」

 

 全ての感情を横に置いて。

 

 仲間達を助ける為に一組の兄妹は行動を開始した。

 

 *

 

 文化というものが自らの社会と同義であると自覚した時。

 

 人類には一つの不文律が出来た。

 

 それは自然と集団の中に形成される合意。

 

 つまり、習俗もしくは環境に対する適応が適当かどうか。

 

 点検作業を行うという事である。

 

 不文律と言っても、それは多くの場合言語化されず、意識もされない事柄だろう。

 

 要は文化の改善活動が発生した事を意味する。

 

 長い長い刻の中で遺伝子と社会構造が織り成した蓋然性とでも表現すべきもの。

 

 単純に解り易く言えば、事物に対し、それが“正しいかどうか”を見極める行動が自然と種の中に発生するようになった。

 

 生物の根源的な欲求。

 

 より効率的な繁栄を求めて。

 

 人間は自己点検を欠かさない知的存在の中でも特に変化、または進化というものを体現する生物と化した。

 

 その結果がファルティオーナにおける亜人の発生。

 

 つまりは自らの可能性の多様化を押し広げたし、魔術や超常の力といった自己能力の拡張を可能とする技術の発展にも大きな影響を及ぼした。

 

 人間程に自らを、その行いを、改善していく生物は他にいない。

 

 種族全体としての合意が取れているわけでもないのに一つの方向、高みへと昇ろうとする性質は他の知的生物達から見ても特異だ。

 

 そんな自らを研究する一分野として発達したのが、数十年前から提唱され始めた学問。

 

 生命科学分野だった。

 

 有史以来、肉体と魂と精神。

 

 自己の構成要素を詳しく分析し、より強く、より賢く、より美しくというように変化する事を望んだ者達は多い。

 

 旧くは神に仕える者達の不老性や超越者達の能力を得ようとした輩も沢山いた。

 

 魔術師が人類史に現われる頃になると。

 

 未解明の人類を丸裸にしようと様々な研究が行なわれてきた。

 

 結果、幾らかの同族を生贄にして多くの叡智も完成された。

 

 しかし、それでも己の血統の解明には程遠く。

 

 その智識も共有される事なく消え。

 

 探求者の多くは失敗を重ね続けるしかなかった。

 

 それが一転したのは現代から数十年前の話。

 

 魔術や人体の神秘を探求しない者でも、簡単に特異な観測や計測が行なえる環境が整ってからの話だ。

 

 フルー・バレッサ。

 

 七聖女の一人にして大陸最大の富みと叡智を持つ者。

 

 彼女の数々の発明と自然科学に基いて製造された安価な研究機具の普及。

 

 これこそが生命科学分野の開花を後押しした。

 

 単純に言えば、自らを探求する学問に多数の者が殺到したのである。

 

 今まで特別な資質や才能が無ければ、研究に携われなかった者達が資金と努力する時間のみを武器にして歩み始めたのだ。

 

 研究者の激増が智識の裾野と誤謬の修整に一役買い。

 

 また、叡智を囲い込む傾向にあった旧来の研究者たる魔術師や超越者達と違って、新規の参入者達は発見された智識の共有が当たり前という土壌を育んだ。

 

 これが更なる発展した思考と探求を可能とした結果。

 

 大陸の知識水準は大幅に改善。

 

 特に大陸中央諸国では嘗て一部の者しか知り得なかった事実が子供すら知るような一般教養化したとも言われる。

 

 そんな中、旗振り役となった教会が自らの秘儀を現代の学問で再探求しようとした事は別に驚くに値しない。

 

 温故知新(おんこちしん)というやつである。

 

 アンデリットの地方都市。

 

 アイウィスの市街地に設立された機関もそういった流れの中で生まれたものだった。

 

 武具の製造。

 

 魔術や秘儀に用いる為の触媒。

 

 応用分野は無限大と持て囃され、教会が秘匿してきた数々の特異な植物を扱う砦の一つ。

 

 七教会第四植物研究所。

 

 中央諸国の中でも比較的閑散とした街に置かれた専従研究部署は教会上層部にすら極秘の計画を進める基地でもあった。

 

「【宇宙樹(ユグドラシル)】……」

 

 大陸の各地に大規模な森林地帯を形成する巨大な神木。

 

 守人たるエルフとの交渉を数千年間行なってきた教会にとっても、大規模な秘儀や魔術、霊薬の精製に欠かせない重要物資。

 

 その種の大量採取こそ、研究員達に課せられた任務であった。

 

「我々はこの施設を樹の力によって封じ、辛うじて難を逃れたのです。当時、この研究所に保管されていた四つの種を発芽させて生み出した結界と樹木が周辺物質を生成濾過する事で生み出される水と空気。これらと同時に供給される魔力によって小規模な太陽光を発生させ、食料となる植物を自己完結した空間内で生産……何とか生存圏を確保した……」

 

「ご苦労されたんですね」

 

「研究所内にあった植物の種子が、我々の命を繋いで来た。ですが、その反面あの日の戦いで得た情報から結界を緩めるわけにも行かず。また外界への応援要請も敵からの攻撃を畏れて行なえませんでした。結果として……我々はこの小さな楽園内で餓えを凌ぎ、外からの救援を待つという選択肢以外を失ってしまった……ですが、まさか……二十年の月日の先にこうして誰かを迎える事になろうとは……ぅ……っ……失礼」

 

 滲んだ涙を拭った四十代程だろう白衣姿の男。

 

 彼は周辺に集まった大人から子供まで数十人の視線に大丈夫だと慰めようと近付いてくるのを手で制した。

 

「お客人。では、もう一度皆の前で聞かせて頂けないだろうか。貴方が此処に来た理由(わけ)を」

 

 大規模な硝子の壁で覆われた植物園の中。

 

 大きな黄色い果実の成った果樹の下。

 

 少年は麻で編まれた服を着込んだ人々に自分達【境界踏制(オーバー・フラタニティー)】の目的を聞かせた。

 

「そう、ですか。アイウィスがそんな事になっていたとは……」

 

「やはり、この空間の時間は……」

 

「ですが、これならば現実への帰還すら可能に!?」

 

「いや、まだそうと決まったわけでは!? 七教会の部隊がこちらに向かっているなら、動かずに待っているべきなのは明白で―――」

 

 現在、研究所の実質的な所長を務めるという男の周囲で白衣を着た大人達が諸々少年の話に大きな期待と不安を織り交ぜて話し合い始める。

 

 研究所に併設された植物園は小さな鳥篭のようにも見えた。

 

 少年の話を詳しく聞いていく内に大人達の大半は顔を輝かせ、現実に帰れるかもしれないとの希望を持ったらしく、互いに抱き合ったりする者まで出ている。

 

 しかし、何処かピンと来ない様子なのは子供達だ。

 

 合せて十人程の少年少女。

 

 十代前半くらいだろう誰もが大人達の熱気に困惑したような表情を浮かべている。

 

 少年の視線に気付いた様子で大人達の一人が傍までやってくると説明を始めた。

 

「事件から数年後の当時、我々は当分生き残る目処は付け安堵していました。ですが、此処から出られるかどうかは未知数だった。そんな時、所員に一人妊娠していた女性がいて、出産したのを期に所員の中でも恋愛を……生きている実感を欲した数人が子供を設ける事にしたんです。まぁ、あまり人口を増やす事は出来ませんし、事前に話し合いの場が持たれたんですが、このまま自分達が若いままで脱出出来るとも限らない。その時、次の世代がいてくれた方がいいと多数決で決まり、今も三人程が出産を控えている状況で―――」

 

 少年が大体の話を終え、大人達の輪から抜けて子供達の傍まで往くと。

 

 全員が珍しいものを見る視線でジロジロと全身を凝視した。

 

「こんにちわ」

 

 挨拶に挨拶を返した者が数人。

 

 その内の一人。

 

 たぶん最年長だろう少年より外見年齢が一歳か二歳下の男の子が前に出た。

 

「あんた本当に外から来たのか?」

 

「え、まぁ……」

 

「……なぁ、このまま帰ってくれないか……」

 

「え?」

 

「や、やめなよ」

 

 男の子の言葉に反応して、子供達の中から女の子が一人出てくるとその服の袖を引っ張った。

 

「でも……!」

 

「ごめんなさい。こいつ、少し変なところあるから」

 

「あ、おい?!」

 

「いいから!」

 

 自分より年下でも女性には勝てないのが男の性か。

 

 引っ張られるままに男の子は植物園から隣の研究所へと連れられていった。

 

(………)

 

 少年が沈黙の中で思考しようとした時。

 

 再び大人達の方から呼び声が掛かって、そちらの方へと向かう。

 

 その背中を残った子供達は何処か複雑な面持ちで見つめていた。

 

 視線に気付きながら、地獄のような大地に未だある楽園の空気に奇妙なものを感じて。

 

 少年は仲間達がどうなっているのかと思いを馳せた。

 

 消耗が激しい今の少年では容易に外へ向かっても、帰れる見込みは無く。

 

 また、全員の発見も絶望的なのは間違いない。

 

 しかし、ずっと其処に留まっているわけにも行かないだろう事もまた分かっている。

 

(早めに何かしらの対策を考えないと……)

 

 大人達の質問に受け答えながら、数時間以内に結界の外で活動する為の方策を少年は脳裏で模索し始め、研究所の大人達もまた少年の話しに新たなる展望を描こうとしていた。

 

 静かに忍び寄る者達がある事も未だ知らないまま………。

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