第三章九十四節「武芸術部校外活動Ⅲ」
―――夕刻ゼオ家リビング。
ヒタヒタと浴室から上がってきた素足が床のあちこちを濡らしていた。
金髪の少年とも少女とも付かない異相からの帰還者。
ネハシム・セラーフィーム。
金髪の彼もしくは彼女がキョロキョロと素肌にバスローブ一枚で何かを探している。
現在、保護者であるアルゥは外出しており不在。
その面倒を見る者は誰もいない。
いや、一匹ならばいる。
まるで宝石で出来た白い猫のような物体。
通常の有機的な生物とは確実に別物だろうソレがネハシムの頭に乗っていた。
『汚れたら洗う。あの人が言ってたし!!』
とりあえず大人しくしているようにアルゥから言われていたのにどうして一人風呂になんて入ったのか。
その理由がその頭に乗る物体だった。
基本的には家主以外に見えていない白猫。
それが耳元で囁いたのである。
お菓子を食べていいと言われていた為、ブリキ缶に入っていた小麦菓子を齧って一人と一匹は主の帰りを待っていたわけだが、ポロポロ零れた菓子屑が衣類に付着。
白猫的物体はそれを見て一言。
『洗わないと怒られちゃう!!』
そうネハシムを風呂場に誘った。
そこでゼオ家の家主であるアルゥから毎日されているようにゴシゴシと洗われてご満悦となった物体は更に洗ってくれた当人を尻尾でゴシゴシと擦り、二人で汚れを落として出てきたのである。
しかし、基本的に猫だからか。
拭くものを用意していなかったのは致命的。
白猫は傍にあったバスローブをネハシムに着用させ、自分はそのまま頭の上に乗った。
こうしてロクに身体も拭かないまま一人と一匹は風呂場から出てきたのだ。
しっとりと濡れた絨毯。
長い金髪をモゾモゾさせながら、感情の動きも薄い顔が先程まで自分のいた場所。
リビングのソファーを見つめ、そちらに腰掛ける。
『人間いない。ゆっくりしよう……』
白猫が欠伸しながら幸せそうにソファーへ飛び降りて丸まる。
「………」
しかし、ネハシムはまだキョロキョロと周囲に何かを探していた。
一体、何をという疑問を白猫が持つ前に玄関が開く音。
その相棒的物体をそのままに玄関へ続く扉まで歩いて行き、そっと顔を出したネハシムが見たのはいつも誰かといるはずの少年だった。
本来なら璃紗が付いているのが常だ。
だが、その姿は現在傍に無い。
「あれ? アルゥさんは?」
近付いてくる相手を見上げて、そのシットリとした金髪がピョインと跳ねた。
「留守番……かな?」
無言で見上げる瞳は何も語らず。
未だシトシト濡れている髪とバスローブ姿に気付いて。
少年はソファーで座るようネハシムに言い、タオルを取りに行く。
それを横目にしていた白猫的物体がポツリと呟いた。
『あの人間怖くない……』
それに同意するのか。
あるいは単に眠くなったのか。
コクリとネハシムの顎が僅かに動いた。
それからしばらくして……濡れた金髪はすっかりと乾かされ、更に何も着ていないのは問題だと身の丈に合う服を着せられた“彼女”はすっかり女給姿となっていた。
「後で返しておくから、今はこれで我慢して」
ネハシムに合う服が璃紗の愛用するソレしかなかったのだ。
ちなみに毎日少年の傍で甲斐甲斐しく世話をする少女は少年の部屋にも衣服を常備している。
まぁ、理由は言わずとも分かろう。
夜のお供をした後用である。
「………」
そうして少年はリビングの時計を見上げ、そろそろ時間かと台所へと向かっていく。
手持ち無沙汰なネハシムがその背後を見つめて、トコトコと付いていき。
台所に続く扉の横から内部を覗き込んだ。
いつの間にか。
白猫もその頭に乗っている。
「えっと、とりあえず十人分くらいでいいかな……」
少年が台所の棚から乾麺(パスタ)や燻腿(ハム)、麺麭(ぱん)を取り出し、ついでに壁の中に埋め込まれた崩燼機関製の冷凍庫から野菜だのを取り出していく。
流し台の奥手にある香辛料を瓶毎に幾つか取り出し、引き出しから取り出したナイフを三本程まな板の横に敷いた布の上に置いて、さっそく調理を始めた。
『おいしそう……』
ダラーッとものの数分で出来上がっていく料理の数々に白猫が涎を零した。
ソレに頭を浸されつつ、ネハシムがトコトコと少年の後ろまで歩いていき。
料理に注力する少年の袖を後ろからクイクイと引く。
「どうかした?」
振り返った少年に彼女がポツリと呟いた。
「手伝い、ます」
たぶん、出会ってから初めて聞く声。
それに驚く事も無く。
少年がその頭を撫でて、並べられていた食材の一つ。
小さな赤い実が入ったボウルを渡した。
「これをコレで潰してくれる?」
すりこぎがネハシムの手に置かれ。
コクリと頷いた彼女がイソイソと台所にあるテーブルの上でボウルの中の実を潰し始めた。
すると、甘い香りが広がって、白猫がダラダラと更なる涎を零しつつ前のめりになろうとしたが、その身体が手で掴まれ、台横の椅子に置かれる。
そこからでも潰す様子は背伸びをすれば見える為、猫は尻尾をシャラシャラと鳴らしながら、腕を台に付け、その様子を覗き続けた。
然(そ)う斯(こ)うしている内に少年は乾麺を茹で上げ、肉を炙り終わっている。
最後にネハシムが潰していた果実の潰れ具合を確認して、再びその頭を撫で、ありがとうと言うと。
潰し終った果肉に香辛料やら油やら注いでソースを作っていく。
十人分の食事が作り終わった頃。
玄関が開き、数人の足音がリビングへと向かった。
『イクスさ~ん?』
少女達の声が頻りに名前を呼ぶので少年は苦笑しつつ、作り終えた料理を大きな盆に載せて、両手で持ち上げる。
一緒に食べようと軽く言ってリビングへと向かう背中へポツリ呟きが零された。
「いい人、です」
『うん。人間だけどいい人!!』
一人と一匹はそうしてリビングへ少年を追い掛けていく。
今日は御馳走だと白猫的物体は幸せそうな顔をしたが、璃紗の腕に抱かれた黒猫が少女達から料理を取り分けられ、ニヤニヤしているのを見て、バタバタしつつ叫んだ。
ソレ僕のだし!!と。
その夕暮時、見えない白猫は女給姿の相棒に分けてもらう以外の分を食べ損ね、終始頬を膨らませていた。
*
―――アルヴァス南部王家所領。
蒼く分厚い水で出来た扉。
いや、壁を前にして青年が一人佇んでいた。
岩肌から滴った水がゆっくりと周囲に染み出し、通路には小さな水溜りを幾つも作っている。
「エンシェ~~ン。もういいか~い?」
周囲の岩穴に響く声。
その声の主は赤い猫耳を付けた気弱な王様。
現アルヴァス亜人国の国王その人。
アルデルト・エスラ・ウィム・アルヴァス。
現在、様々な理由を付けて聖女から逃亡している、という尤もらしい嘘の理由で隠遁する彼は幼馴染のエンシェン・イル・フォイルに請われて遠出していた。
アルヴァスの国土の大半は殆どが荒野だ。
その為、水場や森林地帯はとても慎重に管理されている。
国土の中でも10%しかない森林地帯の一つ。
その中でも王家が所有する場所に二人は出向いていた。
森の奥深く。
其処には小さな岩場と泉が存在しており、岩盤には穴がポッカリと口を開けている。
入り込めば、精々が20mで行き止まりの小規模なものであるが、内部に存在する扉の先には祖先の代から引き継がれた力が眠っており、周囲には幽玄な気配が漂う。
国土全域に張り巡らされた概念魔力を引き出す結界。
時の興国者達が子々孫々の者達へ残したソレは継続によって国力を増すようにと貴族達に与えられた特権の一つだ。
戦闘となれば、減らぬ力として運用されるだろう攻撃手段。
【貴族連盟登録者(パリス・フォエドゥス)】の持つ証から発される魔力の源こそ、岩場の穴の奥。
水の扉に守られた結界基点だった。
内部には岩の台座が置かれており、手のひらに載るくらいだろう薄紫色の宝玉が嵌め込まれている。
そこで自らの構成した魔術方陣を指先で球面に施していたエンシェンは最後の一文を書き切ると満足した様子でイソイソ水の扉を潜り、アルデルトの傍まで戻ってきた。
「終ったかい?」
「ああ、これで必要な儀式術の中核は書き込み終った。後は起動する際の認証だけしてくれれば、こちらで全てやっておく」
「はぁ~~これでようやく終わりか~~ご先祖様も首都から近い場所に結界の基点を置いてくれれば、こんな苦労しなかったのにな~」
「……お前には感謝している」
「へ?」
思わずアルデルトがエンシェンを凝視した。
「あのエンシェンが僕に感謝? 何か、悪いものでも食べ―――」
ゴインと青年の横の岩肌に拳が突き”刺さる”。
「人の感謝は黙って受け取っておけ」
「うぅ……やっぱり、何も変わってない。安心したけど何も変わってないよぅ」
ビクビクしながら小さくなる王様に家臣がフンと鼻を鳴らした。
「だが、これでようやく門のへの干渉と鍵の創造に手が届く」
二人が泉の上を魔術で飛んで水辺に着地する。
「起動してくれ」
「うん。じゃあ、僕の名において結界の運用を君に託す……はい。お終い」
青年が軽く言うと一度だけ岩穴の内部が明滅して、すぐに静まる。
しかし、その効果は劇的ですぐエンシェンは自分の身体に力が溢れ、変わっていく事を感じた。
「これは……」
彼女が驚きに目を見張る。
自分の姿が白く変質していくのを目の当たりにしたからだ。
「エンシェンが白くなってる?! 正に驚きの白さってやつじゃないかな。コレは!?」
まるで洗剤を叩き売る商売人のような王の言い草にゲンナリした彼女だったが、一ヵ月半前に少年と争った自分の理想の姿を取り戻した事に僅か緊張していた。
しかし、すぐそれが杞憂だと分かってホッとした表情となる。
力は前回の変質とは異なり、彼女をより向上させた程度。
主神級神格にすら届く魔力と干渉力。
その他全ての性能が常識の範囲外だった時とは明らかに違っていた。
あの時は途中から仮面が自らの顔と同化して素顔となっていたが、今は何かを付けているような違和感も無い。
ペタペタと自らの肌を触って確かめた彼女がアルデルトに向き合う。
「どうやら、結界の力を使っている時はこの姿になるらしいな」
「へ~~白鬼か~~そう言えば、家の文献にもあったよ。フォイル家の祖先の人はいつか白くなるのが夢だったとか何とか。こういう意味だったんだ……」
「お前にもう頼る事は全て終えたわけだな。ユアルはもうこちらの管理化で安定しているし、どうする? 親父殿にすっかり忘れられている気もするが、帰るか?」
「う~~ん。此処で僕が帰っても実務者の人が二度手間に報告する先が増えるだけだろうし、色々な片が付くまではこのままでもいいかなって思ってるんだけど。そこのところどうなのか何か聞いてない?」
「親父殿には絶縁状を渡されたとお前も知っているだろう。国の存亡に関わる不手際だ。ケジメの意味合いもある。そもそも親父殿は理解のある方だから……家の者としての特権は残してくれているが、さすがに今までのように軽く内情は話してはくれないだろう」
「ドゥーズって親馬鹿だから、こっそり言えば教えてくれそうだけど?」
「それが必要ならば、そうするだろう。だが、可愛い娘の事だ。逆に曲げられない筋もある」
「まぁ、それくらい厳しい方が逆に君を追い詰めないって自覚がある辺り、そうするんだろうけどさ」
「……一ついいか?」
「うん?」
「我が王の癖に賢く見えるぞ」
青年が言い様も無く。
心で泣きつつ。
反論すら儘ならないのでガックリ肩を落とした。
「僕、要らない子?」
「実務では確実に要らないが、象徴としては必須だな」
青年が厳しい現実から逃避した半笑いでとりあえず森の外へ向けて歩き出す。
それに付き従ったエンシェンが本日の夜の事に早くも気を取られて、言葉少なとなった。
「とりあえず、今のところは問題も無さそうだし、後は任せるよ。ただ、崩燼機関の軍需用再生産を最優先で民需が壊滅状態だから、そろそろ何かしらの政策を出しておかないとなー。さすがに金融の方も被害が出始めてるし、何か新しい案とか無い?」
とりあえずは珍しく国の事を考えている幼馴染の王様に彼女が一瞬だけ逡巡するも、そっと懐から小さな欠片を差し出して見せた。
それは少年の肉体から抽出した特別な破片。
異相の七教会の研究者達が生んだ異端の力。
星屑の如き輝きを秘めた構造体。
「宝石?」
「いや、この国を救うかもしれない力だ」
「……僕は優秀な臣下を持って幸せだと思うよ!!」
その欠片を摘み。
アルデルトが木々の間から落ちる夕日に透かして見つめる。
「ちなみにコレってどう使えばいいんだい? エンシェン」
「複製出来れば、七教会の正面戦力の攻撃を凌ぐ兵器を作れる。ちなみにまだ親父殿にも見せていない代物だ」
「どうしてまた?」
「コレを創る時、また犠牲者が出る可能性がある」
「犠牲者って?」
そこで不意にエンシェンが青年の前に出て、もうすぐ森から出るというところで夕日を背に振り向く。
その顔には今までのような気安い幼馴染の顔は無く。
何処か迷いながらも真っ直ぐな輝きだけがあった。
「一つ聞きたい。お前は―――」
そこで青年がそっと指を一本彼女の唇の前に立てて、言葉を止めた。
「何となく分かったよ。エンシェン。そういうのは聞かなくてもいい。僕は王だ……少なからず。お飾りだとしてもね。だから、そういう本当に重要な事は全て知ってる。勿論、君が知らない事も含めて全部。ドゥーズが報告してくれない事以外は」
「……そうか。知っていたのか。知っていて、止めなかったのか……」
その苦しげな幼馴染の表情に青年は躊躇無く頷いた。
「止められる現状じゃなかったし、止める必要性も無かった。だから、本当なら君がドゥーズに怒る必要なんて無いんだよ。王様ってのは責任を取る為にいるんだから。僕は君が懸念した事も全部ひっくるめて彼に許可したよ。まぁ、当時はまだ王様じゃなかったけど」
「一つだけ聞きたい」
「うん?」
「他の道は無かったのか?」
たった一人の少年を犠牲にした。
いや、正確には魂の無い器だとしても、それをあんな骨と皮だけになるまで絞り尽くして国を潤す事に躊躇いは無かったのかと彼女は自らの王に問う。
「在った。けれど、それは国民に血を流せと言ってるに等しいものだった。逆にこちらが全力で相手に抗えば、泥沼の戦争になるかもしれない。それがもし無かったとしても、やはり争った国の間には禍根が残ったはずだよ。僕は国の変革と軍事の強化をドゥーズに許可したし、ドゥーズが人道ってものに反した方法を取ってた事も問題にしなかった。国家運営は綺麗事じゃない。まだ、そういうものを貫き通せるだけの力もない小国を持ち堪えさせようって言うなら尚の事だ。民に言えるような話じゃないのは分かってたけどさ」
まったく。
いつもよりも王様らしい幼馴染に彼女は怒れもしなかった。
それは当事者が困ったように笑って彼女を許していたからだ。
いや、許すも何も「別に必要だったんだから、しょうがない」と肩を竦めていたというのが正しいだろうか。
そう謝ってくれるなと。
いつもの笑みでいつものように少年が接してくれて以来。
その偶然に必然が重なった残酷な現実に彼女は何とか向かい合えるようになっていた。
「お前は後悔していないんだな」
「微塵も。正しい事をしたとは言えないけど、間違った事をしたとも思わない。僕にとって国は自分の命より大切なものだ。それを守る為なら、暴君や暗君にもなろう。歴史の教科書に虐殺者や独裁者、最悪の指導者と書かれたって構わない。それがどんな大罪だったとしても……全ての責は僕のものだ。百年後も自分の国の子供達に罵られてる王様となれるなら、別に構いはしないよ」
国の安寧を思い。
全ての責を被り。
何と呼ばれようと国家と民を存続させる。
その決断の重さを語る青年の瞳は真っ直ぐだった。
こんな風に話した事は今まで一度たりとも無かった。
彼女にとって意外では無いにしても、こうして国を思う故に悪人にもなろうという決意を聞いたのは初めての事で……エンシェンはやはりこの男もまた人の上に立つ者なのだと知る。
「まるで王様みたいだぞ。我が王よ」
「酷いなぁ……これでも君といる時は幼馴染的な親しみ易い自分であろうとしてるんだけどな」
「何処の世界に鼠が怖い獣人型亜人がいるんだ」
「この世界のこの国の君の目の前にいるよ……」
「……分かった。もうその事に付いては訊ねない。だが、一つだけ約束しろ。それを使うなら、もう誰も犠牲にするな。私からの望みはそれだけだ」
青年は眩しそうに目を細めて頷く。
「この手の届く限り、この力が及ぶ限り、アルデルト・エスラ・ウィム・アルヴァスが約束しよう」
その声には彼女が今まで聞いた事も無い重みが宿っていた。
「………さぁ、そろそろ帰るぞ。お前はどうするんだ?」
話を打ち切って、再び森の外へと踵を返せば、二人はものの数秒で森の外へと出る。
「僕はこれから人と合う約束があるんだ」
「では、此処でお別れだな。私はもう家に帰る」
「じゃあ、また今度」
「ああ、また」
エンシェンが懐から取り出した鉄製の符。
転移方陣が刻まれたソレが掲げられて。
一瞬で地面に焼き付いた燐光を伴ってその姿が消えた。
「………まったく、僕が王様じゃなかったら、今頃押し倒してるよ。エンシェン」
きっと生涯聞かせる事が無いだろう本音を呟いて、彼が待ち合わせの相手がいる方角を振り向く。
其処には黄金の獅子が一匹、黄昏の丘の上に佇んでいる。
『お邪魔だっただろうか?』
「いえ、お気に為さらず。では、さっそく話し合いを始めましょう」
青年が丘の上に上がり、黄金の毛並みの横へ腰掛けた。
『単刀直入に。一ヵ月半前に君が強奪した彼女達の力を返して頂きたい』
獣は未だ大陸中央において絶大な発言力を有する王の中の王。
アルヴィッツ聖王国最後の城主。
マシア・ミクニス・アルヴィッツの化身。
アルデルトは、歳若い古き名を持つ亜人の王は、その自らの手本にすらなるだろう相手に苦笑しつつ告げる。
―――とっくの昔に使い果たしたのでご希望には添えそうにありません、と。
*
―――首都ハガス近郊。
子供のような背格好の老人が樹木も疎らな雑木林の奥に歩みを進めていた。
寂れた装身具を全身へ身に纏い。
草臥れ、擦り切れた褐色の外套を着込んでいる。
進み続けた先。
林の密度が僅かに上がったかと思われる場所を通り抜けると開けた場所に出た。
それはせいぜいが半径5m程の何も無い平地。
しかし、よくよく見てみれば、通常よりも地面の色合いが黒い事に気付くだろう。
酷界。
俗に魔界と呼ばれる魔族達が住まう世界から魔力や瘴気が流入するホットスポット。
その一つだった。
本来ならば、化物と化した動植物や無機物達がウジャウジャと湧いていなければおかしいが、今のところそういった存在は周囲には見えない。
老人が背中に括り付けていた白い杖を取り出して、トントンと地面を叩く。
すると、周辺の地面が波打ち。
まるで漣(さざなみ)を立てる泉のように揺らぎ、その中心部に大きな正方形の映像が浮かび上がっていく。
その内部で立体的な闇。
そうとしか形容出来ない人影らしき者が声を発し、老人が何度か頷いた。
しかし、その途中。
突然に老人の背後から突き出された腕が胸を貫通し、血飛沫を上げて小柄な体躯が跡形も無く血の雨と化して飛び散った。
そこで映像の先にいる相手がようやく周囲にも響く声を出した。
『………確かあの国の先遣隊だった者だな?』
老人がいた場所まで出てきた殺害者。
剃刀のような鋭い顎の男が銀のマントをはためかせ、伝統的な貴族風の衣裳を身に纏って颯爽と進み出る。
「この亜人国に何用でしょうか? 閣下」
『ほう? この身の名を知る、か……それこそこちらの台詞なのだがな。我らは【三極会議(トレス・コンペントゥス)】直轄部隊だ。負け犬に話してやる事は何も無い』
「大陸侵攻の先遣隊が消息を断った数ヶ月前から此方側に酷界からの間諜が来ている事は知っておりました。ですが、使用出来る“大門”は北部にしかないはず。この土地に何の御用でしょうか?」
『……貴様は確か元々あの男、イーギルフィストの部下だったはず。それならば、知っているだろう? 千年前のその地に国を拓いた男が何を置いたのか』
「………此処の“門”は現在使用者が不在の上、外なる神々の侵蝕を受けている最中。如何な会議の方々も早々使おうとは思えない代物のはずですが?」
『ふ、若輩め。賢しらな事を言う……いいだろう。不意打ちとはいえ、我が部下を殺(と)った褒美に教えてやろう。そもそもその地に拓かれた小門の大本は元々移設されたものだ』
「移設?」
『天使、亜人や異種達が押さえている大門。そして、あの方や翼の天が開いた複数の小門は大陸各地に存在するが、唯一その地にある門だけは場所を選ばぬ移動型のものなのだ。過去、【基幹異種(バルバロス)】共を殲滅し、手に入れた【源型(アーキタイプ・モールド)】は此方側に持って来られなかった為、神器と共に四人の者が封印していた。それを利用し、その国の興国者が小門を開いていたに過ぎん』
「―――」
『ここまで言えば分かるな? 盟約は既に改訂されている。侵攻は不可避だ。だが、北部の大門があの神々と神兵共に封鎖されている以上、我々には大陸へと出ていく道が無い。貴様等が小国の王族程度の為にそちらを攻めたおかげで七聖女共は異相側の戦力を増強し、小道を通ろうとすれば、その時点で面倒な戦いになる』
「故に直通路である亜人国の門を奪うと?」
『そうだ。翼の天が墜ち、主神達の大半が存在しない今、人類種を家畜化するには絶好の機会だ。基幹異種共がそうしていたように我々は新たな大陸の盟主となれる。そうなれば、魔族の生存領域の拡大は新たな飛躍を遂げるだろう』
「………“彼”の事をお忘れでは?」
『ふ、見縊るなよ。七聖女共との戦闘で封印されているのだろう? その程度の情報は入ってきている。貴様もいつまでも死んだ主の為に働くのは大変だろう。我が軍門に下るなら、組み入れてやってもいいが?』
「ご冗談を。これでもまだ部下としてやらねばならぬ事が多い故、お断りします」
『その言葉、後悔するなよ?』
「そちらこそ、この地に座する“灰火の皇女(みこ)”を怒らせぬようにと忠告させて頂きます」
『言いよるわ。あのイーギルフィストならばまだしも、ゼオストスの血筋など恐るるに足らず。我らが前に這い蹲る日を楽しみにしていよう』
ブツリと映像が途切れ、それと同時に嫌がらせのように酷界側の魔力と瘴気が周囲に噴出す。
その濃度は人間ならば、刹那で融解する程のもの。
周囲の樹木が瞬間的に石化し、不気味に蠢動を始めるのを横目に男が静かにその場を後にする。
そうして、林の奥でまた一つ魔境が誕生したが、それに対処するには亜人国の仕事だと男は雑木林から抜け出してハガスの市街地の方へと歩き出す。
そうして数十分後。
男は自らの居住地。
噂の麺麭屋の内部に入り、リビングで待つ数人の亜人達。
否、そのように見えているに過ぎない同胞に雑木林であった出来事を話した。
何処にでも居そうな獣人の五十代や六十代の男達が未だ貴族ルックな蒼い剃刀のような男に視線を向けて、これからどうするのかと訊ねる。
「今は嫌がらせに過ぎないだろう。だが、少数とはいえ、強者を送り込んでくるのは間違いない。我らは……」
五十代の少し弛んだ身体の八百屋の店主が手でその言葉を遮った。
「言わんで下さい隊長。我々はイーギルフィスト様亡き後、拾われたゼオストス王家に仕えるのみ。いや、今やそんな義理すらどうでもいいのかもしれない。アルメイア様が我らを導かなければ、どの道七教会に討たれ、あそこで死んでいたのですから……」
「そうですよ。こうして人として暮すのも悪くない。この国の興国者、あの方の兄上もこういう気分だったのかもしれませんな。人間となるもまた一興。もし叶うなら、フォイル家のようにこの地へ根を張るのも悪くない」
男達が次々に彼へ明日の天気でも話すような気軽さで肩を竦める。
「人の愚かを喰らうが魔だと言うが、我らが喰らったのはどうやら別のものらしい」
彼の言葉に男達が豪快に笑った。
やがて、仕事があるからと捌けていく背中を見送って。
男は、隊長と呼ばれた存在は、近くにあるゼオ家の方角を見つめる。
未だ時は来ない。
しかし、義理と恩義と感謝を忘れられるものでもない。
故にその日を彼らは待ち続ける。
来年までに国が消えてしまっているかもしれないという現実を知りながら、逃げ出す事など露程も考えずに……新たな時節を伺う。
「さて、明日の仕込みを始めよう」
ディミトリア公国を滅ぼした魔族達の生き残り。
ゼオストス豊饒国第4師団第十二外籍分隊。
所属者数12000人。
たぶん、大陸史上……最大の魔族共同体の長は明日の麺麭に使う具材の調理を行おうと仕事場へと向かって行った。