※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

169 / 318
第三章七十七節

第三章七十七節「奇妙な凶旅Ⅶ」

 

 凡そ四十年程前。

 

 亜人には冬が到来していた。

 

 季節の話ではない。

 

 種族の危機だ。

 

 大陸南部におけるイグニシア・クルシスの統合(あなうめ)戦争。

 

 地図上にある南部の虫食いを綺麗に均(なら)し、大陸南東部にある武帝との騒乱が収束するまでにかなりの大規模侵攻が複数回勃発した。

 

 これを機に南部穀倉地帯が一部打撃を受け、その膨大な食料供給能力が麻痺したのだ。

 

 帝国は泥沼化する戦線を整理して、第二次侵攻を画策。

 

 この時、幾つもの亜人集落と国家が解決不能の困難に飲み込まれた。

 

 純粋に食料価格の高騰によって主食が輸入出来なくなり、極貧地域において餓死者が多発。

 

 また、分散して細々と暮らしていた亜人の村落が多数の国の退路となった事で、野党化した敗軍が略奪を行う事も日常となった。

 

 そのあまりの過酷な日々に奴隷に身を落す者、殺される者、餓死する者、犯罪に走る者、国や故郷を捨てる者が続出。

 

 離散した亜人達は三々五々に理想郷を求めて消えていった。

 

 南部が最悪、東部はまぁまぁ、北部は最低、西部は唯一影響が薄いという何処に行こうがどうしようもない有様。

 

 人間国家が働く横暴に耐えかね、革命を起こそうとする輩もあったが、それもすぐに討伐された。

 

 結局、その時から亜人達の生活は急速に悪化していった。

 

 これを見かねた七教会は大陸中央諸国で亜人難民の受け入れと教化、同化政策を行なってかなりの数の者を救ってはいたが、それにしても大陸全土で二億人と言われた亜人達を完全には守れなかった。

 

 以降、彼らは人の住めない場所や実りが少なくとも地政学的な影響を受け難い秘境へと集まり、暮らしを立て直していったが、この選択肢が更に数十年後、悲劇を生む事になる。

 

 亜人狩り。

 

 大陸規模で人間国家に亜人が減少し、都市部、農村を問わずに見掛けなくなった。

 

 中央諸国以外の国々では珍しくなっていったのである。

 

 珍しいという事がどういう事か。

 

 理解されないとはどういう事か。

 

 純粋に学術的な見地から調査する人間もいるにはいたが、多くの人間達にとって……亜人は稀少価値の付いた“品物”。

 

 つまり、奴隷としての価値が高くなっていった。

 

 異種は時に人間の手には負えない力を持っているのが殆どだったが、秘境でひっそりと暮す亜人は身体能力や特殊能力があっても、あくまで人間が強化された程度の能力。

 

 つまり、狩り易かったのである。

 

 七教会の治世の下。

 

 違法銃器が出回り始めた事も大きい。

 

 身体能力が高い亜人でも、銃さえあれば、比較的簡単に脅せて捕まえられた。

 

 この流れがゆっくりと顕在化していったのだ。

 

 体力に優れた獣人(ベスティア)が主力商品となり、純粋に個体数が少ないものはコレクター用や愛玩用にと狩られていった。

 

 この事態で最も割りを食ったのがエルフである。

 

 どの個体も愛玩用として素晴らしく。

 

 魔力形質や純粋な能力に優れた人に最も近しい存在として用途は無数にあった。

 

 大陸規模での【近代化】が進むに連れて亜人の被害は劇的に低くなっていったが、エルフだけは例外で現代においても狩り続ける者達が多い。

 

 それは七教会やエルフを庇護する国家からの干渉リスクを考えても、儲けが未だ割りに合うからだ。

 

 それは稀少な能力や姿を持つ亜人達にも言える。

 

 毎年、数字上の狩られる亜人達は少なくなりつつあったが、それにしても春の到来は未だ遠く。

 

 人間を極度に憎む亜人は多い。

 

 西部最大の亜人国家であるアルヴァスにも、そのような類の者はいる。

 

 主に人間のせいで故郷や家族、仲間を失い、追われ、失意の中で移民としてやってくる者達だ。

 

 彼らの事をアルヴァスは丁重に持て成すが、同時に一つの事を必ず魔術における誓約で守らせる。

 

 それは……自分の子供に対して人間を憎悪する教育を行なわない事。

 

 戦争を含めた人間との付き合いの中で独立を勝ち取ってきた亜人達にとって、過激な人間排斥思想は毒以外の何物でも無い。

 

 国際問題となれば、外交にも影響が出る。

 

 人の愚かを学ばざるが亜人。

 

 そんな亜人貴族主義を貫くには移民者達へそうさせるしかない。

 

 故に外から来た一世代目は特に人間奴隷や“九十対十”に辛く当たる。

 

 殆ど例外は存在しない程だ。

 

 無論、亜人国家内ならば、問題ないとされるレベルの人間に近い亜人達にもあまり良い顔はしない。

 

 これらの憎しみは世代を超えぬよう時間の中で消費させるしかないというのが元老院の結論であり、多くの亜人達がそれに賛同している。

 

「“九十対十(ナインティ・テン)”が!!」

 

 小さな手が零してしまった氷菓(アイス)。

 

 服に付いた沁みに怒り心頭の様子で獣人の男が少女シルルゥ・ゼオの身体を払い除けようとした。

 

 ガンッとその手が背中に当たって止まる。

 

 腕に嵌っていた金属製のブレスレットがかなりの激音を上げた。

 

 普通ならば、怪我をしていてもおかしくない。

 

「すいません。汚してしまったようで」

 

 小さな店先。

 

 シルルゥが周囲を確認せず、少年の下へ走っていこうとしたのが、そもそも原因だ。

 

 獣人の男は安物のシャツに安い革製のズボン。

 

 労働者階級が旅行にでも来ているのだろう。

 

 【黄虎(ティグリス)】の男は目に見えて、気が猛っていた。

 

「ッ、お前も“九十対十”か……」

 

 静かな怒り。

 

 しかし、それは爆発寸前だからだ。

 

 男の目は何処か濁っていた。

 

 よく嗅げば、酒が少々入っているのが分かるだろう。

 

「イクス?」

 

 一体何があったのか分からない様子でシルルゥが首を傾げる。

 

「アイスを零して他の人の服に付けちゃったんだよ。謝ろっか?」

 

「うん……」

 

 少年がシルルゥの肩を片手で掴んで向き直るとすぐに頭を下げた。

 

「すみません」

 

「ごめんなさい……」

 

「―――ッ、謝って済むと思ってんのか? あぁ? 服の代金くらいは払ってくれるんだよなぁ? “九十対十”でも、それくらいは出来るだろ!!」

 

 もう四十代程になるだろう男は頭を上げた二人に凄んでみせる。

 

 その様子に店内と店外から視線が集まった。

 

 一部始終を見ていたギャラリー達からしてみれば、大の大人が“九十対十”とはいえ、自分よりも年下の少年少女に頭を下げられたにも関わらず恫喝している図である。

 

 眉を潜める者が大多数だ。

 

「分かりました。幾ら程ですか? 弁償させて頂きます」

 

「頂きます……」

 

 頷いた少年が冷静に訊ね、シルルゥも自分の過失だからといつになく真面目な様子で男を見上げた。

 

「―――?!」

 

 その瞳に男の中で何かが切れたらしく。

 

「なら、払ってもらおうか!! 金貨十枚だッ!!!」

 

 さすがにギャラリーがざわめき出した。

 

 法外な値段。

 

 どれだけ高く見積もっても労働者階級の服はせいぜい銅貨で三十枚程。

 

 金貨十枚は明らかなボッタクリだ。

 

「……分かりました。では、お支払いします」

 

「ッッ」

 

 少年が男の言い分に早めの対応をして、懐に入れた財布から掌に丁度十枚差し出そうとした時。

 

 男の手が金貨ごと腕を払った。

 

「金で全部解決出来ると思ってるんじゃねぇえええ!!!? この人間がぁあああああ!!!?」

 

 明らかに男の瞳には狂気が宿っている。

 

 自らで支払えと言っておきながら、それを拒否する姿勢に数人の亜人達が止めに入ろうかと迷い始め、更に幾人かが官憲の派出所へ走っていこうとした。

 

 その怒気に思わず少年の後ろへシルルゥが隠れる。

 

「このッッッ!?!!」

 

 それが更に怒りへ火を付けたか。

 

 夕暮れ時の空に拳が振り上げられる。

 

 周囲の亜人や人間の女性客が目を覆う。

 

 バゴンッ。

 

 予想通り。

 

 一発、男の拳が振り下ろされ、少年の横っ面を打った。

 

 しかし、微動だにせず。

 

 揺るがない少年の瞳が男を見据えた。

 

「このッ!! 貴族が何だッ!! 人間が何だッ!! 何でも金で解決すると思ってるんじゃねぇええええええええ!!!」

 

 もう一発、男が拳を振り上げようとした時。

 

『止めてぇぇえええええ!!? お父さん何してるの!?!』

 

 その腕に同じ【黄虎】の容姿をしたまだ中等教育の年齢くらいだろう少女が抱き付いて止めた。

 

「な―――何するんだ!!? こいつはッ!! 人間だッ!! “九十対十”だ!! 貴族だ!!! オレ達の敵だ!!? そうだろ!!?」

 

「止めて!!? お父さん酔ってるのよッッ!? こんな事したって、兄さんは返ってこないッ!! だから、止めてよぉ!!?」

 

「――――――ッ」

 

 男の中から怒気が一瞬で消えた。

 

 それどころか。

 

 今までの形相が嘘のように表情が抜け落ちると目が虚ろになっていく。

 

「あいつ……何処行っちまったんだ……あいつ……なぁ、帰って来るよな?」

 

 男が娘らしい少女に尋ねる。

 

「うん。だから、もう宿に戻ろう。ね?」

 

「あ、あぁ……そう、だな。そうしよう……そうだ……あいつが帰って来たら、一緒に食事してやらねぇとな……」

 

「うん。そうだよ。だから、先に帰ってて……後はあたしがやっておくから」

 

「悪い。ああ、そうする。ああ、本当に、悪い。悪かったな……あんたら、悪かったよ……ああ……」

 

 何やら気が抜けた様子でフラフラと夢遊病者のように男が店から出ていく。

 

 道に出来た人集りが割れた。

 

 しかし、それを気にする事もなく。

 

 やはり、虚ろな視線を虚空に彷徨わせながら、男は雑踏の先へと消えていく。

 

「あ、あの!? お怪我はありませんか!!? 済みませんッ!!? 父が酷い事を!?」

 

 駆け寄ってくる少し地味な旅行者用の外套を着込んだ少女が少年に駆け寄ってくる。

 

「いえ、大丈夫ですから。怪我はありません。それと最初に服へ氷菓を零したのはこちらの過失です。服の弁償だけは済ませておきたいので。どうぞ」

 

 辺りに散らばった金貨を見て、少女が事態を悟って、地面に擦り付けそうなくらいに頭を下げた。

 

「ほ、本当に申し訳ありません!! 酒に酔っていたとはいえ、こんな金貨まで出させてたなんて……」

 

 心底、哀しそうな少女の顔を上げさせて、少年は店先から近付いてくる官憲の足音を聞き分け、此処では何だからと二人を連れて、その場を離れた。

 

 100m以上先の喧騒から遠い喫茶店に入るとすぐにお茶を三つ頼んで一番奥の座席へと座る。

 

「どうぞ」

 

「は、はい……」

 

 申し訳なさそうな顔で座り込む少女が再び、その頭をテーブルの上で深々と下げた。

 

「先程は本当に申し訳ありません」

 

「いえ、原因を作ったのはこちらですから」

 

「……今、父は精神的に参ってしまっていて……それでお酒が入ってあんな事を……本当は気の優しい人だったんです……でも、私も父も移民で……人間には良い思い出が無くて……」

 

「移民……」

 

 少年もアルヴァスに暮す以上。

 

 それなりに世間的な事情は心得ている。

 

「それでも、昔はあそこまで酷くはなかったんです。それが近頃、あたしの兄が……その……消えてしまって……」

 

「消えた?」

 

 少女が薄らと涙を瞳の端に湛える。

 

「……近頃、行方不明事件が増えてるじゃないですか。アレです……でも、父は兄が学校で苛められてたって言っていて……詳しくは知りませんが、どうやらその相手の家に押し掛けたらしいんです。そうしたら……」

 

「金を払うから、問題にするなと?」

 

「あ、はは……父が?」

 

 顔が歪に笑顔を作る。

 

 少年が頷いた。

 

「金で何でも解決すると思うなと」

 

「本当にお恥しい話なんですけど……父は金の問題じゃないと言いながら、あたしの為にお金を貰って来ました……相手側の方にも落ち度があったって事なんでしょう。でも、暮らしが苦しいからって、本当は貰ってくるべきじゃなかった……それから、お酒の量が増えてしまって……気晴らしの旅行に来たんですけど……どうやら、ダメだったみたいです……」

 

 顔を俯けて。

 

 少女が深い溜息を一つ。

 

「今日は本当に済みませんでした。その……非常に失礼な事を……でも、あたしにとってはたった一人の父なんです。どうか、官憲沙汰には……」

 

 頭を下げた少女に顔を上げるよう言って、少年は首を立てに振った。

 

「ありがとうございますッ!!」

 

 再び頭を下げてから、少女が静かな声で告げながら、立ち上がった。

 

「こんな所で不愉快な思いをさせてしまってごめんなさい。でも、今日であたし達は帰る予定なので、明日には居ません。どうか、良い休日を……失礼します。支払いは―――」

 

「こっちで。まだ服の弁償代は払ってませんから」

 

「……本当にありがとうございます。済みませんでした……」

 

 少年の言葉に感謝した様子で少女が何度も頭を下げて店の外へと出て行った。

 

 すると、丁度お茶が三人前二人の前に運ばれてくる。

 

「……アイス。食べる?」

 

 その問いはシルルゥを気遣ってのものだったが、いつもならどんな食事にも飲料にも目が無い黒髪のユニコーン少女は首を横に振ってポツリ。

 

「イクス。大丈夫?」

 

「うん。怪我もしてないし」

 

「本当?」

 

「本当だよ」

 

「……ゴメンなさい」

 

「謝らなくても。お茶飲んだら、早めに宿へ帰ろう? 皆、きっと首を長くして待ってるよ」

 

「……うん」

 

 お茶にさっそく共に出されたミルクを回し入れながら、少女は静かにストレートで嗜む少年をチラリと見た。

 

(シルルゥ……守ってもらってバッカリ……イクス……)

 

 黄昏の映る琥珀の湖面は白く、白く、何もかもを包むように濁っていった。

 

 *

 

 二人が事件に巻き込まれた。

 

 そんな事とは露知らず。

 

 返ってきた少年とシルルゥに仲間達はお帰りと告げた。

 

 夕食前。

 

 本来ならのんびりしているところだろうが、エゼ・デシェ特産のアイスがあると共に食べる一時をねだった少女に押されての外出だったのである。

 

 お目当てのものは食べられなかったが、無事に帰ってきた。

 

 それだけでいい。

 

 少年は今日の事を秘密にしようとシルルゥへ言い含め。

 

 少女もまた心配は掛けたくないからと同意した。

 

 それからの夕食は前日と同じく。

 

 豪華絢爛。

 

 この世のものかと目を見張る一大スペクタクルが舌と喉と胃と心を満たして、誰もが笑顔となった。

 

 それから夜も深くなった頃合。

 

 其々に連れ立って入浴した面々は上がってきた者から順番にカードゲームに興じ始め。

 

 夜間の間食も解禁だとばかりに小麦菓子がチップよろしく賭けられていた。

 

 中々に奥が深く。

 

 そうして熱中すると目の前が見えなくなる、集中力の高い少女達が接戦を繰り広げる。

 

 そうして。

 

 ようやく一人で入浴出来そうだとイソイソ場を抜け出した少年が男湯にいた。

 

 宿の風呂は一面白いタイル張りで近くの源泉から直接引いてきた熱湯に地下水を混ぜて温度調節をしているらしい。

 

 女性にも入り易いようにと配慮された少し低めの温度は長風呂するには丁度いいだろう。

 

 月兎亭程ではないが、それでも広大な湯船は四方から薄らと魔術具の橙色の明かりで照らされている。

 

 奥行きがあり、最も端に行くと明かりも蒼き天蓋のものだけとなる為、一人となるには十分だった。

 

「………」

 

 霧の中で化物と化した人間は多い。

 

 夕方の一件は少年にとって、自分がやってきた事にも関わる日常への異常な足音。

 

 どう言い繕おうと少年は変異した人間を殺してきたし、それを良しとしてきた。

 

 また、それを秘密にしてきたし、それは今後も変わらない。

 

 ならば、思い煩う事など無いのだろう。

 

 本来は……。

 

(でも、これからもきっと被害者は増え続ける)

 

 それを戮(りく)して進む限り、付いて回る問題は無数。

 

 璃紗の能力が何処まで通用するのかも分からないし、それを利用して何とかしようという気も少年には無い。

 

 国が無茶な事をしなければ、傍で見守るだろう。

 

 が、もしも、命や精神に関わる看過出来ない事態となれば、何を敵に回そうと止める気でいる。

 

(僕は誰かに言われる程、優しくはない。誰とも同じ。ただ、自分の傍にいる誰かを守るので精一杯……でも、きっとそれだけじゃダメだと分かってる……)

 

 魔王。

 

 その欠片だと言われて。

 

 別に感慨も無かった少年にとって、一つだけ分かっている事がある。

 

 それは力を使う度に思い起こされる事だ。

 

 遣い方だけは覚えていたのだ。

 

 何故なら、それは約束だったから。

 

(助けると約束した。誰にしたのかも分からないけど。僕はそうする……)

 

 掌を天蓋の光に透かし見れば、星屑が見えた。

 

 もう力はある。

 

 ならば、後は無理だろうが無茶だろうが、行動するだけだ。

 

 何を助け、何を救うのか。

 

 そんな事はその時になってみなければ、分かりはしない。

 

 それでも胸に息衝くものに従い前に進む事だけが、少年に出来る唯一だった。

 

「イクス?」

 

 少年が驚いて振り返ると黒髪の少女が一人。

 

 小さな身体を湯船に沈めてスイスイと水面から顔を出しやってくる。

 

「シルルゥ? 此処って男湯じゃなかったっけ?」

 

「九時からは、コンヨク、だよ?」

 

「そうなんだ……知らなかったんだけど」

 

「♪」

 

 羞恥とは無縁な無垢なる笑みで少女が少年の前に来るとクルリと背中を向けて体を預ける。

 

 抱き止めるしかないわけで、両手がお腹に回された。

 

「んゅ……」

 

 その擽(くすぐ)ったさに身動ぎして笑みを零し、シルルゥが身体の力を抜いて首筋に持たれ、顔を上げる。

 

「気持ちイイね……♪」

 

「うん」

 

 細い身体を抱き締め、胡坐を掻いて抱っこする形となった少年が頭を撫でた。

 

「……イクス。悲しい?」

 

「悲しくはない。けど」

 

 唐突に話し掛けてきた少女に思うまま。

 

 呟きが返される。

 

「苦しい」

 

「どうして?」

 

「どうして、か……出切る事としてる事が違うから、かもしれない」

 

「?」

 

「テストで良い点が取れる。でも、そうする理由が無い。けれど、そうしないと先生に怒られる。じゃあ、どうすればいいのか?」

 

「どうすればいいの?」

 

「良い点数を取ればいいのかもしれない。けれど、その時、其処にいるのは僕じゃない」

 

「……難しい」

 

 小首を傾げて、少女は呟く。

 

「ごめん」

 

 苦笑して、少しだけ腕を強く回せば、それに瞳を閉じて、シルルゥは天蓋の光を浴びる。

 

「「………」」

 

 穏やかに風が吹き抜けて行く。

 

 小さな背中は何も語らない。

 

 薄らと笑んだ顔は湯と少年の熱さを感じて、穏やかだった。

 

「イクス」

 

「何?」

 

「このまま、ずっとがイイ。シルルゥ……ハハサマ、リーシャ、ウル、エストリア、黒猫さん。みんなで……」

 

「シルルゥ……」

 

 とても小さな願い。

 

 日常の中でなら、何気なく叶う思い。

 

 けれど、それが奇跡的なバランスの上にある事を少女は知っているのか。

 

 あるいは知らずとも、ただ望んでいたのか。

 

 何にしろ。

 

 それは……いつか崩れ去るものだ。

 

 母親といつかは別れる日も来る。

 

 召使がずっと傍で仕える事も無い。

 

 友は恋人や家族を作り、遠ざかっていく。

 

 未来の行方に歩みを進めれば、当然のようにやってくる何時(いつ)か。

 

「ハハサマにお料理を教えて貰って。リーシャとお洋服選んで。ウル、エストリアと買い物にイクの。黒猫さんを頭に乗せて……イクスもイッショ」

 

「ずっと?」

 

「うん。ずぅ~~~~っと♪」

 

「そっか……僕よりシルルゥの方が分かってる……そうしたいなら、そうすればいい。確かにそれだけの事だ」

 

「?……イクスのイツモと違うの?」

 

「え?」

 

「イクスみたいにしたいって思ったんだ、よ?」

 

 ああ、と少年は胸の内にあるものがようやく形を取った気がした。

 

「――――――うん。分かってる……僕はそうしてきた。そして、これからもそうする……それ以外にきっと遣り方なんて知らなかった……昔も今も……」

 

「……イクス」

 

 ちゅ、と。

 

 刹那、軽やかに頬へ唇が当る。

 

「ず~~~っとイッショ」

 

「……ありがとう……シルルゥ……教えてくれて……」

 

「うん!!」

 

 鮮やかに咲く野花のような笑み。

 

 いつか見たソレを、誰かがしていた表情を、その時の感情だけを呼び起こして、少年もまた笑った。

 

「……もう少しこうしてよっか?」

 

「~~~♪」

 

 それからしばらく。

 

 二人は共に蒼き天蓋の星を見上げていた。

 

 少女が幸せそうに緩んだ笑顔でフニャフニャと上せてしまうまで。

 

(叶えるよ。その願い……きっと……)

 

 脱衣所で看病しているところに押し寄せた女性陣による“またか”の声が響くのはそれから二十分後の事だった。

 

 *

 

「マヲ~~」

 

 トコトコと黒猫気取りな物体が空を歩いていた。

 

 と言っても、ほぼ熱圏より上辺りでの話である。

 

 本来なら場所によって化身(アバター)を使い分ける彼女であったが、今日は持っている物の中でも比較的安定した肉体にしたかった為、鳥類の類ではない。

 

 武芸術部の合宿日程からサックリ消えていたわけだが、本当なら黒猫だって旅行を愉しむ気満々だった。

 

 だが、世の中にはそういう日に限って何かが起こったりする。

 

 小さな肉球が歩いて近付いているのは小さな猫の額程の土地。

 

 いや、どちらかと言えば花壇、だろうか。

 

 冗談ではない。

 

 地表から数百km上空に一本だけ花を植えられた数m四方の大地から抉り取られたような地面が浮いているのだ。

 

 何処にでも咲いていそうな白い可憐な野花である。

 

 普通の植物なら枯れていそうなものだが、今も空気の殆ど無い場所で凜と光に照らされている。

 

 別に黒猫のものではない。

 

 それは彼女が来るずっと前から、その静止衛星軌道上に配置されていたものだ。

 

 現在地はアルヴァス亜人国直上。

 

 国の最高指導者すら気付いていないだろう国家の要の一つが其処である。

 

 しばらく前から西部を歩き回って調べていた黒猫の目的地。

 

 それがアルヴァスでの様々な事件によって浮かび上がってきたのだ。

 

 屍蝋の仮面と異相による国土の侵食から始まった異変は多くの変遷を経ている。

 

 緑炎テロによる国家鎮護を司った結界の綻び。

 

 外なる神々が呼び込んだ地平の彼方との同期。

 

 その中で無数に交わされた攻撃による空間への干渉。

 

 諸々の影響が本来、花園を隠し続けるはずだった術法を一部破った事で事態は動いた。

 

 この五千年の間に教会も神も見失ったはずの遺構は彼女の家。

 

 クラウゼン公爵家が長年遠征探査で密かに調べていたものの一つである。

 

 今は亡き父親がよく彼女に言って聞かせたのは自分達が守る遺構の他にもこの大地には同じようなものがあるという話。

 

 それは殆どが誰かに押さえられているが、中には忘れ去られたモノもある。

 

 もしも、それを発掘する事が出来たなら、更なるクラウゼンの繁栄の礎になるだろう。

 

 眉唾とも言い切れない話の為に研究中も家の裏方を司る地下研究棟の住人達の中から信がおける者を選抜し、調査旅団を編制する事が多々あった。

 

 結果は殆ど成果無しで終ったというが、それにしても黒猫はその話があったからこそ、それを発見した。

 

「マゥ」

 

 トコトコと地面に侵入した黒猫は花の前まで来るとスンスンと匂いを嗅いだ後、あーんと口を開けてパクリと花弁を食んだ。

 

 モッシャ、モッシャ、ゴクリ。

 

 絵面的には「この悪戯猫め!!」とオシオキされそうであるが、所有者らしき者の影は何処にもない。

 

 残された茎がぺキッと罅割れを起こしたかと思うと砕け散る。

 

 すると、黒猫の周囲に幾人かの人影が滲んだ。

 

 人というには聊かおかしい。

 

 彼らの頭部からは角が突き出しており、螺旋れている。

 

 亜人にしては禍々しいソレを持つのは基本的に一つの種族だけ。

 

【血族種(ブラッディー)】

 

 要は人間の血を受け継いだ魔族である。

 

『………我等の眠りを覚ますのは誰だ?』

 

『ん? 妙な生き物だな。貴様』

 

『どうやら、その時が来たらしい。あの小娘の言った通りか』

 

『我等とも亜人とも違う。ふむ……面白い生き物だ』

 

『封印が途絶えた。あの小僧が死んで千年は経っているか』

 

『む……お嬢さんが下にいるぞ』

 

『何? おお、五千年ぶりの再会か』

 

『他にも中々面白いものが揃っているようだな。我等と同格もいるようだ。約束の御子も確かに感じるぞ。うむ? 神格共が少ないな。もう騒ぎ始めたわ。かかか』

 

『人間も大陸に増えているな。下にあるのは小僧の国か』

 

『見ろ。見ろ。上だ』

 

『おおう!! これが約束の天蓋か』

 

『蒼き天蓋。そうだ。小娘の預言通り。あのお方の気配もするぞ』

 

『ああ、どうやら間違いないらしい。ならば、そこの生物、お前が我等を率いる将の器か。試させて貰おう。小僧の時は一歩及ばずだったが……さて、お前はどうだ?』

 

『どうやら、小娘の外神も動き出しているな。儀式の贄はまず一つ。他は殆ど天蓋へ上がっているか』

 

『ほうほう? 今、“新しい書架”を参照しているが、会議のお歴々は我々のような連中に王の名を冠させたようだぞ。これは面白い』

 

『はははは、あの頭の固い石頭共がか!?』

 

『魔王。どうやら御子は今それを名乗るらしい』

 

『ああ、まったく。人の世はこれだから面白い!!』

 

『さぁ、神格共がやってくる前に片を付けようか。よいな? 黒いの』

 

「マゥヲ~~」

 

 何と言うか。

 

 はしゃいだ様子の影達に呆けた祖父を見守るような生温い視線を送りつつ、黒猫がヒョイと立ち上がって、明らかに人間臭い……しかし、獣でしかない肉体で猫パンチを繰り出した。

 

 猫的闘志の表現方法である。

 

 何だかクラウゼン公爵家が妙な物体を産み出す場所のような誤解を受けそうであるが、事実として冗談みたいな能力を有する黒猫を前にしては大抵のものが霞むのでしょうがない。

 

「マゥ」

 

 微妙に古臭い物体を甦らせてしまったようだと彼女も理解したが、此処で暴れられても問題があるので戦闘は必須だろう。

 

『ほう? 我等相手に化身で十分だと?』

 

「マ~ヲ~~」

 

『まったく、愉しませてくれそうで何よりだ』

 

 力の差を見せ付けて大人しく蒐集されてくれるのならば、それはそれで良し。

 

 何やらよく分からない事を喋っているが、後で聞けばいい事だろうと割り切って。

 

 行き当たりバッタリにクラウゼン公爵家当主代行は戦いのゴングを鳴らした。

 

『我等に勝れば、小娘との契約通り、貴様にこの世に残る最大の神器と我等を与えよう』

 

『貴様が負ければ、魂とその肉体を頂こう』

 

『どうやら“門”に関連した者のようだな。今は【基幹異種(バルバロス)】等と呼ばれているようだが、なるほど……始祖が目指した階梯か。貴様』

 

「?」

 

『久方振りの戦いか』

 

『久方振りの敗北か』

 

『久方振りの勝利か』

 

『構わぬさ。何だろうと今は全てが愛おしい。ああ、未来よ。ようやく我等が追付いた果て無き果てよ。今、お前をこの身で抱き締めよう。我等“悪い魔族”の名の下にな。くくくくくく』

 

 何処かの魔王が名乗ったように影達は名乗る。

 

 己を悪い魔族だと。

 

 その数は四。

 

 黒猫が鳴いた。

 

 槍と剣と鏃と拳が同時に黒猫のいた地面に炸裂し、とりあえず半径2km四方において磁場と魔力と爆裂した熱・光エネルギーが相互干渉を起こし、下層域では電離現象が発生。

 

 オーロラが現れ、周辺軌道上に配置されていた七教会所有の汎用衛星群が機能不全を起こして墜落。

 

 流星となって地表へと向かい、あっと言う間に燃え尽きていった。

 

『かかかか。良いぞ。良いぞ。魔力があっても、法は別か!!』

 

 概念魔力形質。

 

 何処からとも無く湧き出る魔力を励起して、転化する光が四つの影を朧に映し出した。

 

 攻撃に有用そうな魔術法則の幾つかを停止した黒猫はあっさり、魔術合戦から魔力の投げ合いに戦闘を堕落させて、星の全景が見える位置まで駆け上っていく。

 

 真空を奔る姿は正しく異常。

 

 本来ならば、魔術の一つも使えずには追い切れない。

 

 だが、影達は自分達の周囲数百mに励起した光の帯。

 

 魔力プールを蹴り付けた。

 

 純粋な身体能力のみが可能とする加速で魔術で駆け上る黒猫へと肉薄していく。

 

 空は未だ夜。

 

 しかし、其処に安息の黒は既に無い。

 

 まるで重奏楽(オーケストラ)のように連なる七色の光芒はあらゆる観測行為を覆い隠して。

 

 大気を局所的に不安定化させた影達の魔力を感知させなかった。

 

『魔術が使えぬなら、身体を使えばいい』

 

『ああ、鏃ならあるぞ』

 

『拳もいいだろう』

 

『槍と剣も中々』

 

 其々の得物。

 

 歪む白銀。

 

 まるで融けた金属そのもの。

 

 銀金(ミスリル)の弓、槍、篭手、剣。

 

 鍛造されている気配もないソレらが純粋な魔力を転化した雷撃や光、炎を全て纏って、否……発生させながら、黒猫に迫る。

 

 影達は愉しげだ。

 

 口元が歪んでいる。

 

 ああ、全く持って、彼らは旧き時代にありがちな戦巧者の出だった。

 

 本当の強者には敵わないからこそ、技術を、智識を、人が産み出す強くなる為の大系を極めた者達。

 

 それは数千年も前。

 

 現代に続く中に消えていった人類史の戦闘録。

 

 槍の一点は只管に穿ち。

 

 あらゆる者を貫き通す為に熱も炎も光も穂先の一点に収斂している。

 

 剣は一線に全てを断ち。

 

 刃が薄い空気の層を切り裂きながら、純粋に速度で焼け付き迫る。

 

 鏃が一穴の道に昇り。

 

 複数の攻撃に媒質たる全てが消えた真空を威力の減衰無しで奔る。

 

 篭手は一心の色を宿し。

 

 拳は暴虐の殺意と化して、人の万倍と言われる魔族の限界を試す。

 

 槍の穂先が秒速800km弱で迫れば、剣の一太刀は振り下ろされるまでに0.000001秒も掛からない。

 

 鏃は速度よりも威力を重視し、30000000000C(クーロン)を突破する量の雷撃が切っ先。

 

 僅か1mm四方の中に凝集。

 

 拳は全ての攻撃が直撃した箇所に打ち込まれて、全てのエネルギーが爆発四散する寸前、黒猫のいる前方へ圧倒的な暗き耀きを宿す魔力放射で威力を凝集、一条の光芒と化さしめる。

 

 黒猫が時折、少年を守る為に張っていた古代語の方陣は三枚。

 

 一枚目は穂先で穿たれ。

 

 二枚目は剣で裂かれ。

 

 三枚目は鏃に貫かれ。

 

 全ての威力が拳の纏う魔力によって化身の肉体へ直撃。

 

 恐ろしい威力に空間が撓んで西部上空を包むオーロラすらも常識では考えられない程の発光を記録し、巨大な威力の余波が100kmはあるだろう下層の分厚い大気を地面に押し付けた結果。

 

 大陸規模で気圧が上昇。

 

 様々なモノが影響を受けた。

 

『かかかか。そうかそうか。貴様、主神の加護を受けていたか』

 

『懐かしい。懐かしいぞ!! その白き輪……ああ、貴様は残っていたか。【懲罰者(オフルマズド)】』

 

『久しき世に旧知の顔。これ程に嬉しき事は無し』

 

『数多なる神々が億年を待たずして失せる中、それでも残り続けるは【大母子(フィリー)】顔負けよ。くくく』

 

 影達が追撃を掛ける事もなく。

 

 嬉しそうに唇の端を吊り上げる。

 

 黒猫の身体の前に肉体が入るくらいの白い輪が六枚浮いていた。

 

 その内の一つが全ての威力を留めた光球を輪の中心に保持しており、転移の燐光を伴って、何処へやら消え失せた。

 

 彼女の父、ランナが基幹異種との戦いにおいて使用した主神の憑依術。

 

 通常の人間なら、憑依する以前に主神の魔力の圧で蒸発しているところだが、黒猫は化身でありながら、軽々と降ろした神の能力を行使し、本星より遥か遠方、距離にして数光年先の宙域へ輪を投棄していた。

 

 爆発の余波が観測されるのは随分先になるだろう。

 

「マウ~~~マウマウ」

 

『良いだろう。それが付いていては攻撃など無意味だからな』

 

『我等では突破出来ぬか』

 

『ぬ? 【聖杯委員会(ペルスヴァル)】がもう少しで来るぞ。書架の方に反応が……はははは、あいつが悪態を付いておるわ。何だ……この新しいのはお前のか―――●●●●』

 

『五千年で随分と人も進歩したか。どうやら天蓋から見られているぞ。あれが贄か……やれやれ、御子は誑かされたと見える。これは……随分と愛らしい』

 

『くくくく。それが人の業よ。さもありなん』

 

「マゥ……」

 

 暢気な爺臭い影達に溜息一つ。

 

『さぁ、連れて行け。合格にしておこう。今のところは、な』

 

 面倒事になる前に色々と交渉が省けた事を確認して、クヲンが一声泣いた。

 

 すると、影達がすぅっと消えていく。

 

「マヲゥ~~~(汗)」

 

 そうして、何とか黒猫は事態を収拾したのだった。

 

 その夜、西部の天体観測マニア達は発狂したように空へ持ち得る限りの観測機器を向け、今世紀最大の人工流星群の騒乱を楽しみ。

 

 七教会観測部門七割の能力が突如として失われた。

 

 翌日、大陸中の新聞の一面を飾ったのは夜空に現れた光の饗宴。

 

 一部の天体観測者達が夜空に飛ぶ黒猫を見たと発言し、ゴシップ紙には『七教会、空飛ぶ黒猫に衛星を撃墜される。軍事観測能力への打撃目的か?』と乗ったが、それを真に受けた者は人類の極一部にしか過ぎなかった。

 

「マゥヲ~~~」

 

 夜空を駆けた黒猫が調査にやってきた複数の超越者達の目を逃れて、転移を封じられた宙域から自力で地上へ帰還したのは実に西部上空を八十七周した後。

 

 随分と久方振りの追い駆けっこをした末の事である。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。