第一章二十一節「夜気」
薄い唇から漏れる熱い吐息が僅かに部屋の温度を上げていた。
最初は手の甲で頬を撫でられ、続いて臍の辺りを触られ。
最後に太ももから上をただ触れながらなぞって。
少年(ティア)は烙南の秘部へとようやく触れていた。
「ん」
恥丘の上をこそばゆく触れていく指の感触に少女は今まで感じた事のないものを背筋に感じてブルリと背筋を震わせた。
「兄様ぁ……」
不安とは掛け離れた顔。
期待とこれから始まる行為を待ち侘びる顔。
「烙南はどんな風にされるのが好き?」
耳元で囁かれた言葉に少女は少しだけ戸惑った。
それは初めての質問だったから。
蟲壷で穴を解される時は決まって同じ。
穴の奥。
赤子を孕む小部屋まで綺麗にされて、何度も何度も丁寧に表面が泡立つ肉槍が快楽を襞に教え込んだ。
それが少女の日常。
それが少女の知る蟲壷での日課。
股を広げるのは“はしたない”からと。
お付きのものが何から何までやってくれていたのだ。
どんな風にという言葉自体、少女には答えようもなかった。
「いつもは奥まで……蟲壷の子がしてくれていました。それでお付きの者が強くないか尋ねてくれて……頭がふわふわするまで……」
「じゃあ、今日からはゆっくり外側から、ね?」
「ぁ…は、はぃ……」
指が血管が透けてしまいそうな白いすじへと伸ばされる。
「っ……兄様ぁ♡」
触れるか触れないか。
それくらいの微妙な揺れあい。
それが幾度となく繰り返され、やがてすじを滑っていく。
「…っ…っ…ぁ…♡」
蜜が溢れ始めると指とすじの間にニチュッと微かな音が混ざり始め、少女の耳にはいつも蟲壷がさせていた音よりも卑猥に聞こえた。
(兄様の指ぃ♡ わたくしの穴にぃ♡ っ…ん…ふ…蕩けてぇ♡)
少年の細くて優しくて長い指。
それで自分の蜜壷が可愛がられている様子に今まで感じた事の無いものが烙南の脳裏を占めていく。
それは「もっと」という言葉。
蟲壷にされていた時は思っても見なかった言葉。
指が欲しかった。
触れて欲しかった。
優しくなぞって欲しいと思った。
人はそれを独占欲という。
全てを与えられて育てられ、全てを奪われて育てられ、その事に何の疑問も痛痒も感じてこなかったはずの少女が、たった一夜の秘め事で人の業を得ていた。
(ぁあ…兄様の優しくてぇ♡ もっと奥にぃ♡ 欲しくぅ♡)
少女の唇の端から唾液が滴り落ちる。
その様子を見て取って、少年は囁いた。
「それじゃ、なぞるよりも深く、するよ?」
「はぃ……兄様の優しい指でわたくしの穴ぁ♡ どうぞ躾けてくださいませぇ♡」
ふにゃふにゃと力なく渇望する少女の声に応えて。
指がゆっくり中指が関節一つ分埋まった。
「んぁぁ♡ わたくしのあなぁ♡ 兄様の指でぇ♡ 可愛がられてぇ♡♡」
「烙南の此処。指に吸い付いてきて……とっても気持ちいいよ……」
「嬉しぃです♡ 兄様ぁ♡」
「ん」
もう片方の手で少女の頭を撫でながら、少年は指でゆっくりと中を探った。
少女の中はほんの少し入っただけでも心地良い。
上質で温かな果実に指を突き入れたような感触だった。
プリプリとした弾力。
それに比してピッタリと少年の指を食んで逃がさない。
もしも、男の象徴の先端がその深度に触れていたなら。
それだけで射精感に襲われるのは間違いなかった。
(兄様が気持ちいいって。わたくしのホトで…っ…兄様が…もっと…してさしあげないと……)
子を孕むという使命以外にただ相手を心地良くする道具として洗練されてきた少女は少年の言葉に今まで覚えようもなかった感情を抱く。
少年を求める純粋さが独占欲なら、その感情は真の意味での奉仕の心。
相手を幸せにしたいという慈愛そのものだった。
肉体の頚城から離れられない人がそれでもただ肉欲だけでは語り得ない高度な精神性を得る証明。
獣すらも時折見せるソレを少女はようやく己の中に発見した。
少女は気付かない。
急速に芽生え、今正に開花し始めている己の人間性に。
配偶者に身体を差し出し、ただ子を産む為だけの人形として育てられながら、それでも真に人を人として確立する情動を理解し、咀嚼し、本当の関係を構築していく為の一歩を。
歪んだ教育によって成された偏った常識の檻が音を立てて少女の内から崩落していく。
「烙南。もう少し深くしていい?」
「はぃ♡ 兄様が望むようにぃ♡ 兄様が気持ちよくなれるようにぃ♡ わたくしの穴(ホト)使ってくださいませぇ♡」
「うん」
もう指に絡みつく蜜だけでも相当な量だった。
その甘い香りは寝台の天蓋へと立ち上り、部屋へと充満していく。
「烙南って果実みたいな匂いがするんだね」
「そ、そう、ですか?」
自分の香りに言及される始めての事に少女は手で顔を半分隠した。
「甘くてふわふわしてて、それでいて心地良くて……」
「ひぁん」
ヌチュルッと中指が第二関節まで少女の蜜穴に埋められる。
思わずあられもない声を出してしまった少女は今までは感じた事の無かったはずの羞恥に両手で顔を完全に隠した。
「あ、兄様ぁ……」
「ごめん。意地悪だったかな?」
少女が両手を思わず外してふるふると首を横に振るう。
こんなにも優しい兄様が意地悪なはずはないと。
「兄様ぁ♡ 兄様の指がぁ♡ 熱くてぇ♡」
羞恥よりも悦びが勝ってか。
完全に発情した顔で少女は傍らの少年を上目遣いに見上げ、服を握った。
「そっか。なら、少し冷まさないと」
少年はわざと少女の中からゆっくりと指を引き抜いていく。
「っ♡ ぁ♡ ぁ♡ 兄様ぁ……ゃぁ♡♡ 引き抜かないでぇ♡ くださいませぇ♡ わたくしぃ♡ もっと上手くしますからぁ♡♡」
未だ少女の中の半分も触れていない。
少年の指の良さを覚えてしまった少女はもうその指で己の中を触れられる悦び無くして自分が達せないと無意識に理解していた。
物足りなさ。
少年の熱が自分の中から逃げてしまう寂しさに目の端に涙が滲む。
同時に引き抜かれる際の悦楽が背筋を震わせた。
「兄様ぁ♡」
玩具をねだる子のように甘えた声で指を乞う少女の淫靡さはもう昼間の比ではなかった。
少年がヌチュッと糸を引いて引き抜いた指を再び少女の奥へと埋め込んでいく。
「んぁあああ♡♡♡」
指が沈み込んだ分だけ少女のすじから蜜が溢れ、最後には蜜がシーツに沁みを作っていく。
指の抜き差しだけで限界に近かった少女はもどかしさに顔を歪め、少年にはしたない顔を見せる。
「兄様ぁ♡ 指でぇ♡ わたくしのあにゃぁ♡ グチュグチュってぇ♡ 一杯してくださいませぇ♡♡」
「ん。烙南がそうしたいなら、してあげるよ」
少年は最後に思いきり指を深く差し入れて、蜜溜まりと化したすじの中、コリコリとした襞の壁を鉤状にした指で捏ね回した。
「ひぁあああああああああ♡♡♡」
待ち侘びていた感触に少女は我慢出来ず達した。
背筋をピンと張らせて、今まで蟲壺では得られなかった悦びを胎から背骨から胸から受け取って、完全に脳裏を蕩けさせた。
「今日は此処までにしておこう? また、今度ゆっくりね……」
「――――――ふぁぃ♡ あにさまぁぁ♡」
少年が傍にいる。
それだけで今まで感じたことがない程に満たされながら、少女は微笑んで意識を落とした。
*
「「「……」」」
三人の少女達は少年から控えめに聞かされた秘め事に顔を赤くして腰をもぞもぞとさせた。
イフィミスラはそれでも少年を最初程ではないにしろ睨むのを止めず。
昨日の出来事を再確認した烙南はもう着物を来た姿で少年の左袖をそっと掴み染まった頬を伏せた。
「こ、これからもそ、そなたはその子と、す、するのだな? ティア」
「約束だからね」
「……」
イフィミスラには分かっていた。
少年は嘘を吐かない。
約束は守る。
そして、何よりも見捨てないのだと。
でも、それが他の子に向けられるのは嫌だなんて、それはイフィミスラが何よりも嫌う感情で、それでも否定し切れない本当の気持ちで。
節操が無いとか常識が無いとか責めるのは簡単かもしれなかったが、それには何の価値もないと理解していた。
「よい……ぞ」
「え?」
「その子と…しても…でも、でもな……」
イフィミスラが少年の胸に顔を埋めながら恋する乙女の顔で少年に願った。
「その子とした分…わ、我にもすると……約束して欲しい……」
「イフィミスラ……」
大人な対応をした少女の成長に親の感情にも似た喜びを感じて。
少年は頭を撫でながらイフィミスラに囁く。
「うん」
「なら、いいのだ……」
様子を見ていたナーリャとエフィリムが少年に「自分も」とアピールし、横の烙南が少年に寄り添って、全てを聞いていた天御門邸の主が姿を現す。
「あ、紅亜?」
襖の陰から出てきた少女の姿をした自称男は厳しい顔はしていなかった。
「あ、こ、紅亜殿!? こ、これは!! これはそのな!!?」
慌てて少年をフォローしようとしたイフィミスラには目もくれず。
紅亜は少年だけに視線を注いで。
「表に出ろ」
とだけ言った。
「イフィミスラ。紅亜に後でお礼言っておかないと」
「そ、そんな事を言っている場合か!? せ、政治にも多少理解のある我でもお前のした事は庇い切れぬのだぞ!?」
「まぁ、いつもの事だから」
少年はイフィミスラが早く立った事を心配して戻ってきたのだろうと紅亜の行動を嬉しく思った。
何の怒りも見せずに自分を見つめる瞳にある色。
それは馴染み深い色で。
「じゃあ、四人は此処で待ってて。ちょっと話してくるから」
「お、おい!? ティア!!!」
「そんなに心配しなくても。イフィミスラもナーリャもエフィリムも烙南と仲良くしてあげて」
「イフィミスラ様。すみませんが、此処からは我々の問題です。どうぞ、此処でお待ちになってください」
いつもの少女に掛ける柔らかい笑みではなく。
天御門分家の主としての顔にイフィミスラはさすがに何も言えなくなった。
状況的に見れば死罪相当。
乂羅を統括する二つの家の一つ。
土御門の姫を未だ交合(まぐわっ)てはいないものの、指で辱めた。
無論、言うまでも無く客人だろうが何だろうが恐ろしく分が悪い。
しかし、少年はそれを露とも罪に思わず、それどころか断罪されるかもしれない恐怖とも無縁で紅亜に笑みすら浮かべている。
両者の内心の違いにイフィミスラは絶望的な断絶を感じずには要られなかった。
「ティ、ティア!!! ちゃ、ちゃんと説明するのだぞ!!?」
それでどうにかなるわけがないとは知りつつ。
イフィミスラはそう言うしかない。
「男と男だからね。白黒付ける時は色々と女の子には見せられない事もあるし」
「ば、馬鹿者!!」
「じゃあ、行ってくる。朝食先に食べててもいいよ」
烙南とイフィミスラから離れて寝台を下りた少年は現実を認識しているかも怪しいような軽さで紅亜に付き従って廊下を歩いていく。
その様子に誰よりも現実を正しく認識するからこそ、ああなのだと知るイフィミスラは物騒な事にならないよう願う以外に無かった。
「兄様。行ってらっしゃいませ」
一人、何が起こっているのかまったく理解していない様子で烙南は少年に声を掛けた。
そうして少女達四人を置き去りにした二人は裏手の玉砂利が敷かれた庭へと素足のまま降りる。
少し本邸から離れた場所まで来ると紅亜が振り返った。
「申し開きはあるか」
「無いよ」
「言い残す事は?」
「それも無いね」
「後悔する気持ちは?」
「さすがにそこまで失礼じゃないつもりだけど」
「―――私はお前がこれ程に愚かだとは思っていなかった」
「そう?」
「ああ、少なくともイフィミスラ様が信頼なさっている事を差し引いてもな」
「イフィミスラは人が好いから」
「分かっているのだな? お前は自分が何をしたのか?」
「君の子を孕む為にやってきた土御門の姫を辱めた」
「それだけだと思うか?」
「君の立場、君が守らなければならない天御門分家すらも危険に晒した。いや、今も晒してるって事?」
「ああ、そうだ。あの方は土御門から遣わされた私への牽制。如何に捨てられるような扱いをされようと土御門の一員。そのこちらでの扱いに難があれば、天御門分家でも取り分け力の弱いこの家は……多くの犠牲を払う事になるかもしれない」
「それであの子に蟲壺なんて使わせ続ける?」
「知っているとも。だが、それは家を、神門を産み続ける我ら二つの家の背負う業の一つだ」
「女の子一人に背負わせるには過ぎた代物だと思うけど」
「私は男だ。ティア」
刀が自然な動作で引き抜かれる。
「名前を聞いておきたい。本名を何と言う」
「言わなきゃダメ?」
「これから死ぬかもしれないというのに名前も告げない気か?」
「人に名乗りたい名前でもないし、名乗って箔を付けたいような気分でもないんだけど」
「そうか。ならば、いいだろう。お前に私が課す条件はただ一つだ。もし、お前が私より強いなら、不問に付す」
「いいの?」
「最後にこの地でものを言うのは力だ。天御門も土御門も神門より別たれた家。如何に私が末席であるとはいえ、常人ならば千人相手だろうと本気の私には及ばない。貴様もそれなりの力を持っているだろう。それを私に示して見せろ。もしも、それが適わぬ時は……潔く死ね」
「イフィミスラ達に恨まれても?」
「覚悟無くしてここまですると思うか?」
「愚問だった。いいよ。じゃあ、始めよう。朝食を取って早めに学校に行かないといけないし」
「何処までもふざけた奴だ。得物があるなら抜くまで待とう」
「手加減したくない時はいつも無手だから」
「ならば、我が天御門の刀術を味わうがいい!!!」
少年に向けられた刀がカタカタと震えていく。
それは握った者が震えているからではない。
周囲に溢れ出す超常の力。
魔力。
乂羅では気力と呼ばれるソレが古から伝わってきた刀へと注ぎ込まれていく。
多くの流派において、大陸中の戦闘を生業とする者にもよく分かる理屈の攻撃準備だった。
物に魔力を込める。
それを極めていく事は魔術の最たる奥義の一つであり、刀剣の流派にも数多く残る技術の一つだ。
一定の空間内部に存在出来る飽和魔力の限界は基本的に超えられない。
しかし、武術や魔術をある程度極めた者なら知る事実はそうではない。
魔力形質を変質させ、そのエネルギーを最小単位近くまで微細に整える事で飽和する魔力を限界以上に圧縮する技能が存在する。
それこそが積層魔力を使った魔力刃の技能だ。
今や七教会が使う艦船にも応用される技術は非常に繊細。
制御が滞れば恐ろしい暴発を招く事もある。
それを人間の手で行うのはあまりにも非効率であり、同時に困難。
だが、それを容易に成す血統というものも存在する。
魔力形質が最初から特殊で整えやすい者が偶(たま)にいるのだ。
(これが天御門の血統。いや、それだけじゃなくて……大皇とかそういうイフィミスラにも見えるのと同じ感じも。それにこれ大気の【大源(マナ)】とかも……ああ、だから“天”御門って言われて……)
「ッッッ!!!!」
踏み込みは刹那。
間合いを読む間も無く。
斬り上げる刀が空間を薙いだ。
大気の中に融ける力すらも取り込んで、奔らせれば奔らせる程に力を蓄えていく刀は今や眩いばかりに輝いている。
それが制御されている故だと知るからこそ少年は素直に真下の紅亜を称賛した。
「熱も殆ど届いてこないなんて、訓練大変じゃなかった?」
「くッ!? 逃がすか!!!」
刀を避けると同時に上空へと跳躍した少年に遅れて、紅亜が地面を蹴る。
魔力によって強化、同時に運動エネルギーの発生、更に収束、それと大気にある魔力の流れ【大源(マナ)】からの引力まで使っての飛翔。
風防として魔術の障壁が無ければ、肉が潰れていてもおかしくない紅亜は二十数m上空の少年を最速で叩き斬った。
「――――――?!!」
斬ったと思った時には紅亜の振った刀は少年の腕に絡め取られていた。
正確には振る動作に合わせて腕の筋に沿って防御されたというのが正しいかもしれない。
たぶん、その地方において切れぬ物等ないだろう輝く刃を数cm腕にめり込ませて、少年は紅亜の胃の辺りを地表に向けて蹴り飛ばした。
「ぐぁ゛!!!?」
ミキッと強化されたはずの肉体の内部で骨格が軋む音を聞きながら、紅亜が地面に叩き付けられる。
まるで巨大な攻城用の破城槌でも叩き付けられたような衝撃。
殆どの魔力を刀に収斂していたせいで防げなかった一撃は紅亜の身体を芯から痺れさせた。
地上に埋まるような形で追突している身体の状況を予測して、まだ戦いは続いていると推測した少年は自由落下に任せて地上へと舞い戻る。
(何をされた……この刀の刃は確かに何だろうと切り裂ける。天衣無縫と謳われた天御門の刀術だぞ。何故、あれ以上斬り裂けなかった?)
相手が自分よりは弱くないと油断せずに全力を放った紅亜には不可解だった。
斬り裂き易いはずの腕の筋に沿って斬り裂けなかった。
別段、何か特別な魔力は感じなかった紅亜にしてみれば、相手の防御力は理不尽極まりない。
「疑問に思ってるかもしれないけど、高位の魔族なんかはよく後ろから刺されたりするから、こういう技能は必須なんだって」
少年は未だ肉体の自由が効かない紅亜に“斬り裂かれたままの腕”の筋肉を浮き上がらせた。
(ま、さか!? で、出鱈目(デタラメ)だ!!!)
筋肉。
そう腕の繊維に沿って刀は打ち込まれた。
筋肉を横からぶつ切りにするのではなく繊維に沿って裂こうとした。
確かに刃の部分は何だろうと斬り裂く。
しかし、刃の横の部分にそれほどの力はない。
いや、強度は増している為、切り結ぶ時にも決して折れないだろう。
だが、相手を傷付ける性能は付与されていない。
「その刀が全方位に熱量とか特別な力で融かし切る代物だったなら上手くいかなかったかもしれないけど、ただ刃の性能が高いだけだったから横からの筋肉の圧力で、えっと……確か乂羅だと真剣白羽取りって言うんだっけ? そんな感じにしてみたんだけど」
言うのは簡単だ。
だが、実際には恐ろしく困難。
いや、不可能に近い神業だった。
刃の徹る箇所の筋肉を締め付けるだけでは済まない。
膨大な筋肉の力と致命傷にならないよう瞬間的に刀の運動を止める精密な制御。
それから相手との相対速度や刀の振り切られる音速以上の速さへ対応しなければならない。
全てが人間には不可能としか紅亜には思えなかった。
「貴様はッッ、人間か!!!?」
「紅亜はどう思う?」
逆に問い返されて、闘志が燃え上がる。
紅亜の身体が震えながらも立ち上がった。
「ぐ……」
相手に手加減する気は毛頭ない。
いや、重症を与えて病院に放り込むくらいの事は紅亜の脳裏にはあった。
が、それにしても現実は真逆で。
少年はわざわざ種明かしをするだけに留まらず。
紅亜が起き上がるのを待っていた。
(くぅ!!?)
屈辱。
ヘラヘラと笑って、少女達を毒牙に掛けて、それでも慕われている男。
そんな不道徳で女性の敵で今正に天御門の家すらも揺るがそうとしている男に断じて膝を屈する事など出来ない。
出来るはずがない。
そう紅亜は一撃受けただけで悲鳴を上げている身体を無視し、刀の切っ先を少年に向ける。
「幾つか教えておくけど」
少年は意に介さず続けた。
「実力差を知って逃げ出さないのは蛮勇かもしれない。死ぬと感じて逃げる事は恥ずかしい事じゃない。それと現実的に相手の技量を読み違えたら和睦した方がいい事もある」
「何だ。それは……私はまだ戦え、ぐッ?!!」
胃からの出血に吐血した紅亜が切っ先を震わせた。
「何にでも立ち向かう事は勇気じゃない。一人の手には余る事なんて世の中に沢山あるよ。全部背負うだとか、解決出来るとか、そういう自惚れは力持つ者だけの特権だって事」
「私に、力がないと!! そう言うのか!!!?」
「僕にはある。自惚れるくらいには。でも、君には無い。君が僕にとって可愛い女の子に見えるように」
「――――――?!!!」
それは紅亜にとって最大級の侮辱だった。
「昔から人間を見るのは僕の趣味の一つだった。だから、その人を一目見れば、何に向いていて何に向かないのかは分かる。君は少なくとも戦いには向いてない。男である事にも」
「き、貴様ぁあああああああ!!!?」
歯を食い縛った紅亜が大振りに刀を振った。
「君よりもずっと青嵐さんの方が戦う事に向いてるように見える」
「!!?」
ザンッと斬り下ろした刀が少年の身体を通り過ぎ、紅亜の顔に血飛沫が飛んだ。
目を見開く紅亜が少年を唖然として見つめる。
「人を殺したり、傷つけたり、そういうのは君には似合わないよ。だって、人の痛みが解る人は人を傷付けたら自分も痛いって。そんな優しい人ばかりだから……」
「ぁ……あぁ……」
カタカタと震えながら、今度こそ肩を震わせながら、紅亜は自分の振った刀の結果を、少年の血飛沫を浴びながら、刀を、取り落す。
「ごめん。胃にちょっと穴が開いたかもしれないけど、それくらいは治せるから」
「何、を……」
少年は自分の傷に構わず。
制服の破れた腹部にそっと手を当てた。
「他の内臓は大丈夫。少し痛むかもしれないけど我慢して」
「?!」
内臓に直接触れられているような感触に紅亜が固まる。
同時に温かなものが穴が開いたはずの胃に溢れていく。
チクリと蚊に刺されたような痛みを奔らせて、その体内の傷が失せた。
「じゃあ、帰ろう。みんな待ってるよ」
動悸がして震えていたはずの身体が今は随分と軽くなった事に紅亜が気付く。
「き、貴様!? 貴様の傷を見せ―――」
キラキラとようやく耀き始めた傷が血が少女の前で儚く空気に融けていった。
「実は結構不死身って評判だから」
不可解で理不尽で今まで積み上げてきた全てを否定した少年がまるで悪魔の如く、微笑んだ。
その異様な耀きに包まれる姿。
紅亜は言葉を失って“輝く人”に目を見張る。
「貴様は……一体、何なんだ。ティア……」
「可愛い女の子が泣いてるのは放っておけない世界で一番評判の悪い男、かな」
「私は……」
「女の子だよ。可愛いし、ね?」
少年の言葉に抗う気力はもう残っていなかった。
いつの間にか元に戻っている外套姿で本邸へ歩いていく少年の背中。
それが思っていた以上に大きく感じられた。
細くて女みたいに綺麗な顔をした変な少年。
決着は既に有耶無耶。
しかし、示された力に否と言えるはずもなく。
天御門紅亜はその日、初めて男というものを学んだ。
自分を男だと言い捨てて来た少女は初めて、その身に触れた男の手の感触を受け入れた。
それが彼女にとっての選択。
たぶんは人生において一番重要な。
待っていた四人の少女達に色々と言い訳する姿をもうヘラヘラしていると紅亜は思わなかった。
曖昧な笑みに宿る信念と力を確かにその身で受け止めたから。
女はようやく男を知った。
*
全てが流れ込んでいく岩屋の奥。
潔斎(けっさい)し続ける男が一人外の様子を伺うように顔を上げた。
大気に生じた淀み。
己の血族が力を使った事を敏感に感じ取って。
「……」
二百余年も座り続けた座の中から男は己の国の全てを知る。
いや、己自身である国と言った方がいいかもしれない。
全身に張り巡らされた膨大な力は男が座と繋がっている限り、国土の自然の有り様を教えてくれる。
天と地と万物に繋がれた男にとって、ものを見るという行為は必要ない。
見るのではなく繋がったものを感じる事で全ては理解される。
今正に国の端で何よりも強大な力の一端が喚起された事を聖女の身ならずして男は感じていた。
聖女ですら自らの肉体を停止させて行う大規模な干渉・観測行為を男は座したまま行うのだ。
人を捨てた身は既に幾つかの例外を除いて傷付ける事も老いる事も殆ど不可能となっている。
魔王との大戦にその身があったなら、大いに戦力となったであろうと力ある高位の者共に囁かれた男は、自分が参加せずして終わった大戦争の付けを払っているような心地でその少年を感じていた。
「大皇の血。蒼穹の騎士。業突く張りの樹。誰も彼も……何を求める……」
人らしい言葉を一人で吐く等、此処数十年していなかった唇はそれでも流麗に声を紡ぐ。
どれだけの人間が男の身を羨むかもしれないが、男は自分が決して幸せではない事を既に悟っている。
それでも国を思えばこそ、自分を育んだ大地を守る為にこそ男は邁進してきた。
その全ての積み重ねを灰燼と帰す者。
あらゆる因果を歪める者。
それを追う聖なる女達。
誰も彼も男にとっては敵としか思えない者ばかりだった。
何処までも自分の要求を押し通そうとして、【神門(みかど)】と呼ばれる彼より余程に人間臭い。
在るが儘を受け入れず。
全て思うままにやろうと足掻く姿は無様で無惨で、それでいて不思議なくらいに輝いていて。
「この身が失ったもの……そうか。あれが、人の耀き……か」
自らの手では動かし難いものがあると知った末の娘。
両親も消え、妹一人を糧にして立ってきた子。
その子の新しい扉を開いた様子に男は皮肉げな笑みを浮かべる。
破滅を呼ぶのがその子ならば、それはそれで致し方ない。
まぁ、それもいいと。
「全ては在るが儘。全ては為すが儘。そう万物一切この手にしても、人の心だけは……儘ならぬもの……」
やがて来るだろう対決の時を男は思い描いた。
はたして、あの恐ろしき少年はどんな顔で自分の前に現れるのだろうかと。
ただ、次代の神門だけは何としても、その思いだけは変わらず。
男は出来の悪い二人の子を呼ぶ事とした。
予備も他も全て使って、何としても自分の代わりを生み出す為に。
そうして新たな戦いの火ぶたは切られる。
静かに、静かに。
誰にも知られぬまま。