※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第三章六十六節

第三章六十六節「凶界手引Ⅵ」

 

 ………………………物悲しい曲だった。

 

 いつか耳にした優しい声。

 

 何も考えずに誰かを見つめられた日の街角。

 

 確か、泣いてしまったのだ。

 

 温かくて、哀しくて、凍えてしまいそうになって。

 

 日溜りのような温もりが傍で心配そうな顔をして。

 

 何も言わず鋼の如き肩が寄り添い。

 

 おちゃらけた指が頬を摘んで。

 

 おろおろした足音が慌てていた。

 

 きっと、誰もが呆れてしまうと思っていたのに。

 

 そうではなくて。

 

 とても、大切にしてくれて。

 

『   』

 

 嬉しくて……嬉しくて……胸に積もるものを一生忘れないでいようと思った。

 

 それが例え約束で無くとも。

 

 詩は確かこうだ。

 

―――君に会えた事を祝おう。

 

―――明日に泣いて苦しむとしても。

 

―――夢に描いた道の先には。

 

―――今日の日々が今も続いて。

 

『   』

 

 肺が無いから声も出ない。

 

 腕が無いから何も掴めない。

 

 足が無いから道も歩けない。

 

 体が無いから誰も追えない。

 

『   』

 

 けれど、それでも、諦められない事があった。

 

 ………………………あったのだ。

 

 *

 

 その光景を見た時。

 

 彼女の心臓はきっと一秒か二秒か。

 

 きっと本当に止まっていた。

 

「い―――っ」

 

 何かと何かが争う虚空の中。

 

 浮かぶ大樹の中心にコトンと落ちた首(ソレ)。

 

 ゃぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ―――。

 

 何も考えていなかった。

 

 誰が争っているのかとか。

 

 何が起っているのかとか。

 

 そんな事は全て頭の中から抜け落ちて。

 

 ただ、最短の道を飛翔していた。

 

 その時、何をどうやって、“邪魔なもの”を退かしたのか。

 

 理屈も方法も彼女は知らない。

 

 ただ、自らの手にある力【OEDS】―――否、【理想器(イデアライザー)】を思いのままに振るっただけだ。

 

 コード・イクイッド。

 

 間違った証明に拠る現実法則剥離。

 

【崩燼機関】の出力時、周囲の被害を抑える為に使う余白空間(サブクッション)を“多重解釈結界”として構築する裏コードは世界の法則を意のままに改編し、その全動作をほぼエネルギー0で行なう大詐術。

 

 失われる資源(リソース)は機構内部で臨界反応を示し続ける【原理粒子(イデアル)】が無尽蔵に生み出す大海の如き力の一滴のみ。

 

 それは不完全なままでも神の如き力と言える。

 

『『―――』』

 

 空間が、削れた。

 

 光たる一柱は自らの一部が完全に【意味消失(ブランク・ワード)】を迎えたと悟って、瞬時に崩壊部分を切り離して後ろへ下がり、鎧たる一柱は削れた防御用の空間を即座に入れ替え、更なる攻撃に備えた。

 

 どちらも大きな異変は無いようにも見える。

 

 が、片方は自らの一部を理不尽にも消し去られ、片方は天使の攻撃すらも防ぎ切る防御用空間のストックをゴッソリと持っていかれた。

 

 それは二柱にとって、すぐ回復出来る微々たる消耗でしかなかったが、無視出来る類の話でもなかった。

 

 何が起ったのか。

 

 答えはそう単純ではない。

 

 概念を含むあらゆる法則の消失。

 

 つまり、“无”が発生したのだ。

 

 それは流動する肉の塊。

 

【外神獣(アウタン)】が放つ虹色の光弾と同等の現象。

 

 いや、形而上の仮定そのものだ。

 

 彼女が通り過ぎる“空間”は“何も無いという事”に置き換えられた。

 

 世界を規定する法則が消失するという事は意味、概念が消え去るという事。

 

 高次存在にしてみても、自らを規定、確定するモノを消されては己が危うい。

 

 概念魔術を扱う一部の超高位術師以外には行使不能だろう力が今、魔術の魔の字程度しか理解しない少女の手で振るわれ、少年を粉砕した存在を退けたのである。

 

 仮にも鎧に宿るのは“无”の化身たる外なる神々の一柱だ。

 

 しかし、現在は憑依した【高格外套】に全てを依存している為、実質的には自己の属する世界とは異なる法則で動かざるを得なくなっている。

 

 結局、侵蝕した世界において宇宙の外を揺蕩うモノは力の一端も振るえない。

 

 現象として出力される彼等もまたある意味では有限という現実が超絶の機構によって明らかにされた瞬間だった。

 

「―――!!!!?」

 

 何を言っているのかも定かでは無い程、顔をグシャグシャにして。

 

 少女は、ハイダル・エス・トリアは少年の前で叫ぶ。

 

 樹の表面で止まった首(ソレ)に伸ばされた手は嘗て無く震えていた。

 

(間に、合わなかった―――イク、スさ―――何も、まだ、言って―――いや?!!―――い、や?!!?)

 

 干上がった喉が、引き攣った顔が、白くなった手が、震える肩が、衝撃を振り払うように、己の持つ力の源たる正方形の機構に視線を合わせた時。

 

 トプンと彼女は水の中へ落ちるように少年の頭を抱き締めて、融合した【宇宙樹(ユグドラシル)】の中へと引き込まれる。

 

(守る、守るッ、守るッ!! イクスさんは私がッ!? 絶対にもうこんなッ!!? 兄さんのところに―――)

 

 絶望の中。

 

 それでもエストリアは少年の能力と兄の力。

 

 そして、自らの振るう機構を信じて世界の彼方。

 

 現実に近い境界まで跳ぼうとした。

 

 しかし、それよりも早く暗かった彼女の周囲の樹液に光が廻っていく。

 

 それはまるで雲間から星々が覗くような不思議なざわめきを伴って、少年を救おうという意思に呼応するよう強く強く脈打ち始める。

 

「これって……」

 

『お嬢さん』

 

 壮年の男の声が樹液の中で響いた。

 

「!?」

 

『時間が無いので手短にお話します。我等は彼に救われた者。そして、今こそ彼に報いたいと願う者。細胞の限界に達している彼は現在、頭部が崩壊せず残っているのが奇跡に近い状態です。ですが、我等の今の力ならば、救う事も出来る……どうか、私達に彼を救わせて欲しい。彼に救われ続けた我等の願いをどうか見届けて欲しいのです』

 

「それは―――確実なんですか?」

 

 誰かも知らない。

 

 本当かも分からない。

 

 そんな少女の疑念は絶望と決意の裏返し。

 

『命の代価は命を持って払われる。それが、我等の最後の想いです』

 

 人々の声。

 

 星々の中。

 

 信じて欲しいと助けるからと必死に願う者達の思いがエストリアの心へと届く。

 

「……分かりました。信じます!!」

 

 一刻の猶予も無い。

 

 人の心と思い。

 

 命を賭した誓いに少女は疑心を捨てた。

 

 すると、耀く世界の奥から影が浮上してくる。

 

 それが自分の胸に抱く人と同じ形だと気付いて、彼女は驚きに固まった。

 

「イクスさんの、身体?!」

 

 少年と同じ顔をして、いつもとは違う若葉色の外套を着込む肉体。

 

 それは屍にも見えたが、決して腐ること無く。

 

 また、死体というにはとても生命力に溢れていた。

 

 それを証明するように脈打つ音が胸から樹液を伝って、周囲に響いていく。

 

『その方の頭部を、身体の同じ部分へゆっくり重ねて下さい。後は全てこちらで行ないます』

 

「―――はい」

 

 言われた通り、そっと少年(くび)が目を閉じた肉体の同じ場所へと下ろされていく。

 

 ズブズブと鼻が頭部へと沈み込み。

 

 やがて、仮面を被るように同じ顔が重なって、繋ぎ目も無く一体となった。

 

 更に周囲の壁際から柔らかそうな蔦が伸び、少年の肉体の各部に繋がると轟々と音を立て始める。

 

 樹液。

 

 それだけではない。

 

【宇宙樹】の活力と内包される全てが流れ込んでいるのだ。

 

 その度に力強く。

 

 星々の耀きが血管を廻り、少年の肉体から燐光を溢れさせていく。

 

(【原理粒子(イデアル)】の昇華光……いえ、それだけじゃありません。この樹の耀きも……)

 

 いつも傷付く度に肉体から零れていた光。

 

 けれど、今はそれよりも力強く命が息衝いていく。

 

 たった十秒で二人の周囲を蓋っていた大樹の耀きは少年の中へと移っていた。

 

『……成功だ……諸君……よく頑張った……ああ、ああ、そうだ……我々は遣り切った……全力で生きて……そうだ……胸を………張ろう……』

 

 ゆっくりと消えていく声。

 

 その意味を本能的に悟りながら、彼女は声を掛けようとしたが。

 

『―――世の頚城たる魂の樹よ。願わくば、彼に今一度抗う力を……我等が最後の研究【外碩領域構造体(ディスペクトラム・ストラクチャー)】……受け取って欲しい』

 

 声はもう小さく小さく蝋燭の炎が消えるような強さで。

 

『どうか、共に連れて行ってくれ。我等の救い人よ』

 

 そう告げて、途絶えた。

 

「……イクスさん?」

 

 少年だけが耀く伽藍。

 

 暗闇に灯る光に誘われたか。

 

 樹液も枯渇した大樹を貫いて。

 

 恐ろしき鋼の刃が吹き伸びる。

 

 咄嗟の事に彼女は自分を守る機構を動かすよりも先に首筋を貫かれ―――無かった。

 

 ミギッ。

 

 枯れたような大樹の最中。

 

 先端を受け止めているのは手。

 

「!!」

 

 世界が割れる。

 

 パキリと木材に罅を入れるような音がして。

 

 彼等から数百m先で争う二柱が風の煽りを受けたように吹き飛ばされる。

 

 ミギミギミギ―――。

 

 揺り篭たる大樹が枯れた地肌を晒しながら、その役目を終えて真っ二つになった巨体をグルリと回転させ、自己を分割し、小さく小さく、自らの体積を減らして今も繋がる者の肉体へ収束していく。

 

 両肩、両腕、両太腿、両手の中央。

 

 160m近い質量の全てが薄く少年の各部を蔽う鎧のような形を取って再形成されていく。

 

 圧縮過程で色合いが変質した大樹はもう木材というよりは磨かれた宝石のような、薄らと星々の耀きを鏤めた内部まで透ける硝子のようになっていた。

 

「イク―――?!」

 

 彼女は初めて。

 

 たぶん、その少年の表情を見た。

 

 痛みも苦しみも顔には出さないイクス・ゼオが、ただ項垂れて顔を歪めていた。

 

 耐え難いものを耐えるように。

 

 苦しみを我が身へ刻むように。

 

 まるで全てを笑みに閉じ込めようとするように。

 

「約束したんだ……」

 

「え……」

 

「連れて帰るって」

 

「イクス、さん……」

 

 顔を上げた時。

 

 そこにはもう何も浮かんではいない。

 

 遠い目をした彼女の知らない誰かが、ゆっくりと手を握り締める。

 

 ペキペキペキ。

 

 軽く軽く。

 

 掌から伸びた大樹の成れの果てたる星の耀きを宿した硝子が、枝のように吹き伸び、結晶化した積層魔力の耀きを纏って一振りの剣となる。

 

「誰もが今、此処に居る」

 

「此処……?」

 

「だから、帰るのは」

 

 彼等二人を狙って吹き伸びた変幻自在の鋼の刃が。

 

 カシャァァァァン。

 

 儚い音を立てて、少年の一振りで砕け散った。

 

「後でいい、かな?」

 

 いつもの笑み。

 

 見る事すらせず。

 

「―――」

 

 哀しみに苦笑しながら、己に自嘲して、それでも決意した彼を、エストリアは受け入れるしかなかった。

 

「分かり、ました」

 

 逃げ出したら、きっと……戦うより、傷付くより、苦しむのだろう少年に、一緒に行こうと彼女はどうしても言えなかった。

 

「その代わり、約束して下さい」

 

「約束?」

 

 自分を見つめる少年にもう苦悩の影も見出せず。

 

 それもまた自分が相手を受け止められていないからかと胸に刻んで。

 

 エストリアは真っ直ぐな瞳で言った。

 

「一緒に帰るって」

 

「……約束する」

 

 目を細めて。

 

 少しだけただ微笑んだ少年にほんの数瞬、唇を寄せて。

 

「なら、行っちゃって下さい。私、待ってますから」

 

 サッと彼女は身を引く。

 

「あんなよく分からないもの、イクスさんが倒しちゃって下さい!!」

 

 いつものような笑みで少女が言えば、少年もまたいつもの調子で返す。

 

「エストリア……」

 

 はためく外套。

 

 その背中に宿ったもの。

 

 自らを見つめていないとしても。

 

 その肩が負うものが見えたから、少女は少しだけ大人になった。

 

「GOです!! イクスさんッ!!!!」

 

「うん」

 

 彼女の前から掻き消えた少年が次に現れたのは未だ争い続ける光の玉と鎧の中間点から僅か離れた上方。

 

 音も無く球体の四分の一が輪切りにされ、鎧は弾かれたように背後へと吹き飛んでいた。

 

 *

 

 明確な敵。

 

 争うべきモノ。

 

 そう少年を認識した二柱の思考と呼べるものを表すなら一つだけ。

 

 分からない、だった。

 

 天使にしてみれば、何が自分の存在を裂いたのか分からず。

 

 また、外なる神にしてみても、鎧の機能が働いて自ら吹き飛んでいる状態であるという事しか理解出来ず。

 

 同時に敵となった少年に攻撃を仕掛けたのはまったく似通った優先順位を両者が持っていたからだ。

 

 それで相手が潰れるなら良し。

 

 潰れなくとも牽制になればいい。

 

 そんな意図で光の玉から放たれたのは拡散する耀きの波だった。

 

 光子に乗せた昇華法術は相手を構成する素粒子自体をバラバラに切り裂く無限の針の群だ。

 

 それ自体が攻撃であり、相手の構成そのものを探査し、自在に方向を変えて弱点へ集約される。

 

 針一つ一つにまで及ぶ人智を越えた制御が可能とするのは敵対者の魂すら残さぬ解体。

 

 これを受けて原型を留める事が可能な存在は光子からの干渉を受けないか。

 

 または干渉を受けても復元が可能かのどちらかとなる。

 

 嘗て大陸に現れた魔王クラスの存在ならば、跡形も無く崩壊させられるに違いない。

 

 そんな光の中を赤熱、枝分かれしながら進むのは【高格外套】が空間防御内から伸ばした液状の剣だ。

 

 少年を一度は首だけにした変幻自在、無形の刃はフルー・バレッサが有する技術の一端。

 

【超短探査鋼液(フレクサス)】

 

 液状金属による攻撃用武装ではない、相手の性質を調べる攻勢検査キット。

 

 多くの場合、高位存在との対決において最も重要視されるのは相手の引き出しの把握と弱点の早期発見。

 

 【凱奏(トリアフォム)】は兵器として造られた実用品である為、後方部隊の壊滅や後衛が存在しない場合でも相手の手管の確認や有効な対策を取れる機能が充実している。

 

 光の中で赤熱しつつも実態を保つ剣もその一つ。

 

 液状の鋼の中に溶かされているのは七聖女ハティア・ウェスティアリアが組んだ数万通りの攻撃術式。

 

 それらを恐ろしく極短時間。

 

 フェムト秒以下で発生、切り替えながら敵の性質を確かめる力は殆ど超技術だろう。

 

 切り替え時の制御機能と前後の術式の相互干渉を防ぎつつ観測する能力が一つの品に入っているのだから、半ば伝説の武具と大差ない。

 

 敵の能力値を丸裸にしつつ、相手が弱い性質を持った術式を瞬時に割り出して、触れているだけで相手を破壊する。

 

 検査用とはいえ、並みの兵器の数百年以上先を行く力は侮れるものではない。

 

 天使の波動を用いた攻撃を耐える構成物質は近頃七教会が技術的なブレイクスルーを果たして量産し始めた【人工銀金(ミスリル・F)】だ。

 

 現在人類が有する冶金学上、ほぼ最高の高度を誇る合金。

 

 それを常に金属が液状化する境界、弾性限界域で扱う事を可能としたのは冶金学の神すら及ばないと持て囃される七聖女フルー・バレッサの面目躍如だろう。

 

 変形している最中はまるで麺麭のように柔らかく。

 

 形を整え終った後は糸のような細さでも一つの山脈を吊り上げる強度を誇る力が虚空を奔る。

 

 素粒子レベルでの破壊を瞬時に光子の遮断術式で相殺した【超短探査鋼液】が魔術方陣、幾何学模様を虚空に描きながら、四方八方に散らばり、目に見えない程の細さで少年の肉体をひき肉にしようと迫った。

 

「繋がれ―――【喩斬】」

 

 少年が振った剣から魔力の暴風が吹き荒れる。

 

 励起した魔力に与えられた力は経路(チャンネル)の拡大。

 

 光子そのものが見えざる別の異相に阻まれ、同時に少年の周囲360°全方位から迫った不可視の糸をも飲み込んでいった。

 

 嘗て、少年が使った空間防御の技と原理は違うが、結果は同じ。

 

 前に使った時とまったく異なるのは経路の拡大が極端過ぎるという事だろう。

 

 物理的に経路というのは僅か空けるだけでも相当の魔力がいる。

 

 魔術師達は多くの場合、自分達が知覚出来る限界の大きさで運用するのが常だが、その直径は0.0001mm程だ。

 

 素人が開けるとなれば、経路の大きさも魔力も比例して跳ね上がる。

 

 だが、そこまでして大きく開ける意味がまったく無く。

 

 僅かなものでも十分に用は足りる為、通常人間一人を完全に覆い尽すような経路なんて開く意味は無い。

 

(こんなに大きく……)

 

 少年にしてみれば、攻撃を遮るつもりなど無かった。

 

 いつもの調子で技を使おうとしただけだ。

 

 相手の攻撃は新生した肉体で受け切る手はずであって、反撃の為の経路拡大だったわけだが、思ってもいなかった程に強くなっている自分の力に剣を握る手が白くなる。

 

(使わせて貰います)

 

 【喩斬】によって引き出される概念は千差万別。

 

 二体の高位存在に対する選択は前に呼び出した永劫不変とはまた違った。

 

「閃剣が奥義の一つ」

 

 キリキリと糸を爪で引き絞るような音がして。

 

 剣がその先端を鹿の角の如く分化させた。

 

 それは現実においてアルヴァス・カレッジの校舎裏で使われようとした技。

 

 無数の仮面を付けた強力な固体に対抗する為の特別な積層魔力刃。

 

「開け―――【飽身華斬(ほうしんかざん)】」

 

 少年が瞬時に逆手に持ち替えた剣を一線した。

 

『『   』』

 

 二柱が咄嗟に数百m以上の距離を取ったが、光の玉が半ばまで断ち割れ。

 

 同時に角、剣身の一つから放たれた積層魔力の一つに刺し貫かれ、中央を抉られた。

 

 膨大な力が爆発し、雲間から溢れる光の筋。

 

 まるで“天使の梯子”のような閃光が、玉の表面に入った無数の罅から噴出して、崩落中のアイウィスを乱雑に切り裂いていく。

 

 虚空を振るわせるのは悲鳴のような、金属音のような、甲高い響き。

 

 今正に崩壊しつつある天使はようやく自己を切り裂いたモノがどのような現象であるか知った。

 

 それは一つではない。

 

 少年は一度に無数の攻撃、まるで高位存在達が息をするように使う並列攻撃(マルチタスク)をやってのけ、更に相手に最も効果のある致命の一撃を複数叩き込んだのだ。

 

 全ての意思を切る技。

 

【閃剣(せんけん)】

 

 積層魔力刃による遠距離攻撃。

 

【射斬(いざん)】

 

 天使の見えざる反撃を全て消し去った空間防御斬撃。

 

【圏斬(けんざん)】

 

 天使の構造を消滅させる概念を顕現する経路拡大術。

 

【喩斬(ゆざん)】

 

 複数の角のような刃は一つの剣で多くの技を複合する為のもの。

 

【飽身華斬(ほうしんかざん)】とは本来一回ずつ使わなければならない剣術を統合する剣身そのものを言う。

 

「君は人の世を守ろうとしただけなのかもしれない。けれど、その遣り方が僕には合わない……君の使命が何だろうとも、此処で人を見捨てた時から、君はもう天使として“違ってしまってる”」

 

 複数の剣身に宿る概念。

 

 それは天使すらも問答無用で削り切る力。

 

【相殺(デストルント)】

 

 それは意味的には漠然としているが、少年が剣に顕した時、己と同量の体積を全て無に帰す必殺の一撃となる。

 

 例え、相手がその体積の中にどれだけの魔力を秘めていようが、どんな完璧な構造を持っていようが、関係なく、魔力刃は自己と同等の体積を接触部分から消失させていくのだ。

 

 剣身と対象の接触箇所に発生する極めて不可解な事象は常時発動し続けるようなものではない。

 

 何故なら、その概念が宿る限り、接触する物質は全て相殺される為、周囲の空気までも消し去ってしまうからだ。

 

 少年の制御が甘かったせいか。

 

 天使を崩壊させた剣身は僅かに周囲の気体を引き込んで風を形成していた。

 

 光の玉の残骸。

 

 もう殆どの魔力を放出し尽くしたソレが灯火のような耀きで少年の方へと向かってくる。

 

 しかし、そこにはもう攻撃的な意思は感じられなくなっていた。

 

「……この空間で変質した部分はもう全部剥ぎ取ったと思うけど、どう?」

 

 何も語らず。

 

 何も言わず。

 

 意思疎通が可能であるかどうかすら、消耗し尽くした耀きからは推し量れない。

 

 しかし、スゥッと少年の手に寄った薄ら灯りが実態を持って物質化した。

 

「お疲れ様。しばらく眠るといいよ……」

 

 左手の甲に張り付くようにして半透明の宝石、磨かれていない原石のようなものが現れる。

 

 それはようやく寄る辺を見つけ、活動を停止した天使達の成れの果てだった。

 

「後は君だけだ」

 

『   』

 

 天使達の変化や少年とのやり取りの最中も仕掛けてこなかった【暗躍者】がその両肩から腕に掛けて鎧内部から溢れ出した鋼を纏っていく。

 

 今までずっと観測し続けて、相手を殺すに最も相応しい装備を模索し続けていたのだ。

 

 鋼はまるで最初からその形であったかのように固く締まり、小さな部品単位から接合して噛み合うと長大な椀部武装を構築した。

 

 砲身12m。

 

 左右七連。

 

 連なる円柱の如き極太の多連装砲。

 

 しかし、その砲口内部には三つの砲身が更に仕舞い込まれている。

 

 計42門からなる砲身後部は羽のような放熱板が複数連なり、翼のようなものを形成していた。

 

 その色は鋼というよりは錆びた鉄を思わせて鈍い褐色。

 

 何の躊躇も遠慮も無く。

 

 豪快な咆哮が唸りを上げる。

 

 駆動する機械の呻き。

 

 発射されているはずの弾丸は見えない。

 

 が、少年は咄嗟に虚空を駆けて、周囲を剣で薙ぎ払い始めた。

 

 その速度はもう常人の目には止まらない。

 

 何を射出しているのか。

 

 まるで弾丸の発砲光(マズル・フラッシュ)は見えないのに駆動音だけが高くなっていく。

 

「―――」

 

 少年は手一杯の様子で視線を複雑に周囲へ遣りながら、剣を絶えず振り続ける。

 

 その度に剣身の一部が欠けては復元している様が、今のエストリアには見えていた。

 

 彼女の瞳に施された【視宝泉(ジェミス)】は目尻から顎にまで伝い耀いて、瞳へ直接周辺空間内の様々な数値を投影する。

 

(あの射出装置……熱量も魔力も出力してない!!?)

 

 一体、何を少年が防いでいるのか。

 

 まるで分からなかった少女は羅列される数字の中で唯一瞬間的に微弱な反応を示し続けている値を見つける。

 

(これは……【因痕(キカトリクス)】値? 聞いた事が……事典を参照……)

 

 ざっと、【視宝泉(ジェミス)】に存在する情報を浚って、彼女は息を飲み込んだ。

 

「まさか、あれって因果律に干渉する!?」

 

 世界の全ては見えざるもので繋がれている。

 

 それは量子的(りょうしてき)縺(もつ)れは言うに及ばず。

 

 運命の赤い糸。

 

 巷ではそう呼ばれているものだ。

 

 因果律導線。

 

 【運命糸(リネア・フェイティ)】とも称されるソレ。

 

 高次領域からしか観測出来ない事物の全て。

 

 視覚化されれば、人の一生すら左右する正に神が扱うべきもの。

 

 それが破断した時。

 

 つまり、因果律の不全。

 

 原因、過程、結果の三拍子たる輪舞曲(ワルツ)の崩壊が【因痕(キカトリクス)】と呼ばれる事象なのだ。

 

 これは正しい運命の流れが断たれている事を示す。

 

 故に値が高くなれば、その場所における定理。

 

 世界の均衡は崩れ、あらゆる事象の発生確率、または発生しない確率が飛躍的に高まる。

 

 単純に言えば、何があってもおかしくなくなる。

 

 偶然に死ぬ事もあれば、必然的に生き残る事もあるだろう。

 

 知らない誰かが突如として現れたりもすれば、本来在り得ないはずの事象が頻発するという事も無いとは言えなくなる。

 

 唸る砲口が生み出しているものが一体何なのか。

 

 彼女は未だ確認出来ないが、少年を襲うのが尋常の攻撃ではないのだと理解は出来た。

 

 戦闘に加わる事を少年が望まないだろう事は先程の表情からも明らかだったが、それはきっと自分を守る為なのだろうという事がヒシヒシと感じられて、少女は今も高速で剣を振り続ける少年の姿に手を組んで祈った。

 

 勝利を。

 

 何よりも身の安全を。

 

 もしも、負けそうな時には参戦する覚悟で。

 

 それが自分の命を守ろうとした少年の決意を覆す結果になるのだとしても………。

 

 *

 

 今も虚空を貫いて落下し続ける十字架。

 

 その最中でレアは自分の位置を確認し、未だ目的地は遠いと感じていた。

 

 -32232。

 

 値的にはもう境界内部か。

 

 あるいはアイウィス内部へ入っていてもおかしくない。

 

 しかし、そんな反応はまるで白い十字架の観測機器には掛からない。

 

 このまま何処へも辿り着く事無く。

 

 異相を漂流するという事も考えられたが、それならば自力で帰還する事も出来る。

 

 何より恐ろしいのは彼女の決意が既に遅かった。

 

 世界の終末は取り返しの付かないところまで進んでしまっている、という方だろう。

 

 もしも、そうであれば、レアにとって全ては最悪の事態を迎えた事になる。

 

(この【崩燼源動機関(ソルヴァス・オリジナル)】を使わなければならない事態となれば、七教会とも事を構えなければならなくなる。いえ、そんな余力はもう私達には無い……失敗すれば、過去全ての帰依者達が待ち侘びて来た、多くを捧げて来た“来るべき日”を永劫の彼方に見るだけとなる。そうなれば、旧き教会もお終いでしょうね)

 

 何故か。

 

 こんなにも追い詰められているというのに。

 

 レアの脳裏には祖父と過ごした数十年前の情景が甦った。

 

 清らかな小さい泉の畔。

 

 足をパチャパチャと水辺で遊ばせていた彼女は頭を撫でられて上機嫌だった。

 

 何を言うでもなく。

 

 大きな手は聖典を開いていて。

 

 彼女にはまだ難しいだろう説法を祖父はしてくれた。

 

 あまり旧い教会ではしない一節の引用。

 

 それは愛に付いての言葉だった。

 

 聖典に編纂された最も旧き書物。

 

 五千年前、教会を起こした者達の一部が残した言説。

 

―――愛は求めない。

 

―――愛は朽ちない。

 

―――愛は問われない。

 

―――愛は尽きない。

 

―――何故ならば、愛は其処に在るから。

 

『レア。お前がもしも次の総主教となるならば、一つ覚えておきなさい』

 

 首を傾げた彼女に祖父は言った。

 

『誰かを愛するという事が如何に自らを苦しめるものであるかを』

 

 何を言われたのか分からなかった当時の彼女に今はまだ分からなくともいいと笑って。

 

 白髭を撫でながら、本当なら“最後になるはずだった男”はまた頭を撫でた。

 

『お前も人を愛するようになれば分かる。如何なる愛も決して素晴らしいばかりではないのだと。それがいつか己を焼き、己を呪い、己を壊す。それでも取り憑かれて、それでも諦め切れず、前に進むのならば、その時こそお前は本当の意味で“来るべき日”が何故予定されたのか。それを知る事となるだろう』

 

 言葉はただ言葉。

 

 しかし、彼女を形作るソレは今も息衝く。

 

(……御爺様。愛する事の難しさ。今ならば、少しだけ分かる気がします……この身に仕えてくれた多くの兄弟、姉妹、先達、恩師、友人、仲間、同志……彼等を裏切りたくない……答えに辿り着く道標くらいは打ち立てなければ、申し訳なくて……こんなにも胸が潰れてしまいそうで……)

 

『反応在り』

 

 視界に映った映像には外部の機器が観測した情景。

 

 少しずつ光学観測結果に処理が加えられ、やがて彼女の行き先に一体の仮面を付けた者が現れる。

 

『排除対象。適性存在を確認。内包魔力値観測不能。動態観測結果……ライブラリ内に記述を発見―――一致。東方を発祥地とする西部の近接武芸術の術者と確認。回避軌道を計算。予測目的地まで32時間の遅延。戦闘可能域まで残り33秒。戦闘行動に移る場合は速やかに戦闘状態へ移行して下さい』

 

「……是非も無し、ですか」

 

 レアが自らの胸部プレート内に仕込んで欲しいと頼んだ短剣を意識しながら、帯剣を握り締めた。

 

「出ます。戦闘支援は無しで後方待機。敵勢力の排除まで術式迷彩を実行」

 

『了解しました。搭乗者輩出後、フルステルスモードを実行。以降は敵対者の消滅もしくは搭乗者の救援要請まで待機します』

 

 白い十字架が慣性制御を実行し、急速に停止した。

 

 レアが液状になった装甲から外へ輩出されると。

 

 彼女にもすぐ近くまでやってきた仮面が見えた。

 

「行きます」

 

 レアが帯剣を引き抜いて構えた途端。

 

「!?」

 

 彼女は自らの片腕が跡形も無く消え去ったのを確認して―――已む無く防戦を強いられる。

 

「―――っ」

 

 他が為に力を尽す者。

 

 歴代総主教の中で最も慈愛深き者と呼ばれる少女は孤立無援の虚空で自らが傷付く事を厭わず。

 

 己が送り出した者を追う為、その心魂の気迫のみで剣を振るい始めたのだった。

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