※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第三章七十三節

第三章七十三節「奇妙な凶旅Ⅲ」

 

―――祭楼館内レストラン理外の晩餐亭。

 

 宿の奥まった場所に置かれたレストランには地方の国では珍しいビュッフェ形式が採用されていた。

 

 壁際に並ぶ料理の数々は色鮮やかでライトアップされた庭の眺めは落ち着いた雰囲気。

 

 店内の僅かに明度を落とした洋光(ランプ)は温かみのある色合いで臭いのする獣油ではなく、無臭の植物性。

 

 テーブルは全部で七席。

 

 適度に離れたスペースと軽やかに流れる穏やかな弦楽の調べが客を和ませてくれる。

 

 ドレスコードは無いのだと言う。

 

 カジュアルだろうがフォーマルだろうが、身嗜みさえ整っていれば構わないとの方針らしい。

 

 と言う事で少し髪が未だに湿っているイクス・ゼオと愉快な仲間達は一つの円卓を囲んで其々に食事を始めていた。

 

 壁際の料理は数十品に及ぶが、そのどれもが滅多にアルヴァスでは口にしないものばかり。

 

 南部の一部でしか取れない果実やらほぼ原産地でしか出回らない野生の水牛やら魔術師が家畜化した珍しい鳥類やら……ハガスの一流料理店でも中々食べる事は出来ないだろう素材はそれだけで珍しい。

 

 それを調理する為の香辛料には北は雪深い国の山岳でしか採掘されない魔力親和性の高い冷気を放つ氷塩(ひょうえん)だの、南部の大海で取れる甲殻類の内臓と塩だけで作る蟹醤(かいしょう)だの、恐ろしく値が張る龍の唾液と枯れた香草で作られる竜床(りゅうしょう)だのが使われている。

 

 一体、幾ら掛かっているのか。

 

 並みの国なら豪商ですら手に入れるのに一苦労の食材と香辛料が惜しげもな注込まれた品ばかりだ。

 

 食べた事が無いという事は未知。

 

 だが、しかし、薫りや見た目は得てして万人を裏切らない。

 

 良い匂いがする。

 

 美しい色をしている。

 

 それだけで食べるには十分な説得力を有する。

 

 彼らの皿に盛られたものを見れば、たぶん先日やらかした最後の魔王は喜び勇んで口にしただろう。

 

 まず全員に食されたのは前菜。

 

 龍雀(りゅうじゃく)と呼ばれる北部で育つ東部の龍に似た蔦と雀のような豆を成らせる植物の姿揚げだった。

 

 表面に付いている衣は小麦と豆粉を塗して花の種から絞った油で揚げたものだ。

 

 正しく龍のようにS字に歪曲した枝と先端の小さな豆は予め蒸されている為か。

 

 口に含んだ瞬間、サクリとした衣の感触と共にホロリと折れ、油、岩塩と共に渾然一体の甘みを感じさせた。

 

 美味い。

 

 旨い。

 

 だが、マズイ。

 

 何がマズイのか。

 

 言うまでも無い。

 

 彼らの心理的な閾値が振り切れそうになったのだ。

 

 一口だ。

 

 その一口で呆然と呆けてしまうくらいに料理の桁が違った。

 

 瓶に入った一本の酒に家一つ分の価値があるなんて話は庶民からすれば、笑い話であるが……それにしたって、その酒の旨さは安酒の数十倍くらいのものに相違ない。

 

 だが、本当に数百倍違う。

 

 それが実感出来る。

 

 人間の舌を騙す魔術でも使っているのだろうかと思わず疑ってしまうくらいには。

 

 声も無い様子で二口、三口、黙々と食事が続けられる。

 

 最初、話し合いながら和気藹々とした食事時を想像していた彼らは既に過去。

 

 今や舌は餓えを覚えていた。

 

 足りない。

 

 前菜が終わり、今度は何を食そうかと彼らは皿の上に取った料理の数々を見つめる。

 

 別にフルコースを食べているわけではない。

 

 宮廷料理や王廷料理の順序をなぞるような場所でもない。

 

 ならば、普通に好きなものを食べればいい。

 

 だが、ゴクリと飲み込んだ料理の余韻に浸った彼らには何処か厳かに食べるだけの理性が働いている。

 

 いつも大食いなシルルゥ・ゼオですら、神妙な面持ちで次の料理はどうするべきか悩んでいたのだ。

 

 誰が安易に「これ食べたーい」等と言えるのか。

 

 それでもフルフルと料理の一つが僅かに震えるフォークに突き刺された。

 

 シャキィィィッ―――。

 

 音が良い。

 

 何故、そんな音がするのか彼らには分からなかった。

 

 ただ、掌の半分程の大きさしかない瑞々しい若葉が恐ろしく弾力と活力に漲っている事だけは分かるだろう。

 

 その音に釣られて、彼らの誰もがやはり同じ品にフォークを刺した。

 

 料理は南部で定番の品だ。

 

 きっと食べた事がある者もそれなりにいる。

 

 とある毛虫が良く好んで食べる事から蟲緑(ちゅうりょく)と呼ばれる極めて栽培の安定が難しい葉物野菜のサラダだ。

 

 一口サイズの葉の上にはよく南部で食される地鶏の鼈甲揚げが薄切りでそっと一枚盛られている。

 

 その上に掛かるキラキラと耀いた粒子は特に辛さで定評のある芥子(からし)の種を挽いたものだろう。

 

 肉の重さにまったく負けず。

 

 小さいながらもしっかりと器として肉汁を溜めている蟲緑が口の中へと運ばれ。

 

 ショリュィンと歯で噛み締められた途端、何かを研いでいるような快音が響いた。

 

 同時にジュワァッと溜まっていた肉汁と芥子の粉(パウダー)が舌の上で広がり、飴を塗られながら焼き上がったカリッとした皮と弾けるような腿肉の弾力が楽しくも優しく口内を愉しませる。

 

 温かい。

 

 辛い。

 

 甘い。

 

 深い。

 

 だが、清涼感も共に広がる。

 

 程よい苦味と肉の旨みと辛味、塩気が渾然一体となって喉を通過する時には全員の頬が緩んでいた。

 

 飾られた食卓には無いものが確かに料理へ篭っている。

 

 大衆料理は主に手軽さへ重きが置かれるものだ。

 

 味は二の次という事が多い。

 

 誰が作っても手軽で旨い事は疑いない品。

 

 だが、その事実に対して技法や材料の鮮度を生かしてみせれば、それは確かに“御持て成し”だ。

 

 旨い品がそれ以上に旨くなるのは食べる者への気遣いなのだ。

 

 それが仕事だとしても、真摯な手業は期待を裏切らない。

 

 鼈甲揚げの皮は罅割れもせず。

 

 小さな蟲緑は鮮度の良さもあるが、まず何よりも細胞を傷付けぬよう繊細に摘まれ、適切な温度管理を施されて輸送されているのが大きい。

 

 南部ではよく食べる品とはいえ、虫食いの痕が付いているのが普通だ。

 

 蟲に喰われていない為に葉にはストレスが掛からず、苦味は最小限に抑えられているので、口当たりも柔らかく、弾力にも瑞々しさにも違いが出る。

 

 これで全員に余裕が出た。

 

 解(ほぐ)れた気分で目移りする品へ更にスプーンが伸びる。

 

 女性陣が惹かれたのは皿の上に取られた小さな白い器。

 

 本来、菓子(デザート)の類が乗るはずの其処にあったのは仄かに湯気を上げるムースだ。

 

 全体的に純白でありながら、散らばる青い香草が彩りを添えている。

 

 スプーンが入った瞬間、フルリと揺れた純白の層が割り開かれ、内部に見えたのは紅の層。

 

 その色合いがすぐに吹き上がる薫りから野苺の類だと悟った全員が紅白の対比も美しいソレを口にする。

 

 驚きに目が見張られた。

 

 彼らの口内で起った出来事を語れば、不可解だろう。

 

 白い層は白身魚の擦り身であり、赤い層は北部の海辺で取れる紅の鮭の味がした。

 

 北部から塩漬けにされた魚を輸入するのはアルヴァスでは伝統だ。

 

 荒野にある国には蛋白源があまり足りているとは言えず。

 

 さりとて、川魚の類は国民の腹を満たすには少な過ぎる。

 

 だから、北部の港から西部の港への輸送ルートを使い、塩漬けの魚はよく大量に仕入れられていた。

 

 つまり、鮭は庶民的な味だ。

 

 辛いので水で塩気を抜いてから各種の煮込み料理に使うか焼くかというのが定番である。

 

 だが、擦り身にしてふわりとした舌触りに仕上げているだけでも驚きなのに、紅の鮭のムースには塩辛さの欠片も無く。

 

 それどころか甘かった。

 

 生臭さの無い新鮮な魚に和らげられた野苺の酸味と甘み。

 

 ソースにするならまだしも一つにされて何故か調和している。

 

 味の強い魚と野苺のような灰汁の強い素材が合一する理由がまるで分からず難解さが味を強烈に脳裏へ焼き付けた。

 

 食べた事はあるが、絶対に噛み合わないはずのものが上手く纏まっている。

 

 そういう不思議が小さな器の中には詰まっていた。

 

 特別に旨いと言えば、旨いのだが、それよりもどうしてそうなるのかが気になってしまう品。

 

 思わずシェフにレシピを尋ねたいと思ったのは料理があまり得意ではないシルルゥですら同じだった。

 

 女性陣が思わず?を頭に浮かべ、頬を緩ませている横でたった二人の男性陣。

 

 少年とジルムスが同じ品へとフォークを伸ばした。

 

 皿の横に盛られているのは白い麺を使った品だ。

 

 こちらはジルムスにも馴染みの無い形だった。

 

 細いというよりは糸にしか見えない。

 

 思わず目を凝らして見てしまうソレは常識的に彼らの国の麺類とは似ても似付かなかった。

 

 何もソースらしきものは掛かっている様子が無い。

 

 壁際にそのような類のものも無かった。

 

 故にそのまま食べるのが正しいはずだと2人が緩々フォークで糸の束を撒いて、口にした。

 

 ツルンとした触感。

 

 だが、それよりも何よりも彼らが驚いたのはその上に何も掛かっていないはずの麺が恐ろしく濃厚な獣肉の味をさせていたからだ。

 

 ソースなど要らない。

 

 いや、余計ですらある。

 

 噛み答えのある麺は噛めば噛む程に染み出す濃厚な風味でもって、口内を染めていく。

 

 それでいて濃過ぎない。

 

 くどくも無い。

 

 まるで糸にした肉を食べているような心地で彼らはやはり首を傾げた。

 

 麺……のはずだが、何か違うような気もしたのだ。

 

 魔術が食に取り入れられていれば、どんな不思議も有り得るのだろうが、それにしても肉味の糸なんてものに違和感がまるで無かった。

 

 とても自然な風味と噛み応えのある麺は男を癒す野性味溢れる品。

 

 理由は分からずとも美味である事に間違いは無い。

 

 彼らは知らない。

 

 それが本当に糸である事を。

 

 とある東部山系の奥深く。

 

 食物とした物体を糸として保存する蜘蛛が存在する。

 

 現地でその“麺”は肉糸(ししし)等とも言われ、山岳部族が恣意的に自分達の家畜を食らわせて、冬の保存食として利用する事もあるという。

 

 世の神秘は人の技術が進んでも、中々超え得ないもの。

 

 人工的には未だ高位の魔術師でも作るのに苦労するソレに面白いものを食べていると笑顔になった男性陣の顔は明るい。

 

 自分達の口に入った量だけで金貨がどれだけ飛んでいくか。

 

 そんな無粋な話は知らない方が幸せに違いなかった。

 

「美味しいですね♪ イクスさん」

 

「コレ! おいしい!! イクス!!」

 

「イクスはどれが好きになったの? 璃紗は―――」

 

「イクス……どう? これなら疲れも抜けたんじゃないかしら」

 

「これ程に洗練された料理を楽しめるなんて夢のようですね。イクス」

 

「ゼオ。こうして合宿するのは楽しいな……」

 

 女性陣と共に次々新しい発見と謎と旨さへ挑みながら、少年は来て本当に良かったと心底に思っていた。

 

 ジルムスがそんな全員の反応に場違いな自分を感じて苦笑しつつも、黙々と料理を平らげる。

 

 そうして……ふと、蟲人(ベルミ)の青年はその場に何か足りないような気がしたが、そんな些細な事は料理の味の前には霞んでいった。

 

 彼らの前にはただ美味い料理が有り、横には何モノにも代え難い仲間達がいる。

 

 それだけの夜は少しだけ騒がしく更けていった。

 

 *

 

―――空の空、空の空、空なるかな。

 

―――虚の虚、虚の虚、虚ろなるかな。

 

―――無の無、無の無、無きなるかな。

 

 ポツリポツリと小さな言葉が紡がれていく。

 

 黒き壁に囲まれた部屋の只中に0と1の羅列が無数に浮かぶ映像の中でスクロールされ、予め地面で起動されていた解析用方陣に吸い込まれて消えていく。

 

「スクリプト起動。ログ情報を開示……30%……80%……完了。解析開始…………完了……表示」

 

 全ての映像が途切れ、陣の中央に立つ青年。

 

 アーギスト・エス・トリアの前に複数のパラメータ、映像、画像、処理された様々な記録が開示されていった。

 

「ハイダルの話を聞いてもしやとは思っていたが、やはり【OEDS】の完全な能力は……」

 

 彼の前に妹の持つ小さなペンダント内部から転送されたシステムカーネル。

 

 プログラムの根幹に使われている数式が表示された。

 

「……父さんも随分と大それたものを造ったものだ……旧教会派が話の分からない原理主義者の集まりだったなら、今頃僕等は死んでるじゃないか」

 

 愚痴った声に父を責める響きは無い。

 

 死者は何も語らず。

 

 いや、語るべきでも無いからこそ、彼が語っているのだ。

 

 きっと、自分の父親なら自分で皮肉に苦笑しているに違いないと知っている故に。

 

(距離の喪失。禁断の粒子。表裏無き機構。秘儀の箱。奇蹟の複製。救世主の創造。揃いも揃って全部知らされる羽目になった父さんには同情を禁じえないな……)

 

 自分の両親がやろうとしていた事。

 

 旧教会派の目的。

 

 そして、その為に生み出されたシステムが如何なる力と意味を持つものなのか。

 

 理解した彼は入念な準備の末にようやく辿り着いた解析結果の中から主要な重要情報を引き抜いて更に表示させていく。

 

(まさか、旧教会派が奇蹟の再現にまで手を出していたとは……それもこの儀式の為か……なら、前回の一件でオリジナルらしき奇蹟が観測された事はどういう意味を持つ? そして、それをどうして外なる神々が持っていた? 聖女はどうなったんだ? 公式の公務情報が当てにならない以上、どうにかして探れないものか……)

 

 情報を統合し、推論を形作り、否定要素を抽出し、整理した事実を自分の前に資料順で並べていく。

 

(始まりは五千年前の預言書たる総主教の日誌。全てが予定されていた救世主の降臨。しかし、未来予知が狂い、旧教会派は新しい救世主、魔王の創造に着手した。魔王の救世主化を行う為の儀式には奇跡が必要となり、七人の聖女以外から奇蹟を抽出する方法を模索。聖女の弟子であった僕等の両親が選ばれ、実験の成果として秘儀の箱を開発。五年前……箱の開発終了と共に奇蹟と魔王の複製に付いても一定の目処は立っていた。成果たる複製は全部で四体? ダメだな……情報が欠損? いや、意図的に削除された形跡なのか? 奇蹟の開発に付いては……該当者一名。名前は……さすがに入力されていないか。これらの情報が入力された日付は“あの日”の前日、入力する暇が無かったのか……あるいは単に必要とされなかったのか……ふむ? 奇蹟の開発は魔術結社の方に委託していたのか。出資者の名前は……百獣の王様? 随分とふざけた奴だな……だが、獅子か……そう言えば、緑炎騒動前の一件での資料に……)

 

 彼の前に以前、少年やジルムスの記憶から収拾していおいた情報が表示された。

 

 それは霧を使って自己を強化する仮面を生み出した魔術結社のものだ。

 

 エルフの売買を同時に行なっていた男達は【崩燼貴族(ソルヴァス・ノーブル)】の子弟達と繋がっていた。

 

 緑炎テロの時に戦った敵の中にいた大型の角付きはその仮面だった事が後になって、エンシェンとの情報交換では発覚している。

 

 魔術結社の方はそれ以来アルヴァスにちょっかいを出すどころか。

 

 拠点ごと消え失せてしまったという事で注意を払っていなかった。

 

(抽出しておいて正解だったな……やはり、結社も出資者も同じ名前……霧を扱う仮面を作ったのが奇蹟の開発をしていた結社と同じ? 偶然、ではないな……霧の力を制御していたのは驚異的だったが、それが奇蹟開発の技術にも繋がるのか?)

 

 エルフの少女を少年と親友が救い出した事は記憶に新しい。

 

 今は全寮制の中央諸国の学校に無償の奨学金で留学しているというが、“普通の子供”だったので少しだけ青年も気に掛かった。

 

 “何かされた形跡はまったく無かった”が、だからと言って何らかの処置を受けていないとは限らないのだ。

 

(他にも何か無いか………ん? 教会派の資料には名前が無いのに魔術結社の方にはパトロンの名前があるな……出資者の名前に付いて言及する資料を検索……無い。と言う事は……前々から旧教会派に知られる事なく結社に働き掛けていたと見るべきなのか? この“王様”は……きな臭くなってきたじゃないか)

 

 誰も知らない場所で世界の救うだの、奇蹟や魔王を人工的に作るだの、そんな事を言っていた連中にも知らない事がある。

 

 その人間の狡猾さとは裏腹の間の抜けた不完全さが何とも言えずアーギストにはおかしかった。

 

 結局、どんな力を持とうとしても、人間は人間に過ぎないという事なのかもしれないと。

 

(五年前のディミトリアの崩壊が粒子抽出実験のせいだとすれば、魔族が攻めてきた事自体は辻褄が合う。ゼオ家の事もある程度は説明可能だ。だが、どうしてイクス・ゼオは生まれた?)

 

 全てが過去に集約されていく。

 

 欠けているピースは全て少年に関わっている。

 

(五年前から魔王の足取りは東部で七教会広報からの公式アナウンスを最後に途絶えてる。どうなったのか何とかして情報を得るべきだな)

 

 彼の前にまるで示し合わせたかのように5の文字が浮かび続ける。

 

(五年前、あの空に浮かぶ星が突如として出来た。五年前、ディミトリアは実験のせいで崩壊した。五年前、東部では騒乱があった。五年前、秘儀の箱は完成した。五年前、肉体の不完全な複製は成った。五年前、アイウィスは消失した。どれもこれも状況は知れても、内実が分からない……)

 

 彼の母親にしても、技術者として【崩燼源動機関】の機能に付いてある程度は知っていたが、その使い方や役割に付いては殆ど父親の領分だったと話していた。

 

 主要重要部品の創造こそしていたが、各機能の調整や制御系、魔術による複数の処理などの部分には他人の手が入っていた為、旧教会派が何を目指していたのか、全体像は見えていないだろう。

 

 唯一、それを知っていた父親から齎された情報は膨大で多くの疑問を解決するものではあったが、計画の実行者ではあっても計画者(プランナー)では無かった為、遺された情報の欠損は大きい。

 

 例えば、魔王のことに付いて分かっているのは単に複製方法とそれに対する考察のみで、魔王が本来どういった役割を持った存在だったのか、破滅と救世という二つの属性に付いての考察はあったが、具体的な情報はそもそも存在しなかった。

 

 アイウィスの消失や外なる神々に付いても分からない事だらけだ。

 

 直接的に旧教会派の目的と関わりが無いようには見えるが、何故か奇蹟を保有していた為、奇跡の複製実験との関連が疑われるし、その他、アイウィスの消失事件にどれだけ関わっていたのかも謎である。

 

 最も彼にとって痛いのは分からない事を知っていそうな相手が軒並み彼の手が届かない場所にいるという事だ。

 

 旧教会派に近付けば、秘儀の箱【崩燼源動機関】の事で薮蛇にも成りかねない。

 

 五年前の魔王に直接繋がりそうな線(ライン)。

 

 二人の画像を彼が自分のアーカイブの中から手繰り寄せる。

 

「エフィリム・エーネ。アルゥ・ゼオ……彼女達に聞くしかない、か……」

 

 方陣と情報の羅列を消して。

 

 暗くなった部屋からアーギストが外へと歩いていく。

 

 元々【OEDS】のパーツを保管していた場所だ。

 

 あらゆる秘密を保持する結界とシステムに守られたそこを後にして。

 

 青年は自分のやるべき事。

 

 真実と魔術の探求。

 

 妹とその周囲の全てを守る為に行動を開始した。

 

 *

 

 エゼ・デシェから東に20km程の地点。

 

 其処には人間の国との国境地帯が存在する。

 

 明確に線は引かれているものの、其処には街らしきものはない。

 

 アルヴァスの成立した特殊な成り立ちは建国当時、国境策定作業を恐ろしく難事にした。

 

 人間国家に周囲を囲まれているのは今も変わらないが、昔の荒れ模様だった大陸の作法に乗っ取れば、強者はより多くを得て、弱者は全てを失う。

 

 そんな世相から国境沿いでの小競り合いが絶えず。

 

 それを理由に多くの戦が巻き起こったからだ。

 

 故に彼らは当時の戦争の当事者として人間国家の主張する領土と自分達の主張する領土から一定の距離を緩衝地帯として設定。

 

 その地域では如何なる経済・軍事活動も自粛する旨を通達した。

 

 もしも、その領域で相手国がそれらの活動を行えば断固として武力を持って戦ってきたし、自分達からそれを犯す事も無かった。

 

 故に通行の為の道を国境沿いの国々と共同で補修する以外は検問所の類も置かれていないし、監視するような者も見える範囲にはいない。

 

 貿易地を行き交う商隊(キャラバン)も何一つない荒野や平地に幕屋(テント)を張るのは稀であり、多くはどちらかの国の国境沿いの集落や貿易の要衝で一夜を明かす。

 

 だから、その緩衝地帯に夜存在するのは物言わぬ草木や石ころ、人間や亜人達に狩られる事ない一帯へと集まってきた動物達くらいのものである。

 

 【近代化(レボリュション)】以後、人の領域は拡大し、それに伴って夜を照らし出す領域は飛躍的に広がったが、技術と文化と道徳を刷新していく七教会の威光もさすがに獣達の縄張りまでは及ばない。

 

 星々の廻る耀きに照らし出されながら、その景色を見つめて。

 

 彼女は降り立った大地に座り込んでいた。

 

 レア・アルトス・エール。

 

 現【総主教(パトリアルヒス)】にして旧教会派の希望。

 

 旧き叡智と業を受け継ぎし、可憐な主上(しゅじょう)。

 

 彼女の事を共に飛行船に乗る者達の多くはレア様と呼ぶが、信者達の大半は主上様又は総主教様と呼ぶ。

 

 旧き教会が大陸中央部から権力的に放逐されて数十年。

 

 もはや全盛期の限り無き威光と捧げられていた信仰は見る影も無い。

 

 今でも教会として活動出来てこそいるが、それにしても彼女レアが左右出来る事物は本来の総主教が持っていた権力的に考えれば万分の一にも満たないだろう。

 

 まぁ、だからこそ、そのように自由な時間を持つ事が出来ていると言っていいのかもしれない。

 

 公私共に全てを教会の維持に当てねばならなかった歴代の総主教達は様々な能力や財産を受け継ぎ続けてきたが、それでも毎日が激務の連続であり、総主教拝命時から人生の私的時間は睡眠時間だけだったとも言われている。

 

 それに比べれば、彼女のやっている事など児戯に等しい。

 

 今は存在しない大司教達と議論を戦わせる必要も無いし、教会の膨大な財産と予算の執行書類に目を通す事も全盛期に比べれば一年で数日の話。

 

 彼女のやる事と言えば、専ら信者達との祈りと進められている計画の修正や残った組織の連帯と協調を行なう調整でしかなく。

 

 新たな信者を獲得するという事も殆ど行なっていない。

 

(総主教は後の時代にも出るでしょうが、権力は残らないかもしれませんね……)

 

 大陸の宗教というものには凡そ三つの組織的な形態がある。

 

 一つは宗教信奉者の共同体維持に土地の土着民族の世代交代を使っている場合。

 

 これは言うまでも無く民族と分かち難く結び付いた民族宗教である。

 

 一つは宗教共同体の維持に民族ではなく思想が用いられている場合。

 

 このような場合、あくまで重要なのは血筋や共同体の自己同一性ではなく思想であり、母数を増やそうとする拡大指向を持つ。

 

 これらは大陸において世界宗教という括りになる事が多く。

 

 必ず大陸のあちこちに少数ながらも一定の支持層を持ち、資金源や人材にも豊富な幅を持つ。

 

 だが、それは同時に宗教の実利に対する思考が優先されがちという事であり、本来の人を導くという使命が形骸化しやすく、時代によっては大規模な宗教改革が必要という事でもある。

 

 最後の一つは信仰を俗物的に要求しない習俗として根付いている場合。

 

 この段階に到達した宗教は内容そのものが希釈化され、実態として権力や実利を優先する事なく、またそれらを産み出すような機構(システム)も微々たるもの、という事が多い。

 

 最も分かりやすく言うと要は文化の一部となった宗教という事だ。

 

 これは宗教が文化を生み出したりする社会とはまた違う。

 

 文化の為に宗教が取り入れられた例である。

 

 神様を信じてもいいし、信じなくてもいい。

 

 罰があるかもしれないと考えていいし、考えなくてもいい。

 

 ただ、産まれる前から其処にあり、多くの人間がそうかもしれないと思うもの。

 

 社会集団に文化の一部として用いられる希釈化された宗教は既に謹厳な規律も戒厳な罰も持たないが、同時に実利や権力からは遠い為、緩やかな規範という形で共同体を導く。

 

 その価値観によっては俗信深い、つまり民間伝承や文化的な合理性を持った老人の戯言くらいに若者からは受け止められる。

 

 他の二つと比べて、圧倒的に人々への強制を強いないこの三つ目の形態が有利なのは習俗であるからして、圧倒的に廃れ難いという点にある。

 

 単純に言えば、宗教はある程度変えられるが、子供の頃から刷り込まれてきた食事の仕方や礼の仕方を変えられるかという話だ。

 

 これら三つの形態からなる多数の宗教が渾然一体となって存在するのが大陸における現状である。

 

 嘗て、一部の人間の氏族達が主導して立ち上げた教会はまず民族宗教として大陸中央における形を取った。

 

 それが少しずつ広がりを見せて思想的な部分で多くの民衆の支持を得ると飛躍的にその力を伸ばしたが、その時代は既に数十年前七教会の勃興と共に終わってしまっている。

 

 今では殆どの教会が七教会の教義を信仰しており、旧教会派の信者はそれらの百万分の一にも満たない。

 

 此処まで来れば、宗教の衰退と消滅は目の前。

 

 看板が書き変わっただけで旧教会の組織そのものは七教会に吸収されただけ、という見解を持つ宗教者は数多いが、その実態を身を持って理解するレアは自分達の信奉するものが、習俗にまで到達したのではないかと考えている。

 

 今では大陸のほぼ全ての国で信奉される七教会。

 

 だが、その一般信者への規律は嘗ての旧教会よりもかなり緩い。

 

 いや、緩いどころか無きにも等しい。

 

 組織体系に徹底的な合理主義と現実主義を持ち込んで、それを実現するだけの力まで持っていた聖女という存在の賜物ではあるのだろうが、自助自立と公助のバランスを取った教義と規律は多くの民衆にとって押し付けられるものではなく、自分が社会に資する存在であると証明する自己の内側から溢れ出るものとなった。

 

 国や共同体、教会内部の宗派、地域差等の変数はあるものの。

 

 殆どの教会信者はその“緩さ”を歓迎している節がある。

 

 今では人だけではなく。

 

 亜人や異種、人外、魔族にすら人権を保障し始めている七教会の姿は数十年前には存在した旧来の悪癖が全て取り除かれた教会の姿、と言ってほぼ間違いない。

 

 理想の教会像。

 

 それを体現したのが旧教会派でなかった事は忸怩たるものがある。

 

 だが、レア本人にしてみれば、それが現実になっている事自体は大いに賞賛出来るところだ。

 

 そうして、教会の目指してきたものが、他律ではなく。

 

 人々の内側から発されるものとなり、それを導く習俗として教会が残っていくのなら、それは認めて構わない話だった。

 

 が、柵はいつの世も残る。

 

 集った権力と頑丈に組まれた機構(システム)は彼女が座して待つ事を許さないし、彼女自身もそう出来ない。

 

 もはや、そういう時代ではないだろうという人類規模での壮大な“救い”の押し付けも、教会の行なう【近代化】の前には時代遅れなのは明白。

 

 少なくとも、旧教会派よりもずっと多くの人々が他者を救う為に己の働きを【近代化】に捧げ、それで救われた人々も人類の数割に到達する。

 

 これはもう彼女達が成そうとしていた事が半ば達成状態にあると言っても過言ではないのだ。

 

 そんな事はマシア・ミクニス・アルヴィッツ。

 

 黄金の獅子。

 

 大陸中央諸国を裏から束ねる王に言われるまでもなくレアには分かっている。

 

 古い時代のものを新しい時代に押し付けるな。

 

 その言葉は本当のところ。

 

 彼女のような若者が言うべき台詞であって、もう休むべき老人の口から出るものではない。

 

 そうだとしても、教会による人類の救済、それを望んできた、それを自分達で為したいと願ってきた人々は今もいる。

 

 その捧げられてきた尊き信仰と志は救われねばならない。

 

 これが七教会なら合理性を欠いた、または自分達の掲げる道徳的なものとは相成れない回答だと、そう古いもう存在しない人々に、存在しても少数である彼らの意見に、NOを突き付けられるのだろう。

 

 だが、レアには出来なかった。

 

 斬り捨てる事も、それ以外の夢を見せる事も、出来なかったのだ。

 

 何故なら彼女は【総主教】でしかなかったから。

 

 レア・アルトス・エールはそれ以外の何かになろうとはしなかったから。

 

 それを今更に後悔するという事もないし、それは愚痴る話でもない。

 

 結局はたった一言。

 

 意見の相違。

 

 これに尽きる。

 

 もう資金力と権力を用いた宗教として旧教会派が振舞える時間はそう長くない。

 

 せいぜいが数十年から数百年。

 

 信奉者の増加が起きたとしても、総主教という位自体、力を持たぬ象徴として形骸化していくに違いない。

 

 だから、力を持った最後の総主教として行うべき事を行う。

 

 それだけが彼女に残された唯一の選択肢だった。

 

 その為に必要な彼女の力、彼女の隣人、彼女の同胞、彼女の同志達はその気でいる。

 

 だが、彼女の……彼女の唯一の幼馴染は今消えてしまった。

 

 いや、今も存在しているが、何も出来ずに囚われている。

 

 そう知ってしまった以上、出来る事は助け出す事だけだ。

 

 まずは話し合いで。

 

 それがダメならば遺憾ながらも力付くで。

 

 アイウィス内部で無垢なる子羊を守り一時現実へ帰還した彼女に待っていた報は天使の消失と反応の検知。

 

 様々な伝手から手に入る情報を総合し、あの時アイウィス内で何が起こっていたのかを推測した技術陣が出した結論は一つ。

 

 天使達と【聖征者(クルセイダー)】は吸収、囚われの状態で現実の何処かにいる。

 

 だが、その何処かは測定可能であり、また状況証拠から幾つかの候補を選定出来る。

 

 その最有力候補。

 

 今まで彼女達が観測してきた境界へと潜る若者達の名乗る組織。

 

【境界踏征(オーバー・フラタニティー)】

 

 彼らの一人。

 

 彼女達が五年前に失ったはずの実験体が今も存在し、外なる神々すらも退けたというならば、疑うべきなのは決定的だった。

 

 高度な観測妨害を常時周辺に張り巡らせ、アルヴァスの上層部とも繋がりを持つらしい相手を秘密裏に調べて十日掛からなかったのは旧教会派の執念、そうとしか言いようがない。

 

 そのおかげでレアは現在エゼ・デシェの付近までやって来れたのだ。

 

(アーギスト・エス・トリア。彼はこちらにあのアイウィスで得られる以上の情報を渡すつもりが無い……当然ですね……彼の家族を殺してしまったのは間違いなく私達なのですから……ディミトリアの崩壊も、エス・トリア夫妻に罪を負わせた事も、このアルヴァスで今も罪が積み上がり続けている事すら、全ては私と旧教会派の責任……償えるものではないでしょうが、最後まで戦い見届けなければ、私達は存在意義すらも失ってしまう……まずは会いましょう。彼がどのような“人間”なのか。アーギスト・エス・トリアの言った事が真実なのか。見極めねば……そして、本当にあの子が捕らえられているのかを……)

 

『レア様。準備が整いました。更に近衛部隊及び独立外部機構四組織より人員を借り受ける事も出来ました。現在、長距離転移で向かっているとの事で、すぐに合流出来るかと。それから……』

 

 彼女の後ろ。

 

 暗闇に解けた魚の如き飛船体の外部スピーカーが途切れ、カチリと音がしてレアの脳裏へと直接魔術での通信が開く。

 

『独立外部機構【叙事詩機関(エピコス)】より連絡がありました』

 

「どのような?」

 

『当館の人員は現在、ほぼ全員出払っており、外部の特別雇用者二名を送る、と』

 

「特別雇用者?」

 

『はい。こちらで確認したのですが、どうやら元々は機関で働いていたものの、何かしらの事件で一時離脱、今は大陸中央が行っている次世代聖女の養成所に所属しているらしい、との事で』

 

 レアにわざわざ話を持って来るのだから、余程の人物なのだろうと彼女がその名を尋ねた。

 

『……ユヒア・ウェスティアリア。七聖女ハティア・ウェスティアリア様のご息女とそのお付きの方だそうです』

 

 荒野を渡る祭り前夜を思わせて熱気を孕んだ風が蒼い星明かりの最中、枯れ草を舞い上げていく。

 

 二時間後、彼女はそう歳も違わないだろう少女ユヒアに出会う事となった。

 

 それが吉と凶と出るか。

 

 はたまた世界を揺るがす波紋となるか。

 

 それは誰にも分からない未知に違いなかった。

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