第三章八十九節「祭忌禁交ⅩⅠ」
―――アルヴァス亜人国首都ハガス北部【空白の塔】。
結論として言えば、彼らが昇ってきた塔の内部に虎の獣人が求めた相手は存在しなかった。
記憶も不確かな家族。
そんなのは初めからいないのだと言わんばかりに出てくるのは化物、化物、化物のオンパレード。
屍蝋の仮面。
それも人ではない無機物の家具や小物が生物のように襲ってくるという非常識な事態。
襲われながら道の先に向かう彼ら、虎男と老人は何処まで行っても切りが無さそうな迷宮の奥へ奥へと進み続けていた。
周囲は紫の壁と柱に緑の色彩を用いた奇妙な図。
そして、金色の修飾が施されている。
城というよりは迷宮。
塔というには広過ぎる。
そんな場所は行き止まりこそ無かったが、上に昇る階段を見つける度に家具の化物に襲われる危険地帯(デンジャラス・ゾーン)。
幾度となく。
その爪を振るい続けた虎男はこれで四十二回目になる階段を前にして、さすがに疲れを隠せず。
柱へ凭れ掛かるようにして座り込んでいた。
「だらしないぞ?」
「人間のクソジジイに言われるよになっちゃ、お終いだな……はぁはぁ……っく」
男が顔を歪める。
「まぁ、一般人にしてはよくやった方か。お前さん。北部の端っこ辺りの秘境集落の出じゃろう?」
「―――だったら、何だ!?」
思わず男が歯を剥き出しにした。
「人間に狩り出されたのは知っとる」
「なら、何だってんだ?!」
「一つだけ朗報をやろうかと思ってな」
「朗報だと? 人間が、何の冗談だ。故郷が甦ったとでも言うつもりか? あ?」
「いいや、お前さんらを狩った奴等は一人残らず逆に狩られた。ま、因果応報というやつか」
「何だと?」
「【騎士国(ヴィーリア)】の怒りを買って、皆死罪。二度目に新しい集落を襲う最中に悪・斬・酷の精神に乗っ取り、じっくり人の持つ恐怖の限界を味わいながら、償ってもらった」
「貰ったって。あんたがやったわけでもあるま―――」
「指揮をしていた。まぁ、美しさの欠片も無い人間に生きる価値なんぞ認めなかっただけだが」
「……クソジジイ。一体、あんた……」
虎男が思わず老人に複雑な視線を向ける。
「怪しんでいるなら、魔術で見せるか? 人に近しい精神構造を持つ者にはまるでお勧め出来ないが」
「そんなに言うなら、見せてもらおうか。それが嘘か真か」
「物好き過ぎるな。ちなみは腹は空っぽか?」
「ああ? いいから、見せてみろよ!?」
「分かった。ほれ」
不意に男の前に複数の画像が浮かび上がる。
「―――?!!!?」
ゴボリと異から逆流した胃液で嘔吐いて。
男は大いに咽(むせ)た様子で口元を片手で押さえる。
「こ、これが連中だってのか?! クソジジイ!!?」
「言ったろうに。お勧め出来ないと」
「お前……本当に人間か?」
「神に最も魂を望まれた男とはこのクソジジイの事だ。まぁ、芸術の神と槍の神の他に危ないのからも目を付けられてるのが近頃の悩みか。まったく……終活しとったら、魂活までやれってな話だ。やれやれ」
虎男の目の前に映し出された画像。
其処には“人間だったもの”が映っていた。
大きな血管を傷付けないように生きたまま解体された何か。
その丁寧で丁重な腑分けとすら見紛う状態で体を立体というよりは極限までペラペラにされた何者かの顔は恐怖に歪んだ筋肉と骨の塊……少なからず人間らしい最後とは縁遠い姿で。
常人が見たならば、吐き気と共にその恐ろしさに腰を抜かすだろう。
「騎士は人格的に清廉である事が求められるが、同時に悪へ対して苛烈である事も求められる。それは単なる暴力ではなく。畏怖という感情を相手に叩き込む事が出来るかどうか、という事だ。お行儀の良い騎士道は表向きの正道ではあるが、かと言って、それでは悪を萎縮させる事が出来ない。悪党がくたばるのを最大限に利用するのなら、恐怖を与える為に使うべきだ。というのがウチの方針でな」
「……狂ってやがる」
虎男が渋い顔で吐き捨てる。
「それこそが我らにとって最大の賛辞と言える。【騎士国(ヴィーリア)】の男は常に弱き者、幼き者の守り手と成りて、悪に絶対的な忌避と恐怖を与える事を慶びとするのだ」
「騎士国の騎士か。あんた……」
「ああ、異種だろうと神だろうと亜人だろうと魔族だろうと等しく悪人ならば震え上がるだろう人間よりも怖ろしい人間、悪魔より恐ろしき悪魔とは、我々の事だ」
「それで、どうしてこんなところにその騎士様とやらが来た?」
「この世、全ての悪を平らげ、人々に仇成す何もかもを退けん。そう、若い時分には実力と綺麗事だけを信奉し、おちゃらけ、楽しく過ごせたが、人の上に立つようになれば、そればかりというわけにもいかない。人生最後の祖国と人類への貢献というやつさ」
ニヤリと老人が笑う。
「ご大層なこって」
「何、お前さんの家族探しと然して変わらん。有ろうと無かろうと進んだ道の先に自分が為すべきと信じられる事があって、まだ生きている。ならば、どうするかは決まったも同然だろう?」
ようやく虎男が疲労から幾分回復した様子で立ち上がる。
「一緒にするな。同族殺し」
「開き直る気は無いが、その通りではある」
「オレは……オレの家族はいる……いるんだよ……」
拳を握った男がまだ見ぬ階層の上へと視線を向けた。
「戦え。お主に出来るのはその程度だ。こちらもな」
その時、階段の上から何かが老人の背中に飛び掛ってきたが、それを見る事もなく。
老人の槍が背後に突き出されて横に振られ、ソレが真っ二つとなって霧と化した。
その流麗なる槍捌き。
見惚れる程に違和感の無い姿。
余裕。
いや、老人の有様はスッキリとして明白。
まるで舞台の役者さながらに槍を片手に歩き出す。
「さあ、行こうか。戦いはまだ始まってすらおらん」
「ああ、そうだな。クソジジイ」
老人と虎男が次の階層へと上がった途端。
化物に囲まれ、その乱杭歯、顎、禍々しい爪が襲い掛かる。
しかし、飛び上がる男と老人は背中合わせにその猛攻の最中へ身を捻じ込むようにして突撃していった。
正しく無謀。
正しく無策。
しかし、正しく彼らは正しい。
何故ならば、彼らに出来るのはそれだけだ。
突撃し、戦い、道を空けて、進む。
それ以外に無いならば、それだけでいい。
虎の爪が閃けば、なます切りとなった化物達が霧と溶け。
老人の槍が煌けば、化物達が音も立てずに横一線にズレる。
駆け抜ける嵐の如く。
再び、塔の内部。
二人が通った後には霧が溢れて渦を巻く。
豪快な爆砕音と共に頭上の階層が中央部分に雪崩を打って落ち始めたのはそんな時だった。
瓦礫が濁流となって下層に飲み込まれていく最中。
彼らは上の階層で何かが起きている事を知り、その中央に開いた上階へ続く孔へと同時に飛び込んだ。
もう二人の間に声は無く。
また、瞳も交わらず。
戦いのある方へ引き寄せられていく。
既に語る事は互いに尽きていた。
*
悪趣味な城とも見紛う塔の最上階。
其処に彼らドゥーズ一行は辿り付いていた。
その内部は外側が見える前面硝子張りの柱一つ無い区画。
広大な領域の中央に開いた大穴から飛び出した三人が見たのは透明な壁際にある小さな家具。
それは煤けた桜色の粗末な木製の椅子だった。
それ以外には何も無い。
悪趣味な色合いの天井と床があるだけで、人影すら存在していなかった。
「これは……」
ドゥーズが左右に抱えたイクスと璃紗を下ろして、その壁際にある四足の椅子を見つめる。
「たぶん、鍵はアレです」
「……我輩が此処は―――」
「いえ、僕が」
赤鬼の前に少年が出る。
「いいのか?」
「後でエンシェンに泣かれるよりは何故行かせなかったのかって怒られた方がマシだと思いますから」
苦笑しながら娘の事を親身に語る少年。
その背中に言いようの無い複雑な感情を抱いて。
それでも今は力を借りるべきだと合理的な思考でドゥーズが頷いた。
「分かった。君に任せる」
「はい。璃紗を頼みます」
「ああ」
そうして、少年が少しずつ近付いていく。
その距離が残り数mを切った途端だった。
大きな花火が上がり。
その輝きが硝子越しに椅子を照らし出して。
―――初めて何かを綺麗だと思ったんだ。
「!?」
少年が目を細めて立ち止まる。
椅子がゆっくりと膨れ上がっていく。
―――お父さんが買ってくれたお気に入りの椅子。
茫洋とした少女の声が何処からともなく響き。
桜色だった椅子の表面が変色して床や天井と同じ紫に染まり、金の刺繍が施された。
―――それに座りながら、お兄ちゃんと氷菓を食べたの。
円筒の四足の根元から白銀の折れ曲がった釘が何本も迫り出し、まるで口のように形成されていく。
「イクス!!」
「大丈夫だよ」
後ろから璃紗の叫びを受けつつ、少年は手の甲に刻まれた方陣を光らせ、蒼い鞘に納まった剣を掴み取った。
―――綺麗な花火を見ながら、こんな日が続けばいいねって、笑ったの。
少女の声は静かに最後呟くようにして消えた。
残された椅子と釘の口で構成された化物の背凭れ。
そこに屍蝋の仮面らしきものが浮き出る。
曰く。
【記憶(レテンティオ)】
その四足がグニャリと曲がって、ガンガンと床を踏み鳴らす。
すると、床からぬぅぅっと屍蝋の仮面が複数湧き出し、その塔内において虎男と老人が退け続けてきた家具の体を露わにしていく。
テーブル。
クローゼット。
ベッド。
他etc。
しかし、その大きさは明らかに下層で倒されたものとは違い巨大だった。
白銀の釘があちこちから迫り出し始めた化物達を引き込み、まるで人形のように自己を形作っていく。
「イクス!? ソレがこの塔の中心になってる!!」
「って事は、これを倒せば、何か起きるって事でいいのかな?」
「う、うん!! でも、気を付けて!! このお城って言うか。塔全体が何か今、蠢いてて、変になってる!!」
「分かった」
少年の前でようやく姿を現したのはまるで子供が気紛れに作ったような、適当な造型の人型。
それでも少年は相手が相当にまずい部類の相手だと肌で感じていた。
前回の一件で体は確かに強固となったが、だからと言って完璧なわけでもない。
対抗試合で獣人の教師に腕を折られた時の事を思い出せば、屍蝋の仮面に常勝出来る強さとは程遠いだろう。
キチキチと金属の擦れる音。
対峙した少年が剣を鞘から引き抜くよりも先に10m程まで巨大化していた化物が動いた。
猛烈な雄叫びとも金属の摩擦音とも付かない音色が響き渡り、突撃してくる相手を前にして、少年は柄を握り、鞘を握り、体を低くして構え、腰を捻り、相手の中心に向けて、抜き放つ。
居合い。
剣で再現するには聊か苦しい技だったが、肉体の大半の懸念が解消された現在。
それを使わない理由は一切無かった。
大物相手に変則的な技として幾つか叩き込んだ経験はあるものの。
純粋に速度を重視したのは初めてだろう。
鞘の内部で積層魔力を塗布(コーティング)された四種のマーブル模様の剣身が拳銃から弾丸が押し出されるのにも似て激発。
同じく魔力で守られた内側との間に生じる膨大な圧力を受けて射出。
その恐ろしい衝撃の全てが魔力も使っていない少年の肉体のみで御され、軌道を滑らかに変えられながら、刹那の斬撃として敵を横一線に凪払う。
「閃剣が奥義の一つ。【駆斬(くざん)】」
剣身が鞘に収められた。
真横に斬撃の痕を刻まれた【記憶】の動きが停滞し、そのまま霧と化すか。
そう思われた次の瞬間。
ガヂュガヂュと肉を金属が食うような音と共にその傷を銀の釘が縫い止め、突撃を再開した。
互いの間合いは4m弱。
既に攻撃範囲に入った少年へ豪腕が迫る。
それを今度は通常の居合いで迎撃し、剣がハッキリと銀の釘で出来た関節を斬り抜ける。
しかし、それも束の間。
まるで逆再生でもしているように釘が再び結ばれ、何事もなく少年のいた場所を左腕が直撃した。
だが、そこにはもう誰も居ない。
天井へと跳躍し、着地。
重力に引かれるよりも先に再度の跳躍。
床まで剣が振り下ろされる。
相手の巨大な体躯を真っ向唐竹割りにして床に降り立った少年だったが、すぐに今度は背後、ドゥーズのいる方向へと跳び下って距離を取った。
仮面を真っ二つにされたはずの【記憶】はそれでも動いていた。
釘が再び肉体を互いに縫い付け。
ダンダンと床を踏み鳴らす。
すると最初の時のように屍蝋の仮面が浮かび上がってきて、その新しい体の一部なのだろう姿を晒した。
出てきたのは麺麭を切り用のギザギザとしたナイフ。
更に巨大な槍の如き縫い針に数mはあるだろう厚底の鍋。
「これは……相手を全て消し去るような一撃でなければ、無駄に消耗するだけか」
ドゥーズが今までの戦闘を後ろから俯瞰していて得た結論を呟く。
「そうみたいです。体を割ってもダメ。仮面を破壊しても再生する。なら、後は全てを消滅させるくらいしか」
「ならば、此処は赤鬼の領分だ。この子と一緒に下っていてくれ」
自分の腕の中に抱いていた璃紗を少年の方に預けて。
更に強くなったのだろう武器と防具を手に入れた化物の前へとドゥーズが進み出る。
「さて、此処はこいつの出番だ」
その服に括り付けられた火砲が両手に取られた。
それは次回の異相探査に向けて開発されていた最新式。
ようやく【崩燼機関】を小型化し、空間制御魔術を使う事で連続装填、連続発射が可能となった正式採用品。
ドゥーズは躊躇無く容赦無く普通ならば一人が両手で持って撃つに足るソレを乱射した。
その鈍色の砲身の先。
掌大の黒い正方形の箱が膨大な物理量(エネルギー)。
この場合は重粒子線を吐き出して、その度にゴトンゴトンと左右に使い切った機関を零していく。
砲身横の排出口から白い蒸気が吹き上がって巨躯を左右から隠し、目に見える紅の可視光を放ちながらも収束された光芒が【記憶】を孔だらけとして、鬼の顔を下から染め上げる。
二十発。
通常の生物ならば跡形も無いだろう必殺(ほうげき)。
だが、それを受けていながら、屍蝋の面が消えてすら、僅かに残った欠片から明らかに物理的に在り得ない程の釘が噴出し、元々の形を、色を、質量を取り戻していく。
「これでもダメか。我輩も何かと理不尽と言われるが、さすがに呆れるな」
砲を棄てて愚痴りつつ。
ドゥーズが今度は刃型の【崩燼武装】を背中から二本引き抜いた。
鞘が柄の部分に固定する鉤(フック)を外され、スラリと刀身が抜き放たれる。
どちらも長剣の類には違いなかったが、赤鬼の手に治まるとまるで小さな果物ナイフ。
どうしたものかと突撃の間合いを図る背中の後ろで璃紗の声が上がった。
「あ、あの!! 今、小さな欠片から元に戻った時!! この上と何か繋がってました!!」
「繋がっていた?」
璃紗が何をどう言葉にすれば、伝わるのかと僅かに眉根を寄せてから、声を上げる。
「この建物の上に何か、ソレと繋がってるものがあって。それも何かきっと重要なもので……」
「そうか。ならば、我輩は此処でコレの相手をしていよう。そちらは頼めるか?」
「それはいいですけど。大丈夫ですか?」
「正直に言うが、この間の一件で全力を出した反動か。近頃、調子が悪い。この再生……いや、復元速度の相手だとまともにやって七分持つかどうかだ」
ドゥーズが肩を竦めた。
毎日のように激務に励み。
あらゆる裁可を下し続け、国の一大事だと殆ど眠る事も無く部下に命令を出し続けてきたのだ。
緑炎騒動の頃から本当に寝る間も惜しんできたのに『調子が悪い』で済んでいるのは彼が赤鬼当主という一族の中でも最大級に強い個体だからだろう。
しかし、それにも限界はある。
本来、自分で戦うような状況はもう無いだろうと荒事を部下に任せるつもりで休養を取らずに政治と軍事に傾注してきたのだ。
此処に来て、部下が一人も使えないとは思ってもいなかった為、コンディションは最悪。
それでも彼が普通の化物程度に負ける事は在り得ないが、幾らでも復元される敵なんてものを前にしてはさすがに消耗せざるを得ない。
今後、第二、第三の敵が出てこないとも限らない状況下では疲労が激しい全力で戦うわけにもいかず。
まともにやって七分というのは妥当な数字に違いなかった。
「分かりました。上を片付けたら、すぐに戻ってきます。それまで此処をお願い出来ますか?」
「ああ、階層が潰れるかもしれんが、そうなったら、上に向かう事としよう」
少年が璃紗を片手で抱いて一跳びに分厚い硝子壁の間際まで行き。
片肘で一枚を軽く突いた。
瞬間的に罅が入って外側へと弾けた透明な結晶がキラキラと空から降り注いでいく。
ドゥーズが頷き。
それに頷き返して少年は片手で天井の端を掴み、一気に体を上に引き上げて姿を外に消した。
駆け出していく足音が途絶え。
結局、最後まで少年には見向きもせず。
ジリジリと間合いを詰めてくる化物の姿に男は僅か場違いな感想を抱いた。
まるでママゴトで使う人形のようだな、と。
そんな事を思うのはきっと娘の事がこんな状況でも気掛かりだからだろう。
昔から神童と言われていた娘に人形を買ってやった翌日の事を今も父親として彼はよく覚えている。
自宅の執務室に何か言いたげにやってきた我が子は一言。
何処か罰が悪そうにごめんなさいと呟いた。
差し出されたのは盛大に綿が食み出た人形。
どうしたのかと訊ねれば、魔術で動かして遊んでいたら、思わず力が入って壊してしまったとの事。
新しいのを買ってやろうと言った彼に娘はそれよりも人形を直す方法を教えて欲しいと頼んだ。
初めて一人の父親として娘の期待に応えてやれなかった時。
自らの不甲斐無さに心が痛んで。
伴侶に教わりながら、初めて裁縫というのをした。
家族とのそんな過ぎし懐かしい時間は今も胸にある。
「ふ……」
もうきっとやって来ないだろう時間を懐かしみ。
男は唇の端を歪めて、剣を構えた。
「戻らないものを懐かしむとは……こんな我輩でも心底親であるという事なのだろうな」
【記憶】が刃と針を振り翳し、男を包むかの如く上から猛烈な勢いで襲い掛かってくる。
「さぁ、やろうか」
ガギンッ。
盛大に火花が散って、ドゥーズの持っていた刃が相手を受け止めた。
「貴様が屍蝋の化物ならば、こちらは軍政司る化物だ」
衣服が内部から膨張する筋肉に張り裂け、常人ならば押し潰されているだろう巨大な圧力を掛ける【記憶】がゆっくりと背後へと押し返され始める。
「悪いが、八つ当たりさせてもらうぞ。これでも我輩は―――」
刃が弾かれ。
仮面の表層に斬り傷が出来て。
上半身から煙とも湯気とも付かないものを上げながら。
「親馬鹿なものでな!!!」
男は叫んだ。
*
ヴァルトレード。
元貴族警邏隊所属の【黄虎《ディグリス》】はその明らかに不可思議な祭りの最中。
その異常に気付き、各省庁と警察機構の主要部門を回り終えて、どいつもこいつもどうしようもなく使えない状態となっている事を確認し、絶望の淵に立ちながらも一人黙々と捜査していた。
都市の住民達は異常こそ感知出来ないが、全うな日常に関する会話ならば成立するのだ。
ならばと祭りの夜を過ごす誰もに陽気な声で世間話の体で情報を聞き出せば、誰もが快く喋ってくれる。
その大半はまるで異常に関係無さそうに見える。
実際、無いだろうが、その中に妙な意見を見つけ出したヴァルは一人酒場の端で地図を広げていた。
周囲は騒がしく。
考えを纏めるのも大変ではあるのだが、何分……彼の瞳には影絵のような何かがチラチラと見えている。
外では落ち着かないどころか。
例外である自分は危ないのではないかとの思いもあった為、人しかいない騒がしい場所を休憩場所に選んだのだ。
彼が得た証言で怪しいと思った情報は三つ。
一つ目は自分が何処に住んでいたのか分からないと困る素面の男から得た話。
外で途方に暮れていた同じ獣人の男は自分が住んでいた場所がまるで分からないと呟いた。
都市の住民だと言い張りながらも、やはり思い出せないと言うのだ。
二つ目は上下水道の管理する部署に務めているという男。
彼は陽気に酒を嗜んでいたが、何故か自分の仕事先が分からないと首を傾げていた。
絶対に仕事現場で何処かに配属されているはずなのだが、その場所がスッポリ抜け落ちているのだという。
三つ目は二人目の男と飲んだくれていた年配の技術者からの情報。
彼は都市でも最高位に位置する建造物の設計者らしいのだが、自分の最高傑作が絶対有るはずなのに何処かに消えてしまったのだとブツブツ愚痴っていた。
どういう事かと訊ねれば、最高傑作の設計図はあるのにそれが見当たらないというのだ。
まだ造ってないんじゃないかと言えば、もう代金は受け取っており、ついでに素晴らしい作品を世に生み出したと中央の省庁から賞状すら受け取っている。
しかし、何故か建造されたはずの彼の最高傑作は名前から場所から何もかもが消え失せており、彼すらその自分の作品がどういうものなのか思い出せないらしい。
彼が十時間近く掛けて足で捜し歩いた怪しげな話。
それが示すものは何かの場所が都市から消え失せた事を示していた。
しかし、現実にはそういうものを彼は観測していない。
そして、都市の人間も明らかにおかしい祭りの実情に気付いていない。
この幾つかの話で共通するのは何かに対する認識が欠如しているという事だ。
祭りの参加者は異常を感知出来ない。
三つの情報を齎した男達は場所が感知出来ない。
これらの事実から導き出される答えは都市の何処かが人々の認識からスッポリ抜け落ちているという事だ。
認識の異常が齎す危機。
その中心が都市の何処かにあるのだと考えれば、その失われた領域が怪しいと思うのは道理。
そういうわけで彼は地図と睨めっこしていたのである。
(感知出来ない領域。認識の齟齬、異常。何処にある……その中心は……)
「三十九番テーブル。鶏肉と子牛の煮込みと酒精(アルコール)抜きの香料葡萄酒です」
「ああ、此処だ」
「ヴァルがまずは食事を済ませてからにしようと不意に顔を上げた時だった。
「?!!」
彼の前にヌッと外を駆け回る影絵。
人型の亜人のようなノッペリとしたソレが料理の皿をどうやってかテーブルに置いた。
バッと周囲を見渡せば、時既に遅し。
ヴァルは背筋からの悪寒に身構えた。
一応、貴族警邏隊のロッカーから愛用する剣型の【崩燼武装】は持ってきていたが、さすがにそれだけでは心許無いのは確かだ。
何時の間にか。
彼の周囲にいる酒場はただ影絵だけで埋め尽くされていた。
マスターも影絵。
飲んだくれた酔っ払いも影絵。
ついでによくよく見てみれば、料理も侵蝕されて、ホカホカと上がる湯気すら影となっていく。
ヴァルはあまりの事に横に置いた細長い袋の中から刃を取り出し掛けたが、もしも相手がその影に侵蝕を受けた一般人ならば、戦うのはまずいと感じ。
懐から料理分の硬貨を取り出して影絵の店員に渡して。
急用が出来たから他の人間に料理を振舞ってくれと言い置いて、急いで酒場を出る。
すると、もう彼は自分がいる場所をどこか判別出来なくなっていた。
それもそうだろう。
周囲が影絵に呑まれている。
何もかもが影絵になっていく。
恐ろしいのは人や物が影に置き換えられていく瞬間が見えてしまうことだ。
そして、それに誰も気付かない。
人の多い往来で熱烈に口付けを交し合う男女の片方、女が影絵になっている事にも気付かず。
恋人は親しげに手を握り、歩き出す。
親が影絵になっているのにも関わらず子供は屋台の料理をせがみ。
影絵で出来た宿へ人が呑み込まれては影絵になっていく。
「まずいぞ?! こいつは?!! どうすればいい??! クソ、一時的にも逃げられる場所はあるのか!!?」
とにかく影の侵蝕から逃れようとヴァルが走り出す。
「?!!」
そうして、更に悍しい情景と彼は出会った。
屋台で売られているお面、屋台で出されている料理、回りで売られている工芸品。
その何もかもが屍蝋の仮面となっていた。
影絵、人関係なく。
それを食べ、それを買い、それを売り、それを愉しんでいる。
背筋も凍る情景。
それから何とか逃れるべく。
彼は一旦、人が集う道から屋根の上へと跳躍した。
そのまま影から遠ざかる為に走る走る。
しかし、その努力を嘲笑うかのように上がり続ける花火までもが影絵と化して、彼は自分のいる世界が恐ろしい速度で塗り替えられていく恐怖に歯を食い縛った。
「おお、こんなところに同志とは。ついているのかいないのか」
「な?!」
彼が背後から掛かった声に思わず止まり。
ゆっくりと後ろを振り向けば、【蟲人(ベルミ)】の老人が一人佇んでいた。
「あ、あんたは何者だ!?」
思わず構えた彼にアイクロソス・デダルが苦笑する。
まぁ、それが普通の反応だろうな、と。
「味方じゃよ。今のところあの影絵共に侵蝕されたりしておらんから安心せい」
「あ、貴方も見えるのか?!」
「ああ、お前さんはどうやら普通の亜人のようじゃが、ふむ……何やら高位の存在から“加護”でも受けたか?」
「言ってる意味は分からないが、味方なんだな?」
「ああ、だから、その物騒なのは下して欲しいのう」
「分かった……」
袋のまま握り締めていた武器を下げて、ヴァルは溜息を吐いた。
「この騒動。どうやら、加速度的に影からの侵蝕を受けているようじゃ。だが、見るからに人々が化物になったとは思えん。何故なら、影絵になっても、その役割と関係性は消えておらん。親、子、料理人、酔っ払い……まだ戻れるかもしれん。いや、これ程の規模で存在を変質させるとなれば、段階があると思っていいじゃろう」
「段階……じゃあ、まだ、助かるのか?」
「分からん。が、可能性はある。それにお前さんのように気付いた者がきっと動き出しておる。我らもその一人。この事態を打開する方法を考えねばならないのう」
「そうか。考える事は皆同じってわけか」
老人が頷く。
「とりあえず。侵蝕が少ない場所へ赴こう。でなければ、ゆっくり話も出来ん」
「ああ、分かった。それであんたの名前は? ご老人」
「ワシはアイクロソス・デダル。デダル家の当主じゃ。聞いた事くらいあるじゃろ? デダルの名は」
「デダル?! じゃあ、あんたが戦前の英雄の……」
思わず驚いたヴァルに苦笑が返った。
「ま、昔の話だ。今はただの老いぼれ。戦うにも敵を見つけられずにいてな。此処は協力して当る事としよう」
「ああ」
老人と警官はそうして出会い。
しばし、話が出来る場所を求めて動き出す。
その時、空に鐘が鳴り渡った。
しかし、それが聞こえていながら、彼らは認識出来ない様子で自分達のいる場所から見渡せる巨大な鐘楼には目もくれず屋根の上を駆けていく。
夜は動き続ける。
次の夕暮れに向かって。
少しずつ忘却を強くしながら。
一日目が終りを迎えそうな頃。
誰もがまだ気付かない事実に一人、白い鬼がエス・トリア邸の奥で気付いて。
―――時間が加速しているのか。
そう、そっと空を見上げながら呟いた。