※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第一章十七節

第一章十七節「適格」

 

「ティア!!」

 

 少年の姿が見えた途端、少女(イフィミスラ)は駆け寄って、その胸に飛び込んでいた。

 

「!?」

 

 天御門分家の離れ。

 

 所有者である紅亜は思っていた以上の喜びように思わず制止の声を掛けようとして、自制した。

 

「ちゃんとお姉さんしたよ。ティア……」

 

 ダークエルフの少女が続き。

 

「てぃあにいさま!」

 

 魔族の血を引く子もまた続く。

 

「みんな。少しは休めた?」

 

 何の心配もしていなかったと言わんばかりに先程の紅亜とのやり取りなんて無かったとばかり、頭を撫で抱き付いてくる少女達を代わる代わる抱擁する姿。

 

 自分には一切見せなかった輝くような笑顔を紅亜は悔しく思った。

 

「こ―――此処の離れは私の管轄ですので好きに使ってください。ただ、此処にいる間は節度を保って、馬車の中で行っていたような、あ、ああいう破廉恥な行為には及ばないよう」

 

 イフィミスラの手前。

 

 強くも出られない紅亜は少年に釘を刺した。

 

「十分だよ」

 

 少年は済ました顔で。

 

(く、この余裕……私はまだイフィミスラ様の信頼すら得ていない。何とかしなければ……)

 

 出された朝食が終わったのを見計らって少年を連れてきたわけだが、最初から少年に信頼で敗北した紅亜は荒れる内心を呑み下した。

 

 これから、たった半月、されど半月の時間が始まる。

 

 イフィミスラからの信頼を勝ち得て、正々堂々と残ってもらう為の勝負なのだ。

 

 此処で無様に怒った顔や拗ねた顔なんて見せられない。

 

 いつでもそれは同じ事だ。

 

 だが、少年への悪感情を見せるような事は避けなければ。

 

 そう紅亜は笑顔を保った。

 

「紅亜殿。ありがとう」

 

 イフィミスラが今まで向けてきたものとは違う素直な笑顔。

 

 それに離れの主は僅かに驚く。

 

「え、あ、いえ!!」

 

 その綻ぶような顔に思わず赤くなった紅亜は面映い面持ちで顔を伏せる。

 

(可愛い……このような笑顔を浮かべる方だったの? この男はこれをずっと浮かべられて……だから、あんなにも自信を……)

 

 それは男が女に抱く感情とは少し違った。

 

 胸が高鳴るだとかではなくて。

 

 愛おしいものを守りたいと思う気持ち。

 

 母性のような、妹を思う姉のような、それだった。

 

「ティア。それでこれからどうするのだ?」

 

「あ、うん。しばらくは紅亜にお世話になってゆっくりしようかなって。半月位したらまた出発する事になると思う」

 

「ちょっと待て。こちらへ来い」

 

 それを聞いて、離れの中で宛がわれた最上級の客室の端にイフィミスラは少年を連れて行く。

 

「(良いのか? 聖女と戦ったという事は七教会はすぐにでもやってくるのではないのか?)」

 

「(紅亜に迷惑は掛けないよ。例え、また七教会の部隊に捕捉されたとしても、あっちにしてみれば一般人を巻き込んでの戦闘はまずない。半月くらいなら見付からないと思うし)」

 

「(ん、んむ。分かった。では、しばらくは此処にいるのだな?)」

 

「(旅の疲れを癒すといいよ。みんな色々あって疲れてる。イフィミスラだって、少しはのんびりしたらいい)」

 

「ティア……そうか。なら、そうしよう……」

 

 ひそひそと少年と二人でやり取りしていたイフィミスラがクルリと紅亜に向って振り返る。

 

「紅亜殿」

 

「は、はい。何でしょうか? イフィミスラ様」

 

 何を囁き合っているのか内心気が気ではなかった紅亜は思わず教師にするような返事をしていた。

 

「今日から此処にお世話になると聞いた。此処はそなたの城。そなたが主だ。だから、我はそなたに敬意を持って…此処に住まわせてもらう身として、言わなければならないと思う」

 

「は、はい」

 

 サッと紅亜の前の来たイフィミスラがその目前で正座すると三つ指を突いて深く頭を下げた。

 

「これからの半月。よろしくお願いする」

 

「イフィミスラ様!? お顔を上げてください!!! こ、こちらこそ!! 貴女はお客人なのですから!!」

 

「うむ。では、これから共に住もうぞ。紅亜殿」

 

 立ち上がって頷いたイフィミスラが笑みのまま手を差し出した。

 

 慌ててその手を取って紅亜は「柔らかい」と内心で感想を持ち、ブンブンとその煩悩のような思考を打ち消した。

 

 二人の様子を見ていた他の少女達は少年に頷かれて、今まで大人しくしていたのが嘘のように、その幕間の休息を愉しもうと少年にベッタリと引っ付いた。

 

「な、何をしているのだ!!? もう少し女ならば慎みを持ってだな!!」

 

 エフィリムとナーリャの抜け駆けに慌てたイフィミスラが手を離して、自分も同じように少年の方へ駆けていく。

 

 不意に離された手が何だか寂しくて。

 

 ちょっと情けない顔で紅亜はイフィミスラを見つめた。

 

(絶対に貴女を保護してみせる。貴女のような人が旅などで失われるなんて、私は……)

 

 それから紅亜は少年との道中で考えていた幾らかの計画を遂行する為、後ろ髪を引かれながらも、ぐっと堪えて、その場を後にした。

 

 *

 

 学徒憲兵隊の本山。

 

 その学び舎でもある隊舎で天御門青嵐は姉が上手くやっているだろうかと気にしつつも、常の業務に励んでいた。

 

「天御門上級曹長。近くの山岳に沸いた【湧魔(ふつま)】が予想以上に周辺の家畜を食い荒らしているそうです。今後の対策として分隊長が言われていた通り、討伐部隊を編成して派遣するのが妥当だと思われますが、その、現行の経常されている予算の事でお話が……」

 

「あ、はい! それはですね」

 

 空を見上げていた青嵐はそれでもハキハキと業務をこなす。

 

「あ、天御門上級曹長。今日の朝、天御門分隊長が四人分の転校届けの申請を行ったのですが、特別事案として理事である天御門家の印が必要だとか」

 

「家に行ったらまたすぐに帰ってくると言っていましたから、もう少し待ってあげてください」

 

「あ、はい。それと【幽国の士】がまた都の南部でビラを」

 

「それは後で会議に掛けます」

 

「天御門上級曹長。その…お客様がお見えになっています」

 

「え? 今日は何方からの会談要請も無かったはずですが……」

 

「いえ、それが……」

 

 業務机の上で書類を書いていた青嵐にその学徒がひそひそと呟く。

 

「そうですか。では、すぐに行くので“外”で待たせてください」

 

「い、いいのですか?」

 

「ええ、構いません。すぐに行くんですから」

 

 書類を終わらせて。

 

 青嵐が外套を着て、常とは違う鉄面皮の如き顔で廊下に出る。

 

 青嵐の顔に周囲の学徒達は自然と割れて道を作る。

 

 校舎外。

 

 一台の牛車(ぎゅうしゃ)が止まっていた。

 

 大陸中央式の校舎には場違いな車両。

 

 しかし、それに乗る事を許されたものは例外なく貴人。

 

 乂羅の中でも一握りだと学徒達は知る故に遠巻きにするか何も見なかった事にして去っていく。

 

 牛者の前に立った青嵐が何の感情も浮かべずに片膝で傅いた。

 

「【土御門(つちみかど)】本家がこのような下人達の住まう場所へお越しになるとは光栄の極み。【天御門(あまみかど)】家の者として深くお礼申し上げます」

 

『ほほほ、そのような礼は不要ぞ。久方ぶりであるな。天御門青嵐』

 

 御簾の中からナヨナヨとした男の声がした。

 

 今にも斬り掛かりたい衝動に駆られながらも青嵐は無表情で立ち上がる。

 

「それで今日は何の御用でしょうか? 土御門片春(つちみかど・かたはる)様」

 

『いやな。風の噂を耳にしたのよ。天御門の分家筋が“えるでなんど”の残骸を手に入れたとな』

 

「残骸?」

 

『そなたは知らぬか? それとも惚けているのか。はて……まぁ、良い。あの女男(おんなおとこ)に伝えるがいい。そなたに子が出来ず、血の定めの通り女子となるならば、我が妻として、そのホト使ってくれようぞ、とな。ほほほ』

 

 ギリッと唇の端を噛んだ青嵐が頭を下げる。

 

『ああ、それと土御門の子を一人そちらにやる。好きに使って構わぬぞ。まだ幼いが穴は使えよう。その内に孕ませられるなら、悪い話でもあるまい。まぁ、分家筋に分家筋を宛がうのは常道。せいぜい、我が本家筋の役に立って貰わなければなぁ。これで話はお終いじゃ。では、明日にもやるからの。迎える準備でもしておれ』

 

 牛車が周辺の従者達に従って向きを変え、ゆっくりと遠ざかっていく。

 

『あの時、大人しく土御門の門を潜っておれば良かったものを……兄妹二人。いや、姉妹二人で支えられる程分家筋の名は軽くないぞ。青嵐』

 

 捨て台詞を残して去っていく牛車の主をどうにかしてしまいたい衝動に駆られながらも、青嵐は努めて動かず。

 

 その車輪の音が消えるまで歯が欠けそうなくらい苦さを噛み締めていた。

 

 つぅっと一筋の赤が唇の端から流れ落ちる。

 

 それに気付いて拭おうとした時、学徒達がドッと押し寄せた。

 

『大丈夫ですか!? 天御門上級曹長!!』

 

『おい!! 救護班を呼べ!! 天御門上級曹長が名誉の負傷だ!!』

 

『何を話していたのか知りませんが、我々は青嵐曹長の味方ですから!!!』

 

 わたわたと慌しくなる周辺に青嵐が目を見張る。

 

「皆さん……」

 

『すみませんでした!!! 天御門上級曹長が苛められているのをオレ達は黙って見ているしか……』

 

 心配そうな仲間達の顔に青嵐は赤く濡れた口元を緩ませていた。

 

「いえ、心配なさらないで下さい。これでも鍛えていますから……それと今日は早退させて下さい。やらなければならない事が出来たので」

 

 周囲を心配させまいと笑顔で受け答えする青嵐の目に校門前の姉の姿が映る。

 

「青嵐。何があった?」

 

 駆け寄ってきた姉に青嵐はいうもの柔和な顔で応じた。

 

「いえ、今さっき“蛙(かわず)”が一匹迷い込んできて、それで明日には人一人家に寄越すとか」

 

「かわず? まさか、土御門家の!?」

 

「お姉様。そう驚いた顔をしないでください。分隊長がそのような様子では他の者達まで不安になります。とりあえずは明日にもお迎えする方の為にも準備を」

 

「そうか。済まない……青嵐」

 

「いえ、妹として当然の事をしたまでです。早退の申請をしたら、今日は上がりますので。お姉様は通常通り業務をこなしてください」

 

「いや、だが、一緒に」

 

「お姉様。イフィミスラ様でしたか。あの方の事もあるのですから、ご無理は禁物です。それにあちらが人を寄越したのはお姉様の動向を見ていたからのはず。此処で隙を見せては」

 

 青嵐は姉が現在何をしようとしているのか朧げながらも理解していた。

 

 だからこそ、それ以上の負担は掛けられないと申し出を断った。

 

「ん、迷惑を掛ける青嵐。分かった……では、私は通常通りの業務に戻る。後の事は任せた。今日は早めに帰るから……」

 

 敬愛する妹に背を向けた紅亜は堂々と常の如く隊舎へと入っていった。

 

 その内心が如何用であるか察して。

 

 それでも後姿は眩く青嵐の目には映る。

 

 分家筋の一家とはいえ、今や当主として全てを背負う姿。

 

 多くの者に慕われる姿。

 

 それは青嵐にとって何よりも誇らしい姉の姿だった。

 

(お姉様……信じています。お姉様が何者にも打克つ事を……)

 

『……』

 

 学徒達はそんな二人の光景に心を新たにする。

 

 必ず気高い姉妹を守り通そうと。

 

 天御門分家の遺宋での評判は常に二人の姉妹愛と言うべき姿にこそあった。

 

 *

 

 陽気に当てられた場所で人々の因果が回るように。

 

 木陰に遮られてた場所にも人々の因果は回る。

 

 遺宋南部牧草地帯。

 

 丘陵部に設けられた複数の牧場は近頃出ている被害に頭を痛めていた。

 

 魔族の達の住まう“あちら側”からの影響、【魔匝窟(ルドゥラム・ラクム)】と呼ばれる野生の動植物達が変異する現象は乂羅においては【湧魔(ふつま)】湧き出る魔と呼ばれてる。

 

 家畜達の悲鳴は毎夜毎夜。

 

 明け方に見付かる死体も幾多幾多。

 

 その最中。

 

 行方不明の家畜を探して牧場の娘が一人、近くの森林へと迷い込んでいた。

 

 朴訥な顔をした娘だった。

 

 雀斑(そばかす)を残した顔。

 

 家畜の世話でよく水を使う手は皸(あかぎれ)が残っている。

 

 オーバーオールのような形をした薄い麻布の繋ぎを着て、少女は森の中に木霊する声に脅えていた。

 

(怖い…怖い…早く森から出なきゃ。早く、もう何日経って……)

 

 来た方角は大よそ分かっている。

 

 草木に足を取られながらも彼女は外を目指した。

 

 その森に来た時と同じように。

 

 狭いはずの森から抜けられないという現実など忘れたように。

 

 逃避するように。

 

 あの温かい家庭を、目指して。

 

 あの温かな暖炉を、良心を目指して。

 

(何日? いえ、何時間。それとも何分。あれ…わたし…いつから……)

 

 不意に彼女は頭痛を覚えて、倒れ込んだ。

 

「え?」

 

 異色。

 

 もしも、それを呼ぶなら、そうとしか言えない。

 

 自然界には存在しない混合する多数の色が彼女を捉えていた。

 

(あ、れ……?)

 

 捕えられた瞬間、既に彼女は人という器官の塊から、何か別の器官の塊へと変質している。

 

(な…に…へん…なにが……?)

 

 人間の基礎たる螺旋階層(DNA)の歪曲。

 

(あれ…いろ…へん…なに…いろ?)

 

 大脳の一部が変質した血液と肉体からの信号で強制的に生じた色覚異常に悲鳴を上げる。

 

(おかしぃな…何…な…に…が…おか…しい?)

 

 彼女の脳に“ソレ”が認識された。

 

(こ…いぬ?)

 

 獣のようなもの。

 

 いや、異色の獣。

 

 本当の色は何色か。

 

 彼女には分からなかった。

 

 一つだけ確かなのは彼女の人生はそこで終わりだという厳然たる事実だけ。

 

(こいぬ…わん…わん?)

 

 唸り声がして。

 

 彼女の足を捉えていた獣の前足が浸食を開始する。

 

 ズギュン。

 

 何かが飲み干される音。

 

 彼女の命とも言うべき血液。

 

 彼女の命とも言うべき筋肉。

 

 それが融けた獣の前足へと流れていく。

 

 引き抜かれていく。

 

(一杯…へん…なの…あはは……)

 

 壊れたか。

 

 あるいは諦観か。

 

 彼女の前にはもう幾つも幾つも異色の獣と同じモノが見えていた。

 

 それこそ彼女の視界にはもうそれ以外がない。

 

 嗅覚までやられたか。

 

 甘く芳しい匂いが辺りに立ち込めて、彼女はそれが獣達の股間から漂ってくるものなのだと知った。

 

 今正に人間から人間のような何かとなっていく彼女は自分が最後にただの化け物となる事に気付きながら、魂さえ変質する陶酔の中で―――。

 

 ザクンと足を絶たれた。

 

 意識を失った彼女の身体は力を失い。

 

 今正に変質しつつあった餌との繋がりを前足と共に失った異色の獣は絶叫を喉から迸らせる。

 

 上からだった。

 

 鈍色の刃が子犬とも邪悪な怪物とも付かない戯画化されたように全身が歪んだ獣の首を絶つ。

 

 全てが異常な色彩に囚われた魔の森。

 

 その只中で現実を現す唯一の剣が引き締まった右手によって引き抜かれる。

 

「仇なす獣よ。この刃を恐れぬならば、来るといい。こちらにはお前達を斬り伏せる準備がある」

 

 柔らかな金髪。

 

 男は優男と見える。

 

 しかし、気配に気圧された獣達は一瞬だけ総体として思考した。

 

 数のままに押せば食い殺せるかと。

 

 傷付いた獲物を守りながら戦うだろう目の前の男を食い殺せるかと。

 

(まずは手当を……)

 

 人間のような何かになってしまった少女の左足から血が広がっていく。

 

 それに一瞬だけ気を取られた優男に獣達が隙有りとばかりにその牙を剥き出しにして全方位から襲い掛かった。

 

 その中には少女へ向かう個体もあった。

 

 男がその個体を剣で絶つ間に一匹でも首を食い千切れれば、それで詰み。

 

 獣達の勝利は揺るがない。

 

 そう、見えた。

 

「愚かな」

 

 呟く間すらあるというのか。

 

 男の手が剣を振り、回さなかった。

 

 獣達が我先にと互いにギュウギュウと押し合いながら二匹の獲物に噛み付いた。

 

 トラバサミを数十鳴らしたような音。

 

――――――?

 

 獣達は刹那思う。

 

 この血の味は果たして人間の味だっただろうかと。

 

 そして、気付く。

 

 自分達の仲間の一個体に至るまで上下左右前後バラバラに見えている不思議を。

 

 角膜がズレて。

 

 思考を維持していた脳の断片が噴出した血に没し。

 

 未だ獲物を捉えていた眼球だけが見ていた。

 

 全方位から向かって行った獣達の血の一滴、体液の一滴すら、優男と少女を中心とした円の中に入ってはいない事を。

 

 まるで中心から爆風に煽られたように全てが外向きに散っていく。

 

 バラバラになった体の欠片。

 

 歯の一本。

 爪の一つ。

 

 何が起こって自分達は細切れになったのか獣達は理解しない。

 

 剣で斬られたのではない事だけは辛うじて理解したものの、それ以上の思考は生物の定めの通り、死を持って許されなかった。

 

「ふぅ」

 

 溜息を吐いて。

 

 優男は少女の血が抜けていく足に自然と手を当てていた。

 

(これでいい。だが、私は何処でこんな事を学んだ?)

 

 疑問が脳裏を掠めたものの、男はそれを振り払って、雇われた牧場主のところまで少女を運んでいく。

 

 森は実はそう深くなかった。

 

 せいぜいが1km。

 

 その程度の範囲にしか木々はない。

 

 それでも犇めく獣の臭いは隠しようもなく。

 

 優男の背後を無数の瞳が見つめていた。

 

 視線を意に介さず森を抜けて十数分後。

 

 何処にでもいる旅の傭兵を彷彿とさせる姿の優男は目的地に到着した。

 

 それを見て走ってきた壮年の男女が一組。

 

 道の途中で待っている優男には駆け付けてくる二人の顔が少しずつ絶望に代わっていくところが容易に見えた。

 

 もう嘗ての少女の面影はない。

 

 生成りとも言うべき額には丸みを帯びた角らしきものが生え掛け。

 

 犬歯が開いた口元からは覗き。

 

 獣に浸食された脚部付近からは尻尾のようなものが伸びており、人間の耳の上、頭部には二つの三角系のソレがピクピクとしている。

 

 途中で浸食が止まったとはいえ。

 

 顔付きも鋭くなり、雀斑(そばかす)も失せた彼女に嘗ての面影は見出せない。

 

「あ、あんた…そ、それは…本当に娘、なのか?」

 

「獣に浸食されながら食われ掛けていたので応急処置はしました」

 

「ぁあ、そんな?! そんなぁ!!?」

 

 女が泣き崩れ、夫の胸に顔を埋める。

 

「……本当にそれは、娘、なんだな?」

 

「衣服を確かめられればお分かりになるはずです」

 

「そうか……」

 

 男が暗い顔を俯けさせた。

 

「では、これで依頼は完了しました。娘さんの足の事は残念ですが、そう気を落とさず。命があって帰ってきた事を喜んであげてください」

 

 牧場の方へと少女を運ぼうと歩き出した優男の腕が掴まれて、止められる。

 

「どうかしましたか?」

 

「……代金は払う。それで少し相談が……」

 

「いえ、代金ならば少額でも娘さんの生活にこれから必要で―――」

 

 男が妻を片手で抱きつつ、懐から皮袋を取り出して、優男に押し付けた。

 

 その金額は最初に依頼を引き受けた時よりだいぶ多い。

 

「これで娘を楽にしてやってくれ」

 

 一瞬、呆気に取られた優男が驚きに固まる。

 

「何を!!?」

 

「この集落では……魔に堕ちた者は処分する……掟だ」

 

「あなた方の娘さんなんですよ!?」

 

「分かっとる!!!? 分かっとるとも!!!? だが、こんな姿では此処では誰も暮らしてはいけん!!! 傭兵さん!!! あんただって分かるだろう!!! その姿のまま生きていれば、やがて集落に禍を齎す!!! 一族がこの地で暮らす事すら儘ならなくなるんだ!!!」

 

 興奮して目を赤く泣き腫らしながら。

 

 男が金貨の袋を優男にグイグイに押し付ける。

 

「これで娘を楽にしてやってくれ!! 森の中ならば、獣達が後片付けはしてくれる!! どうか、どうか!! お願いだ……妻にもうこれ以上苦しい思いは!!!?」

 

 妻が完全に泣き叫び始める。

 

 男すら泣いていた。

 

 ボロボロとボロボロと。

 

「私は……」

 

 怒り。

 

 振り上げた拳の置き所が失せた。

 

 大の男がオイオイと泣いている。

 

 その姿に優男は言える事なんて無かった。

 

 もし、断れば男は他の者に頼むか自分でそうするだけだろう。

 

「分かりました。ですが、代金は最初の額で結構。では、これで」

 

 落ちた皮袋の中から金貨を規定の枚数拾い上げ。

 

 気を失った化物の少女を自分の外套に包んで優男はその二人に背を向けた。

 

 元来た魔の森の横を抜けて一時間程歩く。

 

 歩いている最中、足を失った少女の傷口には手が当てられていた。

 

 見る者が見れば、それは治癒魔術の一種と気付いただろう。

 

 傷を塞ぎ、“血返し”という高度な魔術まで自然と行っている事に驚いたかもしれない。

 

 しかし、優男は己の手の無力さに惨憺たる気分になりながら、少女を見つめた。

 

「何とこの手の無力な事か。彼女にもどう言っていいのか。この身が完全であったなら、君の事を説得する事も出来たのでしょうか……」

 

 答えは返らず。

 

 二人は日が中天に差し掛かる頃、普通の森の一角へと足を踏み入れていた。

 

 近くを通る小川の端に焚火の跡が一つ。

 

 刀が風を切る素振りの音がして、足音に止んだ。

 

「ただいま帰りました」

 

「その子は?」

 

 声に応えたのは一人の少女だった。

 

 優男と同じ獣の革が使われた一般的旅人の装束。

 

 しかし、その中身は衣装とは不釣り合いな程に涼やかだ。

 

 褐色より少し赤み掛かった髪は女として大陸の一般常識より聊か短い。

 

 凛とした大きな瞳と長い睫。

 

 特にその眼球の宿す蒼は少なくとも男が今までに見た中で最も美しい。

 

(怒っては、いないな……)

 

 その涼しい目元は大陸北部の者に特有な潔癖さを宿している。

 

 眉間には皺。

 

 それは怒りや不機嫌の為というよりは常の表情として固まった少女の基本的姿勢に見えた。

 

 小さく整った鼻梁、顎の線は細く。

 

 澄ましていれば、見目麗しい若い軍属とも思える。

 

「仕事中に助けたのはいいのですが……」

 

 素振りで掻いた汗に濡れた喉元から僅か見える鎖骨が優男を何か見てはいけないようなものを見ている気分にさせた。

 

「という事はその子が依頼の?」

 

 無表情という表情で少女が軽く優男に尋ねる。

 

「はい。でも、この子の姿を見て先方が殺せと……それで……」

 

「連れてきた?」

 

「出来るなら、何処か暮らせる場所を探してやりたいと思い……」

 

「好きにしてください」

 

「いいのですか?」

 

「己の事一つ分からない自分にその子を救う資格があるのかという意味ならば、貴方はその子を連れてきた時点で全て覚悟しているはずだと答えましょう」

 

 的確な指摘だった。

 

 優男は確かに何を言われようと少女を救ってやりたいと思った。

 

 思って、連れてきた。

 

「やはり昔からの友には、貴方には何も隠せないようです……」

 

「まずは足を治療するところから始めます。全てはそれから考えても遅くない」

 

「分かりました。サヤトネ」

 

 優男、マロウと呼ばれた男はそっと川岸の大きな岩に化物の少女を寝かせる。

 

「これから処置します。後ろに下がっていてください」

 

「どうやって治療を?」

 

「貴方に施したのと同じ要領です」

 

 言っている間にも大岩に寝かせられた少女に向けて、サヤトネと呼ばれた少女が腰の刀を引き抜いた。

 

「貴方の大ケガを治療した時と同じ方法ですから記憶は消えるでしょうが、基本的な知識はそのままとなるでしょう。どうしますか?」

 

 サヤトネが何を聞いているのか理解して、それでもマロウは今この段階でそれ以外に少女を共に連れて行く方法がないという事を、自分がどうにも出来ないのだという事実を深く心に刻んだ。

 

「この子も今はその方がいいのかもしれない……今だけは……」

 

「その内に少しずつでも記憶は戻るでしょう。貴方に行った程でもないので」

 

「そうですか……」

 

「気になりますか? 過去が」

 

「はい。ですが、私は生きている。生きて、此処にいる。それだけでも貴女に感謝するべきだ。例え、全ての過去が失われていても」

 

「では、始めます。最初に言っておきますが、あくまで傷を治すだけです。それ以外は治りません」

 

 刀がまるで祭事のように何度か振られる。

 

 ギィィンギィィン。

 

 何かが刃を振るわせるものの、その何かをマロウが見る事は無かった。

 

 数秒後。

 

 マロウが目を瞬かせる。

 

「これが私を治した……」

 

 少女の足がまるで復元されたかのように元通りになっていた。

 

 血の跡はあるものの。

 

 それでも靴ごと失われたはずの片足が繋ぎの端から覗いている。

 

「しばらくすれば目を覚ますでしょう。後の事は自分でやってください」

 

「分かりました。ありがとう。サヤトネ」

 

 眉間の皺が更に深くなった。

 

「女一人を世話するのに緊張の欠片もありませんね。マロウ」

 

「それはどういう?」

 

「化物の扱いならば慣れてもいるでしょう。人を救うならば覚えもあるかもしれない。でも、女を世話するのは一長一短で出来るものではない。そういう事です」

 

「一つ目覚めてから聞きそびれていましたが、私に……その、そういう人はいたのか。どうか教えてくれませんか?」

 

「貴方は女のおの字も知らない男で女に言い寄る事もない清廉潔白な人物でした。ええ、本当は男の方が好きだったのかもしれないくら、ごほっ」

 

 その冗談だとしても確かめようも無い空恐ろしい言葉に反応するより先にふらついたサヤトネの身体をマロウが抱き留める。

 

「大丈夫ですか!?」

 

「えぇ゛、少し喉が、しばらく休みます」

 

 マロウの手を押し退けて、サヤトネが近くの樹木に背を預けながら座り込む。

 

 声が嗄れるところはマロウも何度か見ていた。

 

 しかし、それは明確に何かしらの力。

 

 マロウには未だ理解出来ない超常の力を振った後。

 

(私の時もああして……)

 

 自分を治す為に喉をどれだけ痛めたのか。

 

 そう考えてマロウは目覚めた時、傍らにいた少女の優しさを思った。

 

 首に包帯を巻いて。

 

 嗄れた声で状況を説明した少女。

 

 混乱するマロウを世話した少女。

 

 もし、彼女がいなければ、彼は途中野垂れ死んでいてもおかしくはなかった。

 

(もしかしたらサヤトネ……貴女が私の……)

 

 そんな他愛ない事を思いながら、マロウは一人少女を世話する為の食糧や水の確保へと動き出した。

 

 彼らがその場を後にしたのはそれから二日後。

 

 奇しくもそこに三日後、学徒憲兵隊が陣を張る事になる。

 

 その符合に気付く者は無く。

 

 紅亜のイフィミスラを説得する作戦は密かに少年少女を巻き込んで始まった。

 

 惜しむらくは彼らの邂逅の有無ではなく。

 

 能力の殆どを一人の男に費やして復活を防いでいる少女の献身。

 

 それが少年に伝わらないという事実だった。

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