第三章百十七節「恩讐」
男が老人と呼ばれるようになるまでに幾多の困難が亜人の国を襲ってきた。
人よりも善き存在になろうと亜人貴族主義が掲げられて後。
人は進歩してすら悪徳を捨てず。
世を平らげる勢いと業の中に埋没し続けた。
生まれて青年となるまでに他国との大規模な会戦が数度。
子供心に焼き付いたのは戦場に向う無言で歩く男達の姿。
煤けた外套を身に纏い。
傷だらけの身体に得物を下げ。
甲冑や胸当てを纏って出陣する兵士達。
戻らない隣人がいれば、咽び泣く老母も肩を落とす老父も幾多。
しかし、だが、しかし、彼らは決して無駄に死んだのではない。
祖国の独立を守り。
亜人の楽園を護り。
己の理想を貫き通したのだ。
徴兵制というものは亜人の国に無い。
誰もがただ己の家族を、資産を、領土を守る為に志願した者達だ。
帰ってこない者達に敬礼し、曇り空に敬礼したのはいつの日か。
激化する戦乱。
夢を見るように鍛え、己を磨いた。
初陣で敵将の首を取り、同時に父が亡くなった。
敵兵の包囲を挫き、逆包囲する為の攻勢発起点を守り切り、最後まで背後を振り返らずに死んだとの話だった。
死体は魔術で跡形も無く消し飛ばされ、残ってはいなかったが、受け継ぐべきものが出来た。
死線に立つ事、三十四回。
会戦に立ち会う事、十八回。
千切れた腕と足を繋げる事、三回。
その長い長い戦いの記憶は今も胸を焦がしている。
老人と呼ばれるようになっても、変わらず。
やがて、戦友が8人もいなくなった頃。
訪れた平和。
この大地を見守り続けると男が誓って、どれだけの年月が過ぎただろう。
彼もまた受け継がせる立場となって、今更に思うのだ。
祖国の美しさ。
一族の誇らしさ。
夢見るように燃えて散った幾多の男達。
その背中を追い掛け、走り続けて、いつの間にか追い越し、今度は後ろから自分を誰かが追い抜いていく。
だから、死ぬ事は怖くとも、歩んでいけた。
これが最後の戦い。
空間を幾度となく突き抜け、辿り着いたのは今や瓦礫となった街並み。
建造物の大半が津波の如く押し寄せる屍蝋の仮面を付けた器物の大軍によって破壊されていた。
その最中、唯一持ち堪えたのだろう者達が膝を付かせて、未だ残った銃器を化け物達に撃ち放っている。
もはや手足でまともに動くところが無いのは明白。
大軍を前にして前進を僅かに遅滞させているだけに過ぎない。
弾丸が尽きるより先に限界を迎えた男達が失血や怪我で命を燃え尽きさせる方が早いだろう。
首都方面から集まりつつある化け物は数える必要も無い。
ならば、出来る事は限られている。
上空からの落下中。
彼らが護る大きな二階建ての四方に符を四つ投げ、結界を張る。
小物が幾多集っても、群がり切られるまでは持ち堪えられるだろうものだ。
そして、弾丸が尽きた瞬間。
何とか化け物達の流れの前へ落ちる。
「ヌゥゥゥンッッッ!!!!」
久方ぶりの全力。
魔力は符から供給される借り物。
装備は外套、制服、諸々のあらゆる数値をただ耐久力に特化させて作った特注品。
腕力は最盛期の8分の1以下。
それでも研ぎ澄ました技術は魔力の漲る身体に宿る運動エネルギーの全てを予定していた通りに大地を穿ち……周辺の大地を捲り上げて、横幅300m、縦30m近くを行軍困難な地形へと変える。
上がる莫大な土埃の中。
霧と還った化け物達を前にまだ呆然としているらしい男達に方へ符の束が入ったケースを投げる。
「短距離だが、連続で転移すれば、すぐじゃろう」
『来てくれた!? 助けが、来たッ?!!』
涙声になっている暇も無いだろうに、と彼は苦笑して告げる。
「お前さん達が撤退するまで必ず此処を護り切る……亜人を、国家を、理想を、隣人を、人すらも救え!!!」
『―――あなたは!!?』
「お前さんらが次の時代を創るのだッッ!!! 往け!!!」
『ありがとう、ございますッッッ!!!!?』
男達の気配が肩を貸し合いながら遠ざかっていく。
それを感じながら、大軍の奥の方に見えた敵の様相を思い出した。
家具や刃物などではない。
それは確実に建造物クラスの化け物。
敵の数を減らし、大物を叩き、全ての人員の撤退まで時間を稼ぎ切るとなれば、避けては通れぬ難題だろう。
煙の先から再び行軍を開始した化け物達の姿が見える。
上空から殺到する刃物の群れが見える。
伸ばされて今にも自分を打ち据えようという無数の鞭の如き腕が見える。
黒く迫る者達を前に落ち着いていられる自分の図太さに笑う。
「さぁ、こちらもやろうか」
撃ち放つ打撃は【空撃左官陣】の一派生。
波動によって超高速での打撃を別の場所へ即座に送る防御陣には、あらゆる攻撃に対しピンポイントで迎撃を可能にするソレには、幾らでも使い道がある。
例えば―――殺到する攻撃を全て見切っていたならば、その攻撃の一部の軌道を変える事で一方向に向って放たれたものを好きな位置に落とす事が出来る。
昔はよく弩弓や敵軍からの魔術を誘導していた。
「【送導誘撃陣(そうどうゆうげきじん)】」
数千は落ちてくる輝く刃の数十本がこちらの波動置換打撃によって軌道を変えられ、他の刃を巻き込んで、ガチガチと甲高い連鎖音を響かせながら、更に攻撃全体の軌道を変える。
同じ手法で刃の群れの表面層を下に逸らせば、それが今度は下層の刃を下に傾けるようにして落ちていく。
連鎖する刃のぶつかり合いは攻撃を本来の目標地点より遥か手前へと誘導し。
今正に突撃を掛けて来ていた屍蝋の仮面達の頭上へと降り注ぐ。
椅子、机、服、箪笥、諸々が次々に上からの同士討ちで串刺しにされ。
化け物達が霧へと還っていく。
本来は矢や単純な攻撃魔術を逸らせる為の技だ。
射出速度と運動エネルギーが打撃で曲げられない程のものでなければ、あらゆる角度からの遠距離飛翔体を迎撃出来る。
だが、しかし、その光景を見ていながらも、化け物達から送られてくる遠距離攻撃の量は変わらなかった。
攻撃を避けるという程度の知能はあるとしても、攻撃を止めるという高度な判断は出来ないのだろう。
彼が手元での打撃を続けながら突撃する。
敵は前線の敵を自分達が攻撃するという状況に出遅れている。
頭部全ての瞳を開けば、この世に映らぬものなど無い。
前衛が背後からの打撃を受けているならば、前からの攻撃は正に挟撃。
討ち漏らした刃の刺さっていない敵を駆け抜け様に遠距離打撃で破壊し、自分の位置をラインとして左右から敵を一掃していく。
その押し上げの限界は相手の攻撃の誘導が難しくなる距離の手前まで続いた。
止まったのは津波の如き軍を40m押し戻して後。
少しずつ遠距離で攻撃を仕掛けていた屍蝋の仮面達が近付いてくる為、攻撃自体に宿る運動エネルギーが打撃で誘導するには厳しい。
絶え間ない打撃と誘導で圧倒的大多数を牽制する。
それにも限界は来る。
しかし、次なる一手は既に手中。
「フンッッッ!!!!」
足をその場で大地に叩き付ける。
踵から伝播させた衝撃は容易に街の下にあるものまで届き。
踵から伸ばした積層魔力が枝の如く伸び、逆巻く竜巻の如く成長する。
割り砕いた岩盤の下に通っている水脈が砕かれた岩盤を通って昇ってくる。
そして、水脈よりも下に到達した枝の先から全ての魔力が転化し、水を急激に熱する。
地下から湧き上がるソレは出口を求めて地表へと向い。
巨大な水蒸気爆発として発現する。
「【盤台崩枝(ばんだいほうし)】……」
射程3000m強。
範囲2km四方。
敵行軍中の地表全てが凶器となり、地下から間欠泉のように水蒸気と岩が噴出す。
弾け飛び、散らばり、砕けていく化け物達の霧が吹き付けてくる。
瓦礫の中に何千屠ったのか知らないが、それでも未だ敵の数はまだ半数も失われてはいない。
「ぬっ?!」
遥か遠方の景色に腰から符を引き抜いて、彼が前方に放る。
途端だった。
数km先から耀きが吹き伸びてくる。
「くッ」
襲い掛かってくる眩い熱量。
ソレは崩壊した前線の味方を薙ぎ払って、未だ濛々と上がる水蒸気の中を進んで来たからこそ、符で受け切れたのだろう。
強烈な熱に衣服が僅か焦げる。
外套自体にも魔術的な防壁はあるが、それを透過してくる程のエネルギーは正しく脅威。
フッと光が消えた時には治療用の魔術が発動し、皮膚の火傷を治し始めていた。
瞳を咄嗟を咄嗟に瞑った為、被害は無い。
遠方の奥にいる一際大きな建造物の如き敵。
その中に砲門らしきものがシュウシュウと湯気を上げて赤熱していた。
ソレから前方にいる化け物は完全に熱量で地面毎蒸発しているようだったが、それでも別に問題は無いのだろう。
敵は人間ではない。
化け物が幾ら失われても問題などあるはずもなかった。
「だが、これで道が出来たッ!!」
進む。
進む。
走り出す。
男は、老人はその小さな身体で先を目指す。
左右の軍勢が自軍の自滅も気にせず男目掛けて己の一部を発射する。
そして、後方に置き去られた化け物達が次々に波動置換打撃で数を減んじていく。
背後を攻撃する事など老人にとって造作も無い話だ。
自分を向いていない敵を優先して叩けば、残るのは自分を攻撃する敵のみ。
前方からも水平での射出攻撃が放たれていたが、頭部にある全ての瞳が開眼されている限り、老人は全ての攻撃の軌道を見切る。
打撃で逸らすのは最小限。
それ以外は前進しながら避ければいいのだ。
四方八方からの攻撃。
正しくそれは個人で軍に楔を穿った故の状況。
その突端となった老人はしかし死の予感を感じながらも、決して悲壮な表情はしていない。
欠片も、本当に欠片も、その瞳に諦観は無かった。
今の身体は全盛期と比べて、まるで貧弱。
でも、だからこそ、身体を捻る動作一つにも工夫がある。
若い頃には出来なかった柔軟な発想は昔なら避けられなかった攻撃を避けさせる。
経験と技術と信頼に裏打ちされた拳の法典。
それを持つ者。
正しく老練なる戦者。
弱くなるからこそ、磨かれていくという矛盾を体現して、男は国を護る背中を手に入れていた。
『アレは……』
建造物内部で次々に転移していく男達。
元に戻った者。
意識の無い者。
重傷者。
次々に消えていく彼らは確かに見たのだ。
それこそが古き戦場で最高の戦人と吟遊詩人に謳われた者達の一角。
亜人国の防人。
蟲人アイクロソス・デダル。
敵国だった国の軍人の誰もが賞賛し、畏れた……個人で瓦解したはずの戦線一つを支え切った生ける伝説だった。
「頼むぞ……若人よ……」
熱量に焦がされ、符の入っていたはずのケースは既に背後の地表。
それも特注にしておけば良かったと僅かに笑んで。
進む事しか知らぬ青年の時のように覇気を全身に漲らせ、立ち上がる瀑布の如き蒸気を背に、彼はその巨大な数百mはあるだろう敵。
その大門に焦がし刻まれた黒き文字、曰く。
【城砦(アルセム)】
放棄された首都中心部にあるはずの白亜の城を前にして、拳を握ったのだった。
*
ハティア・ウェスティアリアには夢があった。
それは一族の弔いをしている最中に生まれた夢だ。
魔導。
その頃はまだ法術としか呼んでいなかった己の技で人々が豊かに幸せに暮らしていけるよう自らが深めた知識を教え広める事。
昔、一族が長閑な暮らしをしていた時のように再び生活する事。
いつか弔いが終わったら、そうするのだと思い。
そう出来るよう行動し続けてきた。
けれども、平和な時代に近付く度に彼女はただただ知るしかなかった。
その願いがどれだけの絶望と悔恨と懺悔と犠牲の上に成り立つ代物なのかを。
魔王以外ならば、その絶望という一点において最凶の男。
ドクトル・ファウストゥス。
彼に命を掛けて己が身の全力で掛けたはずの呪いが砕け散り。
その反動がハティアの全身を蝕む。
「?!」
死なないとしても、蘇るとしても、復元するのだと言えども、その速度は決まっている。
聖女本来の特質以上の速度は出ないし、魔導を使ってその速度を光と同等以上にしたとしても、やはり死というものは確かに彼女を捕えた。
蘇るまでの時間が刹那以下であろうとも、彼女は見る。
己の魂がこの世の果てに散らばりそうになるのを。
きっと、人生で二度目の死に違いなかった。
―――ハティア。
壊れてしまった己の中。
罅割れた万華鏡に映るのはたった一人だ。
本当に心の底から愛していると言える夫の姿でもなければ、命を掛けても護ると決めている娘の姿でもない。
その畦道を進む横顔。
険しい山岳で身を寄せ合い笑い合った月夜の晩。
今も傍にいる仲間達との思い出のはずなのに……彼女は一度とて、その脳裏に思い出せるはずの彼女達を夢に見ない。
チクタクチクタク。
何処かで音がする。
チクタクチクタク。
何処かで大きな影がヌッと筋肉を竦めた気がした。
ペキリと死と生の境界を踏み越えたような、卵の殻を割ったような、何かの突起を折ったような、そんな音がした。
次の刹那にはもう彼女の復元は終わっている。
攻撃、攻撃、攻撃。
そう攻撃を受けている。
多眼の月から大きな涙だけではなく小さな涙が無数降っていた。
その大半は背後のソィラが消している。
しかし、確認出来ない、認識出来ないものは破壊出来ないという破壊者(ワンダリカ)の性質上、それを最後まで防げるのはハティアのみ。
天蓋蒼星と本星の半球を覆うように展開している防御用の魔導方陣がその数万枚に及ぶ層を細かく割り砕かれ、儚く散っていく。
敵の覗く窓は半分以上、既に“ソレ”が見えない。
大きな罅割れの中心から突入していったクラルの様子は何をせずともあらゆる超常の力を捉え切る探査用の観測術式が拾っている。
その先の光景を一言で表すならば、地獄。
いや、天国と言うべきか。
奇跡を全開とした聖女の全力。
それが如何なるものであるのか。
この世の果てより先。
“何も無い”が支配する其処で、今さっき彼女が砕けて融けようとしていた其処で、クラルは意思と力と己の展開する魔術のみを糧に自存し、遊星物体を排除し続けていた。
敵は外なる神。
その中でも中位に相当する存在。
名前くらいは七教会が有する書物を調べれば出てくるのだろうが、今はただ遊星の如き何かと形容するべきだろう。
極めて有害な超重元素の塊であり、大質量を内包するソレは物理法則が適応される宇宙側に迫り出せば、その瞬間に自重で圧壊して黒天(ブラックホール)になるか。
あるいはその発する引力によって星域全体の空間を歪めてしまうだろう。
数十では利かない敵の数は窓の先で力を振るい続けているクラルの力を観測すれば、容易に分かろうというものだ。
仮にも唯一神の能力を手に入れた存在が全力で戦っていながら、状況から出力は極めて低く抑えなければならないとしても、排除し切れていない。
これはつまりあちらは侵食能力の極めて高い主神級の存在ばかりという事に他ならない。
(このままじゃ……ファウストの事も放ってはおけないのにッ!?)
先程、天蓋蒼星の背後。
月の裏側へと放たれた光。
月の龍達が管理する遺跡。
門から飛び出した光球。
そして、男が復活したという事実。
これらを彼女が複合的に考えれば、相手の周到な準備がすぐに分かった。
門は時空を司るモノ。
それから引き出された事象はきっと過去の何処かに繋がっていた。
状況から考えて、今現在の七教会の置かれた現実は最悪へと進む途中。
無限にも思えるような魔力の特性を重ねた極彩色の気配……地表で確かに確認した男の表情は姿こそ変わっていたが、最後に戦った時と聊かも変わっていなかった。
(彼が何かを仕込んでいたならば、西部での一連の出来事にもきっと絡んでいた。私はまた……誰かを犠牲にしてしまったのかもしれないんですね……)
本来ならば、ファウストゥスを殺すか封印する為に即座行動しなければならないのは自明。
しかし、この状況下で不用意に仕掛ければ、男が外なる神々を利用して何かしないとも限らない。
それが出来る力量で唯一、彼女に魔術という一点で比較対象となるだろう男へ攻撃の一つも行えなかったのは歯痒くはあったが、正しい決断に違いなかった。
彼が消えて後。
大陸の状況は破壊者の歴史干渉によって落ち着きつつある。
しかし、それがいつまでも持つかと言えば、答えはNOだ。
今現在、割り砕かれている方陣は破壊者(ワンダリカ)によって知覚不能だった攻撃を受けている。
状況が少しでも変われば、破壊出来ない歴史上の事実が出来てしまう可能性は高い。
また、歴史への干渉はソィラ当人を極めて宇宙に有害な存在として認定するものであり、世界の恒常性によって、別の時間への排除、個人への何らかの干渉が発動される可能性を高める。
とにかく使わせ続けるのが危険過ぎる奇跡なのだ。
甘え続けたツケに処理不能の歴史上の矛盾として存在を凍結されてしまう、という線も捨て切れない以上、早めに決着を付けなければならなかった。
『ソィラ』
『はいはい。何よ?』
魔導で繋げた音声はクリアーに彼女の耳元へ響く。
自分が一度死んだ事はきっと知っているだろうが、何も言わずにいてくれる相手に優しさが心底、今のハティア・ウェスティアリアには染みた。
『四十秒持たせて下さい。今からフルーに託されたものを使って封をします。防御方陣がクラルの掃除終了まで持ちません』
『了解。じゃ、任せたわ』
地表でずっと空を見続けていたソィラが腰から符を引き抜いて翳し、すぐさまに転移する。
その先は本星と月と天蓋蒼星と多眼の月が全て見える真空の最中。
『存在抹消レベルで、あの月モドキを囲むわ。ただ、一分持たないわよ。主にアタシが世界にどうこうされる方が早いだろうから』
肩を竦める姿は事も無げだ。
しかし、その恐ろしさは当人にしか分かるまい。
世界そのものを敵に回してしまうかもしれない力で人々を救済し続けてきたのだ。
己が消えるだけならまだいい。
今までの破壊が無かった事にされれば、この数十年の歴史の大半は九割以上消え去るに違いないのだ。
そんな重みを知っているソィラが、その重圧を常に己の心で受け止めている事をハティアは確かに知っている。
『分かってます。それまでには必ず』
『……これが終わったらユヒアちゃんのところへ遊びに行ってあげなさいよ。さすがにこんな大物の後じゃ、心配になってるでしょうから』
『ソィラ……』
真っ先に倒した後の被害を考えていた自分とは違い。
娘の事を案じた仲間に彼女は自分もまた誰かの家族なのだという事を忘れていいた己の不甲斐なさに拳を握った。
『分かりました……その時は一緒に……遊びに行きましょう』
『あはは。じゃあ、とっておきのお酒持ってくから』
『あ、いえ、その……やっぱり、クラルかミュルトを連れて行きます。教育方針的な意味で』
『はいはい。じゃあ、酒精抜きのスパークリングでも持ってきますよっと♪』
適度に緊張が解れた。
昔から、本当に昔から、視野が狭くなると自分に進むべき道を示してくれるのは聖女中もっともちゃらんぽらんと言われた彼女だったのだとハティアは内心で感謝する。
『ではでは、五秒後から行くわよ』
『はい!!』
『4、3、2、1、今!!』
多眼の月の光景が瞬間、途絶した。
其処にあるはずのソレは黒く黒く光さえ無い漆黒へと塗り換わる。
落ちてくるはずの涙雨はその薄い膜のようなものに当たって、次々に存在を抹消されていく。
それを見つめながら、天蓋蒼星側の真空の海でハティア・ウェスティアリアは……フルーによって持たされたソレを自分の横へと空間を割って引っ張り出した。
それは数mもありそうな鋼色の球体。
嘗て、五年前にソレが七つ結わえられた円環がフルーの手によって運用された事は彼女達も聞き及んでいる。
今後の世界の動向を左右するモノ。
【封星質量器(ステラ・ファブリカ)】
その一部だった。
空間制御技術の極北。
【無辺空間制御(イメンサ・マンデータ)】
それを使用して世界とすら言える惑星を運用するというスケール故にマッド聖女が自分以外に触らせなかったソレが一部とはいえ、ハティアの手にある。
メルフが率いた【外宙碩学師団】によって数十個確保した内の一つだ。
フワリと彼女の手が上に伸ばされ。
同時に頭上へと移動したソレが三次元式の魔導方陣によって覆われていく。
―――全ての荒ぶるものものに告げる。
―――世の剣の翳り。
―――隣(りん)の憐(あわれ)に涙せよ。
―――救い主来たらず。
―――森羅万象潰えたるを偲び。
―――今一度の花を得んが為。
―――我、此処に人代(じんだい)を闢(ひら)かん。
その時、地表より空を見上げていた全ての者達は空に一つの光を見た。
それは多眼の月を覆う奇跡の皮膜が見える半球だけの話ではない。
その惑星の裏側からだろうとも、確かにソレは確認出来た。
陽炎のように全ての人が見上げる先へ仰ぎ見るモノ。
嘗て幾度かその光を見た者はいた。
膨大な人が死に絶えた戦場で。
今も死に往こうとしていた誰かの傍で。
理不尽に消え去っていく砕けた街の最中で。
終わりも無く神に魔に人に罪に悪に蹂躙され尽くした時の終わりに。
「さぁ」
金糸の髪を揺らして。
その閉じられた瞳の端から一筋、蒼い涙が伝った。
旧い旧い伝承の中にもその光を見る者がいるかもしれない。
古の時代。
まだ、魔術が人の手に無かった頃。
異種や神より賜った術を手にした者達。
その法術師の一族を人々は【稀呪(ヴィクス・マギア)】と呼んだ。
彼ら術師の一族とて、その類は千差万別。
しかし、一つの事だけは共通していた。
彼らの偉業を示す伝説の中にはこうある。
『彼(か)の者、己が身の限りを尽くす時、彩の涙を零さん』
それは血統に刻まれた魔力と感情の色。
我が身の全てを捧げる覚悟を持って術を編む者だけが流す。
生涯一度の大魔術を織り成す魔力の結晶。
「終わりにしましょう」
少女が瞳を開く。
無限に等しい色が彼女の虹彩を染め上げていく。
それは先程、地表で己の力を取り戻した男の魔力と同じ。
いや、それよりも鮮烈さを宿す耀き。
蒼き雫を皮切りに二つの瞳から流れ出し続ける無限色の筋が化粧となり、貌と肉体を彩っていく。
身体に描き出される文様。
それは言わば、彼女の歴史だ。
どんな時代にどの術を修めたのか。
生まれた時から数えて。
今の今までに織り成された彼女の叡智の全てが露となって衣服の下から煌々と浮き出る。
その細い線の一つ込められた情報の密度は何兆、何京、何乂を超えて更に積み上がり。
無限と呼ぶに相応しい力を少女に与える。
昔々、そんな奇跡を使わなければ、何も出来ない戦場があった。
誰かを救う為に戦う為に“救わなかった彼女”が開眼したのは……ただ何かしらの能力を増加させるだけの奇跡。
使用限界時間666秒。
倍率は数割や数倍やなんて桁ではない。
1秒において1乗。
つまり、桁が増えていく。
それが666乗まで続く。
それだけの力。
人類総数が抱える因果。
その有限の過去、刹那の現在、無限の未来、その全てを救い尽すだけの能力。
彼女の姿を見た者達曰く。
それは彩なる乙女の涙。
「【大魔涕(マグナ・フレト)】」
膨れ上がり続ける力が真空の海を渡っていく。
星が繋いだ光の筋が緩やかに解け、星域の果てまで光より早く精緻に陣を縫い上げていく。
宙というカンバスに描き出されるのは未だ知覚する者も殆ど無い天文単位魔導方陣。
それを知る者は誰もがこう感じるだろう。
これはきっと童女が編んだ形。
東部で言うのならば、紐を使った遊びの一つ。
綾播取(あやはとり)。
だが、星の上から全てを見る誰もが同じ事を思った。
今、きっと神様が星と星を結んで座を作っていなさるに違いない、と。
【星結縫座廊(アストロノミア・アンドロン)】
大戦末期。
神域の魔導聖女が編み出した最大規模の大魔導方陣は確実にたった数mしかない星の殻を中心にして編み上げられ、限界近くまで能力を使って姿が消えていくソィラの奇跡が消えた刹那。
その“窓”を直撃した。
耀く陣が捻じれながら窓の中心に引き込まれていく。
それはさながら多眼の月に突き刺さった瓢(ひさご)へ星が吸い込まれているような光景に見えた。
星系すら網羅する陣の生み出した魔力の全てが完全に制御され、“窓”に開いた罅割れの中心で回転する鋼の球体に注がれていく。
そうして、その時はやってきた。
欠けていた多眼の月が内部から白く白く濁り、まるで本物の月のようにその全景を露にしていく。
それは第二の月と言っていいだろう。
己に内包された魔力で穏やかに耀き、月や天蓋蒼星と連なって三連星のように運行が開始され始めた。
正しく窓を全て覆う星の戸。
重力の均衡を保つ門はこの世の果てと宙を隔て。
クラル・リテルの帰還を待たずに閉ざされたのだ。
世紀の大天体ショーと言ったところか。
ただ呆然と呆ける人々だけを残して。
宙での戦いが終わった。
「ソィラ!!」
すぐさまに姿の消え掛けた仲間の傍に転移したハティアが、常の姿を取り戻して、唇を噛む。
「何て顔してんのよ。ちゃんと救ったじゃない。誇りなさい……あんたはまた沢山の人を助けたんだから……」
「でも!!」
「ま、そう遠くまでは飛ばされないでしょ。過去か未来か。分からないけど、待っててよ。クラルの方が先に帰ってくるかもしれないし」
「……待ってます。待ってますから!!」
破壊者の反動。
世界からの修正が危険物を別の時間へと運んでいく。
消えていく姿はもはや幻。
それでも最後までソィラ・ミクラはニカリと笑っていた。
「あ、フルーに言っておいて。この借り、高く付くって」
「はぃ……約束忘れないで下さいね……」
『うん。じゃあ、またね。ハティア……』
フッと全てが幻影だったかの如く。
七聖女一ちゃらんぽらんな彼女が消え去った。
それを見計らったかのようにハティアの耳へ声が響く。
『それで正解よ。其処の戸閉まりはしっかりとね。こっちはまだまだ掛かりそうだから、気にしないで』
「クラル!! 大丈夫なんですか!?」
『当たり前でしょうに。そっちに帰る時は遠回りで天界に直接帰るから。其処は永久封印にしておきなさい。フルーと貴女にしばらく教会は任せるわ。自分のやりたいようになさい』
「クラル……」
『二人でもやれるわね?』
「当たり前です!! 私は、私は七聖女ですから!!」
『よろしい。後、光の柱の事だけれど、どうやらこっちまで届いてるようね。本体の方にちょっかいを掛けてみるわ。ただ、規模的に今相手してる連中よりずっと大きい……期待はしないで……そちらで何とかなさい』
「分かりましたッ」
『じゃあ、通信は落とすわよ。じゃあね』
「はい……待ってます。クラル」
通信が途切れ。
今までの激戦が嘘のように沈黙が真空の海に落ちる。
仲間達が助けてくれて、ようやく封じ込めた。
己の不甲斐なさを噛み締めて、彼女が四本の光の柱に対処しようとした時だった。
刹那、その胸から二本の刃が飛び出す。
「ぁ……?」
魔導方陣による多重防御。
魔術師の基本はハティアも然して変わらない。
だが、その質も量も抜ける攻撃はこの世に殆ど無い。
それこそ外なる神か。
同じ聖女。
もしくは彼女に肉薄する技能を持つ者だけに可能な特権だ。
通常、聖女は心臓を貫かれた程度では死なない。
それどころか。
通常と同じ行動を取る事なんて朝飯前だ。
そのはずだ。
しかし、彼女は自分の肉体がジワジワと機能不全に陥っていく事を確認した。
治そうと彼女の能力と魔導が怖ろしい勢いで稼動している。
先程、閉じた奇跡すらも再開されようとしている。
だが、その悉くが何故か原因と詳細の分かる不具合で破綻を来たしていく。
そして、破綻を修復するはずの多重の保険に当たる魔導までもが機能不全となっていく。
一体何が。
そう、彼女が思考するより先に真空で済まなそうな男の声が響いた。
「聖女ハティア・ウェスティアリア。悪いですが、今しばらく貴女には眠っていて貰いたい」
「?!!!?」
その聞き覚えのある力ある響き。
僅かに振り返ろうとした彼女の瞳がゆっくり、ゆっくりと……その主を視界の端に収め。
「――――――」
「因果断絶。此処で貴女を落とします。ハティア・ウェスティアリア」
少女の声。
その刃の能力に覚えがあった彼女はもう一つの声の主が誰なのかを悟る。
「蒼、穹のッッ?!! ごふッッ?!!」
血が吐かれた。
本来ならば、その血を糧にして儀式術の十や二十は発動させられるはずだったが、あらゆる手順が何処かで必ず破綻していた。
煤けた外套に百合の紋。
蒼い瞳の少女はその手にした刃を更に抉り込む。
「あぐッッ?!!?」
「彼が持っているのは最後の審判において唯一神が振るはずだった刃。要は業罪を裁く神器です。我が【魔刃(ベネフィシア・グラディオ)】と合わせれば、如何な奇跡とて意思と因果を同時に絶たれ、機能を保てない」
蒼穹の騎士。
魔王に唯一付き従い。
十数年前の戦いにおいて彼女達が最後の難関とした大結界を敷いた少女。
「ル、ヒ…サヤ……トネ……あ、なたが、マロ―――」
「お喋りは結構」
刃もそのままにハティアが後ろから突き飛ばされ、その先に転移方陣が浮かび上がる。
『彼が味わった絶望をようやくその身で贖う時が来ました。貴女も少しは知るといい。己の愛する者に貫かれ、裏切られた時……それでも人を愛し続ける事がどれだけの苦悩と諦観に襲われるものであるかを』
全ての因果を限界まで断ち切られ、運命糸(リネア・フェイティ)を切り離された少女は己の中から記憶と情報が失われていく事を自覚して―――奈落の底へと落ちていく。
「サヤトネ。これで借りは返しました……」
「ええ、“マウロ”……後は“奥さん達”の下へ帰ってもらって構いません」
方陣に飲み込まれる刹那。
今、消えつつある己の全てを総動員し、彼女は……自分をチラリと見て……僅かに済まなそうな表情で顔を逸らし、敵であったはずの騎士と話している……己の騎士を……見た。
その顔、その体、その姿、例え七教会の制服を着ていなくとも、確かに彼女の愛する人と寸分違わない―――。
「私は私の正義と“愛する者の為に”……もし、次に会う事があったなら、貴女の憎しみも悲しみも全て受け止めましょう……“七聖女”」
「―――ッッッ?!?!」
その宣告を行う彼の後ろで底冷えする瞳が言っていた。
お前は果たして耐えられるのか?
耐えたとして、その先であの少年程に戦い続けられるのか、と。
(ソィラ、クラル、フルー、ユアン……私は……私は……ッッ)
方陣に呑み込まれていく肉体が消える寸前。
七聖女ハティア・ウェスティアリアは確かに脳裏で声を聞いた。
それは今、自分を刺し貫いた愛する人でも、魔王の従者のものでもない。
―――ハティアが困ってたら、きっと僕が助けるから。
そんな、いつかの約束を無邪気に呟く少年の……優しげで穏やかな声だった。
ぁ、ぁぁ゛あ、ぁぁぁあああああぁ゛あァaa゛aaaaあああああ゛あ゛あ゛ああa゛aaぁあああああぁあぁあぁあaa゛a゛a゛aAaaあああ゛ぁ゛あ゛あああああ゛ああぁああ゛あ゛あ゛あ゛ああああああ゛あ―――。
その日、ハティア・ウェスティアリアという少女は七聖女一影の薄い存在へと転落した。
彼女が何処にいるのか。
誰も、誰一人も、知る者は無かった。