第五章「約束!! 触手に賭した想い!!!」
「こ~~~の~~~しょ~~く~~しゅ~~はぁああああああああああああ!!!!?」
竹林の中の貴族の邸宅。
平屋の庭には藍の声が響いていた。
「本当に仲がよろしい事で。大変結構ですな」
ウンウンと温かい微笑みで湯飲みを全員に配っていたジャンビットが呟く。
その前を藍が鬼のような形相で駆けていき。
軒先から屋根の上に触手を伸ばして逃げ出そうとするアーシェリア(触手形態)に飛び蹴りを喰らわせる。
が、しかし。
それを予期していたのか。
ひょいと触手の一本が今まで背後に隠していたものを藍の前に放る。
げここ?
円らな瞳の愛らしい蛙(とても毒々しい色をしている)だった。
「なッッッ?!?!」
思わず止まろうとしたものの。
慣性を殺す術無き憐れな犠牲者の顔にピトリと蛙(たぶん牡)が正面から引っ付く。
「ぴぁあああああああ?!!?」
方向を見失った彼女の脚が触手の一本によって少し方向転換させられ、そのまま何も無い行き止まりに誘導され、ぶつかりバタリと倒れる。
それは正に人間がやったなら、手の甲で相手の攻撃をいなしたような動作と見えただろう。
「むぅ。まさか、アーシェリアの方が先に触手道の階梯を上がるとは……我輩の観察眼もまだまだ」
「まぁ、少なくとも藍よりは進んでますね」
「ええ、それに家事炊事雑事全般こなしてくれますし。まったく、藍さんに見習わせたいですね」
影近が近頃の近況を思い浮かべ。
新火がやれやれと肩を竦める。
「あはは……ごめん。言い返せない……藍……」
琉風が困った笑みとなった。
「それにしても本当に物をいなすのが上手いな……」
影近が座学に使うテーブル上からヒョイと文鎮を摘み上げて、投げた。
ハシッ。
アーシェリアの触手の一本がまったく苦も無く後ろ?から投げられたそれなりに重いソレを受け止め、そのまま元の場所まで戻す。
そして、屋根の上という安全地帯へと逃げ延びた彼女の粘液がタラリと雨のように滴り、ベッチョリと起き上がろうとした藍の顔に降り掛かった。
「………な、納得、い、いかない、んだか、ら……かふっ?!」
「ら、藍!! 大丈夫?!」
慌てて琉風が駆け寄り、精根尽き果てた様子の相棒を介抱し始める。
そんなやり取りに特捜の面々はこの数日で逆転してしまったヒエラルキー問題に付いて苦笑する以外無かった。
事の発端は触手をいなす練習。
触手道の基本的な動作をアーシェリアが竹林で真似し始めた事に始まる。
それまで触手役というか。
敵触手としての役割を任されていた彼女はその日、クストスと四人の組み手を見ていて、妙な動きをしていた。
それが自分達のしていた動きに近いと気付いた影近がクストスにその事を告げると好奇心旺盛なる触手は大歓迎だと彼はアーシェリアにも触手道の動作を教えたのである。
そうして、三日でアーシェリアの触手道は藍の域を超えた……全く持って人間とは不便な生き物だと言わんばかりに無数の手を持って相手からの攻撃をいなすようになった彼女にもはや藍は敵わなくなってしまった。
今まで触手道の訓練の度に服をベチョベチョにされて怒った藍がアーシェリアを“躾けていた”わけだが、その立場が逆転したのである。
そうなれば、どうなるか分かるだろう。
今まで散々自分を痛め付けてくれた藍に対し、逆襲が始まった。
可愛い悪戯だ。
ちょっと藍の進行方向の床に薄く粘液を塗っておくとか。
藍へ出すお茶に自分の粘液をちょっと入れてみるとか。
道場で精神統一させられている彼女の背中にちょっと冷やした粘液を入れてみるとか。
その程度の事である。
無論、藍は怒った。
怒って突撃した。
突撃していなされ、自爆した。
全敗。
全敗である。
人間の尊厳何ソレ美味しいの状態である。
哀しいかな。
触手道が触手によって使われる悲劇。
これぞ
『今までの無体な行いを後悔するがいい人間!!』と言わんばかりの猛攻に藍は毎日のように怒り、迎撃され、グロッキー状態にさせられているのだった。
ちなみに琉風は人間形態を取るようになってからアーシェリアに無体なことはしていないので被害を免れている。
「ふむ。では、そろそろ次の階梯へと君達を誘う時だな」
藍が何とか粘液をハンケチで拭い取り、ジャンビットに洗い物としてお願いし、沸々とした怒りを抑えながら、元居たテーブルの前に正坐した。
「あれ、本当は中に人間入ってるんじゃないの!?」
「あはは、藍……」
触手道を習い始めてからほぼ一ヶ月が経過しつつある。
四人は其々に基本的な対処法と構造的な弱点などを次々に学習し、現在では普通に影近が召喚する知能があまりない触手なら、得物込みで一対一で対抗出来るようになっていた。
其処に各々の特性にあった陰陽術やら道具やらを加味するわけで大抵の敵になら勝てるだろう。
ただ、花街での一件以来、京州全域で行方不明者が出ておらず。
また、アーシェリアの探索にも相手が掛かっていない為、敵との再びの実戦は未だ行なわれていなかった。
それを不安に思う気持ちと同時に誰も犠牲者が出ていないという安堵も感じている藍からしてみれば、このまま何事も無く時が過ぎていってくれればという思いが強い。
しかし、そういうわけにもいかないのだろう事もまた彼女は感じつつある。
触手が身近になったせいか。
あるいはクストスの食事や鍛錬が功を奏しているのか。
彼女は気配、あるいは時期のようなものを感じ取れるようになっていた。
アーシェリアにこそ軽く遊ばれているが、それでも進歩はしているのだ。
触手がどういう経路で自分に向かってくるのか今の藍には分かる。
それに対処するだけの武器や手札が在れば、怯える事なく向けることが出来る。
そして、自分が勝てるかどうかまでも半ば理解出来るようになった。
少なからずアーシェリアを武器や陰陽無しでボコボコには出来ないし、普通の触手相手なら何とか勝てるのだから、前と比べれば雲泥の差だ。
(ホント……これが分かるのは良いんだか悪いんだか……)
藍は新しい講義の為に教材を何やら用意しているクストスの背中を見て思う。
こんなにも大きな相手が自分の前に立っていたのかと。
仲間達は未だ感じ取れていないのだろう気配。
真白き触手の怪紳士は今や彼女にとって巨人にも等しい。
それ程にヒシヒシとその力強さが伝わってくる。
アーシェリアやジャンビットにも同じようなものは感じているが、クストスは飛び切りだ。
それこそ今では100m先にいても分かってしまう。
意識しなければ常時気配の中にいるので温い風呂に入っているような感じで然程気にならないのが救いか。
「では、現在までに君達へ授けた修練【衣食御宝《いしょくごほう》】の説明に入りたい」
「いしょくご……なに?」
藍が何の話かと疑問を浮かべる。
クストスがジャンビットに用紙《プリント》を渡し、配られ終ると表紙に全員の視線が向く。
其処には『正しい仙鍛入門』なる文字が躍っていた。
「仙鍛……確か仙人の修行、だったかしら?」
琉風が聞き齧りの知識で呟く。
「そうだ。元々、東部は文化的にも独特な魔術、陰陽が発達した。これは他の地方で大陸共通言語が殆どの超常の技能を魔術と総称する事を見ても分かるだろう。そもそも現代に続く人類魔術の勃興は数千年前のドクトル・ファウストゥスの伝道によって始まるが、その前から神々や亜人、異種達が人間の魔力形質に付いて研究し、法術という形で自己に利する者へ技能自体は伝えていた。その内の一派が極東における仙人と呼ばれていた者達だ。彼らの絶対数はかなり少なかったが、特記に値するのは最初期の原始術者達がほぼ独自に術を発展させていた事だ。故に仙術等と呼ばれているものはある意味で現在の諸魔術よりも遥かに旧―――」
「ちょ、ちょっと待って?!」
「何かね?」
丁度、 弁舌が冴え渡り始めたところで区切られたクストスが首を傾げる。
「ええと、その話の流れからすると今まで知らない内にあたし達……」
「うむ。我輩の独自解釈による仙鍛を行なってきたわけだ。その成果を見てみよう。裏面を」
パラリと四人が用紙の後ろを見ると幾つかの箇条書きにされた鍛錬内容と簡略化《デフォルメ》された人間の様々な行為が描かれていた。
「まず、衣食の衣は単純だな。君達の腕章には純粋に君達を鍛える効果がある。細胞レベルでの破壊と再生。鍛錬によって僅かずつではあるが、本来鍛えられない部分まで鍛える優れものだ。とある山岳に住む重力を操る龍の表皮と聖人再生の簡略儀式を刻んでおり、毎日付けている限り、肉体の基礎能力が全ての部分で向上する」
腕章を付けて走り込みをする図に藍が嫌そうな顔をしてクストスを見やる。
「……ね、ねぇ。それって鍛錬すると妙に疲れるのと関係してる?」
藍の問いにクストスが大きく頷いた。
「人体の細胞の全て、脳から心筋から内臓から全ての部分で破壊と通常の代謝とは異なる特殊な回復を延々繰り返すからな。更にそこへ肉体の鍛錬が重なれば、疲れもするだろう。回復も早いから重度の疲労が残るという事も無かったはずだ」
「今、物凄く重要な事をサラッと流さなかった?」
「うん? 何、問題ない。腕章に組み込んだ教会の儀式術の触媒は【宇宙樹《ユグドラシル》】であり、現時点でこれ以上のものは無い。頭が悪くなったり、記憶が消えたり、全ての細胞が癌化して化物になるリスクは精々0.00000009%以下だ。もしも、そうなっても我輩秘蔵の秘薬で復元予定だった。あまりの周到ぶりに自分が怖くなるな!!」
まったく問題ないだろう?と言いたげな顔に藍がもはや何も驚かないと諦観に沈んだ。
「あたしは人の体を勝手に弄ってるあんたの方が怖いわよ……」
その言葉は届かなかったらしく。
クストスは上機嫌で説明を続ける。
「これに関連して二つ目を見てくれたまえ。次は食だ。この一ヶ月で諸君には少しずつ強い強壮作用のある者を食べてもらっていた。メインの食材が通常の食卓に並ばないものだったのは承知の通りだ。しかし、我輩は更に其処へ薬膳の処方を行なった。複数の秘薬を微量ずつ体内で反応させ生体内で調合し、様々な肉体の耐性、免疫の向上、元々の体質の改善や細胞分裂回数の補完など、多くの効能が発揮されたはずだ」
「細胞分裂……物凄く怪しげなものを食わされてたのは分かった……」
よくよく見てみれば、食事する人の後ろには微妙に見慣れない食材ばかりが描き込まれている。
「怪しいとは失敬な?! 不老長寿の薬と言われた仙丹《せんたん》の殆どは細胞の分裂限界の引き上げと蓄積される細胞全体の傷の修復や老廃物、その他の通常の代謝では排出出来ない有害物質の排除の為に生み出されたものだ。これを独自に解析した我が渾身の食卓を食べているからこそ、君達は今も寿命を保っていられるのだぞ?」
「のだぞって!? ちょっと待て?! 寿命って……」
「ああ、腕章は細胞の破壊と“再生による強化”を司るからな。復元ではないところが味噌だ。その為、常識的な範囲で使い続けるとすぐに細胞の分裂限界を迎えて昇天してしまうのだよ。これを我輩は見事にクリアしたのだ」
興奮気味に教師って楽しいという顔をするクストスにドン引きな藍はもう何も言えなかった。
「まぁ、リスクにはそれに見合った効能が付物だ。君達は少なからず超人という程ではないにしろ。純粋に生物としての能力が常人の二割増しくらいになった。ついでに各種の魔術素養や肉体素養も向いている技能に習得の情熱を傾ければ、大魔術師や戦場に立つ戦者《せんじゃ》としても一流一歩手前まで行けるだろう」
「ぅ……見合ってるのか見合ってないのか。また微妙な……」
藍が言われた効能に口を噤む。
彼女は学問をする為に学徒憲兵隊になったが、戦争に借り出されるリスクは常に高い。
これからの未来でクストスの言う効能が必要にならないとは言えないのがもどかしいところだ。
「ついでに腕章を外して生きる限りは増えた細胞分裂回数と人間の体内では通常行なわれない代謝の相乗効果で長寿間違いなし!! 更に様々な病原菌への感染リスクや毒物への抵抗も高く。病魔に冒される心配も無い。普通の人間が即死するか一瞬で溶けるような劇物にもある程度の耐性が付いた。これで如何なる邪悪な触手が攻めて来ようと早々命を落とす事はなくなったわけだ」
今まで聞かされた内容から感謝出来ない藍と琉風が引き攣った顔となる。
「ぅ……ぅぅう……」
「え? 新火、君?」
その微妙に押し殺した声に藍が横を向くと新火が抑え切れぬような大粒の涙を堪えていた。
「ちょ、ちょっと!? い、今のはほら!! あ、あたし達の事を思っての事であって!!?」
何で裏切られた気分の同世代の男子を自分が慰めなければならないのか。
理不尽なものを感じつつも、そうフォローに回ろうとした藍だったが、すぐ新火の一言で凍り付いた。
「あ、ありがとうございます!!」
「はッ?!」
「え……?」
正しく少女のような少年の顔は嬉し涙に染まっていた。
「え、ちょ、何言って……」
「まったく持って老子には世話になりっぱしですね。本当に俺みたいな奴には過ぎた師を持ちました……」
追撃とばかりに心底感動した様子の影近が何が何やら分からない藍と琉風に追い討ちを掛ける。
「あ、あんた達?! な、何でそういう結論になるの?!!」
思わず叫んだ藍に影近と新火が同時に振り向いて。
「ああ、そうですよね。藍さんや琉風さんにはちょっと分からないかもしれませんね」
「そうだな。俺達の家的には感動するところだったんだが……一般人にはこの感情は分かり辛いかもしれん」
「ど、どういう事?」
影近が藍の用紙の内容を指差しながら続ける。
「そこに書かれてあるのは陰陽大家と呼ばれる陰陽師の家にとっては悲願みたいな事なんだ」
「ひ、悲願?」
「はい。そうです。悲願です。ぐす……」
新火がジャンビットから借りたハンケチで涙と鼻水を拭いつつ、影近の言葉に同意した。
「僕達の家ではこれよりも程度の低い鍛錬は日常的に行なわれるものですから」
「そ、そう、なの?」
藍に涙を拭い終えた少年が頷く。
「ええ。例えば、毒物を一つ克服するにも多くの時間が掛かりますし、今クストス様が仰られたような強化は十年単位で施されるものです。それにしたって魔術師の大半はこんな国が傾くようなカリキュラムは組めませんし、大抵は稀少なものを集めるだけで一生を終えるのが大半ですから」
「そうだな。その点で言うと老子の鍛錬は物資という面では最高のものだと言っていい。だが、それよりも高度な触媒や材料を使いながら、副作用を殆ど感じさせない摂取方法や短期間で実力を着実に付けさせる手際は見事の一言だろう」
「ははは、あまり褒められると照れてしまうな」
陰陽に縁のある二人からの絶賛の嵐。
欄と琉風はどう反応していいのか分からなくなる。
「今、国が傾くとか言ってたけど、そんなに食べてたものとか凄いの?」
影近が大きく頷いた。
「食用になると聞いた事が無いものも平然と出されていたから、そちらの方に気を取られがちだったんだが、この食の項に書かれてある材料一つで……そうだな」
藍の耳元にヒソヒソと金額が呟かれた。
「――――――ッッッッ?!!!」
愕然とした彼女が用紙に視線を落す。
「ほ、本当に?」
「先に言っておくが、相場の動向と需要によっては時価がえらく跳ね上がるからな?」
「……何かすっごい損した気分」
「そもそも市場に出回らないものが大半だ。値段が付けられないものに関してはそれこそ大魔術師が自分の半生を掛けて集めた触媒と物々交換してくれそうなものも混じってるんだから、感謝しても罰は当らないな」
クストスがこほんと咳払いをして、場を仕切り直す。
「とりあえず。君達は現状、基礎が出来てきたと言っていいだろう。だが、しかし、それは本当の入り口に立つ資格を得ただけに過ぎない。触手道《テンタクリス》の本番はこれからだ」
「本番? 今までの修練したのって触手道じゃなかったの?」
藍にクストスが裏面の三つ目の項目を読むように目次をチョイチョイと指差す。
「えっと……触手道の格闘技術は触手と自分の能力差や手数を極力埋める事により、あらゆる相手に負けない事を目指すものである。本日より触手の種類別の鍛錬を解禁し、特殊能力や特殊形態を持つ触手を複数本相手にしてもらう……」
今までヌルヌルネトネトドロドロにされまくってきた藍が今度はどんな触手が相手になるのかと気を重くするとクストスが庭にアーシェリアを呼び戻した。
「本来ならば、新しい触手の召喚で対応しようと思っていたのだが、予想外に彼女は優秀だ。我輩の方で幾らか更なる能力を追加しておいたので、ある程度は次の鍛錬にも対応可能だろう。では、さっそくやってみよう」
グニョンと何やら表皮が撓み。
アーシェリアの触手の数本が別々の形を取り始める。
「形態変化は以下の七つだ。疣《イボ》状の粒々を備えるブラシ型。毒針を持つ抽入型。海の生物の形状に近しい磯巾着型。純粋に打撃力を強化する筋肉型。口腔と内部に擂鉢状の歯を備える捕食型。通常の刃物を模する刀剣型。最後にあらゆる形態に変化する不定形型」
「う、うぁぁ……」
ゾワリと背筋を凍らせた藍の前で次々に凶悪そうな触手の形が現れた。
「あの、一つ聞きたい事が」
「ん? 何かね。琉風君」
「その……ブラシ型に一体どんな危険が?」
「ふむ。アーシェリア」
クストスがパチンと指を弾くと傍の竹林から一本若竹が刃型の触手で切り出されて、グルグル巻きにして持った来られた。
彼らの目の前でブラシ型の触手が固い竹の表皮を何回か擦る。
すると。
「ぅ……分かりました」
琉風が納得した。
ブラシ型が擦った後にはまるで鑢《やすり》でも掛けられたようにズタズタな竹がポッカリ穴を開けており、これでは人間の表皮どころか金属だって擦り切れるだろう事が彼女にも分かったからだ。
「他にも複数の形態が想定されて然るべきだが、今はこの形態だけでいい。また、不定形の触手に付いては君達もすぐに思い知る事となるだろうが、とても苦労するだろう。では、さっそく実技開始といこう」
そうして、触手道の次の階梯へと登る若者達は自らの相対する事となるものがどれだけ理不尽な性能を有するのか改めて理解する事となる。
一種類の触手にすらまともに太刀打ち出来る者がいないという事実は本当の鍛錬の始まりを彼らへ感じさせるに十分な試練だった。
*
―――月齢館高等教育学科参号校舎。
その執務室の中で決裁書類を各学科の予備憲兵達の統率者へ回し終えた彼、小星金徒《こぼし・かなと》は一息付いて特別捜査隊の一ヶ月目の現状報告書を確認していた。
藍曰く貴族で
彼を形容する場合、表側では彼女の言う悪口が大抵は正しい情報として認識されている。
しかし、その実際のところを覗いた時、彼に近しい実務者達は180度反対の評価を下すのが普通だ。
曰く。
伝統主義を打破する【改革派《リベラル》】の新星、と。
学徒憲兵隊はその設立に大きく【天御門《あまみかど》】が関わっている。
彼《か》の家は昔から旧い伝統を司る【土御門《つちみかど》】の家と双璧の革新を司る家柄。
御政体の派閥も凡そ二つに分かれているが、その中でも特に急進的な派閥を取り纏める大家の御曹司が金徒なのだ。
外見こそ冴えない鼠呼ばわりされる彼であるが、その実務者としての能力は現在の学徒憲兵隊の中でも指折りとされている。
事実、京州にいる学徒憲兵の中で最も位が高いのは彼だ。
それは事実上、次世代陸軍の中核を丸々預かっているポストという事になる。
そんな彼が嫌味な貴族の小倅を演じるのはやっかみや足を引っ張る同世代への欺瞞と同時に家の力で伸し上がった旧い貴族、伝統的な貴族であるとの評判を得る為だ。
小星の家の次代当主はボンクラで偉そうな昔ながらの貴族だから、改革なんてそんな話とは無縁ですよ、という偽装工作である。
「ふぅ……順調、と言っていいのかどうか」
目下。
そんな彼の悩みは何を置いても京州が吹き飛ぶかもしれない災厄。
【着包野郎《サンドイッチマン》】の動向と特別捜査隊の進捗状況。
学徒憲兵隊の権力と後援者達の力で花街の一部消失事件を揉消したのは彼の手腕だ。
事実の隠蔽と宣伝戦は彼の得意とするところであり、第三者を仲介して新聞社を多数抱えている小星の家は権謀術数を得意とする家柄な事も相まって、現在まで様々な着包野郎に関する情報を制御している。
本来なら国家規模の危機になるところを大貴族とはいえ、たった一家で食い止めているのは賞賛に値していい仕事ぶりだ。
御政体の役人や二つの家の派閥にも殆ど知られていない最大級の災厄。
その性質上、情報を広められないとはいえ。
それでも人々が触手の化物になるのを防ぐ彼の為政者としての資質には疑う余地が無い。
(顕現周期の触れ幅が最大になるのは一ヶ月後……それまでに仕留められるか? いや、期待するのはこちらの仕事が片付いてからだな)
彼が特捜の書類の横においてある極秘の印が押された書類を今一度見直す。
其処には【次世代型機動歩兵開発における代替の可能性について】と書かれていた。
京州城砦崩落のドサクサで関係資料を極秘裏に回収していた金徒はその埃っぽい陸軍の最高機密書類の内容に『はぁ……』と溜息を吐いた。
それと言うのも中身のせいだ。
一枚目のページが捲られると同時に彼の憂慮の原因がデカデカと載っていた。
黒い触手の塊。
陰陽で記録されたらしい画像の中には複数の陰陽師がソレを結界内に封じ込めている様子が見て取れる。
―――本計画は陸軍の特別参与から提供された試験体が次世代型機動歩兵の代替として機能するかどうかを検証したものである。
「経費圧縮で国が滅ぶとは誰も考えなかったのか……学者ってやつは……」
思わず彼が呻いたのも仕方ない。
京州の城砦が粉々になった原因。
それは開発者曰く。
極秘に製造されていた“機動歩兵の代替物”の試験。
十中八九その化物のせいなのだから。
着包野郎の情報が取り扱い注意で共有されていない事はさておき。
それでも明らかに怪しい触手を次世代戦力の中核に取って代わらせようというのは乱暴過ぎる。
確かに膨大な軍事力の開発経費が国の財政に負担を強いているのは事実だが、それにしたって現実的な範囲で収まるように調整されたものだ。
今更、計画を中止したからと言って今までの消費した資金は戻らない。
それに安全性や危険性の評価も十分でない何かを使おうという時点で間違っている。
「……まぁ、この数値を見れば、そうしたくなるのも分からなくは無いが……」
その特別参与に与えられた試験体の叩き出す数値は軒並み開発中の機動歩兵を凌駕していた。
なのに制御は簡単で増やす手間も餌と魔力のみ。
黒い触手の軍団が従来からの軍人を頭から否定出来る力を示したのだから、可能性を追求しようというのは至極妥当ではある。
が、そもそも試験体《ソレ》が何なのかをまるで開発者達が理解していなかったのは明らかな失敗だ。
書類の中では素晴らしい素晴らしい素晴らしいのオンパレード。
ついでに“この触手の出所はともかく”なんて言葉すら乗っていた。
何処で見つけたにしろ。
拾ったものを使うとロクでもない結果になるという事実はきっと今頃陸軍の諜報部隊に粛清されているだろう開発者達が身を持って知っている事だろう。
書類の中では増やした固体の集合体を二つ使って試験をすると書いてある。
しかし、特捜のクストスから上がってきた書類には一匹を仕留めたとしか書かれていない。
(後一匹、何処かに残ってると考えるべきか。あるいは一緒に消えたと見るべきか)
彼が捜索隊の編成をどうするか悩み始めた時、陰陽の符が風に流れて彼の下へとやってくる。
スルリと開いていないドアの隙間から入り込んだソレが大きく展開され。
彼の眼前の虚空で映像を表示した。
『小星さん。急用をお願いしたく思い、失礼ですがこのような形で映像を送らせてもらいました』
「青嵐様?!!」
彼が驚くのも無理は無い。
今や祖国すらも手出し出来ない地位へ付いた憧れの人が、緊急の用件をそんな形で持って来るなど、今まで一度たりとも無かったからだ。
『これは見れば分かる通り。元々記録していたものを展開しているだけです。ですが、機密性と緊急性を考えた場合、直接連絡を取る事は出来なかった……これからの話はかなり重要な情報となります。もしも、誰かが傍にいる場合は人払いを』
しばらくの沈黙。
そして、開口一番にクストスを彼に紹介した女傑はこう言った。
国境域の外側にある緩衝地帯に敵国の戦力が集結中です、と。
*
―――大陸北東部緩衝域。
伝統的に大陸の北部と東部の中間は長く戦乱が続いてきた紛争多発地帯と認識される。
それは北部の慢性的な食糧不足に陥っている国々と東部の大国家として台頭し、北部との国境を多数持つ乂羅との戦争の歴史だ。
複数の歴史的変遷を辿ってきた国境域は現在七教会の監視下。
大規模な部隊が集結していれば、すぐにでも抑止の力が働く。
しかし、現実には領土という面を制圧する戦争は既に過去のものとなっており、都市という点を抑える事で七教会の動きは抑える事が出来ると証明されている。
戦争当事者達が七教会嫌いならば、国内を敵国に荒らされようと市街地には絶対介入を受け入れない。
相手は善意の紛争抑止を理念として掲げている。
故に人口密集地帯や都市に対する介入は支配する意図有りと教会を非難する事が出来る。
このような理論武装を持って、守る者も攻める者も戦うわけだ。
『………』
そう、そういう意図を持って“彼ら”は本来国境地帯の一角に民間人を装って入り込んでいたはずだ。
京州を落す前段階。
七教会の観測部門を欺瞞し、一人ずつゆっくりと集合地点である都市へと向かう。
そして内部へと入り込み、行政機関及び警察機構を襲撃。
周辺から師団が押し寄せてくる前に防備を固め、操り人形となる高官を前面に立てて乂羅離脱を宣言し、自国領内で集めた貧民を国境域からピストン輸送で流し込む。
そうして既成事実を作り上げ、七教会の介入を受けずして相手国の領土を切り崩す。
そのはずであった。
しかし、計画は既に破綻を来たしてしまっている。
『………』
ファサルトス皇国連合。
彼らはその軍事畑から集められた精鋭部隊。
『………』
歴史的に見ても、これから起こるだろう大乱の前哨戦を征する足るはずの者達。
連合内最高の戦人《いくさびと》であり、都市国家程度なら片手間で更地に出来る超越者。
『………』
だが、そうであったはずの彼らの目にもう生気は無い。
いや、生きている気配すら、無い。
その鼻や瞳や肉体にある穴の数々からは次々に黒い触手が湧き出している。
『………』
彼らが生きていれば、多くの人間が死んだだろう。
政治に携わる者は彼らの操り人形になる者以外、全員が殺され、軍施設は魔術で消し炭にされ、民間人は精神干渉によって生きた人形として生かされ、生産活動へと従事させられたはずだ。
だから、彼らが命として止まった事を歓ぶべきなのだ。
侵略されるはずだった都市の民達は。
『………』
それでも、その有様は人々に忌避され、憐憫の対象とされるに十分なものに違いなかった。
こんなの酷過ぎる!!
あんまりだ!!
大陸中央諸国の善良なる七教会の子羊辺りなら、そう恐怖と忌避と涙を浮かべて嘆き憐れむはずだ。
おどろおどろしい禍つの宵に全身の骨肉を折り崩して奏でられる旋律が響く。
静かな行進は踊る愚者の中から人であった証を零しながら続いた。
『………』
夕日が沈む。
夜が拓く。
無明がやってくる。
星は無い。
雲は厚い。
雨は降り。
風は止まっている。
誰かの時計が鳴り。
しかし、誰も確認しない。
「ひ―――」
国境域を往く流浪の民の子か。
着物ともまた違う全身を蓋う若草色の衣装が震えた。
ああ、まったく彼は運が悪い。
一目見て囚われ。
足は動かず。
林の中で引き攣った顔が黒き蔡列の中央を凝視する。
巨大な珠。
黒く蠢くもの。
キチキチと今には張り裂けてしまいそうな程にパンパンな中にナニカの入った何か。
『………?』
「―――ぁ」
今はもう黒に塗り潰された人形達の顔が彼の方を向く。
終わってしまったと本能的に小さな少年は悟った。
自分の命は此処で消え去るのだと。
黒が全てを支配する。
髪が白く染まっていく。
ゾッとする程に生温い風が吹き抜けて。
汗が身体を冷やし。
瘧《おこり》の如く全身が言う事を利かず。
彼の前に何時の間にか。
瞬き一回の間に漆黒の蠢く躯《ソレ》が立っていた。
「―――」
もう何も聞こえない。
何も見ていない。
何も感じていない。
股間を濡らす熱さも。
小鳥が囀る声も。
白く目を剥きながら、少年はその黒い手が頭に触れる感触だけを、感じた。
――――――?
倒れ込んでいつの間にか尻餅を付いていたのに気付いたのは宵が終わりそうな頃合。
今まで見ていたものは、感じていたものは、幻だったのだろうかと。
山道で人を化かす何かに遊ばれたのだろうかと。
彼は立ち上がろうとして、気付く。
「え」
その手には木製の粗末な人形が握らされていた。
思わず取り落として。
しかし、目を惹き付けられたソレに手が伸びて。
辺りにまた何かがいないかと確認しながら、人形を掴んだ瞬間……一目散に少年は逃げ出す。
何処までも何処までも。
自分の帰るべき場所がある処へ。
『………』
小さな命が遠ざかっていくのを待って。
回りの風景へ色合いから全て融け込んでいた列が進み始める。
遅々とした歩み。
だが、それで構いはしない。
何故ならば、彼らは急いでいないからだ。
巨大な蠢く黒き珠。
ソレの上には小鳥達が足を揃えて屯していた。
周囲にはいつの間に集まったのか。
無数の獣が列を成して付き添っている。
列の往く手にある樹木は何をせずとも歪むようにして退き。
如何なる年月でも浮動だろう大岩が揺れ動いて割れ。
彼らの道に一つ一つ礫《れき》を敷き詰めていく。
『………モ・ク・ヒ・ョ・ウ。ケ・イ・シ・ュ・ウ』
声の最中。
バサリと教会の聖典が列の端に落下する。
魔術師ならば、術の一部にも利用するだろう1頁《ページ》が開かれ。
―――世に蔓延る者。
―――須らく我が子なるも、御子は全てを与えられん。
―――彼《か》の者。
―――天の子にして全てに愛されし聖親《せいしん》也。
―――歩けば、鳥に和し、獣に列を生み、樹は妨げず、岩は路と成らん。
―――これ即ち。
最後の行にはこう記されていた。
―――全て神の子の証也、と。
*
鍛錬が終って夕食を取った後。
京州の特に触手が出そうな場所というものを回った彼ら特捜だったが、本日も空振り。
夜の十二時を過ぎる前に帰ろうと全員が曇り空の下。
イソイソと道を急いでいた。
都市一つをたった数人のマンパワーでカバー出来るはずも無いが、場所を絞り込めば、少ない人数でも見回りは可能。
もしもの事も考えた編成で三分割された特捜の面々は其々が魔術で連絡を取り合いながら、寮の寝台を目指して順調な家路に着いている。
本日はクストスと藍、アーシェリアと影近、ジャンビットと琉符と新火の班分けが為されていた。
(ふぅ。今日も何も無くて良かった……)
魔術での定期連絡を終えた藍はもう後十分程で見えてくるだろう寮を恋しく思う。
平和な夜に平和なまま寝台で眠りに付く。
その幸せを噛み締める事が出来るくらいには彼女も日常というものに感謝しているのだ。
何せ。
毎日が触手との格闘。
ついでに化物探索。
一応、学業の方もやっているが、時間の関係であまり捗っているとは言い難い。
それなりに厳しくはあったが、好きなだけ自分のやりたいものをやっていられた予備憲兵隊の方が余裕に溢れていたのは間違いないはずだ。
(あの生活が恋しいなんて、人間変われば変わるもんなのね……)
業務はキッチリこなしていたが、それにしても琉風との出会いが無ければ、無味乾燥とした毎日だった。
何かしらの危険に内心怯えていたのだ。
それを懐かしむという時点で自分が置かれた環境も自身の心持も変わったのは確かだろう。
(……あたしは後何回こうやって何も無い夜を過ごせるのかな……)
往く手には険しい戦いが待っている。
そう知るからこそ、彼女は夜の空を見上げた。
何も無い曇天。
蒼い天蓋の星光さえも見えない。
「どうかしたのかね?」
「何でも……」
「そうか。何かあったら遠慮なく言ってくれたまえ」
「うん……ぁ」
藍が言った傍からよろけた。
インフラが整っているとはいえ。
それでも外灯が点いているのは市街地の中でも住宅地と重要施設が密集する区域だけだ。
そろそろ深夜を回ろうという時間帯に帰り道を急げば、暗い道を通りもする。
足元が見えずに躓く事は十分考ていたが、本日は物思いに耽っていた分、注意が散漫になっていたらしい。
「大丈夫かね?」
「ぁ、う、うん。ありがとう……」
細身とはいえ。
逞しい腕に抱き止められて胸が高鳴らないはずもない。
まぁ、これが美男子ならばともかく。
触手紳士では小説にありがちな恋愛とまではいかないのが現実である。
しかし、それでも昔に父からそうしてもらった記憶がふっと彼女の脳裏に甦る。
あの頃は何もかもが耀いていた。
家族は家族だった。
父は素晴らしい人に見えた。
自分を傾いた家の為に嫁がせようなんて、娘を売り払おうという相手には思えなかった。
今、親元を離れて藍が思うのは過去は戻らないという覆らない現実と誰も守ってはくれないという真実。
自分を守りたいなら強くなるしかない。
過去が覆らないなら、現実を変えてゆくしかない。
それはとても当たり前で同時に寒々しい道に違いなく。
だからこそ、誰かが傍にいるという事が何よりも大事に思えるのだと彼女は理解する。
人は一人では生きられない。
それは社会から離れてすらもそうだ。
寂しさとは何者をも殺す毒に違いないと予備憲兵隊になってから、彼女は孤独と共に知ったのである。
「………」
「生きていける事に感謝して、僅かな水を口にして、共に進む者在らば、世に万難は無し」
「え?」
クストスの突如の言葉に彼女が横を見上げる。
「聖典の一説だ。外伝に今は組み入れられてしまっているが、隣人の素晴らしさを説いている」
「……何が言いたいの?」
「君は孤独の意味をよく知っている。いや、ようやく知った……だからこそ、寂しいのだ。だが、それを理解しない者に人が繋がる本当の素晴らしさは分からない。幸せも同じようなものだ。その中でそれを享受する事は誰にも課された命題と言える。だが、本当に幸せが何かを知りたいなら不幸を経験するしかない。味わった辛酸を、敵わなかった悲哀を、苦しんだ痛みを、己の血肉とした時……人はその意味を悟る」
「……何だか、前に読んだ教会の聖職者用試験の解答みたい」
「ははは。そうかそうか。だが、それは人間が見つけ、事実と真実を積み上げ出してきた普遍的な回答の一つなのだよ」
「えっと、確か真理《アレーテイア》とか何とかの話?」
教会に興味を持ち。
多くの書籍を読み込んだ彼女の言葉にクストスは頷く。
「教会式の一般論と魔術論壇上の用語。どちらにも通じる。故にそうでもある、と言ったところか」
「でも?」
「物理的な法則の多くは不変なものとして世界に固定化されている。だが、人と人が織り成す概念に不変と言えるものは少ない。社会や命の在り方が変われば、あらゆる意味が変質するかもしれないのだから、これが絶対だ等とは言えないものだ。だが、それでも、これだけは絶対に同じであって欲しいと人が願うものは確かにある」
「人が願う……」
「教会を最初に開いた人々がそうだった。数多くの困難を潜り抜け、それでも沢山の柵《しがらみ》と偏見に自らも囚われながら、それでも自分達が一時でも共有したソレを次代に受け継いで欲しい。この意味が永遠であって欲しいと願った。だから、教典や聖典の多くにはそれが書かれている」
「それって?」
「愛だ」
「あ、ぁい?」
思わず夜中に口へ昇らせるのはどうかと思うと恥しげに藍が囁く。
「昔よりも今の愛が変容したのは確かだ。今では何かに愛を付け足して情熱を語る事もあるだろう? だが、それでも愛は今も代わらぬ意味を保っている。男女の愛。親子の愛。物への愛。事への愛。全てが本当に自らの人生を命を掛けても守りたいと願う何かだ」
「じゃあ、その……あな―――“クストス先生”にとっての愛って何?」
「我輩の始まりは男女の愛だった」
「だ、男女って……好《い》い人がいたの?」
「ああ、途中でお互い別れなければならなくなってしまったが、今も変わらずそれはこの胸にある」
「ふ、ふ~ん」
身近な人の恋愛に付いて知る機会なんて無かった少女は何処かソワソワする背筋に妙な感触を覚えた。
「別れる時、約束したのだ。それが二つ目の愛。人類愛というやつだな」
「じ、人類って……いきなり大げさな」
「そうかね? 誰かを守る為に生きようと、誰かを助ける為に歩いていこうと、決意する。そういう他者への愛は大抵一括りにすると大きくなるのだよ。僅かな隣人に施す善意とて、我輩にしてみれば立派な人類愛というやつだ」
「何か、愛の定義変じゃない?」
「そうか……むぅ。近頃の若者の愛についても研究しなければならないかもしれん」
「しなくていいから」
また、面倒な事になっては敵わないと藍が溜息を吐く。
「とりあえず。我輩は二つ目の愛を持って過ごしていた。だが、その後……三つ目の愛へと辿り着く事となった」
「三つ目。それって……」
「ふむ。知りたいかね?」
ニヤリと良い笑顔な老紳士に藍がウッと詰まる。
言わずともそんなのは彼女にすら想像出来る。
だが、今までの話の流れを自分から断ち切るのも無粋と思えた。
此処まで話してしまった以上、大人しく聞いておくのが吉かと彼女は尋ねる。
それは何、と。
「ふ、話すまでも無いだろうが、我輩の最新鋭にして最高の愛はこの輝かしき―――」
『触手愛、ねぇ。まったく、変わらないわね。あんた』
「むぅ!?」
藍を庇うようにしてクストスが声のした方角に鋭い視線を向ける。
「死んだ女の為にそんな体になってまで約束へ想いを賭したって何になるって言うんだか」
「それを君が言うのか。E」
「だ、誰?!」
藍がクストスの背後から前方を覗く。
すると其処にはフワフワと燐光を纏いながら浮かぶ七教会の制服姿の女。
いや、少女が一人。
(―――この色、似てる?)
相手は白かった。
制服の色から肌の色まで何もかもが白かった。
瞳の虹彩にしても僅かな違いがあるだけで白い事には変わりない。
常人には見えない。
だが、そんなのは横に置いておける話だ。
それよりも何よりも彼女が気になったのはどうしてクストスの触手と
「ウチの坊やがお世話になったそうじゃない。お礼を兼ねて最後の親切に来てやったんだから、ありがたく思いなさいよ」
やれやれと見下し気味の視線がクストスに突き刺さる。
「君が親切? 旧教会派も忙しいだろうに……これからこの惑星が滅びでもするのかね?」
その皮肉に少女は瞳を細める。
「別にこっちは構わないのよ? だって、どんな変遷を辿ろうが結末は一つなんだから」
「用件を聞こう」
動じないクストスにEと呼ばれた白尽くめの少女は呆れた溜息を吐いた。
「世話を焼いてやるわ。これから最後の大一番なんでしょ?」
「理由は?」
「こっちの事情よ。今、大陸中の異相でバランスの崩壊が始まってる。原因は外なる神々の顕現……本来ならあんたが負けようが、どっちが勝とうがどうでも良かったんだけど、あんたが負けたら更なる崩壊で死ぬ人間が多過ぎる」
「それこそ、君が気にするような話ではないだろう?」
Eが疲れた様子でまた溜息を吐いた。
「ええ、人類なんて芥子粒程残しておけばいいくらいにしか思ってないわ。当然」
「なら、何故だ?」
「あんたから引き継がれた盟約を持ってるやつが四機関の長全員に対して全力での
「今の子は随分と聡明なのだな」
「そのおかげでこっちは働き詰めよ。GもSもNも愚痴ってるわ」
「彼らには人類の為に働き蟻並みに働いて貰いたいものだな」
そのクストスの言葉にEがどんよりした顔となった。
「最悪……やっぱ、来るんじゃなかった……この変態触手野郎!!」
「機能性的には幾らでも変態可能だが?」
「ぅ……もういいわ。あんたって昔からそうだったものね。どうせ老い先短いんだから、せいぜい隣人の為に人類の未来を暗くして頂戴。じゃあね。この短小触手野郎!!」
フッとEが顕れた時と同様に突如として消える。
「短小……我輩の触手が? 何たる侮辱?!!」
「そっちには憤《いきどお》るんだ……」
何が何やら分からない内に消えた少女の事は一先ず置いておき。
藍は何やら話していたクストスをジッと見上げる。
「ん? 心配させてしまったかね?」
「一体、何だったの?」
「彼女は昔からの知り合いだ。今は旧教会派のお偉いさんでね。何やら上から命令されて【着包野郎《サンドイッチマン》】との大一番を控えた我輩の支援をしに来たらしい」
「そう、なんだ……ふ~ん……一つ聞いていい?」
「構わないが」
「どうして、同じ色なの?」
クストスは誤魔化す事も出来たがそうしなかった。
本来なら、あまり内情に首を突っ込んで危険な目には合わせたくないとの思いがあったのは確かだ。
しかし、教師として愛というものを演説した手前。
素直に話しておきたいとの思いもあった。
ゆっくりと歩き出しながら、話が始まる。
「……我輩が触手に侵蝕された時、従者達の一人が我輩と触手の橋渡し役をしたのだ。その時の後遺症で我輩の触手は橋渡し役であった彼女の色を受け継ぐ事となった」
「従者とか本当に中央の大貴族にいる紳士《ジェントリ》みたい」
「一応、昔は大陸の各地に領を持っていた。我輩の衣装もその時代に設えたものだ。まぁ、今は我輩の事を信奉してくれる家人《けにん》の末裔達に顔を見せに行く度、支援を貰うような情けない主になってしまったがね」
今まで生徒達に見せた事の無い少し苦い自嘲の笑み。
その顔を見て。
彼女は『ああ』と思う。
彼もまた確かに人間なのだと。
人には知られたくない事があり、自分を卑下だってする。
自分達と何一つ変わらない心を持った存在なのだと。
「後、その……」
「?」
「沢山人が死ぬって……」
「そちらは我輩の方と無関係ではないが、本筋でもない。ただ、我輩が負ければ確実に事態が悪化すると踏んでの発言だろう」
「どういう事?」
「前に用紙で配った内容に“外なる神々”というのが出てきただろう?」
「う、うん」
「あれは世界を侵蝕する邪悪の神である事が殆どなのだ。そして、その侵蝕はこのちっぽけな星を喰らい尽すに足る程の脅威……昔からそういう危険に人類は晒されている。要は彼らが現実を犯す時、それはまず異相。経路《チャンネル》を通す別の空間から始まるのが大半とされる。そして、それが続けば、やがては通常の空間も同様に侵蝕されて崩壊していく。つまり、神々の力が強くなれば、その分だけ大陸の地図が欠けかねない」
「それがどうして今回の一件と関係あるの?」
「……【着包野郎《サンドイッチマン》】が本来は外なる神々だからだ」
「―――神様」
さすがに藍が動揺して瞳を揺らがせた。
「ああ。中身を晒せない着包《きぐるみ》……それが奴の正体であり、本体だ。我輩が追う相手以外にもこちらに侵蝕の手を伸ばす個体が存在するのだろう。随分と長い事無かったのだが、この二十年近く大陸のゴタゴタを見ていれば、在り得なくもない話だ」
「あ、在り得なくもないって。そんな、簡単に……」
「我輩にどうこう出来る話ではないのだよ。この身に出来るのは両手の広がる限り、この触手に載せられる人々を守る事だけだ」
「……現実的なんだ」
「人類愛を持ち合わせる者はそれなりにいるかもしれないが、人類を救える力を持つ者達は極少数だ。我輩は少なからず前者であって、後者とは言えない」
「じゃあ、着包野郎以外の神様が自分の傍にいる人を襲ってきたら、どうするのよ?」
「決まっている。我輩の手の内にやってきたのだから、全力で相手をするだけだ」
「勝てないとしても?」
「勝てるかどうかは問題ではない。勝てないなら、勝てずとも被害を減らそう、仲間を募ろう、武器を揃えよう、人を育てよう。例え、我輩の敗北が必至だとしても、誰かへ助力し、次代の肥やしになればいい。逃げる事が、生き延びる事が、本当の戦いという事もある。自分に出来る事をするのではない。自分に出来る限りの事をするのだ。これこそ我輩の着包野郎を追ってきた日々だった」
「……出来ない事をしようとしたら、失敗するかもしれないわ」
意地悪く訊ねた声に答える声は明るい。
「ならば、失敗を積み重ねればいい。それも出来ないなら、準備を怠らずに己を高め続ければいい。違うかね?」
どんな壁も言葉も越えていく。
その屁理屈じみた物言い。
常の藍ならば、そんなの出来っこないと思っていたかもしれない。
だが、目の前の怪紳士が戦っている姿を、毎日のように寮の仕事を知らぬ間に終えている様子を、彼女は見てきた。
ただ戦う術だけを磨いてきた者に出来る事ではない。
家事炊事掃除。
生活の基本的な行為は確かにクストスが誰かへの助力の為に磨いたモノだ。
恩恵を最も受けている特別捜査隊だからこそ。
それは理解出来た。
「一先ず。世界の危機とやらは忘れたまえ。今あるこの都市を侵す危機にこそ、我々は立ち上がったのだ」
「うん。そうする……それにしても人類滅び掛けてもいいとか。旧教会派ってあんな物言いの人ばっかりなの?」
「はは、手厳しいな。彼女はあれでも自分の職務には忠実なのだが。人類愛なんて反吐が出ると言いそうだが、彼女の働き無くして、今の大陸はない」
「そ、そうなんだ。何か複雑……」
「我輩も昔は旧教会派の高官だった。もう止めて随分と久しいが、七教会が世を担うようになっても変わらず彼らの働きは今も大陸の秩序と安寧を守る防衛機関として十分なものと認識している」
「防衛機関? それに元々教会の人だったの? あな―――クストス先生は」
「ああ、そうだ。それとクストスでいい。あるいは影近のように綽名でも考えてみてくれたまえ。話を戻すが……随分と旧い話な上に一部の者にしか伝わっていない事実として、七教会となる前の教会、旧教会は人類を守る為に創設された防衛組織だったというものがある」
「初耳なんだけど。それって一般的には知られてないわよね?」
「此処だけの話。どうでもいい事実として忘れ去られた情報だからな」
「ど、どうでもいいとは思えないような……」
「そもそも、人類愛という概念や人類という単位でものを考えられる者が一般的になってきたのはこの数百年の事だ。教会が発足した当時に『私達は貴方達を含めた全ての人々を守ります』なんて話をしても誰一人ピンと来なかっただろう。場合によっては自分達の敵を助けるのかと布教の現場で追われた者もいたはずだ。人類防衛なんて物々しい言葉ではなく。『教会は誰にもその寛大な父の御業によって安寧を齎すのです』と説明した方が受けは良かったのだよ」
藍が説明を終えたクストスを見てポツリと呟く。
「話は分かったけど……今、何だか歴史の講義受けてるみたいじゃない? あたし」
「む? 当然のように生徒へ叡智を授けてしまったようだ」
我輩の教師としての能力は天職級なのではなかろうか。
そんな様子で触手紳士はフッと自己陶酔に浸り始める。
「叡智なんだ。その小話《こばなし》……」
微妙な視線となった藍が溜息を吐き。
クストスが迫ってくる目的地を前にして気を取り直した様子で告げた。
「そろそろ寮が見えてきたな。此処から先は全員で話そう。それと……あまり驚かない方がいい」
「へ……?!!」
藍が寮のある方向を振り向いた時。
其処にはもう見慣れた建物は無く。
長大な。
只管長大な煉瓦造りの赤い塔が一本。
まるで大陸中央にあるという【超高層先鋭建築《メガ・ビルディング》】の如く聳え立っていた。
すぐ後に彼女は知る事となる。
人が彼ら特別捜査隊以外消え失せているという事を。
そうして、一つの都市の中。
白き触手と黒き触手。
その邂逅が始まる。