第三章六十九節「過ぎ行くもの」
『戦え。失いたくなくば。百万の軍勢も、億万の加勢も、貴様の前では無力だと知らしめろ』
血風渦巻く戦場(いくさば)の最中。
背翼を負った男が一人。
手を前方に翳す。
『貴様の往く手にあるのは遠の獄か近の獄か。それだけの違いしかあるまい。何を迷う事がある。あの馬鹿面の豚共に虞(おそれ)を為して、命辛々逃げ出すか? 勝てぬからと部屋に篭って震えるか? 助けを呼ぶ声に耳を塞ぎ、蹂躙される者の断末魔に聞こえぬフリか? 決断は今だ。死ぬならば今だ。終わりを迎えるより先に貴様が終わりを運べ!! それだけが守るという事だ。形振りなど構うな。お利口な間抜け顔で死ぬか。無様に血反吐を吐いてくたばるか。貴様はどちらがいい!!』
魔族の男の前で、大地を埋め尽くす行軍を前にして、少年が一人。
ただ一人。
震えていた。
その手が、拳を握り、太腿を殴り付ける。
『そうだ。それでいい。鳴り止まぬ足音に震えるだけの豚は死んだ!! 行け!! 逝け!! 貴様は戦わねばならない!!!』
『―――ああ!!』
『我が契約者!! 汝の名はッ!!!』
『僕の名は―――』
劇も佳境。
ハガス唯一の劇場は今日も賑わっていた。
新しい舞台は最高潮に達している。
高度な魔術のエフェクトは劇場の奥行きをまるで無限の如く広げ、その最中に大軍勢すら生み出してみせる。
それに立ち向かう少年を映すように廻る視点。
血反吐を吐き、剣が折れ、それでも故郷の小さな村を守る為に戦う魔族の契約者。
前回の出し物は魔王を題材とした恋愛もの。
今回は人間を守ろうとする魔族と契約者である少年の冒険譚。
どちらも作者は同じ。
だが、現在絶賛開演中の物語は客層として若年層をターゲットにしている点で色々と違った。
劇場側は舞台に脚を運ぶのが高齢者に偏っている事を危惧して若者向けの脚本を、と原作者に依頼したらしいが、よくよく客席を見てみれば、女性客が妙に多い。
どういうわけか。
最も受けが良かった層は十代から三十代の女性客だった。
男向けの冒険譚なのにどうして女に客層が偏ったのか。
首を傾げた劇場関係者はアンケートを実施。
それに答えた貴族、中産階級、人間奴隷、諸々の意見を総合すると……色々と契約者の少年と魔族の青年の妄想が捗(はかど)るらしい。
思わぬ副作用にうぅん(汗)と微妙な顔となった関係者達は本来意図していたものとは違いながらも人気を博すようになった劇を女性客中心に訴え掛ける演出を施し大成功。
やはり、前回の魔王の劇と同じく満員御礼状態で連日連夜、客が押し寄せている。
壮大なBGMが流れ、死んだ契約者を己の魂と引き換えに生き返らせて魔族の青年が消え、辺りからは○○○○様ぁ~~と目尻に涙一杯な女性達が啜り泣いていた。
「中々、泣かせる話じゃないか。なぁ?」
涙の一粒も見せず。
劇をニヤニヤとしながら、愉しんでいた角も雄々しい鬼女エンシェン・イル・フォイルに苦笑して。
「確かに面白かったかな。良いお話だったし……」
少年イクス・ゼオは凝った背筋を伸ばした。
「このエンシェン。久方振りの休日をどうやって凄そうかと思っていたが……今日は楽しかったぞ? イクス」
「期待に沿えたようで何よりだけど、良かったの? 忙しいって入院中も聞いたけど」
「ははは、気にするな。忙しさに感けて体調を崩していたら、世話ないからな。息抜きも必要だ」
「そう……」
二人がいるのは二階のVIP専用の個室だった。
「昼食時に聞いた話は了承した。あのダークエルフの子達に付いても赤鬼宗家が責任を持って面倒を見よう。だが、イクス。お前の体の事に付いてだけは……正直に彼女達へ言うべきでは―――」
少年の人差し指がエンシェンの唇を閉ざした。
「……いいのか?」
「ただ座して待ってるつもりも無いし」
「そうか。だが、覚えておけ。確かにお前の体はとても丈夫になった。その異相内部で研究者達が産み出したのだろう構造体、お前の体に融合したソレは明らかにお前を強化した。だが、それはあくまで肉体に付いての話だ。検査結果を知った時は呆れたぞ……そんな状態の精神(こころ)で戦い続ければ……お前は自分を……」
「分かってる。でも、無駄に心配掛けさせたくないし、何とかするって決めたから」
エンシェンがフゥッと溜息を一つ。
「そうまで言うなら、このエンシェンが口を出す事ではないな。ただ、一つだけ言わせてくれ」
「?」
「借りを返す前に消えるな。これはこの身の偽ざる気持ちだ。我侭に過ぎないとしても、な」
「覚えておく……それから、ありがとう。エンシェン」
少年の笑みに何も言えず。
肩を竦めて。
鬼女はそろそろ出ようと席を立った。
*
凡そ。
人智を越えたものは数在れど、人智が切り開いた未踏の叡智はそれ程に多くない。
偉大な数学者達の大半は自分達が画期的な数式を発見した時、神の隠したものを一部見つけたに過ぎないという立場を取るのが殆どだ。
無神論者や合理主義者、現実主義者の側面がある者達にしても、元々あった定理を発見しただけだという言動をするものが少なくない。
【近代化(レボリュション)】が大陸に広まって以降、魔術が概念論から唯物論の過程を経て大きく向上した際も、魔術師達の一部は自分達が発見していなかった定理を魔術の魔の字も知らぬ輩に発見されたに過ぎないと負け惜しみもとい負け犬の遠吠えよろしく叫んでいた。
最初から“在る”ものを発見した程度でいい気になるな、と。
勿論、皮肉な事に魔術結社、家単位で旧い魔術を信奉していた輩が【魔導技術(ハイ・クラフト)】の先駆者たる魔導師達に発見の面どころか。
創造の面においても圧倒的に敗北するという皮肉が彼等を完膚なきまでに打ちのめした為、そのような論は現代では殆どみられなくなった。
閑話休題。
結局のところ。
元々宇宙を構成していた定理を発見する程度の事は知的な思考を持つ存在にとって難しい事ではない。
それはある意味、人でなくともいいし、人外、異種、超越者、魔族、神、その他の何かしら知能を有する者達にならば可能な事だ。
だが、人類にとって“不幸”だったのは彼等が他の知的生命体とは違って、大幅に、殆どまったくもって奇怪な階梯で、“創造”に特化した資質を持っていたところにある。
彼等の発明した、見た事も聞いた事も感じた事も無い被造物(それら)は概念にまでも及び。
それ故に人類種とは今も多くの知的生命体にとって良くも悪くも先駆者となり続けている。
(と、少なくとも考えなければならなぬ程度には拙いな。これは……)
少年の肉体へ融合したもの。
【外碩領域構造体(ディスペクトラム・ストラクチャー)】
その星々の耀きを集めたような硝子の欠片を横目にエンシェンは少年と別れてから戻って来た自室で病院と研究所で一部の者達が出したレポートに見入っていた。
彼女の家が現在病院で治療中のダークエルフの子供達。
【叢龍児(ユグドラシア)】
彼等に聴取した情報からも裏付けられた研究成果は今の人類には過ぎた智識。
少なくとも大陸最高の頭脳たるフルー・バレッサすら手を出した事の無い領域のものに違いなかった。
アイウィスという特殊な異相環境下における生存と脱出の為に必要とされたのは化物達から侵蝕されない為の不可侵性と不可逆性を内包した技術や智識。
だが、研究するにも隔絶され、素材も機材も足りない所員達には限界があった。
それでも限られた素材と限られた人材、限られた智識、限られた機材、限られた時間、全てを最大限に使って研究者達は自分達がいる異相環境と化物を使い、それを完成させていた。
最初に気付いたのは研究所の初代所長だったという。
化物達に汚染された人体や高格外套の表面装甲。
それらを調べていた時、分解出来ない、つまり既存の方法では浄化出来ない物質が極微量の粒子を皮膜(コーティング)していたのだと言う。
これを解析した結果、彼等は化物がこの通常とは違う空間に適応する為に今まで人類が発見した事の無い粒子を使い自らの構成原子を強化していると知った。
素粒子間の“相互作用を発生させない素粒子”の存在を確認した世紀の大発見だった。
その粒子は“何も発さない物質”や“原子が如何なる振る舞いも行なわない物質”と言った常識的には考えられないモノが存在するという事実を示唆した。
素粒子間の相互作用が働かない物質というものがあるとすれば、それは恐ろしく特異な代物であり、既存の理論体系では説明の付かない不可解そのものだ。
その事実によって開けた研究、新物質のモデル構築と創造は言うまでもなく難事を極めた。
刻一刻と死に近付きながら原子核や電子を覗く日々はまったくもって情熱とは掛け離れた精神状態で行なわれていたらしい。
そもそもモデルを作れても構造を構築する為の機材が無い。
いや、それを可能にするものが現代水準の技術、しかも限られた資材しかない彼等に作れるはずも無かった。
しかし、縋るものが、研究者として研究するという当たり前の活動が、彼等には精神安定の意味でも絶対に必要だったらしく。
虚しい努力だとは理解していても、想像を絶するような自己犠牲的な献身で誰もが自らに与えられた、与えられてしまった命題の解明を進めた。
子供達の育児と脱出方法の模索以外はそれだけに全ての資源(リソース)を集中させたらしい。
やがて、彼等は狂気に取り憑かれながらもモデルの構築に成功した。
それは理論上、物質的には安定で外界からの如何なる相互作用も拒絶するものとして完成した。
勿論、造れない以上、意味は無い、はずだった。
そう、研究が終盤に差し掛かった際に造れるかもしれないという閃きが彼等の中に駆け抜けなければ。
手順は至って単純だ。
研究所を守って来た魔術の最高の触媒たる大樹【宇宙樹(ユグドラシル)】とあらゆる物質を魔力と触媒さえあれば生み出す波動錬金学。
これで最初に高格外套や人体から得たサンプルを複製する際にモデルへ近付くように変質させる。
波動錬金学の物質構成に必要な情報(データ)は子供達を産み出す際に何億回とシミュレーションしていた為、蓄積されていた。
出来るかどうかは未知数で、やれたとしても失敗する可能性はあったが、触媒と魔力だけはどれだけ膨大だろうと宇宙樹が使えれば、問題にはならないと思われた。
そうして予備実験は行われ、その願いは概ね叶った。
彼等はそれを造ることが出来たのだ。
ただし、その製造量は予測を遥かに下回った。
問題は必要となった資源(リソース)その一点。
幾度となく研究所内の装置で確認したが大樹四本で生み出せる総量が約50kgというある意味、大樹よりも高価(ハイコスト)な物質は事実上七教会の本部ですらも安易に造れるような代物ではなかった。
これではどうしようもない。
生み出せたとしても、加工に掛かる時間や大樹の消失からどれだけの時間生存出来るのか。
未知数な部分が多過ぎた。
断念せざるを得なかったのである。
誰か一人を助ける簡易の救命ポットくらいは作れたかもしれない。
だが、彼等の“家族”は増えていた。
研究者達だけならば、最も汚染被害が少なく、優秀な者を選出し、助けるという事も考えられたが、自分達の生み出した若い命にそれを捨てろと誰も言えなかった。
そんな合間にも脱出用の船。
大樹を使った最後の切り札は完成したが、生憎と乗れるのはその内部で産まれた子供達のみ。
改良しようにも大樹の制御限界は真直であって、時間は無かった。
ようやく出来た脱出の方法。
それにしても外界の異相に耐えられるのは試算上僅か一日であり、搭乗者を乗せて打上げるのは殺すのと同義だった。
そうして生贄とした肉体と同じ顔をした少年が流れ着き、事態は急展開を迎えたのだ。
(……この物質……あらゆる環境に対して完全な遮断機能を有するだけじゃない。この数値と魔術師達の見解が本当なら、完全な因果律の断絶にすら耐える……神石の類か)
大陸における魔術師達が目指した万能無限を地で行く研究の中には概念的な“無限”や“完全”というものを様々な解釈で含有した物質が現われてきた。
例えば、時空間の頚城。
世界の量子的な振る舞い、歴史の分岐点を固定化する物体。
これは大昔、時間旅行の類を行なう魔術師が自らの歴史へ帰る為に特異点を物質的に固定化したものだとされ、無限に分岐するはずの可能性世界を術者のいた現在に向けて指向する能力があったと言われている。
半ば、魔術師達に伝わる眉唾な伝説の類だが、人類が記録している範疇において、魔術が時間を越える事自体は報告された事例である。
無いと言い切る事は出来ないだろう。
他には無限機関の材料。
電気と熱量を限界無く内包可能な物体。
実際に一部の魔術大系を極めた術師達が大昔に作成したとされる一番メジャーな神の石は現存する。
それどころか。
今も北部のとある国では民に恩恵を与えているという。
「ふ……親父殿なら喜んで国の年間予算を注込んでも買うだろうな」
少年に顕現させて、僅かに採取出来るよう分化させた結晶はそれだけで恐ろしく有用な技術の塊。
アルヴァスに富みと発展を与えた【崩燼機関】と【源理粒子】に負けず劣らず。
いや、それ以上の力を齎すかもしれない。
だが、同時に再びの繁栄には如何なるリスクが付いて回るか。
その影響はたぶん計り知れない。
ある種、吃驚箱(びっくりばこ)を開けるような状況に近いとエンシェンには思えた。
災厄の箱という逸話もある。
安易に国や父親に報告するべきではないと彼女が情報を一時的に差し止めた判断は正しかったはずだ。
「エンシェン……こんな夜中にどうかしたのかい?」
天蓋付きの寝台端でまるで猫のように丸まって眠っていた現アルヴァス国王アルデルト・エスラ・ウィム・アルヴァスがそのなよっとした赤い耳を立てて頭を擡(もた)げた。
まだ十一時を過ぎていないが、目をショボショボさせた姿は国王というよりは眠くて仕方ない子供そのものに見える。
「………ふぅ」
「な、何か今、物凄く失礼な溜息を吐かれなかったかな?! 僕!!」
憐れなものを見る視線が突き刺さり、思わずアルデルトが抗議した。
室内はテーブル上の洋光(ランプ)に照らされていて、薄らぼんやりと二人の陰影を刻んでいる。
まるで影絵の如く。
やれやれと壁には肩を竦めた臣下が一人。
「お前はいいなぁ。ああ、本当にまったく持って羨ましいぞ。そのとても素晴らしい子供のような純真さをいつまでも失わないでいてくれ」
「え? そ、そうかい? エンシェンが僕を褒めるなんて……ようやく国王の偉大さが分かって来たに違いない!? はッ!? まさか、ちっちゃい頃に僕のお嫁さんになるって言ってた事も思い出して、あの頃の可愛い君に戻―――」
ガゴォッ!!!
と、拳が地下の壁に大きなクレーターを穿つ。
「“陛下”」
「―――な、何ですか? エンシェン、さん……」
借りて来た猫となった青年がビグゥッと大げさなくらいに震えて、被り直した掛布(ブランケット)の中から恐る恐る訊ねる……もはや、さん付けであった。
「寝言は寝てから言いましょう? 眠れないのなら、このエンシェンが寝かし付けて差し上げますよ?」
ゾクゾクッと背筋に氷柱を突き刺された気分で青年がブンブンと首を横に振った。
自分の立ち位置を再確認した国王?はもう威厳もへったくれも無く。
無言でこれ以上威圧しないで?!と涙目で小さな塊となり、一言。
「おやすみなさい………」
「ああ、おやすみ。我が王……とっとと寝ろ。いいな?」
「はぃ……」
彼女は紙の資料を整理しながら、翌日に向けてイメージを練る。
高格外套の中に囚われていた男の七教会への返還とそれに伴う極秘の会談に彼女も出席する事になっていたからだ。
目標は二つ。
ハガスの異相に対して直接的に軍艦と騎師を派遣した言い訳をさせて何かしらの譲歩を引き出す事と恩を売って表向き少年へ干渉しないよう釘を刺す事。
そのおまけとして異相内部で研究所の所員達に育てられたダークエルフの少年少女達の処遇に付いても内容を詰める事になるだろう。
どんな選択肢が必要かは分からずとも。
今は少年と同化している彼等の育ての親が何を切望していたかは彼等から聴取していた。
出来る限り、その内容に沿えるよう。
そして、彼等の意向を汲めるよう最大限の配慮はするつもりだったが、七教会における魔王が関わった事件への執着は異様に強い。
禁を犯したのは教会だという大義名分があるとしても、まるで気は抜けなかった。
「んにゃ……エンシェン……およめさ……はぐ?!……叩かな、ひぅ~………」
さっそく眠った国王の夢に言いたい事がありまくりだったが、彼女は溜息だけに留める。
まだ幼い時分。
慣れ親しんだ頃はよく一緒に遊ばされた。
その頃のエンシェンはもう少し無邪気だったのでよく遊ぶ将来の王様のひ弱さにどうにか守りたいと、こんなにも国王がひ弱では国が危ういと、正義感と現実への憂慮から『お嫁さんになってあげる』と言っていた。
それを見ていた父親と母親、それから前国王と側近達は微笑ましいものものだと笑みを浮かべていたが、その頃から彼女は単にダメそうな弟分と国をどうにかしたいと思っていたに過ぎない。
国の存亡を掛けた事件は終わっていない。
その只中にいながら、現実に彼女が出来る事はあまりにも少ない。
限られた裁量と力を駆使してみても、多くを救うのは彼女のような憂国の徒ではなく。
其々の様々な理由で化物のいる都市最奥を目指す少年少女に青年達。
国の威信を掛けた男達すら届かない深淵へと誘われる彼等に加わりたいと内心では思っていても、彼女にしか出来ない事が少なからず現実にはある。
(こちらの予定も中盤を過ぎた……彼女の情報から必要な値の見当も付いた……幸いにも“偵察”しに来ていた南部帝国とのパイプも確保したし、旧教会派のお偉いさんにも顔は売った。事態が動き出すまでどれだけあるか知らないが、このエンシェンにも国を救える可能は出てきたか……)
複雑に絡み合った組織、国、宗教の利害を調整し、彼女の望む条件を引き出す為の手札もある。
ならば、やってみせよう。
戦いを好む赤鬼の血は何も化物を倒す為だけに疼くわけではないのだから。
そう、彼女は、エンシェン・イル・フォイルは最後に一枚だけ残った紙の内容を見て、裏返す。
(さて、部下の仕事ぶりでも見に行くか……)
洋光(ランプ)の灯りが消された。
暗闇に支配される室内から外へ繰り出す寸前。
ポツリと呟きが零れる。
「……良い夢を……」
扉が開く。
一路目指すのは黄虎(ティグリス)たる四十代の部下が徹夜しているだろう貸し与えた西部にあるフォイル家所有の一室。
(進展はまだ無くてもいい。だが、釘くらいは刺してこよう。あの真面目な刑事殿に……)
扉が閉まった後。
中には健やかな寝息だけが漂っていた。
「エンシェ~~ン……ぼくのおやつ食べちゃ……ぁぅ~~~……」
夢の中でも理不尽なる幼馴染に虐げられる国王の受難はまだまだ続きそうだった。
*
一日中エンシェンとのデートと洒落込んでいた少年はようやく自宅であるゼオ家本邸に帰り―――付いていなかった。
その最たる理由は待ち伏せだ。
と言っても、化物の類が急襲してきたわけではない。
黄金の鬣(たてがみ)も凛々しいモフモフなる獅子少女(ライオン☆ガール)。
奏美紗。
璃紗の姉が半眼で自宅への帰路に待っていたのだ。
学校から逃げ出してデートの途中に連絡は入れていた為、璃紗やその他の少女達には心配させていない。
夜も遅くなると伝えていたのだから、問題は無い。
しかし、話がある。
そう言って、美紗は少年を誘った。
奏家本邸とは真逆の西部にある団地の一角。
今はウルも住んでいない中流家庭(ミドルクラス)が数多く入居する集合住宅(アパートメント)のある方へ二人は歩を進めていた。
「一人暮らししてるんだっけ? この間、聞いたような……」
「ええ、そうですが……おかしいですか?」
「別におかしくは……ただ、その……」
「ただ?」
「何だか美紗が一人暮らししてるところが想像できなくて」
「生活力が無いと? これでも公務員で給料は良いですし、貴族は何事も“出来る事”が美徳の一つでもあります。仕えられる事には慣れていますが、使用人達に混じって家事炊事の類は一通り学びました。嫁ぐところが必ずしも裕福であるかどうか分からない。いえ……両親の親心だったんでしょう。誰に嫁いでも生きていけるようにと……」
「ええと、その……ごめん」
思わず汗を掻いて謝ってしまった少年に溜息が一つ。
「出会った時は得たいの知れない極悪人の類だと思っていましたが、どうやら見込み違いだったようです」
瞳を細めて美紗が唇を僅かにムスッと引き結んだ。
「それって貶してるのか褒めてるのか微妙な感じな気が……」
「褒めていると思いますか?」
街灯の合間を行き交う人混み。
夜でもハガスの西部は人通りが多い。
労働者達の大半はもう家に帰っているか。
これから出勤か。
明け方まで呑もうと赤線街へと繰り出すのだ。
遅いとはいえ。
学生が歩いていても誰も見咎める者は無かった。
「……まぁ、褒められるような事をしてなかったのは事実だけど」
「この都市を、国を救いたい。今もその気持ちに変わりはありません。昔言った通りに……まだ半年も経っていないんですよね……あの時から……」
「随分前みたいに感じるくらい、沢山の事があったっけ……そういえば……」
「「………」」
沈黙が降りて。
しかし、彼等の足は止まらない。
「部屋に行ってから、貴方へ伝えたい事があります。ですから、今日は泊まっていって下さい」
「アルゥさんにはさっき連絡しておいたからいいけど。大事な用?」
「はい。とても……妹には、璃紗には悪いですが……そう言えば、昼間の事ですが―――」
思わず少年がこれから罵倒の嵐でも来るのだろうかと身構えようとした。
が、美紗の口からは非難が出てこず。
何やら言い淀む少女の口からは別の言葉が出てくる。
「―――付きました。この高層建築(ビルディング)の中層階です。【崩燼機関】製の昇降機がありますから、すぐ付きます」
先立って黄金の髪が揺れて、玄関口(エントランス)の扉を潜っていく。
「………」
数分で少年は美紗の部屋に辿り着いていた。
内部は売り出されているものとはまるで違う内装なのだろう。
基本的には貴族が愛用する古風(アンティーク)な家具で統一されていた。
ウルのような一室を借り受けたようなものではない。
たぶん、普通に購入されたのだろう4LDKの部屋には女性らしい感性のレース地のカーテンや花柄の壁紙など、普段の美紗からは考え付かないような愛らしいものに囲まれていた。
「……皆で集まる機会があったら、此処に来てみてもいいかな?」
「な、何か他に言いたい事はあ、ありませんか?」
何処か警戒したような素振り。
しかし、彼女は首を傾げて頭に疑問符を浮かべた少年を見て、内心の『に、似合わないと思うなら、そう言えばいいでしょう』なんて言葉を飲み込んだ。
「とりあえず、上がって下さい」
「お邪魔します」
魔術具の灯りが自動で点灯された部屋の内部に東部風の慣習として靴を脱いで入ると中からは仄かに甘い花のような薫りがした。
「ソファーで待っていて下さい。今、お茶を入れます」
「うん」
一人台所へと向かう背中を見つめながら、少年はリビングのソファーに腰掛け。
「………」
少しだけ気を抜いた。
「―――オ。どうかしましたか?」
一瞬で目の前に紅茶が置かれ、少年は……何事も無かったかのように微笑む。
「何でも。何か普通のものと香りが違うなぁって」
「……はい。これは南部のものですから」
「そうなんだ?」
カップの横には小さな小麦菓子(クッキー)が乗せられた小皿。
お茶も菓子も上等なものなのは一目で分かった。
色合い、薫り、それらが口の中で渾然一体となって、少年は静かに嗜む。
「………」
「あの、そんなに見られてると気になるんだけど」
対面から見つめられている。
どうしてか。
まるで分からず少年が困ったように笑った。
それでも真剣な獅子の瞳は少年を視界に入れて離さず。
ポツリと一言。
「それで」
「?」
「それで隠しているつもりですか? イクス・ゼオ」
「………何の事?」
一瞬、本当に沸騰仕掛けた少女の顔が、すぐに勢いを失って俯き加減となる。
「断絶、しているのでしょう?」
その言葉に何も答えず。
さりとて無視も出来ず。
どう答えたものかと思案し。
少年はいつも通りの笑みで応えた。
「そんなに気にしなくても」
「―――そんな事!? 出来るわけないじゃないですかッ!!?」
集合住宅だ。
隣室や上下階にも響きそうな叫びはしかし、しっかりとした防音魔術で室内を振るわせるに留まった。
「すみ、ません……」
思わず謝って。
まるでこれから自分が死んでしまいそうな顔で。
彼女はそっと呟く。
「どうして、そんな風に平然としていられるのか。私には分かりません」
「怖くないから、って言ったら信じる?」
「怖くない? これから自分が少しずつ消えていくのに!? 最後には何も言えなくなって、聞こえなくなって、見えなくなって、動けなくなって……消えてしまうのに………どうして、そんな事が言えるんですか……イクス・ゼオ……っ」
言葉は血を吐くような悲壮さに彩られていた。
苦悩の滲んだ声音には涙すら混じりそうだ。
けれども、そこまで知られていたとしても、少年は至って普通に笑みで返す。
「……僕が魔王だって言うのはアーギストから聞いた?」
「―――はい」
本当は仲間達の前でちゃんと話すべきなのだろう事。
異相の中で最も少年自身にとって大きいはずの過去に対する回答。
それがあっさりと分かったのだ。
その事実をアーギストから仲間達に伝えてくれるように頼んではいた。
出来れば、それでも自分と一緒にアイウィスに潜るか。
そう仲間達に聞いて欲しいと。
本来なら大騒ぎになって然るべきところだが、【境界踏征】の誰もその事に付いて何一つとして話して来る事は無かった。
いつも通りの仲間達の態度と姿が少年にとって、とても眩しく嬉しい誤算だったのは間違いない。
だから、気を使ってくれたのだろう誰にも自分から言い出す事はしないでいようと思っていたのだ。
それでも良いと暗に示してくれた彼等に感謝していたのだ。
けれども、それよりも深い事情を知っているらしい美紗にそれで全てを納得させるのは無理だろう事も分かってはいる。
故に自分の心情を、偽らざる気持ちを、魔王らしい自分の言葉を、少年は伝えようと話し始める。
「僕の能力は不死だった。死ぬ事はそもそも怖くない。でも、自分が本当に消えてしまうのだとしても、本当の僕と今の僕が違うものなんだとしても、怖くは無い……今も全然……ただ」
「た、ただ?」
「皆を泣かせたり、哀しませたりはしたくないから、それは困ってる……勝手だとは思うけど」
「ッ、それが分かってるなら、どうして!!?」
どうして、喚かないのか。
助けて欲しいと言わないのか。
その程度の付き合いだったのか。
そう言おうとした彼女は少年の瞳にある光に言葉を飲み込んだ。
「僕には約束がある」
「え……」
「約束は守る主義なんだ。だから、それを終えるまでは絶対に“僕”は本当の意味で死なないし、消えたりもしない」
「何を……約束を守る為に死なないとか、消えないとか。そんな事―――」
「出来ないと思う?」
「………その言葉はズルイです……」
今まで奇蹟。
否、自らの全てを使って理不尽を覆し続けて来たのは紛れも無く少年だ。
今回の事も結局、少年の行動で事無きを得たのだと後になってアーギストから報告されている。
沢山の人間を救い、支え、誰かから想いを受け取って、力として進む。
そんな少年だからこそ、あの状況であっても、ハガスを、アイウィスを、その中にいる人々を救えたのだ。
「どれだけ時間が掛かるか分からない約束でも、必ず僕はそうする。どれだけ理不尽だろうと不可能だろうと世界が無理だと囁いても、僕には履行する義務がある。意思がある。そうするだけの理由がある。だから、本当のところを言えば、死んでも僕はそうすると思う。例え、僕が消え失せても、ね」
「死んだら、何も出来ないじゃないですか……」
まるで子供の言い分だ。
何の根拠も無い。
いや、魔王という力が一体どれだけの事を可能とするのか彼女には分からない以上、在り得るし、根拠もあるのかもしれない。
しかし、少年は自分がそんな力を持っているから、そんな風に出来ると理解しているから、そうしているのではない事くらい、美紗にも分かった。
全ては想い一つ。
少年はそうできないかもしれないと自分を疑ってすらいない。
例え、自分が無力でも、特別な存在で無くても、そうしようという気持ちには変わりなど無いのは明白だった。
「無茶苦茶です」
「過去が魔王みたいだから、今更な気も。はは……」
苦笑する相手へ怒る事が無償に馬鹿らしく思えた。
だから、彼女が発するべき言葉は一つしかない。
「信じます……」
「美紗……」
まっすぐな視線が少年の瞳と結ばれた。
「貴方に今更、道理を説いても何にもならないのは分かってました。その身勝手で約束を守って死んでしまうとしても、私は貴方を信じます……貴方が私達を哀しませないと、苦しませないと。そう、信じます……信じるしかないじゃないですか……」
「……ありがとう」
「そうしたいと願い、そうするべきだと言い、そうしようと行動する貴方の今までを見てきた。全部、奇蹟なんてものじゃなかった。貴方は自分の思いを貫いて……何もかもをその通りにした。それはきっと、貴方の想いが誰よりも強かったからだと今なら分かる……」
大仰過ぎると少年は頬を掻く。
「僕はそんなに大した存在じゃないよ。ただ、他の人より少しだけ頑固なだけで……誰よりも欲張りなだけだから……」
「酷い人ですね。貴方は……」
苦しさも胸の痛みも涙も全てを堪えるように美紗は笑んだ。
そんな顔を自分がさせてしまったのだと胸に刻んで、少年は謝らない。
「うん。そうなんだと思う。でも、それが僕だから」
これで話は終わりだとばかりに立ち上がると夜食でも作ると言い出して、再び美紗の背中が台所の方へと向かう。
「何がいいですか? 大抵のものはありますが、好きなものなら言ってもらえれば、用意しますよ」
「じゃあ、湯で麦とか干し肉とか。そういうのでお願いしたいんだけど、いいかな?」
「湯で麦……まるで昔の旅食みたいなものが好きなんですね」
「一番落ち着く味、だからかも……」
「分かりました。少し待ってて下さい。挽いていない小麦はありますから」
台所の方からしばらくするとコトコトと鍋の煮立つ音が響いてくる。
それに何処か眠気を誘われて。
少年はいつの間にか瞳を閉じていた。
断絶が襲ってくる事は無く。
ただ、薄らと揺らいだ記憶の水底の澱が舞い上がって。
何処からか声が聞こえて来た。
『まったく、今日はもっと良いものを食えるというのにお前と来たら、またソレか』
『本当に好きだよねぇ。湯で麦……僕は食べ飽きちゃったよぅ』
『ま、本人の好きにさせたらいいじゃない。好物なんて人其々よ』
『あ、それなら香辛料を奮発しちゃいますね? さっきの市場で凄く珍しいものを手に入れましたから』
温かに通り抜ける風と星々から射す光の感触。
月も見えない明るい夜に誰かが前に置いた色褪せる木製の皿の上。
静かに薫るものはきっと幸せそのものだった。
「大丈夫ですか?」
何処か心配そうに覗き込まれているのにようやく気付いて、少年は頷く。
彼の前には一皿分の湯で麦が湯気を立てて振り掛けられた香辛料と干し肉の欠片に絡まっている。
どれだけ、あの幸せだったいつかから遠ざかったのか。
そもそも、自分は本物では無いのにどうしてそれが見えるのか。
その疑問も答えも想いすらも置き去りにして。
ただ、少年は頷き、一言。
「いただきます」
手を合わせた。
*
夜食を平らげた後。
少年は何とも言えない空気の中で帰ろうとは言えなくなっていた。
何処か帰って欲しくなさそうな、まるで捨てられた子犬のような目で心配する少女が、あまりにも無言であるから、そんな風に出来なくなってしまったのだ。
ソファーの横にはしおらしく。
ちょこんと座った美紗が少年を見つめている。
「あんまり見られると気恥ずかしいんだけど……」
「嫌ですか?」
「嫌って事はないんだけど、落ち着かないかな」
おずおずと少女の手が少年のソファーに置かれた手に重なった。
「体は丈夫になったと聞きましたが、魔力は足りていますか?」
「うん。前よりは全然長持ちするようになったから、これで毎晩璃紗に頼らなくてもいいって事は聞いてる」
「そう、ですか……あの子は寂しがるでしょうね」
「……怒ったりしないの?」
「どうしてですか?」
「え、いや……今までの美紗だったら、あの子に毎日毎日何をしてるんですか!? 貴方は!! とか言い出しそうだなぁって……」
半眼になった彼女は少しだけ手の甲を抓る。
「そうして欲しいですか?」
「ごめん。遠慮します……」
「まったく、貴方は女性の心理を知らなさ過ぎます……」
「ぅ……」
「でも、今日の事は大目に見ますから、あの子にこれからも触れてあげて下さい」
「―――美紗?」
思ってもいなかった言葉を投げ掛けられて、少年が目を丸くする。
「これでも私だって女です。好きな人に抱かれる……それがどれだけ幸せな事なのか。想像くらい出来ます。あの子が貴方を心から慕っている事、そんなの見てれば分かりますよ……」
自分が考えているより、奏美紗は大人なのだと。
いや、姉としてもう立派に成長しているのだと知って。
少年は決まり悪げな顔となった。
彼女にしてみれば、少年は間違いなく可愛い妹の貞操と心を奪った“悪い男”なのだ。
「そんな顔をしないで下さい。もう、あの子の境遇やあの子の想いに対する否定的な気持ちは持っていませんから。あの子が捨てられた事、あの子がそれでもあんな風に育った事、あの子が今とても幸せなのだという事。全部、分かっていますから……」
「美紗……」
「……………ずっと、言えなかった事、言わないといけませんね」
真っ直ぐな瞳が少年に向けられて、頭が下げられる。
「ありがとうございました。私を助けてくれて、あの子を助けてくれて……この都市を、私が壊してしまうところだった大切な今を、守ってくれて……」
「顔を上げて。美紗」
「ぁ……」
顎がツイッと人差し指で持ち上げられた。
「こっちは自分のやりたいようにやっただけだよ。感謝してくれるなら、これからも時々湯で麦をご馳走してくれる方が、頭を下げられるより僕は嬉しい」
「……はぃ」
今までに無い程しおらしく。
ぺたりと頭部の耳が前に倒れて、僅か頬が染まった。
「何だか、不思議な気分かもしれない。最初は結構、友達にはなってくれなさそうな感じだったから……」
「ぅ……それは、あの時の私は、余裕が無かったから……いえ、言い訳ですね……私は貴族として、警邏隊の一員として、義務感に駆られていただけでした……正義と国を守る為なら、多少の無茶はしてもいいと思っていた。貴方を捕まえてやると、それで全てが解決すると思っていた……今にして思えば、見識の狭い行動を恥ずかしく思います」
「君は正しい事をした。僕は怪しかった。でも、今は仲良くしてる。それでいいんじゃない?」
「いいのですか?」
「僕がいいって思うんだから、君さえよければ……」
「分かりました。では、これから……その……仲良くして下さい……///」
ススッとソファーの間にあった二人の距離が詰められる。
「美紗?」
「あの子と仲良くする時はいつもどうしているのですか? イ、イクス……」
いつもならば呼び捨てでフルネームのところだ。
とりあえず少年は毎日の事を思い出して思いつく限り喋ってみる。
「えっと、遊んだりするかな。膝に乗せて一緒にチェスをしたり、簡単な魔術を教えてあげたり、お菓子を買って来てあげたり、毎日世話になってるから、それくらいしかして上げられる事が無いって感じなんだけど」
「あの子はいつもそんな風に?」
「うん」
「羨ましいですね……」
「美紗?」
「貴方の傍であの子は幸せが何かを知った。人生は残酷なばかりだと貴族の癖に世の犯罪にしか目を向けて来なかった私とは違って……」
「今、美紗が見てるものはそれだけじゃないんじゃない?」
「出会いが自分をこんなにも変えていくものだなんて、知りませんでした。確かに……」
澄んだ瞳が少年の顔を覗き込む。
「イクス。貴方にお願いがあります」
「何かな?」
「これから、何が在っても、覚えていて下さい」
「………いいよ。そうしようと思ってたところだし」
「無茶を言っている事は承知しています。あんなにも頑張っている貴方にこんな事を願う私はきっと酷い女でしょう。でも、忘れて欲しくない。私を、あの子を、この場所で出会った、貴方を思う人達の事を……」
一雫。
ポタリと瞳の端から流れ落ちて。
「昔、誰かが言ってたよ。女の人の願いを叶えるのは男の甲斐性だって」
いつもの笑みで少年がそっと少女の頭を撫でる。
「甲斐性だけ在り過ぎる人の台詞ですね」
「あはは……どうしてだろう。自分でも意識した事はないけど。でも、誰かを選んで、誰かを選ばない。そういうのは僕の性分じゃなかったって事なんだと思う。今も沢山約束があるけど、古い約束にね。こんなのがあるんだ」
頭が胸に抱かれる。
「誰も置いて行くなって。そうしたいなら、そうすればいいって」
「誰も?」
「うん。たぶん、そう言ってくれた人は僕にとって大切な人だった。けど、自分一人を愛してくれとは言わなかった……そんな風に僕が出来ないんだって知ってたんだと思う。誰かの為に誰かを捨てる。誰かの為に誰かを置いて行く。それは凄く普通の事だと思う。人間にとって、限界がある誰だって、そうだ。でも、僕は違った」
「……魔王だった頃、ですか?」
「まだ、記憶がハッキリ戻ったわけじゃないし、本当にそれが僕の記憶だって言っていいのかも分からない。でも、その時の僕は何でも出来るだけの力があった気がする。人間とは根本的に性質が違ってた……僕にはそうするだけの力があって、そうするだけの理由があった。今も同じ……いつか背中から刺されそうだなぁとは思うけど」
「馬鹿、ですね」
「ごめん」
「でも、分かります。貴方はそういう人なんでしょう」
「それって、褒めてない、よね?」
「当たり前です。あの子だけじゃない。貴方を慕う誰もが、女の性も投棄てて、一番になろうとはしても、独り占めしようとはしない。それはきっと、貴方の風みたいなところを感じているからです」
「風来坊、的な?」
思わず美紗は笑ってしまった。
「イクス……イクス・ゼオ……私にあの子にしているような事を……して下さい」
「……後悔―――」
「しません。するはず、ないじゃないですか。あの子が愛して、彼女達が選んで、私が……私が初めて全てを許せると思った人なのですから」
「美紗………」
「好きです……」
「……ありがとう」
口付けが、額に降る。
そうして、夜は更けていく。
小さな熱を伴って……。