※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第三章六十七節2

 *

 

 ダークエルフの少女。

 

 その顔に一人見覚えのある烙南は己の周囲で始まっている事象の全体像を感じつつあった。

 

 それはこの五年で彼女が体得した感覚。

 

 少年。

 

 シンア・ザ・クリティカルアンラッカーに救われた後も続いた後遺症とでも言うべきもの。

 

 要素(イデア)が流入する“神門の座”で一時的とはいえ、世界に繋げられていた彼女は超絶的な時空間の把握能力を有するようになったのである。

 

【ひひひ♪】

 

 剣を片手に何も無い虚空で激突が始まっていた。

 

 黄金の仮面で顔を半分覆った少女と相対するは少年と三人の騎師。

 

 それが本当に自分の知っている相手ではないと直感的に感じていた烙南は一切彼女の事を少年に話さなかったが、内心で相手が一体何を目的としているのかずっと思考し続けていた。

 

 世界の果ての先と同期した場所。

 

 本来は空間ですらない其処で少年は実存を保ち、【高格外套】達もまた健在だ。

 

 その事自体が実際には奇蹟のような出来事ではあったが、あくまで相似化させた周囲は本当の“无”ではない為、ある程度の高位術者ならば、生存自体は然程難しくない。

 

 問題は戦闘行動が極端に難しいというところにあるだろう。

 

 それを証明するように四人の持った剣は一向にエルフの少女へ当る気配が無かった。

 

 というのも、接近して斬り付けているはずなのにまったく当っていないのだ。

 

 何を言っているのか。

 

 それを見ている者にしか理解出来ないだろう。

 

 距離というものが酷く曖昧な世界において実存を保っているからと言って、それが観測した座標にあるとは限らないという事だ。

 

 空気が無いのにどうして音声が伝わるだろう。

 

 空間が捻れれば、実測する距離もまた曲がる。

 

 あまりにも不安定化していれば、曖昧になっているせいで従来の観測と認識が不全を起こしてしまう。

 

 本来、人間は様々な事象、物体との対比を無意識の計算に入れて距離感を計っている。

 

 だが、空間そのものには不確定性が残るとなれば、相手と距離を詰めるという事だけでも一苦労なのだ。

 

 相手がそのような認識の部分で人類よりも上位の存在だとすれば、すんなり超高速の連携で斬撃を叩き込み続ける高格外套達に余裕の笑みで応えるのも無理は無い。

 

 そもそも当ったとしても、最初の経験から高格外套達の持つ武器では相手の纏っている白布。

 

 どうやら高位の能力を持っている物品を突破出来ないのは分かっている。

 

 彼等が狙うのはただ一点。

 

 相手の脅威度を飛躍的に上げている奇蹟が内包された剣のみ。

 

 少年に剣を渡された老人はさっそく飛び出す寸前に剣へ何らかの魔術を付与していた。

 

 まずは相手の攻撃力を奪い、弱体化させる。

 

 その上で奪われた高格外套の中枢を何とか止める。

 

 それが彼等の勝利条件。

 

 実際、奇蹟を内包すると言われた機構は車輪のように周囲の柱が回り出し、その中核たる漆黒の特異点へ耀きを帯びさせ始めていた。

 

 これから一体何が起きるのか。

 

 未だ分かっていないが、何か拙い事が起きるのは誰もが感じている。

 

 このまま座視しているわけにもいかないと烙南は機構が何をしているのか把握する為、自らの五感と認識の全てを周囲の状況把握に向けていた。

 

(これは……法則というよりも意思? 不全となった空間に伝播していくものの意図を感じ取れれば、兄様の戦いも……)

 

 巨大な力のうねりを感じ取り、その中に含まれたものをどうにか読もうと彼女がエストリアの前で座り込み、結跏趺坐(けっかふざ)の形を取る。

 

 すると、烙南の周囲から仄かに白く魔力が漏れ出した。

 

 それは薄く薄く周囲へと広がっていくとエストリアの張った空間創生による結界をすり抜けて、崩壊が最終段階へと到達している数百層にも及ぶアイウィスの全体へと行き渡った。

 

「………」

 

 キチッと軽く引き連れるような音がして。

 

 周囲のあらゆる崩壊が止まる。

 

(周辺の空間が安定性を増した?!)

 

 エストリアが自分の瞳に贈られてくる数値に驚き、思わず隣を見つめた。

 

 東部の魔術師たる陰陽の術者が行なうような精神統一の型を取り始めた少女。

 

 これ程の事を起こす彼女は一体少年とどんな関係なのだろうかと。

 

「すみません!! すぐお三方と兄様にあの柱に囲まれた中心核への攻撃を要請してください!!?」

 

「ど、どうしかしたんですか!?」

 

「調べてみたら、あれは……あれは……同化を指向しています。このまま力が放たれれば、この世界は“外側”との境界を失くして、宇宙そのものが“外”と陸続きになってしまう。そうなれば!!」

 

「そ、そうなれば?」

 

 さぁっとエストリアの血の気が引いていく。

 

「化物が押し寄せてきます。それも今戦っているモノと同じようなものがこの惑星。いえ、この星系の宙域全てに!!」

 

 あまりの事に少年と高格外套の三人へエストリアが慌てて連絡を入れる。

 

『それはまた厄介だのぅ』

 

『ハティア様のじゃなくてホッとしたけど、そう……メルフ様の奇蹟だったのね』

 

『洒落にならねぇな。こいつ並みを何億も相手に出来るかよ』

 

 三騎将が其々に反応し、少年もまた沈黙しつつ聞いていた。

 

『僕が行きます。貴方達はあちらの方を』

 

「イクスさん!? 一人でなんて無茶です!!?」

 

 思わず叫んだエストリアに少年はいつもの笑みを零す。

 

『やってみなくちゃ分からない。それに一緒に帰るって約束したから……』

 

「―――分かりました!! 今すぐ援護用のプログラムを並列して立ち上げます。二十秒下さい!!」

 

『うん。任せるよ』

 

「はい!!」

 

 現在、彼女が周囲に張っている結界は通常のものとはまったくの別物。

 

 一つの世界を創っているに等しい。

 

 【理想器(イデアライザー)】の定常出力はほぼ無限だが、出力上限は決まっている。

 

 その上、膨大な演算を行なっている為、計算に対するリソースはもう足りていない。

 

 だが、少女は自らの脳を演算器の代わりとして用い、内臓された別のプログラムを奔らせる。

 

 まるで自分が機械に組み込まれていくような感覚。

 

 歯車となって削れていくような頭痛。

 

 だが、今やらねば一生後悔する。

 

 そう知っていたから、彼女は全てを無視して最短で全ての準備を終えた。

 

「維持をセミオートに。コマンド入力。余剰出力を空間凍結によってプール……プログラム起動。【理想器(イデアライザー)】マルチタスク。コード【大蛇界(ヨルムガンダ)】」

 

 少年の頭部にカウントダウンを提示する黄金の輪(リング)が現われる。

 

 その意匠には世界の全てを囲むと言われたモノが記されていた。

 

『これは……』

 

「カウントダウンがゼロになった時、それは完成します。完成から十秒以内に対象へ嵌めれば、その事象に対して閾値に対する再構成(リセット)が掛かるようになります。ええと、簡単に言うと」

 

『これをあの中に投げ入れれば、相手は能力を発動出来なくなる?』

 

「あ、はい。これは一種の時間の制御だと資料に有りました。ただ、完成するまでに若干のタイムラグがあって、それを更に引き伸ばしてるんです。【理想器】から引き離された状態だと完成から十秒後には維持出来なくなるので、必ず十秒以内にアレへ接触させて下さい」

 

『分かった。ありがとう。行って来る!!』

 

「はい!!」

 

 少年が頭部の上で王冠のように耀く輪(ハイロゥ)を引き連れて、機構へと突撃を掛けた。

 

 その足の踵に顕現するのは積層魔力で編まれた円錐状の角(スパイク)。

 

 それが高速での移動時、足元に小さな卍状の点を穿った。

 

『そうか。そうすりゃ確かに場所は分かるわな』

 

 男の声が感心した声を上げて。

 

 自らの高格外套の足元に魔力で光源となる点を穿った。

 

 それに他の女と老人も倣う。

 

 彼等の動きが一気に変わった。

 

 というのも、それは空間の変動を見る為のマーキング行為だったからだ。

 

 今、何歩前の目印がどう変化しているかを知れば、空間の歪みや距離の変動が一目で分かる。

 

 無論、特殊な空間と同期した周辺では魔力の光点はすぐに変動の影響で消えてしまうが、消えるよりも速く彼等が動けば、その測量用の点は増えていく。

 

 三次元戦闘。

 

 彼等の戦い方には上下左右前後など関係ない。

 

 あらゆる角度から機動し、あらゆる方向に自らを加速する以上。

 

 そこには人体が為し得る以上の軌跡が描かれる。

 

 十秒程で彼等の周囲には魔力の星々が生まれた。

 

 それはまるで銀河のようにも見える。

 

 蠢く空間の全景を彼等が捕らえたと同時。

 

 三人の騎師達は精確な距離を割り出したダークエルフの少女の背中、腹、首を同時に貫いた。

 

 無論、その肉体に纏われた白布を避けるようにして。

 

『その奇蹟返して頂く!!』

 

 老人が貫いた剣とは別に腰へ下げ、少年から受け取った剣を居合いよろしく抜き放ち様、少女の剣へ当てた。

 

 途端、音叉が共鳴するかのような音色を発して二つの刃が歪んだ。

 

【ひひ?】

 

 取ったか。

 

 そう見極めようとした三人が柔肌を貫いて無数の魔術を奔らせている鉄剣に追加の術式を叩き込む寸前―――カシャンと少女の持っていた剣が砕け散り、彼等は自分の後ろに息遣いを感じた。

 

 背後を取られた場合の対策は既に高格外套によって為されている。

 

 高速での転移による緊急回避。

 

 または背部のユニットを暴発させて人体には有害極まりない速度で前へ加速する回避運動。

 

 だが、どちらも行なわれるより先にピシリと彼等の遥か後方で空間創生結界に亀裂が入った。

 

『『『!??』』』

 

 分裂。

 

 黄金の仮面、白い布、片手に剣を持ったダークエルフの少女が三人の後ろに付いている分どころか。

 

 まるで雲霞の如く周辺領域に増え始めていた。

 

 呆気ない音を立てて割れた結界の隙間から剣が一本。

 

 投げ放たれ、全てが静止するような間隙へ少年が―――剣の柄を狙って、ギリギリで方向転換させようと最速の縮地の技を見せ、頭部の輪(リング)で殴りつけた。

 

 しかし、方向を変えた剣とはまた別の一本が少女達の衣服を掠り―――。

 

『避けろ!!』

 

 高格外套達が周囲全てを薙ぎ払うよう無数の光線(レーザー)状の術式放射を背後から放ち、分裂した固体の大半を薙ぎ払った。

 

 本来ならば、敵と味方位置を確認して放つ大軍用の殲滅戦特化の一撃。

 

 無数に連なるのは大陸の術式表示における標準的な【秘儀文字(アルカナ)】ではなく。

 

 圧縮された0と1だ。

 

 それはフルー・バレッサが己の生み出した機器に超常の能力や魔術を奔らせる時に使うもの。

 

【いひひひひひひひひひ♪】

 

 笑いながら、少女達が布と仮面と剣以外、光線の当った場所を融けさせ、その場からグズグズと臓物すら無い空っぽな空洞を晒して消え失せていく。

 

『まだ行ける魔王? この“補給も儘ならない”場所での長期戦は不利よ。今、周辺を観測したけれど、あの黄金の仮面はどうやら逃したわね。たぶんは陽炎のようなものよ。またいつ襲ってくるか分からない以上、速めにあの機構を止めるわよ』

 

 女の声。

 

 しかし、少年はいつの間にか消えている剣も敵も目に入ってはいなかった。

 

「………」

 

『何かされたか? いや、被害が出たか……』

 

 少年の様子がおかしい事に気付いて、男の声が僅かに躊躇する。

 

 何があったのか。

 

 三騎将達には知りようも無かった。

 

 何故なら、彼等が相手にしているものはこの世界のあらゆる事物を検閲する最終兵器。

 

 何をこの世から消し去るかで宇宙の有り様を変貌させ。

 

 あらゆる存在を許さない奇蹟なのだ。

 

(……………………僕がもっと早く―――)

 

 少年の脳裏に世の恒常性(ホメオスタシス)。

 

 整合性を取ろうとする世界からの修整が働いて、全てを奪い去ろうとする。

 

 まるで本を破り捨てるように記憶という一頁を検閲しようと何もかもが無かった事だと、世界にはそんなものは存在しなかったと、そう主張しようとする、隠蔽しようとする、思い出を明け渡せと干渉する。

 

「――――――――――黙れ」

 

 それは低い声だった。

 

 いつもの少年ならば、きっと自分が死ぬ間際ですら出さないだろう感情に満ちて。

 

 周囲の空間が、軋んだ。

 

『『『!!??』』』

 

 三騎将が身を固まらせたのは初めてと言っていいかもしれない。

 

 それは内心から沸き上がる感情を押さえ込む行為だった。

 

「………」

 

 少年のいる場所を中心にビギビギと空間が罅割れていく。

 

 外と同期した世界は无に近しくはあったが、それはあくまで似ているだけだった。

 

 が、空間が、世界が、時間が、ガジガジと何かに食まれたような虫食いとなって何もかもが消し去られ―――否、押し潰されていく。

 

 そう、少年の周囲は壊れていた。

 

 受け止められないものを受け止めてしまったかの如く。

 

 砕け落ちる硝子にも似て。

 

 空間の欠片が、時間の欠片が、清らかな死に様を思わせて、美しく散っていく。

 

 まるで万華鏡。

 

 燐光を発する力無き世界。

 

 修整し切れない矛盾と圧力に砕けてしまったソレは保つ事が出来るものが無いかと亀裂を修復するが、罅は鬩ぎ合うようにして最後には拡大していく。

 

 まったく悪い冗談だと三人の男女はその場に自分達しかないという絶望的状況を悲観した。

 

 嘗て。

 

 十数年前。

 

 黄昏の悠久戦争時。

 

 彼等は同じような光景を見た事がある。

 

 神々が世界の外に放逐され、亜人も異種もあらゆる人々が倒れ尽くし、七聖女すらも退けた男が、天に開いた大門。

 

 天界から飛来する数百兆。

 

 ほぼ無限と言って差し支えない天使の群れに向かっていった時。

 

 その顔には怒りがあった。

 

 敵に今まで余裕の笑みで応えていたのに、天使達……その後ろにいる輝かしき唯一神に吼えていた。

 

 何を言っていたのか。

 

 それは彼等にも分からない。

 

 ただ、一つだけ確かなのは彼等の前で繰り広げられた光景は神話であったという事だ。

 

 戦争の最終局面に至って、その全てを観測していた者は彼等を置いて他にいまい。

 

 何故かと言えば、全てのものが彼等以外、全て倒れ付していたからだ。

 

 人間は倒れた。

 

 観測機器は壊れた。

 

 超常の力を持つ者も、魔術を極めた者も、戦場にいるほぼ全ての者は半壊しながらも稼動し続けていた【最従者】による凍結措置で停止させられ、戦いを見る事も聞く事も記憶する事さえ出来なかった。

 

 それでも彼等が残った理由は単に彼等を拘束する為の資源(リソース)が相手側に残っていなかったからだ。

 

 彼等よりも強い者。

 

 彼等よりも弱い者。

 

 両端から全ての記録と知覚を封鎖していった機構が最後に停止し切れなかったのが彼らだった。

 

 だから、それは二度と見る事も無いと思っていた光景。

 

 規模こそ違えど。

 

 世界が、宇宙が、そのたった一個人の有り様に屈服していくという理不尽。

 

 無限に等しい天使達を一刀で数千万体墜とした男の顔だった。

 

「どうやら―――怒らないといけないみたいだ―――」

 

 いつ以来か。

 

 本当にいつ以来なのか。

 

 少年はこの世の全てを敵に回した日すら覚えなかった感情を口にしていた。

 

―――――――。

 

 悲鳴が、上がる。

 

 それは周辺にいる誰かのものではない。

 

 この小さな小さな惑星の、全てを包み込む母なる星の、呻きにも等しい声にも足らない怯え。

 

 世界が鳴動した。

 

 否、恐怖に震えた。

 

 何がそれを引き起こしたのかと問えば、全ての事象を観測する高格外套の解析機関すら、ただ宇宙の定理が歪(ひず)んだとしか答えられないだろう。

 

 その振動のような波動のような何かはアイウィスだけに留まらず。

 

 大陸全土、大海洋の全て、成層圏内の全領域、次元、時空の狭間までも飲み込み。

 

 酷界、天界の次元境界域すらも越えて届いた。

 

 世界を規定する値が歪んだ結果。

 

 炎のような揺らぎが彼を蓋っていく。

 

 それは燃上がるもの。

 

 しかし、熱量ではない。

 

 酸化現象でもない。

 

 概念としての炎に満たされたものと化した。

 

 急激な変化。

 

 紅蓮の波濤としか呼べぬ力が少年を遠巻きにして渦巻く。

 

 それは何だ。

 

 定理を覆す者。

 

 いや、定理にすら定められぬモノ。

 

 少年を今や定義するのは少年の意思だった。

 

 世界の方から逃げ出されているのだ。

 

 “こんなものを規定していては持たない”と

 

 “无”とは宇宙の外。

 

 定理より外れているものを示す。

 

 が、真なる王、何処(いずこ)かより顕れし賓(まろうど)は違う。

 

 因果より離れたるモノ。

 

 源理より放たれしモノ。

 

 “外されているモノ”なのだ。

 

 彼の巻き起こす事象が真に自らを主張し始めれば、光子が存在せずとも色が在り、粒子が無くとも物質は在り、如何なる命題も意味を持たない。

 

 根源たる回転(スピン)が止まろうと止まりはしないし、時空が、軌跡が、消え失せようと構いもせず動く。

 

 大宇全てのプロトコルを総浚いにしても、在り得ない理不尽の塊。

 

 個でありながら、全であるもの。

 

 ただ意思を持って、何もかもを決定する力。

 

 “天”とは宇宙内部に在ってはならないもう一つの宇宙そのものに等しい。

 

『   』

 

 破れぬ場、そのような形を持って存在こそしているが、燐光を散らして世界から拒絶される様子は外なる神々の一柱が緑炎を生む工程と酷く似ている。

 

 だから、その情景もまた本来、存在してはならない事象。

 

 歪んだ世界の中心で一人佇む。

 

 それは宇宙内部では起り得ない理不尽だった。

 

 重力はもう無いのだ。

 

 波動はもう無いのだ。

 

 光子はもう無いのだ。

 

 原子はもう無いのだ。

 

 時間と空間、それらと共に消え失せてしまっている。

 

 なのにどうして存在しているのか。

 

 それが許されているのは如何なる定理と法則が働いているのか。

 

 見えていて、動いていて、観測出来て、少年の存在を確定出来るのか。

 

 観測者の誰もが理解出来なかった。

 

『 a 』

 

 業により、凝り固められた一柱。

 

 それが本来意思疎通不能の極小生物達の中に混ざっていた“同類”に目を見張る。

 

 いや、宇宙内部において本来表現し切れないはずの行為が聖女の生み出した機構によって為される。

 

『 r 』

 

 高格外套の中核。

 

 今は宇宙の境界を同化し、外なる者を呼び込もうとする門。

 

 その無限機関の中心たる特異点は、虚ろな光としか形容出来ないものを満たし、発動の兆しを宿して動こうとしていた。

 

『 q 』

 

 歪と罅と紅蓮を掻き分けて。

 

 少年とソレの間に何も無い道が出来上がる。

 

 今まで活動の殆どは定められたものを履行しているに過ぎなかったが、外なる神々の一柱は自らの同類にコミュニケーションを図った。

 

 “ソレ”が“少年”に問う。

 

 何故、阻むのかと。

 

『『『!?』』』

 

 遠巻きにしていた三騎将が波動を伴った解析不能の衝撃に吹き飛ばされていく。

 

 黒い球体はほぼ失われており、何十何百連なっていたアイウィスは最下層域以外は原型も留めていない。

 

 何処までも何処まで無限に広がる異相。

 

 その最中で彷徨う恐怖よりも、彼等の胸に広がるのは未だ観測出来る、何故観測出来るのかも定かでは無い少年への畏怖だった。

 

『 k 』

 

 世界から遠巻きにされた少年と奇蹟を宿した機構となった神が対峙する。

 

 虚光。

 

 力を満たし終えた特異点に周囲の景色が引き込まれ、妙に色褪せる。

 

 その先からの気配に少年は理解した。

 

 外と内部を直接的に繋ぐ門に興味を持って集まってきたのだろうオドロオドロシイものが今すぐにでも溢れ出して来るかもしれないと。

 

 中心核を取り巻く円柱の群れがグラグラとピストン運動でもするようにざわつく。

 

 その機関の変化は悶えているようにも見えた。

 

「僕は君の事を知らないし、君が何を為す為、この世に縛り付けられてるのか分からない。本当の僕なら、分かるのかもしれないけど。今、此処にいるのはイクス・ゼオだ」

 

『 w 』

 

「もしも大切な事なら、僕はきっと忘れなかった。だから、君の事は瑣事だったんだと思う」

 

『 v 』

 

 会話しているのか。

 

 その様子を三騎将は戦慄きながら見つめていた。

 

 その表情。

 

 其処にあるもの。

 

 今話す者が神でなければ、その中でもあらゆる意味で人類と相互理解に遠い神々でなければ、きっと逃げ出していただろう。

 

 何故なら。

 

 少年の瞳は虚ろな程に冷たく、怒っていた。

 

 そうして、最後まで人間を解さなかった神は。

 

『 c 』

 

 何かを伝え。

 

「言いたい事がそれだけなら」

 

 グシャリと。

 

 いつの間にか剥き出しとなった特異点を握り潰される。

 

「―――消えろ。僕の前から」

 

 その時、誰も瞬きをしていない。

 

 時間を止めただとか。

 

 転移しただとか。

 

 超高速で動いただとか。

 

 そんな話でもなかった。

 

 ゴォオォォォン。

 

 鐘楼の鐘のような音が何も無いはずの虚空を揺らす。

 

 アイウィスを構成する因子の一つたる神が唐突に失われた。

 

 これで崩壊していたアイウィスのバランスが崩れないわけがない。

 

 ついに都市は最終局面を向かえ、虚無の大海で散り散りに散逸していく。

 

 ガラガラと音を立てて円柱が風化して止まると少年の掌に握り潰されたソレに向かって急激に景色が引き込まれ始めた。

 

 特異点を生み出していたのはブラックホールを制御する機構。

 

 だが、核が消滅し、時空間の歪みが無限大となった“何でもあり”の力、その制御はもう失われてしまっている。

 

 暴走しないわけがない。

 

 単純な超重力崩壊とはまるで違う。

 

 掌の中に全てが引き込まれているのではなく。

 

 宇宙という風船の中から外側へ穴が開いて、世界が流出しているのだ。

 

 境界の同化による陸続きとなった世界へ外なる神々が侵攻してくるのではない。

 

 世界が外側へ中身ごと“裏返っている”と考えるべき事態。

 

 もしも、事態が進行すれば、全てが一点に集約されて、宇宙の収縮と死。

 

 更に再誕(ビッグバン)までもが引き起こされるかもしれない。

 

 生命が巻き込まれれば、どうなるか。

 

 予測不能。

 

 単に死ぬだけならまだしも、全てが可能となる力の暴走はあらゆる可能性でもって地獄よりも地獄らしいものを演出するかもしれない。

 

「………」

 

 そんな事態の中心にいるというのに。

 

 掌に特異点を握り続けている少年だけは世界の外側へ流れていく事も無く何処か沈んだ様子で佇んでいた。

 

「?!」

 

 三騎将が驚きと未だ続く周辺の異変に翻弄されながら、その行為に驚く。

 

 掌が口元へと持っていかれ―――。

 

「「「!??!」」」

 

 恐ろしく大きな音がした。

 

 まさか、何をする気か。

 

 信じられない。

 

 そんな言葉を飲み込んだ彼等の前で少年は今も無数の光景が引き込まれ続ける一点に今一度、歯を立てる。

 

 ガギンッ。

 

 恐ろしく広範囲。

 

 太陽系内の如何なる場所からも等しく。

 

 少年の口元の音が響いた。

 

 ガギンッ、ガギンッ、ガギンッ。

 

 潰した特異点を掌で移動させているという時点で、その原理は理解不能。

 

 それを食らうなんて行為は意図すら見えない。

 

 それでも、その光景を見ていた誰の目にも少年は何処か泣いているように見えた。

 

 前髪で顔は覗けない。

 

 だが、物悲しい響きが、歯の立てる音には篭っている。

 

 歪んだ紅蓮の只中で全てを想い通りにする力を、神を握り潰し、破滅すらも喰い潰す。

 

 凡そ人智の及ぶ行為ではない。

 

 そうして少年は自らの――――――――――――――。

 

【え?】

 

 何もかもが静止していた。

 

 少年すらもそうだった。

 

 だが、唯一人もうこの世界にいない、宇宙の全てから検閲されたはずの少女が、ハイダル・エス・トリアは己という認識を持ち、何もかもが止まった世界で一人虚空に浮遊している。

 

 何がどうなっているのか。

 

 彼女にはさっぱり分からない。

 

 とても大事な事が目の前で起こっているはずなのに。

 

 彼女はちっとも関係出来ないはずなのに。

 

 それでもエストリアはそれをいつの間にか見ていて、其処にいた。

 

 コツ、コツ。

 

 革靴が鳴る音。

 

 思わず振り返った彼女はまず自分の目を疑う。

 

 そして、また別人に違いないと思ったが、相手はそんな彼女の内心もお構いなしで笑った。

 

「嘘、じゃないんですか?」

 

「ああ、嘘じゃない。だが、受け答えは限定されている。これは手紙だ」

 

「手紙?」

 

「色々なパターンが考えられた。そして、この手紙はたぶん未来にいるお前にとって一番過酷な人生、その最も困難な時に開封されるよう予め【理想器(イデアライザー)】に記憶しておいたものだ」

 

「お父さん……」

 

 涙一粒。

 

「泣かないでくれ。私の可愛い娘……ハイダル……」

 

 クルス・エス・トリア。

 

 魂は今や存在しない肉体のみを現世に留めているはずの男の記録がそう笑った。

 

 *

 

「お父さん……どうして、こんな記録を?」

 

 少女が涙を拭い。

 

 静止した想い人の顔を心配そうに見つめながらも、今目の前にいる父親に尋ねる。

 

「エストリア。お前の質問に答えるには幾つかの智識を与えねばならない」

 

「智識……」

 

「そうだ。この【崩燼源動機関(ソルヴァス・オリジナル)】の正当な二人目の保有者として、お前はこの秘儀の箱の真実を知らねばならない」

 

「秘儀の箱……」

 

 エストリアがいつの間にか自分の手が握っている巨大なハンマーを見やる。

 

「少し長くなる。まずは座ろう。時間なら気にしなくていい。この記録が再生されている間、お前がいる世界全ての事象は止まっているに等しい」

 

 虚空にテーブルと椅子が現われ、それを引いてエストリアを座らせたクルスが自らも対面へと座った。

 

「まず順々に話していこう。お母さんかアーギストから、この箱の話の一部は聞いているだろうが、これはそれよりも前の時点でお前は何があったか知らねばならない」

 

「何があったか? それって何時の話ですか?」

 

「全ての始まりは凡そ五千年前に遡る」

 

「ご、五千年……」

 

 思わず目をパチクリとさせたエストリアにクルスが苦笑した。

 

「驚いただろう? だが、本当の話だ。この箱が作られる事となったのはそもそもが旧教会派の枢密。初代の【総主教(パトリアルヒス)】様が一つの約束をした事に始まるからだ」

 

「【総主教】……旧教会派の象徴」

 

「そうだ。物語の一番初めは一人の男と女の別れから始まる」

 

 クルスとエストリアの横に大きな壁画が映し出される。

 

 その中では一組の男女が互いに背を向けていて、別れの場面(シーン)が演出されていた。

 

「男が旧教会派の初代総主教マヌエル様だ。そして、もう一人が教会。いや、人類にとって初めての聖女となった女性。消失せし者マリアだ」

 

「消失せし者?」

 

「実はな。この壁画には描かれていないが、五千年前に一度人類は滅び掛けてる」

 

「へ?」

 

 ポカンとした少女にクルスは真面目な表情で壁画を見つめながら続けた。

 

「お偉い考古学者がよく旧教会派の後援を受けていたりするんだが、その理由は滅びる寸前だったという事実を隠す為なんだそうだ」

 

「い、意味が分かりません。滅びが迫ってたとか言われても、それって過去の話なんですよね? なのにどうして五千年も前の話を隠蔽するような事……」

 

「この当時、人類を救ったのは魔族と魔族が持ち込んだ巨大な神器と呼ばれる構造体だった。この駆動には神の魂が必要とされ、生贄として多くの神が人類の為に身を犠牲にしたそうだ」

 

「魔族と神様が人類を守った?」

 

「そうだ。そして、その時、出会った男女がマヌエルとマリア。二人は種族を超えて愛し合っていたと言われている」

 

「種族? あ、この女の人……肌が黒いだけじゃなくて耳も……ダークエルフ、ですか?」

 

「そう、マリアは人間と魔族の血を引くダークエルフの出身。一方マヌエルは人類を守る為に結成された救世組織たる教会の長の息子。彼等は滅びに対して共に立ち向かい、魔族と神々、亜人、異種、多くの力を合わせて人類を護り切った。面白い話だろう?」

 

「え、はい。確かに……今じゃ魔族って聞いただけで顔を顰める人も多いですから、そんな魔族が自分達を助けてくれたなんて信じられない人が沢山いるかもしれません」

 

「だが、その代償に大陸には大きな爪痕が残った。何も出来ぬ不毛の土地。何も育たない忌み地。それらを管理する為にエルフとダークエルフは神々から譲り受けた苗を植えて、大陸の回復を見守る役に自らを封じた。それが大樹【宇宙樹(ユグドラシル)】の起源なんだとか」

 

「凄い壮大なお話ですね」

 

「ああ、だが、それだけじゃない。何とか世界を守ったはいいものの、結局亜人や魔族を信頼出来ず、人々はその当時の情報伝達の遅さや迷信も相まって、誰も戦った者達に感謝しなかったそうだ」

 

「そんな……」

 

「それは偏見を持った教会の人間も同じだった。だから、自然とダークエルフと教会の間にも隔たりが出来て、二人は苦しい立場に立たされた。そんな時、マリアは……彼に一冊の日誌を渡した」

 

「日誌?」

 

「そうだ。神々が齎した【宇宙樹】の樹皮で作られたソレには彼女の能力で知った数多くの未来が記されていて。其処には彼女の預言と最後の願いが記されていた」

 

「ま、待ってください。未来って……魔眼の類をマリアさんは持ってたんですか?」

 

「実際にはどうだったのか分からない。だが、彼女は特定の未来を必ず引き寄せる事が出来たらしい」

 

「引き寄せる? 未来を自分の好きなように出来たって事ですか?」

 

「ああ、その力は滅びとの戦いにおいて、とても重要視されたようだ。そんな彼女が遥か未来。そして、それに至るまでの道筋を書き出した書。それが総主教の日誌と呼ばれるものの最初の姿だ。これに歴代の総主教は自らの選んだ重要な未来への分岐点とそれらに付いての考察を書き込む事で次代へのより善き指針とした」

 

「……その日誌がどうお父さんに関わってくるんですか?」

 

「彼女は人類の未来を憂えていた。そして、滅びが一つではない事を、無数の終末をその日誌に書き込んでいた。それにどう対処すればいいのか。それをどうやって乗り越えていけばいいのか」

 

「じゃあ、教会は今までずっと?」

 

「そうだ。五千年の永きに渡り、人類の滅びを回避し続けてきた」

 

「教会が五千年間続いて来た理由って……」

 

「そうだ。教会はずっと戦い続ける運命にあった。多くの人間が知らなかっただろうが、確かに人類は守られていたんだ。彼女の力で」

 

「俄かには信じられないお話ですね……」

 

「はは、私も最初聞いた時は眉唾だと思ったさ。だが、誰かが滅びを止めてきたから、今お前は其処にいる」

 

「……お父さん」

 

 もう死んでいる父に救ってもらった。

 

 その事を彼女は近頃強く感じるようになっていた。

 

 顔を歪めた少女にクルスが微笑む。

 

「話はこれからだ。よく聞いてくれ」

 

「はい……」

 

「それで日誌には最後のページに一番重要な出来事が書かれていた」

 

「重要な出来事……」

 

「その部分は“来るべき日”と題されていたそうだ」

 

「来るべき?」

 

「ああ、細部の内容は知らないが、ザックリと説明するならば、この世界に救世主がやってくるとの話が載っていたらしい」

 

「救世主。それって歴史上、時々現われた人々に救いを齎した人物の事ですよね?」

 

「そうだ。だが、話はそれが最後の救世になるとされ、その方法までもが載っていたところにある」

 

「最後の救世主」

 

「普通ならば、眉唾と思うのだろうが、数十年前に彼は現れてしまった」

 

「え? 現われた? で、でも、彼って事は男の人ですよね。聖女様達みたいな人がいたんですか?」

 

「………日誌にはこう書かれてあったそうだ。救世主は人の醜さの中で人を知り、人の愚かさの中で他者を学び、人の哀しみの中で剣を執ると」

 

 エストリアは何も言えなくなった。

 

 数十年前と言えば、未だ世界がそれ程に豊かではなかった時代。

 

 残酷な歴史というものを習えば、亜人国家とはいえ、先進国であるアルヴァスで生活して来た彼女からは考えられないだろう地獄が想像されて然るべきだろう。

 

「教会はその彼を見つけた。そして、その傍に方法もまた見つけた。総主教と一部の大司教達にしてみれば、人類の最後の救済へ躍起になるのも無理の無い話だ。“来るべき日”はある程度、暈(ぼ)かされながらもそれなりの人数、教会の人員達に共有された伝承に近いものとして存在していたが、それが真実であるとすれば、動くには十分な理由となる」

 

「それで救世主は、その人はどうなったんですか?」

 

「……彼は救世主とは呼ばれなかった。それは日誌にも書かれていた事だ。同時に彼を導き、最後の救世を得る為に教会はその方法を自らの手の内に隠した。来るべき日を迎える為に……」

 

「教会はその人に酷い事を?」

 

「ああ、当時の現場で事を起こしていた人々はそれがどんなに残酷な事なのか。知りもしなかっただろう。それでもそれが救いには必要だから、それだけの理由で彼は教会に運命を仕組まれる事となった」

 

「そんな……」

 

「彼は確かに人の愚かさを知っただろう。そうして、全ての真実を知りもした。自分が生まれてきた意味、自分が味わって来たあらゆる辛酸、それを許しさえしたそうだ。けれど、だからこそ、彼は救世主にならない道を選択した」

 

「救世主にならない。未来が変わった?」

 

「そう、未来は変わったんだ。彼が選んだのは人類を救済する事ではなく。たった一人の人間として、自分の大切な人達を守る事だった」

 

「じゃあ、日誌も意味が無くなったんじゃないんですか?」

 

「本当なら、それで全てはお終いのはずだった。が、諦め切れないのもまた人間だ。個人とその周囲の人間の為に人類の救済を諦めろと言われても、納得なんて出来なかった。少なくとも、そういう者は多かったんだ」

 

「父さんは……」

 

「だから、教会。いや、旧教会派は救世主が現われないならば、自らの手で生み出せばいいと考えた」

 

「―――」

 

「実際、旧教会に属した多くの人間達は世界をより善くしようと働いて来た。その理念は尊い。断言してもいい。確かに彼等もまた救われるべき人々に違いなかった。それを一番感じていたのは今まで教会に多くの血肉と信念と人生と人間性を捧げさせて来た張本人。総主教様だったんだろう」

 

「救いの為に命を弄んだりするなんて……」

 

「そうだな……そもそもが人を救うなんて傲慢な話だろう。でも、その傲慢をするだけの理由が教会には積み上がり続けていた。実際、その救いがあれば、確かに人類は新たな時代を迎えられる。多数決をすれば、その彼を苦しめてでも救いを得たい人間で世界は一杯だった。それ程に時代は残酷で暗いものだった事も事実だ」

 

「それに……そんな事に手を貸したんですか?!」

 

「ああ、貸した。進んで貸した。言い訳はしない。ただ、私にはそれしかもう縋れる救いは無かったというのも本当のところだ。自らに絶望していたリヒスを救い、またこの世界に新しい時代を迎え、人々へ貢献する。その手段として、一人の科学者として、それを選んだのは間違いなく私の意志だ。誰のせいでもない。その結果、多くの犠牲を出し、恐ろしき運命に殺されたとしても、それは自業自得だ。これを見ているお前が、私を間違っている思うなら、それは正しい。お前達を生きて守れていない事。それはたぶん私にとって人生最大の苦しみだ」

 

「そう思うなら!! どうして!?」

 

 死んでしまったのか。

 

 危ない研究に手を出したのか。

 

 そう少女は最後まで言えなかった。

 

 男の顔が、父の顔が、生前見た事も無い程、哀しみで歪んでいたから。

 

「だが、家族を最後まで思っているだろう事だけは本当だ。それだけは信じて欲しい。勝手だとは思うが……」

 

「勝手です。勝手過ぎますよ……」

 

 俯いた少女の前で“記録”は続ける。

 

「とにかく。私は救世主の創生を行なうだけの智識と技術と理由を得た最初で最後の科学者だった。総主教様の事は個人的にも信じていた。出会ってから十年と経たずに亡くなられたが、その人類をより善き方向へ導こうとする姿勢には共感出来た。それがお前の持つ秘儀の箱を造るに到った経緯だ。それは救世主を救世主たらしめる心臓部にして、本来想定されていた救済の方法を変則的に行う為のものでもある」

 

「人類を救済する……これが……」

 

 【理想器】が手の中で今までよりも重くなったようにエストリアは感じた。

 

「今、お前がそれを使っているという事は、このモードが起動したという事は、お前の記憶も戻りつつあるという事だ。この力を使う意味。この力が一体何なのか。それを知れば、お前は苦しみ、絶望するかもしれない。だが、それを私はもう何とかしてやれない。この情報は主観を加速してインプットしているが、もう時間切れだ。この先、お前がどう判断し、これを使うか。あるいは消し去るのか。全て任せる。その結果がどうあろうと、私の娘の選択だ。受け入れよう」

 

 彼女の前でゆっくりクルスの姿が足元からノイズに飲まれて消えていく。

 

「情報の全てを開示する。後はお前が判断しろ。エストリア……私の最愛の娘よ。父さんは罪人かもしれんが、お前は知らず使っていただけだ。気に病むなとは言わないが、私に騙されたと思っておけ。一生怨んでもらって構わない……また勝手な事を言っているな。だが、これがお前の家族で父親の本当の姿だ。恰好悪くて、間違っているとしても、変えようもない本当の私の姿だ」

 

「お父さん……」

 

「ただ、一つだけ。その命を無駄にだけはするな。それが親として、この不出来な男がお前に言える最後の言葉だ。母さんによろしくな。アーギストにお前や母さんの事を全部押し付けて悪かったと謝っておいてくれ。そして………ありがとう………私達の下へ生まれてきてくれて。先に行って待っている。来るのは一番最後でいいぞ。その時は、もしも叶うならば……親子喧嘩をしよう。じゃあ、いつか、また」

 

 プツリと姿が消え去って。

 

 泣くのを堪えた彼女の前に【理想器】が映像、画像、数値、論文、報告書、様々な情報を天を覆う勢いで表示していく。

 

 その中の一つを見た時。

 

「――――――」

 

 彼女は自分の中にある枷が砕け散ったのを感じた。

 

「………そっか。私……ずっと前に出会ってたんですね。イクスさんと」

 

 その顔には無数のものが混沌と渦を巻いている。

 

 彼女の前で拡大された映像には一人の、いや……数人の同じ顔をした少年少女達が映っている。

 

 サラサラと彼等の手足に突き刺さった透明な管からは小さな水晶のような砂が零れ落ち、その先では小さな硝子のような箱に入った生き物、羽の生えた禍々しい小人のようなものが管を突き刺された瞬間に砕け、濁ってはいるが同じような粒子となって舞い散った。

 

「………イクスさんは知ってたんですか? 私が、貴方を……こんな風に苦しめた男の娘だったって……」

 

 映像の幾つかが拡大される。

 

 其処には低級な魔族と思しき化物達が次々と管を刺されては粒子と化していく様子が生々しく映し出されていた。

 

 その顔には苦悶しか浮いていない。

 

 中には涙や鼻水を零しながら、絶叫して砕ける固体もあった。

 

「イクスさんは……私がこんなものを使ってるんだって知ったら……っ」

 

 胸元を押さえて。

 

 少女が歯を食い縛る。

 

「母さんと兄さんはきっと全部知ってたんですね。そうして、知った上で私を守ろうとしてくれた……こんな風に思わなくて済むように……こんな、私……イクスさんに何て―――」

 

 彼女の左右に二つの論文が拡大される。

 

 一つは【源理粒子(イデアル)】の生成方法に関する記述。

 

 一つは【崩燼期間(ソルヴァス・クラフト)】の根本的な作動源理に関する記述。

 

 前者にはハッキリと名前が記(き)されていた。

 

 クルス・エス・トリア。

 

 後者には震える字で畏れるように記(しる)されていた。

 

 リヒス・エス・トリア。

 

 前者の重要部分を要約すれば、【源理粒子(イデアル)】とは何かが分かる。

 

 それはとある存在が元々世界に否定されながらも、同じ形を取り戻す……因果律さえも復元している理由と源理の考察を参考にしたものだった。

 

 曰く。

 

 その粒子は意思を増幅する力を持ち、世界の因果律と繋がりを保つものである。

 

「生命が世界と繋がっていたいと願う思いの形。それが【源理粒子(イデアル)】」

 

 後者には機構の作動源理と名前の由来があった。

 

 本来、因果律を保てない機構内部で【源理粒子】が因果を保ち、反応を維持出来るのは純粋波動魔力に近い特性を持ったその出力(エネルギー)が世界との同化―――即ち、消費によるエントロピーの増大そのものを指向する性質を持つからだと言う。

 

 留めておくのが極めて難しい為、反応させ続けて増やし、余剰出力は生命の源、その一要素たる水素によって外部へ共に放出する。

 

 これによって、制御を維持し続ける事が可能となる。

 

 機構に使われる粒子の生成方法が罪深いものであると忘れぬよう。

 

【崩燼機関(ソルヴァス・エンジン)】。

 

「崩し灰燼とした命を使うからこそ、名は“解けたもの”の異名たるソルヴァスを名付けた……」

 

 読み取った言葉に瞳を閉じて。

 

 無かった事にも出来なくて。

 

 喚きたくても喚けもせず。

 

 逃げ出したくとも、己がそれを許さず。

 

 どう償えばいいと。

 

 どう伝えればいいと。

 

 暗い暗い穴に落ち込んでいくように彼女は、エストリアは、白い拳を、握り締めた罪深き機構を、震わせた。

 

 そうして彼女の前に全ての始まりたる実験に言及したレポートが浮かび上がる。

 

「肉体のみの完全な再現……」

 

【魔王複製実験(アブリアン・プロジェクト)】

 

 意思無き人形の創造実験。

 

 七聖女フルー・バレッサによって数十年間続けられて来た元凶たる研究。

 

 その過程で発生した派生研究やその成果に拠って成り立ったのが【源理粒子(イデアル)】であり、【崩燼機関(ソルヴァス・エンジン)】だったとの記載があった。

 

 レポートは数年前、彼女がまだ幼い頃に父親が書いたものらしく。

 

 端にはクルスのサインがポツリとある。

 

「―――【救世主創生計画(ザ・セイバー・クリエイト)】」

 

 救世主となるもの。

 

 その本当の名前は魔王シンア・ザ・クリティカルアンラッカー。

 

 旧教会派が行なっていた全ての研究成果は少年を人為的に生み出すものだった。

 

「……イクスさんが……魔王」

 

 高格外套の三人が言っていた事はあまりの事態に聞き流していたが、真偽のハッキリとしたところで彼女の気持ちには漣も立たない。

 

「そう、彼は……兄様はこの世の全てと同等のもの」

 

「?!」

 

 エストリアが思わず振り返る。

 

 其処には白い少女が佇んでいた。

 

「貴女は……」

 

「この世の全てから認識を受けない時空検閲官の部屋。此処はそれに近い場所。ただ、通常と違うのは内部から外部の観測が可能な事。そして……不完全ながらも万能を封じ込めたものである事」

 

 土御門烙南(つちみかど・らくな)。

 

 名前がふと彼女の脳裏に浮かぶ。

 

「貴女の持つ機構のおかげで烙南も助かりました。本来、此処にあるモノは全て概念や実態無き神ですら、停止させられているはずですから」

 

 自分がやったわけではない。

 

 しかし、それよりも感謝されるよりも先に彼女には気になる事があった。

 

「えっと……イクスさんの事。知ってるんですか?」

 

 様々な問いが思い浮かぶも躊躇した末に問われたのはやはりソレだ。

 

「はい。貴女が出会う前。まだ、イクス・ゼオとは呼ばれていなかった頃に。当時、私を救ってくれたのはその初めて出会った男性(ひと)でした。一人ぼっちで外を見続けるだけだった私に……世界の大きさを、この世には素晴らしいものがあるのだと、そう語ってくれた。だから、私はその人に……兄様に一生を掛けて、踏み出す勇気をくれたご恩をお返しすると決めたのです」

 

「それが、イクスさん?」

 

「シンア・ザ・クリティカルアンラッカー。貴方がイクスと呼ぶ人の本当の名前です」

 

「……そう、ですか」

 

 沈み込んだエストリアに烙南が何処かおかしそうに笑う。

 

「何を落ち込む必要があるんでしょうか?」

 

「だ、だって、私は!!」

 

「気にすると思いますか?」

 

「え……」

 

「貴方の知る兄様が、イクス・ゼオがそんな事で貴女を嫌いになるとお思いですか?」

 

「それは……」

 

 停止した少年の頬にそっと手を触れて。

 

 烙南が柔らかく笑む。

 

「記憶が無くとも、身体が違えども、兄様はやはり兄様です。貴女にとって、兄様がイクス・ゼオであるように。兄様にとって、貴女が大切な女性であるように。それは決して変わらない」

 

「私がイクスさんにとって大切な……でも、私は……」

 

 狼狽して、そんな資格は自分には無いのだと言う事も出来ずに苦悩するエストリアの顔が歪んだ。

 

「拝見していました。でも、その程度の事で兄様はきっとお心を変えたりしません。いえ、そもそも兄様が今、どうしてこれ程に怒っているのか。泣いているのか。貴女には分かりませんか?」

 

「―――」

 

「兄様はあの外なる神に怒っていたのではありません。ただ、自分の不甲斐なさに怒っていたんです。守れなかった事、約束を叶えられなかった事に。世界を敵に回しても微笑んでいたのだろう人が、天使達に怒りを顕にした。それもまた大切な人達の為だったんでしょう。自分の為に怒るなんて、兄様は考え付きもしませんよ」

 

 嬉しそうに少年の横顔を見つめる姿に目の前の少女も自分と同じなのだとエストリアは薄々気付いていた事を確信した。

 

「エストリアさん」

 

「は、はい」

 

「兄様の事、お任せしてもいいですか?」

 

「え?」

 

「今、兄様がしようとしているのはたぶん、理不尽を理不尽で覆す為の準備です。取り込んだ特異点の力を使えば、宇宙の法に勝る奇蹟を一度程度は覆せる。ですが、その為には肉体の全てと意思の全て、その両方の力が必要です。でも、今の身体は仮初め。自分の消滅と引き換えの力となるでしょう」

 

「それじゃあ、イクスさんは今?!」

 

「それが兄様です。自分の事なんて考えない。約束の為ならば、世界すらも敵に回す。貴方もよく知るお人よしで傲慢で誰よりも優しい人……」

 

 烙南が少年の傍から離れるとエストリアの前に立ち、【超越解釈領土機構(オーバー・エグゼゲシス・ドミニオン・システム)】―――【OEDS】に触れる。

 

「私の力とこの機構の力が在れば、此処から一人くらいは帰せる」

 

「!?」

 

 烙南が何をしようとしているのか理解したエストリアが何かを言う前に唇がピタリと人差し指で閉ざされる。

 

「一つだけ約束して下さいませんか?」

 

 微笑みが、まるで我が子を見つめるような慈愛の視線が、エストリアに反論を許さない。

 

「どうか、兄様の心を、守ってあげてください」

 

 貴女はどうするんだと。

 

 自分だって好きなんだろうと。

 

 そう思っているのも唇は動かず。

 

 何処か助かるかもしれないという安堵を抱えて。

 

 そんな自分に絶望するくらいの羞恥と情けなさを感じて。

 

 けれど、言葉の一つも出なくて……。

 

「誰よりも傷付き易くて、誰よりも苦しい事に耐えてしまう人ですから」

 

 エストリアは全身が震えるを必死に抑える。

 

「自分の事なんてお構いなしに無茶をする人ですから」

 

 指が唇から離れて、頭が、下げられた。

 

「どうか、お願いします」

 

 ようやく渇いた喉が叫びを上げようとして―――エストリアは自分の視界が真っ白に染まっていくのを、意識と肉体が深い水底から引き上げられていくような、そんな感覚で満たされていくのを感じた。

 

 声を出しているはずなのに届かない。

 

 真っ白にぼやけていく記憶からは何一つとして答えが出て来ない。

 

 今まで話していた相手との会話も、頼まれた約束も、確固たるものが失せていく。

 

 それでも叫びだけは、己の魂の底から汲み上げられた一言だけは、放たれた。

 

―――任せて下さいッッッ!!!!?

 

 バツンと全てが白さの中に途切れた。

 

 *

 

 少年が最後の一欠けらを口にしようとした時。

 

 世界が白く染まって。

 

 周囲に穏やかな風のように燐光が溢れた。

 

「―――?」

 

 三騎将達が驚く。

 

 少年の前にいきなり少女が一人上空から落ちてきたのだから。

 

 それが自分達の背後にいたはずの人物だと認識した途端、彼等は―――ようやく思い出した。

 

「エス、トリア?」

 

「イク、スさん?」

 

 少年の前で浮遊する彼女の手には小さく戻った鍵状の【崩燼機関】が一つ稼動している様子もなく握られていた。

 

 薄らと瞳が開く。

 

「あはは……迎えに行こうとしてたんだけどな」

 

 何処か困った笑みで少年が握っていた特異点を手から零した。

 

 途端、キャラキャラと何かが組み合わさるような音がして。

 

 周囲に再び大地が、散逸していたはずの空気が、歪んでいたはずの時空間が撒き戻るように再構築されていった。

 

 数百層にも及ぶ都市。

 

 黒き球体が白く白く色を変えて形作られていく。

 

 やがて、彼等の前には永劫沈まない黄昏に満たされた小奇麗な小都市の全景が広がった。

 

 瓦礫の一つも無い。

 

 【境界踏征(オーバー・フラタニティー)】が初めて到達した時と同じ。

 

 いや、それよりも温かな斜陽が満たされた空間。

 

 微風に吹かれる黄金の麦穂の最中。

 

 幻でも見ているのかと。

 

 全員が言葉も無く世界に見入った。

 

「……イクスさん」

 

「何処か痛い?」

 

「―――好きです」

 

「へ?」

 

「好きです。大好きです!!」

 

 思わず何を言われているのかと呆けた顔の少年にエストリアが抱き付く。

 

 そして、傍で三人の騎師達がいるのも構わず。

 

 泣き顔が叫んだ。

 

「大好きです!! 愛してます!! 誰に言われたって、何があったって、私はイクスさんがいいです!! イクスさんじゃなきゃダメです!! 私、私、イクスさん無しじゃ生きて行けないんですッ!!!」

 

 少年に抱き付いて。

 

 一緒に麦の中に倒れ込んだ少女は胸から溢れ出して行くものを素直な言葉にする。

 

「死んじゃうくらい好きです!! イクスさんが誰を愛してたって、好きです!! どんなにイクスさんが遠くにいても、どんなに離れていても、好きですッ!! 好きでッ、好きでッ、仕方ないんですッ!!!」

 

「あ、あの、エス、トリア? ちょ、ちょっと落ち着いて!?」

 

「嫌です。好きなんですッ!! 好きだから、だからッ!!」

 

 ポロポロと零れるものが少年の胸を濡らす。

 

「っく……っ……ふ、ぅ……っ」

 

「エストリア……うん。僕も好きだよ。エストリアの事……」

 

 その言葉を貰った途端。

 

 心の内から溢れてくる哀しさが、痛みが、スッと消えていくのを少女は感じた。

 

 そうして、自分がしなければと。

 

 自分が“守らなければ”と優しく抱き締められながら、思う。

 

 決意する。

 

 どうして、そう思うのか。

 

 何故、そう感じたのか。

 

 彼女は“知らない”。

 

 ただ、分かっているのは自分の家族が、自分が、犯し続けて来た過ちを糾し、少年と共に歩み続けていきたいという渇望だけ。

 

 許されなくても、誰に言われようと、決めたのだ。

 

 少年を愛し、少年を守り、少年を、少年をその手で抱きしめられる自分でありたいと。

 

「大丈夫。大丈夫だから……」

 

 睦み合う少年少女を前にして。

 

 半ば、呆然としていた騎師達がすぐ傍にやってきた転移の反応に視線を向ける。

 

「おい!! 大丈夫か!? なッ?!」

 

 転移の燐光を纏ってやってきたのはアーギストとジルムス、美紗の三人。

 

 彼等は自分達が辿り着くと思っていた場所とはまったく別の空間。

 

 崩壊していないアイウィスを前にして驚き。

 

 更に自分達の前に高格外套が三体いる事に驚き。

 

 最後に目の前で繰り広げられる光景に絶句した。

 

「いくひゅひゃぁん……好き……大好きれふ…… 」

 

 ちゅ、ちゅる、ちゅぐ。

 

 そんな卑猥な音をさせて。

 

 夢中で、誰かが傍にいると知っているはずなのに、全てが眼中に無い様子でハイダル・エス・トリアは少年の唇を奪っていた。

 

「な、な、な、なななな、何をしてるんだ!? イクス・ゼオ!!!?!」

 

 思わず怒鳴ったアーギスト。

 

 溜息を吐いて頭に手を当てるジルムス。

 

 そして、顔を真っ赤にしながら、何か重要な事態は完全に過ぎ去ってしまったらしいと理解した美紗が引き攣った笑みを浮かべる。

 

「と、とりあえず、無事なようです、ね……っ」

 

「イクスさん……好き、好きです……大好き……」

 

「っ、エス、トリア……み、皆が、ん、見て、るよ?」

 

「いいんです。見たい人には見させておけば……それよりも好きなんです……好き……イクスさぁん……」

 

 顔は見えないが、罰の悪そうな顔をして騎師達が三人ともその光景に背を向けて、ヒソヒソと話し合う。

 

『むぅ。消えていた合間に一体何があったんじゃろうか?』

 

『これが感動の再会で壊れるってやつなのかしら……女としては羨ましいわね』

 

『お? お前等にしては珍しく。回春(かいしゅん)しちまったか?』

 

 とりあえず。

 

 その場が桜色の空気になるのもそのままに少女は口付けを続けた。

 

 形にもならない心を彼女はそうやってしか表現出来なかったのである。

 

 二人の逢瀬が終わるのはそれから十分後。

 

 ふにゃりと身体の力が抜け、完全に出来上がった少女が眠ってしまってからだった。

 

 そうして第二次境界踏破は終わりを迎えた。

 

 前後で変わった事は二つ。

 

 少年は前よりも身体が丈夫になり、少女は前よりも自らに素直となった。

 

 それだけだろう。

 

「で……申し開きがあるなら、聞こう」

 

 東方の神たる閻魔の如き形相の漢を前に一体何があったのか。

 

 少年が一から十まで説明し、高格外套達が諸々の話を聞いてから、その場を去るまで小一時間。

 

 遂に白い少女の話題が出る事は無かった。

 

 その傍ら、黄昏の世界の片隅で、眠る少女の唇が微か呟く。

 

―――約束は守りますから、と。

 

 尊き願いは消えず。

 

 思いは絶えず。

 

 それは確かにハイダル・エス・トリアの中に息衝いた。

 

 物語は確かに受け継がれ、また新たな日々が始まる。

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