第三章百十三節「无儚餐爾Ⅳ」
世界の中心と化した街の大通り。
多くの異形が全てを見ていた。
文字通り、この惑星において起った全ての事象をだ。
それは本来ならば、過去から現在どころか。
未来にすらも達する知覚のはずだったが、彼らが見るのは今の時点まで。
その最たる理由は青き天蓋の星。
魔王の記憶が座す牢獄。
天蓋蒼星(メイズ)による極大の枷が未だ嵌っているからに他ならない。
どれ程に分割されていようとも、その自分と同等以上の存在である魔王がいる世界に彼らが食い込む事自体、殆ど無理な芸当。
それを可能とするのは契約によって頚城と化した四柱の外なる神々。
そして、その拠り代たる【神担者(コスタレロ)】がいればこそ。
しかし、一柱は既に契約が解かれる寸前まで現世において滅びつつあり、残った三柱は契約たる儀式に全ての力を注いでいる。
儀式場として選ばれたアイウィスは今や星よりも尚巨大な無限に分裂する図体を開き、吃驚箱となって四つの光の帯。
御柱としての神の実態を顕にしているが、それだけでほぼ全ての力は消費されていた。
本体ではないのだ。
現実に規定される以上。
本来無限の住人たる彼らも自らの全力とは程遠い規定値しか出せない。
光の帯が目指す世界の端。
宇宙の果て。
無限に等しい有限の先へ辿り着くまでしばしの猶予がいる。
だから、四柱に御柱達は、外なる神々の切れ端達は呼ばれたのだ。
最後の儀式の門番として。
アイウィス最終層へと続く極彩色の門は彼らの頭上にある。
それは最後の一層を隔てて、現世との完全な閉鎖。
つまり、儀式を保護する役割を持つ境界だ。
顕現されてからの数ヶ月。
四柱の神々によって維持されてきたソレの開放は現実が侵食による最後の崩壊を迎える合図であり、彼らの開戦を同時に告げるゴングでもある。
街の上で儀式の中核となった黄金の仮面を被るダークエルフ。
自らの担い手の姿を象る神(ソレ)は自らの写し身が選んだ最後の使徒。
聖女ユアン・クオ。
その化身たる屍蝋の仮面と白い外套を着た魔術師の青年が遣りあう様子を楽しげに観戦している。
儀式に本来必要とされた七つの力。
全てが揃わぬとしても、その内の3つは既にレプリカも含めて彼女に収集されている。
最終段階を迎えれば、他の力も容易に奪う事が出来るだろう。
だからこその返却であり、最強の手駒の創造は為された。
【ひひひ♪】
来るべき日。
そう旧教会派が呼んだ救済は終に達成される。
絶対終焉圏。
十数年前、大陸最大の主神。
唯一神が行おうとした救済の為の大儀式場。
現宇宙の全てを取り込む新宇宙の種は彼女の働きにより、今やアイウィスの最終層に小さいながらも再現されている。
後はただ世界の頚城そのものたる者。
魔王と呼ばれる少年を其処に頂くのみ。
因果の奈落。
全てを呑み込む業。
世界と同等である“天”は本来そのように意図されて生まれてきた。
しかし、その運命は覆され、二度と戻らず。
それでも、中核たる少年そのものが残る限り、儀式は決して完全な崩壊を迎えない。
チクタク、チクタク。
時計の音が、針が刻を刻む音が空に響く。
今や捻じ曲がった概念によって、本来の姿を留める事も困難となった街は人の介する美意識を遥か絵に超えて、螺旋くれた肉のような質感を有する極彩色の汚泥に変質し、蠢きつつあった。
四つの大地と中央に浮かぶ小さな館。
その窓からは目覚めた少女。
仮面など被っていないダークエルフの少女が空ろな視線で……飛び回る自分と同じ姿をしたソレを見つめている。
【ひひひ♪ 奮発する♪ 奮発する♪】
空に浮かぶ彼女が館の彼女を見下ろし、にこにこするとその掌から小さな光の球を浮かび上がらせる。
【ひひ♪ お迎えして♪ みんなお迎えして♪】
四柱以外。
異形なる神々の全てが西方に向かって虚空を跳躍し、消え失せた。
それを追って、光の球。
戦いの中で彼女が採取していた天使の欠片もまた飛んでいく。
【ひひひ♪ 蒐集♪ 収集♪ 第二の贄♪】
レプリカではない。
オリジナルの奇跡。
その保有者たる聖女メルフ・グラネッタ。
外宙碩学師団を預かり、無限の宇宙を旅してきた彼女が、評判も実力も聖女の中で最も弱い存在が、三つの僕を従えてやってくる。
本来は如何なる手段を用いても、門以外からは至れないはずの空間に彼女は自らの奇跡において到達しつつあった。
丁重に持て成して、その力を奪う事が顕現させられた御柱達に課せられた制約の一つだ。
レプリカはあくまでレプリカに過ぎない。
本物には及ばない。
だから、自分から傍に近付いてくるというのなら、集めない理由は無いのだ。
【来た♪ 来た♪ 開門♪ 開門♪】
喜びの声を上げながら、ダークエルフの少女。
そのように象られた神が両手を大きく広げる。
扉がゆっくり、ゆっくりと内側へと開いていく。
特別な開き方なんて何も無い。
それは開かれるべき時に開く。
それだけのものだ。
無理やりに超えようとすれば、いつかの天使のように膨大な消耗を強いられる。
そんな事を夜会の主賓たる少年にさせる理由も無ければ、意地悪するような事も無いのは自明だ。
契約の為に行動する四柱はそれ以外の事を本質的に理解しない。
彼らはこの小さな宇宙の極小の生物達を契約者たるダークエルフの少女の魂を解して見つめ、手を少し加えているだけなのだ。
人間にウィルスや素粒子の気持ちとやらを理解する頭脳が無いのと一緒だ。
極限のマクロたる外なる神は顕微鏡(よりしろ)を使って宇宙(シャーレ)の中を覗いている研究者のような存在。
其処には“振る舞い”に関する興味はあろうと“心情”に関する考察は無い。
這いよる混沌。
そう呼ばれる彼女は外なる神々の中でも唯一、人間という現象を弄ぶ変人と言ったところだろうか。
【ひひ♪ ひひひひ―――?】
トスリと自分の仮面を被っていない方の額に突き刺さる存在抹消。
因果律破断の術式が付与された積層魔力の捻じれた糸の如き槍。
透き通る紅の結晶をチラリと視線で見て。
先手必殺を幾重にも重ねてきた探索者達。
少年を中心にした境界踏征(オーバー・フラタニティー)の面々の瞳に確かな決意を見て、彼女の唇が笑みに崩れる。
今まで、彼女がやってきた事は全てたった一つの事を企図して行われてきた。
仮面を増やし、少年を削り、元に戻す。
イクス・ゼオが関連した全ての事件はどれもこれもそういうものばかりだ。
成功したものもある。
失敗したものもある。
だが、やはり少年は世界の中心であり、因果の中心であり、全ての中心であり、少しも関係ないままに過ごせる事は無い。
過去、自らに関わる人々を救い上げてきたように。
過去、己の手が届く限りの誰かを守ってきたように。
開く扉の先には積層魔力の諸刃剣を片手に星を鏤めた透明な外套。
そうとしか思えないものを纏った姿があった。
外なる神々を構成する質量的な実態にも近いソレが今は仮の器。
それさえ破壊してしまえば、少年は本来の姿を取り戻し、もう儀式を止めるモノは無い。
強引に儀式場内部で蘇えらせた少年へ全てを呑み込ませて、何もかもが完了。
新たなる神話の世界が始まる。
時間も空間も無く。
唯一となった少年は新たな創造主(クリエイター)となり、生まれてきた意味を全うする。
過程なんて些細な話だ。
望めば、あらゆる創造が可能な力なのだ。
時間も空間も無い海の中を揺ら揺らと泳ぐ彼ら。
その庭に一つまた宇宙が出来るだけの話。
無理やり時間を進めて、同じ時代や同じ個人、同じ存在を生み出すなんて造作も無い。
一体、それの何が不満なのやら。
自分達と意思疎通し得るだけの存在である少年の事が彼女には未だ分からない。
記憶が無いとか。
戻ったとか。
そんなのは表層的な事だ。
拒否する理由が理解出来ない。
いや、彼らの理解という範疇に無い何かなのだろう事が時に千貌と呼ばれし彼女には理解出来る。
少年との記憶がある拠り代に固定化されて数年。
契約によって封じられて数千年。
見つめてきた過去の全てで少年は毎日のように理不尽に晒されてきた。
普通の存在ならば、自分の都合が良いように周辺の環境を変えていくものだが、少年はまるで違った。
自分の都合が悪かろうと構わない。
ただ、自分と出会った人々の環境を変え、運命を変え、導き続けた。
殺した者達すらもそうだろう。
全ての魂は少年の中へと消えていったのだから。
【ようこそ♪ ナーリヤ歓迎する♪ 歓迎する♪】
自分の矢が刺さった額に指を捻じ込み。
そのまま掴み剥いで。
真っ黒な体内を晒し、復元させながら、肉片や骨片とも呼べない黒く染まって崩れる頭部の一部を捨て去った。
彼女は収集した神器の全てをその周囲に浮かべて微笑む。
唯一神が生み出した頚城。
天使を天使のままに留めておく為の代物。
それは今や外なる神々を世界に縫い止めるものとして使われていた。
光の帯として顕現する他の三柱は現在滅びる寸前の【|萌える炎(トゥールスチャ)】を他の二柱が支えており、戦う事は不可能。
唯一、人の肉を模した彼女だけが戦えるだけだ。
それも何処まで持つか分かったものではない。
人が滅びへ向かうように儀式を遂行する四柱もまた契約の成立に向けて滅びようとしていた。
状況は五分と五分。
神も人も互いにギリギリの線の上で戦っている。
天秤を傾かせるものがあるとすれば、それは聖女の行く末だろう。
【強欲(ボラシターテ)】となったユアン・クオ。
そして、近付きつつあるメルフ・グラネッタ。
彼女達がどのような選択をするかによって状況は大きく変わる。
無論、魔術師の青年を突破してくれば、戦況は神有利。
外から招いた神格を蹴散らして聖女が儀式場内部へ到達すれば、人間有利。
どちらも来れば、また拮抗。
天秤を傾けるのに新たな要素が必要とされるだろう。
どうなるのか。
そんな事はやってみなければ分からない。
だが、そんな未知こそを愉悦するモノは蕩けるような笑みで開き切った扉から迫る探索者達に、慈母の如く腕を開いた。
【開戦!! 開戦♪】
其処に人と神と魔王の戦いが始まった。
火蓋を切った矢に続いて放たれたのは……少年の刃。
『………【閃剣(せんけん)】』
加速して、積層魔力刃を袈裟切りに振り抜いた少年の背後。
心を斬る技が、【革命者(ロトゥンダム)】を真っ二つにした時と同じく。
這いよる混沌を存在ごと 裂いていた。
「行っけぇえええええええ!!! イクスさんッッ!!!!」
少年を模す為に始められた禁忌の行為にして七教会派最大の暗部。
【魔王複製実験(アブリアン・プロジェクト)】
「防御は任せろ!!」
そのデータより派生した旧教会派最大最後の大儀式。
【救世主創生計画(ザ・セイバー・クリエイト)】
「イクス!! 死んだら許しませんから!!」
嘗ての世界において運命たる唯一神が進めた終わりの始まり。
【来るべき日】
「分かってる……閃剣が奥義の一つ」
奇しくもそれは全て同一の因果の上にある。
魔王を滅ぼそうとしたからこその実験。
魔王が救わなかったからこその儀式。
魔王の砕き散らした然るべき運命。
少年が、シンア・ザ・クリティカル・アンラッカーが、それに終止符を打とうとする、その背後に偽りの救済を齎す秘儀の箱があるのは必然か因果か。
ただ一つ分かっているのは。
「耀け―――【基枝連斬(きしれんざん)】」
全ての中心たる彼が。
「追加構成!!! 【大山奉祀(たいざんほうし)】ッッ!!!」
このままにただ流されていくだけのはずも無いという事だけだった。
*
―――異相アイウィス内部中央第三層。
【『基枝連斬(きしれんざん)』】
その呟きが零され切るより先に超高速で敵影からバラバラになった身体の全てを引き剥がすように跳躍させていたアーギストが方陣防御を全開にした。
全長32km。
全ての動力を【OEDS】から曳いた魔術方陣が多重層に幾何学的というよりは有機的な繋がりを持って人体を模した形となって広がる。
代わり映えのしない無限のアイウィスの街並みの最中。
横階層の壁。
即ち、空間的な連続性を断ち切る巨大な空間歪曲障壁の先から耀きが零れ出る。
それにゾワリと鳥肌を立て、青年の白い外套の欠片だけが拠り集まり、前面に展開される。
【追加構成『大山奉祀(たいざんほうし)』】
『?!!!』
悲鳴にも等しい声が喉の奥へ呑み込まれた。
まだ空間の連結も解いていない歪曲の壁の先。
光点を中心に罅割れた世界が、空間の破片がキラキラと零れ落ちながら、ソレが無限に続く都市を破壊しながら成長する。
それは樹木の枝にも見えたが、そうではない。
積層魔力の刃だ。
しかも、規模が桁違い。
一振りで何層のアイウィスの壁を破壊したのか。
永劫の先とも思える虚空。
遥か上空から月の情景を割り砕いて神速の斬撃が、直径何千kmになるのかも分からない刃によって振り下ろされた―――だが、まだ終わらない。
アーギストは確かにバラ撒いた魔術中核から音声を拾っていた。
“連斬”と聖女は技の名を零したのだ。
本来ならば、その直径の積層魔力に打撃や斬撃を喰らって、生きている生物などいるはずがない。
しかし、例外こそが彼であり、その例外だからこそ、初めてその喉は渇きを覚えた。
「ッッ」
主観を高速化しながらの戦闘だ。
心の余裕が少しは出来るかと思っていたが、そんなのは幻想もいいところだろう。
紅に染まった積層魔力刃の“山”が振り下ろされた瞬間に倍々で体積を増やし、振り上げられる光景はどう考えても絶望的だ。
粉々に砕け散る街の景色。
瓦礫の中から迫り出す超高速の……斬撃とすら呼べないだろう圧倒的な面制圧。
大陸規模の構造物が細切れにされて、液体状にも思えるような調子で掻き混ぜられるという事象を視界の端に大規模構造の地図で確認しながら、アーギストの唇は自嘲のあまり、ひん曲がる。
(スケールが違い過ぎるッッ!!! 膨張した体積が三秒前の観測時から試算しても……もう六十倍? 今、主観を七百倍強まで加速してるんだぞ? 相手は化け物……いや、これが聖女の本気かッッ!!!!)
斬撃が振るわれる度。
その山よりも広く高く大きい刃が加速度的に増えていくのだ。
攻撃規模はもう事実上。
惑星規模。
名付けるならば、【攻星魔術(アスタ・レギオレム)】と言ったところだろう。
まぁ、魔術ではないのだが、何よりもその攻撃が魔術ではなく……たった一個人の剣術、刃術であるという事実の方が彼には恐ろしい。
人とはそこまでになれるものなのか。
主神クラスの敵と無限の宇宙空間で戦う時ならば、便利この上なさそうな技が、こんなちっぽけな個人を殺す為に放たれている事へ渇いた嗤いが零れたとしても、責められるものではないだろう。
(はは、分かっていたつもりだったが、想像の斜め上を行ってくれる。貴方ならどうやって、この状況を切り抜けるんでしょうね。師よ)
現在、彼が長距離転移しようと思えば、アイウィスの外へ一瞬で逃げられる。
しかし、生憎と今は妹が生み出した宇宙終焉シナリオのシミュレーション中。
外に出た瞬間。
アーギストの存在は極限の空間膨張で引き伸ばされ、運動(クロック)が限りなく0の世界で停滞、エネルギーが散逸して事象としての成り立ちを放棄する事になる。
要は死ぬ。
だが、それに相手が巻き込まれても死なない事は彼にしてみれば、分かり切った話だ。
聖女が不老不死というのは前提なのだ。
師と聖女を倒すとしたら、という討論をした時。
聖女を一時的に行動不能にする攻撃力を獲得する術は得られたが、結局聖女を殺す事は出来ないという意見では一致していた。
物質的な停滞には巻き込めても、実態を保たれてしまうかもしれない。
その上で対策を立てられ、動き出されれば、負けるのは確定的。
大いに有り得る可能性だ。
(言ってる場合じゃないな。何処に逃げる? この剣山はイクス。彼の技に当て嵌めれば、複数の技の複合を行ってるに違いない。なら、どう攻略……ああ、そういうことか)
気付いて、更に絶望的な気分に浸りながら、細切れのままアーギストが方陣を放棄して転移した。
方陣が山に突き崩されて喰らわれていく。
空間ごと削れているような様子からして、防御なんてのは愚の骨頂だったらしい。
と、渡った先で彼は知る。
剣術で最も安全な位置。
それは攻撃する者の背後だ。
だが、それこそがあの技の本来の意味なのだろう事が、死の気配で彼には確信出来た。
【強欲(ボラシターテ)】の握る塚先から極大化した刃。
それは既に彼女を取り囲むようにして。
まるで肋骨のように背後へも剣先を突き付けていた。
術者の後ろも死地。
逃げるところが其処しかなかったというのは追い込みを掛けていただけの話なのだ。
たぶん、この技の最大の効果は逃げる敵を自らの傍に引き寄せるという一点に尽きる。
費用対効果。
そんなものを完全に投げ捨てた力技が見事に炸裂し、アーギストは自分を貫かんと伸びる積層魔力の刃の特性を見切ろうとバラバラな瞳で観測を開始する。
少年に尋ねた技の性質は複数あるが、それよりも確実に多い。
刃一つ一つが複数の能力をバラバラに個数も変化させて持っているのだ。
技の統合を完全に行えば、全ての能力が刃に宿るらしいが、それには極めて集中力がいるとの事。
これだけ大きな技を放っている最中だ。
全ての能力を宿らせるには精神が持たない……と信じたいのが人情だろう。
(焦るな。焦るなよ。見極めて対処しろ。やる事はそれだけだ)
攻撃を捌く魔術を一瞬で数百以上、脳裏のランチャーから起動して。
パズルでも解くかのようにアーギストは一つ一つの刃に魔術を施していく。
空間の掘削。
無効化。
概念の顕現。
顕現場所以外から切断して崩壊。
積層魔力の射出。
空間転移で他の魔力刃内部に投棄。
単一魔力の連結発射。
発射寸前で連結を解除。
次から次へと能力が封じられては刃が毀れていく。
熱量の極度の上昇や低下。
魔力の吸収や放射。
物理量の反射や転換。
どれもこれも当たれば、一溜まりもない技ばかりだ。
その上、幾ら封じても崩壊させても、体積の増殖スピードは遅くなるどころか早くなる一方。
(刃本体は少しでも掠れば、存在消却……情報を確認しろ。抜けを見つけろ。何一つ見逃すな。何を奴は消して、何を仕掛けてくる? 全体を見るんだ……)
彼が脳裏に観測される全情報。
その中から少しでも奇跡による“抜け”を見逃さぬよう集中しつつ。
青年は自らの細切れの身体を刃に傷付けられぬよう移動させ、聖女本人を観察する。
そんな時だ。
バキリと黒い波紋の刃が紅の積層魔力の中から引き抜かれた。
(来る!?)
彼がそう知覚した瞬間。
―――アーギスト・エス・トリアは自分の身体にある右側頭部の器官が無いという“抜け”に気付いた。
(マズイ?! 知覚不能だと?! いや、待て!? 斬撃された場所が消えたか?! 奪われた自覚すらないッ!? こんな恐怖を前に戦って勝てた奴がいるのか? ははは……クソ、消された事すら僕は知らないんだぞ!!?)
彼には最初から右耳なんて無かった。
子供の頃からそうだったし、それでも魔術で問題なく音は聞いてきた。
だが、それは偽りの記憶。
そう、世界の修正なのだと彼は知る。
その“自分が知らない世界”が“幸せな世界である事”に気付いて、尚この聖女と戦おうとする輩がいるとすれば、それはとんだ大馬鹿者だろう。
聖女中最弱とも言われながら、聖女達全員に認められる実力。
奇跡込みなら、コレほどの恐怖を与える存在も無いだろう。
知らない間に“自分の幸せだった世界”が消されていくのだ。
記憶や過去、思い出。
何もかもが変化する。
修正されてしまう。
自分に右耳があったなら、妹の声をもっと小さな時から正確に聞き取れていただろうか?
そんな疑問すら“奇跡に創られた今”なのだ。
許しがたい程の略奪。
暴挙。
たぶん、人が相対して最も恐ろしい奇跡。
それこそが【白刀峯真円(はくとうほうまえん)】に違いなかった。
(ああ、そうか。だから、お前は【強欲】なのか!!)
気付く程に絶望的な話だ。
だが、自分で無かったら、存在が一瞬で抹消されていた。
空間の連結を保持しつつ、生体としての肉体を保つ。
肉体をバラバラにされながらも生きているのは高度な空間制御魔術の為せる技。
だが、それでも用心深いアーギストは自分の身体を保つ魔術に一種の保険を掛けていた。
本当に攻撃が避けられない場合はほぼ作動時間0で空間の連結が遮断される。
つまり、アーギスト・エス・トリアの耳は攻撃される寸前にトカゲの尻尾切りよろしく自切されていたのである。
そうでなければ、繋がったままの本体毎、存在が消却されていただろう。
(現実改変、世界修正。それ自体は単なる余波。これは自分の為に全てを得ようとする力。それがこの奇跡の本質。いや、業なんだな)
彼は今や自分の前で制服姿の屍蝋の仮面が突きの構えを取っている事に恐怖と同時に憐憫を感じるようになっていた。
また、知覚不能の一撃か。
脳裏のリストに無い“抜け”を彼が知覚する。
今度は瞳だ。
自分の左目。
観測は術式中核でずっと行ってきたとはいえ。
それでも大切な器官が“失われていた事になっている記憶”が彼に堪らない震えを感じさせた。
次々に自分が―――みすぼらしくなっていく。
最初からそうだからと言えば、そうなのだろう。
だが、与えられた恐怖が世界に修正されてすら、彼は自分の完全な姿を想像しつつ、“僅かな手札”を駆使して終わらぬ攻撃を避け続ける。
(師よ。貴方は言っていた。聖女を殺す事は出来ない。でも、聖女を屈服させる事は出来ると)
左手が無かった彼には右手でしか逃げる算段は無い。
左腎臓が無かった彼には血液を濾過する術式が必要だ。
左肩が無かった彼にはその先を魔力で形作る事が求められた。
(まったく……憐れ過ぎて涙も出ないぞ。聖女)
次々に抜けが増えていく。
自分は最初から左腕も右腕も右足も左足も腎臓も肝臓も膵臓も小腸も大腸も肛門も性器も肉も骨も皮も無い化け物だったという現実に彼は溜息すら零せなくなる。
それでも修正はこの状況下でも生き延びている理由を跡付けで生成する為、生きる事に支障は無く。
聖女相手に状況を維持しているという現実に無理やり繋げられた現在は彼を脳髄以外に何も持たない存在にまで貶めながらも、決して死ぬ事を許さない。
(妹に脳髄を家族として紹介させる不出来な兄を作るとは……聖なる者の名が泣くな)
後付けの後ろめたさは本物だ。
だが、世界の付いた嘘だとも理性は知っている。
しかし、それは現実という名で固着される真実でもあるのだ。
【閃剣が奥義の一つ】
最後の一撃が下されようとしている。
仮面に甘さなんて欠片も無い。
『………そうか。こんな事もある、のか』
仮面に触れる。
もう手は無い。
それでも魔術がある。
魔術とは万能無限へ至る術。
そして、何も持っていない事は何一つ遅れとはならない。
そう、教えられて彼は魔術を習った。
身体があったから、必要無かった知識。
肉体があったから、磨く術も無かった全知。
それがもう彼の中には渦巻いている。
『失って得るものがあるとは……僕もまだまだ精進が足りない』
完全に止まった聖女。
いや、完全に高みへ至った力を前にして動けなくなった相手に少しだけ彼は同情する。
その奇跡を使う相手が今のアーギスト・エス・トリアで出なければ、少しずつ削ぎ落としていく戦いとなっていなければ、勝機なんてあるはずもなかった。
耀く脳髄は果たして魔術師と呼ぶべきか。
それとも単なる魔術具と言うべきか。
どちらにしても今、其処にあるのは空間制御魔術の極点に立つ理想の自分に他ならない。
生まれた時から脳髄一つ。
それが未だに続いているという奇跡を世界が脚色した結果は……個人の極限の可能性を現出させたのだ。
『師よ……これが貴方の立っていた頂き……』
魔力で形作られる完全なる人体。
本来、彼の中に存在し得ない叡智の先にある自分にまるで違和感も無く。
『肉体の無い僕が聖女より強い世界、か。夢に見るには少し子供っぽい内容だ』
数億、数十億人に一人。
その才があるというのなら、それが例え偽りだとしても、嬉しい事には違いないと。
微笑みは零される。
【――――――】
仮面が未だ僅かに震えていても、恐怖はもはやその肉体に存在しない。
理不尽を理不尽で覆そうとする奇跡があったとしても、それは同じ。
黒き波紋は確かにこの状態のアーギスト・エス・トリアすらも殺せるが、刀を振るのが間に合ったならばの話だ。
『過去と現実が食い違い。世界が全てを修正する。だから、此処にあるのは強欲の果てに消えた男の残骸が、残骸故に極め果てたという結果。例え、貴女が死なずとも、永劫の遅延を持って封印しよう。その刀(きせき)がどれだけ何を奪おうとも、奪う時間が永遠なら、効果が発揮されるのもまた永遠の果てだ』
空間制御。
その本当の真髄の一つは別けて語る事の出来ない時間にも及ぶ。
だが、そこまでの資質が無く。
そのような領域の術も必要としてこなかったアーギスト・エス・トリアはもういない。
従前な肉体を持って生まれた人間には不要だった研鑽が、世界によって過酷な体験(うそ)の結果として修正され。
もう不意打ちならば聖女すらも止められる階梯の力へと至った。
『今はしばし浸ろう。この僕が夢になるのか。現実のままなのか。それは分からずとも……』
制止した世界。
時空間制御魔術。
【時間制止法(ファシアト・ノクテ)】
万能の一人。
そう名を連ねて構わないだろう術を修めた青年はそうしてしばらくの時を過ごす。
妹達がどうか無事に全てを終わらせて帰ってくるようにと祈りながら。
【―――――】
聖女らしい戦いの一つも出来ず。
ただ術と奇跡を乱発した屍蝋の仮面は、未だ過去に囚われた女は、どんなに世界の修正を受けようが変わらなかった現実……シスコン魔術師の執念、その前に停止したのだった。
*
―――ハガス東部ゼオ家二階。
ネハシム・セラーフィーム。
まだ、自らが何なのかも分かっていなかった子。
そう、両性具有たる彼女は一人少年の寝台の上で屋敷の外を見つめていた。
霧に包まれ、化け物が闊歩する首都は魔窟。
亜人らしい影はもう一人とていない。
どうして残っているのかと言えば、それは単純な話だ。
自分で保護者たる女性。
アルメイア・ゼオストスに残ると自分で言ったからだ。
未だ前回の事件の傷が言えないアルゥは彼女の意思を尊重した。
そして、ようやく本来の姿に戻りつつある自我をそのままに国境域へと退避していった。
別れ際に言われた事は純粋に心配と今まで利用してきた事への感謝だった。
どう何を利用されたのか。
彼女はまるで分からなかったが、それでも役には立ったらしい。
後は好きにしなさいと魂に加えられた枷を外されてから、色々と思い出し数時間。
少しずつ鮮明になっていくのは思い出だ。
レア・アルトス・エール。
彼女にとって一番大切な存在。
その人との思い出。
幼馴染であり、【総主教(パトリアルヒス)】と【聖征者(クルセイダー)】という関係であった彼女と自分。
何を話して、日々を過ごしていたか。
ひっそりと2人の時間を過ごす時はどう麺麭を半分に分けていたか。
取りとめの無い話をしながら、歴史を御伽噺に聞いて、聖者の逸話に顔を綻ばせていたか。
懐かしい記憶ばかりがあった。
自分の使命を果たせず。
敗れ去った自分。
自らの内に融けた天使に救われ、現実へと戻された自分。
そして、ハガスで過ごした短い日々。
(イクスさん……)
少年に仕えたのは数える程の日数だ。
だが、確かに感じた想いは本物だった。
どうして、そう思えたのか。
今なら分かる。
天使の力を持つという事は天使と同義になると言う事。
そして、天使の創り主は今や滅ぼした者と共にある。
いや、一つとなっている。
運命と呼ばれた存在。
唯一神。
その彼女にとっての正しくレアに勝るとも劣らない存在は……既に少年そのものだ。
思い返せば、あの慕情にも似た、信仰にも似た、穏やかでありながらも熱い憧憬は確かに自らを生み出したモノへの思いだったのかもしれない。
「……イクスさん」
思い出はとても薄く。
しかし、声に出せば、確かに熱を帯びていた。
―――あの娼館で抱かれた時もそう。
目を閉じれば、羞恥と慕情と信仰と何処までも胸の奥に刺さるような心地が蘇る。
優しくて、温かくて、嬉しい。
そんな喜びが溢れていた。
例え、それが創られた感情に引っ張られたものだったとしても………。