第一章二節「荒天」
その世界の事を人は【ファルティオーナ】と呼ぶ。
意味は確か欺かれた者とか何とか。
いつの頃から言われていたのかは学校でも教えてくれない。
調べたところで大陸の旧暦元年より前の事なので分からないのだと言う。
そして新たな新暦である七教会の定めた新教会歴元年。
多くの種族が合同で行った対魔王戦争は大陸中部より以北の大森林を全てただの砂と変えて集結した。
人類の英知とか。
異種族の能力とか。
それらがただ一人の存在を打倒する為に結集されて、使用された。
大陸を滅ぼす技があったという。
大空を染める力を見たという。
時間が空間が概念が螺子曲がり、全てを破壊せしめたという。
けれど、その戦争の本当のところは分からない。
人類は決戦を行ったのだと言われても、殆どの国の人間達にとっては大国や隣国と戦乱の幕開けでしかなかったからだ。
それに教会は大概の場合「戦争が終わった」とは言うが「魔王を倒した」とは言わないのだ。
混乱期。
大陸中にある大小合わせて三千余りの国々がほぼ全て戦国の世に突入した。
その巨大な戦争が終わってすら戦場は未だ何処にも燻っているという。
そんな事はきっと大陸中央部から程遠い端の国では関係ないのだと、そうその日が来るまで思っていた。
「ヴェル?」
「ふぁっ!?」
「どうかしたの?」
「あぅ…な、何でもありません」
いつの間にか眠っていた。
無防備な寝顔を見られたのかと思うと頬が赤くなるのが彼女にも分かった。
馬車に揺られて二人旅。
農作業のおじいさんが載せてくれた藁を積んだ荷台での事だった。
大陸中央諸国では車両技術というのが発達して弾力のある樹液を固めた車輪や鋼の装甲を持つ馬車より早い何かが走ると言うけれど、本当かどうかは分からない。
けれど、一つだけ確かなのは…そんなちょっと固そうな馬車の荷台では目の前の人とこんなにも一緒にはなれないだろうという事。
藁に包まれるように身を寄せ合って、くっ付くように座ったり、触れ合ったり出来ないという事。
たぶん、きっと。
「お腹でも空いた?」
「わ、私、そんなに食い意地は張ってな―――」
グゥとお腹が鳴って、私は恥ずかしくて、藁の中に潜り込みたくなる。
「うぅ…こ、これは…聞かないで…ください…ティア」
よりにもよって自分を助けてくれた人に、自分を救ってくれた人に聞かれるなんて、死んでしまいそうだった。
「おじさん。村までは後どれくらいですか?」
『おお、もうそろそろだよ』
「だって…着いたらご飯にしよう。ね? ヴェル」
「はい。ティア」
奴隷だった私はそうして今日も彼に救われる。
一人じゃないのだと、何だか心の奥が温かくなって。
*
村の外れで下された二人は共に馬車の老人へお礼を言って見送った。
それからテクテクと宿屋があると聞いた場所へと歩いていく。
一面はもう収穫時期の小麦に黄金と染まっていた。
小麦畑の中を通る畦道(あぜみち)を歩きながら、懐かしさに彼女は思わず立ち止まる。
「ヴェル?」
「…私の村も…こんな風、だったんです」
「そうなんだ」
「はい」
その遠い瞳に何を感じ取ったのか。
少年が優しく呟く。
「…どうせすぐそこだし、ちょっと休もうか?」
「…はい」
蒼天の下。
一本の木を背に二人が座った。
都会の人間でなくても、ただの街の人々ですら、懐かしいと感じる郷愁の園。
黄金色の世界を前にして胸の内から湧き上がってくる言葉を少女は形にする。
「奴隷になる前。私もこういう領主様へ小麦を納めるところの村に住んでたんです。私の国は戦争とかそういうのとは全然縁が無くて。皆、ここよりずっと遅れてる村で生活してました」
「近代化の影響が少ない地域だった?」
「はい。それで…だから、誰も戦う術なんか持っていなくて。他の国との戦争に負けた国が少しでも領土を増やしたいとか。そういう理由でだったと思います。全部…焼き払われて…連れて行かれて」
「そっか……」
「…抵抗した人は殺されました。七教会がいつ来てくれるのかって、そう誰もが言っていて…教会に逃げ込んだのに…兵士は…関係ないって…みんなを引きずり出して…」
涙は無かった。
淡々と語られるのはそれからどうやってあの街まで連れて行かれたか。
首輪に足輪。
粗末な食事。
犯される他の娘。
売られていく虚ろな瞳。
「だから」と。
そう少女は少年を見つめた。
「嬉しいんです。こんな風にしてくれる。こんな私に…」
「…買被り過ぎだよ」
「そんな事!」
思わず顔を近づけて。
「そんな事、ありません」
「本当に君を救うのは僕じゃない。それは君自身で…これから君が出会っていく誰かで…僕はただそれをほんの少し手伝ってるだけ…」
少年の横顔に何も少女は言えなかった。
「君を教会の下までは連れて行ける。けど、そこから先は君次第。君が望む世界、君が願う幸福、それは僕じゃどうにもならないものだから」
何処までも澄んだ笑顔で「もう少ししたら行こう」と言って、小麦を揺らす風にティアが目を閉じる。
「……」
ヴェルは知らない。
何もティアの事を知らない。
それでも一つだけ彼女には理解出来ている事がある。
優しい瞳。
その澄んだ瞳の奥で光るもの。
きっと、それは他者を慈しむ心。
(きっと、この人は…大勢が言う聖女様みたいな人…)
傍らの大地に付いた手に手を重ねて。
風の中、少女もまた瞳を閉じた。
それから日が少し落ちて。
立ち上がった二人は今日の宿へと赴く。
やがて、夕食を麺麭(パン)で終えた二人は黄昏を部屋の中で迎えて。
黄金色の光に導かれるまま。
少女は少年に触れた。
頭を撫でられ。
陶然として。
翳っていく光の最中で。
*
ピチャピチャと子犬がそうするように少年の幹を無邪気に舌で舐めながら。
膨れていく形を確かめた少女はここ数日の日課。
いや…自分の心からの欲求に耽る。
何も返せない己が唯一出来る事。
それは誰かに強制されるはずだった事で、誰かにしたいと望んだ事もないはずだった行為。
幼さが残る唇で、それでも少しずつ覚えた形を喉の奥に咥え込む。
太い幹の感触。
最初は苦しかった。
苦しくても温かかった行為が、今では苦しくなくて、圧迫される感触すら、愛おしくて。
始まりはいつも少女から。
少年は一度だって少女にそうして欲しいとは言わない。
本当に自分には過ぎたお返しをしてもらっていると泣いてしまいそうなくらい済まなそうに笑う。
それでも少女は自分の形を、少年の形を確かめたくて、触れ合いたくて、決して超えてくれない一線があるのだろうとぼんやりと理解しながらも、奉仕する。
何度も喉の奥に少年の先端が滑り込む感覚。
空気が足りないのに、限界まで少年を自分の中に留めておきたいという想い。
「ん……」
少年の細やかな高ぶりの声に悦んでくれているのかなと陶酔の中で震える。
与えてくれた服を、下着を汚してはいけないと思うのに、少女は、ヴェルは自分の腰の奥から熱が湧き上がり、蕩けていく股間を止められなかった。
もっと、欲しくて。
少年の悦ぶ声が聞きたくて。
キュッと喉の奥を締め付けて、最初は出来なかった事をして。
死んでしまいそうなくらい長く長く自分の内で幹を擦る。
「―――んぅ、く、はッ」
ようやく引き抜いて。
少女は自分の唾液に濡れて照り映えるそれを一呼吸してから再び咥えた。
少年はそんな少女の行為に没頭する様子を見て、笑みを零して。
優しく頭を撫で、頬を撫で、顎を撫で、耳を撫で、目尻に浮いた涙を掬った。
言葉は無くても。
互いに慰めたいという想いに高ぶった幹が震えて。
そっと、少女が唇を離す。
「ヴェル?」
いつもなら、そのまま奥まで咥えてティアの吐き出す白い塊のような精を喜びのまま呑み込むはずで。
どうかしたのかと。
少し心配そうに少年が声を掛ける。
「ティア…その…あの…」
恥ずかしそうな顔が何かを躊躇うように視線を泳がせる。
「ゆっくりでいいから、どうか、した?」
「下着汚して…しまって…それで、その…ティアに…」
「もう、したくなっちゃった?」
悪戯っぽい笑みで、まるで子供の粗相を笑って許すような笑みで、少年が訊く。
「此処にティアの…その…子種を…吐き…出して…欲しくて///」
少女が下履きの紐を緩めてストンと落とす。
高価ではないそれが、木綿を使った簡易の下着が、大きく沁みを広げていた。
下着の真横にある紐が解かれる。
今までなら考えられなかった。
自分の秘部を見せつけるように暮れる光で照らし出すなんて。
それをしてみせて。
ヴェルはそっと寝台に乗って足を開いた。
「どうぞ…子供出来ないと…思いますから。ですから…」
ゆっくりと一筋の割れ目が両手で開かれる。
垂れ下がりそうな上着を口で咥えて、恥ずかしげに少女は・・・自分のそこに少年の精を受け取る準備をした。
「ヴェル…本当にいいの? 恥ずかしいなら…」
フルフルと首を横に振って。
濡れる瞳で哀願して。
そんな少女の様子に少年は応える事にした。
今にも吐き出してしまいそうな幹を自分で握り、少女の傍に縒って、煽情的な秘部へと向けた。
「可愛いよ…ヴェル」
「///」
そのまま刻が来て。
扱き出された熱い塊が少女の秘部を濡らした。
「――――――!!?」
少女は背筋を震わせて、ジンジンと熱く滾る秘部の感触に絶頂する。
はしたない声を押し殺して。
少年の大切な子供を作る為の種。
それを僅かでも己の奥に感じたくて。
少女は割り開いた秘部を震えながら両手で弄る。
襞に染みる熱が、滑(ぬめ)りが、トロトロと少女自身の悦びで、溢れたものと交わっていく。
絶頂した体が引き絞られているのに、止められない手で少女は幾度かに渡って吐き出される子種を全て下腹部に受け切った。
グッタリと弛緩した体でフワフワと胡乱になりながら、少女は無意識に片手でその白い種を口に運ぶ。
指先を舐める仕種をもし他の男が見たなら。
今にも押し倒していたかもしれない。
それでも少年は「気持ち良かったよ」と優しい笑みで一言を告げ、少女の傍らに来ると汚してしまった体を用意していた麻布で拭い始める。
体を誰かに拭いてもらう。
まるで子供のような扱いが少しだけ恥ずかしく。
それでも触れられる悦びの方が上回って。
少女は呆けたまま、少年に身を預けた。
その先をねだる事は……少年を思うからこそ、出来なかった。
*
そうして二人の旅人が睦み事を終えた頃。
村に宵闇が落ちた頃。
ガサガサと程近い林を鳴らして走る影があった。
その吐息は獣染みている。
眼光は貪狼(とんろう)も斯くや。
紫雲から滴る水気がやがて雨になると本来の獣達には教えているがそんな事にも気付かず。
彼女は一人、追手から逃げていた。
逃げられたのは偶然。
本当にただの偶然。
彼女を女の子とそう侮った男達。
神の如き。
いや、悪魔の如き力で全てを瓦解せしめた七教会。
その兵士達が走り出した彼女を追い掛けようとして、何故か動けなかったのだ。
どうしてそんな事になったのか彼女は知らない。
キリアはまったく理解していない。
それでも一度の機会を彼女は己の砕け散った矜持を掻き集めて、ものにした。
仲間と親と慕う者達。
彼らを一緒に連れて行きたいと何度振り返ったかしれない。
だが、彼女が逃げる様子を見ても、彼らは反応すらしなかった。
それで彼女には解ったのだ。
そこに彼女が仕え、彼女が尊敬していた【ガランス】という世界は、もう無いのだと。
キリアは若かった。
そして、教会の怖さを内心感じ、警戒してもいた。
今や数多の国々を相手に実質的な調整役となっていたのだから、侮る事は愚の骨頂だと。
だが、彼女以外の誰もが実際には教会なんて叩き潰せる程度の存在に違いないと高を括っていたのだ。
自分の人生を掛けて築いてきた自負を粉々にされただけではない。
慢心と油断の結果こそがガランスの人々を、その心を壊滅させた。
価値観の全てを否定された人間は廃人と変わらない。
恩義も情も義理もあった。
だからこそ、キリアはもう既に塵芥となったソレを己の内心から掻き集めて、努めて「そう在ろう」と彼らを振り返らなかった。
内心、数え切れない礼を想って。
涙で道が見えない事が無いように、全ての心情に鍵を掛けて、旅立った。
無様でも、もうただの女にしか過ぎないとしても、新たな価値観が自分を否定しようと、彼女は進む事を望んだ。
走って走って。
恥も外聞もなく“今の自分”が“ただの女”になる事を頑なに拒否して。
教会の追手に脅えながら、逃げ延びた。
川を夜中に泳いで渡り、山々に紛れながら、僅かな雨水と木々の間に生える名も知れぬ果実で飢えを凌ぎながらの道程。
「はぁはぁ…これで山を二つ…超えたか」
自嘲気味に疲れが見える顔に嗤(え)みが零れた。
何処に逃げているのか。
何から逃げているのか。
逃げた先でどうしようというのか。
組織でエリートとして育てられ、そういう生き方しか知らない彼女が、全て失って何が出来るというのか。
そんなのはただの逃避で、ただの問題の先延ばしではないのかと。
皮肉な事に掻き集めた彼女の組織幹部としての知識が良識が彼女の心に囁く。
「五月蠅い…」
泣いてしまわぬように。
折れてしまわぬように。
考えないようにしてきた現実を数日の逃避行の先で止められるわけが無い。
その先に何が無くとも。
旅人は後ろを振り向く事なんて許されない。
彼女の最後に残った自負が許さない。
あのまま矯正施設とやらで組織の気心の知れた仲間や上司達とやっていれば、きっと今よりマシだったのではないのか、なんて。
「お笑い草だ…あぁ、お笑い種だとも…この褐色狼(フォックス)が…どうしてあんな悪漢より性質(たち)の悪い教会如きに矯正されるだと。ははは…はは…」
笑い声が慟哭にならぬように。
努めて。
そう努めて思考を断ち切って。
歩いた矢先。
何かに躓いた。
転げ落ち―――何かの蔦を掴んで切れ―――空へと放り出される。
死んだ。
そう、キリアは思った。
理由は単純明快。
いつの間にか崖の上を歩いていたのだ。
下まで普通の住居が十以上入るだろう地面との距離。
こんな終わりなのかと。
何故か。
納得出来て。
これが全てを置き去りにした罰なのかと。
心すら朽ちていく最中。
最期に見あげた空があまりにも綺麗で。
「はは……」
乾いた嗤いが、込み上げて。
つぅっと。
一筋の滴が、空中に昇って。
ドシャリと鈍い音が聞こえ―――無かった。
「?」
思わず閉じていた瞳が開かれる。
もう地面に叩き付けられて。
潰れた蛙のようになっているはずと彼女は不思議に思う。
「こ…れは…」
輝きが懐から空へと上っていた。
キラキラとサラサラと輝く何かが。
外套の奥。
本来ならば、もう既に臭いを放っていてもおかしくないソレを彼女は見つけた。
(これは……あいつの手?)
輝きが立ち上る袋。
それには落とし前を付けた少年の手が入っているはずだった。
ずっと逃げている間は気付かなかった。
「…あたた…かい…?」
まるで春の日差しに当てられているような心地。
彼女はその袋の中身を恐ろしいとは思わなかった。
不思議な話だとすら。
魅入られたように彼女は袋の中から手を取り出す。
「あ…」
欠けていく。
輝き、砕け、手が無くなっていく。
「私は…これに…」
助けられたのか?
疑問ではない。
己の確信を確かめたくて。
彼女は結晶化したソレを壊さないように両手で包んだ。
煌々と灯った輝きが弱まっていく事を恐れるかのように。
『目標を発見しました。制圧先遣小隊の報告にあった通り、【因痕(キカトリクス)】干渉波0.0034%を確認。目標は確実に“接触”しています。因果歪曲率は極微小。評価E。形象崩壊していない肉体の一部の所持を確認。これより確保に入ります』
「!!?」
闇が迫る山の中。
風音すら無く。
数体の高格外套がキリアを取り囲んでいた。
鋼の指が伸びる。
彼女からその手を取り上げる為に。
「あぅ!?」
そんな声を上げてしまった己を恥じる暇もなく。
硬くその“手”を掴んで離さないキリアの顔を無表情な鋼鉄の仮面(フェイス)が見つめる。
恐怖が彼女を凍り付かせた。
組織の中で恐れられていた彼女を凍り付かせるのはまるで人間味の無い視線。
『キリア・ユエト・セマネさん。貴女には人権が認められている。決して悪いようにはしません。それは貴女が持っていれば確実に不幸となる恐ろしきもの。どうか、その手を放してください。あなたの仲間達の下へお送りしましょう。そこで罪を償い、自らの行いを反省してやり直せます。さぁ、貴女はもう一人で逃げなくても良いのです』
声だけは温かくて。
その内に潜む善意におぞましいまでの拒否感を感じて。
キリアはまだ動く体を起こして、逃げ出そうとした。
無論、許されるわけが無く。
腕を掴まれ止められる。
まるで鋼鉄製の枷を付けられたようにビクともせず。
動けなくなった彼女はその鎧達を苛烈な視線で見つめる。
言葉は彼らが正しいのだろう。
きっと、彼らの言う通りにすれば、あの抜け殻のような人々と一緒に緩やかな破滅に身を浸して、健全で幸せな生活を送れるのだろう。
だが、しかし、彼女はそれを選ばない。
いや、もう選ばないと決めていた。
形あるものがいつか崩れるように自分の世界が壊れてしまおうと。
それを選び続けると決めた。
辛い事ばかりで、人生は短くなるかもしれない。
悲しい事ばかりで、きっと暗澹たる最後を迎えるのかもしれない。
それでも、彼女が選んで、彼女が生きてきた道は、ソレだ。
それ以外に無い。
幸せになりたいから人は生きているのではないと彼女は知っていた。
己の道を行きたいから人は生きているのだと知っていた。
どんな賢人が聖者が為政者が、近頃流行りの社会学者達が、彼女の人生を否定しようと、彼女は己の世界を貫き通す。
その為なら幸福も温かな居場所も捨て去ってみせる。
「私は覚悟を決めた。お前らの価値で生きない覚悟を!!!」
吠えて、その恐ろしくも気高い叫びを聞いて。
高格外套で何ものからも安全を確保されている彼らは、可哀相なものを見る目で彼女を見た。
『チーフ。今、近くの精神科医を手配しました。やはりカウンセリングが必要なようですと』
『ああ、悪いな。では、七教会の名の元に貴女の確保を執行します。キリアさん。あなたには人権が在ります。貴女の身の安全は保障されます。罪の量刑は裁判所で行われ、そこで出た刑の執行と矯正施設からの卒業を持って貴女の自由は回復されます。そこに至るまでの発言や行動が何らかの罪に問われる事がありますが、貴女はそれをご自分の力で回避する事も出来ます。貴女を追い回していた我々に貴女が不信感を抱くのは極々当然の事です。ですから、此処での発言及び抵抗に関しては一切を不問とし、記録にも残しません』
長々と押し付けがましい価値観(ぜんい)に触れて。
キリアはそれでも諦めない事を幾度も内心で誓った。
どんなに自分の身が不自由で価値さえ否定されるのだとしても。
「!!!」
キッと睨み付ける肉食獣の視線を彼ら兵士は困ったように見つめながら、彼女の手を縄で縛ろうと―――。
パキンとキリアの手の中で“手”が罅割れた。
瞬間。
兵士達の間からキュィイイイイイイイイイイイイイとまるで警告音のような音色が響き始める。
『隊長!!! 干渉波が2.34%に急上昇、尚も増大しています!!? このままではアレが顕現する可能性が!! に、逃げて下さいッッッ』
『狼狽えるな!! 【紫影の従者】からアプローチが発現する前に撤退する!! 手はサンプルを含めて破棄ッッ!! ここから最も近い【ファサルトス皇国連合】まで短距離転移方陣を緊急起動!!!』
隊長格を思しき鎧が腰から短剣を引き抜いて彼女の手の中で崩壊しつつある“手”だけを両断した。
他の鎧達が手を地に付けた刹那。
彼らを囲うように超高密度の魔術方陣が、彼女の知らない【秘義文字(アルカナ)】と数列が、三次元的に多重配列されていく。
『緊急起動成功!! 七秒後に転移開始します!! 追討師団本隊に電文を送信【ワレ・シエイノジュウシャ・ニ・ホソクサレタ・カノウセイ・アリ】!!!』
『マロウ師団長閣下に何とご報告すればいい!? クソッッ!!! とにかく全員転移の衝撃に備えるぞ!!』
男達が剣を自分の前に捧げ持つと同時にまるで標本に張り付けられる蟲の如く、その動きを止めた。
『密封完了!! 突入消化時間三秒です。キリアさん!! 貴女の命の安全は我々が保障します』
彼らの剣が何の為に抜かれたのか。
その時のキリアは知らない。
通常とは異なる空間へと突入して現実へと帰還する。
その技術で物体に掛かる負荷は人間の肉体を原子レベルで分解するとか。
彼女を生身で移送する為に剣の力で一定空間内部を固定しようとしていた事なんて、知る由もない。
だから、無謀にも彼女は兵士の一人の剣を持つ手に体当たりし、ビクともしないのは解りつつも、弾き出されるように方陣から遠ざかった。
『なッ!?』
驚いた兵達の一人が固定した鎧のロックを解いて、無理やり手を伸ばして引き戻そうと。
『アプローチ確認!!?』
腕が方陣の真上に飛んだ。
吹き上がる飛沫がキリアの顔面を濡らす。
『うぁああああああああああああああああ!!!?』
『く、仕方ない。転移開始!!!?』
『『『『『『転移開始!!!!』』』』』』
彼らがまるで捻じれたように歪んで足元が黒く染まる。
その漆黒の闇へと兵士達は落ちるように消えて行った。
兵士達が消えるとその闇もまた瞬時に消える。
しばらくキリアは呆然としていた。
助かった。
助かったが、その理由は彼女には理解出来ない。
ただ、きっと自分が諦めたならば、この場から連れ去れていた。
「私は……きっと、私の道を……」
外套の埃を払って、彼女は立ち上がる。
何処までも兵達が追ってくるなら、何処まででも逃げて自分の生き方を貫く。
それだけの為に。
「…ありがとう…」
きっと、助けてくれた。
その手の主にいつか恩を返そう。
そう決めて再び彼女は歩き始めた。
今度はしっかりとした足取りで、雨と闇に包まれつつある山の中を。
*
――――――ファサルトス皇国連合七教会追討師団仮設本部アルカスの丘より。
女の嬌声がその部屋には響き渡っていた。
もっともっとと求める声。
男の欲望を掻きたてて止まない姿態。
それがもしも一昔前ならば、其処は堕落の園。
大金を払う富豪や国家の重鎮、王族のような特権階級の者しか入れない場所だったかもしれない。
しかし、戦後に本格化した【近代化(レボリュション)】はあらゆるものを変えた。
多くの悪習すらも変化させてきた。
それぞれに違う女達の姿態と声を聴きながら兵達はただ自分で自慢の一物を扱いていた。
そして、その声が到る場所で発生している。
男達がいる個室の中には小さな球体が一つ。
その上には映像と音声、延々と女達の秘事が流されている。
まぁ、若いのだからしょうがないと独り身な兵達を横目にしつつ、師団長と呼ばれる男はその外には声の漏れない防音天幕の視察を終えて、自分の簡易の仕事場へと戻った。
「ふぅ」
金髪の優男。
何処か頼りない風格の二十代に見える男だった。
その体格は殆どの兵達に劣る。
細い体はよく見れば一切の無駄が無い適度に鍛えられた代物。
それでも体重や体格の差は普通如何ともし難い。
だが、彼こそが周辺に大小二百もある幕屋を統括する主なのであり、彼らを鞭撻する者に他ならない。
「マロウ様。緊急の電文が来ています」
「ああ、こちらに回してください」
副官の男。
分厚い筋肉と露出している場所で傷が無い場所が皆無な相貌。
つまり、猛将の如きゴツイ男がそっと慣れた手付きで虚空に浮かぶキーの羅列を叩いた。
鉄の小さな平たい欠片。
その表面には文字が幾つも彫られている。
どうやって虚空に浮かばせているのか青年は知らなかったが、彼こそはただ一人の副官であり、同時に秘書だった。
「まさか、もう【紫影の従者】を再稼働させているとは、予想外に回復が早い。【蒼穹の騎士】の動向に付いてはまだ分かっていませんか?」
「すみません。マロウ様…未だ完全に捕捉し情報を持って帰ってくる者は…」
「いえ、それならば新たな策を講じるだけです。ハティアにはもう少し頑張ってもらう事になるでしょうが…仕方ない。再度騎士に致命を負わせるとなれば、あの男も出てくるでしょう」
「は、早急に追撃部隊を再編制します」
「騎士への追撃が終わったら再度わたしが出て、あの男へ仕掛けます」
「了解しました」
「それとフルーには悪いですが、防音だけではなく防臭も頼んでおいてください」
「せ、聖女様へ直接、ですか?」
「如何な世界最高の頭脳を持つ聖女も男の生理にはあまり詳しくない。まぁ、実物を見たことが無ければ、そういう事もあるでしょう。防音はしっかりしてましたが、臭いで嫌われる兵隊をこの師団に置いておきたくはないですから」
「は、はっ!! 研究部門を通してその旨お伝えしておきます!!!」
「では、外で朝から教練している兵達に休憩の時間を。二十五分後から四日後の日没までとします」
「了解しました」
副官が頭を下げ、キーを引き連れ出ていく。
恐ろしく長い教練を己の部隊が任務中であるにも関わらず課す。
普通ならば、在り得ない。
だが、超常の力を持ち、肉体を改良し続けられている兵達にはいつもと変わらぬ訓練であり、それを全うするのは敬服する師団長への忠誠の証でもある。
たった四日間戦えたから何だと言うのか。
一か月命を擦り減らす行軍を行う事もあった百戦錬磨の男達は根を上げるところか多少物足りなさを感じるかもしれない。
その点でマロウは兵達にとっては“とても優しい”司令官なのであり、彼らが「騎士」という称号を得ていた時からの最終目標でもあった。
力という意味でも。
人格という意味でも。
「さて…」
マロウが机上の書類を全て決済し終えた後、己の天幕の奥へと赴く。
周囲を完全に防護されている天幕は見た目とは裏腹に色々ととんでもない機能が満載されている。
聖女の一人、神絶の技巧聖女と呼ばれる少女を思い出して彼は苦笑いした。
確かに特別な天幕を用意して欲しいと言ったのは彼だ。
教会頂点の一人にそう言ったのは紛れもなく彼自身だ。
だが、それにしても。
「山脈が乗っても大丈夫というのも……」
高格外套を始めとした装備を生み出し続ける者は言った。
この天幕は決して壊れない。
例え、山脈をその上に乗せたとしても文字通りの意味で潰れる事はない。
嘘大げさ紛らわしいとは無縁。
それが如何なる術理によって成されるのか彼には分からないが、そういうものなのだ。
永い間、その装備を使い続けている彼だからこそ、それを冗談とは思わない。
幾つかある薄い膜を横から開きながら内部へと入れば、外から黄昏時の光が僅かに天幕を透かして、その中央に鎮座しているものを浮かび上がらせていた。
「ハティア…もう少し頑張ってください。お願いします」
硝子の棺。
寝かせられているのは可憐な少女。
髪は黄金。
白磁の如き肌には眠っていても血の気が通い仄かに赤みが差している。
薄い唇。
手折れそうな手足。
華やかさよりも静かさを思わせる顔。
そこにあるのは子供と大人の中間にある者特有の花開く直前、蕾の美しさ。
もしも、少女が立ち上がって笑えば、きっと小さな野花を見つけた時のように誰もが笑顔となるだろう。
「夜になったらまた来ます」
そう言って、マロウは再び、自分の仕事場へと戻っていく。
己の眠れる妻を後に残して。
彼の下に標的の一人。
【蒼穹の騎士】の情報が飛び込んでくるのはそれから数時間後。
深夜、少女の隣で眠っている時間帯の事だった。
少女の名はハティア。
ハティア・ウェスティアリア。
神域を凌駕すると言われる魔導聖女であった。