第三章六十三節「凶界手引Ⅲ」
―――第六次境界遠征特別部隊長期逗留幕屋群野外。
『左翼、D型一斉掃射!!!』
中天の月に翳るアイウィス市街地南東の端。
四つの幕屋が建てられていた。
その内部から出撃したばかりの総計四十九名が敵仮面二十八体の襲撃に臆する事無く、迅速に陣形を形成し、相手から距離を取りつつ中長距離戦をこなしている。
大規模な三次元式の球形防御方陣の連続構成による突き放し戦法。
辺りには特定の存在のみを弾く半球状の方陣結界が大きくなり小さくなり、まるで脈動するかのような、生物の如き蠢き様で外縁に触れた仮面達を弾き返していた。
距離さえあれば、後は相手を遠方からの魔術や長距離用の【崩燼武装(ソルヴァス・アームズ)】を運用する事で撃退出来る。
第一次境界侵攻。
世間では緑炎テロと呼ばれるあの事件で苦戦していたのが嘘のように今では緑炎を纏った【黒逝者(レウス)】や他の雑魚に対する彼らの戦い方は手堅いものになりつつあった。
『右翼、【崩燼火砲(ソルヴァス・カノン)】撃ぇえええええええ!!!』
方陣結界によって内部に近付けないまま円周に詰まっていた仮面の群れに左翼から浴びせられた遠距離魔術。
相手の質量を強制的に乗倍化する紅の鏃。
【不動(リゴール)】が突き刺さる。
一瞬で自重を数百倍以上にされた化け物達は、其処に右翼で何段にもなって控える砲撃隊、持ち運びを可能とした大出力火砲からの熱量放射によって熔けた。
砲身そのものが内部に埋め込まれ、円周の縁を鋲(ベリット)で止めた鋼の塊。
片手持ちとなった1m強の円筒形。
通常の拳銃のグリップとトリガーに太い輪切りの瓦斯(ガス)灯(とう)を付けたような形状は携行火器というには大き過ぎるかもしれない。
しかし、その威力は絶大で効率は未だ上がり続けている。
引き金の上部に備え付けられた黒き正方形。
【崩燼機関(ソルヴァス・エンジン)】は前のように一発一発の使い捨てではなくなっている。
技術的なブレイクスルーを果たしたと研究者達は言うが、それにしても境界に侵入して部隊が歩みを進める度に渡される兵器の威力と形状は変化している。
その明らかな進化は境界踏破部隊の隊員達に大きな心身の安定と武装への信頼感を産んでいた。
正にエス・トリア博士様々だと誰もがアイウィスに来る度、口にする。
「総員。警戒レベルを落すな!! 周辺半径2km圏内を重点的に探索。索敵を密にし、戦闘参加隊員は順次休憩に入れ」
幕屋の中で持ち込んだ魔術具と【崩燼機関】製の観測機器に囲まれながら、黄金の狐ライル・エイフォン・バーゲルは小規模とはいえ、襲撃を凌ぎ切った事に内心で安堵していた。
野外映像は周辺にばら撒いた魔術中核より常時、幕屋内の司令部に送られてくる。
隊員達に何の傷も無いのは彼らの身体を覆う白い外套。
【崩燼外套(ソルヴァス・マント)】からの情報で確認済みだった。
「ふぅ……」
僅か指揮の汗を額から拭って、彼が周辺の情報統括隊員(オペレーター)達の中でゆっくりと床几に腰を下ろす。
「お疲れ様でした。隊長、此処は我々に任せて休憩を。もう二日間寝ていらっしゃらないはずです」
「悪いが、頼めるか?」
「了解しました」
数人の男女が虚空の映像と各種数値の監視を行いながら、背筋を正した。
ライルが立ち上がり、室内から出て仮眠と休憩用の一室へと向かう。
連結された四つの幕屋。
アイウィス内部での長期逗留を可能とする前線基地は簡易の生活環境を保障する五回目の侵入時より使い出した最新の設備だ。
多重結界を基本として空間制御技術の粋を集めて作られた半径15mの幕屋はキャンプ地を作る装備としては十分に過ぎる。
長時間、内部へ逗留した結果。
探索の効率は数倍から数十倍。
今まで出会ってきた化物と同種しか出てこなければ、消耗は最小限で進む事も容易くなった。
新種の仮面に出会っていないという事も大きい。
ライルを筆頭に潜っている隊員に今のところ欠員や重傷者は出ていない。
精神的な弛みが出ないようライルは引き締めを図っているが、それでも順調過ぎる工程は前倒しで進められている。
階層の下降に必要な条件が先に分かっているというのも大きいだろう。
上層部は隠しているが、彼らよりも先行する協力者がいるのは間違いなかった。
そして、それがあの緑炎テロの時に出会った者達であるとライルは薄々予想している。
あの時、赤鬼宗家の長女から味方として紹介された歳若い学生達。
大人として守らねばならないはずの相手から逆に便宜を受け、危険まで冒させているというのが、ライルにしてみれば苦々しいばかりだったが、彼ら境界踏破部隊の行き先は事前の情報が無ければ、隊員達に欠員が出ていてもおかしくはないような難所ばかりであり、逆にこんな場所へ若者達を出向かせなくてよかったとの思いも同居していた。
(……まったく。娘の事といい……彼には頼り切りか)
緑炎テロの最終局面。
【革命者(ロトゥンダム)】を真っ二つにした少年の事を彼は未だ記憶している。
今正に自分が化物になるかどうかという瀬戸際の中で見た力。
それは明らかに普通の学生の範疇を超えていた。
いや、軍隊ですらもその少年のした事を完遂出来るか分かりはしない。
(我が子を守ってやれず。我が子に教えてやれず。我が子に苦労しか掛けていない……自分が親だと胸を張って言えない男が隊長……儘為らないな……)
仮眠用の一室に往くと軽い毛布に包まって得物を抱いて座り込み眠る者が多数。
起こさぬよう。
その列に加わった男は四時間の仮眠を取る為、呼吸を沈め、意識を落としていく。
夢現の意識に浮かぶのは己の大きな敗北と家族の姿。
迷惑を掛け続けた娘が微かな笑みすら浮かべなくなり、無心のようにも思える程、剣の道に儚い背中を埋もれさせていく光景。
『あなた!? あの子が!? あの子がッ!!!!?』
その日も自らの鍛錬に逃げ込んでいたライルは―――娘が化物に襲われて数日間も行方不明であったという事を妻の涙声で初めて知った。
半ば、突き放すようにして家を出した後も本家との関わりを持たせないよう過ごしていた。
それが唯一、娘を守る方法だと思って疑っていなかった。
放任にしか過ぎなかったのだろう。
娘の視線から逃げていたのだろう。
その選択の結果。
取り返しの付かない事態を招いた。
病院に駆け付けた時、彼を出迎えたのは赤鬼宗家の娘。
彼の人生を狂わせた男の娘。
だが、その娘の友人の方が、親たる身よりも多くの事を知り、子を支えた。
医者から聞かされた病状は到底、想像し得なかった凶事。
もう亜人とすら言えない肉体。
正常に子を生む事すら敵わないかもしれない。
精神の崩壊が始まっていると言われ。
記憶を封印する事を勧められた。
何処で間違ったのか。
娘に謝り切れるわけもなく。
ただ、如何なる事があろうと暮らしと病状の回復だけはと仇敵を頼り、今の任に付いて。
(……結局、娘一人支えられないダメな父親のまま……)
未だ起きた娘と此処数年話していない。
(妻へ任せ切りにし、あの子の見つめるものに目を瞑り、取り返しが付かなくなってすら、何もしてやれず。はは、これで親を名乗れるわけもない)
そんな自らに失望した男の下に少年の名が聞こえて来たのは娘の為にようやく動き出した時。
赤鬼宗家の長女エンシェン・イル・フォイルや妻から同じ学び舎に通う相手の話を聞いた。
本当なら何よりも先に感謝を伝えるべき相手だった。
化物に囚われていた娘を救い。
絶望した心を救い。
笑顔さえも浮かべさせたというのだから。
だが、娘と他者の関係を壊すのが怖い臆病者は俄かに忙しくなった自らの身辺を言い訳にして会いに行こうともせず。
(もう、この身に残されたのは……あの子の未来を切り開く事だけだと言うのに……心底に不甲斐ないな……刀の術理を極めても、我が子一人、我が子一人守れぬ者に何が守れるというのだ……)
ライル・エイフォン・バーゲルは己の罪深さに息を止める。
負け犬と多くの者に蔑まれる必要も無く。
自らの無力と弱さを自覚する故に。
彼は深く深く精神の水底へ沈んでいく。
(……悪かったな……ウル………不甲斐ない父で……)
被られた毛布の中。
湿り気を帯びた粒子が溢れ出す。
それは白く。
それは暗く。
それは深く。
それは冷たい、霧だった。
ゆっくりと、ゆっくりと、床の上。
虚空へと沈み込む男は最後まで己を責め。
そして、誰に悟られる事も無く。
アイウィスの内部から消えた。
ただ、一つだけ。
その存在を示したのは血痕。
背を預けた男の首筋のあったと思しき場所に残る紅の一線のみだった。
*
―――ゼオ家ウル私室。
「……?」
未だ帰って来ない少年を待ち続けて。
寝台の上で静かに明日の予習の為、教科書を見つめていたウルはふと顔を上げた。
薄緑色の壁紙。
壁に掛かった発条式の時計。
寝台とクローゼット。
鏡台にテーブルが一つと椅子が二脚。
刀や剣が数本壁際の専用のラックに固定されている以外は取り立てて前の部屋と変わらない。
いや、少し生活環境が向上した寝室。
しかし、多くが昔とは違っている。
ゼオ家に居候し、少年と同居する事にしてから窓際にはフォトフレームが置かれるようになった。
篆刻写真が一枚。
今風の印刷を使わない古風な画像は少年が武芸術大会で優勝した日。
応援していた大勢と共に撮ったものだ。
少年と出会ってから、ウルは多くの者と友好を結び、多くの喜びを得た。
恋敵ばかりなのが玉に瑕だが、それも少年を支えていける仲間同士、今は蟠りも無い。
こんなにも誰かと共に過ごす事が楽しいものなのだと彼女は今まで知らなかった。
部活で笑い、怒り、共に共通の話題で盛り上がる事なんて、自分の人生とは無関係の話だと思っていた。
それが今は日常となっている。
「わたくしの救世主……」
呟いて。
手に取ったフォトフレームがキュッと胸に抱き締められる。
薄く微笑んで。
窓際に戻した写真を見つめながら、彼女は自身の腹部を撫ぜた。
明日になったら、戻ってくるだろう想い人と彼女が繋がった証。
鮮やかな色彩に染まる明日へ残したいもの。
やがて、生まれてくるだろう命の事をまだ誰にも伝えていない。
母にも父にも少年にも仲間達にも。
けれど、居候する家の主にはお見通しらしく。
いつの間にか彼女は妊婦として気遣われていた。
そんな折、言われた事を思い起こす。
それは少年が先日行方不明になっていた時の話だ。
心配な内心は誰も同じ。
しかし、落ち着くようにとリビングのテーブルに柔らかな甘さが香る花を生けながら、ゼオ家の当主はウルに言った。
焦らず、疑わず、畏れず、待ち続ければいいと。
命を育む者となったならば、泰然と時を過ごすのもまた必要な事だと。
頷いた彼女に微笑む女は一児の母の顔をして笑った。
信じてくれる人を裏切れる程、少年は強くなんか無いのだからと。
それ以来、ウルの胸に宿るものは大きく成長したかもしれない。
言葉にせずともいい。
表現しなくともいい。
ただ、相手を待ち続けるだけの事が苦では無くなった。
「イクス……」
優しげに穏やかに呟きながら、彼女は深夜前には寝ようと決めて。
少年との今までを思い出しながら、まだ出会ってそれ程経っていないはずの不思議を思った。
その己の顔が既に母のものであると未だ知らず……。
*
―――アイウィス下層域第四植物研究所。
屍蝋の仮面。
人を侵蝕する霧が生み出す化物の形。
それに今まで違和感を抱かなかったのは明確な敵の形として誰もが認識していたからだ。
しかし、此処に来て少年は所員達の話からまた別の可能性を感じつつあった。
所員と所長達の意見統一が一応為されたてから数十分。
外の世界が未だ五年しか経っていないという事実に多くの物達が複雑な表情をしたのも束の間。
彼らと少年の話題は共通の敵の話となったのは必然であっただろう。
しかし、その段に至って多くの新たな事実が判明した。
それはアイウィスにおいて仮面達が見られるようになったのは此処最近の話である、という事だった。
最初から仮面は仮面として発生していると考えていた少年も驚いたが、当時アイウィスが異相側へと飲み込まれた際の録画映像や画像情報を見て、それも納得出来た。
五年前、研究所正門前。
『全砲門一斉射ッッ!!! 撃ぇえええええええええええええええええ!!!!!』
防衛隊員達が一斉射撃を加える映像の中に映っているのは黒き汚泥。
正体も分からぬ巨大な影絵の如きモノだった。
押し寄せてくる黒く染まった獣に蟲に人の形。
切取られた世界で未だ戦いを続けるのはアイウィスに残った最後の抵抗者達。
舗装されていたはずの開けた庭園風の駐車上は火砲と化け物達の争いに荒れ果て穴(クレーター)だらけになっている。
相手側は散発的に漸進(ざんしん)。
数に物を言わせた物量で押し潰さんと迫り。
これに対し、研究所の防衛隊員達は緊急用の転移方陣によって呼び寄せた18m級の自走砲22門と高格外套十八機によって応戦。
状況は膠着。
幾度目になるかも分からない波状攻撃を圧倒的な火力と弾幕で押し返し、擦り抜けた敵個体を連携した高格外套達の魔術を込めた剣が投射斬撃で中距離から撃滅。
これらの戦術によって辛うじて研究所は守られていた。
しかし、建造物全体を覆う結界も連続稼動一ヶ月目に入って、積層魔力の減りが深刻となり、映像の中の所員達の顔色は日に日に悪くなっていく。
待てど暮らせど遣って来ない救出部隊は期待出来ず。
彼らの精神的肉体的疲労も限界に達するのは目前。
食料に関しては研究所内の機材と設備によって十分に確保出来ていたが、大規模結界無しで防衛を続けるのは不可能であると誰もが気付いていたに違いない。
刻一刻と失われていく結界への魔力供給の数値を確認し、悲鳴のような声で映像内の所員達は議論を重ねる。
化物は倒しても倒しても切りが無かった。
増え続ける敵を押し留められる限界も近く。
脱出の為の算段も立たないとなれば、ヒステリックに泣き叫ぶ者や無力感に苛まれる者もいて当然。
精神のバランスを崩した所員達の間では諍いが多くなり、映像の中では殴り合いの喧嘩をする者まで現れる。
「お恥しい話です……」
壮年の現在所長の任に付いている男が途中で映像を切り、顔を俯けた。
話し合いの場は既に研究所内の小さな会議室へと移っている。
異相に暮らして二十年という月日が過ぎて尚、きちんと掃除された場所は埃っぽさも無く。
少年は集う四十代から五十代の所員達に緩々と首を横へ振った。
「【宇宙樹(ユグドラシル)】のY型。現在、この研究所の四方に聳え、結界と糧を供給し続けている大樹の使用を決断するまでに心を壊して自殺した者、脱出しようと逃げ出した者、それなりの数が出ました。黒い化物に侵蝕されて、結界越しに化物と化した者もいた」
「……」
「懸案の化物の形状に付いてですが、結界を張り巡らせた後も継続的に観測は続けていました。その今までの情報から言えば、あの仮面は此処数ヶ月で見るようになった新種。我々にとってみれば、化物が変化したというよりは弱体化したと言った方がしっくり来る相手なのです」
「弱体化?」
「これを見て下さい」
会議室の虚空に再び映像が映し出される。
「二十年間使い続けて、外部の観測機器はほぼ壊滅していますが、ライブラリは問題なく稼動しています。この二十年間の化物の記録です」
黒い影のような敵。
影絵が動いていると言った方がしっくりと来る化物達の様子は日付別に見続けても二十年間変わっていない。
しかし、とある日を境に薄らと面がその顔に浮かび始め、影だった部分の多くが元々の形と姿をゆっくりと取り戻していくのが少年にも理解出来た。
「我々が出会った相手は最初期、見るだけで精神を侵蝕する精神汚染の機能も備えていました。これで戦いに出た隊員の八割が精神の変調で戦力を低下させていた。辛うじて戦線を維持出来ていたのは【高格外套】と観測機器が事前にそのような事態に対処する為の機能を備えていたからであり、仮面化した後にはこれらの精神汚染能力の発現は認められていない。我々はこの数ヶ月、何が起こっているのか原因の究明を得られた情報を元に行なっていましたが、やはり結界越しでは限界があった。何かしらの異変は起きていると知りつつも、手出し出来ない状況だったのです」
「そうして、僕が来た……?」
「はい。その通りです。まさか、二十年越しの来訪者が教会と現実の情報を持って現われるとは我々には予想のしようもない事だった」
白衣姿の男女達が頷き合う様子に少年は自分が持ってきた情報が所員達にとって大きなものであったのだと再確認する。
「西部の亜人国家の異相にアイウィスがあるという事すら、我々には知りようの無い事だ。その国に七教会が大規模な異相調査の申し入れをしたというのも。だが、今日から我々にも新たな希望が見えてきた。あの子達に本物の空と大地。何処までも広がる世界を見せてやれる事は何にも代え難い喜びだ……」
所員達や所長との話し合いに再び数十分。
少年は五年前と後で変わった事。
亜人国家の現在。
七教会の動向など多くを語った。
一段落すると所員達に所長が働き掛け、研究所内部の案内するよう伝えた。
強制的な転移に肉体が疲弊していた少年はそれから休養を取るよう勧められた為、与えられた部屋に落ち着くとゆっくり肉体を寝台へ横たえる。
「ふぅ……」
語り疲れたのも束の間。
そろそろ此処から出て仲間達を探しに行く段取りを整えねばと思いながら、少年は研究所内の様子を思い起こす。
今も稼動し続ける研究所内は比較的音に溢れていて。
資料や紙の束が机の上に何枚も積み上げられ、実験器具は稼動し、大人達の間にはチラチラと子供達の姿もあった。
どうしてか。
やはり、子供達の様子は少年を見ると複雑そうな表情を浮かべていて。
話掛けられた時と同じような雰囲気だったのだけが気になるところだろう。
『……なぁ、このまま帰ってくれないか……』
思い出されるのはそれだ。
何故、帰って欲しいと思われたのか。
男の子に言われた言葉を少年は脳裏で反芻する。
嫌われたわけではないはずだ。
そういう気配でも無かった。
ならば、何かしらの理由があって、帰ってくれないかと言われた事になる。
だが、その理由に心当たりがまったくない。
となれば、原因というのは少年が知らない事実かもしれない。
(僕が此処から帰って欲しいと願われる理由……)
考えるよりも聞いた方が早いかと無機質な白壁に囲まれた部屋の中で身を起こした時だった。
『おい。あんた』
「?」
『そのままの体勢で聞いてくれ。今から三十秒したら、左側の寝台横にある排気ダクトの蓋が外れる。そしたら、二十秒以内にダクト内部に入って、外れた蓋を下に戻してくれ』
「君は……」
『悪いが話してる時間は無い。もし此処から出たいと思うなら、この提案は蹴らない方が、痛って何すんだよ? え? もう少しちゃんと話せってそりゃ』
「分かった」
『え? あ、ああ、やけに素直だけど、よろしくな』
耳元に聞こえた声に従い。
少年は言われた通り、三十秒で開いた寝台横のダクト内部に侵入すると蓋を閉める。
暗いダクト内部でも声は響いて来て。
それに従い内部を這い進んで数分。
小さな倉庫内らしき薄暗くひんやりとした場所に出ると其処には子供達が数人待っていた。
「あんた、此処から出たいんだよな? なら、協力するから、出て行ってくれ」
「馬鹿。そんな話し方しても相手が困惑するだけでしょ。まずは順を追って話さなきゃダメじゃない」
「え? いや、う、うん」
少年が内心で思っていた通り。
声の主は帰って欲しいと少年に伝えた男の子で話し方を咎めたのはあの時に男の子を連れて行った女の子だった。
他の子供達は所内で見掛けた者とそうでない者が半々。
一体どうして自分を密かに倉庫内へ案内したのか。
分からない事だらけだったが、理由というやつを聞けそうだと少年が女の子の方に視線を向ける。
「こんにちわ。イクス・ゼオさん。私達の事は聞いていると思いますけど、一応自己紹介しておきますね。私達はこの所内で産まれた子供……【叢龍児(ユグドラシア)】です」
「……“ユグドラシア”?」
「はい。大人達が隠している事を教えたくて……貴方に恩返ししたくて……私達はこういう行動に出ました」
「恩返しって、何かしたかな?」
「……貴方が知らなくとも、私達は知ってます……今、本当の姿をお見せしますね」
全員が僅か自分達の耳下に手を当てるとパチンと指を弾いた。
すると小さな魔術の光が弾けて。
僅かに子供達の顔が歪む。
「君達は……」
「はい」
たぶんリーダーなのだろう女の子がそっと自分達の正体を告げる。
「私達はエルフ……ダークエルフなんです」
褐色の長耳と整った顔立ち。
それらを見ながら、脳裏で歯車が動き出す音を少年は聞いた気がした。
*
―――???
小さな館の大きな居間。
屍蝋の面を付けた極彩色の人形達が整列する最中。
音頭を取るのは時計の中から飛び出た音楽隊。
ポヨヨンと間の抜けた音がして時刻を知らせる鐘が鳴った。
機械仕掛けの正確さ。
時を告げる喇叭吹き。
目覚める時だと誰かが語る。
「諦観の塔は燃え尽きたり」
眠り姫の如き女。
「第二の贄。その名は怠惰」
黒のエルフ。
「罰するは誰か」
少女の唇は意思無きまま舌を躍らせる。
すると、小さな細切れの紙片が浮遊し、人型を形成する。
それは実態無き者が自らを顕した形。
命を容赦なく裂き尽くす。
命ではないもの。
それが2m強の鎧。
室内の壁に立ち尽くしていた七教会の最新式高格外套。
【凱奏(トリアフォム)】にベッタリと張り付いた。
「―――【暗躍者】(ヌギル・コーラス)」
ひひひ。
そんな声がして。
黄金の仮面が扉の隙間から覗いていた。
【ご飯にする? ご飯にする? ひひひ♪】
楽しそうに嬉しそうに白布が舞って。
虚空の果て。
巨大な何かが無数に回遊する都市の奥。
小さな館から鋼の固まりが消えた。
すると、漣が溢れ出すような音がして。
空が、世界が、紅く紅く染められ、黒い雲で彩られていく。
ようやく。
本当にようやく目覚めたのだろう。
ふわりと館内部の少女が浮き上がり、それと同時に館もまた地表から離れて街の頂へと移動していく。
やがて、大地が四つに分断され、まるで階段のような時計回りでせり上がった。
耀く世界に映し出された回遊者。
名状し難き者。
世界の外を悠々と通り過ぎる外なる神々が四匹。
魚のような船のような鋼のような生物のような何モノにも似て何モノにも似ないソレが分割された街の中に不時着し、ドロリと蕩けて染み込んで行く。
崩落する大地。
穴だらけの静寂。
砕けた街並み。
蕩けた道。
極彩色に染まった花。
揺らぐ人影。
狂気孕む酒樽。
吼える家。
さんざめく空気。
生物と鉱物の狭間で響く階段。
砕け散る寸前の銅像。
虚空に続く祠。
嗤い歪む硝子。
何が何やら分からない人に認識出来て理解出来ない諸々が極彩色の不気味さを秘めて成立していく。
そんな中をクルクルと踊るように跳躍して。
顔の半分を覆う黄金の仮面を付けて。
ダークエルフの少女が肌も顕に駆け抜けていく。
遊び場が出来たとばかりに喜びは深く。
抽象画に紛れ込んだ妖精さながら翅も無く踊れば。
何処からか太鼓と管楽器の音色が狂気の空を劈(つんざ)いて。
人の精神を容赦なく冒す調べが垂れ流された。
【ひひひ♪ ひひひ♪ 楽しみ♪ ナーリヤ楽しみ♪ ひひひ】
階段を下りて、上層へと昇っていく。
大天使達が嘗て存在した門の如き逆転した世界で少女は何度も何度も呟いた。
だが、その大きな歓喜に水を差すような光が一粒。
階段と化した最後の街の欠片の終点にポツリと居座った。
【ひひ? 天使? 天使? ひひ?】
それは少年がアルヴァス・カレッジの裏山の鳥居に見た光。
少年とも少女とも付かない存在と仮面を無数に付けた化物。
それらと共に現われたもの。
少女がそろーりと光の先に指を付きだそうとして、バチュンと指を消し飛ばされる。
【………ひひ?】
行かせない。
そんな意思を体現して。
光の塊が広がり、まるで門の如く街の一角を封鎖した。
【遊ぶ? 遊ぶ? ナーリヤと遊ぶ? ひひひ♪ ひひひひ♪】
いつの間にか再生した指で指揮でもするように虚空を掻き回せば、最初から其処にいたかのように街のあちこちから屍蝋の仮面―――否、欠けて融けた仮面を被る人型や獣、大きな鯨や小さな蜘蛛、物言わぬ尖兵が黒い肉体を晒し、王女を守れと言う様に兵隊の如き統制の取れようで彼女の前へ集っていく。
【遊ぼ?】
永劫続くように街から湧き続ける化物達の数は無限か。
踊る主に付き従って、渦巻く嵐と化し、光の門へ殺到した。
【ひひひ♪ ひひひ♪ ひひひひひひひひ―――】
未だ誰も辿り着かない果ての果てで。
鬩ぎ合う光と影。
誰も知らない終わりの始まりが、成(な)ろうとしていた。
一人の少年を待ち受けるように……。