テンタクル☆ジェントル/OP
テンタクル☆ジェントル
プロローグ
「きゃぁああああああああああ?!!」
闇に木霊する悲鳴。
神に慈悲があるならば、思わず救ってしまうだろう歳若い乙女の声。
夜というのはいつだって、そんな類の不幸が転がっているものだ。
下卑た男の醜い歓声を聞いて過ごしたい輩は早々居まい。
人間というのはロクな種族ではないが、それと同時に高潔を絵に描いたような者もまたいる。
「どうかされましたか!!」
夜の竹林は清らかだ。
しかし、凝った淫猥の気配が水を差す。
奥まった人目の付かない場所で鉄燈《ランタン》が陰りを照らせば、其処にはまだ十代と思しき少女が着物を引き裂かれてさめざめと啜り泣いていた。
「大丈夫ですか!? 蛮行に及んだ輩は!? お嬢さん!!」
桃色の着物の上から急いで学生服が着せられた。
長髪に隠れた顔が俯いて、ポタリポタリと地面に雫が染み込んでいく。
「もう安心ですよ。学徒憲兵隊の名に掛けて絶対に貴女を守ります」
「あ、ありがとうございます」
黒の学帽の縁から覗く人の良さそうな笑顔に少女が頷いた。
小さな都の夜を守る少年少女。
国でも1、2を争う軍事的最高学府。
彼らの名を知らない者は都市の何処にも居ないだろう。
学徒憲兵隊。
今や警察機構の手に余る凶悪犯罪を取り締まり、各地の都で治安維持に貢献し、時に魔すら滅する者達。
彼らは国の大人達からは期待され、子供達からは憧れの対象となる綺羅星だ。
少女だって、そんな相手から大丈夫だと言われれば安堵もしよう。
ピタリと止まった震えの代わりに手が僅か男子学徒の服の袖を掴む。
「周りにまだ暴漢が潜んでいないとも限りません。此処は一緒に都の方へ戻りましょう。さぁ」
膝を折っていた救い主が立ち上がるも、裂かれた着物を恥しがったか。
少女は顔を伏せて、ペタリと地面に座り込んだままだった。
「怖いとは思いますが、此処にいるのは危険です。大丈夫!! 必ず、お守りしますから」
これが【近代化《レボリュション》】の影響で国に出回る三文小説の類なら、少年少女の出会いは恋物語だと乙女はトキメキの一つも持ち合わせたかもしれない。
しかし、その胸を鳴らすのは未来の予感へ続く甘い感情ではなく。
「何処かケガを?」
心配そうに顔を覗き込もうとした学徒の背中に思いの他強く少女の腕が絡み付いた。
「きゃぁあああああ♪」
愉しげな声と共に少女の顔が上向けられた。
「?!!ッッ」
思わず後ろへ下がろうとしたものの。
学徒は袖を恐ろしい力で引かれて前に倒れ込む。
「きゃぁああああ♪ きゃ、きゃぁあきゃきゅきゃきゃきゃきゃきゃきゃ♪」
声音が変質した。
まるで甲高い獣の声。
しかし、そのゾッとする程冷たい体と顔から溢れ出すものに学徒は動く事すら出来なかった。
既に全身へ巻き付いた細長いソレの表皮から滴る筋弛緩効果のある粘液に犯されていたからだ。
「きゃきゃきゃきゃ♪」
引っ掛かったと言わんばかりに少女が……いや、そう見せ掛けていたモノが蒼き光りに着物を脱ぎ捨てる。
赤黒く細長いもので構成された人型。
端的に言うなら触手。
その集合体が悍しい姿を曝け出した。
今や学徒を自分の内部へ呑み込もうとしているソレは嘲嗤いながら、馬鹿な人間の消化に取り掛かろうとしている。
「く、化けていたのか?! まさか、最近の行方不明事件は―――」
ゴボゴボと粘液に口元を塞がれ、酸素の供給を緩慢に止められながら。
それでも学徒は最後の抵抗とばかりにワイシャツの袖に仕込んでいた破魔の符を引き抜こうとして、そんな力すらもう自分に無い事へ絶望する。
(これでは御国に顔向け出来ない……せめてッ、一太刀!!)
まだ辛うじて動いた顎が自分の顔を蓋い尽した触手を一本噛み、首の力だけで毟った。
「げきゃ?」
獲物のか弱い抵抗にあった触手の化物が何処から出ているかも定かではない声を怪訝そうにさせて。
「げ、ぎゃぁあああああああああああああああああああああ!!!!」
本性を剥き出しにした。
針や牙が無数、触手に生え始め、学徒の全身を刻み始める。
「ぁ゛あぁあ゛ああ゛あああああッッ?!!!?」
もうダメかと。
出血と裂傷に意識が遠のき。
学徒が瞼を閉じようとした時だった。
ギュリュッ!!!!
虚空から飛んで来た硬質の白い槍状の物体が無数の触手の中にあると思われた急所。
神経節の集中部位を貫いた。
「ギィイイイイイイイイイイイイイッッッ?!!! ガアアアアアアアアアアアッッッッ?!??」
ドボッと学徒が吐き出され、のたうつ触手が周辺に飛び出して周囲の竹林をまるで雑草を刈るように薙ぎ払った。
「まったく。人様に迷惑を掛けるとは……我らの風上にも置けんな」
残っていた触手が拾った音声の下へ自らを伸ばす。
人間の目には到底追えない速度は死に掛けても化物の面目躍如か。
常識的な範囲でなら、拳銃弾を避ける事が出来ない輩にどうこうする術はない。
ギュチィイイイッッ!!!!
放たれた数本の触手が白い手袋をした片手に掴み取られていた。
「これだから野良は」
ザッザッと紫紺色をした革製のロングブーツが枯れ落ちた笹を踏み締める。
「あ、なた…は……?」
未だ弛緩した身体を立て直せない有様で転がっていた学徒が僅かに動く首でやってくる相手を見つめた。
その乱入者は全身を紫を基調とした衣装に身を包んでいる。
着込まれているのは深紫《ふかむらさき》の礼服《タキシード》。
金糸で十二本の十字架を刺繍した暗紫色《あんししょく》の外套《マント》。
ネクタイに至っては薄紫と金のマーブル模様で紫水晶《アメジスト》をあしらった銀金《ミスリル》製のピンで留められている。
「若者よ。よく頑張った。少しだけ、目を瞑っていたまえ。此処からは夜に歩く者の領分だ」
蒼き光りに照らし出された男は声に比例して壮年。
五十代程のナイスミドル。
枯れた灰金《アッシュブロンド》を丁寧に後ろへ撫で付けたオールバックは丈の低い鍔付き帽に収まっていた。
顎髭も鋭利と見える顔立ちは若い時の二枚目で通っただろう面影を今も残し、自信と威厳が満ちている。
涼やかで切れ長の瞳に僅か笑まれ、一瞥されただけでも学徒は男が名のある異国の貴族だろうと感じた。
「シャァアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!?」
僅かな間に再生したのか。
ギュルルルルルッと肉を捻る音を竹林に響かせながら、触手が全ての肉体を開放して。
中枢である蠢く肉の塊を竹林の上空へと揚げていく。
「半端に知能を付けるから、そういう事になる。はしたないぞ」
「ガァアアア゛ア゛アアア゛アア゛アアッッ!!!」
竹林中に広がっていた触手が乱杭歯を生やしてナイスミドルへと殺到した。
「トゥッ!!!」
紳士が跳躍する。
軽やかに土埃が舞い。
その姿が竹林の遥か上。
化物よりも高い位置まで昇っていく。
「―――」
学徒は初めて他者へ高貴の何たるかを見た気がした。
「大方、【着包野郎《サンドイッチマン》】に智を与えられたのだろうが、運が無かったと諦めたまえよ」
上空に滞空し続けながら、男が静かに化物を睥睨する。
「我輩が来た以上、この異邦を穢させはしない」
学徒は半ば観客のように一人と一匹を見上げていた。
彼も武芸術を学ぶ者だ。
空に浮かぶ異様な紳士の立ち振る舞いから、何かしらの武術に通じている事は解っていた。
剣か。
槍か。
はたまたこの邦《くに》では陰陽と呼ばれもする超常の技か。
だが、どれを使ったとて紳士の姿は様になるだろうと彼は思う。
「ゆくぞ。これが奴の恐怖が具現する最初の狼煙だ!!」
男が構えた。
触手が竹林に結び付けた触手で自身を振り子のように振って相手へと加速する。
(決まるッ!!?)
学徒が結末を見極めようと瞳を細めた時。
虚空に白い花が咲いた。
それは男の片腕から這い出した巨大な白い得体の知れない束によって花開き。
その中央にある腕が巨大な燐光を半径数十mの周囲から励起し、掻き集め。
魂の叫びが放たれる。
「触手ッッッ!!!! ビィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイインムッッッッ!!!!!!!!」
コォォォォォォォォォ―――ッ。
何かを吸気する音が周囲から途絶えた刹那。
ゴッと花の中央から噴出した流星にも等しい一筋の光芒が周辺区域の空を駆け、一瞬で消え失せる。
学徒の周囲にはもう触手の一欠けらも存在していなかった。
高く掲げられた肉の塊が光に飲み込まれた時点で全てが幻のように儚く霧となったからだ。
「……え?」
何が起こったか分からず。
紳士の口から放たれた言葉に呆然としながら、学徒はあまりの出来事にしばらく放心していた。
怪奇行方不明事件の現場が困惑に支配された次の日から、実しやかに大陸東部の地方都市には変な噂が流れ始める事となる。
曰く。
怪奇事件の現場に颯爽と現われる奇奇怪怪なる紫の紳士が一人。
彼は身体に特異な力を持つらしい。
その名は―――。