第三章百十六節「无儚餐爾Ⅵ」
神器。
それは過去、教会の信奉する唯一神が人の生み出した概念によって構築した象形の根源にして頚城だ。
数千年前、まだ人類が異種達によって治められていた頃から嘗ての種族達が残したものよりも高度な概念が幾つも生まれた。
たった数十万年の月日で人が到達したのは過去の種族達が数百万年、数千万年、数億年の月日を掛けて築き上げてきたものの先にある何か。
唯一神は肉体と精神が脆弱でありながらも、創り出す力に優れた人を彼ら自身が生み出した概念の力によって、高みへと導く事とした。
魂の頚城。
世界の頚城。
それを使えば、意思を高次元へと昇華し、存在の階梯を引き上げる事が可能となる。
天使とは本来的に人間の進むべき道の過程。
進化と昇華の途中にある存在と言えるだろう。
これらを生み出す神器を強化し続けた先。
人は己の始祖たる大母と同等たる外なる神々の浸食にすら対抗出来るようになった。
人の手で生み出され、神の手で実態を与えられ、魔族達が実用化したソレが神の魂を糧に世界を世界として留める事によって、外なる神の浸食は止まった。
大陸全土に埋め込まれた大小複数の神器は唯一神が天使達に与えたものと本質的には同等の代物であり、規模と出力、象形が司る概念の違いこそあれ、使い手によっては万能と言える能力を引き出す事が可能な媒体だ。
況してや。
それが外なる神の手にあれば、どうなるのか。
天使達はその能力を自らの魂を高位に保つ為の頚城として、然したる力を大陸に現出させなかったが、彼女は違う。
無貌の神は外なる者であり、自己の本質は虚無と無限。
超克の狭間にある人の概念では名状し難き何かだ。
燃べられた魂の総量はもはや人の世の数で測る事、態(あた)わず。
完全開放された神器は全て光波を伴わない暗き光によって、太陽と化した。
聖女達の能力が個人に由来する極限の権能だとすれば。
神器の能力は人類が普遍的に有する極限の創造力と言える。
“九天”
唯一神亡き後。
クラル・リテルによって使われた【|天の軍勢(ツェバオート)】の最高位階梯に属する天使達。
大陸の最終セーフティー。
彼らが持っていた九つの神器
―――槍。
―――盾。
―――剣。
―――盃。
―――弓。
―――甕。
―――書。
―――筆。
―――喇叭。
そして、神の骸を抱きし聖衣。
【神骸布(マネット・パンノ)】までも纏った彼女が最初から負ける道理なんてあるはずも無かった。
幾ら限界ギリギリの状況で他の神々が顕現不能に陥っていようと。
頭部に顕現した九つの【天環(ハイロウ)】と九対の翼に敗北の二文字を刻むにはまるで彼らは準備不足だったのだろう。
勝負は一分足らず。
四つ目までは受け切った。
六つ目からは直撃。
九つ目には既に瀕死。
【ひひひ♪】
全てを貫く槍は受け切れた。
何も通さない盾は弾き飛ばした。
全てを絶つ剣は拮抗させた。
盃から溢れる無限の力は受け流した。
だが、如何なる距離からでも当たる弓から放たれた矢は当たった。
甕から盃へ注がれる濁流の如き魔力は一瞬にして辺りを満たす魔力出力を乗算していった。
書に筆で書き込まれる事象改変に対しては少年の肉体の性質も無力化され。
喇叭による伝達は……外なる神への理解……狂人にしか分からぬだろう怖ろしき無限情報を生み出して、精神を破壊せしめ、外なる世界の因子で構成されているはずの五体すらも砕き散らしたのである。
唯一、直撃を避けられたのは常に最大の防御力を誇る表裏無き機構。
【OEDS】を制御するハイダル・エス・トリア一人のみ。
しかし、彼女と同等の防御力場内にあろうとも精神の変調は如何ともし難く。
仲間達は全身の穴から血を零して倒れ付していく。
奏美紗。
ジルムス・デダル。
両名共に精神の蹂躙は深刻。
未だ化け物にはなっていなかったが、それにしても機構の力によって守られた故だ。
場の外で直撃された少年は全身がバラバラになるだけで済んだ事が奇跡という状態。
相手の存在を消却する術式を叩き込む暇なんて今のハイダル・エス・トリアにあるはずも無かった。
無限の出力と無限の出力がぶつかり合うアイウィス中心部。
轟々と音を立てて、神々の侵食を受けた極彩色の肉々しい建造物が解けていく。
撃ち放たれた閃剣の奥義。
積層魔力の大山が数kmにも及ぶ全長の中央をポッカリと何かの攻撃で溶かし削られてバラバラと崩れては耀く粉塵と消えていく。
ナーリヤ・ナーシム。
黄金の面を付けた神器によって天使の力を得た外なる神と同じ顔をした少女は……“彼女”外なる神とは反対の側に面を付け、ローブ一枚切りの姿で虚空に浮かぶ。
その瞳は何もかもを見下ろしているようで何もかもを見ていない。
今正に死へと近付いている境界踏征の面々が倒れ伏し、一人無事だった少女が絶叫する合間も顔色一つ変える事は無かった。
【ひひ?】
キロリと神器と翼を纏う神が都市の右を向く。
すると都市の侵食に解け崩れる正気の削れるだろう極彩色の肉色の世界がパリパリとまるで軽いスナックでも割るような勢いで変質……否、元の景色を取り戻していく。
それと同時に地面が黄色い魔力の耀きに満たされて大地からの光が真下から誰もを照らし始めた。
あらゆる物質を概念を侵食するはずの力は現在増幅されて恒星よりも大きくなりつつあるアイウィスに伝播している。
だが、その一切合財を無視した黄色い魔力の大地は侵食される事も無ければ、変質もせず。
ただ純粋にアイウィス中に広がり続けていた。
そして、彼女達が遠方からテクテクと歩いてくる少女を視認した時。
アイウィスの大規模構造。
無限に複製されて広がっていく都市内部の空間的な閉鎖が一斉に開放された。
内部から溢れ出す霧。
同じ都市が延々と無数に一つの層に広がっている光景が露(あらわ)となり、焼き菓子の層のように重なった全ての階層内部から侵食され切った質量が溢れ出していく。
それと同時に黄色い魔力の大地が範囲を急激に拡大し、中心であるオリジナルのアイウィスが本来の姿を取り戻した。
七教会の研究所跡地のみを欠いた大地の上で二人のナーリヤが同じように少女を、寝巻きのような衣装に身を包んだ彼女を、七聖女メルフ・グラネッタを見つめる。
【ひひひ♪ 貰う♪ 貰う♪】
奇跡を収集する事は四柱の神々に課せられた使命だ。
どんな能力だろうとも、それを奪う事は可能だ。
だから、そうしようとして、彼女は首を傾げ―――コトンとその胴体から離れた頭部が落下しながら、すぐに元の状態へと巻き戻る。
復元された身体。
しかし、何かが違っている
「貴女が外なる神?」
いつの間にか。
メルフは天使の翼の付け根に手を触れさせていた。
ブチブチと根元からソレが引き抜かれるようにして弾け飛び。
今度は復元する事なく黄色い地表に落ちて、同化されるようにして消えていく。
【ひ―――】
振り向いた彼女がようやく相手を視認した刹那。
神器、弓と甕と書の全てが跡形も無く消え去った。
そう、消え去ったと言うのが正しいだろう。
如何なる能力なら、それが可能だと言うのか。
ようやく理解した。
―――廬山匡廬(ろざんきょうろ)の果てに我が刃は在り。
声が聞こえてくる。
―――仙棲む猛き峰に一太刀の痕(きずあと)守る大岩と共に発(た)つ。
だが、それは本来聞こえぬはずのものだ。
―――抜けよ。我が意は此処に。我が技は此処に。閃剣(せんけん)は此処に。
そもそもが未だ七聖女ユアン・クオの仮面化は解かれていない。
―――六道(りくどう)寄らず、他化自在天(たけじざいてん)滅す、我が一刀。
なのに、それが天から聞こえてくる。
―――白刀峯真円(はくとうほうまえん)。
手品というには真実、本人の声。
彼女がその場から空間を跳躍し、逃れようとした瞬間。
その跳躍先にメルフの姿があった。
その片手の先には薄っすらと黒い耀きが宿っている。
ついっとその指先が仮面の表面を削り、ガリガリと力が削れていくのを感じながら、彼女は能力を全開にした神器を一斉に盾として、剣のみを手に取り、転移で聖女の背後に回り込む。
が、メルフの背中に剣が振り下ろされた瞬間。
跡形もなく神器であるはずの物体が砕け散る。
【!?】
「この奇跡で破壊出来ないのは魔王とあの剣だけだから」
一瞬にして攻撃手段を失った手が風音もさせずに再び転移して距離を取る。
そう、七つの奇跡。
その中で最も危険な能力【破壊者(ワンダリカ)】の知覚範囲から脱する為だ。
だが、彼女が次のアクションを起すより先に再び天から声が降る。
―――久遠(くおん)の星は軌跡を辿り、やがて源(みなもと)へと行き着く。
途端、今度はメルフの裏拳が仮面に覆われていない顔を直撃し、消し飛ばした。
怖ろしいほどの速度。
その新しい奇跡は既に半ばまで顕現されている。
―――真淵(まおん)の月は渦動に至り、やがて旭(ひ)へと還り咲く。
何とか後退しながら、相手の動きに合わせようとダークエルフの少女が試みるものの。
圧倒的に速さが足りない。
―――響けや。
魔力を纏わせた素手による突きが、知覚能力を限界まで上げた外なる神の一撃が、聖女に当たる事はまるで無く。
―――人の御霊に盈(みつる)もの。
【ひ?】
―――刻の狭(はざま)紡ぐもの。
今度は目前で掻き消えたメルフが背中合わせに彼女の背後へ現れ、積層魔力で形作られた巨大な角錐の付いた肘で脇腹をぶち抜き、周辺部位をドッと消失させる。
―――光の勇魚(いさな)に足るものよ。
【ひき?!】
―――我は“天”の名において、汝ら一切救う者也。
次の一瞬の内に超絶の加速と減速を見せた聖女が頭上に現れ、打ち下ろされた右ストレートが仮面を殴り、その敵の五体を襤褸布のように勢いだけで引き千切る。
―――無垢なるもの、次なる聖(ひじり)とならんが為に。
黄色い魔力製の地面に触れぬよう外なる神が転移によって神器の周囲に戻った刹那。
―――今、理(ことわり)持ちて、正しき流れの内へ∀(すべて)を還さん。
彼女は砕けた両手に気付いて。
自分の背後で怖ろしい膂力を発揮する聖女に肘を握り潰されたのだと知る。
【強い♪】
何処までも能力《スペック》が違う。
宇宙に規定されてすら、その固定値で主神級の神格をブッ千切る外なる神がまるで赤子扱いの基礎能力は規格外では済まされない。
転移を駆使してすら、光の速度で反応する常態で全ての行動に先んじ。
魔術を使えば、光速を越えて、情報が届くよりも早く動くなんて朝飯前という事実。
それは唯一神の極めて単純な力の運用に他ならなかった。
―――【蔡祁天代(エジュス・ヴィカリウム)】
代行者。
その奇跡の名が高らかに響く。
【ナーリヤ、押されてる♪】
嬉しそうに笑いながら、神器が効かないならばと彼女は己の仮面に触れた。
動作はそれだけだった。
だが、黄色い大地に一部、亀裂が入る。
魔力への侵食の類ではない。
空間の破壊でもない。
それは……もはや達磨の如く大地の上で打ち棄てられていた少年の肉体の重量……要は純粋な質量が触れている結果として引き起こされる引力による歪み、だった。
「?!」
【前倒し♪ 前倒し♪】
その時点でようやく死に掛けた少年に対し、絶叫していた少女が己の力の全てを使っても助けようと行動を開始する。
現時点で少年が砕かれて六秒半。
聖女と外なる神の間に交された攻撃はどれもこれも空間を撓ませるようなものばかりだったが、どちらにも相手への致命となる一撃は無かった。
しかし、聖女メルフ・グラネッタには分かっている。
彼女が現在引き出す奇跡。
同化によって得たクラル・リテルの能力の恩恵である超感覚が何もかもを教えていたのだ。
今まで球状の力場結界。
世界の規定値を改変する事であらゆる事象を制御する【OEDS】の力が及ぶ一個の世界の中から事態を把握していたエストリアも気付いただろう。
少年の顔が屍蝋の仮面に半分覆われつつある事に。
その表層には揺らめく金の炎が黒い文字を刻印していく。
だが、それは途中で止まった。
それに意外そうな顔をした外なる神は転移と共に少年の横に密着すると……己の仮面を無理やりに引き剥がし、内側の虚無としか形容出来ない事象を晒しながら、笑みを浮かべ。
【ひひひ♪ 合体♪】
その己の面を侵食の泊まった屍蝋の面へ押し付けた。
そんな事はさせないと途中から聖女とエストリアが続けて己の能力を全開にし、相手の行動阻止に動いていたが、彼女達の前には残った神器がその形を崩壊させる程に力を溢れさせて、全ての能力も干渉も一身に引き受けていた。
だが、さすがに支えきれなくなったか。
爆発的な光を発していた神器が己の力に押し潰されるように消滅していく。
しかし、もう遅い。
そのたった数秒が明暗を分けた。
少年の仮面がようやく完成する。
無理やりに完成させたのだろう面にはただ【魔王(デウス・ムンディ)】とだけあった。
グシャリと顔の内部を晒していた外なる神の頭部が一瞬で間合いを詰めたメルフの片手でトマトのように握り潰され、復元される事もなく黄色い地表へと落下して、同化され消失する。
ほぼ至近で対面した聖女は小さく呟く。
「久しぶり」
「………僕は魔王………君が知ってる誰かじゃない」
「ッ」
答えられるとは思っていなかった。
いや、答えて欲しくなど無かった。
聖女は自分の目の前にいるのがようやく自分の知っている相手そのものではないのだと知る。
「悪いけど、早めに止めて欲しい。たぶん、“コレ”は………本来の姿に限りなく近い」
「?!!」
僅かに聖女を突き飛ばして、仮面の主は言う。
いや、少年だった者は告げる。
「イクスさん!!?」
仮面が振り向けば、仲間達を背後にして黒い0と1の羅列を円環にして複数纏うハンマーを握って、少女が悲痛な顔で震えていた。
「混乱してると思うけど、今は君達以外に頼める人がいない。この身体を完全に壊して欲しい。それ以外に儀式を止める手段がたぶん無い」
「何言ってるんですか!!?」
「“コレ”は嘗て……大戦の時に唯一神が使ってた世界再誕の儀式術……本来、天に極めて近しい存在が複数集って発現させていた代物……“僕だった者”が止められたら良かったんだけど、さすがに分割されている最中じゃ無理みたいだ」
仮面が五体が不満足のまま、二人から遠ざかって虚空に浮かび上がる。
「あなたは、誰?」
メルフの声にただ仮面へ手が添えられ、名前がなぞられた。
「……君達が本当に戦うべきだった存在だよ。七聖女メルフ・グラネッタ」
「それって……ッ」
ようやく理解が及んだらしい顔で少女の手が震える。
「本来……“コレ”こそが自然な形だった……でも、君達のおかげで“彼”は世界にはならなかった。真実なんて知らなくたって、君には分かるはずだ……君の知っている“人”が何を選んだのか」
「―――ッ!?」
「あの外なる神々の契約中核には……黒の棺がある………だけど、現物が破壊出来る状況に無い以上は仮の器になってる肉体を意味消失(ブランク・ワード)レベルで分解して、儀式術を一度初期化するしかない」
「な、な、何言ってるんですか!? 言ってる意味半分も判りませんけど、それってイクスさんが死ぬって事ですよね!?」
エストリアが思わず怒鳴った。
「君には隠していたけど、“彼”の記憶はもう半分くらい崩壊していた」
「!!?」
「その最後の望みだ。どんな事があろうとも……君達を救えない事だけは絶対に自分へ許さなかったから、こうして忠告が出来る……」
「イクスさんはどうなったんですか!!?」
「“彼”を分離する事は儀式術が解決されるまでに不可能と言っていい。黒の棺に満たされた契約と始まりの聖女マリアが残した誓約。どちらも破れない以上、器を破壊するか。このまま儀式が完遂されるのを見守るか。選択肢は二つに一つだ」
「マリア……それって?!」
エストリアが己の知識の中に、父親が語った古事を思い出す。
「奇跡は万能ではあるが、全能じゃない。今、月に伏す龍達の記録も開始された。感じられないものは破壊出来ない以上、破壊者(ワンダリカ)も無意味だ」
メルフが自分を見つめる仮面の主の声に思考を読み解かれて、唇を噛み締めた。
「その【万能器(イデアライザー)】も完全には程遠い。今、君達に出来る事は“コレ”をその力の全てを持って破壊する事だけだ」
二人の少女が呆然と。
まるで年齢も性格も経験も何もかもが違うのに同じ表情で唇を震わせ、仮面を見つめる。
「唯一神の代行者たる力なら……っ」
「クラル・リテルの奇跡は能力に限った話だ。“権限”には手が届かない。天使を制御出来ても、天使自体の根本的な改変が出来ないように」
メルフの希望を断ち切るように魔王が通告する。
「……分かりました」
エストリアが己のハンマーの柄を地表に打ち立て、その上に大きな三次元式の術式を展開する。
耀く円環が増え、やがて情報の全てが真白く埋め尽くされた球体となった後。
彼女が自分の愛する少年の仮面を前にして大きく息を吸い込んだ。
「イクスさんを助ける方法を見つけます。だから、制限時間を教えて下さい」
「それは……この世界を危機に晒す事と同義だよ。そして、その限界に近付く度、何処かの誰かが死んでいく事になる」
そこでようやくエストリアが己の顔に流れていた涙を弾くよう強く両手で両頬を張った。
その行為に思わずメルフが目を見張る。
彼女の前で、自分の知っている少年の欠片でしかない相手を、今は魔王という名の仮面と化したはずの相手を……そんなどうしようもなく救えない相手を前にして……少女の瞳は揺るがず、ただ深く深く決意を湛えていた。
「知った事じゃありません!! 誰が死のうと!! 誰に怨まれようと!! 私はイクスさんを救うと決めたんです!! でも、イクスさんがそういうのを望まないと知っているから、今この【OEDS】にあなたの言った通りの力を編み上げました!! 手段を最後まで探します!! 探して出してみせます!! それが無駄とするなら!! 最後の最後まで待ちます!! 待って、待って、待って!!! 最後は私が自分の手でイクスさんが救いたかったものを救ってみせます!!! だから、時間を、世界を救えるギリギリの時間を教えて下さい!!!」
「―――」
メルフ・グラネッタは呆けてしまうような気分となった。
少女の強い想い。
決して諦めない意思の力。
それは……父親であり兄であった少年を見ながら、いつもいつも羨ましく思っていた気持ちを思い起こさせるものだったからだ。
砕け散った絆と思い出の中に今も燦々と降り注ぐ太陽の如きもの。
停滞に沈み。
諦観に淀み。
何も考えずにいられるよう騙し騙しやってきて。
今更に……見知らぬ少女の前で虚しさすらも吹き飛ばすような鮮烈な姿を見せられて、思う事などないはずなのに……聖女の拳は白くなるまで握り締められる。
(これがあなたの選んだ人なのかな。メルフと違って、この子は諦めたりしないんだろうな……ティア……)
途中で少女の事を無視して、少年を破壊する事が今の彼女には出来る。
そうだ。
七聖女中、真に最弱なる者。
彼女は何もかもを同化出来る。
思いつく限りの全てを同化する能力。
それは仲間達の力すらも扱える最高の複製能力なのだ。
これがあれば、魔王を壊すことも容易だろう。
それで全てが上手く治まるだろう。
なのに、そう合理的で当然の帰結は分かっているのに……そう出来ない。
もしも、彼女がフルーなら、躊躇はしても容赦なく、彼の器を葬り去るだろう。
もしも、彼女がソィラなら、笑って笑って笑って、涙を零しながら叫び続けて拳を振るうだろう。
もしも、彼女がユアンなら、容赦はしても躊躇無く、過去の弟子を消し去るだろう。
もしも、彼女がクラルなら、容赦も躊躇も涙すらなく、己の幼馴染を屠るだろう。
もしも、彼女がハティアなら、躊躇と容赦をしながらも、心で泣いて討ち果たすだろう。
もしも、彼女がミュルトなら、泣いて震えて歯を食いしばり、それでも最後にその手を下すだろう。
ても、彼女はその誰でもない。
七つの奇跡を使えたとて。
メルフ・グラネッタは自己であり続ける限り、聖女の誰にもなれはしない。
何もかもから逃げ出して、目を閉じ、耳を塞ぎ、何も語らず。
ただ、停滞に蹲る。
臆病者で、自堕落で、嫌な癖に無視も出来ないから……だから、彼女は聖女中最弱なのだ。
その決められない事、山の如く。
その諦める事、凪いだ海の如し。
「……勝手に探したらいい」
「え?」
振り返る少女に聖女は背を向けて、両手を組んで頭を抱え、目を閉じて、虚空に揺れる。
「メルフ。もう眠くなっちゃったから……終わったら教えて……」
本来、敵であろう相手。
聖女と呼ばれていた彼女を前にしてエストリアは心を過ぎ去る全ての感情に蓋をして、頷く。
「こう言うのは変なのかもしれません。けど、ありがとうございます」
「………」
二人の困った少女を前に“魔王”は「ああ」と思う。
ようやく少年の願いが世界に届いたのだろうと。
それはもう随分と昔。
消えてしまったはずのもの。
いつもいつもいつも、誰かとの約束を、願いばかりを追い求めていたから。
打ち棄てられてしまったもの。
誰とも分かり合えたらいいと。
自分の大切な人達と一緒に生きていけたらいいと。
そう思いながらも、叶わぬからと切り捨てられた気持ち。
「ぅ……おい。まだ、戦える、ぞ……イクスの野郎、は……どうなって、る?」
「イ、クスは……エストリアさん!!」
立ち上がる男と女。
それを少年が見たなら、嬉しくて笑っただろう。
ずっと誰かの為に立ち上がってきた少年はいつだって、誰かを救う側だった。
砕けた身体で進む時、その痛みに抗う度、弱い己を押し殺してきた。
でも、だとしても、少年とて人間なのだ。
人間であろうとしたのだ。
決して、神でも魔でもなく。
ただ一人の人として……魔王を名乗り続けたのだ。
だから、言えなかった。
伝えられなかった。
耐えられてしまうから、そうするしかなかった。
声を出して誰にも訴えられなかった。
それを強さとは言うまい。
誰だとて、涙を零し、助けを求める権利があるとするのなら。
七教会が言うように人権とやらが人々にあるとするのなら。
悪人だろうと善人だろうと。
魔王にだって、それはあっていいはずだ。
苦しんだら、助けてと言える強さ。
悲しんだら、慰めてと言える強さ。
それはきっと弱さではないのだと。
そう言える世界と状況であったなら、きっと少年は今ほどに擦り切れてはいなかった。
(本当は誰かに立ち上がって欲しかった……本当は誰かに大事にされたかった……本当は誰かに救ってもらいたかった、助けてもらいたかった……とても、当たり前の事を……して欲しかった……)
言葉にならないもの。
きっと、今胸を穿つものがそうなのだとすれば、まだ自分は“魔王”と呼べるのかどうか。
そう、少年だった者。
いや、少年が成るはずだった者は苦笑する。
(世界の中心で何を叫ぼうと届かないはずだった声は……届いたかな……君の望む未来で……)
振り返る三人の仲間達。
その視線に“魔王”はそっと事実を呟く。
「一時間。それがこの世の終わりまでの猶予だよ」
小さな希望にも満たない可能性。
それが告げられた時。
アイウィスはゆっくりと全てが引き伸ばされて停止する宇宙の終わりの最中を動き出す。
四つの光の柱が現実へとその吃驚箱を引き寄せていく。
【ひひひ】
何処からか声がする。
それは未だオリジナル・アイウィスの空に浮かび。
ぼんやりとした顔で黄金の仮面を被り、少年を見つめるダークエルフの少女の耳に響き。
【どうする? どうする♪ ナーリヤ、楽しみ!!】
その未だ依り代として魂の全てを外なる神々に占有されている彼女の拳を握らせた。
【お散歩♪ お散歩♪ ひひひひひひひひ♪】
今、少年を守ろうとする彼らの戦いが始まる。
それはきっと何もかもを諦めた男にとって幸せな時間に違いなかった。
慰められたと言いながら。
助けられたと言いながら。
十分なのだと言いながら。
ありがとうと言いながら。
泣いてしまいそうな笑顔で戦い続けた者にとって、それはきっと一つの言葉で呼ぶべき事だ。
特別な力なんかではない。
特殊な能力でもない。
一重に誰もが持ち得る良心と善意。
ずっとずっと、それを前にして、抗いながら、血を流しながら、戦ってきた彼にとって。
それが自分に背を向けて、何かの前に立ちふさがっているのだとすれば。
それこそを……奇跡と呼ぶ事は当然に違いなかった。