第三章七十四節「奇妙な凶旅Ⅳ」
如何に西部有数の先進国とはいえ。
夜になれば、殆どの都市、村では外に明かりが灯るのは稀だ。
祭りの夜でも無ければ、一晩中照らし出す燃料代なんて出せはしない。
国土の流通を支えるインフラ整備に殆どの資金を費やしてきたアルヴァスもその例に漏れない。
首都と主要地域の中でも治安維持が最優先される地区から優先的に受ける街灯整備はエゼ・デシェであっも、主要な宿泊施設が密集する場所以外には置かれていない。
とは言うものの、五年前より現在に至るまで大陸の夜間の犯罪率が劇的に下がった事は其処に住まう知的生命、種族達には知られた話だ。
月の変わりに夜空を明るく照らす蒼き天蓋の星。
その光には鎮静作用のようなものがあるらしく。
人間、亜人、異種問わず、そのような報告が大陸三千余もある国家のあちこちから上がっている。
そういう意味で言えば、早急に街灯の整備というのはこの五年で多くの国において求められているわけではなかった。
アルヴァスはそもそも亜人貴族主義が国土の隅々にまで浸透している。
犯罪率は普通の人間の運営する国家の八分の一にも満たない。
それすら、経済的な理由によるものは殆ど無く。
どちらかと言えば、怨恨や痴情の縺れ、その場の感情に起因する刹那的なものが大半だ。
夜、暗がりで悪い事を致そうなんて輩はそれこそ、そういう事を生業にしている者しかいない。
例えば、暗殺者。
例えば、窃盗者。
それらにしても、犯罪者達のギルドがある程度の自制を構成員に掛けている為、そうそう起らない。
何より亜人国家での犯罪は悪目立ちするし、当局の追及も厳しい。
これが腐った人間国家の地方都市ならば、賄賂や諸々の贈物攻勢で何とでもなる、というところもあるのだ。
わざわざ捕まるリスクの高い場所で罪を犯す必要も無いというわけである。
このような理由から今も街を出れば暗い領域は多い。
不測の事態に対応する事が出来る場所、という意味でもレアは話し合いの場をエゼ・デシェの市街地から離れた麓の森林内部にある開けた野原とした。
彼女の遣いが少年に手紙を届けて、相手がやってくるまでの時間。
レアは周囲の探索と準備に追われる男女の中心で一人簡素な木製の床机に腰掛けている。
本来は座り心地の良い古風(アンティーク)な椅子が用意されていたのだが、質素に行こうという彼女自身の提案でそれらは周辺空域で待機する拠点内部に戻されていた。
そんな慌しい場所の四方には彼らに属する組織から派遣されてきた兵達が数人、準超越者から中位の超越者まで主神クラスの相手にすら抗し切れるだけの部隊として控えている。
本来、その中に居なければならないはずの二人が彼女の前に呼び出されたのは何も単に相手が特別な生まれだからというわけではない。
その2人の所属組織【叙事詩機関(エピコス)】が最もレア達にとって危険な相手である事を知っているが故の措置でもあった。
「………」
ユヒア・ウェスティアリア。
七聖女ハティア・ウェスティアリアの娘。
聖女中、唯一結婚と出産を経験した彼女の最愛の我が子。
そうしてもう一人は本来七教会の魔王追討師団において三十代にして熟練の機動歩兵連隊を統括していた隊長をしているはずの男。
フェルラス・ディオス。
今は休暇中という明らかに護衛役のお付きと共にやってきた少女を前にしてレアは奇妙な程に自分の心が凪いでいる事を理解していた。
第八の奇蹟。
本来、“来るべき日”において想定されていない力。
五年前、藩落において発現したとされるソレは旧教会派にとって本来、最優先で調べるべき対象だった。
しかし、主要研究が行なわれていたディミトリアが魔族に襲われて廃国となり、研究成果と研究員の大半が消滅するか散逸し、残存が確認された技術者や成果物はそのまま行方知れずとなった為、今でもそれらの計画の大半は凍結されている。
「こんばんわ。【叙事詩機関(エピコス)】より派遣されてきました。ユヒア・ウェスティアリアと申します」
丁寧に頭を下げた少女はなるほど、レアにも分かる程に聖女たる母親に似ていた。
その金糸のような髪質と儚げな気配、顔立ちには面影がある。
同時に彼女の父親たる男の相貌。
意思の強さを表す太い眉や利発そうなところもまた母親とは違った意味で愛らしい。
擦り切れた灰色の外套を魔術で少し浮かせてやってきた彼女。
背も小さくまだ十代前半と言われてもまるで違和感の無い無垢な容姿は奇蹟における不老不死が顕れていると言っていいだろう。
「………」
僅かに頭を下げ、後ろで控えている二枚目の三十代。
フェルラスは静かな瞳でレアを見ていた。
七教会の師団で連隊長に上り詰めるまでの逸材。
更に師がユヒアの父親にして唯一人間の枠内で魔王と対峙し続けてきたマロウ・ブレステンドであるというだけで有能なのは火を見るより明らか。
どちらかと言えば、七教会側の公的身分を持っている彼の方がレアにとっては与し難い相手なのは間違いない。
元々、七教会と旧教会派は数十年前から内部闘争……いや、一方的な敗北と凋落で旧教会派のみが追い落とされる立場にあった。
その状況は今も変わらない。
不用意に情報が流出すれば、その時点で七教会からの強制的な併合や介入を誘発するかもしれず。
これからの一件をどう話すべきか。
内心で幾つかのパターンを考えつつ、レアは頭を下げた。
「レア・アルトス・エールと申します。旧教会派代表【総主教】を務めさせて頂いています。どうぞお見知りおきを」
「い、いえ……ユヒア達は機関の出向人員に過ぎませんから。どうぞお顔をお上げ下さい。レア様」
「様付けは不要です。事実として私は貴女にも、その後ろの方に対しても……立場上、格上というわけではありませんから」
「……それはユヒアが聖女の娘、だからですか」
「そうでもあると言えますが、どちらかと言えば……【叙事詩機関】からの派遣である事が最も大きな理由です」
「え?」
「つまり、そりゃ、あのクソガキ、おっと総館長様に対して旧教会派が弱い立場にあると?」
「おじさん!!? さすがにそういう物言いは失礼―――」
「いえ、構いません。フェルラス・ディオス連隊長。その通りです」
ユヒアを片手で制して、レアが頷いた。
「今は休暇中。此処に限って言えば、連隊長ではなく。ユヒア・ウェスティアリアのお付き、フェルラス・ディオス個人として来ています。その点は信用して頂いて構いません。旧教会派が社会通念的な犯罪でも犯していない限り、組織人として情報を持ち帰るという事もありません。もしも、ご不安なら記憶の破棄や消去、封印もある程度は受け入れますよ」
レアが少し以外そうな顔をした後。
しばし、思案して頷いた。
「分かりました。では、犯罪ではなく。道徳的な問題としてこれからのお話はお心に留めてくださるようお願いします。よろしいですか?」
「道徳的な問題?」
フェルラスの問いにレアが応える。
「七教会がやっている事を我々もやっている。ですが、それを罪に問うかどうかと聞かれれば、答えに窮する。今回の一件はそういうものの類です。貴方がもしもこれを犯罪だと感じるなら、途中で退出して頂く準備があります。そういった思考は周りの者が“読み取っています”ので悪しからず」
「……随分と回りくどいですですが、相当に悪辣じゃない限り、大丈夫だと思いますよ?」
「納得出来るかどうかは個人の良心の問題に帰結します。故の措置だとご理解下さい」
「分かりました」
レアがコホンと咳払いをして話を進める。
「私が此処に戦力を集めたのは“とある方”を見極め、そして……交渉する為です」
「見極めて交渉……」
ユヒアの言葉にレアが頷く。
「この話し合いの結果はたぶん最悪、世界のあらゆる均衡と平和に対する不安定化を齎すでしょう」
「「―――」」
思わず目を見開いた二人にレアは続ける。
「星が動いた。鳥を見た。嵐が来る。それと同様の事だと承知して下されば、幸いです」
「それは……確か偽伝の一節ですよね?」
「はい。旧教会派の解釈としては外伝の位置付けにある一冊の表現ですが」
「……オレも知ってますよ。でも、その表現は……ある存在が動き出した時にしか使われないもののはずだ」
「ええ、魔王に関連した幾つかの表現の一つであり、信心深い聖職者の方々には吉兆の言葉とも言われていますね」
ユヒアは驚き、フェルラスは瞳を細めた。
「見つけたのか……奴をッ!?」
思わず意識を高ぶらせたフェルラスの背後に二人の影が立つ。
「おっと、少し驚いただけだぜ? 別に害するような意図は無いって」
軽く両手を挙げておどけたフェルラスの様子を見て、後ろの者達にレアが頷くと気配と姿が一瞬で消える。
「此処から先は聖女達の前では言えない類の話になりますが、聞きますか?」
サラリと言われた言葉にユヒアが動揺しなかったのは自分の母であるハティアが時にはルールくらい平気で破るし、破らせる事もあるという事実を彼女がもう知っていたからだ。
五年前、奇蹟に目覚めてからハティアはユヒアの職場に押し掛けて、彼女の所属する機関で最も偉い男と“話し合い”を行なった。
その結果として彼女は今、機関を離れて新しい任務を与えられている。
聖女が清廉潔白だというイメージは公には正しいものだが、実際にはどんなに優れた聖女も一個人としての顔を持つ。
また、無理矢理に相手へ物事を認めさせる事すらあった。
ユヒアが知る限り、その自分の職場に対しての一度だけだったが、確かに母は聖女ではなくユヒア・ウェスティアリアの母として、聖女の力を振るってくれた。
公正明大でいつも優しい母がその時だけは怒っていたのを彼女は確かに目にしていたのである。
「聞かせて下さい。ユヒアは……此処に仕事をしに来ています」
しっかりとした自分とそう歳も違わない少女の言葉にレアもまた自分と同じように生まれというものと向き合っている相手に敬意を覚え、内心でユヒアを近しく感じた。
「分かりました」
レアが頷き、話し始める。
「まず最初の前提をお話しておきましょう。これから此処に顕れる相手は魔王そのものではありません。それは七教会の上層部にしてみれば、自明のはずです。五年前の一件で分割された旨はこちらの情報網にも掛かっています。ハティア・ウェスティアリアとの親交も深い貴方のような隊長にならば、伝えられているはずですが、知っていますか?」
「……ああ」
「ユヒアもそれは知ってます」
「結構。では、この前提に立って話を聞いて下さい」
床机から立ち上がるとレアが野原の先に歩いて行き、蒼い星を仰ぎ見る。
「我々、旧教会派は五年前よりも前の時点で七教会からの亡命者、七聖女フルー・バレッサが開発した魔王複製実験の関係者を匿いました」
「魔王複製実験? そんな事が……」
政治や噂というものに疎いユヒアがピンと来ない様子になり、フェルラスが眼鏡に白衣姿の少女を思い浮かべて、深い溜息を内心吐いた。
「あの噂、本当だったのか」
「おじさん。知ってるんですか?」
「ああ、次世代の聖女を産み出す。その関連の噂に同じような話が混ざってたんだ。と、言ってもそっちの魔王に関する噂は昔から数々あったからな。その一つが話題として再燃しただけだと思ったが……そうか、フルー様ならまぁ……やりかねねぇな」
フェルラスとユヒアのやり取りに話が簡単に済みそうだとレアが続ける。
「我々としても魔王の複製は有意義な実験だった。故に支援し、それを産み出す事にした」
「……もう話は読めてきたが、実験体には意識、魂があったと?」
その問いに首が横へ振られた。
「ですが、今は違うかもしれません。今回、私達が交渉する相手はその一体に当ります」
「人形に魂が宿ったってのか……?」
半ば独り言めいてフェルラスが呟く。
「把握していません。ですが、五年で多くの事が変わった。そして、今回は我々の同胞がその相手に囚われている。開放は旧教会派にとっては急務。故に貴方達のような主神にすら有る程度は対抗出来る戦力が集められた……そういう事です」
(この間、聖女様方が宙(そら)に上がったのは分割した魔王の殻。あの天蓋でやる事が出来たからだとマディクト様が仰ってたが、何か関係があるのか? 五年前、五年前か……キナ臭いな)
フェルラスが魔王複製実験という単語が現実になっているとの話に不吉を覚えて僅かに顔を硬くする。
「そこまで相手が強いと?」
「西部異相環境の悪化。このアルヴァスでの大規模な緑炎テロに付いてはご存知ですか?」
フェルラスの問いに答えず。
レアがそう聞くと二人が頷いた。
「あの死人が生き返ったってテロ事件の事ですか?」
「はい。あの一件では聖女達による幾つかのオペレーションが発動され、大規模な“修整”が行なわれた事が確認されています」
「修整って……おいおい。まさか、あの一件でワンダリカが発動されたのか?!」
思わず彼が素に戻ったのも無理はない。
本来、それは発動された事すら無かった事になるはずのオペレーション。
だから、それが“発動された事になっている”という時点で異常事態なのだ。
「その通りです」
「ワンダリカ? 確か、ソィラさんの奇蹟の……」
ユヒアが母親と時々お茶をしていた身なりの擦り切れた銀髪の男勝りを思い浮かべた。
七聖女中、母すら綽名する破壊魔は一種、神にすら超越した能力を持っている。
【破壊者(ワンダリカ)】
あらゆる事象を破壊する奇蹟。
その能力にまつわる逸話には荒唐無稽なものが多過ぎて、大陸中央諸国ですら、七教会のこけおどし、相手を威嚇する為の嘘、とも囁かれている。
「あのオペレーションは惑星規模の非常事態にしか使わないってな事項があるんだぞ……」
呻くようにフェルラスにレアは事実ですと告げる。
「その時の事件を解決に導いたのは情報を集めた限り、今回の相手である可能性が高い。我々の交渉相手は少なく見積もっても、一国の運命を左右する程度の能力を持っている。緑炎テロの相手がどのような手合いだったのか知れば、これだけの戦力が必要だと思える程には……」
「それで……その魔王の複製とやらに囚われてるってのはあんたらの何なんだ?」
「最大戦力です」
「最大って……【聖征者(クルセイダー)】の事か?」
「はい」
大事に巻き込まれた事をようやく実感して。
フェルラスはこれから起るかもしれない事態を想定し、苦い顔となる。
「クルセイダー……教会を守護し続けてきた天使の力を借りる者……かあ様が言ってました。たぶん、公に仕えている超越者達の中で一番強い存在だって」
「今となっては過去の話です。そして、あの子を取り戻せなければ、我々はこのアルヴァスにおいて、自らの使命を全うする事が出来ない」
「お知り合い、なんですか?」
ユヒアの問いにレアが頷く。
「貴方達にお知らせ出来る情報はこれくらいです。どうしますか?」
サラリと何も見なかった事にして仕事をするのか。
それとも記憶を消されるのか。
または口をつぐんで帰るのか。
どうすると訊ねられて、ユヒアもフェルラスも同時に答えた。
「やります」
「やるさ」
二人の重なった声にレアが虚偽無しと判断したのか。
軽く頷いた。
「分かりました。では、貴方達を此処へ遣わした上司である“彼”にこの件が終わったら、こうお伝え下さい」
レアが静かに振り返る。
「今後、アルヴァスに起る全てに書架の使用を禁じる、と」
「意味は分からんが、了解した」
フェルラスが承諾し、ユヒアもまた頷く。
「承りました」
二人との話が丸く収まってホッとしたのか。
レアがいつもの慈愛の笑みを零した。
「では、相手が来るまでお話でもしましょう」
「え……」
レアが今までのような面持ちとは違って、年頃の少女らしくユヒアの傍まで近寄った。
「どうしても同年代の子と疎遠になりがちで……互いに縁ある身、少し雑談などが出来ればと」
思わずフェルラスを見たユヒアだったが、立派なオジサンである彼は肩を竦めるだけで若者の話には不介入の立場を示した。
「ユヒアでいいんですか?」
おずおずと聞いた彼女にレアが大きく頷いた。
「この場に私達以上に若い人がいれば、別ですが」
辺りには老人やら壮年やら若くても三十代より老けた者ばかりだ。
「分かりました。その……レア様とお呼びするべきですか?」
「いいえ、同年代の人間なら砕けた口調の方が自然でしょう。ユヒアちゃん。レアちゃん、なんて如何でしょうか?」
年頃らしい悪戯っぽい笑みにユヒアが思わずブンブンと首を横に振って手で制した。
「そ、そんな!? 畏れ多いです!! ユヒアと違って、貴女はご自分の力で組織を纏め上げていると伺っています。ちゃん付けなんてとても……」
「何も違いはありませんよ。私も貴女も同じような歳で大人の中に混じって仕事をしている。それだけです」
「……それは」
レアが苦笑気味に頬を人差し指で掻いた。
「聖女の娘も総主教の孫も然して変わりはしません。互いに大切な人から色々なものを受け取って、この場所にいる。それを選んだのが自分自身の選択ならば、逆に似通っているとすら言えるかもしれませんし」
「そう、ですね」
「はい」
レアが手を差し出した。
「身分や所属組織の事は気に掛けるべきかもしれませんが、若者が笑顔で語らい合うのを邪魔するような無粋で邪悪な大人は此処にいないと思います。皆さんはどうですか?」
周囲の男女、見えない場所で控える近衛、呼び寄せられた超越者達が、ツイッと知らぬ存ぜぬと言うように視線を逸らして自分達の仕事へ邁進していく。
彼らの言いたい事は皆同じ。
ご自由にどうぞ、だ。
自らの人生に責任を持つ彼女達に自分達から言える事は無いとの意思表示である。
「と、いう事です」
「……レア様。いえ、レアさんはユヒアが思っていたよりも、ずっとその……柔らかい方だったんですね」
「総主教はお堅いものとの見識は正常です。ですが、最低限の権力保持も儘ならない今となっては私の存在自体が象徴以上の力を持つ状況は少ない。複雑ではありますが、これはこれで信者の方達と身近に話せる良い状況だとも思っています」
「ユヒアは……かあ様の事があるので、そんな風に誰かと打ち解けられるのは羨ましいかもしれません」
「そうでもありませんよ。家の者からも傅かれる身です。ですが、それは私が望んだ事。それでも心さえ通わせていればいいと思います。打ち解け方は人其々でしょう。貴女にはいませんか? 身分に関係なく接してくれる友達が」
「……いました。今もきっと何処かにいると思います……」
「そうですか」
レアはそう言って、深くは聞かなかった。
『レア様』
横から法衣姿の僧が一人やってくると彼女に耳打ちする。
「分かりました。では、そのように」
『はッ』
フェルラスがようやくかと腰の帯剣を確認した。
ユヒアも時間が来たのだと知って、頭を下げる。
「では、もしもまた機会があれば」
「はい。ユヒアもその時を楽しみにしています」
周囲のいた男女達の姿が消えていく。
そして、一分も待たずして彼女から20m程離れた場所に転移方陣が現れ、燐光を溢れさせると明滅して消えた。
余剰魔力で焼け焦げた草の跡には片膝と拳を付いた少年が一人。
立ち上がると周囲を見回して、レアを確認すると近付いていく。
ピタリと5m先で止まった相手に彼女はもう総主教の静謐な笑顔を向けていた。
「初めまして。イクス・ゼオさん」
「えっと、君は……」
「出向いた者から聞いていませんか?」
「旧教会派の偉い人が待ってる、としか聞いてなくて」
「そうですか。私がその偉い人。レア・アルトス・エールと申します」
「もしかして、今の……」
「はい。総主教をさせて頂いています」
「そっか。じゃあ、話はこれの事かな?」
いつもの制服に外套姿の少年が袖の中に隠れていた片腕を出して、手の甲に埋め込まれた宝玉の原石。
そのように見える天使達の成れの果てを晒す。
「まさか、その姿を見る事になるとは思っていませんでした。天使達の休眠状態……俗に魔術師達は無限機関の触媒として【煌玉結晶(マグナ・トパーズ)】等と呼ばれていますが……」
「あの場所で戦って、何とか侵蝕部分を削り落としたら、こうなっちゃったんだけど、悪い事したかな?」
「いえ、外なる神々との戦っていた事はこちらの都合です。また、貴方達【境界踏征(オーバー・フラタニティー)】に襲い掛かったというのなら、自衛の為に戦った貴方達を攻めるのはお門違いでしょう」
「そう?」
「私共の要求はただ一つ。その方々とあの子の返還です」
「あの子?」
「【聖征者(クルセイダー)】……貴方が戦った子の名前です」
「えっと、何か勘違いがあるような」
「?」
少年がそっと手の甲の鉱石に魔力を通して活性化させる。
「たぶん、観測してる人がいると思うけど、見てもらえれば分かる通り、この中には天使達しかいないよ?」
「そんな?! では、天使達が憑いていたはずの【聖征者】は?!」
「悪いんだけど、襲われた時には天使達だけで化物と戦闘してたとしか……」
「まさか、途中で? いえ、そんなはずありません………」
ショックを受けたらしいレアが僅かに震えながら、少年へ近付き、手を伸ばす。
「その……言い難いんだけど、天使達の意識みたいなものは微かにしか残ってなくて、個体としての力は肉体の方に吸収されちゃってると思う。この間、病院で調べた時の話なんだけど、肉体の性質が精神や魂魄に引っ張られる魔力形質で形作られた特異なものになってるとか何とか……これって所謂天使とか魔族とかが存在を特定の媒質で保つ方法に似てるらしくて……」
「つまり……もう天使達自体が貴方に吸収されて殆ど残っていない、と?」
レアが手の甲に触れて、原石を見つめる。
「残った彼らを引き渡す事は出来る。でも、今まで通り天使としての力を保持していけるかどうかは分からない。後、吸収した力を分離する、みたいな事は難しいし、出切れば遠慮したいかな。さすがに存在が変質するような力を引き抜かれたら、命に関わると思うし」
理路整然と言われた返還要求への回答。
納得出来ないとしても、納得出来るだけの情報の提示。
レアにとって最悪とまではいかないまでも、最悪に近しい状況。
【聖征者】は行方不明で天使は戦力にもならないというのは想定範囲を軽く超えていた。
(素直に返還に応じてくれただけマシと取るべきなのかもしれませんね……)
何にしても天使達が帰ってくるだけでも良しとしなければと彼女は気持ちを切り替える。
(……未だ、あの子はあそこにいる……ならば、今一度赴くのみ)
異相への再度侵入。
アイウィスでの探索。
どちらも彼女が中心となって再開しようと決意する。
「本日はこちらの要望にお応え頂き、ありがとうございます」
「別に感謝されるような事は……それにそろそろ君達みたいな相手から接触があるとは思ってたし」
「………」
レアは相手がどこまで何を知っているのか見極めようと静かに少年を見つめる。
「それで答えは見付かった?」
「……まだ、分かりません。貴方が一体何なのか。いえ、一体誰なのか……」
苦笑した少年は唇の端を歪めた。
「僕はイクス・ゼオ。でも、誰かにとっては魔王かもしれないし、誰かにとってはただの隣人かもしれない。どう見るかは君達次第だし、それを否定する気もないよ。ただ」
「ただ?」
「僕は今の自分が気にいってる。例え、この体が、この人格が、この掛け替えの無い今が、仮初めなんだとしても、ね」
「そこまで分かっていながら、どうして此処まで来たのですか?」
暗に殺されるか捕獲されるかもしれないとは思わなかったのかと聞くレアに苦笑が返る。
「ちゃんと言っておこうと思って」
「何を?」
「……ありがとう。僕をこの世界に生み出してくれて」
「―――」
思わずレアが固まった。
そんな言葉は想定外過ぎる。
「知っていたのですか?」
「こういう状況でもしも僕に接触を持って来る相手がいるなら、それはきっと僕を生み出した相手じゃないかなって思ってただけだよ……僕が魔王の因子を持つ類の存在だと過程するなら、そういうのを生み出す理由を持ってるのは教会関係者とかが最有力だと思うし」
「貴方の考えは正しい。確かに私達が貴方の体を生み出しました。ですが、今の貴方は……我々の想定と過去のあらゆる情報に照らし合せても例外(イレギュラー)と化している。貴方は魔王としての力を継いでいると言っていい。ですが、魔王そのものではない」
「七教会の人にも同じような事を言われたっけ。何でも足りないとか何とか」
「そうですか。ならば、そういう事なのでしょう。改めて、此処で話してみて分かります。貴方は我々が生み出した者とも、その大元となった者とも違う色を宿している。それがどうしてなのか。分かりませんが、一つだけ確信出来ました」
「確信?」
「少なくとも、今のところ私達には互いに争うだけの理由は無い。という事です」
少年がなら良かったと微笑む。
「イクス・ゼオさん。天使の返還以後、我々が危険だと判断しない限り、貴方自身への干渉は一切しないと約束しましょう。この総主教(パトリアルヒス)たるレア・アルトス・エールの名において」
「じゃあ、仲直りってわけでもないけど……」
そっと差し出された手にレアがどうするべきなのかを理解して、自分の手も差し出した。
二つの手がしっかりと結ばれて、全てが円満に治まる事となった、次の瞬間。
バサリと何かが彼らのいる森林に舞い降り。
【ひひひ】
そんな愉快そうな声が握手を交わす少年と少女の耳には聞こえた。
*
知らなかった。
世界はこんなにも照らされている。
夢のように耀いている。
指先に感じる温もりが嬉しい。
魂の階梯を上がった先。
こんなにも小さな世界を眺める自分の矮小さに気付けば、今までの事なんてどうでもよくなってしまうものだ。
『あがぎぃやぁああ゛あrがいjげいlがギャぁさがsgらえらglりまg4いmg―――』
夜を渡る風は涼やかに過ぎ去っていく。
この地平の果てには何があるだろう。
地図では知っているけれど、何一つとして分からない。
死んで誘われるのは天国か地獄と宗教は語るが、今も多くの魔術師達が観測する限り、通常魂魄は空気のように何でもない粒子へ解けて還元されるという。
それを免れても霊として留まるものは極少数。
神々への帰依によって、魂魄そのものを捧げている者は多いとされるが、それも時と場合によりけり。
信仰者がどんな状況だろうと魂魄を救われるわけではない。
宗教上の主神を持たない者達の共同体に強く思考する魂魄が生まれた場合、大半は祖霊として地域一帯を守護するものとなり、それもまた場のようなものとして実際に人格のようなものを有するのは稀と言う。
教会もそれは認めているし、唯一神だけを信じよというのは古い信仰として無くなりつつある。
現世に救いを求め、生きる事を諦めない。
とても良い言葉だと思う。
死んでしまったけれど、気分は爽快だ。
生きているとは言えないけれど、幸せな気持ちになれる。
楽しいというのはとても重要な事だ。
塵のような人生だと蔑まれていた自分はもう何処にもいない。
けれど、此処にある。
だから、こうして彼女と一緒に散歩だってしてみせるし、夜の洒落た蒼き明かりの下、クルクルと踊ってもみせる。
夢は壊れてしまったかもしれない。
人生は終わってしまったかもしれない。
でも、今は満足だ。
だから、奔る。
空の上だって飛んで見せるし、夜風の中を舞ってもみせる。
生きていたなら出来ない経験。
死んでいたなら感じられない体験。
『いだいだいぢあいだいぢあいアイアイあいだいぢあいだふぇwらいfがうぃfぐぁj―――』
心地良い空に寝そべりながら。
ああ、と気付く。
見果てぬ世界の只中に2人。
こういうのを浪漫溢れる空気と言うに違いない。
ギュッと温もりに寄り添えば。
『ぎゃぁ゛あ゛ぁ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛ぁ゛あ゛―――』
胸の内から恋人の甘い声。
どうやら胸骨と背骨と両腕から伸びた骨の先端が横隔膜以外の内臓を突き破って破裂させてしまったらしい。
けれど、背骨で繋がっている限り、彼女は死なない。
脳髄以外は幾らでも賦活可能だ。
正しく永遠の恋人。
何とも素晴らしい命。
ショァァァァァ。
お漏らしに少し苦笑いして、水に入ろうと空から近くの森にある温水の池に降り立った。
不意に彼の背中へ剣が突き立った。
それは容赦なく分け入り、背骨を分断し、袈裟斬りにして通り抜け、次のモーションが遅れると同時に全身の動きが固まった。
肉体の表層から染み込んで来るのは氷結魔術の類。
だが、その強度は分子停止措置。
絶対零度や物体の完全固定を行なう高次大系。
動きが遅くなっていく最中。
次に襲い掛かってくるのは頭部への一撃。
弓矢だ。
それも先端が刺さった瞬間に相手の魂魄を破壊する魔術が乗っている。
最後に足元に魔術方陣が浮かび上がる。
単純な封印の式。
だが、細い円環の数が0.001mm毎に時間経過で増えていく永続多重結界。
時間と共に圧力を増していく封印は魔力形質、熱量、質量、波動、その他多くの世界の構成要素を区切り、一箇所に留めて圧縮するものだ。
骨が拉げ、折れ、捻じ曲がり、何もかもが閉ざされていく。
【ひひひ】
けれど、それに恐怖は覚えない。
声が聞こえている。
終わりなんて無い。
生きてもいないし、死んでもいない。
ならば、どんな力が傷付けられると言うのだろう。
脳裏に浮かぶ景色。
そう、奏する者も無く。
弦の音が薄ら宵に煙る黄昏た雲を振るわせている。
小麦原の只中で黒い肌をした長耳の少女が踊っている。
涼やかな風に煌めくのは天輪(ハイロゥ)の如く並んだ器物。
今はまだ静(しずや)かな大地の中心へ二つの耀きが降りてくる。
失われた剣と弓。
それに続くは甕と杯。
小さな稲穂が屍蝋と変わり、踊る少女を見つめる生物の如き鎧に貪り食われた。
口元は開き切り、その鋭い顎(あぎと)の内部は黒く染まっている。
ペッとその口から女を一人吐き出して。
バグンと体躯が中央から真っ二つに割れる。
巨大な乱杭歯の生えた内部が顕になって。
【ひひひ。要る? 要る?】
そう訊ねられたから、頷いた。
『―――なんだッッ!?!!』
声が聞こえる。
『―――ロストしたと噂の新型だと!!?』
慌てふためく声が聞こえる。
見上げれば、鎧が、乱杭歯の化物が迫ってくる。
左手には甕、右手には杯。
甕とは水の象徴、全てを留め置く叡智の水源。
杯とは命の象徴、注がれし水は掲げられる栄光。
優しく優しく彼女を抱き締めて、鎧の中へと喰らわれる。
全てが一つになっていく。
彼女を中心に構成されていく。
彼女は啼きながら嗤っている。
踊ろうと身体を漲らせれば、自分がどうなったのか。
よく、見える。
炎のように蒼い、夢の如く儚い、暗いのに耀く、燃えるような海が、湛えられて、讃えられて、震える程熱く、砕け散るように強固で、僕となった、そして、彼女となった、また彼女も鎧となった。
不可思議に萌える深き蒼を宿して生命のように揺らぐ髪は黒い触手、いや、骨、いや、彼方に彼方に届く槍。
腐汁の湧く焦げた稲穂の如き尾、いや、黄金、いや、暗雲を穿ち喰らう顎(あぎと)の群れ。
鎧、否、生命、否、屍、否、私、否、僕、否、誰でも無い災厄。
幸せな蒼い夜に踊る獣の如きもの。
それとなって、そうなって、明日に向かう生死不明の混沌。
僕の名は、私の名は、彼の名は、彼女の名は、鎧の名は、ソレの名は―――。
【滅び去った方】(アブラクサス)
【外神化(アウターライズ・フェノメノン)】によって365の定理、その完全否定から蘇るモノ。
甕によって留め置かれ、杯によって注がれた……又の名を邪神。
【ひひひ、ひひひひ、なんじはらからなるものにしてあすをみつむるこんとん♪ ごはんにする? ごはんにする?】
そう言えば、何も食べていなかった。
そうだ。
月夜の散歩としゃれ込むならば、素敵な食事もご馳走しよう。
彼女が悦ぶオモテナシ。
僕に出来るかは分からないけれど。
バグンと尻尾が近くにいたソレを齧り取った。
『ガッ?!! 封印は破れてないんだぞ!?! 退避ッ!! これより中距離戦闘に移行する!! 各班は連携による攻撃を心得ろ!! 来るぞッ!!!』
何を言っているのかは分からない。
でも、踊り食いというのは中々、美味しいものかもしれない。
彼女も欲している。
なら、男性から食事を持っていくのがマナーなのではないのだろうか?
女性とのお付合いなんてした事がないから、分からないのだけれど。
オ゛オオ゛オオ゛オオ゛オオ゛オオ゛オオ゛オオ゛オオ゛オオ゛オオ゛オオ゛オ――――!!!!
鎧が、僕が、彼女が、吼えた。
さぁ、楽しい食事時を始めよう。