第三章百十節「无儚餐爾Ⅱ」
血の気が引いた肌に震えを奔らせたのは何も兵達だけではなかった。
艦隊の一隻一隻が張る防護。
无の海でも活動可能な多重防御方陣は重ねられた装甲一枚一枚の間に貼られ、装甲内部そのものにも浸潤して、一個の生命のように互いを補い合いながら、外界からの干渉を防ぎ止める叡智の精粋の一つだ。
しかし、それを以てしても、人体に干渉可能な微細な波動は内部の人間を冒す。
それは精々が嫌な感じ、嫌な予感や悪寒と言った程度のものでしかないが、戦闘となって船体に破損が出れば、少しずつ影響は強まり、将兵達の精神を削り始めるだろう。
薔薇色の戦場なんてものはない。
この数十年、戦は途切れて久しいが、それを伝える老年者達は数多く。
亜人国家は未だその空気を忘れ切ってはいない。
無論、そんなものが生温いに違いない地獄に突入しているという事を彼らは頭で分かっていたが、その嫌な感じを受けて、ようやく実感というものが沸き起こりつつあった。
艦隊四十数隻。
その内訳は主に戦線を突破する突撃艦や防御重視の戦列艦。
更に砲撃特化の砲艦に全体指揮と戦線での補給整備を行う大型ドッグ艦というものになっている。
突破艦は何よりもその外殻の硬さと攻撃力を重視した騎兵。
戦列艦は敵の攻撃を受け止める防御能力を重視した歩兵。
砲艦は言うまでもなく敵を打撃する火力を有した銃兵。
大型ドッグ艦は指令部と野戦病院を一緒にしたようなものだ。
旗艦ヴォルヴァドルと同型二隻によるローテーションでの現場艦隊整備能力。
補給が必要なく。
また、インターバル0で船体と炉が破損しない限りは無限に砲撃し続けられる砲艦。
これを守る為の戦列艦であり、敵中枢を打撃する一矢としての突撃艦だ。
敵主力は圧倒的な物量による作戦もへったくれも無い消耗戦を仕掛けてくる。
であるならば、問題は敵との物量差ではなく。
敵との戦闘時間であると考えたエス・トリア博士の思考の下で生み出された艦隊は戦い続けるという目的にのみ特化した持久戦特化艦隊と言える。
たぶん、もっとも安全な艦長席の最中。
霧で水平が仕切られ、海の如く下半分を隠されている吃驚箱。
アイウィスの展開した想像を絶する巨大な姿を前にして、彼は唇を僅かに噛み締める。
たぶん、近付けば、全体像なんてものは把握出来ないだろう。
それ程の大きさなのだ。
彼らの敵というのは。
『次の転移まで残り120秒!!』
『周辺の残敵密度問題ありません!! 全艦による弾幕展開開始!!』
『転移爆撃による周辺領域制圧開始!!』
『宙域空防御陣は順次ローテーション開始!!』
『砲艦の全リンク異常無し!! システムチェック……問題ありません!!』
跳躍した第一目標地点は最も次の転移に適した空間だ。
さらに此処から聖王同盟(サクラム・フェデレイションズ)が用意した転移方陣を用いて中枢付近まで飛ぶ事になっている。
艦隊周囲にいた仮面の化物。
今まで彼らが乗り越えてきた屍蝋の軍勢は何も反撃すら敵わず。
各艦の副砲から放たれる熱量と光波の弾幕と砲艦による転移爆撃による飽和攻撃の前に沈んでいく。
複数の艦によって測定される敵の量は既にもう計測不能。
あらゆる観測機器が観測限界域まで反応だけで埋め尽くされており、彼らのいる周囲とアイウィス以外は何処に何を撃っても当たる状態だ。
次々に押し寄せてくる敵物量はもはや数えるのも馬鹿らしい。
だが、その全てが摩耗しない間髪いれない途絶えない砲撃の中で彼らに近付けないでいる。
球状展開された彼らの生存領域、陣地の内部に入り込んだ化物は未だ一匹も無し。
操艦中の男達は何一つ見逃さぬよう気を張り詰め、状態が安定しているのを確認し続けている。
『転移開始まで残り30秒!!』
『周辺宙域に高密度大質量体感知!! 大型個体接近中!! 画像解析開始!!!』
「正面に出せ!!」
ドゥーズ・スィール・フォイルが初めて声を上げ、全艦艇の艦橋正面に彼らの艦隊の切っ先が向かう方角から巨大な魚の如き何かが数匹やってくるのが見えた。
その質量は画面に映し出された推定量だけで半ば彼らの大陸一つにも匹敵しようかという代物。
更に画面の先からやってくるソレの色合いや質感は肉色で無数に螺子くれた肉体は悪性腫瘍を思わせる悍ましさを内包していた。
「各艦!! 密集体型!! 転移が間に合わないならば、突破するまでだ!! 戦列艦を全面に押し出し、敵内部に穿孔する!!!」
転移前に艦隊に衝突するだろう高速で近付く大陸規模の物体。
馬鹿げた話だが、馬鹿げた相手を想定してきた彼らに死角はない。
試されるのは度胸と根性のみ。
技術も叡智も艦隊に注ぎ込んだ。
ならば、後はそれを操る彼ら自身が強くあれば、何一つ問題は無いのだ。
ヴォルヴァドル級を束ね。
その周囲に砲艦と突撃艦。
更に前方へと戦列艦。
一個の魚群にも似て一糸乱れぬ統一を見せた艦隊は5秒で形を成し、十五秒後に接触する大質量体に向けて猛然と加速した。
艦隊の前方艦がまるでドリルのように右回りに加速しながら螺旋を描く。
そうして、衝突。
全艦の方陣制御が集中された切っ先が敵の肉を砕き散らし、穿孔し、防御が限界に達する前に後方の艦が突出してカバー、今まで方陣を酷使した戦列艦が後方へと下がる。
艦隊の動きは正に整然としていた。
ドリルの刃先と化した艦が負荷で破損すれば、中央のヴォルヴァドル級に収容され、即座に無数の機械式アームがパーツの補修や補正を行って一分もせずに戦線へと復帰するのだ。
それを高速での敵体内を突破しながらやってのける。
これが奇跡ではなく。
彼らの叡智と技術と血と汗と魂を掛けた決意故だと知ればこそ、ドゥーズは容赦なく兵達をオペレーター達を使い潰すと決めていた。
『敵中央を抜けました!! 肉の壁が途切れるまで残り32秒!!』
「全艦、壁を抜けると同時に最大船速!! 前方に転移方陣を発生させて、そのままアイウィス至近に飛ぶ!!!」
『転移誤差の修正が間に合いません?!! 最大で目的地まで122003km程の距離が離される可能性があります』
「構わん!! 転移が間に合わなければ、我々はどの道、物量差で叩き潰されるのだ!! 進めッッ!!!」
艦隊が魚の如き悪性腫瘍。
その肉壁を突破した瞬間、前方の空間に転移方陣が形成された。
次々ソレに向かって小型の敵が群がってくるものの。
艦隊の弾幕を抜ける事は出来ず。
无の海に霧として還っていく。
『艦隊前方突入開始!!』
「転移開始だッッ!!!」
霧を突き抜けるように加速した艦隊が一目散に突入した方陣が軋みを上げる。
艦隊の大質量転移の負荷に焼き切れそうになっているのだ。
しかし、何とか全ての艦が内部に入った刹那。
弾幕の途切れた宙域は自らの仲間達の圧力に砕け散りながらも突っ込んできた化物達の殺到で埋まった。
艦隊がそうしてアイウィス中枢至近へと転移して数十秒後。
―――マゥ~♪
あまりにも小さい侵入者達が数百m級の化物の間をひょいひょいと移動していた。
「マヲ、マッヲヲ」
まるで水面に浮かぶ岩肌を蹴って進むような遊びにも見えて。
黒猫と愉快な水晶玉達は惑星一周分よりは長い距離を光速に近い速度で進んでいく。
無論、猫を知覚する化物は一人もいない。
それどころか。
黒猫の化身(アバター)が加速のあまり負荷で焼き切れてしまう事も無い。
既に彼らは彼女の能力による法則の編纂によって、かなり特異な状態を獲得している。
光速で機動しても、別に知覚は普通に行えるし、観測行為はまるで影響を受けない。
理不尽ではあるが、今や異形の化物達とすら違う時間を彼らは進んでいた。
「マヲ?」
アイウィスの至近まで殆ど散歩中と変わらぬ気楽さで到達した黒猫が一際大きな惑星程もあるだろう屍蝋の仮面の頭上にチョコンと座ってアイウィスの内部をジッと見つめた。
途端、彼女の視線がオリジナルのアウイゥス上空で浮遊するダークエルフの少女と合った。
【ひひ?】
ゲッという顔をした黒猫が無限に湧き出す屍蝋の仮面達の間をジグザクに走行しながら、嫌なものを見てしまったと言わんばかりにげんなりした様子となる。
好奇心で面倒な相手を刺激すると後で痛いしっぺ返しを食らうと理解していたからだ。
“ああいうの”は少年達に任せておいて、自分は自分の仕事をしようと目的地を目指して彼女は无と霧に覆われつつあるアイウィスの一部。
上に“開いた部分”の一区画へと向かう。
そうして数分後。
ようやく其処へと辿り着いていた。
此処まで戦闘無し。
嫌なものに目を付けられたがどうやら振り切れたようだとホッと胸を撫で下ろして、彼女はキョロキョロと辺りを見回した。
無限に複製されるアイウィスの都市内部、ではない。
それは七教会が膨張するアイウィス内部に生み出した一種の切り離された領域だ。
艦隊を駐留させてからこっち。
ずっと、聖女や高位の術者達が何やらゴソゴソしていたのをクヲンは見逃さず。
その上、異変で殆どの人員が戦闘不能、仕事も出来ない様子で倒れたのを確認したので、我先にと火事場泥棒をしに来たのである。
「マヲ~」
巨大な鋼の匣にも見える巨大な構造物。
それは紫色をしており、幾何学模様がビッシリと表面に走っていた。
全長で数㎞程はあるだろう。
正方形のソレは内部に続く唯一の入り口。
中央にポッカリと数人は入れそうな通路を晒している。
内部は明るく。
彼女が淵に降り立つと内部に続く扉が見えた。
「マゥヲ♪」
ようやく面倒な門番がいなくなったとクヲンが水晶玉を引き連れて猫らしい俊敏さで走る。
通常ならば、あらゆる七教会謹製の攻勢防壁。
重力場だの時間遅延領域だの自動の概念武装だの無駄極まる高度な自衛プログラムのフルコースが侵入者に振る舞われるのだが、それよりも何よりも七教会の無駄に戦闘力の高い人材が速攻で駆け付けて来るので入るに入れなかったのだ。
しかし、今は非常時。
そういう防壁は事前に準備してきた彼女の前には無力だ。
壁は透過して素通り出来るし、重力は効かないし、時間は加速出来るし、面倒な概念は破壊したし、何一つ彼女を傷つけられはしない。
実際、フルー・バレッサの技術並みに理不尽な話だ。
が、それこそが彼女の怖さでもある。
事実上。
魔王シンア・ザ・クリティカル・アンラッカーでさえも、彼女が本気で事前準備したら、倒せてしまう。
いや、倒すという形容に近い状態まで持って行けるというのが正しいか。
その準備に何千万年掛かるか分からないが、そういう“やれば必ず辿り着く”理不尽こそ彼女なのだ。
「マヲ」
最終防壁たる隔壁。
触ったら、素粒子分解されてしまう壁をペチッと猫パンチ一発で内部へ弾き飛ばして。
彼女はそそくさ中枢への侵入を完了させた。
彼らの前には巨大な環が浮いている。
七教会が回収したらしい新式高格外套の中枢ユニットだ。
人工的に奇跡を現出させるソレは言わば、聖女を複製するという実験に大きなブレークスルーを起こすだろうキーパーツ。
七聖女筆頭フルー・バレッサが天蓋蒼星(メイズ)に赴いて、連絡が取れない今こそ、彼女の自信作を奪うに最適な時期。
七教会側が確保したソレを起動させて、一気にアイウィスを破壊しようとしていたのは彼女の諜報活動でバッチリ筒抜けであった。
非常事態で安全装置は最終セーフティーを残して全部取っ払われている。
「マゥヲ~~♪」
巨大な円柱で構成され、ブラックホールの特異点を剥き出しにして其処から奇跡を得るというソレの真上へ彼女が飛び上がってチョコンと乗った。
すると、他の水晶玉達も四方を囲む。
「マーヲマヲマヲ」
高笑いか。
天下取ったと言わんばかりの歓びようで黒猫がさっそくソレを自宅へ持ち帰ろうと転移の準備をし始めた時だった。
サクンと。
別の通路を閉ざしていた隔壁がいきなり剣先を生やして、内部へと切り裂かれて吹き飛ぶ。
「マゥ?」
火事場泥棒VS七教会。
そんな火蓋が切り落とされてしまったのかと考えた彼女の前にやってきたのは……どう考えても現場に不釣り合いそうな黒いスーツ姿の両腕が無い老人だった。
「ん? おぉ、先客か」
「マゥヲ」
片手を挙げて「そうだよ~」と返した黒猫に五聖騎士(ファイブ・ラウンズ)。
大陸北部の戦乱において無双と謳われた男の一人。
ミゲール・リニャンはにこやかに笑った。
「そこのお嬢さん以外は結構旧そうじゃな」
『如何にも』
『だが、今はお前のような坊主の方が強いであろうよ』
『此処に来て我らと同等の戦者とは……七教会の鎧とやらの方が数倍マシだろうな』
『然り然り』
ようやく声らしい声を発した水晶玉が四つ。
相手の強さを即座に推し量って半ば内心で肩を竦めた。
「ふぅむ。中々の階梯にあると見た」
「マゥヲゥ」
「ああ、名乗るが遅れたな。一応、北部の小国で最高評議員をしとる。ミゲール・リニャンと申す。五聖騎士と言えば、分かるか?」
「マゥヲ~~」
コクリと頷きが返った。
「ちなみにその輪っかをどうする? こちらとしてはアイウィスの掃除をしてから、引き取りたいと思ってたんじゃが」
黒猫が一声鳴くとミゲールの側に小さな輝く小窓が開いて、適当な紙芝居が映し出される。
一枚目は輪が光ってアイウィスが爆発するシーン。
次は黒猫と共に館にソレが戻ってくるシーン。
そうして最後にその輪と大きな鯨と魔族らしい生物達が七つの剣を持つ光で出来た人型に対して刃を向けるシーン。
ちなみに黒猫は後方の玉座でふんぞり返っている。
「ふむふむ。持ち帰って七教会との交渉材料にすると?」
「マーゥヲ」
その通りとクヲンが頷く。
「むぅ……此処の連中の支援するところまでは同じか。ちなみにそちらの所属は何処かな? お嬢さん」
クヲンが鳴くと大陸の地図が虚空に浮かび上がり、彼女の故郷とクラウゼン公爵家の名がデカデカと光って強調された。
「おお、では、お前さんがあの血統改良技術の生みの親。ランナ・クラウゼン公爵の娘さんか。それならば……どうじゃ? 一つ取引といかんか?」
「マーヲ?」
「世の中、何かと入用なものが多い。だが、今はクラウゼン公爵家も都市国家再建に忙しく人材が余っていないと聞く。ならば、戦力は幾らあっても足りないだろう。【藩落】経由で完全充足の我が騎士達を数個師団雇う気は無いか? 衣食住以外の保証は要らんぞ? 技術譲渡と我が方の良いとこの男衆数百人も付けよう。誰彼も腕は良いんじゃが、とにかくモテなくてのう。嫁探しに難儀している可愛そうな奴らなんじゃよ」
サラっと自分の騎士団の運命を決めつつ、ミゲールが尋ねてみる。
すると微妙に首を傾げた黒猫が再び紙芝居の絵を一枚提示した。
その中には輪っかと騎士達が天秤に掛けられており、黒猫が両方を見て悩んでいる。
「ま、確かにどちらが価値のあるものか。容易には決められないだろう。こっちとしては七教会の秘密兵器とやらの情報が入ったんで、三日前から潜入しとったんだが……ま、実際これが必要なのはウチの技術陣であって、ミゲール・リニャン個人ではないからのう。最優先で確保しろと言われても何を対価にするべきか正直悩むところではある」
「マゥヲ~」
尻尾を左右にパタパタさせながら、どうしようか悩む黒猫にミゲールが再び提案を発してみる事にした。
「では、ミゲール・リニャン個人として墓に入るまでお前さんのとこで兵を鍛えるというのはどうじゃ?」
「マヲ?」
黒猫の耳がピクピクと動いた。
「藩落は内戦で国力は落ち取るが、七教会の勃興以後、最大の激戦地としてまともに戦争しとったんじゃろ? ならば、軍拡するのに調度良い機運であるはず。今までの柵、垣根を越えて藩落そのものの軍を整備中であるとも聞くしな。次の戦争相手が七教会なのに下っ端がまともに敵わないのでは格好も付かんじゃろ? 最新兵器を持ってこられても戦える程度に鍛える事は可能じゃぞ。さすがに戦略兵器の類はどうにもならんが、戦術が通じる相手なら、それが億倍差の物量や十世代以上の兵器格差だろうとも、まともに抵抗出来るよう鍛える事は可能じゃ」
「マゥヲヲ?」
「本当だとも。七教会の連中で聖女以外に怖いのは【騎師団(ミリシェ)】の連中だけだからな。それ以外があの無駄に高性能な鎧を着とっても、豚に真珠もいいところだ。この間、民間人守るついでに魔族とガンガンやりあっとったら血が騒いでな。無駄にこうビシバシと部下を鍛えたい気分なんじゃよ。だが、ウチの連中はすぐに強くなって鍛え甲斐が無い。もし、お前さんがこの話に乗るなら、千人切りくらい出来る兵を万単位で整備しよう」
「マヲ~~♪」
乗ったと言わんばかりに黒猫が老人の横に飛び降りた。
「おお、契約成立か」
「マゥヲ」
黒猫が鳴くと今度はミゲールの前に特別な魔術方陣、かなり荘厳な黄金色の誓約書が展開された。
「内容的には然して問題ないな。悪いが、魂の方は別件で神に持ってかれる予定じゃ。それ以外は全て契約内容を飲もう。如何に?」
「マゥヲ」
黒猫が頷くと誓約書の文言の一部が崩れて消えた。
「では、此処に自分の名前でいいか?」
「マヲヲ~」
毎度あり。
と言っているか定かではないが、誓約書に指で自分の名前を魔力で書き込んだミゲールが自分の魂に何かが刻まれたのを理解した。
「では、さっそく起動させ―――」
彼が言葉を切って自分のやってきた方角を向く。
それと同時に黒猫も自分のやってきた通路に視線を向けた。
二つの方向から何かが押し寄せてくる。
それは屍蝋の仮面、ではなかった。
通路の証明が奥の方から次々に途絶し、彼らは部屋の入り口の前で二体の何かが霧を吸い込みながら顕現していくのを見つめる。
ミゲールの横には浮遊した槍が浮かび。
黒猫の前には水晶玉が四つ並んだ。
「どうやら、化け物の方も本格的に動き出したようじゃな」
「マゥヲ」
一人と一匹と四体がその二つの異形を見つめ、湧き上がる根源的な狂気を呑み込んで戦闘体制を取る。
片方は蛇。
そうとしか言えない大きな何か。
もう片方は魚とも獣とも言えない腐臭を漂わせる何か。
ただ、朧に霧の中で形を取るソレらが本質的に彼らの世界のものではない事が、誰にも分かっていた。
それは嘗て、この星に存在した大いなる存在。
外なる神々。
その神性の一欠片。
だが、欠片ですらきっと己の属性に従って全てを無に帰すものに違いなく。
「水晶玉。お前さんらに起動は任せよう。せめて、こちらが持たなくなる前に頼む」
「マゥヲ~」
一人と一匹のリクエストに四体が気配だけで肩を竦めた。
『此処に来てこいつらか』
『神器が再起動出来てさえいれば、こんな外神の欠片程度……不甲斐ないな』
『愚痴っても始まらん。さて、機構掌握にどれだけ掛かるか』
『あの娘の預言が確かなら、最後の審判には間に合う。さぁ、博打の時間だ』
『“来るべき日”……か。まったく、人間は本当に面白い事を言う。自分達が滅びて救われるか。救われて滅びるか。どちらにしても、それが来ると言うのなら、“来てはならない日”とでも言っておけばよいものを』
『そうだな。だが、いつだとて、口では何と言おうと人間は“続く”と思い続けてきた』
『それを信じる故に我らは在る』
『魔王……我らが末達。ふふ、まったく面白い生物に魅入られたものだな。全員』
水晶玉達が再び輪の四方へと戻り、その罅割れた内部から赤、緑、青、黄、四色の魔力を立ち昇らせる。
すると僅かに輪がカタカタと震え、円柱がピストンを開始して、全体が回り始めた。
『起動まで3分と言ったところか』
『少しでも破損すれば、時間が延びる』
『我らが破損しても同様だ』
『努々忘れるな』
人工の奇跡が発動するまで3分12秒。
一人と一匹は四体からの声を後ろに受けて、走り出した。
敵は外なる神々の一欠片。
如何に彼らとて苦戦以上は必至の相手。
霧の中でようやく火蓋は切って落とされたのである。
*
蒼き天蓋の星。
月と惑星の中間に位置する魂の檻。
その地表、多くの人々がその狂気の多眼が鏤められた月に見つめられて発狂した各地の都市上空で、三つの影がソレを睨み付けていた。
一人はドレスに鉄鋲で肉体を縫い止められたような老女。
クラル・リテル。
一人は擦り切れた七教会の制服を来た銀の短髪女。
ソィラ・ミクラ。
一人は全聖女中最も可憐にして聖母と呼ばれし究極の魔導聖女。
ハティア・ウェスティアリア。
本来、もう一人いるはずだったが、現在最終層において彼女達の個人的な用事を済ませている最中という事で来ていない。
珍しい組み合わせ。
そう言っていいだろう。
老女は天界にいるのが常であまり現世には現われないし、彼女とソィラ、ハティアの関係は必ずしも良好というわけではない。
「さてさて、どうしたものかしら」
老女が肩を竦める。
「あたしの奇跡で破壊するってのはどうよ?」
短髪女の声に呆れた溜息が一つ。
「あの、今計測してますけど、それだけは止めて下さい。ソィラ」
金髪の少女はとりあえず仲間を諌めた。
「理由は?」
「ソィラにも分かり易く言うと。アレは別世界とこちらの間にある覗き窓みたいなものなんです。こちらから観測される多眼を破壊した際に勢いで窓が割れるとこっちに本体が突っ込んできます。たぶん」
「それもあたしが破壊するってのは?」
破壊魔と仲間内で綽名される女に老女は大きく肩を竦めた。
「貴女も大概ね。認識以上の破壊が不可能な貴女の力じゃ、外なる神々の浸食自体は破壊出来ない。つまり、何も護り切れないのよ。歴史の破壊も結果が大量に浸食で歪むとどうなるか分からないわ。それとも過去も未来も無い世界が望みなのかしら?」
「ちょ、ちょっと言ってみただけじゃない……」
ソィラがさすがにその言葉に僅か反省した様子となる。
「とりあえず、ソィラはあっち側から分かり易く落ちてくる物体や浸食を存在抹消レベルで破壊し尽して下さい。見えないのは私達でやりますから。いいですか? クラル」
「構わないわ。今回の一件はウチの天使達が役立たずだった事も要因でしょう? さすがに良心が咎めてたのよ。前衛は任せなさい」
「はい。では、ソィラはクラルの背中をお願いします」
「あんまり、あたしの視界に入らないでよ? 間違って破壊しないようにはするけど」
「ソィラッ!!」
思わずハティアが咎めるような声を出すものの。
クラルが僅かに振り返って七聖女中最強と呼び声も高い女へ皮肉げに苦笑した。
「生身の貴女に知覚される程度の速度自体出せないわよ。フルーとユアン以外に私が殺せるとも思えないから、この数十年黙っていたけれど、個人の強さ順で言ったら貴女、双子の上辺りよ」
「今、すっごく傷付いた!? ハティア慰めて!!?」
ヒシっとソィラが少女に縋りつく。
「今のはソィラが悪いので、抱き締めるのは無しで……」
視線を逸らした仲間の対応にガーンとショックを受けた様子でカクンと項垂れる。
「さて、お喋りも此処までにしましょう。あっちはどうやらやる気よ」
見上げれば、多眼の月の瞳が閉じられ、その目頭から涙の如き何かが落ちてくる。
ソレが次の刹那、掻き消えた。
そして、数瞬後。
猛烈な爆風が天蓋蒼星(メイズ)の上空に吹き荒れる。
その中心でドレスから鋲が抜け落ちた女傑。
老女ではない。
燃えるような真紅とも凍えるような蒼穹とも付かない不可思議な色の長髪の女が、ゴキゴキと両手の指を動かして筋を伸ばしていた。
「能力頼みのステゴロ聖女と呼ばれたくなければ、見える範囲のは自分で何とかなさい。こっちは本体の方に行ってくるわ」
「大丈夫ですか?」
ハティアが驚きもせず。
ソィラへの言葉に苦笑しながら、クラルへ訊ねる。
「幾つか魔導で援護して頂戴。対浸食だけでいいわ。後は自分でやれるから」
「分かりました。【魔導線(エーテル・ライン)】活動開始」
聖女ハティア・ウェスティアリア。
神をも超える叡智を修めた女の本領は凡そ惑星の地表では発揮出来ない。
魔王討伐の任においてもそれは同様。
動力や術式の維持に奇跡を使用したとて、あらゆる術式を一個人で完璧以上に維持する為リソースは常に八割以上裂かれており、他者への配慮は過保護以上だ。
【宇宙樹(ユグドラシル)】を使った一撃然り。
【超重元素】を使った一撃然り。
だが、彼女の“過保護”を外して“全力”を出させる事がたった二つの方法でのみ可能となる。
それは彼女自身以外に彼女の周囲で守るべき対象が何一つとして存在していない時。
そして、聖女フルー・バレッサもしくはソィラ・ミクラが側にいる時。
この何れかが全力の合図となる。
「創めます―――」
彼女の周囲に展開された凡そ3000の魔導方陣が曼荼羅の如く惑星の上空へと向けられ、其処から伸びた光の筋が多眼の月を避けて四方八方へと散っていく。
輝きは真空の海を渡り、光の速さを超えて、星系内の全ての星へと数秒も掛からずに到達。
光が達した星々がその表層に巨大な方陣を浮かび上がらせ、複数の導線を奔らせて、更に別の星と連結されていく。
その中には光の帯に引き寄せられる火星の残骸もあった。
「全導線の連結完了。火星からの浸食を遮断……引き寄せを停止させられません。どうやら浸食と同様の原理が働いていて、こっちの干渉が全部歪んでるみたいです」
「仕方ないわね。そちらは七教会の本部にでも任せましょう」
「はい。では、クラル。背中を」
「ええ」
ハティアがクラルの背骨にそっと両手を重ねた。
接触は一秒にも満たない。
しかし、少女が連結した惑星間の導線。
あらゆるエネルギーを星から引き出す光の帯が明滅して輝きを低下させた。
「十分ね。じゃあ、行ってくるわ」
クラルが若さを取り戻した事に何ら感慨を抱いた様子も無く急激に加速して、多眼の月へと突っ込んでいく。
その合間にも次々に閉じられた瞳の端から涙が零れていたが、零れる先から全てが全て何も最初から無かったかの如く色を失い消えていた。
辛辣な評価を喰らったソィラが微妙な顔で親の仇よろしく八つ当たり気味に滴を半眼で睨んでいたのだ。
【破壊者(ワンダリカ)】
何もかもを破壊する奇跡。
その比類無き能力の前には聖女ソィラ・ミクラの知覚が許す限り、如何なる存在も許されない。
使い方を間違えれば、人類史の消却。
それどころか宇宙の破滅だとの噂に偽りはない。
如何にソレが外なる神々であろうとも、彼女が殴れる、壊せる、見つける事が出来るものならば、何一つ例外なく、存在は抹消出来るのだ。
「地表の人々の収容はもうすぐ終わります。精神状態の悪化を避けて第三層に転移で退避。一時凍結して封印します。ソィラは今のまま続けて下さい。クラルが目標に到達すれば、少しは瞳が減るはずですから」
「七聖女中一番の脳筋の座を渡すのはシャクなんだけど、しょうがないか。これが終わったら干し肉で一杯やりましょ」
一歩間違えば、人類消滅。
そんな状況であろうともまるで変わらぬ仲間の言葉にハティアは苦笑しか出てこなかった。
「あはは……ホント、ソィラは自由でいいですね」
「勿論よ。それとマロウの事だけど」
「―――」
「見つかったわよ」
「!?」
その驚きが魔導に影響を与える事は無かった。
しかし、少しだけ少女の瞳は潤む。
「事後処理が終わったら教えてあげる。だから、頑張りなさいよ。ユヒアちゃんだって、もう立派にやってるんだから、母親のハティアがそんな泣きそうな顔してたら、笑われちゃうわよ」
「は、はぃッ」
少しだけ目の端を拭って魔導聖女なんて大そうな名前で呼ばれる少女は頷く。
(やれやれね。まったく、ウチのハティアを泣かすなんて、後で〆る……あのバカ男……覚えてればいいけど、望みあるかしら……聖女の中で胃薬いるのってあたしだけなんじゃない?)
この五年、フルーに依頼された仕事以外は殆どマロウ・ブレステンド。
ハティアの夫の探索に当てていたソィラはようやく見つけた相手の情報を脳裏で思い浮かべ、胃がキリキリと痛んだ。
武帝の部族ハーレム。
褐色肌の3人の少女達と十人近い子どもを儲けて倖せな家庭を築いて藩落で英雄になってました……なんて、戯言を現実だと伝える事になるのだ。
世界一幸せな家庭と称された聖女の家は一気に修羅場化するに違いなく。
(外なる神なんて、明日ハティアが泣く事に比べたら、なんて事ないのよねぇ。実際)
倒せる程度の強敵。
倒せない泣きじゃくる味方。
どっちが怖いと聞かれたら、迷わず後者を取る苦労人な聖女は多眼の月が一瞬で撓み。
小さな亀裂を奔らせて、瞳が複数消失するのを見ながら、こうポツリと呟いた。
「ユアンもいないし、あたし以外誰も止められないじゃない」
世界滅亡は聖女の家庭の危機よりも大分優しい問題なのだと。
沁み沁み世界を破壊出来る聖女は実感し、肩を竦めて滅びを亡ぼすべく拳を握った。