第三章六十四節「凶界手引Ⅳ」
小さな掌を握っていた。
優しげな雲を穏やかな風が運ぶ。
薄ら霧が掛かる峠の道。
小川も流れるまま。
散る花も鮮やかに通り過ぎ。
それが当然のように蟻は列を伸ばす。
何も無い場所だと誰かが言った。
しかし、何もかもあると心は知っている。
その景色、生まれ故郷のものならば、如何程に心安らかな事だろう。
『……』
長閑さに歩けば、隣の娘は退屈と陽射しの熱さにおぶれとせがみ。
明日も知らずに笑っている。
『……』
それもまた夢か。
苦しみと悼み。
嘆きはやがて諦観へと変わり、明日は夢見るものではなく、遠き地獄と化した。
思い出しても、思い出しても、帰らぬものは近付かず。
昨日に涙する思いも擦り切れた。
ならば、どうすればいいと言うのか。
何を糧とすればいいのか。
人を満たすのは食事だけではない。
希望が必要だった。
失われない、失うまいと必死になれるものが。
無いなら創ればいいと誰かが囁き。
だが、残酷に数値は示された。
『……』
言葉も無く。
崩れ落ちたのは意思か。
壊されて、穢されて、帰らない者達に報いる事も出来ず。
新たな未来も得られなかった。
その時の気持ちを絶望とは言うまい。
再び襲われた嘆きの間はやはり諦観と化して。
誰もが生きる気力を持てなくなり。
日々、仲間達は減っていく。
だからだったのかもしれない。
四方に立つもの。
限られた世界の果てにして糧にして終わりたる塔の下。
流れ着いたソレを見た時、全てが決まっていた。
何の確信も無かったが、確かにそれを見た誰もが決めていた。
取り憑かれたのかもしれない。
きっと、病んでいたのだろう。
だが、それでも構いはしなかった。
悔いは―――決して無かったと今も断言出来る。
それは総意であり、検証結果が否だったとしても、行なわれたに違いない。
『……』
生命科学。
波動錬金学。
遺伝子工学。
魔導環境学。
必要な叡智は全て揃っており、また自らを否定するだけの倫理も精神の健全性も当の昔に損われていた。
『……』
まず試作は検体の細胞採取から始められた。
まず、第一に使用されたのは生命科学。
植物学を含む生命原理の解明に一役買った多用な分野の叡智より齎されたのは創造する為に必要な生体構造モデルの構築。
これによって、最適な固体の形を割り出した。
続いて必要となったのは遺伝子工学。
検体の遺伝構造の完全解明。
そして、採取されたサンプルを下地にした生体構造の構築。
単純な遺伝情報の培養による固体作成は不可能だったが、これに新たな叡智を加える事で次のステージへと突入する事が出来た。
重要視されたのは波動錬金学。
全ての物質を波動という観点から解き明かし、古の叡智たる錬金の秘奥。
それこそが採取した精細胞だけでは為しえない事を行う唯一の力として重宝された。
【宇宙樹ユグドラシル】培養の為、研究所内に残されていた管理者たるエルフの遺伝子情報。
現物が存在しないとしても、完全なデータさえあるならば、波動錬金学は魔力を大元として波動と物質の置換魔術のみで分子構造レベルから“本物”を作成する事が出来る。
無論、物資や触媒、魔力が限られた研究所内では肉片以下、極微小な細胞以上のものを創るのは不可能だったが、何ら問題は無かった。
目的は卵細胞。
天啓のようにエルフのデータは女性のものしかなかった。
三つの叡智を結集して生み出された初期ロット。
それを安定して成長させるのは魔導環境学。
【魔導技術ハイクラフト】の一部である魔術理論は元々が環境維持と環境保護の為に自然界のサイクルを魔術のみで成立させる事を目的として生み出された。
この“環境”の研究は多岐に渡り、多くの生体サンプルの培養と維持を容易くする。
解析不能の汚染された世界においても生活環境をギリギリで維持出来ていたのはその叡智があったからに他ならない。
残された最後の一粒を使い作成した特製の“揺り篭”と成長を促進、維持出来る環境を生み出す学問。
何もかもが最初から用意されていたとしか思えない程に上手く。
とても上手く事は運んだ。
初期ロット三百の内の二百八十は途中で揺り篭に吸収され、四十週を過ぎた辺りから異変を来たした固体が順次、培養液に溶解。
十ヶ月を数えた頃。
十数体がこの世に命を受けた。
『……』
全ての者の瞳に涙が浮かべたのは間違いない。
そんな時だ。
新しい研究に没頭していた間、忘れていた問題が迫り、また仲間を減らす事になるのかと沈み込んだ仲間達に大きな転換点がやってきた。
検体の解析において、その細胞が【宇宙樹】との親和性に優れていると判明。
更に質量換算で細胞十数㎏が人間一人と同等の性能を示したのである。
―――使うしかないと誰かが言った。
必要とされた重量は検体ほぼ全て。
採取された細胞を除けば、残りは1gすら無駄には出来ず。
作成済みの初期ロットがロールアウトした事も相まって、解析データ以外の検体、現物は全て四分割の後に運用すると決定した。
全てが始まって二十年。
検体が何もかもを担って十数年。
本来ならば、後数日で崩壊するか。
新たな犠牲を出さなければならない時に再び、奇蹟は訪れて。
『……』
思考は既に停止した。
倫理は当に摩滅した。
嘆きは諦観に変わり、燃え尽きる塔に新たな光を焼べる日が来たのだ。
助けが来るかは問題ではない。
信じる事には疲れている。
ならば、残った取り得る選択肢は―――。
*
誰もが同じ言葉を少年に告げた。
皆良い人達なんだよ、と。
この研究所には沢山の思い出がある、と。
狭い世界の中でも外には沢山のものがあると教えてくれた。
一杯、贈物をしてくれた。
少ない資材と限られたもので飾られた誕生日。
四季を忘れぬように生まれた順に兄妹へ与えられた季節の花名。
良い父親になろうと奮闘し、良い母親になろうと笑い続け、辛さの欠片も教えてはくれなかった。
精一杯に抱き占める事もあれば、厳しく正しい拳骨も降らせた。
熱い食事を先に取るのはいつも子供達から。
どんなに食料が限られた時でも、それは変わらず。
善良で優しくて本当の親……それ以上の事をしてくれた。
だから。
『どうか怒らないであげて下さい』
そう、少年は言われた。
「………」
研究所の四方にある巨大な樹木。
40mはあるだろう塔の如き“果て”の下。
嵌め込まれた透明な内部へ到る為の入り口。
仄かに発光する樹液の満たされた【宇宙樹】内部。
「………」
それを見て。
少年は思っていた程、衝撃も受けず。
全てを受け入れる。
「………」
白衣を着た死体。
いや、今は樹木内部のネットワークの一部と化した屍の群れ。
男もいた。
女もいた。
老人もいた。
しかし、今現在、【宇宙樹】という超高度の魔術師以外に制御のしようもないソレを維持しているのは―――紛れも無くイクス・ゼオと同じ顔、同じ体、同じ瞳をした“モノ”だった。
「説明されて違和感を感じませんでしたか? どうして早く【宇宙樹】を使う決断をしなかったのかって。その理由がこれです……この研究所には一般研究職の人材しか居なかった」
半分に分割された顔。
それも胃の辺りから更に横半分とされた肉体は今も腐る事無く。
樹液の中央で薄い魔力の光の管に繋がれていた。
「魔術の成果物を扱っていながら、研究者の誰もが本当の魔術師じゃなかった。魔術の一般化はとても素晴らしい事だったかもしれない。けど、その結果が……これです」
黒い長耳。
麻布の衣服を身に纏った女の子。
その説明を聞きながら、少年は妙に納得していた。
「子供が出来ない程、霧の影響で生き残った誰の遺伝子も変質していた」
魔術が使えれば、今時は服の一着くらいまともに作れるはずなのだ。
しかし、彼らが来ていたのは研究所内で栽培された植物を編み作ったと思しき荒い衣装。
仮にも重要な最新研究をしていた施設と、彼らの姿のチグハグさ。
その正体。
それは分業化の極致にある七教会だからこその悲劇。
仮に高度な魔術を扱い得る者が一人でもいたならば、状況はまったく別のものになっていた可能性が高い。
「【叢龍児ユグドラシア】……その正式名称は波動構成型細胞構築体。【魔導技術ハイクラフト】の発展時、禁忌指定を受けた人類遺伝子ベースの知的生命創造の秘儀。それに該当する不法創造物が、私達なんです」
それは恐ろしき世界の果てに流れ着いた一体の“検体”と研究所に保存されていたデータより創造された細胞を掛け合わせる事で生まれた。
何処からソレが流れてきたのか。
知らずとも利用しようというのは合理的な思考だろう。
限定的ながらも霧の影響下でも化物化しない、変質を免れる不死性は魅力的に見えて当たり前だ。
自身でもその特性を最大限使ってきたからこそ。
少年は責める気になれなかった。
気分が悪いか良いかという面でなら、良い気はしない。
が、散々自分の能力で全てを押し通してきた自分が文句を言える立場なわけもない、というのが少年の正直な感想であった。
「大人の誰もが隠してるけれど、検体……いえ、其処にいる貴方と同じ姿の人は……限界に来てます。後数日で【宇宙樹】は制御出来なくなる。脳を簡易の魔術と五感を使う暗示で樹の制御中枢として機能させるのも、基本的には本人の資質次第。七教会の部隊が助けに来ると聞いた誰もがきっと、帰りたいと望んでる……自分をもう犠牲に出来ない……ですから……」
「………役に立った、かな?」
「え……」
振り返った少年は十数人の子供達の顔を見つめる。
樹木内部から透明な硝子を透かして、光がその背中を照らす。
『―――』
自分達の前にいる相手の表情に酷く……とても酷く狼狽して、彼らは視線を落とした。
その瞳には沢山のものが過ぎ去る。
一言では表せもしないだろう。
諸々の回答は最初に顔を上げた女の子が示した。
「はい。とてもお世話になりました。本当に……沢山のものを……貸して貰った……」
「そだな。所長や皆にも貸してくれた」
子供達の代表者だと言う男の子も頷く。
「あんたを見た時、正直驚いたけど、ピンと来なかった。あんたと“この人”がどんな関係なのかは知らないし、聞く気もないけどさ。それでも……これだけは言わせてもらうぜ」
差し出された手を躊躇無く取って。
「ありがとよ」
少年はこんなにも狂気に満ちた世界に在りながら、それでも嬉しく感じる自分を少しだけ可笑しく思った。
そんなところが変と少女達に言われているのだろうな、と自覚しながら。
チュゥンッ。
弛緩し掛けた場に場違いな音が響く。
夜の静寂に響くには物騒な銃弾の弾ける音。
「所長?! そんな、まだダミーの映像が走ってるはずなのに?!」
土瀝青アスファルトを罅割れさせて伸びる大樹の下。
研究所の方角からやってきたのは大人達だった。
その中心にいるのは現在の研究所を纏める所長。
壮年の男。
闇に浮かぶ輪郭には苦悩が、何処までも深い人の感情が浮かんでいる。
「その様子……どうやら聞いたようだ……」
風も無い結界の中。
それでも風を感じて。
少年は微笑む。
「ありがとうございます」
「―――どうして感謝する必要がある?! 我らは人として最低限の道を違えた!! そして、今こうしてまた違える事を後悔すらしていない!!?」
思わず目を見開き吼えた男の周囲で研究者達すらも、驚いた表情で固まっていた。
「選んだ事がどうあれ。僕は自分と繋がりがある人達を得た。それは……きっと、何物にも代え難いものだと思うから……」
「ッ―――責めればいい!! これが人のやる事かと!!? どうして、こんなにも若い私が所長をしていると思う?! 制御中枢になるのを“旧い順”にしたからだ!! 死にたくないと喚いた者をその牢獄に押し込めたのは私だ!! 私達だ!! それですら!!? それで、すらッ!! 制御が持つ時間は三ヶ月が限度だったッ!! その度に私達は、私は罪を犯し続けたッ!! 同僚を!! 恋人をッ!! 仲間をッ!! 伴侶をッ……ッ……我々はこの樹に捧げて―――」
所長の周囲で職員達もまた顔を歪める。
「君がいたから、光が生まれた」
「何―――?」
その言葉に周囲の誰の顔も少年を向いた。
「もう、誰とした約束かも分からないけど。そう言って貰えた事があります……忘れるなと、誰かが僕に言っていた。皆、同じです。誰かがいなければ、闇を彷徨うだけ。貴方達がいたから、この子達は光を得た。貴方達がこの子達から光を得たように……それは醜い己を照らすかもしれない。でも」
一歩。
その眩きものを前にして罪人は下がる。
「それでも光を捨てられないのが人間じゃないかと、近頃思うんです。貴方達が罪だというなら、それは消えない傷となるしかない。けれど、どんな悪人もどんな善人も人間である限り、自分の業からは逃げられない」
「そうだッ!! 己の罪から逃れられないならッ!! 最後まで全うするしかないッ!!! だからこそ、貴方には犠牲となってもらう!!?」
拳銃、魔術、背後には【高格外套】すら控えさせて。
苦し紛れに怒鳴る所長へ。
少年は少しだけ苦笑した後。
緩々と首を横に振った。
「誰も犠牲にさせたりしない」
「何、だと?!」
「僕がどうして此処に導かれたのか。今なら、少しだけ分かる気がする……あの花の光……それはこの場所に辿り着く為の……いや、外に貴方達を導く為のものだった……」
「何をッ!? 何を言っている!!」
もはや、所長を筆頭に大人達の顔にあるのは怯えに近いものだった。
それは少年の得たいの知れなさや力を感じさせるような気配に対する感情とは別物だ。
自らの罪に光を当てられ、手を差し伸べられるような、罪悪感と居たたまれなさ。
人が本来持ち得る良心という名の光を再確認してしまう故のもの。
「怨んだかもしれない。憎んだかもしれない。でも、誰もが帰りたいと願い、そう努力したならば、それは報われるべきだと思うから」
少年が歩き出した時、誰もそれを止められなかった。
危ないとも、ダメだとも、近寄るなとも、大人も子供も、言えはしなかった。
何故なら、少年は―――微笑んでいた。
「皆で帰りませんか? “全員で”……この場所から……ちゃんと弔って、悔やんで、悩んで、それで納得出来なくても、光の差す場所……笑い合える人がいる世界を見る為に」
銃が、落ち、魔術が、消えた。
大人達はその虞おそれが何かをようやく知る。
自分の目の前にいるのは、いつか自分が捨て去った、人間性という名の光だった。
「貴方は……何だ……?」
懺悔するように訊ねた男に少年は冗談交じりにこう言った。
「空飛ぶ麺類を信奉してるちょっと変わったアルヴァス・カレッジの学生です」
『――――――』
「此処にいる全員に約束します。誰も此処には残していかない。【境界踏征オーバー・フラタニティー】所属イクス・ゼオが、現実まで必ず連れて行きます」
万力のような力が篭る所長の腕が、ゆっくりゆっくり上がっていく。
本当かとも。
確認すら必要なく。
自分の前に経つ“男”の本気を感じ取った大人達は、諦観の先で失われたはずのものを己の中に認めて。
涙を取り戻し始める。
最初は静かに。
序々に力強く。
誰かに言って欲しかった。
自分達で言い出すべきだった。
捨て去ったはずの想い。
……帰りたい。
その誰かの願いたる一言に少年は頷く。
「きっと、空を見たら吃驚する事、請け合いですよ?」
子供達が涙する。
大人達が心の底から笑顔を浮かべていたから。
大人達が涙する。
子供達がそんなにも喜んでくれているという事に。
そのまま、全てが上手くいったなら、何もかもが大団円。
そうに違いなかった。
しかし、だが、しかし、其処は凶界で、少年は非力で、仲間達は居らず。
アイウィス下層域。
更なる深淵に続くはずの扉在りし場所が、ピシリと音を立て。
―――大地と結界が。
【ひひ、ひひひひ、ひひひひひひひひひひ♪ ひひひひひひひひひひひひひひ】
声と共に割れた―――。
*
「美紗さん!!」
「無事ですか?! 二人とも!!」
自力での【崩燼機関】を使った転移直後。
獅子少女は仲間たる兄妹の姿を見つけて駆け寄った。
辺りは閑散としたアイウィスの郊外。
草木も生えない荒地の只中。
元の大きさに戻っている【OEDS】から、今まで戦闘をしていたのだろうかと美紗は二人の姿に傷一つ無い事を確認し、安堵の息を吐く。
「良かった……今のはアーギストさんが?」
「いえ、兄さんの力は借りましたけど、コレのおかげです」
エストリアが巨大なハンマー状のソレを掲げる。
「この【崩燼機関】にはそんな機能が……」
「あ、いえ、そういう転移の機能は無いんですけど、色々とあって……えっと、その、何でしたっけ?」
「多重解釈による法則の誤謬機能だ」
「えっと、絵本の何でもありな魔術師、みたいな感じで……」
チラリと兄を見て。
その頷きを確認した少女はイマイチ理解し切れていない己の力に自分でも首を傾げた。
「まぁ、そちらは後で伺います。それより、残りの二人の方は?」
「ああ、そっちは既に補足してる。だが、これは……」
アーギストが虚空を僅かに睨んで難しい顔をしているのに気付き。
美紗が気を引き締める。
何か良くない事が起こっているのは頼りになる魔術師の雰囲気で彼女にも分かった。
「ッ―――崩落しているのか?!」
「どういう事ですか?! 兄さん!?」
兄の危うげな言葉にエストリアが思わず叫んだ。
「まずい状況になった!! この領域から緊急離脱しなければ、巻き込まれかねないッ?! クソッ!! どちらか一方に行くのが限界か?!」
「兄さんッ!?」
アーギストが僅か逡巡した後。
拳を白くなるまで握り締める。
「今、この領域の下層域が急速に崩壊している!! だが、この崩壊速度だとジルムスも直に巻き込まれかねない!! 二手に別れるしか二人同時に回収する方法が無い!!」
「―――なら、私がイクスさんを向かえに行きますッ!!!」
「分かっているんだな? お前一人で向かう事になるんだぞ」
エストリアが首を横に振った。
「一人じゃありません。きっと、イクスさんは生き残ってますから!!」
その妹の強い笑みに時間が無いと。
アーギストは本当の意味で妹が巣立ちを迎えているのだと内心に刻む。
いつまでも守ってやると。
そんな事ばかり考えていた自分が知らない程、強く強く。
少女はもう羽ばたき、離れていく。
妹離れしなければならないという自覚くらい彼にもある。
そして、その何時かは今となった。
ならば、送り出す言葉は一言だけ。
「待ってる……」
「はい!!」
二人の様子に美紗が付いて行こうと言い出しそうになったが、アーギストが自分に首を横に振るのを見て、そう出来ない理由があるのだろうと理解した。
「これからジルムスを回収して、アイウィスの境界域まで後退する!! 回収目標地点は既に【OEDS】に入力しておいた。イクス・ゼオを掴んだら、後は如何なるものにも目をくれるな!!」
アーギストが初めて。
本当に初めて妹に背を向けて転移魔術を編み始める。
数秒で発動するだろう魔術方陣が美紗の足元まで拡大して燐光を発し始めた。
「エストリアさん。お気を付けて」
「はい。美紗さんは兄さんの事をお願いします。こう見えて、兄さん少し寂しがり屋だから」
反論しようにも、転移寸前。
アーギストは言うようになった妹に唇の端を歪めて。
何も語らず転移を実行した。
瞬間的に消えた二人の痕跡は何も残らなかった。
少女もまた最下層への座標を入力し、最後の工程に入る。
「【コード・イクイッド(Code.E.QED)】」
ガチャリとハンマーの上辺に四つの長細い長方形の突起が突き出した。
「転移終端誘導。理想値演算終了」
パリパリと突起の周囲が輪リング状の帯電現象を引き起こし、急速に安定化して薄らと天使の円環ハイロウにも似た光の円環を生み出す。
その内部に循環し始めたのは白い数列。
瞬間的に加速したソレに呼応して突起がゆっくりと内部へ戻っていくと輪は急速に縮まって、ハンマー本体部分を柄のようにし、2m程の棒状の光へと変化した。
「【理想器イデアライザー】―――実行エグゼキューション!!」
棒が地面に思い切り突き立てられた瞬間、下がぽっかりと穴と化し、数mに渡って底も見えない闇を晒した。
アイウィスの全階層を貫いて、【OEDS】が最短ルートを確保したのだ。
「転移開始ッ!! 待ってて下さい!! イクスさん!!?」
少女の姿が消えた時、今まで何処までも静かだったアイウィスは急速に歪み始め、まるで劇の書割が色褪せたが如く。
悲鳴を上げて下層域へと崩落していった。
*
―――アイウィス境界外域。
無限の虚空。
そうとしか言いようの無い異相に出来た世界の端でまるで周辺の真空や環境そのものからの浸食も意に介さず。
黒猫がトコトコとその黒い球体を俯瞰する位置に陣取っていた。
いつも少年の頭が定位置の究極の魔術血統生物である。
本来、魔術師以外には死地であろう“无”に侵された領域。
其処に生身で浮かんでいるだけでも相当に驚くべきものだったが、彼女は今現在進行形で続いている崩落を感知しながら、じっと球体の内部を観察していた。
遠近感が狂う事この上ないアイウィスを内包する黒い玉は掌に載りそうに見えて実際には急速に膨張し続けている途中だ。
その世界が、外なる神々の力によって虚無の属性を与えられ、異なる法則性を備えた“海”によって現実と隔てられているのは皮肉かもしれない。
アイウィスの周辺領域は実態として広大無辺の如く振舞う為、未だ現実を侵蝕し切れていないのだ。
が、今球体内部で起こっている激変がその均衡を破ろうとしている。
閉鎖系に移行したアイウィスが破れれば、内部から世界が溢れ出す。
膨張が止まっていないのだから、その巨大化する速度もまた弾けた際の勢いでどうなるか分かったものではない。
「マヲ~~」
近頃何かと後始末な出来事が多い為、寝不足な感が否めない黒い物体はペタリと何も無い世界に座り込んで尻尾をパタパタさせながら、さてどうなるかと奮闘する者達を見つめた。
遠くからは二つの気配が近付いてくる。
一つは彼女の知り合い。
もう一つは物騒な人々。
アルヴァスに霧と化物が引き起こした怪奇事件の転換点が迫っている。
この難所とでも言うべき現在を乗り越えられるかどうかが、国が滅ぶかどうかの瀬戸際だろうと彼女は此処に集う者達全ての尻けつを持つ為、其処にいるのだ。
最後の魔王の一件で久しぶりに自分の為すべき事をした彼女は嘗てよりも少しだけパワーアップしている。
というか、大きな法則を左右出来るようになった。
それをアルヴァスで出会った人々の為に使う事を厭いもしない。
生まれ持った強大な力は常々使い道に困るものであって、運用の機会が殆ど無い代物。
それが一転して自分のお気に入りの誰かを守る為に使えるのだから、ある種使い道を与えてくれた諸々の人々に彼女は感謝すら覚えている。
才能や資質というやつは使わないと磨かれないものだ。
人生という時間に暇を持て余し気味なクヲンにとって、生きるとは正に世界を楽しく探求する事。
それに自分の力が使えるなら、尚良しと思うのは普通に生きている誰もが思う事だろう。
自分の力で道を切り開いていく。
このような普遍的人類の価値観を彼女もまた持ち合わせているのだ。
他人任せばかりでは面白いものなんて見付からない。
自分でやってこそ、自分で為してこそ、人生は一際耀く時間になっていく。
主に少年の頭の寝心地を自分の手で勝ち取るのが彼女にとっては近頃の流行だが、人助けというのもまた心躍るものであった。
不謹慎と言うなかれ。
退屈とは知的生命にとって致命的な劇薬に等しい。
長い時を生きていくならば、それはいつか克服しなければならない課題。
全てに興味を失って、消滅や世界からの逃避を選ぶ超越者や神々が存在する中、彼女の思考はまったく健全と言える。
それが人類の為になるならば、それこそ人類という可能性の極北たる究極生物冥利に尽きるだろう。
「マヲマヲヲ~~♪」
終わりは既に見えている。
全ての崩壊か。
踏破の続行か。
結果がどちらになるとしても、彼女は自分の出番が来るのを只管期待しながら待っていた。
最後に少年からありがとうとか、好きなだけ頭に載っていいよとか。
そういう言葉を掛けて貰えたらと未来を夢想しつつ、浮世離れした黒猫は揺らり揺らりと尻尾を上機嫌にパタパタし続ける。
「マゥヲ?」
どうやら大物が来たようだと。
彼女は周囲で回遊する“ソレ”を横目にのんびりと休日の午後を暮れさせていった。
世界の内側までやってきた外なる神々。
全てを無為に帰す存在も、その物語に興味津々の様子らしい。
避けられない争いは既に始まっていた。