※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第一章「怪紳士?! 触手は乙女の夢を見るか?」

第一章「怪紳士?! 触手は乙女の夢を見るか?」

 

「はぁ……触手紳士?」

 

 東部らしい花飾りと紅の毛氈《もうせん》が敷かれた長椅子に座って。

 

「ホント、男子ってロクな噂話しないわ」

 

 少女が傍らの少女にズズズッとお茶を嗜みつつ、愚痴る。

 

「人間に触手が付いてるとか化物じゃない。ソレ」

 

 とある茶屋の一角で噂をだいぶ馬鹿にした少女の鼻が鳴らされ。

 

「何か悪い夢でも見たんじゃない? その人」

 

 『まったくこれだから同年代の男子は……』と言いたげな溜息が吐かれた。

 

 とある異世界の大陸。

 

 ファルティオーナ。

 

 その東部に位置する大国家【乂羅《がいら》】は全大陸規模の社会向上運動と見なされる教会主導の【近代化《レボリュション》】で激動する時代に未だ旧き伝統と最新の技術や思想が鬩ぎ合う極東の一大要衝だ。

 

 彼《か》の国の端。

 

 北東部との国境も近い軍事都市【京州《けいしゅう》】は数ある大陸地方の先進都市の中でも十本の指に入る邦《くに》。

 

 其処に住んでいれば、この現代にそんな化物がいるなんて悪い冗談だと言いたげな彼女の言葉も無理はない。

 

 時代は旧き封建制度や人々の後れた意識を否定しつつある。

 軍事都市はそういった文明化が同じ国の中にあっても極度に進んでいる場所だ。

 

 莫大な資源《リソース》を注ぎ込まれ、今や華は都なんて古い言葉だと馬鹿に出来るだけの変貌を遂げた市街地の外観は数年前までは考えられない発展を来る者達に見せつける。

 

 普通の馬車や牛車では行き来も出来ないだろう土瀝青《アスファルト》の道。

 

 瀟洒《しょうしゃ》な店舗が連なる大通り。

 

 まだ民間の村落は木造の家屋が多いものの。

 

 近頃の技術発展を背景に街並みには真新しい建物も増えた。

 

 都の中心部ではそれがより顕著であり、今では茶屋から証券会社の類まで大陸中央風という、錬金の技術で強化された新式の煉瓦建築が流行っている。

 

「まったく、そういうのを大陸中央じゃ“ナンセンス”って言うのよ。知ってる?」

 

「へぇ、物知りねぇ……」

 

 噂話に興じていた女子二人は学徒らしく。

 

 サイズが違うだけの同じ制服に身を包んでいる。

 

 黒を基調として全身を覆うものだ。

 

 女性用制服というものが教育現場で唱えられつつはあったが、それが実現するのはまだ大分先。

 

 彼女達が着用しているのは今も学問の扉を叩く者が必ず着る極めてスタンダードな男物である。

 

 本来、学帽を持ち歩くのが規則ではあったが、女性徒に限ってはこれが免除され、簪一本、飾り一つまでが許容されている。

 

「でも、何だか面白そうじゃない?」

 

 そう馬鹿にした声に応えたのは幾分目の細い。

 

 何処か狐を思わせる薄ら笑顔。

 

 男物の制服を身に纏っているとしても内側から滲み出る嫋やかさまでは隠せないのか。

 

 ほんのりと色香を漂わせる十代後半の少女だった。

 

「そうだとしても、何でよりにもよって触手なのよ……ホント、男子って馬鹿ばっか!!」

 

 同じ制服姿ながらも何処かガサツと言うか。

 

 妙に男っぽい言動で男子学徒批判に余念が無い相手は女の命である髪を短く刈って大陸中央風に言えば、ショートカットに纏めた姿。

 

 近代化《レボリュション》によって唱えられる男女平等の権利がジワジワと広がり出した頃から増えた所謂出(・)し(・)ゃ(・)ば(・)り(・)な(・)婦(・)人(・)と揶揄される現代思想に染まった女性に数えられるだろう。

 

 隣の狐顔の少女より頭一つ分背が低い。

 

 顔は色白で造りは小さく。

 

 男勝りの勝気さがよく出ている。

 

 目鼻立ちも悪くなく。

 

 眉も細く唇も薄い。

 

 優しく笑顔の一つも浮かべていれば、歳の割りに幼い良家の子女に見えるだろうが、生憎とその顔にあるのは同年代の男子に対する侮蔑だけだった。

 

 もしも格式と伝統を重んじる東部の大国でなければ、少し生意気で小柄な学生に過ぎなかっただろうが、生憎と習俗からして女に貞節と礼儀作法を求めるお国柄か。

 

 道往く着物や大陸中央式の礼服《スーツ》姿の歩行者からチラリと送られる視線はあまり温かくない。

 

「ふふふ。でも、近頃の相場だとそういうのが“好い”って男の子も多いらしいわよ?」

 

「はぁ?! 何が善いのよ?!」

 

 思わず小柄な少女が声を上げる。

 

「ほら、だから、ね? 触手と婦人が絡み合うのが『堪らない!!?』らしいのよ」

 

「ぅぇ……近頃の男って腐ってるんじゃないの?」

 

 如何にも嫌な事を聞いてしまったと小柄な少女は顔を顰めた。

 

「まぁ、確かに大陸南部や中央から流れてくる出版物はかなり害悪になりそうなのも多いけれど。発禁処分する程のものって、そんなに無い気がするのよねぇ」

 

「それ、本気で言ってる?」

 

「そもそも、触手の方は昔からこっちにもあった発想だし」

「え? 無いわよ!? 何、嘘言ってるの!?」

 

 自分の国にそんな汚らわしい思想や発想なんて在る訳がないと小柄少女が力説した。

 

「世の中、自分の知ってる事だけが全てじゃないのよ? 藍《らん》」

 

「ぅ……それはそうかもしれないけど、男が腐っちゃうのはやっぱり近代化《レボリュション》のせいだと思う!! 七教会討つべし!! よ!!」

 

「え~~~藍にそんな事出来るのかしら? だって、藍の目標は―――」

 

 ペチャリと小さな手が狐顔の少女の口を押さえた。

 

「そ、それはそれ!! これはこれ!! た、確かにあの方の事は尊敬しているけど、その所属する組織まで支持するかどうかは別問題でしょ!! 琉風《るふ》」

 

「んふふふ♪」

 

 互いに呼び合う狐顔の少女琉風(るふ)と小柄な少女藍(らん)は他愛無い世間話の終わりを悟ると勘定の小銭を椅子に置いて立ち上がった。

 

「さ、また見回りしなきゃね」

「うぅ、何だか今日も言い負かされた気がする……」

 

 二人が傍らに置いていた長太刀を背中に薄桃色の結い紐で括り付け、脇差を腰の左右に一本ずつ下げるとゴチソウサマデシタ~と言い置いて歩み出す。

 

 天土と描かれた薄紫の腕章。

 制服の襟元に刺繍された金糸の鷹。

 彼女達こそはこの数年で新設された学徒憲兵隊の一般部隊。

 

 現在も存在する数千倍の難関を突破して選ばれた未来の軍事エリート候補生……の雑用を行なう民間学校の予備憲兵隊女子隊員。

 

 此処数日、国境の都で起きている不審な行方不明事件の捜査に当たる当事者達だった。

 

 *

 

【杉野世藍《すぎのせ・らん》】

 

 小柄な彼女が何故に軍事エリート様の雑用係をしているのかと言えば、それにはとても深い事情がある。

 

 短く語れば、破産した家に迷惑を掛けず干渉されず学問をする為だ。

 

 地獄の沙汰も金次第とはよく言ったもので。

 

 基本的にどんな時代だろうと学問には金が掛かる。

 

 それは国中に公共教育機関が出来て、就学率が九割を超えたご時勢でも同じだった。

 

 高等教育を受ける為にはそれなりの資金がいる。

 

 義務教育というやつを終えて、さっそく嫁入りか見合いかという女生徒達の中で彼女は家がそれなりの商家であった事を利用して、更なる勉学を求めた。

 

 が、その新しい学校での日々が始まった当日。

 

 実家の商店の取引先が不渡りで倒産。

 

 彼女は一気に退学して羽振りの良い商店の息子と見合いするか。

 

 または家無き子として放浪するかの二択を迫られた。

 

 両親は婚姻を望み。

 

 彼女は勉学を望み。

 

 その現実と理想の乖離を埋める制度が全国に新設された予備憲兵隊への入隊だったのである。

 

 彼らの仕事は主に三つ。

 

 通う学校がある地域で学徒憲兵隊の指揮によって警察機構と連携した治安業務へ従事する事。

 

 自らの地域にある公共施設に一定間隔での勤労奉仕を行なう事。

 

 それらの経験を蓄積して次代の隊員にそのノウハウを教授する為、勉学に勤しむ事。

 

 これを持って彼女は家から勘当同然に飛び出し、今は準公僕のような立ち位置で勉学と奉仕と業務に忙殺されているのである。

 

 そんな彼女の相棒の名は【神酒谷琉風《みきたに・るふ》】。

 

 狐っぽい。

 

 狐が化けている。

 

 でも、化かされてもいい(男並み感)。

 

 そのように男子隊員から噂される少女だ。

 

 妖艶とまでは行かないが、それに近い魔性を持つ彼女と組む事になって早数ヶ月。

 

 小柄さと生意気さと勝気さと男勝りな性格が相まって、隊で孤立しがちだった藍は突っ込んだ話が出来る友を得てから日々の業務に張りを感じている。

 

 当初は治安維持の業務にも勤労奉仕にもおざなりでこそないが、熱意もやる気も無かった。

 

 それが今では相棒と共に治安維持に当たる荒事中も余裕を持って対応しているのだ。

 

 武装こそ所持しているが、基本的には魔術、陰陽の類が少し出来るだけの藍は戦力として無力に等しいだろう。

 

 治安維持の名目で死んだり重症を負っても構わないとの誓約書を書かされている身としては、その誰かが傍に在る事で得られる安心感程に重要なのものは無い。

 

「藍。これで担当地区の見回りは完了よ。今日の業務はこれでお終い。寮に帰ってご飯にしましょう」

 

 茶屋で一服して再び市街地の調査と見回りに繰り出した二人は都の南部にある瀟洒な中央諸国風の館が立ち並ぶ一角で一息付いていた。

 

 まだ、陽射しは夕暮れというには早い。

 

 だが、担当した場所の見回りも調査も終えた彼女達はイソイソと学校の寮がある東部の方角へと歩いていく。

 

 木造と煉瓦造りの街並みが渾然一体となった彼女達にとっての未来都市は穏やかな風が吹く場所だ。

 

 街中を流れる河川の周囲には柳が植えられ、水中にはキラキラと色艶やかな鯉が泳いでいる。

 

 煉瓦の敷き詰められた恋人達の集う名所を歩きながら、途中の露天で買った水飴を舐めつつ、会話の内容は昼時のものへと立ち返る。

 

「結局、今日も収穫無かったね……」

 

「そうねぇ。でも、いいんじゃないかしら? 怪しい人がいない。それだけ平和って事じゃない」

 

「事件は起きてるんだから、平和とは違うんじゃ……」

 

「そう? でも、見えない、聞こえない、感じられないんじゃ、無いのと同じだと思うの」

 

「ぅ……微妙に正論?のような気も……」

 

「まぁ、奇奇怪怪《ききかいかい》なる触手紳士さんが出ないだけ、マシかもよ?」

 

「も、もぉ!? 琉風!! そういうのは男が腐るから止めて!!」

 

 悪戯っぽく言う相棒に藍が頬を膨らませた。

 

 そんな姿へおかしそうに笑みを零した後。

 

 琉風が水面に視線を向ける。

 

「明日も知れない我が身でしょう? 私達……だからこそ、別にそう本気になって危険に飛び込んでいく必要は無いと思うのよ。貴女からしたら、噴飯ものな発言でしょうけれど」

 

「それは……」

 

 二人の間に溝があるとすれば、それは琉風が藍の事を真面目だと思っている節がある事だろうか。

 

 業務に熱意を向けてはいなかったものの、それでも仕事と割り切って自らに課された全てを受け入れていた彼女が他の何処か学生気分の抜けない者達とは違う事を狐顔の相棒は前々から快《こころよ》く思っていたのだとか。

 

「ふふ、別にいいでしょう? 思うだけなら……平和な日常を願う事は誰にだって許された事らしいし。貴女の目指す人達の本を見ても、そう書いてあったわ」

 

「……願うだけじゃダメ」

 

「え?」

 

 川縁の小石を拾って。

 

 整備された道の上から水面に小石が軽く投げられる。

 

「行動しないと何も望みは叶わない。それをあたしは知ってる」

 

 水面を跳んでいく波紋が数回の後に消えた。

 

 藍の言葉に琉風が自分達の未来には後何度跳躍するだけの機会があるのだろうかと思いつつも、口には出さず。

 

「そう、ね……ふふ、やっぱり貴女の方が私なんかよりずっと憲兵に向いてるわ。恰好良いわよ。相棒さん」

 

 常の穏やかな笑みで返した。

 

「あ、相棒とか!? あ、あたし達は同じ区域を回るど、同僚みたいなものよ! そう、気の合う同僚!!」

 

 近頃、周囲の視線が生暖かい事を自覚している藍はそう力説する。

 

 クスクスと笑って、その反応を受け流した琉風が道の先に目を向けた。

 

「じゃあ、同僚さんも一緒に帰って夕餉《ゆうげ》としましょう」

 

「そ、そうね。それがいいわ……同僚として好ましく思うわ。あくまで同僚として!!」

 

「はいはい♪」

 

 小柄の相棒の微笑ましい姿に流布は鷹揚に頷くと道先に見えてくる予備憲兵隊の詰め所へと歩みを進める。

 

 そんな調子でやり取りする二人の少女が辿り着いた煉瓦造りの小さな建築の前には既に彼女達と同じく見回りを追えた予備憲兵隊の隊員達が列を作っている。

 

 順次、派遣されている学徒憲兵隊の上司に詰め所で報告を行なっているのだ。

 

 並んで数分後。

 

 二人の目の前には小柄で出っ歯な学徒。

 

 彼女達を統括する同年代の男子が正式な学徒憲兵隊の制服姿(ほぼ同じ形だが金糸の刺繍が所々にある)でふんぞり返っていた。

 

 その目付きは何処か横柄で彼女達の国の一部官位を持つ者特有の気配を放っている。

 

 貴族。

 

 乂羅の特権階級たる層。

 

 本来は牛車に引かれて行き来し、御簾の中からしか下々の者には会わないような者達だ。

 

 烏帽子の一つでも被っていれば、相応に分かりやすいのだろうが、大陸中央諸国を真似た教育制度が発布されて以降は下級貴族と平民の間に差別化する要素は薄くなっている。

 

 学徒憲兵隊に入った以上は確かな能力を持つ秀才なのだろうが、それを鼻に掛ける態度は幾ら殆ど同じ造りの制服を着ていても旧来のままだった。

 

「それでお前達の担当区域の結果はどうだったのだ?」

 

 名前も知らないのだろう平隊員からの報告等、別に聞く必要も無い。

 しかし、規則で決まっているから仕方なく聞いている。

 

 そんな感情がありありと伝わってくる出っ歯で眼鏡な貴族の倅に二人は先程まで話していた時のような顔は見せず、淡々と異常無しとの報告をした。

 

 彼女達で最後だったらしく。

 

 全員が集まったのを見計らって、周辺学校の生徒会長から選出された武闘派の体育会系、半ば綽名が類人猿という厳つい顔の京州予備憲兵隊総長が列を成した平隊員達に現状の説明を行ない始める。

 

『現在、我々が管轄する区域において顕著な異常は見受けられない。しかし、未だに失踪事件は続いており、不審者の目撃情報も未だ上がっている。周辺の都でも同じような事件が相次いでいる以上、我ら予備憲兵隊の治安維持業務と見回りは強化していく事になるだろう。今後の状況次第では夜間の動員も考えられる。各隊員は如何なる些細な異常も見逃さず。忠実に業務へ励んで欲しい。では、最後に特別隊員からの訓示を頂く事になっている。各隊、静粛に……』

 

 こほんとお飾りに過ぎない出っ歯の学徒が隊長の前へと出た。

 名目上は同じ隊員扱いだが、彼ら全員を統べる地位にある男子学徒は辺りを睥睨すると一言。

 

『この身に迷惑が掛からぬよう。頼むぞ』

 

 一応。

 

 本当に一応は“貴族が頼む”という形を取った命令だった。

 

 とても訓示と言えるものでは無かったが、貴族の子倅の本音が明け透け過ぎて、逆に平隊員達には分かりやすかっただろう。

 

 何も見付かるな。

 

 いや、何も見付けるな。

 

 見付けるなら、自分がいない時。

 

 自分に迷惑が掛からない時にしろ。

 

 要はそういう事である。

 

『他に何かありますか?』

 

『いや、無い』

 

『では、そのように……』

 

『ああ、後は随意《ずいい》にな。もう疲れた。帰る……』

 

 隊員達の報告を何とか聞き終えたと言わんばかりに溜息を吐いて。

 

 男子学徒が背後に控えていた使用人達に付き添われながら、よろよろとその場を去っていく。

 

 その後ろ姿に藍は一体どうやったら、あの体たらくで学徒憲兵隊の武芸術の試験を突破出来たのだろうかと首を傾げたが、世の中は金、金のご時勢である。

 

 如何に清廉潔白を地で行く実力主義の組織にも汚点の一つくらいはあるだろうと内心無理矢理納得した。

 

『では、これより全隊員は帰投せよ。寄り道はいいが、遅くならんように』

 

 それなりに話が分かると評判の類人猿が学徒達を慰労すると各隊が少しだけざわめく。

 

 そうして数分後には列が消え去り、彼女達もまた他の隊員と同じように帰り道にある喫茶店へ寄り道を行なおうと裏道を往く事となった。

 

 大陸北東部との国境を抱えた軍事都市である京州は基本的に坂や小道が異様に多い。

 

 都の再開発が進んでいるとはいえ。

 

 それでも未だ軍の前線基地としての役割を担う関係上。

 

 今までの道を安易にするべきではないと舗装が済んでいない小道や舗装されていても入り組んだ構造は残され、路地が無数に絡み合っている。

 

 そうした性質上出てくる迷路の先に彼女達の行き付けの店はあった。

 

「珈琲の一杯も引っ掛けて食事時に入りたいものよね」

 

「そう言うわりには食事まで取りそう……」

 

「それでもいいわよ? まだ懐は温かいし」

 

「あ、あたしだって温かいわ!! 奮発して南部風蒸し鶏を頼んじゃうくらい!?」

 

 張り合う彼女達の前に見えたのは古びれた木製の立て看板に【蓬莱《ほうらい》の簪《かんざし》亭】という文字。

 

 東部の独自文字である【東匠文字《イースタン・キャラクター》】は大陸標準言語に照らし合せても独特で、戸に喫茶店の文字が入っていても、他の国の人間には何の店か分かりはしないだろう。

 

 チリンと小さな風鈴を鳴らして入った途端。

 

 二人の身体を涼やかな風が通り抜けた。

 

「マスター。珈琲二つ。それと後で何か食べるもの頼むかも」

 

 藍が言うと店の奥から『お~う』との返答。

 

 店の内装は外側の古い家屋のものとは違って、大陸中央の酒場にも劣らない飴色の家具やインテリアで統一されていて瀟洒だった。

 

 一枚板で切り出されたカウンター。

 

 獣脂や魔術具の類を使わず。

 

 植物油だけで店内を照らす洋光《ランプ》。

 

 椅子は南部の鋼細工の古風《アンティーク》な代物。

 

 野華の象形も美しい硝子の棚には西部の工芸品である限り無く薄いタンブラーから有名陶器の皿まで何でも揃っている。

 

 お品書きには大陸各地の有名料理が軒を連ね。

 

 飲み物にしても数種類。

 

 二人が誰にも秘密でよく通うには十分な店内。

 

 其処には微かに香ばしい薫りが立ち込めていて、学生には過ぎた店だと分かるだろう。

 

 しかし、今のところ。

 

 日が傾きつつある時間帯にも関わらず人の姿は彼女達以外に無い。

 

 隠れた名店というには閑散とした店内。

 

 カウンター端の花瓶に生けられた一輪の白い花と店奥のマスターだけが彼女達以外の生命に違いなかった。

 

「はいよ」

 

 二人がカウンターに座ったのとほぼ同時。

 

 いつの間に用意したのか。

 

 湯気を立てる珈琲がさっと彼女達の前に出された。

 

 それを置いたのは人間には見えない姿の相手。

 

 人型をした獣。

 

 亜人と呼ばれる人間と異なる種族との間に生まれた存在。

 

 その中でも【獣人《ベスティア》】と呼ばれる種族の壮年男だった。

 

 褐色の毛皮に尖がった鼻梁。

 

 黒い鼻に縦に割れた虹彩。

 

 毛深い腕と肉球が付いた手は人間と獣の中間に位置する造詣で鋭い爪を隠し持っている。

 

 大陸で長年認知されている種族ではあったが、人の国の中では間違いなく異物だろう。

 

 上手く共存している国もあるというが、多くの人の国家では歓迎されない事の方が多い。

 

 閑古鳥が鳴くのも世の道理か。

 

 しかし、予備憲兵隊の二人組みには然して問題ではなかった。

 

 大陸に住まうのは人間だけではない。

 

 少なくとも情報化社会の到来を感じつつある相応の先進国。

 

 それも若い世代にとって、亜人が危険でも何でもない存在というのは周知の事実だった。

 

 大陸を席巻する文化・社会の向上運動。

 

 教会の進める近代化《レボリュション》の波は多くの無智を駆逐し、それに対抗しようとする国の中から合理的な思考、効率化された意見の出現を促している。

 

 人間より優れた身体構造を持つ事が多い種族とはいえ。

 

 それで亜人を忌避するような無駄過ぎる価値観を藍も琉風も持ち合わせていない。

 

 そもそも一部稀少な亜人や生物に対する弾圧や狩りが行われている事を人間自身が憂慮し始めている。

 

 結局、彼女達にとって行き着けの店の主は少し外見が違うだけの気の良い男でしか在り得なかった。

 

「今日もお疲れ様。二人とも」

 

「あ、いえ」

 

「聞いてよ。マスター!!」

 

 控えめに微笑んだ琉風に大して藍が顔を怒らせる。

 

「どうかしたのかい?」

 

 カウンターにイソイソと顔を近付けた男に不満がさっそくぶちまけれる。

 

「ものすっごく、上司が不愉快だったの!!」

 

「ほほぅ? そりゃぁ、難儀だ」

 

「貴族の倅なのは別に構わないけど、自分がいる間に迷惑が掛かるような事件の伸展はさせるな、って堂々と隊員の前で言ってたんだよ!? 学徒憲兵隊として有るまじき事だと思わない?!」

 

「まぁ、貴族が偉いってのが世の慣わしだからなぁ」

 

「そう言ったって限度があるよ!! あの出っ歯に目に物見せてやるんだから!!」

 

「具体的にどうするつもりなのかしら?」

 

 琉風に聞かれて『ぅ……』と詰まった藍だったが、『事件を解決して!!』と目標を高く設定する。

 

「はは、そいつは頼もしい。こりゃ、犯人も裸足で逃げ出すな!」

「もう!! マスターったら!!」

 

 頬を膨らませた藍に肩を竦めて。

 

 マスターが今日のお勧めメニューを呟くと二人は同じものを頼んだ。

 

 店奥の厨房に笑顔で戻っていく背中を見送って。

 

 珈琲で一服しつつ、彼女達は業務の合間に拾った他愛無い噂を肴として会話に興じる。

 

 それは春の新色が出た簪の事であったり、近頃出回っている大陸中央式の服のセンスであったり、事件が起こった地域にある甘味処の味についてだったりした。

 

 三人居れば姦しいというのは二人でも変わらず。

 

 しかし、彼女達しかいない店内には丁度良い賑やかさかもしれない。

 

 十分程すると店奥からマスターが両手に皿を抱えて戻ってくる。

 

 ふわりと湯気を立ち上らせているのは大陸西部ではよく食べられている炒飯《ピラフ》だった。

 

 細かく切った色取り取りの野菜が程よい歯応えと色彩を残していて目に楽しく。

 

 横に添えられた揚げ鳥の切り身から溢れる肉汁と皮の香ばしさが素晴らしい一品だ。

 

 手を合せて頂きますと二人が添えられていた食器《スプーン》で料理を頬張り始めるのを目にして。

 

 マスターはにこにこと笑いながら、タンブラーを磨き始めた。

 

「ごちそうさまでした」

 

「ごちそうさま。マスター! 美味しかったよ!!」

 

「おう。お粗末様。今後もご贔屓にな」

 

 二十分程で食べ終えた二人が席を立って、小銭をカウンターに置く。

 

 琉風は軽く会釈して。

 

 藍は手を振って。

 

 また来るからと言い置いて店を後にした。

 

 その後ろ姿が消えた扉をしばし眺めていた獣人はゆっくりと店奥の厨房の方角へと振り返る。

 

「……もう悔いは無い」

 

 厨房の方には明かりが灯っておらず薄暗い。

 

「やってくれ……出来れば、オレがオレで居られる内に……」

 

 ポタポタと男は自分の足元と腕先から滴るものを見つめながら呟く。

 

「……ぁぁ、まったく……また、あの子達に何か作ってやれない事だけが―――」

 

 瞼の端や耳の端からシュルシュルと内側から這い出した細く赤黒い糸のようなものが店奥の薄暗がりを警戒するように僅か肉体から離れて揺れ。

 

『心配するな。今、終わらせよう。店主』

 

 声だけが彼の脳裏には響いて。

 

―――何をする暇も無く男は自らが死んだ事にすら気付かず、息絶えた。

 

「汝の次の未来に倖多からん事を……」

 

 次の日、新しい市民の耳として定着しつつある広告媒体、新聞に新たなる怪奇行方不明事件の犠牲者“かもしれない”名前が載った。

 

 ただ、亜人という事で同情する声は殆ど挙がる事無く。

 

 また、捜査に付いても自発的な蒸発なのではないかという事から、警察機構が本格的に単体の事件として乗り出す事も無かった。

 

 しかし、一応は調べなければならないという制度的な問題で治安維持に当る予備憲兵隊にお鉢が回ってきたものの、自ら捜査に名乗りを上げる者は―――ただ二人を除いて無く。

 

 そうして、彼女達の戦いが始まる。

 

 欠けた日常を埋め合わせるように。

 

 その炒飯が食べられない放課後が永遠に続く事を噛み締めながら。

 

 *

 

―――京州東区月齢館(げつれいかん)高等教育学科参号校舎。

 

「楽にしてくれて結構だ」

 

 そう言われて藍と琉風は部屋の端にある大きな花瓶に生けられた花の甘ったるい匂いを我慢しながら、目の前の出っ歯もとい自分達の上司の上司である男子学徒【小星金徒《こぼし・かなと》】の前で後ろ手を解いた。

 

 品の良い執務室は複雑な紋様の絨毯が敷かれ、昼時に開けられた窓からは麗らかな陽射しと微風が吹き込んでいる。

 

「君達が行方不明の亜人を探す任に就いたと聞いているが、間違いないか?」

 

「間違いありません」

 

「同じく。間違いありません」

 

 二人の顔は固い。

 

 嫌味というよりは何処か見下した感のある視線。

 

 呼び出された案件がそれならば、最悪の事態も想定して然るべきだと彼女達は事前に諸々を打ち合わせていたが、唾を飲み込むのを耐えた時点で権力というものを意識するしかなかった。

 

 どんなに小憎らしい自分より軟弱そうな出っ歯だろうが、雇われの予備憲兵の平隊員と学徒憲兵隊の正規隊員では天地の差というものがある。

 

 クビだと言われれば、即座に地位も居場所も失うし、止めろと言われれば、頷くしかない。

 

 彼女達を取り巻く現実から言えば、逆らって不利しかない相手。

 

 その権力という名の圧迫は決して社会的な生活を営む者には看過出来ないものだ。

 

「一つ問いたい。君達がその一件に関わろうとしたのは何故か?」

 

「理由、でありますか?」

 

 琉風が上司に当る出っ歯の言葉に怪訝そうな顔をした。

 

 てっきり、そんな亜人の捜査は止めろ、と。

 

 自分のいる間に厄介事を増やすな、と。

 

 そんな言葉を予想していたのだから当然だろう。

 

「隊員の個人情報の多くを指揮する者は把握している。だが、それだけでは分からない事もある……このぼくにしても同じだ。何故、捜査に当ろうとしたのか。その理由を知りたい」

 

「……知り合いだったからであります」

 

「知り合い?」

 

 黒檀の机の上で指を組んで。

 

 神経質そうな瞳が藍の発言に細められた。

 

「はい。被(・)害(・)者(・)はよく通っていた店の主でしたから」

 

「……そういう事か」

 

 ポツリと呟いて。

 

 小星が何やら視線を机に落す。

 

 しばし、何やら考えていた様子だったが、顔を上げるとおもむろに一番上の引き出しを開けると中から白紙を取り出して羽根ペンにインクを付け、サラサラと何事かを書き込んでいく。

 

「状況は理解したが、この場で君達に予備憲兵隊下での業務及び奉仕活動の凍結を言い渡す」

 

「な!?」

 

「ッ」

 

 いきなりの宣告に二人が硬直し、すぐ何事か口を開こうとして―――ピタリと自分達の前に立てられた人差し指に留められた。

 

「まぁ、聞け。君達のような平隊員にぼくの言葉を覆す事が出来ないのは先刻承知だろう。しかし、単に君達が厄介事を持って来るから、こういう結論に達したわけじゃない。人間を使うのは貴族の嗜みであるからして。人材を遊ばせておくような失態も犯す気はない」

 

「何が言いたいのでしょうか?」

 

 琉風が今にも喰って掛かり、罵倒しまくりそうな藍を圧し留めるように前へ出た。

 

「つまり、だ」

 

 一枚の紙に牡丹の花押が描き込まれて二人に差し出される。

 

「君達を【特別捜査隊】の末席に加えたい」

 

 二人の顔が困惑に染まる。

 

「特別―――」

 

「―――捜査隊?」

 

「ああ、まだ正式には発足していないが、現在この地域に起こっている怪奇行方不明事件を学徒憲兵隊や予備憲兵隊から選抜した人材で極秘裏に追う部署だ」

 

「「―――」」

 

「意外そうな顔をしているが、何か文句でも?」

 

「あ、え、その……いえ、文句は……」

 

 思わず藍が挙動不審になって微妙な表情をした。

 

 相手から言われた事と自分達が予想していた事の落差に名状し難いものを感じたからだ。

 

「隊長から事前に君達の資料は取り寄せた。杉野世藍……君は新米ながら、自分の対する業務や奉仕に一切手を抜かない者だと評価書にはあった。神酒谷琉風……君は同じく新米ながら、協調性と単独捜査における技術には一目置く点があるとか」

 

「え、は、はい」

 

 調子を狂わされた琉風が思わず返事をしてから、小星を凝視する。

 

「君達には本日付での転向辞令を発する。これは今日の深夜十二時を持ってぼくの権限で有効となる。明日、正式な通達が来るだろうが、現時点から君達を特別捜査隊付きの隊員に任命し、怪奇行方不明事件を追う為に不可欠な学問を修める事を命じる」

 

「学問、ですか?」

 

 何処か毒気を抜かれた様子の藍が訊ねた。

 

 その明らかな変わりようを咎める事も無く。

 

 小星が頷いて手書きの辞令を彼女達の前にペラリと見せる。

 

「特務人材による講義の受講と捜査の補助……これって、つまりあたし達に……」

 

「そうだ。君達の主な役目は今回の特別捜査隊に招いた外部顧問の補助だ。彼は捜査に必要不可欠な人材で自分でも捜査に加わる事になっている。彼の意向を最大限汲み取って欲しい。直接の命令権限があるわけではないが、彼からの言葉はぼくの命令と同義だと思ってくれて構わない」

 

「わ、分かりました!!」

 

 藍の瞳が耀くのを見て、琉風は『単純だなぁ……』と少し心配になった。

 

 何だ良い奴じゃん。

 

 とか、思っているとしたら……それは早とちりかもしれないのだ。

 

 言っている事は理解出来るが、話の流れに含まれる単語や流れがどうにも琉風には胡散臭く感じられていた。

 

「本日の夜十二時に第二校舎の北側にある体育館の体育準備室に集合。集められた人材の顔合わせをする事になっている。くれぐれも時間厳守で。その為の通路は全て開けておく。では、これで用事は終わりだ。下がっていい」

 

 片方は捜査が出来ると喜びを素直に表し、片方は何か腑に落ちない顔で少し視線を俯け、どちらも敬礼してから部屋を後にする。

 

 二人が出て行って僅かな沈黙が部屋を満たして。

 

 小星は溜息を一つ。

 

 書類仕事用の眼鏡を取り出し、二枚の素行調査書類を三段目の引き出しから引き抜き、再度目を通した。

 

「……さて、これで相手側の条件は満たした。お手並み拝見といこう」

 

 片方は性格と協調性に問題有り、もう片方には再試験の必要性有りとの判が押されている。

 

 書類を下に戻した彼が遠方との通信用に東匠文字《イースタン・キャラクター》が多用された光の円環。

 

 魔術、乂羅《がいら》においては陰陽の小さな方陣を虚空に描き出すと何者かに向かって話し始めた。

 

「はい……はい……客人は予定通り到着しました。今のところ教会関係者の姿は付近に―――」

 

 穏やかな風が吹く昼時。

 

 何も知らず。

 

 二人の少女は一歩踏み出した。

 

 *

 

 月齢館高等教育学科。

 

 それが藍と琉風の通う学び舎の名前である。

 

 対外的には国立のまぁまぁな学力と地域に根ざした学習の場という事になっているが、軍都の国立教育機関という事はつまり有事に際してはもっとも先に徴兵される若年層を囲う場という事だ。

 

 勿論、それらの契約は入学時の念書と契約書に書かれているし、学徒達の多くはそれを承知している。

 

 講義には戦闘訓練も含まれており、もしもの際には動員される事を覚悟しない者は無い。

 

 それでも学費が安く。

 

 また、教育レベルも高いとあって、軍人や警察機構への就職に有利な面のある学び舎へ入学を希望する若者は後を断たない。

 

 煉瓦造りと木造が同居する校舎は時代を感じさせる風格を残しながらも最先端の建築として都の民に特別な視線で見つめられている。

 

 通う者達の品行も良く。

 

 周辺住民からの評判も上々。

 

 となれば、多少の校則違反。

 

 下校中の寄り道くらいは可愛いものだと多くの飲食店が暗黙の了解として生徒達に放課後の居場所を提供していたりもする。

 

 部活に入らない者は素行不良というわけではなく。

 

 奉仕活動や郊外での清掃活動にも従事する奉仕者であり、多くの都市民達にしてみれば、可愛い娘や孫というのが妥当な立ち位置だろう。

 

 寮に一度帰った二人が夜中に出歩いている様子も学校関連の行事の準備だろうと見掛けた多くの者が目の端で見逃した。

 

「ぅう、何か不気味」

「そうね。確かにこれはちょっと……」

 

 藍と琉風は指定された裏手の通路を通って、簡単に校舎内へと侵入出来ていた。

 

 言われた通り、体育館内部まで行くと辺りにはひんやりとした空気が漂い、灯りとして持ってきた照明《ライト》も蒼い天の星光に薄らと染まって、周囲の薄暗い廊下や壁を映り込ませている。

 

 歩く傍ら。

 

 藍は肝試しでもしているような気分で少し腰を引き気味にしながら、小さく隣の琉風に呟いた。

 

「ねぇ。今更だけど。本当に誰か待ってるのかな?」

 

「本当に今更じゃないかしら」

 

「だ、だって、夜の校舎がこんなに!?」

 

「こんなに?」

 

「ぅ……その……」

 

 怖いとは思っていなかった、なんて言えず。

 

 口元をもにょもにょとさせて藍が俯く。

 

 その様子を見て琉風が苦笑した。

 

 いつもは勇ましい相棒も幽霊の類は怖いのだろうかと。

 

「藍は結構そういうの怖い方だった?」

 

「ち、違うよ!? 怖いとか!? た、単に夜の校舎は不気味というか。誰も居ないのが妙に寒々しいというか……」

 

 尻窄みになった言葉は彼女達の目的地。

 

 体育準備室の前で途切れた。

 

 ゴクリと藍の喉が鳴る。

 

 鋼の扉は微妙に錆び付いていて。

 

 少し角は塗装が剥げていた。

 

 この先に人が待っているとは信じられないという藍の顔には怯えの色がありありと浮かんでいる。

 

「大丈夫でしょ。別に取って喰われるわけじゃなし」

 

 琉風がそっと手を握った。

 

「う、ぅう……あ、開ける、よ?」

 

 そっと扉の中央に手を掛けて、ゆっくりと藍が横に重い扉を開く。

 

 内部は薄暗く。

 

 体育に使う用具が少しおざなりに詰め込まれているだけだった。

 

 他には何も無い。

 

 だが、待ち合わせ場所は其処という事実を踏まえ。

 

 二人は顔を見合わせてから意を決して内部へと歩みを進めた。

 

 そうして、一秒、二秒、三秒、四秒。

 

 五秒経って、藍が何も起らないし、誰も居ないのはどういう事なのかと相棒へ話し掛けようとして。

 

 バダーンッ。

 

「「?!?!!」」

 

 二人の背後で扉が音を立てて閉まり、両者の心臓が驚きに震える。

 

 夜の静寂に響いた音は来訪者の寿命を縮めるには十分だろう。

 

 が、それだけに留まらず。

 

 室内の床に音を鍵として起動する光の円環を浮かび上がらせた。

 

 魔術方陣。

 

 幾多もある魔力形質より技と知によってあらゆる事象を生む力。

 

 この国では陰陽方陣《おんみょうほうじん》と言われるソレが発動したのだ。

 

「これって?!」

 

「藍!!」

 

 二人が慌てて外に出る間も無く。

 

 空間を跳躍する転移の光が全てを包み込んだ。

 

「「―――」」

 

 眩しさに目を閉じて数秒後。

 

 彼女達はチラリと片目を開いて、周囲を見渡す。

 

 辺りは暗いかと思いきや。

 

 赤い煉瓦作りの小さな部屋だと認識出来る程度には明るかった。

 

 壁の四方に置かれた鉄皿には市販されている獣油が満たされ、紙縒《こよ》りの先に灯火が揺らめいている。

 

 扉は前に一つだけ。

 

 それも障子張りされた引き戸。

 

 簀子《すのこ》が下には置かれており、その横には学徒達が愛用する黒の革靴が何足か置かれていた。

 

 たぶん、この先に誰かいるのだろうと緊張からゴクリと唾を飲み込んだ二人だったが、その緊張を破るように絹を裂くような悲鳴が扉の先から発せられる。

 

「琉風!!」

 

「分かってる!!」

 

 咄嗟の事に再び震えるかと思われた藍だが、そんな事は無く。

 

 彼女達は何も言わずとも息を合わせた様子で障子を左右から開き、内部へと転がり込んだ。

 

 攻撃は無し。

 

 ザッと背中合わせになった藍と琉風は周囲の内装に驚く。

 

 内部は何故か―――教会の中。

 

 それもかなり巨大な四方100mに及ぼうかという広大なものだった。

 

 左右には遥か天井も見えない暗黒の先から下りて来る長大な柱が六本ずつ。

 

 長椅子の群れが中央の道を描き出して、その最奥には祭壇と大きな硝子絵《ステンドグラス》が壁に嵌め込まれている。

 

 壮大な図絵のモチーフは旧い教会建築にはよくある中央に唯一神を現す事物を置き、周囲に天使や聖人達を配するもの。

 

 しかし、異様なのはその中心にあるのが光の玉や偉大なる父の姿をした者ではなく。

 

 真白い―――触手の塊が描かれている事だろう。

 

「なんなの!?」

 

「これは?!!」

 

 悲鳴は祭壇の中央。

 

 ウネウネと蠢く白く太いテラテラと光ったモノの周囲から放たれている。

 

「邪神崇拝?! 召喚の類で化物でも持ってきてるってわけ!?」

 

 そうとしか思えない状況。

 

 藍が思わず全身の毛穴が開くのを感じた。

 

 しかし、彼女達には得たいの知れない化物を対峙出来るような技量は無い。

 

 大げさな武器を背中に差しているのはある種、宣伝と治安維持の欺瞞《ブラフ》なのだ。

 

 腰の左右にある脇差も半ば飾り。

 

 それなりに訓練は受けているとはいえ。

 

 魔術にしても他の技術にしてもあまり技量が高いとは言えない。

 

(どうしてこんな事になってるのか分からないけど!? 助けなきゃ!!?)

 

 相棒、藍の顔に琉風は一先《ひとま》ず応援を呼んで様子見をするという選択肢が無い事を悟る。

 

「藍!! 囮はこっちで引き受ける!! あなたは反対側から奇襲を掛けて囚われてる人を助けなさい!! ただ、欲張っちゃダメよ!! 無理だと思ったら下がる事!!」

 

「琉風……うん!!」

 

 二人の視線が一瞬交わり、互いに左右に別れる。

 

 声を上げて、正面から糸目の少女が刀を抜いて駆けていく。

 

 一瞬、白い触手の動きが止まった。

 

 そして、声の方に緩慢な動きで紐のように自己を分割して伸ばし始める。

 

 化物との距離が10mを切った刹那。

 

 長太刀をスラリと背中から澱み無く引き抜いた琉風は足裏に簡易の陰陽の方陣、白い円環を奔らせ、2m程跳躍して斬り掛かった。

 

「はぁああああああああああ!!!」

 

 細い触手が二本。

 

 振り下ろされようとしている刃に向けられ。

 

 ハシッと。

 

 刀身の横、鎬《しのぎ》部分を両側から押さえて彼女の動きを止める。

 

「は?!」

 

 白刃取り。

 

 それも虚空で刀を持ったまま、人一人を持ち上げるという荒業。

 

 思わず呆けたような顔になって、更に驚愕で固まった琉風が更に伸びてきた細い触手に思わず刀を手放す。

 

 すると。

 

 ペチン。

 

 そんな音と共に額を弾かれて気を失った。

 

 デコピンである。

 

「琉、琉風ぅううううううう!!? ゆ、許さないんだからぁああああ!!!?」

 

 相棒の危機に我を忘れた藍がいつもの冷静さも忘れ、密かに近付いていたのに残り数mのところで抜刀。

 

 触手内部にいるのだろう相手の事を踏まえつつ、伸びている触手を真横から擦り抜け様に叩き切った、かに見えた。

 

 グニュム。

 

「き、斬れてない?! な、何なのよ!? この触手は!?」

 

 予め用意していた攻撃用魔術が彼女の前で耀く円環として展開され、斬れなかった触手へ向けて放たれた。

 

【黄炎《コロレム》】

 

 派手な炎の割りに威力が無く。

 

 また、人質と犯人をどちらも傷付けないように配慮された威嚇攻撃。

 

 ボファァアアアッと触手を炎が嘗め尽くす。

 

 アチチチと言いたげな様子で触手がブンブン炎の付いた部分を振り回してオロオロしている間にデロリと触手の塊の中から足が飛び出したのを見つけ、藍は刀も放棄して両手で引き抜いた。

 

「こ、んんのぉおおおおおおおお!!!」

 

 ズボァアアッと内部から人が吐き出され、ベッチョリとどんな成分かも分からない分泌液が彼女の顔を濡らしたが、それに構っている暇は無いと引き抜いた大根もとい被害者を引き摺るようにして触手から距離が取られる。

 

 ズルズルと祭壇から降りて一列目の長椅子の後ろまで後退した藍は首筋を引き摺られ、ゲホゲホと目を白黒させている相手をようやく自分の目で確認した。

 

「大丈夫!!? 怪我は無い!?」

 

「はひゃ!? ななな、あ、貴女一体何方ですか!?」

 

 予備憲兵隊の制服を来た童顔の少女。

 

 たぶん、あまり歳も離れていない儚げな容姿の相手に藍は思わず『あの触手許せない!!』との感想を抱いた。

 

 制服は粘液に塗れており、長い黒髪が姿態に張り付いている様子は艶かしい。

 

 何処か愛嬌のある顔は貴族の子女かと思うような小ささで楕円形の白眉《はくび》は困った様子で八の字になっている。

 

「もう大丈夫だから!! あの化物のすぐ近くに仲間が倒れてるの!! 悪いけど、もし逃げられるようだったら、自分で出口の方に逃げて!!」

 

「え!? え? えぇ!? ちょ、ちょちょ、ちょぉおおっと待って下さい!?」

 

「何よ!? 今、それどころじゃないの!? 確かに危険かもしれないけど、仲間を見捨てたり出来な―――」

 

「も、もしかして、此処に配属になった方ですか?」

 

「そうよ!! それにしても集合場所が急襲されてるなんて?!! 犯人の仕業!? それとも別の何かだって言うの!?」

 

「いや、そうじゃなくて!? ちょ、お話聞いてますか!? あの、どうして物騒な陰陽を練ってるんですか!?」

 

 兵隊としても訓練されている学徒は攻撃用の魔術も幾つか習う。

 

 それこそ、入って間もない一年生だろうと使い方によっては即座に人を殺傷するに足りるような威力の攻撃魔術は基礎として修めるのが普通だ。

 

 左の掌に方陣を浮かべ、次の攻撃準備に入っている藍に被害者少女が思わず目を見張った。

 

「く、琉風……絶対に助けてみせる!?」

 

「いや、助けるも何も―――」

 

「行くわよ!! 琉風を放しなさい!! このばけも―――」

 

『化物呼ばわりとは心外だ。く……近頃の若者は触手というものに邪悪しか感じないというのか?! これが教育危機?!! 現場の崩壊?!! 人を見た目で判断してはならないという普遍的な道徳すら教わっていないとは……嘆かわしい……』

 

 とても仰々しい嘆き様で教会内部に声が響く。

 

「ば、化物がしゃ、シャベッタ!?」

 

 藍が思わず一歩後ろに下がった。

 

 祭壇の上でようやく火を消した触手の塊がシュルシュルとその体積を小さくしていくと。

 

 中から紫で統一された衣装が顕になり、触手もまたその袖や首筋の奥へと引っ込んでいく。

 

「失敬な。君は親から他人が喋ったら、化物呼ばわりしろと言われたのかね? それと年頃の乙女がはしたないぞ君。せめて、中央風の服の下には下着を付けたまえ」

 

「う、な、何でそんなに偉そうなのよ!? それとどうして触手人間に説教されてるのあたし!? 後、下着とか余計なお世話!!?」

 

 触手が完全に衣装の内部に消え去ると。

 

 其処にいるのは異様な程に自己主張が激しい服を身に纏ったナイスミドル。

 

 それも似合っている為、まったく様になっている男が一人。

 

「ああ、良かった!? お怪我はありませんか!? クストス様」

 

「は?!」

 

 思わず後ろからの声に藍が振り返った。

 

 すると、助けたはずの少女が慌てた様子でクストスと呼んだ壮年男の方へ駆け寄っていく。

 

「ちょ、何してるの?!」

 

「いきなり協力者に斬り掛かるなんて失礼な人達ですね!! それでも予備憲兵隊の隊員ですか!?」

 

「え? え? 何? きょ、協力? 協力者? それって……」

 

「此処に居られるのは今回の事件に協力して下さった特務人材なんですよ?!」

 

「な、ななな、そ、その触手人間が?!」

 

「触手人間だなんて酷い事を?! この方はクストス。クストス・ハリ・マーシー・アッハ様。今回の事件を解決する為に我々に力を貸して下さる外部協力者にして、その為の学問も教えてくださる講師です!!」

 

「講師だか協力者だか知らないけど、貴女、襲われてたじゃない!? 処女奪われる前に助けてあげたのに!?」

 

 ビシッと指差しで被害者?に批難された藍が思わず叫んだ。

 

「な?! 失礼な?! 僕は男の子ですよ!!? さっきの悲鳴はちょっと暗いところがダメなのを言い忘れてただけです!!」

 

 思わず顔を染めて少女?が可愛く怒鳴り返す。

 

「はぃいいい?!」

 

 何が何やら分からない様子で疑問符だけが増えていく現状に「う~ん」と気を失って倒れていた琉風の声が響き渡る。

 

「………ふぅ。前途は多難そうだな」

 

 やれやれと肩を竦めた男。

 

 紫尽くめの怪紳士クストスは小さく溜息を吐いたのだった。

 

 *

 

 教会の奥にある扉の先。

 

 時間も時間なのに晴れ上がった空が広がっている壁に囲まれた中庭で四人は一つのテーブルを囲んでいた。

 

 古風《アンティーク》な飴色の家具が庭に出しっ放しという違和感。

 

 更に白い蔓が刻まれた陶磁器《カップ》の中には薫り高い西部の高地でしか生産されていない紅い色をしたお茶が注がれている。

 

 彼等の後ろにはクストスとは違った意味でナイスミドルな壮年の男が一人直立不動でにこやかな笑みを浮かべていた。

 

 後ろに撫で付けたオールバックの白髪。

 

 上唇を覆う白髭。

 

 黒い給仕服の外側からでも分かるガッシリとした筋肉が僅かに隆起する様は相手に圧迫感を与えてもいいはずだが、その人柄の良さそうな二枚目の顔と丁寧な仕草には粗暴さの欠片も見えない。

 

「「……」」

 

 琉風と藍は一体何がどうなっているのかと事情を知っていそうな少女。

 

 否、【蔡導新火《さいどう・あらか》】と名乗った同僚らしき少(・)年(・)に視線を向けた。

 

「とりあえず。初めに言っておきますが、先程は襲われていたわけではありません。単にクストス様から教えを請うていただけなのですよ」

 

「いや、喰われてたわよ。ほぼ十割くらい」

 

 ボソッと藍が呟くとジロリと新火に睨まれ、視線を逸らす。

 

「こほん。では、本題に入りましょう。お二人はこの特別捜査隊に配属された新人なのですよね?」

 

「ええ、杉野世藍よ」

 

「私は神酒谷琉風ね。よろしく新火君」

 

 二人の名前を確認して頷くと新火が横で静かにカップを傾ける男の紹介をし始める。

 

「お二人にはもう一度紹介しておきます。こちらはクストス・ハリ・マーシー・アッハ様。我等、特別捜査隊に力を貸してくださる外部からの協力者にして、隊の全権を保持するお方です」

 

「……触手なのに?」

 

 ボソリと呟いた藍に新火が非難の視線を向ける。

 

「そう怒らないでくれたまえ。君の気持ちは嬉しく思う」

 

「クストス様……」

 

 諌《いさ》められた新火からシオシオと怒りが消えた。

 

「新火君に紹介頂いたクストス・ハリ・マーシー・アッハだ。君達から呼ぶ時は名前でいい。別に年上であるからとか、この隊の全権を預かっているからとか、そういう理由で威張れるような身分でもないからな」

 

「……」

 

 未だ胡散臭そうに自分を見つめる小さな少女の視線にクストスは苦笑気味だった。

 

「我輩はとある界隈では触手紳士等と綽名される者だ」

 

「触手紳士って?! あの噂の!!?」

 

 藍が驚きに目を見張り、その横で琉風もまた同じように目を丸くしていた。

 

「どのような噂なのかは敢えて聞かないが、たぶん……それは我輩の事だろう」

 

「……それでどうしてその触手紳士さんが特別捜査隊なんかにいるわけ? そもそも、あの変な教会やその子を飲み込んでた事。さっきまで夜だったのに昼になってる中庭。諸々聞きたい事が山程あるんだけど」

 

「そう急くな。お嬢さん。物事には順序というものがある。機を見て行動しなければ、この特別捜査隊の目標を追い詰める事も出来はしないぞ」

 

「ッ」

 

 藍が感情的に何かを言い掛けるも、琉風がそれを手で制止した。

 

「分かりました。では、率直にお教え下さい。クストス“さん”」

 

 今度は新火がムッとした顔をしてジロリと二人を睨む。

 

「ふむ。では、まず我々が追うべき相手。その事から話さねばならないだろう。新火君。資料は持ってきているかね?」

 

「あ、あい。今お配りします」

 

 イソイソとテーブルの横に置いてあった学生鞄から十枚近くの資料が藍と琉風の前に差し出された。

 

 それを手に持った二人が同時に目にした言葉は一つ。

 

 【着包野郎《サンドイッチマン》】

 

「この“さんどいっちまん”とか言うのが、行方不明事件を起こしてるって言うの?」

 

 藍の問いにクストスが頷く。

 

「では、読みながら聞き流してくれたまえ。我等が追うべき敵。それが一体何なのかに付いて話していこう」

 

 一枚目の資料を二人が読み込む傍ら。

 クストスが静かに語り始める。

 

「元々、この奇怪な行方不明事件は大昔からずっ続いているものなのだ。しかし、近年の人間社会の高度化と組織化が進み、行方不明事件程度でもきちんとした捜査が行なわれるようになった。故に奴の起こした事件は少しずつ明るみに出てきて、今のような騒がれ方になっているわけだ」

 

 二人の持つ資料には大陸の歴史年表のような何時何処で誰が行方不明になったかとの記載が延々と連ねられていた。

 

 その最初の年号はまだ歳若い二人からすれば、遥か昔と言っていい。

 

 凡そ二千年程前まで遡る。

 

 被害者の名前だけが書かれている事もあれば、その人数だけ記載されている事もある年表の長さは尋常ではなかった。

 

「こんな―――何千年も前からって、こんなのどうやって調べたのよ?! 嘘っぽい」

 

 藍の目が細められる。

 

「なッ?! ら、藍さん!! 聞き捨てなりませんよ?! それはクストス様がこちらの要請で持ち込んで下さった敵への重要な手掛かりの一つなんですよ?!」

 

 少女の最もな疑いように気色ばんだ新火だったが、手袋を嵌めた手に肩を触れられて、シオシオとまた反省した顔となる。

 

「そもそも、これじゃあ、相手は化物って事になるわ。それも何千年も前からいる!!」

 

「そう言っているのだが、おかしいかね?」

 

 真顔で言われて藍が固まった。

 

「ぅ、嘘じゃないとしても、やっぱりこの年表自体怪しいじゃない!! さっき人間の社会の高度化とか言ってたけど、それなら大昔にこの情報が知られている事自体、在り得ないはずでしょ!」

 

「ふむ。最もな意見だ。だが、確かにそれを調べた人間はいる。そして、それが秘匿されてきた物であるなら、君の問いへの解答として話の筋は破綻しないな」

 

「く、じゃあ、誰がこの情報を纏めたって言うの!!」

 

 あくまで食って掛かる藍にクストスが二枚目の資料を見るように言った。

 

 ペラリと捲られた紙束の中に見つけた単語に今まで何も言わなかった琉風が『なるほど……』と内心で理解する。

 

「教会?! これ、まさか七教会《しちきょうかい》の……」

 

「その通りだ。と、言ってもこの情報は教会は教会でも七教会が保有していたものではないが」

 

「ど、どういう事?!」

 

「大陸の歴史に少し詳しい者なら子供でも知る通り、七教会とは数十年前に顕れた七人の聖女達が旗頭となり、教会を再編した組織だ。その再編のゴタゴタで教会は二つに分かれた。旧教会《きゅうきょうかい》と呼ばれる事となった昔ながらの教義を守る教会と聖女達を中心に成立した新しい七教会。これは旧い方の教会、その一部署が保存していた資料なのだよ」

 

「……百歩譲って、この情報が旧い教会のものだとして。じゃあ、教会は今までこの行方不明事件を隠蔽していたって事?」

 

「隠蔽はしていたな。だが、放置していたわけではない。何故なら、教会はこの二千年程、たった一体の化物を追い続ける専従人材を抱えている」

 

「そんな……」

 

 いきなり話が大きくなって、藍がどう言い返したらいいのか分からずにクストスを見つめる。

 

「クストスさん。一ついいですか?」

 

「何かな? 琉風君」

 

 狐目の少女が薄らと瞳を開いて訊ねる。

 

「これが真実だと“仮定して”お話しますね?」

 

「ああ、構わない」

 

 頷くクストスに鋭い質問が飛ぶ。

 

「この情報が事実だとすれば……この大陸において極めて能力の高い術者や超越者を抱えていた旧い教会は事件を起こした存在を二千年も捕まえられず、斃《たお》せていない事になりますよね?」

 

「その通りだ」

 

「……一体、この捜査隊はどうして作られたんですか? この情報を上層部が知っているとするなら、この時点で私達みたいな“素人”に御呼びが掛かるはずないと思うのですけど」

 

「た、確かに?! 一体、どういう事なのよ!?」

 

 クストスが二人の視線に資料を見るように促す。

 

「中々鋭い指摘だ。それでは三枚目の資料を読んでみて欲しい」

 

 またパラリと資料が捲られる。

 

「な、何よ。コレッ!? 一体、この化物何なのよ?!!」

 

 思わず藍が資料を取り落とす。

 

 三枚目の紙には幾つか事件現場の画像があった。

 

 それも新しい物は篆刻写真、旧いものは薄汚れた絵画である。

 

 そのどれにも共通するのは被害者達の悍しい姿だった。

 

 添えられた説明文と思しき文章には端的で見るに耐えない表現が羅列されている。

 

 視神経侵蝕により、発狂後、眼球より“開花”。

 

 椀部侵蝕、細胞分裂限界まで肥大化。

 

 胸部の自己複製と暴走。

 

 内臓器官の強化と腐敗により屍《アンデッド》化。

 

 侵蝕機関の歪な成長によって、体内構造の配置転換。

 

 大脳の侵蝕による脳機能欠落及び頭蓋暴発。

 

 全てを見る前に吐き気を堪えて俯くのも仕方ないような奇態な薄気味悪い触手と人間のオブジェは、もはやグロテスクを通り越して、狂気そのものだった。

 

「敵、これらを引き起こした元凶はそもそも物質的な安定を持つ存在ではない」

 

「物資的安定?」

 

「そうだ。あまりにも不確かなのだよ。故に物質的な安定を得る為、このような事象が起こされているのだ」

 

「ど、どういう事よ?!」

 

 クストスが藍から僅かに怯えた視線を受けて、頬をポリポリと描く。

 

「ああ、怖がらせてしまったかな。だが、君達が今見た通りのものが、今もこの界隈で少なからず被害者を出している。我輩はそれを止める為にこの地へやってきた。これだけは信じて欲しい。そして」

 

 二人の前で四枚目の資料を捲ってクストスが提示した。

 

「君達がしなければならない事を今、伝えよう。藍君、琉風君……君達には触(・)手(・)を愛して欲しい」

 

「「?!!?」」

 

 度肝を抜かれた藍と琉風が同時に血の気を引かせた。

 

「それだけが【着包野郎《サンドイッチマン》】を斃す方法だ」

 

 世界が音を立てて崩れるような衝撃。

 全てが動き出した時、藍はその吐き気を抑え切れず―――ナイスミドルな給仕のお世話となった。

 

 *

 

 触手に追われていた。

 

 逃げていた。

 

 闇夜の道に人影は無い。

 

 運悪く街灯すら無い畦道を直走って。

 

 それでも滑るようにソレはやってくる。

 

 砕け散ってしまいそうな熱量が肺を焦がして。

 

 心臓が悲鳴を上げるより先に彼女は自分の足元がソレになっているのを―――。

 

「dbg<#$PTG<4!!!!?」

 

 もう自分でもどんな叫びなのか分からない程、声にならない悲鳴を上げて。

 

 藍は宿舎の自分の部屋で目が醒めた。

 

「――――――み、ず……」

 

 枕元にある水差しでコップに注ぐ余裕も無く唇を湿らせて。

 

 彼女はようやくハァハァと脳裏にこびり付く悪夢を振り払った。

 

 大陸中央諸国製の敷布《マットレス》は煎餅布団よりは快適だが、大地に足が付かないような、空に浮かんでいるような不安定な感覚で藍の意識を揺さぶる。

 

「うぅ……あの触手おばけ……」

 

 怪紳士。

 

 否、触手紳士クストス。

 

 まったくナイスミドル極まる男が前日の夜に藍と相棒に告げた役割は衝撃的なものだった。

 

 【着包野郎《サンドイッチマン》】と呼ばれる現象はそもそもが意思を持って動き回る見えない疫病のような存在で、それを消滅させる為には触手の構造を精確に理解し、把握し、想像出来る人間が必要である。

 

 それは相手を知る事、確定する事に繋がる。

 

 さすれば、相手の本体は顕現し、初めて相対する事が可能となる。

 

 つまり、彼女達に課された学問の名は紳士曰く。

 

【触手道《テンタクリス》】

 

 これをもって、敵を捜索し、想像し、観測し、確定し、顕現させ、仕留める。

 

 だから、それだけの情熱と執念を一言で言い表すなら愛《あい》だと彼は言った。

 

『奴は存在しているが確定していない。そのようなものだ。同時に悪意を持って、生物に分け入り、自らの肉体を顕現させようとする。その為にあのような被害者が出るのだ。行方不明者の殆どは生物としての形を保てなくなって短時間の侵蝕で消滅するか。あるいは何とか生き残って肉体と精神を狂気に彩られた化物と化すか。殆どはその二択だ。一つだけ例外として、そもそも触手そのものが奴の寄り代として機能する場合もある。そうした輩が人間を襲い、喰らい、侵し、行方不明者の数を上積みするという事も多い』

 

 クストスは真面目な顔で二人に告げた。

 

『我等、特別捜査隊の主な任務は行方不明者の捜索。または化物と化して正気を失い、人々に仇為すようになった“被害者”の排除。奴から智を与えられた触手達の排撃。そうして、最後に着包野郎《サンドイッチマン》本体の捜索と顕現、打倒となる』

 

 途中、この事実を公表して大掛かりに探索と対策をすればいいじゃないかと琉風は食い下がったが、それらの意見は一蹴された。

 

『何故、捜索部隊が少数精鋭で組まれたのか。その理由は奴が人の意識というものに左右され易い性質を持っているからだ。もしも、これらの事実が大きく地域の人々に知られれば、それだけ奴の顕現しようとする速度が上がる。意識されるかされないか。それだけの違いでしかないが、それだけの差で被害が加速度的に広がるのが、奴の特徴の一つでもある。一枚目の資料で行方不明者、犠牲者数に特定不能の文字を見なかったかね? あれはそういう事だ。一つの村、都市、城、国、それらが時折原因究明の進展で奴の餌食になった』

 

 自分達より相応しい人員がいるんじゃないか。

 

 何とかそう言った相棒への回答は彼女もしっかり覚えている。

 

『相手が顕現しさえすれば、奴を倒す事は我輩にも出来る。だが、それまでの過程が難事だ。そもそも奴は自分の存在を知った者、気配を感じた者、触手としての実体を備えた者に部分的な顕現を行なうが、他者から意識的に観測されて確定する場合には幾つかの条件を満たさなければ出て来ない』

 

 それは何かと聞けば、声はすぐに返った。

 

『奴は自分の苗床となれる人間。それも自分を絶対に倒せない弱く能力的に劣っている健康な母体、初産《ういざん》前の女の前のみに姿を現す。ちなみに能力的にというのは精神の強度までも含めた話だ。奴にとっては生贄か。喰らい易い女でしかない者、と言って差し支えないだろう』

 

 ならば、自分達は体の良い囮かと食って掛かった彼女達に今まで黙っていた新火が選ばれた基準を静かに語ったのは最初から話すつもりだったからなのだろう。

 

 その声はまるで説明文のように淀み無く事実を伝えた。

 

『若く、健康で、出産経験が無く、尚且つ能力があらゆる面で捜査中に相手を超え得ず。また、理解力、記憶力に優れ、不測の事態への対応力に富み、足手まといに為らず動ける者。これだけの条件を揃える者を選抜するのが、どれだけ大変かお分かりですか? また、条件に当て嵌まっても秘密を守れる者でなければならない。これらの怖ろしい事実を前にしても捜査に協力を惜しまないだけの理由が無ければ、とてもやってはいけません。だから、貴方達はそれに見合うだけの適性があると上の方々は判断したのでしょう』

 

 前日の不愉快と込み上げてくるものを飲み下して。

 

「何が判断したのでしょう、よ……」

 

 藍が自らを奮い立たせるように悪態を付く。

 

「……琉風。どうしてるかしら……」

 

 自分と同じようにショックを受けていたのは確実。

 

 あまり顔に出ない相棒が気にし過ぎて病んでしまうのではないかと藍は別室に向かうかどうか迷う。

 

 朝はまだ空けていなかった。

 

 うっすらと灰色の空に朱の光が射してはいるが、まだ明けるには時間が掛かるような時間帯。

 

 眠れず。

 

 されど、脳裏を過ぎる無数の情報に振り回されて、藍は枕に顔を埋めた。

 

(何もかもが唐突過ぎるわよ……生贄……いや、餌として使う気なんでしょ。つまり……)

 

 やはり、貴族なんてロクなもんじゃないと彼女は自分達の上司の出っ歯の説明に人間の屑(ロクデナシ)という情報を追加する。

 

 それから数分、淀む思考と眠気にうつらうつらとしながら、彼女がむっくりと起き上がった。

 

「顔洗って、歯磨いて、着替えなきゃ……」

 

 まるで錆び付いた人形を思わせる動きで準備する事数分。

 

 最後に髪を丁寧に梳かして、彼女は自分の顔を鏡台に見つめる。

 

 簡素な寮で唯一彼女が良いと思うもの。

 

 全てを映し出すソレの中には目元が涙の痕で腫れぼったい少女が一人。

 

「戦わないと……」

 

 言って。

 

 決意した藍が鏡に布を被せ、立ち上がる。

 

 そうして、まだ寮生も疎らな軋む床を素足で歩いて、食堂へと向かった。

 

「やぁ、昨日はよく眠れたかね? お嬢さん」

 

「ブッ?!」

 

 食堂内部と厨房がカウンター越しに繋がった大陸中央式の一室。

 

 四十畳程の内部には椅子と長いテーブルが置かれている。

 

 いつもならば、カウンター内部で立ち働く相手はふくよかで気の良さそうな四十代の寮母のはずだが、其処にいたのは前日の悪夢、否―――エプロン姿の触手おばけ、怪紳士クストスだった。

 

 その服はまるで変わっていない。

 

 それが食事を作る者の恰好だろうか?

 

 まるで常識を疑うような紫ルックな壮年は快活な笑顔で髭を煌めかせ、お玉にフライパンを持って……せっせと食事を作っていた。

 

「うぷっ」

 

 吐き気というか眩暈を催した藍がヨロヨロとテーブルに片腕を付く。

 

「おや? どうかしたのかね? 具合が悪いようだが」

 

「だ、誰のせいだと思ってるのよ!? それよりおばちゃんは!! 寮母さんはどうしたのよ?!!」

 

 思わず喚いた彼女に怪紳士は爽やかな笑顔で告げた。

 

「ああ、幾恵《いくえ》さんならば、今日は娘さんのお見合いに行っている。我輩の採用は規定路線として、数日前から面談してたのでね。快く引き継ぎさせて貰った」

 

「な、な、なぁ?!」

 

 彼女だって知らない寮母の名前をさん付けにしたクストスにワナワナと震える藍は目の前が真っ黒になった気がして、思わず叫ぼうとしたものの。

 

 起きぬけで力が入らず。

 

 椅子に腰を落としてしまう。

 

 そんな様子にクストスがササッと厨房から出てくると漆塗りの膳を持って来て、彼女の前へ置いた。

 

「どうやら活力が身体に廻っていないようだ。朝食は健康な生活に重要な一要素であるからして、まずは空腹を満たしてから話をしよう」

 

 ふわりと藍の目の前で芳香が立ち上る。

 

 大陸中央式の揚げ物(フライ)は麺麭を削った衣を油でカリカリに焼く代物だ。

 

 見事な糸の如き千切りの葉物に乗るのは俵型の何か。

 

 東部の主食である白米は炊き立てで、味噌汁と漬物、それから李《すもも》を切ったものが小皿に並んでいる。

 

 ぐぅ、と身体が正直な空腹を訴えた。

 

(何でこんな時に鳴るのよ!?)

 

 自分の堪え性の無い腹に怒りを覚えつつ、さりとて寮母の代わりにやっているというクストスの出した料理を拒絶したところで事態は何も変わらないと。

 

 彼女は葛藤する。

 

 だが、それもすぐにケリが憑いた。

 

 空腹のまま話しても相手に侮られるだけだろう。

 

 そんな思考から藍がキッと横のナイスミドルを睨み付ける。

 

「不味かったら、寮母さんに訴えるから!!」

 

「勿論だとも。こう見えて、我輩も料理の道は長い。前途ある学生諸子に無様なものは出さないと誓おう」

 

「ぅ……じゃ、じゃぁ……」

 

 邪気の無い自信に満ち満ちた相手の断言に気圧されながらも、そっと藍は箸を取った。

 

「い、頂……ます」

 

 昨夜の白い触手が脳裏にチラチラと思い浮かんだが、相手に呑まれてしまうのは避けたいとの思惑もあり、箸が躊躇を振り払って俵型の揚げ物に刺さった。

 

 サクッ、じゅわぁぁ。

 

(何、これ―――明らかにおいしそ、いやいや!! なんて危険な薫りがするのよ!! こ、こんなの食べたって、圧倒されたりしないんだから!!)

 

 溢れ出した肉汁。

 

 一口大に切った欠片がフルフルと口の中に運ばれる。

 

 パクリ。

 

「うッッ?!?」

 

 思わず硬直、項垂れた藍が悔しそうに顔を歪めた。

 

(うぅぅぅうううう!!?! な、ん、でッ!! こんなにッ、美味いのよ!?! あんなッ!! あんな触手お化けの癖にぃッ!!?)

 

 愕然とする程に舌は正直だった。

 

 押し寄せてくる多幸感。

 

 何か危ない薬品でも入っているのかと思うような旨さ。

 

 サクサクとした衣、牛肉だけでは醸し出せないだろう深いコクと甘み。

 

 その上、とても味は軽(・)い(・)のだ。

 

 油を使っているとは思えない程に。

 

 美味しくとも胃持たれしたら、やっぱり訴えてやろうと思っていたのにその計画も頓挫した。

 

「……美味しい……」

 

 まるで罪人が自白するような重さで藍が呟く。

 

「ふむ。そのような賛辞を受けるとは……我輩も腕を振るった甲斐があるというもの。存分に食してくれ」

 

 もう自棄気味に少女は箸を使い出した。

 

 その目の端には薄ら涙すら溜まっている。

 

 しかし、だが、しかし、悔しい事に美味しいものは美味しい。

 

 自分に嘘は吐けない。

 

 結局、ご飯のお代わりまでして藍は膳に乗った全ての器を空にしたのだった。

 

 十分後。

 

 何もかもがオカシイと不満顔で満腹となった少女が一人。

 

 その横には早くも起き出してきた彼女の相棒、琉風がイソイソと同じ献立を食している。

 

 寮で一番早く食事する彼女達の他にはまだ誰も来ていない。

 

「昨夜の今日で恐縮なのだが、心の準備は出来たかね?」

 

 クストスの問いに藍は押し黙り、琉風は少し微笑んでから頷いた。

 

「……特別捜査隊に入るのが私達じゃなきゃいけない理由は分かったわよ。でも、まだ知らなきゃいけない事が一つある」

 

「ふむ。それは正しい判断だ。では、どうして私が白くて輝かしい触手なのか説明しようではないか」

 

 その修飾はどうかと思う。

 

 そんな藍の白けた視線に堪えた様子も無く。

 

「ジャンビット!!」

 

 クストスが何者かを呼んだ。

 

『心得て御座います。我が主』

 

「「?!」」

 

 いつの間にか。

 

 彼女達の真横に昨夜見たナイスミドルな給仕が立っていた。

 

 いきなりの事に今まで気付かなかった二人がビクッと固まる。

 

「済みません。驚かせてしまったようで。普段から気配を殺しておりますので、いるかどうか気になった時はお呼び下さい。返事が無ければ、半径100m以内にいませんので」

 

「わ、分かりました……」

 

 琉風がゴクリと食べていたものを飲み込んで頷いた。

 

 まるで浮遊しているかのような静かに過ぎる歩行でテーブルの反対側まで移動した彼。

 

 ジャンビットと呼ばれた給仕がススッと背中から何やら木枠を取り出して、その中に入る紙をセットし始める。

 

「……紙芝居?」

 

「ご名答でございます。極東では子供達に大人気の娯楽だとか。わたくしめはこう見えましても画を齧った事がございまして。拙くはありますが、我が主の半生を渾身の力作として描き出してみた次第です」

 

「むぅ。そんな特技があったのか。我輩も知らなかった」

 

 お前も知らなかったんかい!!

 

 と、内心のツッコミを入れるのもそこそこに藍が用意された紙芝居にイラッとした。

 

 物凄く可愛い兎さんと亀さんがお花畑でるんるんスキップをしているのに題名は墨で達筆だったのだ。

 

 何か幼児に見せるものか何かと勘違いしているのか。

 

 それとも馬鹿にされているのか。

 

 前者だとしたら、彼女は怒るし、後者だとしても怒る。

 

 どちらにしても、“大人”な藍は琉風にドウドウと宥められながらも、何とか理性を保ち喚くのを回避した。

 

「我が主、クストス・ハリ・マーシー・アッハの半生にございます。始まり始まり~~」

 

 やたらキリッとした渋い声が真面目に物語を読み始める。

 

「昔々、ある所に全うで素晴らしく文武の才に溢れ、正に聖人と呼ばれるお人が居りました」

 

 一枚目の神が捲れるといきなり絵柄が変わった。

 

 何処の有名画家が書いた絵画だろうか。

 

 写実的な画風で教会で敬虔に祈る若く凛々しい溌剌とした男の姿が描かれている。

 

「彼はまったく優秀過ぎる真正の神の子でありましたが、それ故に自己犠牲精神溢るる完全無欠の子羊でもあり、自らの命を削りながら人々を救う日々を過ごしていました」

 

 また紙が引き抜かれ、今度は劇画チックな男が腕から血を流していた。

 

 人々に麺麭を配っている絵は教会の聖典に認められた逸話の一つとも見える。

 

「しかし、そんな素晴らしい日々に暗雲が忍び寄ります。そう、化物がやってきたのです」

 

 続いて引き抜かれた紙の下には何故か急に古文書や石版に掘り込まれていそうな簡略化《デフォルメ》され、キラキラと耀く男と上空から襲い掛かる触手の図が対比するように描かれている。

 

「その悪魔と対峙した彼は言います。汝、我が身を喰らいてこの世から疾く去るべし。しかし、悪魔は彼を喰らうと約束を破って逃げ出してしまいました」

 

 絵が引き抜かれると今度は虹の掛かった山に向かって男が歩き出す場面が描かれていた。

 

「こうして彼は今も真白き触手となって、全人類を導く救世の旅に出ているのです。めでたしめでたし……うっ、何時見ても泣けますな!! ご静聴、ありがとうございました」

 

 目の端から手拭《ハンケチ》で涙を拭いつつ、ウンウンと頷いていたジャンビットはササッと木枠を何処かに仕舞い込むと腕と腰を折り曲げて一礼し、再び彼女達の横に戻ってくる。

 

「……あんたも被害者なの?」

 

 藍が端的に訊くとクストスが頷いた。

 

「まぁ、随分と昔の話だ。とりあえず、この身は奴と戦い撃破するだけの力量を備えている。だが、奴からしてみれば、わざわざ危険な男の周囲に顕現しようとは思わない。だから、いたちごっこがずっと続いて来た。それを打開する為に今回部隊を結成してもらったのだよ。おお、そろそろ他の子等も置き出してきたようだ。話はこれくらいにしておこうか。本日から学業は部隊の任務に従事している間は免除となる。任務が長期になった場合を考えて、追試日程が組まれるそうだから、そこは心配しないでくれたまえ。全員分の食事を出して、皿を洗い終えたら、部隊の本部に向かおう。それまで自由にしていてくれ。仕事が終ったら、ジャンビットが呼びに行く。では、これで」

 

 颯爽と厨房へと戻っていく背中。

 

 それに思わず見入ってしまった藍は沈黙し、何やら考え込んで、背中に声を掛けた。

 

「……勉強したら、本当に化物《サンドイッチマン》を倒せる?」

 

「無論だとも。その為に我輩が来た」

 

 立ち止まる事なく。

 

 澱み無く。

 

 応えた男の姿に藍は一応、本当に一応、信じてみる事とする。

 

「分かったわ。やってみる」

 

「ああ、共に立ち向かおう。我が生徒よ」

 

 琉風が食事を終えて、相棒の声に微か笑む。

 

 それから、寮の生徒達が次々に食堂に入ってきて、寮母の代わりだと告げるナイスミドルの姿に唖然とし始めるのを二人は後ろから眺めていた。

 

 あまりに突拍子も無い話だとしても、その人柄からか。

 

 料理の腕も相まって、世話人クストスの評判はまったく悪くなかった。

 

 二人の下にジャンビットが現れたのはそれから四十分後。

 

 生徒達全員分の食事を出し、器を回収し、洗い、片付け終ったエプロン装備の怪紳士はキラリと歯を煌めかせて、玄関で言った。

 

「さぁ、行こうか。旗揚げの時だ」

 

 特別捜査隊はそうして動き出した。

 

 香ばしい揚げ物の匂いを漂わせながら……。

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