※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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次回からようやく秋編が始まります。武芸術部のメンバーと共にエロ回ありで進むでしょう。では、次回。


第三章九十二節

第三章九十二節「祭忌禁交Ω」

 

 その涼やかな風の吹く鐘楼の上からは都市なんて見えはしなかった。

 

 大陸さえ両手に収まるような大きさ。

 

 天には星。

 

 地には光。

 

 蒼き天蓋に照らされた成層圏上層部からの景色。

 

 一歩、その床を踏み外せば、きっと世界の青さに呑まれてしまう。

 

 誰もがそう何故か心の内で確信していた。

 

 決して、幻ではない。

 

 遠く遠く地表から離れた場所からは螺旋の道が遥か下の雲間まで伸びている。

 

 感覚的には数kmを走ってきたに過ぎない。

 

 しかし、現実は思考を凌駕して、世界の頂に彼らを導いた。

 

 ただ広大な石製の床が広がる頂上の中央。

 

 20m程上には影絵の質感を伴った薄っぺらな鐘が揺れていた。

 

 鳴らされる度に響く音色は今や誰の耳にもハッキリと聞こえている。

 

「これが親玉、なのか?」

 

 ヴァルが影絵の鐘を見上げながら一歩前に踏み出した途端、足に異変を感じて咄嗟に後ろへと飛び退った。

 

「何だ?!」

 

 慌ててヴァルが靴を脱いだ瞬間、周辺に強烈な異臭と渇いた音が響く。

 

「な?!」

 

「これは―――」

 

 ドゥーズが目を細めた。

 

 ヴァルの素足。

 

 その爪が異様に伸び、その爪先からまるで時が立ち過ぎたように風化していた。

 

「時間が、加速してる?」

 

 少年が地面に降り立ち、少女をドゥーズに預けて、自らの靴を鐘の方に向けて思い切り投げた。

 

 途端、まるで冗談のように靴が虚空で鐘に近付く度に色褪せ、色褪せ、色褪せ、最後にはその自身に与えられた運動エネルギーによって構造を完全に砕け散らせて、粉々となった。

 

 風化というレベルを遥かに逸脱した光景。

 

 長い年月を一瞬で物体に与えたならば、確かにそのようになるだろう。

 

「魔力も試してみるか……」

 

 ドゥーズが片手に魔力の塊を生み出して、鐘目掛けて放った。

 

 しかし、その魔力が数m上に昇った時点で雲散霧消する。

 

 通常ならば在り得ない程の速度で力が拡散したのだ。

 

「……マズイな。これは経年劣化しない物体が必要か……ならば!!」

 

 ドゥーズが自らのスーツのネクタイピンを引き抜いて、投げ放つ。

 

 それは金製。

 

 この世で最も不変なる物質が先程までとは違ってまっすぐに進み続け、鐘の1m手前で―――跡形も無く消滅した。

 

「……金が変質した? いや、金自体の存在が否定されたようにも……」

 

「たぶん、宇宙の終りとか。そういう時間の果てがあるのかもしれません」

 

 少年の言葉にドゥーズが首を傾げる。

 

「時間の果て?」

 

「最新の魔導技術では宇宙の終焉は全ての物質とエネルギーが拡散し切って、熱量が均一に限り無く0となって静止するか。または全ての空間が一点に向かって収縮して物体の存在が認識出来る限界の領域も残らずに消えたのと等しい状態となるか。そのどちらかだと言われてます」

 

「つまり、アレの周辺はそういう時間の果ての結果が渦巻いているという事か……」

 

「突破するには経年劣化せず。また宇宙の果てでも消え去る事の無い。そういう類のものが必要かもしれません」

 

「ふっ、此処まで来て敵の特性が我々の手には負えないか……」

 

 ドゥーズが顔を歪めた。

 

「突っ込んだら、死ぬって事でいいか?」

 

 ヴァルが少年に訊ね、少年が頷く。

 

「ごめんなさい。名前……また、見えない。在るのは分かるけど、何か全部消す“無くなる壁”みたいなのが遮ってるみたいで」

 

「無くなる壁……概念すら朽ちる時間の果てだとでも言うのか。度し難い」

 

 ドゥーズが璃紗の言葉に手持ちの切札を数えながら、何が通用するのか。

 

 何ならば、相手にダメージを与えられるのかを思考した。

 

「……いる?」

 

『います。何でしょうか?』

 

 少年と璃紗以外の男達が驚いた。

 

 その場に響いた声は明らかに自分達の中にいなかった相手だったからだ。

 

 少年の背後。

 

 虚空に紫髪の幼メイドがフワリと浮遊していた。

 

「アレの領域を突破出来る武器とか、無いかな?」

 

『……存在しますが、現在の貴方にはお貸し出来ません』

 

「理由は?」

 

『貴方がシステムの運用者として認証を受けるには“混ざりもの”が多過ぎます』

 

「混ざり物……まさか、その子は『最従者』か?」

 

 少年が大体自分の過去を知っているのだろうドゥーズに頷いた。

 

『僕を魔王として認証するにはどういう条件が必要?』

 

「魔王?! どういうことです?」

 

 思わずヴァルがドゥーズに訊ねるも赤鬼宗家の当主は『そういう事だ』としか言わなかった。

 

『オリジナルの肉体が必要です。ですが、この状況下では完全消滅後にこの場に戻ってくる事は不可能だと断じられます。また、現在の人格が担保される保障はありません』

 

「イクス?!」

 

 思わず璃紗が少年の後ろ手を握った。

 

「……じゃあ、アレを突破せずに破壊する方法は在る?」

 

『存在しますが、多大な危険を伴います。観測結果より推測すると、あの鐘自体の耐久度は然程ではありません。故に大規模な攻撃で敵特殊障壁による消滅前に攻撃が届けば、破壊は可能です』

 

「その攻撃に必要な力はどれくらい?」

 

『―――凡そ、貴方を構成する特異結合体全てで生成可能です』

 

「ダメ!!」

 

 少年が後ろからの声に僅かな沈黙を持って応えた。

 

「……イクス。そんな事したら……」

 

 泣きそうな顔で璃紗は少年の背中を見る。

 

 しかし、臆する事なく。

 

 少年は真っ直ぐにディアコノスを見た。

 

「僕の存在を保ったまま敵に攻撃を届かせて戻ってこられるプランは在る?」

 

『計算中……一定の距離から爆発的にエネルギーを発して減衰を低減させれば、生存したまま戻ってこられる可能性はあります』

 

「近付いてその分発生させる力を温存するわけだな?」

 

 ドゥーズの確認にディアコノスが頷く。

 

『ただし、対象周辺の時間の加速度は非常に早く。通常生物には耐久不能の時間経過が発生します』

 

「何年くらい?」

 

『……現在の観測結果から導き出された距離で攻撃を行う場合、主観時間で凡そ13万年経過』

 

「じゅ―――」

 

 思わずヴァルが絶句した。

 

 ドゥーズもまた拳を僅かに固く握り締める。

 

「分かった。じゃあ、それで」

 

「イクス?! そんな事したら、イクスの身体も、心もッ?!」

 

 ようやく。

 

 後ろを振り返った少年が苦笑しながら、少女に瞳を合わせた。

 

「早くしないと手遅れになるかもしれない。それは嫌だし、僕は死ぬつもりもない。僕の身体は少なくともかなりの年月は耐えられる。だから、その子はこのプランを提案した。僕が十三万年動き続けて、攻撃し続けるだけでどうにかなるなら、これは分の悪い賭けじゃない……」

 

「でもッ、でもッッ……」

 

 ポンポンと少女の頭を撫でて、少年は見上げてくる顔を目に焼き付ける。

 

「心配しなくても帰って来るよ。僕には今、帰るべき場所があって、守るべき人がいて、それをやってのけるだけの力がある……これってきっと、凄く幸せな事なんだから」

 

『―――1つだけ、時間経過を無効にする方法があります』

 

 少年と少女の姿を見ていたディアコノスがポツリと呟く。

 

「本当?!」

 

 思わず叫んだ璃紗にメイドが静かに告げる。

 

『相手側の時間加速は物体に働く時間を無限に加速する事で得られる障壁です。此方側の物体やエネルギーは相手側の時間に合わさせられ、経年劣化による四散、放散で崩壊します。生物の主観時間が物質による定義を受ける以上、内部で脳気質を構成する物質が受ける十三万年分の運動は精神的な主観に反映されます。これを一時的に凍結処置します』

 

「じゃあ、それでどうにかなるの!!?」

 

『いいえ、凍結処置した間は問題ありませんが、攻撃した瞬間の経過はどうにも出来ません。ですが、この凍結を限界まで用いて、一瞬の意思決定の瞬間のみ脳神経系を活動させ、後の反応を肉体に反映させて戦う事は出来ます』

 

「え、えっと……つまり?」

 

 璃紗が何とか思考しようとしたが、上手く呑み込めず。

 

 額に汗を浮かべる。

 

『対象者が全ての状況判断を刹那で連続して行う事で残りの時間を凍結して戦えます。ですが、判断が連続していない為、凍結中は無防備となります』

 

「連続していない意識を外側から保管する事は可能か?」

 

 ドゥーズが早くもディアコノスの言葉を飲み込んで訊ねた。

 

『可能ですが、外部との時間差を考えた場合、通常の時間軸で存在する生物には不可能です』

 

「つまり、君ならば可能だと?」

 

 ディアコノスが赤鬼に頷いた。

 

『この躯体の全ての資源《リソース》を対象者の凍結中の肉体制御に用いた場合、ほぼ対象者の思考と同期した動きをさせる事が可能です。ですが、同時に制御情報の過多で当機は基幹部位から破損。その後のサポートを継続出来ません』

 

 紫メイドの言わんとしている事を少年が理解し、その髪に隠された瞳を見上げる。

 

「………いいの?」

 

『当機は名称イクス・ゼオの何割かを守る為に破損する事を許容します』

 

「……ありがとう」

 

 静かに自分へ告げる少年を見下ろしながら、鐘が変化した事を感じ取り、攻撃開始の時だと彼女は告げる。

 

『周辺時間の加速度が引き上げられました。攻撃の機会は後少ししかありません。攻撃準備を』

 

「うん。必ず遣り遂げる」

 

「イクスッ!!」

 

 璃紗の声に片手を上げて、少年は鐘へと向き合う。

 

『では、肉体からエネルギーを転化する際にはこちらで効果を継続します。指示だけを出して下さい。また、攻撃中に何らかの相手からのリアクションが在った場合、こちらで反応させた肉体がどうなっているのか予測が付きません。状況判断を一つ間違うとプランが瓦解する可能性もあります。どうぞお気を付けて』

 

「構わない。行こう。ディアコノス」

 

『―――貴方に我が力を。創造主』

 

 少年が床に片膝を付いて、疾走前の構えを取る。

 

 そして、鐘に向かって最大加速で跳躍した。

 

 その身体が敵の時間の加速地帯に突入する。

 

 この時点でまず頭部全てが領域に入る寸前、少年が凍結された。

 

―――100年が経過した頃。

 

 彼女は自らの主の凍結を一時解除する。

 

 その判断は刹那。

 

 敵性存在からの攻撃と思われる多大な重力弾が多数。

 

 攻撃を避けられるだけの状況ではない。

 

 後ろには命中すれば死ぬ味方。

 

 だからこそ、少年は片腕の手の甲を光らせ、余計な重量である剣を刹那で呼び出す決断をした。

 

―――380年が経過した頃。

 

 剣を握って振り被る動作は既に終了している。

 

 しかし、相手は次撃を無限の如く用意していた。

 

 そう、天を覆い尽す重力弾の群れ。

 

 正しく。

 

 自分の下にある全てを吹き飛ばす為の一撃。

 

 振り被る動作だけでは足りないと彼女は少年の身体より僅かにエネルギーを抽出し、少年が使うだろう技の為に準備を始めた。

 

―――1504年が経過した頃。

 

 凍結が再び解除された少年は刹那で自らの剣に宿るエネルギーを閃きの技に変えて、敵攻撃の相殺を決めた。

 

 彼女が一瞬で結論を出した少年の意思のままに肉体を操る。

 

 閃剣が奥義の一つ。

 

【鼓嵐斬(こらんざん)】

 

 刃に込めた魔力によって無数の目標を打つ刀技。

 

 攻撃時、魔力は全てが空間を撓ませる事に使われ、その刃が振り切られた時、周辺空間が歪んで対象物の軌道をまるで波紋に揺られる木の葉のように掻き乱す。

 

 鼓を打つような波紋の形が重力弾を逸らして……しかし、相手の刹那の猛攻は止まらない。

 

―――4503年が経過した頃。

 

 少年の意識が解かれた時、もう既に軌道を逸らされて直撃しないはずの重力弾の雨が横を通り過ぎていた。

 

 しかし、続いて敵が仕掛けてきたのは影絵の内部から迫り出した無数のリボン。

 

 それは触手の如く少年を縛り上げて同化しようと目前まで迫っている。

 

 これを回避する事は背後を見捨てるに等しい。

 

 ならばと少年は先に剣を持っていない片腕を差し出した。

 

―――6321年が経過した頃。

 

 少年はもう既に自らがしようとしていた通り、敵に絡め獲られた腕を切り落としている事を理解した。

 

 この時点で肉体の全てからエネルギーの抽出が始まっている。

 

 無論、敵のリボンに砕き散らされそうになっている腕も例外ではなく。

 

 そのまま伸び切ったリボンを切断すると決めた。

 

―――13230年が経過した頃。

 

 敵の猛攻は次の段階に移行している。

 

 腕の転化したエネルギーは既に背後から回収されていて、重力弾が着弾に向けて加速を開始していた。

 

 鐘の内部から、巨大な影は大きく露出している。

 

 それが現実味の薄い数百mはあるだろう拘束具の一部だと少年は理解し、打ち下ろされる前の覆滅を定める。

 

 既に片腕は無い。

 

 刀は技を一度、切り払いを一度で刃が欠けていた。

 

 それでも少年はその巨大な革製の拘束具の根元に向けて一撃を繰り出す動作を思考した。

 

―――24124年が経過した頃。

 

 その技はもうほぼ完成している。

 

【旋軌蜂浪斬(せんきほうろうざん)】

 

 元々は太刀筋を無限に読む相手との断ち合いにおいて開眼された一技。

 

 敵に次の動きを読ませない。

 

 というよりは読めても無駄な技を指向した末に編み出された一撃は基本の動きを蜂の舞う∞軌道として描く。

 

 其処から派生する動きは全て相手に予想されるも、その全ての方角の何処からも襲ってくる攻撃の手数を読み切っても敵の肉体は付いてこない。

 

 巨大な拘束具が亜光速に近い一撃を見舞う最中も次の一手を読ませない一撃は有効。

 

 次撃を用意する為に相手が思考する相手なら、手を誤る事も在り得る。

 

―――32153年が経過した頃。

 

 ∞軌道より繰り出された斬撃が当然の如く自らよりも速い攻撃を最遅の反射斬撃で捉えた。

 

【遡斬(そざん)】

 

 どんな相手の一撃だろうと刃先に攻撃が当ったなら、相手よりも早く反撃する“後の先”は亜光速の加速を自らの刃に取り込んで相手を中央から叩き切った。

 

 それと同時に刃が完全に崩壊する。

 

 これを予期していなかった敵はもう相手に余力は無いはずだと最後の一撃を繰り出す為に長い“溜め”に入った。

 

―――83324年が経過した頃。

 

 既に敵の攻撃準備は完了している。

 

 長い年月を掛けて溜められた一撃は鐘の表層から顕れた。

 

 絵柄がいつの間にか浮かんでいる。

 

 ゆっくりと身を起こすのは黒き姿態の巨人。

 

 一瞬にして肥大化した敵の仮面に付いた名は【外神獣(アウタン)】。

 

 少年が嘗て重症を追わされた相手だった。

 

 昔より強くなっているとはいえ、それは影絵化している相手も同じだろう。

 

 質量を持った影がその仮面の中央を開く。

 

 内部には流動する肉の塊が存在していた。

 

 乱杭歯を生やしたソレが内部に虹色の光を輝かせる。

 

―――88323年が経過した頃。

 

 敵は光弾を口から発射しようとし、その巨大な腕で少年を打撃しようとしていた。

 

 刹那以下の刹那。

 

 少年は新たな術を編み上げている。

 

 反射的に敵の一撃が受け切れないと理解して彼が片手に展開し終えた魔術は空間を曲げて攻撃の軌道を曲げたり、攻撃を遠方に投棄したりするもではなく。

 

 攻撃を止めさせるモノでもない。

 

 その魔術を編み上げた者曰く。

 

 それは世界の選択肢に付いて新しい解釈が欲しいと願い生まれた。

 

【超量子射影観測(クアンタム・プロイエクティオ・アンノータタ)】

 

 この世の全ての物質の振る舞いに対して影となる可能性世界を引き出す超越観測行為。

 

 本来、存在しないはずの量子的未観測状態を無理矢理に現実で認識する神の視点を生む魔術。

 

 どうしても、何をしても、曲げられなかった現実を変えたいと、助けたいと望んだ彼女。

 

 優し過ぎて、世界すら壊してしまうかもしれないソレは僅か数秒間のみ。

 

 在り得た今を確定し、無矛盾な理論体系を覆し、事実を捻じ曲げる。

 

 だが、その数秒から復帰するまでの間、全ての可能性は保留状態で量子の海に紛れ、決して現実になる事がない。

 

 これが何を意味しているのかと言えば、数秒間だけ別の世界の出来事を現実で進行し、数秒前の魔術発動時点の状況の時に復帰する。

 

 つまり、術者にしか認識出来ない数秒間の時間を得られる。

 

 その術の終点に至り、術者が世界に復帰するまで世界そのものが保留状態で止まっているのだ。

 

 これは時間が加速しているという状況をどっち付かずの状態で傍らにおいておき、何にも邪魔されない時間を得られるという事に相違なかった。

 

―――129999年が経過した頃。

 

 少年は復帰した世界の中で未だ敵が必殺の光弾を放つ寸前である事を知る。

 

 数秒という時間を現実に得た事で何が変わったのか。

 

 それを知らず。

 

 それでも脳裏に齎されるディアコノスの情報からそれを理解する。

 

 既に彼の後ろには誰もいなかった。

 

 少年の仲間達は既に真空の海にその肉体を浮遊させ、重力弾の炸裂から逃げ遂せている。

 

 鐘との距離は残り5m。

 

 そこから先は宇宙の終焉が待ち構える。

 

 しかし、それすら突破する力が、もう完全に少年の肉体に宿っていた。

 

 後は片腕で突き込むのみ。

 

 だが、彼は今現在の状態が最悪に近いと知った。

 

 経年劣化による肉体の磨耗には耐え切った。

 

 心も確かに健在だろう。

 

 ただ、相手が一枚上手だったか。

 

 測定していたよりもほんの僅か鐘が発する終焉の領域は拡大していたらしく。

 

 残った腕の肘から先が存在していなかった。

 

 諦める事なんて脳裏には無い。

 

 腕が無いなら、腕の分まで前に進めばいいだけなのだから。

 

 それが数千年、数万年……もしかしたら億年の時に磨耗する戦いになろうと構いはしない。

 

(次に会うまで少し長くなる、かな……)

 

 少年がもう自分を凍結するはずのディアコノスの存在を殆ど感じなくなっている事に寂寥と感謝を捧げながら、只管にただ全ての時間を相手にトドメを差す事に使おうと肉体を意識して―――。

 

―――ィィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッッッッ。

 

 響き会う何かが巨大な全てを圧する音色となったのを聞いた。

 

 その時、ハガスの周辺において、ジルムスが仕掛けていた宝玉が、都市を囲むようにして配置された結界の要石が作動した。

 

 起源の魔術師。

 

 今は他人の姿を借りる男の張った時間遅延の結界とは違う。

 

 それは空間制御を極めようとする青年が自らの心血を注いで創った妹を、家族を、仲間達を、彼らの住む都市を守る為の最終防衛ライン。

 

 全ての領域がもはや影絵に呑み尽されつつあった都市内部で霧が出る。

 

 それは外なる世界から流れ込むモノではない。

 

 都市の至るところに存在する崩燼機関(ソルヴァス・エンジン)から放出される蒸気だ。

 

 常と違うのは全ての秘儀の箱が例外なく恐ろしい程の輝く昇華光を吹き上げている事か。

 

 仕掛けられていた結界は至極単純で明確に国の工業力のほぼ全てを壊滅させる代わりに敵を圧倒する秘策。

 

 都市全体の黒き正方形が弾け飛び、その非領域、表裏無き機構を露わにする。

 

 メビウスの輪の如く。

 

 世の如何なる力も取り込んで数倍以上にして出力可能な無限機関。

 

 だが、命を崩す事でしか採取出来ない禁断の粒子しか力を増やせないソレ。

 

 それが共鳴し、自らの非領域化を拡大し、一つの核。

 

【超越解釈領土機構(オーバー・エグゼゲシス・ドミニオン・システム)】

 

 【OEDS】を通して都市全域にある崩燼機関内部の【源理粒子(イデアル)】を大量に複製した。

 

 その共鳴現象の最中にある影絵と化した都市が悲鳴を上げるような崩落音と共に剥がれ落ちていく。

 

 内部から顕れるのは亜人、人、異種、そして彼らが屯する祭り中の都市。

 

 誰もが共鳴によって増え続ける光り輝く励起された粒子の光に、それが昇華され、蒸気と共に天へ昇る姿に、歓声を上げていく。

 

 ボロボロと崩れる影絵の帝国の領土は最後には都市の大勢に認識されていない鐘楼のみとなる。

 

 ゼオ家のリビングで未だ保護されていた少女ハイダル・エス・トリアが我に返った様子で自分の胸で輝く全ての崩燼機関を操るソレに今まで自分がおかしくなっていた間の情報を【視宝泉(ジェミス)】に流し込まれて、思わず叫んでいた。

 

「イクスさんッッ?!!!」

 

―――129999年と5秒が経過した現在。

 

 少年はアーギスト・エス・トリアに心底の感謝を捧げた。

 

 時間を加速させ続けていた鐘が表層を罅割れさせている。

 

 見えない終焉を齎す領域が一気に後退し、その最中で最後の足掻きとばかりに【外神獣】が複製された。

 

 一瞬でその数が自らを割るようにして十体まで増える。

 

 少年を打ち貫くだろう虹色の光弾はもはや発射寸前。

 

 しかし、もう彼の一撃を阻む力は無い。

 

「閃剣が奥義の一つ」

 

 半ばから消えていた突き出した方の腕。

 

 無くなった骨が断絶した表面から積層魔力によって再建され、二の腕までの骨格が取り戻される。

 

「超えろッ!! 【裏斬(りざん)】」

 

 その腕を肉付けする輝く星々の光を湛えた透明な力場が肩から下の腕の全てを代償に手刀として振り下ろされた。

 

 腕が刹那で莫大な光芒と化し。

 

 鐘へと突き進み、その力を急速に衰えさせ、最後にはフッと煙すら遺さずに消え―――。

 

 パキリ。

 

 そんな軽い音と共に書割のような安っぽい影絵を割った。

 

 同時に巨人達が罅割れ、ただの黒い欠片となって宙に混じっていく。

 

(ありがとう。ユアン……)

 

 少年は両腕を失ったまま。

 

 刃を失っても自らを刃と化す文字通りの裏技を伝授してくれた少女を思い出して笑んだ。

 

 ただの手刀ではない。

 

 剣を自らの肉体の延長のように使えとよく達人は言うらしいが、裏斬はその逆。

 

 自らの最も固い部分。

 

 つまり、骨格の全てを刀として使う事で通常の刀剣類を遥かに超えた捨て身の神速を可能とする。

 

 振るという動作を剣は肩から関節を幾つも経由して可能とするが、腕自体を振るという動作ならばリーチが短くとも動かす関節分、時間を減らす事が出来る。二の腕で斬れば2つ分。肘から切れば三つ分早くなるのだ。

 

 とても単純でしかし、腕を失う事を前提に創られた技は信頼出来る回復役がいて初めて使えるものだ。

 

 これを使う時はよくよく考えろと念を押されて、もうどれだけの時間が経ったか。

 

 僅かに甦る記憶が少年には懐かしかった。

 

「イクスゥゥゥゥゥ―――ッッ!!!」

 

 ようやく正常に時間が動き出した時の中。

 

 少女達の叫びが響く。

 

 一人はすぐ傍の赤鬼の腕の中で。

 

 一人はきっと地表のゼオ家の中で。

 

 一人は今、彼が切り裂いた鐘の中で。

 

 二人は喜びに染まり。

 

 一人は絶望に沈む。

 

 そんな中、重力弾によって崩落しつつある巨大な螺旋の道を駆け上ってくる男が叫んだ。

 

「『エシャーナ』!!!」

 

 鐘の中から零れた屍蝋の仮面を被った少女。

 

 半身を打ち砕かれ、仮面に罅の入った彼女が床に落ちる寸前。

 

 大きな黄色い腕が滑り込むようにして軽くなった我が子を受け止めた。

 

「エシャーナッ!! エシャーナッ!! しっかりしろ!! 俺が悪かったッッ!!? 酒に溺れてッ!!! お前に迷惑を掛けてッッ!! あいつを救う事も出来ずにッッ!?!」

 

―――そっ、か……元に戻ったんだ……お父さん……。

 

「璃紗……あの子を……」

 

「う、うんッ!! で、でも、すぐに戻ってくるからッッ!!」

 

 崩れた床の一部にドゥーズが横たえた少年に言われ、少女が自らの使命を果たす為に泣きそうになりながらも、傍から離れた。

 

―――ごめんね……私達を不幸にしたもの……結局、一つも壊せなかった……。

 

「いいんだッ!! そんな事しなくてッッ!! 俺が不甲斐無かったばかりに―――こんな風になるまで無理させてッ!! 心配しなくていいからなッ!! すぐにどうにかしてやる!! どんな方法でもお前を元に戻してやるッ!! だから、絶対に死ぬなッ!!? 死なないでくれッ!! 頼むッッ!!? 頼むッッッ!!!!!」

 

―――また……みんなで……あそこに登ろう……それで……お兄ちゃんには……剣を買って……私にはお人形……作っ……て……。

 

「エシャーナ?!!?」

 

 崩れていく我が子の姿。

 

 それに揺さぶる事すら出来ず。

 

「誰でもいい!? どうかこの子を助けてくれッ!! お願いだッッ!!!」

 

 璃紗が蟲の吐息である自分よりも年上の少女を見て、気付いてしまう。

 

 もう、相手が助からないと。

 

 今、まだ生存出来ているのは屍蝋の仮面の力が働いているからに過ぎず。

 

 真名を呼べば、その時点で少女は元に戻って死ぬ。

 

 回復させる術が無い程に死に掛けた少女は細胞全体が気質的劣化に晒されていた。

 

 それが今の璃紗の目には見えてしまっている。

 

「………」

 

 璃紗が酷く哀しそうに虎男の後ろで俯いた事にドゥーズは崩れつつある少女の状態を悟り。

 

 璃紗の前に出て虎男の腕に治まる欠けた体に手を当てた。

 

 その途端、黒い魔力が噴出し、その身体を包んでいく。

 

「あんた?! た、助けてくれるのか!?」

 

「いいや、時間を延ばしてやれるだけだ。我輩は回復専門の術者ではない。秘薬や復元の類の魔術は持ってきているが、元に戻した瞬間にまた影絵が復活する可能性がある。かと言って、亜人に戻せば……その瞬間にこの子は絶命するだろう」

 

「!?」

 

「!!!?」

 

 璃紗が自分の見ていた状態を的確に言い当てるドゥーズに驚き、それを言わなければならなかった自分の肩代わりをしてくれたのだと思わず拳を握った。

 

 虎男がドゥーズを思わず恐ろしい形相で一瞬睨むも、男の言っている事は本当なのだろうとすぐに理解して、今は我が子を抱き締めている手を離せもせず。

 

 唇の端から血が流れる程に噛み締めた。

 

「……このまま見ているしか出来ないって言うのか」

 

「ああ、そうだ」

 

「このまま見殺しにしろって言うのか」

 

「ああ、そうだ」

 

「このまま……このまま、家族が死ぬところを見届けろと……そう言うのか。あんたッ……」

 

 ドゥーズがそうだと呟こうとして。

 

『どうにかなるかもしません!!』

 

 そう声がドゥーズのポケットから響いた。

 

「!?」

 

 それが自分の持っている予備の【崩燼機関(ソルヴァス・エンジン)】から響いたのだと理解して、彼が小さな黒い正方形を摘み出す。

 

『その、其処にある全ての崩燼機関をその子の周囲を囲むように置いてくれませんか?』

 

「た、助かるのか!? この子をッ!? 助けられるのか!!?」

 

『崩さないようにそっとその子の身体を横たえて下さい。出来るかどうかは保障しません。でも、助けたいのは本当です。もし、それが出来るとしたら、この機関にしか出来ない事のはずですから』

 

「分かった。すぐに始める。予備の崩燼機関は残り四つ。これで足りるか? ハイダル嬢?」

 

 ドゥーズが訊ねると『何とかします』と機関から声が響いた。

 

 そうして、今にも崩れ落ちて消えてしまいそうに浅い息を吐く少女エシャーナを虎男が細心の注意を払って床に下した。

 

「助かるんだな!! 助けられるんだな!!? エシャーナを!! 本当にッッ?!!」

 

『静かにお願いします。今、計算中です……これならギリギリまで復元に持っていける……璃紗さん!!』

 

「う、うん!! 分かってる!! 大丈夫になったら、元に戻せばいいんだよね!?」

 

『はい。合図と同時にお願いします』

 

「うん!!」

 

 二人の遣り取りが終った時、エシャーナの身体が急速に崩れ出した。

 

「エシャーナ?!?」

 

『行きます。術式開始。崩燼機関共振開始……出力制御、外殻開放、領域収斂、源理粒子(イデアル)複製開始、復元工程ロード……崩壊する粒子の複製を開始……』

 

 ドゥーズが少女の四方に置いた黒い正方形が急激に明度を増して花開くように内部を露出させ、その細い針金で構成されたような輝く多面体に見入った。

 

 四つの機関が同時に同じように源理粒子の昇華光を吹き上げ、その中心で崩落していたエシャーナの肉体に崩落した先から同じ粒子が補完され、次々に崩壊した部分がゆっくりと復元されていく。

 

 崩れた場所を同じ粒子(もの)で置き換えているのだ。

 

 それがやがて頭部にも及び始めると機関の先から声が掛かった。

 

『璃紗さん!!』

 

「―――エシャーナリア・エンズ・アイルストン!!」

 

 パキリと軽い音と共に屍蝋の仮面が砕け落ち、その中から出てきた虎男と同じ種族の少女の顔が復元によって形を取り戻していく。

 

 それからの一分。

 

 誰も、何も声を発しなかった。

 

 崩燼機関の全てが一際強く明滅して、バキャリと全体に罅割れを起こして停止する。

 

 それでも少年達の間に声が響いた。

 

『術式完了(オペレート・エンド)……復元誤差0.000034%以内。これで大丈夫なはずです』

 

「あ、ありがとうっ!!? ありがとうッ!!? これで娘はッ!!? 大丈夫なんだよな!? い、生きて、帰れるんだよなッ!!?」

 

 大の大人がボロボロと涙を零しながら、恥じも外聞も無く娘の上で号泣する。

 

『目覚めるまではもう少し掛かるかもしれません。ただ、本人の脳気質は全て同じ構成で復元されたはずです。ただ……』

 

「た、ただ?」

 

『復元したのは人格が宿る脳と肉体だけです。その中身、情報までは復元出来ていません。そうするには出力が足りませんでした。ですから、頭部内で崩落した箇所によっては人格や記憶に欠落が起きる可能性が否定出来ません』

 

「け、欠落ってどういう!?」

 

 動揺した男が思わず声の響く虚空を見つめる。

 

『……その子の魂や心、記憶が一部欠けるかもしれません。でも、人格の大半は残っていたはずですから、本人ではあります……つまり、思い出や昔の事、常識や智識が欠けるかもしれません』

 

「―――でも、この子はこの子なんだよな!? この子ッ、なんだろう!!」

 

『それは保障します。当人が起きたら、一度病院で見て貰って下さい」

 

 ドゥーズがエストリアの言葉を補足するように虎男の肩に手を掛ける。

 

「我輩の掛かり付けの病院がある。この場から移動させたら、すぐに運び込もう」

 

「……エシャーナっ……」

 

 唇を噛み締めて、それでもまだ生きているのだと、まだ死んではいないのだと虎男がしっかりと元に戻った娘の手を握った。

 

 それは自分の手に似て無骨で、お父さんにこんなところまで似なくて良かったと言っていた少女の手そのまま。

 

 男はただただ娘の無事を祈る事しか出来なかった。

 

 影絵の世界が吹き払われ、その中心たる鐘楼の鐘が割れた今、巨大な頂上は崩れ始めている。

 

 ドゥーズが他の全員に号令を掛けて、早く逃げ出そうと声を上げれば、今度こそ娘を離すまいと虎男が未だ眠る少女を抱き抱え、それをヴァルが横合いから支えた。

 

 虎男は傷こそ深く負っていなかったが、それでも疲労の色は濃く。

 

 ドゥーズにしても戦闘を潜り抜けて何とか敵の親玉を倒した事に安堵したのか。

 

 緊張の糸が切れ息切れしていた。

 

 少年は両手を失った反動か。

 

 床で璃紗に支えられるようにして身を起こしており、重症である事は間違いない。

 

 誰もがその場から退避する事に反対するわけが無く。

 

 最初に虎男とエシャーナとヴァルが螺旋の道を急ぎ足で降りていく。

 

 ドゥーズが少年と璃紗を抱えて崩落が激しくなり始めた場所を一瞥して、遥か地表へと降りようと足に力を込めた時、不意に動けなくなる。

 

 それと同時に璃紗が一瞬自身を襲った重圧に思わず目を閉じて口を覆った。

 

「此処で新たな敵というのはさすがにな……」

 

 一瞬で戦闘態勢を取ったドゥーズだったが、フッと意識を失った様子で床に崩れ落ち、璃紗が思わず声を掛けようとして一瞬だけ相手を“敵”を認識して「何故?」と疑問符を浮かべながら、パタリと倒れた。

 

 二人の身体がそのままフワリと浮くと少年を残して遥か地表へと念動力のような不可視の超常の力によってあっと言う間に雲間に消えていった。

 

 最初に感じた相手の気配。

 

 それに覚えがあった少年はそれを助けようとする事なく見送って。

 

 両腕の無いまま立ち上がって後ろを振り向いた。

 

「エンシェン。大丈夫だった?」

 

 軽く。

 

 本当に軽く。

 

 変わってしまった自分の姿を見ても、何一つ困惑すらせずに言う少年に……エンシェン・イル・フォイルは泣いていいのか、謝っていいのか、怒っていいのか、分からなくなった。

 

 言いたかった事は沢山あるはずだった。

 

 説明だってしてやろうと思っていた。

 

 けれども、白き“御二”となった自分を一目で誰であるか理解し、ただ安否を聞いてくる……相手に、少年に、元魔王に、イクス・ゼオに、懇切丁寧な説明をする事が馬鹿らしくなった。

 

 きっと、最初から答えは出ていて。

 

 きっと、終りまで相手は自分から逃げないのだ。

 

 そんな事は自分にだって分かっていた。

 

 分かっていて、来たつもりだった。

 

 けれども、やはりちっとも分かってなんていなかった。

 

「……このエンシェンのものになれ。イクス」

 

「それはちょっと……借り物はいつか返さないといけないし……」

 

「―――私が、我が力が、守る。守ってやる。だから、お願いだ……どうか、私のものになれ」

 

「ごめん」

 

「………」

 

「それとありがとう。たぶん、最後の瞬間に助けてくれたのってエンシェンだよね?」

 

「………お前は本当に傲慢で……人の気持ちを斟酌しないのだな……」

 

「えっと、怒られてる?」

 

「ああ、怒っている。怒っているとも……このエンシェン、我が身の情けなさに怒る以外出来る事が無い」

 

 エンシェンが今は白きその肌を、角を、顔を、俯けた。

 

 何処か迷子になった子供のように不安そうな表情。

 

 その切なさに砕け散りそうな、今にも消えてしまいそうな声に少年は……何も言わなかった。

 

「こういう時、口説き文句を並べれば、相手は簡単に恋へ落ちると本では書いてあったぞ」

 

「それって、かなり内容偏ってない?」

 

「ああ、そういうのが好きなんだ。本当は、な」

 

「……じゃあ、エンシェンは自分らしくでいいんじゃない? 人の話を聞かないのが良いところなんだし」

 

「お前に言われてはお終いだな」

 

 僅かに唇の端を歪めて、彼女が顔を上げる。

 

「お前は変わらない。いや、変わっていく事も受け入れられるのだろうな。だが、誰もがそうではない。このエンシェンがそうであるように……こんな力を手に入れても、お前の心一つ変えられはしない。それを今更に思い知らされて……でも、やはり変われないんだ。いや、変わりたくないんだ。イクス」

 

「エンシェン……」

 

 少年が僅かに悲しそうな顔をした。

 

 それが誰の為でもなく。

 

 自分の為のものだと分かるから。

 

 分かってしまうから。

 

 彼女は強く強く自分を律する。

 

「お前が理由を問うなら、答えてやろうと思った。お前が訊ねるなら、百万言でも応えようと決めていた。だが、お前は私を受け入れても、私のものにはならない。いや、なれない」

 

「………うん」

 

「そんな、お前が好きだ。そして、大嫌いだ……イクス……」

 

 苦い笑み。

 

 それが真っ直ぐに澄んだ視線となった時。

 

 少年は既に態勢を整え終えていた。

 

 魔力で構成した多少腕力が高い腕が二本。

 

 それを構成するまで待ってくれていた相手の潔さと決意が今も消耗している事には変わりない身体に刻まれる。

 

「お前を殺しはしない。お前を朽ちさせはしない。お前を傷付けるものを私はこの手で必ず滅しよう。だから」

 

―――お前の心臓を私にくれ。

 

 少年が真っ直ぐに彼女を見返して。

 

 その瞳に宿るものを己に中に焼き付けて。

 

 微笑む。

 

「君が望む方法で手に入れてみればいいんじゃない?」

 

「……その優しさが人を傷付けると知って尚それを貫くのが、お前の罪だ……」

 

 彼女は今まで脳裏で無限にも等しく組んでいた戦闘プランの全てを放棄した。

 

 その東部風の着物のような衣裳のまま。

 

 まだ崩落していない場所に立ち、片腕を相手へ突き出す。

 

 それに応えて。

 

 相対する場所に立った少年もまた彼女へ片腕を突き出した。

 

 拳と拳。

 

 距離は遠く。

 

 しかし、相手と触れ合った気がして。

 

 互いが僅かに笑む。

 

「敗者は全て与える。これが条件……どちらが敗者だろうと必ず呑め」

 

「じゃあ、僕からも条件を提示していいかな?」

 

「いいだろう」

 

「勝負の方法はこっちで決めさせて貰うって事で」

 

「互いのどちらにとっても干渉可能で明確に勝敗が分けられる勝負事なら、何だろうと受けよう。どんな不利もどんな不条理も今の私には軽く超えられる程度の事だ」

 

「解った。じゃあ……」

 

 崩れ落ちていく足場の上。

 

 少年は告げる。

 

「友達の数で勝負しない?」

 

 思わずエンシェンが酷く間の抜けた顔をして、噴出した。

 

「そうだな。お前は……そういう奴だった……ならば、集計はこちらでしよう。無論、こちらは出来る限りの範囲を洗脳させて貰う」

 

「それでいいよ」

 

 サラリと言われて、まったく本当に勝負の意味が分かっているのだろうかと。

 

 分かっていて、自分が高位の神格を遥かに凌ぐだけの力を手に入れていると知りながら、そんな事を提案する少年の自信は一体何処から来ているのだろうかと、彼女は……苦笑しつつ、洗脳と集計を始める。

 

「この力は少なからず、この惑星全土を覆う事すら可能だろう。人類の大半にすら通じ、押し付けられる力だ……お前の友がどれだけの数いるか知らないが、この星の内部に生きる総数より多くはあるまい?」

 

 エンシェンが腕を広げれば、薄く薄く波のようなものが空間を渡り、惑星の地表を舐めるようにして遥か裏側まで広がっていく。

 

 空間を渡る力の本質は畏怖。

 

 相手の思考に割り込む魔術は敵を怯えさせる為のものだ。

 

 白い魔力が溢れ出した周囲が薄らと覆われて、輝きを増していく。

 

 彼女はその中で数多くの人々に少年の記憶を感じた。

 

 確かに友と呼べる者は少なかったが、それでも今もそう思っている者達がいた。

 

 しかし、本人すら意識していない意識深層下に訴えかける彼女の魔術によって、洗脳者(とも)はすぐに増えていく。

 

 特別な力を持つ者や魔術である程度高位にある者。

 

 そのような相手は一瞬の干渉を防いだが、それでも何の力も持たない人類は惑星内に数十億。

 

 勝利は揺るぎないものに違いなかった。

 

「もうすぐ大陸に暮す殆どの人間にエンシェン・イル・フォイルが友である事を意識下で認識させられる。これで私の勝ちだ。イクス」

 

「そう……じゃあ、集計する時に人間や亜人以外にも対象を広げてくれない? 出来れば、酷界や天界、他の種族にも問い合わせてくれると嬉しいかな」

 

「いいぞ。だが、そんな事をして何になる。人類より彼らの数は圧倒的に―――!?」

 

 力で星を被いつつあるエンシェンが急激に反応を増やしていく少年を友と認識する相手の思考に目を見張った。

 

 彼女の脳裏に引っ掛かったのは主に人類以外の種族。

 

 その中には異種や明らかに人類より数の劣る知的生命が数多くいた。

 

 だが、とある種族のみだけ桁が明らかに違う個体数を誇っており、その中に多数の反応があった。

 

 何処までも何処まで天井知らずに数え上げられていく数。

 

 その上、人類に大半を掌握する洗脳が相手の大半には効いている様子も無かった。

 

 魔族。

 

 そう呼ばれる彼ら。

 

 その中でも大陸内外、神と天使達のいる世界である天界と対比される酷界内から無限にも等しき意識の本流が彼女へ流れ込む。

 

 其処に刻まれた記憶。

 

 過去、少年が行なってきたのだろう数々の戦闘。

 

 膨大な情報に刻まれた敗北と屈辱。

 

 しかし、それよりも強く強く憎しみとも怒りとも付かない感情に混ざった奮い立つ興奮と相手への畏敬と親しみ。

 

 【強敵(とも)】と再び見える事を望んだ幾多の魔族達が無礼極まるエンシェンの魔術に拒絶と共に叩き付けるのはたった一行の言葉だ。

 

―――あいつより強くなってから来るんだな。

 

 ビキリと負荷の掛かったエンシェンの全身に血管が浮き上がり、僅か彼女がふらついて俯き、唇の端を歪めた。

 

「ははは、人類の数百倍以上の固体数、か。まったく、お前は何処までこのエンシェンの予想を上回るんだ……これでは勝ち目など無いではないか。お前の記憶に無い者にすら、お前を慕う者がいる。お前が名すら知らない者がお前を本当の友だと思っている。お前の事を知って尚、お前を心に強く焼き付けて想い続ける者がいる……人類、異種、亜人、人外、魔族、天使、神格……はは、霊魂すらもお前に付くか」

 

 もう笑うしかない。

 

 いや、笑う事しか出来ない様子でエンシェンが少年に悔しさを滲ませて微笑む。

 

 小っぽけな惑星の中で少年は幾多の種族に憎まれ、愛され、同時にそれに追いつかんとする程に心を通い合わせていた。

 

 命を掛けて歩き続けた数十年。

 

 その全ての出来事が少年に友を増やしていた。

 

 それは確かに友と呼べる程の気持ち。

 

 戦い続ける事でしか、進み続ける事でしか得られない力。

 

 それは少年が殺さず、救い続けてきた証そのものに違いなかった。

 

「………私の、このエンシェンの、負けだ」

 

 人生の厚みが違う。

 

 今ならば、あらゆる力の量も質もエンシェンが上回るだろう。

 

 その当然の驕りを当然の如く打ち砕くものを満足に戦えもしない身体で秘めた少年。

 

 真っ直ぐに自分を見て、近付き、手を差し出して、一歩間違えば心臓を刳り貫いていただろう手を取ってすら見せる少年。

 

 その「帰ろう」という言葉にもうエンシェンは自分がどう逆立ちしても相手に勝てない事を強く意識させられ、その胸に覆らない敗北を刻まれた。

 

(………最初から勝負になどならなかったのだな)

 

 心地良い程心は清々しく。

 

 彼女は納得するしかなかった。

 

(まったく、こんなのは予想外だ。理想の自分になってすら、敵いはしない人がいる……あぁ、だから、私は……お前が好きなのか……絶対、敵わないから、何処までも高い壁に上りたいから、いつかお前を越えられたらと……)

 

 自らの家。

 

 その生まれを全う出来ない事を恥じつつ、彼女は内心で父親に謝る。

 

 これで崩燼機関が国を救う事は無くなった。

 

 艦隊編成の計画も全て凍結される。

 

 国に出来る事はもはや無くなったに等しい。

 

 その引き金を引いてしまった自分を父親は処分するしかないだろう。

 

 ケジメとして家を出ろと言われるのは間違いない。

 

(親父殿。済まないな……でも、ホッとしているんだ私は……この笑顔を傷で歪めさせなかった事に……)

 

 少年という存在を祖国の為に遣い潰そうとした許せない父親に謝って、その悪辣に手を貸した自分に絶望して、それを結局当然のように超えられた事に安堵して、何処までも複雑怪奇に捩れた彼女の琴線がプツリと切れる。

 

「ぅ……っ……っ」

 

「エンシェン?」

 

「見るな。こんな涙お前に見せていいようなものではな―――」

 

 少年の人差し指がピタリとその唇を閉ざした。

 

「っ」

 

「とりあえず、帰ったらお祭りに行かない?」

 

「え……?」

 

 少年が自分よりも背丈の大きな白鬼女を両手でお姫様抱っこすると、完全に崩れ落ちる頂上から遥か下の都市へ目掛けて飛び降りた。

 

「!?」

 

 為されるがまま。

 

 女が目を見開いて隣を見れば、其処には笑顔。

 

「難しい話は後で。まずはみんなで愉しもう?」

 

「………馬鹿」

 

 ポツリと少年に向かって呟いた声は小さく。

 

「きっと、一緒に考えれば、良い案も浮かぶよ。何を悩んでても、一人じゃ答えを出すにも限界があるだろうし」

 

「私は……お前のそういう正論ぶって自分一人無茶な事をするところが嫌いだ」

 

「ぅ……あんまり反論出来ない、かな」

 

 少し汗を浮かべて。

 

 落下中の風に髪を靡かせながら、少年は急激に近付いてくるアルヴァスの大地に目を細めた。

 

 既に夜明けが近いのか。

 

 地平線からは光が零れ始めている。

 

 その時、少年とエンシェンの耳元に声が響く。

 

『ようやく繋がった!!? エンシェンさん!!? さっき、何をしてたんですか!!? 通信がずっと繋がらなくて何だか良く分からない感じに対峙してたから、何事かと思ったんですよ!!? イクスさん!!!』

 

「あ、エストリア?」

 

『「あ、エストリア?」じゃ、ありません!!? どうしてイクスさんはいつもいつも何でも一人で解決しようとしちゃうんですか!! 璃紗さんもシルメイアさんも他の皆さんも待ってますから、早く帰ってきて下さい!! それとエンシェンさんだけズルイです!! 帰ってきたら、一人五分くらいそうやって持ち上げてもらいますから!! 気付いたら、もう三日目の朝だし!! 兄さんはジルムスさんと近くの店で酔い潰れてるし!! 殆ど壊れた崩燼機関の事もあるから、明日から何だか大変みたいだし!! 今日中に愉しまないとお祭りが終わっちゃいます!!』

 

「あ、ぅん、その、ごめん……」

 

 少年が捲くし立てられて、結局謝った。

 

『それと………』

 

「それと?」

 

『さっき病院から連絡があって、その……エンシェンさんのお父様からの伝言です』

 

「伝言て?」

 

『………「不肖の娘をこれからどうぞよろしくお願いする。ゆ、ゆ、結納の品や資金は提供出来ないが、個人の荷物はゼオ家に送っておく。む……む、婿殿」だそうですッッッ?!!! 一体ッッ!! 一体ッッ?!! どうなってるのか後でガッツリ、キッチリ、シッカリ説明してもらいますからね!! いいですか!!!? イクスさんッッ!!?』

 

「あ、はぃ……」

 

 少年が思わず応えて、これからガヤガヤ忙しくなるんだろうなぁと遠い目をした。

 

 その合間にも都市の全景が薄い雲の下、二人の目に飛び込んでくる。

 

 其処には彼らの日常を紡ぐ都市がいつものように在った。

 

 その鮮やかな景色に一瞬目を奪われ。

 

 エンシェンが少年の横顔に見つめ。

 

 そっと、呟く。

 

「済まない……」

 

「謝られるような事はされてないよ。えっと、一つだけいい?」

 

「何だ?」

 

「……笑ってくれない?」

 

「笑う?」

 

「難しい事ばっかり考えてるより、そっちの方がエンシェンには似合うと思うから」

 

「………じゃあ、こっちを向け」

 

「うん、んむっ?!」

 

「―――」

 

『ぁあ~~~~~~~~~~~~~~~ッッッッ?!!?!』

 

 周囲を喧しい喧騒に支配されながら、それでも耳元に響く声も無視して。

 

 そっと顔を離した鬼女は……少年に笑んだ。

 

 今にも泣き出しそうなくらい優しく。

 

「好きだ……イクス……」

 

 少しはにかんで。

 

 新たな一日の幕が開く。

 

 人々の活気が都市を動かしていく。

 

 夢幻のような儚い影を被った夜は終り。

 

 禁忌なんて気にしない一人の少年はとりあえず返礼を返した。

 

 それが下で全てを見つめる少女達の罵詈雑言と嫉妬になって返ってくると知りながら。

 

 それでも相手と交わり続ける事を求めた。

 

『イ~~~ク~~~~~~ス~~~~~~さぁああああああああああああああん!!!!!!?』

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