第三章百十五節「无儚餐爾Ⅴ」
魔力の転換による巨大な光の津波が地平の果てまでも覆い尽くし、アイウィス内部を駆け抜けていく。
その薄ら黄色い魔力の舞台の上で三人の男女が剣を持って構えていた。
来る。
来た。
そして、見てしまった時点で彼らの精神は急激な変調によって正気を削られていく。
叫ばないだけで奇跡だろう。
命が変質しないだけで優秀過ぎる。
見ても死なないのならば、その能力はもはや神格にも匹敵する。
だが、それでも常識的な範囲で彼らは狂人一歩手前の己を何とか制御する人間だった。
外なる神々。
ようやく現れた有象無象の化け物達。
全てが欠片程度の存在でありながら、本質的に宇宙内部へと顕現した破滅そのもの。
認識という枠内でしか行動を左右出来ない存在にとって、ソレらを感じるというのは破滅するに等しい行為なのだ。
それも大量の相手。
どれだけの理性があれば、この状況下で人間のまま過ごせるのか分かったものではない。
魚に似たものがいた。
蛸のような頭のものがいた。
触手を蠢かすものがいた。
だが、その大半はまだこの宇宙内部に存在しない概念でしか表せない何かであり、根源的に不確定なあやふやな……温かいような生温いような苦いような辛いような見えるような見えないような、そのような曖昧さの五感に引っ掛かる何かだった。
それが肉の塊や極彩色の光と言った錯視を生み。
斑模様の世界は極限の歪曲に現実感を喪失させている。
「後は任せていい? メルフ的にはもう眠いから」
一人、そんな世界の破滅と滅亡と侵食の根源を前にしてダルそうな少女は、メルフ・グラネッタは、仄暗い緑色の髪をショートにした彼女は、常用するダルンとした厚ぼったい白い布地で作ったローブというか、着包みというか、そういう寝巻きっぽいものに身を包み。
自堕落な様子で自分の魔力の大地に寝そべって欠伸をしていた。
【外宙碩学師団】を任された七聖女の一人でありながら、教会で最も影の薄い存在。
まともに教会へ顔を出さないクラルにすら劣る知名度とアレ?そんな人いたっけという人気を誇る彼女の本質こそ、ソレだ。
とにかく、やる気が無い。
彼女は他の聖女と違って唯一絶対戦わない存在として一部の平和主義者には大人気だが、それすらもマイナーな人々の間の中で囁かれる程度の事である。
不戦の誓いとか、非戦の覚悟とか。
そういう問題ではない。
単純に戦うのがダルイ。
面倒臭い。
絶対に働きたくない。
そう言って憚らない自堕落さは筋金入りだろう。
その結果なのかどうか。
彼女の力はたった一つの事に特化されている。
森羅万象を同化する奇跡。
【怠剰終始(ピグリティア)】
それが全てを可能とする。
七聖女の中で最も何もしないと仲間内で認定されるくらいには真に最弱なる者。
だが、その奇跡は極めて有用で、極めて怖ろしく、極めて万能性が高い。
今にもこちらへと襲い掛かってきそうな化け物達が転移した直後から大人しいのは彼らが様子見をしているから、なんて理由ではない。
単純に動きを鈍らされているせいだ。
彼女の力はよく戦場を治める目的で教会から投入されたが、その最大の理由は全ての戦争当事者からやる気を奪う事が出来たからだ。
彼女と戦場で出会った全ての者達は例外なく戦う事すら出来ずに負ける事もなく勝てもしない。
泥沼に嵌ったように静かな沈黙へと落ちていく。
彼女の気分を奇跡で同化させられて、全ての活動が鈍くなっていく。
相手を殺したいとか。
相手から奪いたいとか。
相手に勝ちたいとか。
そういう気持ち事態が面倒くさくなっていく。
欲望や感情に起因する行動はメルフ・グラネッタの前には無意味だ。
その力は今までの歴史や経緯、諸々に対する感情を極限まで不活性状態にするのである。
あらゆる消費活動、生体活動を行う意欲。
行動に対する意思が奪われていく結果。
停滞した国は正しく毒が回った人間のように活動を停滞させて緩やかな死へと向っていく。
今、外なる神々すらも留めているのは彼らとって不可解な契約を完遂するという行動への極めて消極的なまどろみのような鈍りだった。
現実に規定されているからこそ。
本来の世界の外ならば、何ら問題ないような能力でも影響を受けてしまう。
このような様子はもはや人智を超えた怠け者と言うべきだろう。
「オイ。あの神様っぽい肉塊、瞼落ちそうだぞ……」
「ああ、メルフ様のお休みツアー参加者みたいじゃのう」
「これ、後で報告したら物凄く反響呼びそうよね」
鎧われた男が正気を削れた後にも関わらず呆れ。
鎧われた老人がゲッソリした顔をしながら呆れ。
鎧われた女がげんなりした様子で呆れ。
自分の後ろにいる聖女様はどれだけ働きたくないのだろうと七教会の闇の深さを思った。
今ならば、相手が行動を起こす前に即効で消滅させられるだろう。
あらゆる活動の停滞、最後に行き着くのは死だ。
外なる神々は……現れてから一度も契約の履行活動をする事なく。
投げ遣りな聖女の奇跡で死の淵に午睡《まどろ》んでいた。
「じゃあ、やるか?」
「ああ、やろうか」
「やるしかないでしょ」
三体の鎧が動き出した。
そして、全ての行動が完了する。
若干一秒弱。
完全に鎧の動きをトレースした者はその場にいない。
ただ、分かっている事を羅列するなら、鎧の持っていた刃は単純に存在を抹消する力が宿っており、それが純粋に一秒で六百回弱の斬撃として繰り出され、何一つとして行動しない神々の間を通り過ぎて……崩壊させた。
黄色い魔力の大地の上でその残渣が再生や復元する暇もなく活動を停止させられ、ゆっくりと全体に張り巡らされた存在抹消系の大魔術の中、姿を解けさせていく。
従来ならば、少しでも反撃や身動ぎされるだけで破綻する魔術も彼女の軌跡の前でならば、最後までその工程を完遂する
ジリジリと過ぎていく時間。
たぶんは五分弱の静寂の後。
全ての物質的、霊的、因果的、概念的、存在に関わる全因子が素粒子1つ残さずに消し去られた。
「……オレら要らなかったんじゃないか?」
「いやいや、メルフ様は絶対、細切れにするのも面倒がるじゃろ」
「そうね。というか、半分寝落ちしてるわよ。メルフ様」
鎧達が背筋を微妙に戦慄させつつ、背後で横になって船を漕ぐ聖女を振り返る。
「つーか。この奇跡……実際、どのくらい強いのか悩むんだが」
「メルフ様は自分の気分を同化する事にしか使ってないからのう。というか、もし普通に戦闘で使われれば、この間の事件で起こったように世界の果てとの同期も出来る。強さなんぞ考えるまでもないと思わんか?」
「万能性高過ぎて逆に面倒なんでしょうね。フルー様もよく自分の奇跡の汎用性高くて手段絞るの悩むって言ってるし」
「逆に一芸特化の奇跡は強い分、融通利かないからな。ソィラ様やユアン様やクラル様が良い例だ」
「そう考えると自分の技能の延長を更に強化するハティア様の能力が一番汎用性と実用性と万能性が高いのよね……正直、問題は本気出すのにソィラ様かユアン様がいないと無理ってだけで」
三人が喋っている間にユラッとメルフが起き上がる。
「休憩は済んだ? メルフ、そろそろ行きたいんだけど」
「ええ、済みました」
「ご心配なく」
「って、言えたらいいんだけど……」
三人がゆっくりと脂汗の滴る顔を拭いも出来ず。
その黄色い大地に膝を付いた。
先程までの会話なんて嘘のようにその様子は鎧の外からでも弱っているのだと分かる。
「あそこまで弱らせてもらっておいてなんですけど、剣で斬る感触からすら侵食ってのはどうもさすがに……クソ……っ」
男が大きく息を吐く。
「確かに何もしていなくとも、腐っても外なる神……聖女様程の回復力や再生力があっても、本質的に磨耗する我らでは限界があろう」
男に同意した老人が僅かに額へ手を当てた。
「ちょっと強がらせて貰いましたけど、さすがに認識そのものからの侵食は魔術で軽減しても限度が……化け物にはならないと思いますけど、後でもしダメそうだったら処分してくだって構いませんから」
女が震える手で何とか拳を握り、地面に押し付けて、全身を戦慄かせる。
誰の脳裏も未だ外側からの侵食に朽ちそうな精神を立て直すのに必死だった。
「じゃあ、此処で休んでて。メルフ、行ってくるから」
少女がモフモフとした寝巻きっぽい姿で黄色い大地を歩き、三人の背後へと抜けていく。
「……クソ、これ自分で言うなんて生涯の汚点なんだが……ご武運を」
男が心底悔しそうに呟き。
「何か持っていかれますか? 空間制御で収納していた武装一式は干渉されていないと思いますが?」
老人の声にフルフルと首が横に振られた。
「……あそこにはたぶん、魔王がいます」
女の声にチラリとだけ、少女が振り返ってから、再び歩き出す。
「十数年振り……会ってくる」
女が僅かに何かを忠告しようとしたが、その声はどんな形にもならなかった。
メルフの周囲に立ち上った魔力と耀きにもう戦闘態勢へ入ったと分かったからだ。
黄色い魔力は今やその色を深め。
まるで黄金色と見える程に耀きを増させていく。
しかし、それは人々を守護する神格の有するものとは違い。
秋を思わせる何処か優しい色だった。
彼ら三人はようやく内在する感情に気付いた。
どうして、聖女一影の薄い彼女が未だに多くの人間から首を傾げられながらも慕われているのか。
それはきっと、その背中にある感情を見てしまった故なのだ。
諦観。
黄金色の魔力が映し出す真実は確かな終焉を感じさせる。
何を諦めたのか。
何が終わってしまったのか。
その圧倒的な寂寥と過ぎ去りゆくものへの郷愁にも似た感情は本質的に老人や死に往くものが漂わせているべきものだ。
年頃の少女と見える自堕落な彼女が、聖女と崇められるべき彼女が、身に纏っていて良いものであるはずもない。
あの常に老女の姿で歳を重ねるクラルですら、内実の覇気にはまるで衰えがない。
だが、三人の前にいるメルフ・グラネッタの背中には老いていく生命が抱えるべき悲哀が確かに募っていた。
「心配しないで。戦い方くらいは知ってるから……」
そうではない。
そうではないのだと三人の兵は声に出したくなった。
しかし、それを彼らは長年の付き合いである聖女の前で口にする事を止めた。
「ミュルトの分まで頑張らないといけないのは分かってるもの」
姉妹である少女が五年前に藩落で受けた呪いは未だ解けていない。
関わるなと【真権(パーフェクトゥム・インペリオ)】によって刻まれた制約は現在も有効だ。
それを理解すればこそ、己の半身とも言える相手の為に頑張ろうというメルフの言葉はとても納得出来るだろう。
「……頑張らなくたっていいですよ。誰も貴女に辛い思いをさせてまで世界を救えと言えません」
「ワシらは単なる教会の駒。お気になさらず。どうか、貴女は貴女のままで戦場に立ちなされ」
「女として忠告出来るのは一つだけです。ただ、正直に、ですよ。メルフ様」
部下達の声に歩みを止めず。
彼女は呟いた。
―――ありがとう、と。
それを期に転移方陣も無く。
アイウィスという名の吃驚箱の最中。
彼らのいた空間の手前からが何処かへと同化され、少女の姿は一瞬で消え失せた。
残された者達に出来るのは只管に己を癒し、戦場へ立てるだけの回復を行う事だけだ。
それでも尚侵食の残滓は誰もを蝕み。
身動きはまだ当分取れそうも無かった。
「オレら、メルフ様のファンクラブ会員から後で凹られそうだな」
「そうだのう。あのお方に“頑張らせた”なんて知れたら、どうなる事か」
「なら、急いで立て直しましょう。姉妹方にとって魔王との戦闘なんてのはあの大戦一回が限度だった……そんなの分かり切っていた事よ……知らぬフリでやらせてきた我らの怠慢のツケを払わせたら、一生後悔するわ」
三騎将。
彼らの瞳は見えもしない黄色い大地の果ての果て。
星と星の合間よりも遠いだろう場所にある戦場へと向けられた。
そして、役者は集う。
今や世界の中心となった渦中の都市に舞い降りる者が見たのは……砕け散っていく少年の五体と死に掛けた者達。
夜会の中心に立つ、貌を覆う左右対称の仮面を付けた“二人の”ナーリヤ・ナーシム・エルトロイカの姿だった。
*
世界が砕け散っていく音があるとすれば、その最中に音を聞くというのもおかしな話だ。
アルメイア・ゼオストス。
魔族にして高位の【血族種《ブラッディー》】にして超越者たる彼女もその音色をまさか自分へ聞く事になるとは思っていなかった。
ヴォルヴァドル級二番艦。
その艦橋の最中。
艦長席で彼女は自分の周囲の景色が国境域の軍団総司令部の中へと置き換わり、己の肉体が未だ賦活には程遠い状況になっている事を自覚して……世界から押し付けられる修正に溜息を吐いた。
存在抹消までは行われなかったが、それにしても酷い話だろう。
最も重要な局面に自分がいない。
と、いう事はつまり……少年に何かあった時、その肉体を保全出来る者があの異相内部から消えるという事だ。
時間の逆行や遡行は最後の魔王たる少年が現れた時代から現在に掛けて殆ど成功しない魔術や能力となっている。
因果律の特異点。
世界そのものを引き込む少年の力はその意思に反する如何なるやり直しも認めない。
最低限行える限度の時間に関する干渉にも制限が付く。
その限界を一定値で超えられるのは現在確認されている限り、異種達や亜人が守る“門”と呼ばれる一種の時空間干渉装置と一部の能力者だけだ。
その最大の運用者である者を彼女は消えていく記憶から探り出し、そっと欠けた多眼の月の先。
蒼き天蓋の星の地表に見た。
ソィラ・ミクラ。
今も外なる神々の覗き窓より本星と天蓋蒼星(メイズ)に落ちてくる全ての雫を消却し続けている女は他の聖女達のサポートに回っているらしく。
星間規模の破壊活動は自粛している。
だが、それにしても認識と意識のみを糧に本来ならば惑星のリソースの大半を使い果たしてようやく防衛出来るだろう死の雨を消し去り続けている様子は正しく聖女の名に恥じない働きぶりだ。
ほぼ半分まで欠けていた多眼の月がビシリと巨大な亀裂に軋む。
その先で、世界の果てで一体何が起こっているのか。
観測しようとすれば、多大な負荷が掛かる為、内部を覗く事は無かったが……アルメイアには想像が付いた。
十数年前。
酷界においても魔王討伐は一部の自発的な参加者が向った一件だった。
多くの情報が齎され。
少年がどうなったのか。
数多の口にその結末が伝えられたのは記憶に新しい。
それは彼女にとって言うまでもない事で、彼女にとって最も心痛む懸案となった。
あの毎日のように聖女達との思い出を嬉しそうに語った人が、その相手と本気で真正面からぶつかり合い、打ち勝ち、天界を生んだ唯一神すらも破った。
そう聞けば、愛し合った事のある者は少年がどうなったか、理解出来て当然だろう。
その後、酷界と天界における争いは激減した。
“惑なる天”
高位魔族達にとって唯一神と同等の存在にして原初から続く頂点。
そんな筋肉の化身が遊びがてら、遠征に出るだけとなり、従来からの敵対関係は消滅するかに思われた。
だが、それでも天界とファルティオーナにおいて天使の活動はすぐに再開された。
最たる理由は純粋だ。
新たな天界の統治者。
唯一神の代行者がその身を天界に封じたからだ。
クラル・リテル。
少年と初めて出会った聖女。
いや、少女だった老女。
酷界の中には天界への侵攻と領土の拡張に踏み切ろうという勢力も多数合ったが、クラルによる天使の再起動によって、その儚い希望は絶たれた。
遥か昔から魔族の中に【血族種】が増えて世界の領土を圧迫し始めた頃から、三つの勢力の一つである彼らは天界への侵攻を幾度と無く行った。
だが、この数十万年において、一度たりともそれが成功した事は無い。
それ程に天使達は強かったのだ。
五千年前までは異種の魂を昇華したモノが彼らを阻んでいたが、それからの数千年は人の守護者となった唯一神の新たに生み出した人の天使達が彼らを圧倒した。
強さは嘗てよりも質的に劣っていたが、それでもその同一個体の分裂による超物量と異種の天使達には無かった戦術、戦略、能力の効率的な運用、軍隊だった統制と圧倒的な行動の正確性は酷界からの侵攻に屈する事は無かった。
正しく“天”が生み出した“もう一つの天”とも言うべき存在と化した天使達。
それが唯一神の次に人間たる聖女に使われるとは誰も想像しなかっただろう。
神の代行者。
クラル・リテルは魔族達にとっては刹那とも思われる十数年の間。
話題に上り続ける存在だ。
魔族の中ですら超越者と呼ばれる貴族達が暗殺や一騎打ちを望み。
天界に侵入して天使達の間隙を縫って突撃を敢行したものの。
誰一人として勝つ者は無かった。
その勇猛無双たる戦いぶりは特に酷界の国々、王家や皇家には驚きを持って畏れられた。
老女の戦闘方法は極めて単純だ。
能力(スペック)で叩き潰す。
ただ、それだけ。
その膂力は星すら砕き、その魔術は恒星すら破壊する。
その肉体強度は太陽に投げ込まれようが、重力の井戸に落ちようが原型を留め、その速度は光と同等だ。
純粋にどんな能力でも魔族が、高位魔族ですらも、敵わなかったのだ。
“主神を縊り殺す女”とは魔族達が老女に付けた渾名である。
一部の国家では秘密裏の攻撃に対するクラル・リテルからの報復で国家の最重要戦力たる上位魔族層に打撃を受けて、他国から攻め落とされた場所も幾つかあった。
そんな女が外なる神々と戦っているとすれば、やっている事は一つだろう。
相手を砕き、投げ、潰し、拳によって如何なる障害も排除しているのだ。
「………」
彼女が見つめる多眼の月がまた一つ欠けた。
その瞬間、断末魔を上げる目が拉げて、物質的な実存を無理やり膨大な魔力の圧で消し飛ばされるのをアルメイアは目撃する。
あんな相手を七人も前にして尚屈さず。
ただ微笑み、耐える事で勝利した少年はどんな気持ちだったのだろう。
今、正にそれに劣らぬ状況で戦い続けているだろう彼を、イクス・ゼオを、彼女は思わずにはいられなかった。
身体はまともに動かない。
肉体が回復するまでには数年掛かるだろう。
もう脳裏にある真実も消え掛けている。
それでも彼女は己のしてきた全てが少年を守れると信じた。
どんな状況下でも己を貫き通した少年のように。
そうあれと娘を導き、見守ってきたように。
「後は頼みました」
誰に言っているかも定かではない言葉は一秒後に脳裏から消えた。
しかし、その言葉を受けたかの如く。
遥か異相。
霧の引き伸ばされる宇宙終焉の先。
アイウィスの最中の艦隊中枢で。
ヴォルヴァドル級の艦長席で。
白い帽子を背中に背負って。
猫のような物体がえっへんと楽しそうにボタンを手で押していた。
『任されたし!!』
黒猫なクヲンに毛嫌いされる見えざる人間嫌いなモノはしかし自分の押しているのが何を発動させるものなのかも知らず。
ただ、前方の何も無い空間へと放たれる12万度超の重粒子線放射。
艦の主砲オプションの一つが時空間の歪曲した“仕切り”を貫いて何処までも伸びていく姿に目をキラキラさせながら、尻尾を揺ら揺らさせた。
突如としてセーフティーを外されて発射された主砲に慌てる艦橋のオペレーター達だったが、艦長席には“誰かがいる”事を知っていた為、即座に状況の確認と対処へと忙殺されていく。
世界の修正は確かにその場にいる何者かを艦長にしたが、その存在そのものが人々の認識から外れている為にまるでおかしな状況が生まれていた。
艦長たる誰かが発射した突如の攻撃はアイウィス内部への突破口を開いた。
その艦長からの応答や指示はまるで無いのだが、艦長はいるはずだから、状況に対処する以上は行動が促される。
艦長は沈黙を持って行動していると認識され、全ては最初期のプランのまま実行へと移されたのである。
幽霊艦長たる白猫は自分の席にある色々なボタンを連打しながら、偉そうにふんぞり帰り、アイウィス内部から湧き出してくる拷問道具の仮面達が蒸発していくのを愉快そうに眺めた。
『突破口は開かれた!! 全艦!! 突撃態勢!! 突っ込めぇえええええ!!!』
総司令官であるドゥーズの声と共に艦隊がアイウィスの内部の奥深くへと入り込んでいく。
その時、白猫は艦の中核部品である無限機関からの波動が妙に変化した事に気付いて、軽く首を傾げる。
だが、すぐに自分の横へ誰かがやってきた事を悟り、ビクッと身を竦ませて。
「一緒に行こう―――【白落剣《ダムクーレ》】」
『ネハシムだし♪』
自分の相棒が何故か戻ってきた事に喜色満面で大はしゃぎした。
【白落剣《ダムクーレ》】。
そう呼ばれたソレが艦長席から飛び上がり、彼女の腕の中に納まる。
そうして、ネハシムが席へと座り込んだ瞬間。
白猫の世界からすら己を隠し通す能力で阻害されていた“修正”が完了した。
『艦長!! 右舷後方から832億!!! 左舷下方から3112億!!! 攻撃着弾まで残り十八秒!!!』
確かにネハシムにも偽の記憶が脳裏にある。
しかし、それと同時に己の真実を記録した天使の頭脳は記憶の併記によって全ての齟齬による精神負担を修正から守った。
艦長席に本来座っていた者はこんな日が来る事を予想して自分を傍においていたのだろうかと。
それでも感謝しなければならないだろうと。
ネハシムは偽の記憶のままに指示を出し。
そして、艦隊の最中に付いている魚のような船体。
己の第二の故郷に等しいソレの中に秘匿通信を送る。
『何でしょうか。ネハシム』
その声、今までずっと自分を探してくれていたに違いない守るべき少女の声に、彼女は一滴だけ涙を零した。
『これより、本艦が全艦の守りを固めます。観測から敵中枢へと転移出来る目標地点を算定しました。付いてきて下さい。レア』
『そんな情報はこちらには……あ、れ? どうして、私、涙なんて……』
『必ず貴女を守ります』
『ネハシム……どうしてか分かりませんが、私……何故か―――』
『着弾しますッ!! 方陣防御全―――』
その声を遮って、艦橋に声が響き。
『【再化復翅(レ・ケリュグマ)】』
彼女の声が響いたと同時。
艦隊が張った防御用の方陣へ更に重ねて、天使の翅が幾億と舞い散りながら、屍の仮面達から放たれた魔力と肉体の一部を発射する混合弾を遮断した。
『この国を守り、生きて返り、全ての人々を救いましょう。それが【総主教(パトリアルヒス)】である貴女と【聖征者(クルセイダー)】である僕の使命……最後までお供します』
『はい!!』
全ての艦の艦橋にネハシムの言った敵中枢への転移可能座標が送られる。
ドゥーズは何故とは問わなかったし、今更この段に至って疑う事もしなかった。
ただ、まだシッカリしているとは言えないだろう若者に一言だけを告げる。
『行くぞ!!!』
そうして、艦隊は最大戦速。
重力軽減を行っても乗組員に約4Gの負荷を掛ける超加速を開始した。
霧と侵食が艦隊の方陣防護を削ろうとするものの。
天使の翅は無限にその周囲を固め、背後へと置き去られ、追ってくる化け物達に接触した瞬間、起爆……1枚で半径1km弱の熱量と爆風をばら撒く機雷と化した。
阻まれた化け物達は追う度にその数を見る見る減んじていく。
それでも決して追撃の手が途切れる事は無かった。
『ネハシム。あったかいし♪』
白猫っぽい物体はご満悦の様子で艦長の帽子を咥えて、彼女の頭に載せ。
自分はその首筋に撒き付いて、幸せそうに和み始める。
彼らはゆく。
己の為すべき事を為す為に。
「イクスさん……」
最後の時は確実に刻まれつつあると。
艦長席から彼女は遠く遠くの情景を見つめる。
少年達の戦いが終わるよりも早く辿り着けるかどうかは……神のみぞ知る事柄に違いなかった。