第三章百二十節「无儚餐爾Ω」
両腕の無い老人が一人。
巨大な蛸足。
いや、触手の欠片を横にして壁に背を預けていた。
彼の目の前には今まで戦っていた施設の外側。
異相がよく見えている。
半壊したキューブ状の七教会謹製の最終兵器。
奇跡を生み出す機関を中枢に据えたソレは今も所々から炎や煙を噴出させながら、異相内部を膨張しながら移動するアイウィスの壁面でまだ辛うじて原型を保っていた。
中枢が剥き出しになった施設の鉄骨や瓦礫に身を預けた老人の手前には肥大化した敵、だったものが屍を曝している。
外なる神々の一部だ。
巨大な触手お化け。
陳腐な言葉にすれば、そういう代物だった。
黒猫と共に共同戦線を張った老人、ミゲール・リニャンは途中までは何とか超絶生物達の戦いに喰らい付いていたのだが、それも終盤まで持たなかった。
黒猫が自ら毎、大半の敵を別空間に転移で飛ばし、残った軟体生物っぽいソレを相手に延べ数千合打ち合った結果が今の状況だ。
敵は巨大化と同時に侵食を駆使した質量攻撃を繰り出し続け、老人はそれを軽やかにいなし続けたのである。
槍一本だ。
侵食の乗った媒質そのものを切り裂き。
敵の触手を切り刻みながら、散らし……戦い抜いたが、老体に鞭打っての戦いは限界を迎えた。
指一本動かない。
それでも相手は討ち果たしたのだから、これで邪神を一人で狩った男、という箔が付く事だろう。
死んだら祖国の国葬で盛大に宣伝材料にされそうだと苦笑する余裕はあったが、さりとてもう護り切れないのは明白。
次の敵が来ない事を老人は祈るしかなかった。
『小僧。よくやった……人間の分際で素晴らしき成果だ。一角の魔族が賛辞を送ろう』
『然り。然り。中々どうして美しいものだったぞ。坊主』
『くくく、よもやこのような場所で人の真髄の一極を見る事になろうとは』
『さて、時間だ。三分どころか。数十分を稼ぎ切った貴様の成果を見るがいい』
老人が視線に未だ存在する罅割れた鋼の柱で構成された円状の機関の中央。
剥き出しの特異点に暗い質量を持った光を認める。
その周囲には四つの紅玉。
時間と共に水晶玉が燃え上がるようにして昇華されたものを見た。
ソレの回転と共にグラグラと柱がピストンを早めながら、その黒く耀く特異点を波立たせる。
『この炉は奇跡を無限の重力井戸より組み上げる仕組み』
『ならば、形を本来に近付け、炉へ全てを飲み込ませればいい』
『奇跡の運用……本来的な使い方は面倒過ぎる手順がいるのでな』
『まぁ、屍蝋の化け物共を排除するだけならば、問題ない』
『重力子(グラビティーノ)制御開始』
『慣性制御開始』
『ふむ……面倒だ。顕現形態はそこの蛸でよいか』
『対象の補足、捕獲と吸引を開始』
『さぁて、世界の外にお帰り願おうか。神々の眷属達よ!!』
宇宙終焉シナリオ。
極限の空間膨張によるあらゆるエネルギーと物質の低減で今も砕ける最中である無限にも等しき化け物達が急激にアイウィス側に引き寄せられていく。
その巨大な事象を殆どの者はまともに知覚しなかったが、銀河規模のマクロな視野を持つ者ならば、触手の如き形を現した重力異常が化け物達を絡め取って、七教会の施設内部へと引き込んでいったのが分かっただろう。
怒涛の如く押し寄せる化け物達は声の一つも上げられずに圧縮されながら渦を巻き。
特異点内部へと吸い込まれていく。
その際、ようやく活動を再開出来た刹那の断末魔が周囲にはまるで巨獣の鳴き声。
生物的な絶叫にも煮た管弦楽器を出鱈目に掻き鳴らしたような音色として響いた。
『順調順調。ふむ……だが、やはりこの都市本体を破壊出来る程の出力は得られないか。暴走させても面倒事となれば……此処は一つ』
紅玉の一つが思案した時。
彼ら四人は巨大な加速を感じて、もう現実へアイウィスが衝突するまで幾許も無い事を悟る。
『やれやれ。最後の審判がもう来るのか?』
『間に合ってはいるだろうが、何かを見逃したか?』
『どうやら、現実側で動きがあるな。書架を覗いたが、顕現していた柱共が砕けるようだぞ』
『ほう? それならば、可能性はある。同時にこのアイウィスとやらを破壊してみるか?』
『やってみよう』
『あの小娘との約束だ。外なる神々を使ってでも、世界を独り立ちさせる。新たなる世界よりも、我々が愛した世界を……か。くくく……』
『まったく、世界を護るとは……とんだ“悪い魔族”だな』
『他人の不幸は蜜の味、と言うらしいぞ』
『ああ、あのお歴々が蚊帳の外に置かれて歯軋りしているのを想像すれば、悪くない。いや、実際悪くない!!』
『救世主か……さて、貴様はどちらを選ぶ? あの小娘が預言した通りか。それとも……』
老人がいるのを忘れたように紅玉達がその時を待ちわびる。
そうして、時が来た。
現実への衝突。
瞬間、接触面側にあった鋼のキューブ。
施設が緊急展開用の魔術方陣の内部で空間と空間の接触、境界の崩落に伴う物質の超加圧と魔力や世界の構成要素の急激な変動で起きた爆発と熱量の噴出と衝撃によって融けていく。
しかし、数秒後。
現実を打ち破り、大陸を破滅させるかと思われたアイウィスが弾んだ。
そう現実側に張られた結界らしきものがミゲールにも感じられた。
閃光の中であろうとも確かな意思の通った力が現実と異相を寸断したのだ。
超高速。
正しく光の速さにも等しい速度まで加速した恒星かそれに準じる質量を持った物体が受ける反動は激烈でアイウィスが罅割れながら四つの光柱を折れさせた。
『今だ!!』
『砕けろ!! 砕けろ!!』
『ふははははははははは!!!』
『破滅は魔族の真骨頂!! コレほどまで壊し甲斐のあるモノもそうそうあるまい!!?』
実に魔族らしい充実した様子で紅玉達が掌握していた機構をフル回転させた。
それと同時にアイウィスを侵食するように広がった重力場がその極大の衝撃に砕けつつある超大規模構造を完全に破壊へと導いていく。
『成功だ!!』
『来るぞ!! 審判の時だ!!』
『【観測不能回帰点(オーバー・ラング)】が騒がしいな。やれやれ、今頃事態に我々が介入していたと理解したらしい』
『【聖杯委員会(ペルスヴァル)】と言っても所詮は最上級連中を欠いた状態。さてさて、奴らの思惑の外にある我らの出した答えは……連中が後押しする七教会とやらをどう掻き回すかな?』
『あのお利口な管理者気取り共に世界はお前らの思い通りにはならないと教えてやれるだけでも此処まで来た甲斐があるというものよ!!』
遥か構造の奥。
オリジナル・アイウィスのある地点から僅かな耀きが崩壊する空間と物質の合間を駆け抜けて溢れ出していく。
それは光さえもゆっくりと見える程の時間を掛けて異相へと満ちていった。
老人は動かない身体のまま。
白く染まっていく視界の中。
仮面達を吸い込む渦を逆流する小さな黒い影を見た。
『マ~~~~ヲ~~~~!!!』
響く声は歓びも高らかに世を伝わっていく。
何もかもを新生させていくかのような純白の熱量の最中へと意識は落ちていった。
*
『優しい言葉を投げ掛けられたんだ』
アイウィスの中心部。
未だ聖女の黄色い魔力の大地が広がる場所。
仮面は語る。
未だ眠り続けるハイダル・エス・トリアを横にして。
血塗れながらも息を整え。
己を複雑そうにしながらも見つめる蟲の青年と獅子の少女を前に。
『夢が常しえに眠るとするなら、それは魔法の言葉だった』
仮面は少年の身体で、己の表面を指先で撫ぜながら、空を見上げていた。
『謳うように奏でるように人は……この終わりの始まりへ無邪気な日々を見せた』
空は高く。
いつの間にか黄昏始めている。
それが世界が移り変わり始めた為だと残された二人にも分かった。
『遺された最後の救いと出会ってきた誰もが主役だっただろう』
風が吹き始めて。
何処からか麦の穂が頬を掠めて、彼らを中心に舞い始めた。
『もし、全てを仕組んだ者達に誤算があったとするなら』
物語の終焉が刻一刻と仮面に刻まれていく。
それは時計の秒針にも魔術の模様にも見えた。
放射状に罅割れるような光の筋が空間までも食み出して、何処までも広がっていく。
今更、此処から逃げられるはずも無く。
逃げる気など無く。
青年も少女も己が罅割れる筋に飲み込まれるのを良しとした。
『彼らは知らなかったんだ』
「何をだ?」
ジルムスの問いにフッと敵であるはずの仮面(それ)は答えた。
『傍にいるよと言われるのがどれ程に幸せな事だったのかを』
「それは……イクスの事なのですか?」
『ああ、そうして本来の人格……いや、今になってみれば、ただの彼の夢は眠り続けた』
その言葉には確かな苦笑と何処か安らかなものが混じっていた。
『だから、君達には証明して欲しいと思ってる』
「証明?」
青年の声に頷いて。
少年の肉体が立ち上がる。
仮面がゆっくりと顔から剥がれていく。
そうして未だ目覚めない少年の対面にダークエルフの少女が今まで静かに漂っていた虚空から降り立ち―――己の剥がれていく黄金の仮面の下、涙を零した。
『どうやらお膳立ては間に合ったようだ。君達の選択が、君達にとって、幸せなものである事を願うよ……人類を救うのも、人類を導くのも、もはや僕じゃないんだから……』
二つの仮面が完全に剥がれた刹那。
倒れ伏すかと思われたダークエルフの少女がその肉体を支えられ、抱き止められる。
「お帰り。ナーリャ……」
「イクス?! 戻ってこれたのですか?!!」
「急いでこっちも起すぞ!!」
ジルムスが今も涙の筋を白熱させているエストリアに呼び掛け始めた。
それでフッと今まで全てを知る老人と対話していた少女が目を覚ました。
「イク、ス……さん?」
「おはよう。エストリア」
いつもの笑み。
それを向けられた途端。
その瞳の淵に涙が溢れ出す。
「イクスさん!?」
駆け寄って抱き締めようとした少女は自分ではない少女が抱き締められている事に気付いて、物凄い百面相……泣いているのか笑っているのか怒っているのかも定かではない表情となる。
それを見て、思わず噴出しそうになった少年が抱き止めていたナーリヤ・ナーシム・エルトロイカをエストリアへ預けるにして体を離した。
「悪いんだけど、この子の事を頼める?」
「もう!! イクスさんは!! どうしてそんなにデリカシーが無いんですか!?」
「あはは……ごめん……痛かったよね……」
今や顔の半分が白熱した【視宝泉(ジェミス)】によって爛れ始めている。
「ッ、決まってるじゃないですか!! 馬鹿!! 馬鹿!! 凄く心配したんですから!!」
「でも、エストリアが無事で良かった……何も選んでいなくて……良かった……」
「イクスさん? もしかして、今まであの人と会話してた事……」
「少しだけ見えたんだ。今はたぶん僕の本物。いいや……真実、僕であるはずだった存在がいるから……」
少年と少女の被っていた仮面が少年達から少し離れた場所で今も浮いていた。
その光の筋は拡大し続け、その場の誰もを飲み込んでいる。
「私は……イクスさんを好きな一人の女の子でいたかったんです……イクスさんに私だけのイクスさんでいて欲しかったんです……救える力を持っていながら……やっぱり、私は我侭な女の子で……イクスさんが大好きで……最後まで自分の心のままの答えしか選べなかった……」
ナーリヤを抱きながら、顔を歪めて、俯く少女の瞳には涙が一滴。
それを覆うように少年が唇をその熱を発する目元へ寄せる。
「ぁ……イクス、さん?」
僅かに今は止めた方がいいと言おうとした少女だったが、少年の顔が再び微笑するのを見て、今の状況も何も忘れて、顔を赤くした。
「君が大人になったら、今日の事を笑って思い出して……選択肢は提示されるものじゃない」
「え?」
「自分で考えて、自分で選んで、後悔しない。いや、後悔するとしても、前を向いて歩いていく為にこそ必要なものなんだって……忘れないで……」
「イクス、さん?」
ハイダル・エス・トリアの爛れる半貌にそっと手が片手が押し付けられる。
すると、白熱していた、脳機能に直結されているはずの光の筋がスッと腕に引き込まれて、幾何学の方陣の如く肉体を伝って伸びていく。
「な、何したんですか?!」
少女が手放し、背後に置き去りとしていたハンマー。
【OEDS】がフワリと浮いて、その耀く片手に吸い込まれるようにして掴まれた。
「記憶、戻ったから……何となくどうすればいいのかは分かるんだ」
「ダ、ダメです?!! ダメです!?? それは!!!」
今から何を少年がしようとしているのか直感的に悟ったエストリアが思わず抱き付こうとしたが、しかし身体が急激に震え始めて動くのも侭ならなくなる。
「美紗」
「イクス・ゼオ……どうするつもりなのですか!? 此処まで一緒に来たのに!! それなのに今更!??」
彼女とて女だ。
少年の瞳にある色が決意だと分からないはずがない。
「エストリアを頼む。そして、君の力で家に帰してあげて欲しい」
「そんなの無責任ですッ!!?」
泣きそうな声が叫ぶ。
しかし、その指に嵌っていた赤銅色の指輪が少年の視線を受けた途端に粉々に砕け散った。
「?!!」
「もう誰も屍蝋の仮面になる事は無い。そして、今まで君を人間の域に押し留めていた指輪は消えた……あの天使と一つになった時から、君には一つの可能性が眠ってる」
「―――ッ」
「僕の一人から受け取った武具。今も持ってるんだよね?」
「それはッ!?」
美紗が声を張り上げようとして、何も言えなかった。
「どうなるか分からないから、最後の最後に使う手段として残しておいたのは知ってる」
それは奏美紗が本当の意味で彼に報いられる方法だった。
天使に憑かれ、仮面化した後。
人化の秘法。
その指輪をしていない時には感じられる自分の真名。
それは神へと至る道への切符。
だが、どうなるか分からなかった。
自分が自分で無くなってしまうかもしれない。
そんな怖ろしい程の力の衝動が、彼女に不確定要素を最後まで使わせなかった。
だから、それに頼るのは本当に自分が死んでもいいと思った時だと決めていたのだ。
あのイクス・ゼオの欠片と名乗った魔王に貰った武具。
たぶんは国宝級か伝説級の代物。
それを共に使えたならば、きっと戦力の一つにはなると。
「どうして……どうして一緒に戦おうって言ってくれないのですか?!! 私は!! 私は貴方に助けられた!! なのに、どうして……私には助けさせてくれないんですか……」
「大丈夫。僕と繋がる限り、君が自分の力に呑まれる事は無い……君は君のまま……これからも自分の望む正義の為に戦って……それが奏美紗が好きになってくれた犯罪者からの忠告かな」
もう忘れていた。
そう忘れていた。
最初、自分が何故少年に近付こうと思ったのか。
そんなのはもうどうでも良くなっていた。
今更、こんな風に持ち出して……自分の使命を果たせなんて自覚を促して……それが奏美紗には許せなかった……大好きだからこそ、愛しているからこそ、許せるはずがなかった。
それはとてもズルイ……少年の我侭で、彼女の女としての弱さだったから。
「―――絶対、逮捕してやりますから!! この女の敵!!」
涙で前が見えずとも。
そのまだ一年も付き合いが無いはずの少年を睨み付けて。
彼女は崩れ落ちるようにして震え、隣のジルムスに支えられた。
「えっと、無敵番長の人に頼み事が……」
「オイオイ。此処まで来たのに結局それかよ」
呆れた様子で溜息を吐いた青年が帽子を脱いで捨てる。
「全員、まとめて護ってくれないですか?」
「今更、そんな丁寧に喋られてもな」
「貴方だから、ジルムス・デダルにだから頼める。僕の大切な人達を任せられる男なんて、世の中に数える程しかいない役目だと思いますけど」
「チッ、強いとか弱いとか。ずっと悩んでたのが馬鹿らしくなるな」
「強くなりたいのは男の特権だと思いますよ……」
「テメェは“敵”と戦ってなんかいなかった。仮面を前にしてすら、テメェは……ただ、自分を押し通していただけだったんだ……」
少年の本質。
それが自分の気持ちを他者に押し付ける類のものだと知ればこそ。
彼は今までの戦いを思い返して、脱帽するしかなかった。
敵への憎しみは無く。
清んだ湖面を思わせて揺ぎ無く。
少年は一度だって“敵”を倒そうとはしていなかった。
それこそが、彼がイクス・ゼオという相手に見た、最初から純粋過ぎた戦う姿の真実だった。
並び立ちたいと願う相手の強さに届かない理由だった。
「敵じゃないから、相手を見る目は曇らない。敵じゃないから、相手を誰よりも理解出来る。敵じゃないから、テメェはいつだって感情のまま、自然体で戦える……それは人が届く強さじゃねぇな」
少年はただジルムスの自分に向く全ての瞳を見つめる。
「オイ。テメェはオレの目標だ。こんなところで負けんじゃねぇぞ?」
「はい……」
ジルムスが前に出て限界を迎えてもう声も出ないエストリアと意識の無いナーリヤを両手に抱えた。
彼が横に立った時、もう時間なのだと美紗が気付いた。
仮面から溢れ出した罅割れが世界を歪めていく。
大きく大きく何もかもが非現実感と共に歪んで飲み込まれ始める。
それでも傍にいればいい。
それでも傍で戦えばいい。
だが、その真実、己の声である衝動を前にして美紗は動けなかった。
少年が自分に背中を向けていたから。
そう、初めて屍蝋の仮面達と裏山で戦っていた時も、少年は一番大きな敵を前にして自分を庇っていたのだ。
あの時から何も変わっていない。
いや、変わってすら届かない。
その事実こそが彼女の心を打ちのめす。
「イク、ス……さ―――」
「みんなによろしく。それと帰ってきたら、その時は……皆でまた集まってゴハンでも食べよう。境界踏征《オーバー・フラタニティー》の全員で他にも友達とか呼んだりして」
もはや喉を振るわせる事すら儘ならない身体。
【OEDS】管理権限が“正式な所有者”に移った事で一気に保護機能で支えられていた疲労が顕在化したエストリアが、それでも魂の底から声を絞り出す。
「約束ですよ!!! 約束ですからね!!!!」
「これでも譲れない約束しかしない事にしてるんだ。昔から……」
空間を歪めていく罅割れの最中。
彼らの背後の空間が破砕された。
それは内部からのものではなく。
外部からの力。
巨大な魚の如き船の先端が何も無い虚空から突き出し、その先が爆破されると内部から人が降りてくる。
鎧に身を固めた少女。
レア・アルトス・エール。
総主教たる彼女は今や髪を靡かせ、彼らの前にある二つの仮面とそれから溢れ出す罅割れを見て、何もかもを悟った様子となる。
ハンマーを持つ少年の背後へとふわりと降り立った彼女は自分の前にいるのが、確かに自分達が求めたはずの相手だと感じ取っていた。
「魔王シンア・ザ・クリティカル・アンラッカーとお見受けします」
「生憎と今は違う」
「……では、何と?」
「今の僕はイクス・ゼオ。このアルヴァスの首都で学生をしてる。人間ハーレムの主、かな」
理解した様子でレアが抱えられた少女達の方を見やる。
「ハイダル・エス・トリアさん。最後の鍵をお持ちしました」
「?!」
それが何の事なのか。
分からないはずがない。
「これは本来、貴女に預ける為に持ってきたものです。ですが、今の所有者はこの方……渡すかどうかの判断はお任せします」
「イクスさ…ん……帰ってきて……下さい……それまで……預けます」
「うん」
レアのその言葉に頷いて、少年の持つハンマーの傍に錆びた短剣を掲げると手から離れて浮き上がったソレがゆっくりと柄に突き刺さり、内部へと刀身を沈み込ませて、カチリと音がした。
捻られた短剣側の柄が落ちる。
そして、刀身が吸収された部分からOEDSが解けていく。
「それが貴方の力の完全なる模倣。【理想器(イデアライザー)】です」
レアの言葉が終わるより先に細い糸と化して少年の周囲を回り始めた白銀の螺旋がその眼前で一つの物体へと集積、形を変えていく。
「救世の御子よ。虫が良過ぎるのは承知で言わせて下さい……」
レアが片腕を胸に当てて、深く頭を下げる。
「どうか、この日々が、人々が、これからも進んでいける未来を、沢山の可能性が摘まれずに済む今を……お願い致します」
それは総主教としての義務でもなければ、懇願でもない。
一人の人間として、少年の物語を見たレア・アルトス・エールの心からの想いだった。
それには応えず。
「そう言えば、前の総主教の人は君の近しい人だったりするのかな?」
少年が軽く訊ねる。
「はい。祖父です」
「そっか。じゃあ、彼も自分の大切なものを守れたんだ……」
「え?」
「少しだけ話した時。最後に言ってたんだ。これから来る未来がどんなものでも、大切な子達を護り切るって……世界が滅ぶかもしれない瀬戸際でも、自分に出来る事をしようと思うって……」
「お爺様がそんな事を……」
レアが僅かに泣きそうな顔で俯く。
「一つだけ僕からのお願いを聞いてくれる?」
「……それが私の手の届く願いである限り、承りましょう」
顔を上げて目元を袖で拭った少女は強い瞳をしていた。
「みんなをその船で現実まで運んで欲しい」
「分かりました。この身命を賭して」
「いいや、君達全員を含めての“みんな”だよ」
「―――我々が貴方を利用したと知っていて、そう言って下さるのですか?」
「魔王になった時から、そんなの気にする余裕なんて中々無かったよ。僕の事に付いて何も言う事は無い。けど、もう誰かを犠牲にしたりするのは止めて欲しい」
「ッ……はい」
レアが拳を握り締めて、再び頭を下げる。
そして、彼らの時間を削るように刻限が緊急コールによって告げられる。
『レア様!! もう限界です!! ただちに此処から脱出しなければ、空間の捻れと崩落に巻き込まれます!!?』
『聖征者(クルセイダー)が現在接近中!!! どうやら退路の確保に動いてくれているようです!! 緊急転移用の経路が安定しました!! お早く!!?』
「分かりました。収容者四名!! ただちに転移準備を開始!!」
レアが指を弾くと同時に美紗とジルムスが浮かび上がり船の内部へと引き寄せられるように吸い込まれていく。
「イクス・ゼオ!! 待ってますから!! ちゃんと罪を償いに来て下さい!! 絶対ですからね!!」
美紗が叫ぶ。
「テメェが死んで終わりになんてするなよ!! そんなつまんねぇ結果出したら、ぶっ飛ばすからな!!」
ジルムス・デダルはそう声援を送った。
「イクスさん……負けたりしたら承知しませんから!!」
強がりを、精一杯の強がりを、少年を勇気付ける強がりを、自分が強いのだと言う事を、少しでも知らせたくて、大丈夫だよと言いたくて、確かにハイダル・エス・トリアは笑った。
何も言わず。
少年が僅かに片手を挙げ。
ようやく本来の形を取り戻した【理想器(イデアライザー)】を両手で取った。
それは何一つとして偏る事のないもの。
何の変哲も無い剣だった。
それはとても似ている。
少年が、魔王が使ってきた剣と瓜二つだろう。
「この身体が例え本物じゃなくても、僕は魔王だ……こんな大そうな道具まで使わせて貰って、負けたら……後でみんなに笑われちゃうかもしれないし……とりあえず―――」
少年は今や自身から起こった罅割れに飲み込まれつつある仮面。
いや、己だったモノに刃を向ける。
「此処では僕が本物だったって事でいいかな?」
その宿命を前にして。
運命の果てに救世主と呼ばれるはずだったモノを前にして。
大胆不敵に笑う自分の偽者へ。
“本物の救世主”が無い肩を竦めた、ような苦笑を返した。
「それが君の回答?」
少年が頷く。
「君と僕の最大の違いは一つだけ。それは―――」
仮面が思わず正解だと言わんばかりに震える。
「それだけが僕と君の違いだろう。僕は正しい事が出来て」
答えが引き継がれる。
「僕は間違った事が出来る」
刃が両手で振り被られた。
「でも、間違った選択も案外悪くないみたいだ」
仮面が答え。
「正しい事だけが幸せとは限らない」
少年が笑った。
「「だから、これもまた間違った選択なんだと思う」」
彼らは明確に違っていながら、一人のように自問自答した。
「「さようなら、僕」」
続く声は一つだけ。
それは少年が研鑽の果てに辿り着いた一つだけのオリジナル。
閃きの剣。
それを教えた者も知らない。
魔王の切り札。
その一つ。
「閃剣が奥義の一つ」
構えは半身。
仮面に向けて。
振り下ろされる剣はただ全てのリソースを“自己を完全に複製し続ける事”に費やした。
「想いの果てよ。夢の彼方よ。尊きものを一時我が眼前に為し給え」
剣の波紋が黒く浮かび上がる。
しかし、それは奇跡ではない。
経路の拡大によって概念域が開かれたのだ。
その奥、最奥で、少年が意思により手繰り寄せたものが一点に集積されていく。
それは今まで奏でて来た物語。
【神話性概念魔力(ファブローサ・マギシス)】
この世で最も人々に知られ、この世で最も秘され、この世で最も尊く、この世で最も新しい神話。
それはとある亜人国家の学校でハーレムを築いた一人の少年の生と死の物語。
「【概念積層魔力刃(マグナム・ラティオ)】」
如何なる物理量も伴わない世界に無限に折り重なる魔力の凝集。
真に世界から偽(エラー)と判断されても仕方ない物理法則も魔術法則も推し量れない重さ。
宇宙の終わりにも似た1次元以下の存在を伴わない距離の喪失の先。
奇跡のように世界を縮めた叡智司る聖女が長年を掛けて完成させた技術の粋を体現して。
少年は刃を振り下ろす。
「君が宇宙一つを産むならば、宇宙一つを終わらせるくらい、やってみせなきゃ……僕が魔王だなんて嘘だ思うんだ」
―――斬。
それはとても相手を傷付ける為の技にも思えなかった。
軽やかに涼やかにゆっくりと黒き波紋から、その三次元を超えた先から光が溢れ出す。
魔力、魔力、魔力、魔力、魔力、魔力、魔力―――。
その力の凝集は如何なる法則下でも定義されず。
世界の方から拒絶されてしまう程に強く。
炎のようにも見える世界の恒常性、消却を纏う。
本来、この宇宙に存在し得ない力が無理やりに発現させられ。
法則はこの事象として顕現するものを定義下の状況に落とし込む為、強制的に力を法則下で可能な域にまで均一化する。
つまり、それは………無限の魔力が世界の定義する限界まで強制的に引き広げられ、爆発するという事だ。
空間の崩壊も捻れもただ刃から溢れ出した魔力によって塗り潰されていく。
白き罅割れは耀きによって駆逐され。
何もかもが一色で塗り潰された絵のように霞んでいく。
「これが僕達の紡いできたもの。結構、凄くない? 救世主にだって届く力だよ」
もう何も返さず。
仮面は隣の黄金の仮面と共に耀きに塗り潰されていく。
「今、全て使い果たそう。僕が本物だろうと偽者だろうと確かに此処にイクス・ゼオはいた。それがシンア・ザ・クリティカルアンラッカーの見た夢だったのか。それとも本人の残滓の紡いだ幻だったのか。それは判然としないけど、然して重要な事じゃない」
少年は剣だけが確かな世界にまた自分も耀きに埋もれていきながら、遥か頭上を見上げた。
現実はどうなっているだろうかと。
けれども、気にする必要も無いと気付く。
自分の信じた人達がいる。
沢山の誰かが生きようと願っている。
ならば、全てを尽くした後を気にするのは蛇足だろうと。
「僕は生きた。僕は愉しんだ。僕は出会った。僕は嬉しかった。僕は幸せになった。僕は……確かに全てを得た」
声は少しずつ枯れていく。
「無くしたくなんて無いんだ。失いたくなんて無いんだ。永劫の繁栄も、無限の幸福も、後に全てが救われるんだとしても……此処で一度だって彼らの灯を消したくない」
仮面の表面が僅かに微笑んだように歪む。
「この我侭の為なら、僕は死のう。イクス・ゼオが此処で終わっても、全ては遠く続いていく」
概念魔力の全てが開放された時。
少年は零れていく自分の中に確かな陽溜まりを見た。
それはきっと何て事無い日常。
いつだったかすら思い出せないくらいに繰り返した一年にも満たない、いつか。
「この記憶だけが、僕が僕である事の証明。偽者でもいいと。大好きだと。愛していると。再び会おうと。また共に歩こうと。そんな風に言ってくれた……皆がくれた僕だ!!!」
刃が零れ落ちる。
無限の復元と無限の魔力。
しかし、溢れ出した力は宇宙を終わらせ、産む機構の持つ許容量すら超えていた。
それがどれだけの事なのか。
自分達の日々が新世界すら上回る奇跡なのだと証明されて、少年はただ嬉しかった。
「僕もこの物語に終わった全ての人々に全てを返そう」
少年の周囲から耀きを貫くように蒼き玉が無数に沸き立ち、頭上にある現実へと向っていく。
それはアルヴァスの一連の騒動で失われた全て者達。
少年の内部へと融けて消えた多くの魂。
仮面として消えた者がいた。
仮面に殺された者がいた。
戦い死んだ者がいた。
理不尽に力の源と崩された者がいた。
誰かの為に身を捧げた者がいた。
その中に己を救った研究者達を見付けて、玉から覗く彼らに少年は頷く。
『あれは何だ』
異相境界の果てからも見える青き流星群の如き軌跡が、現実に出られず砕け、耀きに染まっていくアイウィスの最中から飛び出して現実へと昇りつつある。
大地に立つ人々は見た。
遥か地の底から蒼きものが戻ってくるのを。
異相に漂う者達は見た。
世界の終わりにしては眩い蒼き群れを。
誰もが目を奪われた景色の最中に大きな天輪(ハイロウ)が浮かび上がる。
それは天界にあるはずの少年によって仮面より昇華された天使達。
その巨大な門の如き天使の冠するモノを抜ければ、フッとソレが消失し、昇る蒼き耀きが増えた。
誰もが自分達の居場所に帰っていく様子に笑みを零して。
もう感じられない肉体の事も構わず。
耀きに塗り潰されていく意識だけを掴んで。
少年は思う。
また必ず、あの素晴らしき仲間達の下へ。
どんな姿になろうとも辿り着く。
限界も無謀も知った事ではない。
死すら終わりではないと。
何もかもが曖昧となっていく最中にも思い続ける。
「ッ」
それでも弱気が押し寄せてくる。
絶対の無に近付いている。
イクス・ゼオが消費されていく。
「ッッ」
消滅とはこんなに怖いものなのかと。
自分が消えるとはこんなにも震えるものなのかと。
それでも前を向いて、上を見上げて、少年は泣かなかった。
――――――。
やがて、何もかもが途絶したはずの耀きの満ちた場所で少年は見る。
もう何も考えられない。
もう何も残っていない。
もう何も知らない。
それでも、確かに空っぽな少年は見る。
確かにそれは黒き輪郭を持って存在し、少年の前に立っていた。
「………ティア。いや、イクス・ゼオ」
長い黒髪が靡く。
仮面の剥がれた痕。
憑き物が落ちたように覇気が抜け落ちた女。
月下美人。
いや、今ならばきっと野に咲く小さな花のような彼女。
「お前がどちらだろうと構わない。私は“また”間に合わなかったようだ……」
全てを内に収める円の名を持つ女は泣きそうに笑う。
「これで何度目だろう。お前から全てを奪ってきた私が……この奇跡を使うのは……」
契約の解除と共に仮面が外れた瞬間。
奇跡が停止し、時間を奪った男は全てが元に戻り、彼女は自由となった。
ようやく探し当てて、その耀きの中心で少年を発見し。
ユアン・クオは呟く。
「いるのだろう? 姿くらい見せたらどうだ」
「……ユアン」
眠っていたはずの少女。
怠惰たる聖女が俯いた顔で少年の背後に浮かび上がる。
「分かっているな」
「………」
「私達は聖女だ。だが、だからこそ、私は此処で自分の罪を清算しようと思う」
「精算?」
「私がこいつにしてきた事は許されるものではない。そして、こいつが私を許したとしても、私は私を許せない」
「ユアン……」
全てを同化する奇跡。
ならば、どのような状況も自分の生存可能な環境に周辺領域を同化させれば、如何なる世界でも生き延びられる。
たぶんは聖女の誰よりも生存に適した力で少年だったソレを固定し、少女の瞳はユアンを見る。
「お前にも返そう」
「何を?」
「私がこいつに頼まれていた“全て”だ」
「頼まれてって?」
七聖女ユアン・クオ。
彼女が己の奇跡の宿る黒き輪郭の手でメルフ・グラネッタに触れた。
「――――――え?」
呆然と。
ただ、呆然と。
何もかもが、全ての事が、引っくり返ったように、何もかもを取り戻した少女が、呟く。
「それが“真実”だ。譲れない約束が全てを覆すまで……こいつは自分すらも削り尽くした」
「こん、な……そん、なの……ッ?!!!」
身体の芯から震えた少女がペタンと膝を付いて、涙を流す。
「お前に尋ねる。七聖女、その中で唯一人“何も決めなかったお前に”だ」
「メルフは……」
「お前はどうしたい? こいつをどうしたい? 私はもう選んだ。選んでしまった。それがこいつの望んだ事だとしても……こいつが私に頼んだ事なのだとしても……そうしてきたんだ……」
血を吐くよりも色濃く。
哀しみに朽ちた色の瞳がメルフを見据える。
「ユアン……」
「お前が決めろ。その権利がお前だけにはある……魔王の双子……あいつの家族として、あいつを支えてやったお前だからこそな……」
「―――それは許される事?」
「仲間への裏切りだ」
「それはしていい事?」
「自分の胸に訊け」
「………」
「私が奪った。こいつから何もかもを……だから、私はこいつとあいつらに全てを返そう。その上で今までの私を全うすると決めた。こいつのこの姿を見た時に決めた」
「……うん」
「何もかもを返すまで……いつかと同じように……私はただの無頼として生きよう……」
少女は沈黙し、その腕で少年を後ろからそっと抱き締める。
「……ありがとう。ごめんなさい。だから―――」
耀きの満ちる場所に少女の足先から黄色い魔力の地平が広がっていく。
「メルフも協力する……」
「後戻りは出来ないぞ?」
「構わない。あっちはきっとミュルトがどうにかしてくれるから……」
頷きが返り、世界がその夏の向日葵のような艶やかな色彩に包まれていく。
「ならば!!」
ユアンが腰の刀を引き抜き。
瞠目した。
「我が閃きの剣の冴え!! この世に最後の強欲と為さん!!! それがコイツにしてやれる……何処までも傷付けてきた……奪い続けてきた私の贖罪だ!!!!」
声が響き始める。
―――廬山匡廬(ろざんきょうろ)の果てに我が刃は在り。
それは哀しみに沈み。
―――仙棲む猛き峰に一太刀の痕(きずあと)守る大岩と共に発(た)つ。
諦観に至り。
―――抜けよ。我が意は此処に。我が技は此処に。閃剣(せんけん)は此処に。
朽ちゆく者の慟哭。
―――六道(りくどう)寄らず、他化自在天(たけじざいてん)滅す、我が一刀。
それでも、確かに次なる日を迎えようと強く。
―――白刀峯真円(はくとうほうまえん)。
誰かの為にと紡がれた言の葉だった。
「………髪飾り。嬉しかったぞ」
刀はもはや見えない。
ただ黒く、全てが黒く、自身すらも塗り潰す程に黒く耀きを飲み込む力が、大樹の如く伸びていく。
「閃剣が秘々奥!!!」
全てを得る為の奇跡が全ての耀きを切り裂き呑み込む奈落と化した。
「―――御世剥落(みよはくらく)―――」
横一線。
少年の物語りの耀きは闇に墜ちて消えていった。
呑まれる全てが留まる事なく落下。
砕け散り、耀きに呑まれ、蒼き流星を吐き出し。
そうして今度は見つめる者達の前で終わりなき黒の奈落にアイウィスが落ちていく。
『――――――!!!!!!!?』
誰かが叫んだ。
誰かが呟いた。
誰かが手を伸ばし。
誰かが……誰かが……涙を一筋、零した。
その日、異相と呼ばれる空間はその膨大な領域のほぼ全てを失った。
そして、とある一人の少年の事を誰もが忘れ……彼を知るはずの仲間達は山岳のように険しい標高となった壊滅したに等しい瓦礫の首都の上で、泣いた。
何が悲しいのか分からないのに。
何が悔しいのか分からないのに。
確かに心の底から何かが抜け落ちた喪失感に胸が潰れたのだ。
後に残ったのは魔王の欠片が何処かに消えたという事実と。
ゼオ家の屋根裏に誰のものかも分からない部屋が一つ。
其処には男物の制服が一着と武芸術部の合宿で取られた篆刻写真が一枚。
少女達の合間に空いた隙間には誰も映ってはいなかった。
時に新教会暦も十数年を過ぎたとある時節。
西部の亜人国家で起こった後に【仮面絶神戦争(かめんぜっしんせんそう)】と呼ばれる事となる一連の事件の終幕は黄金色の空に人々が生存の歓びに咽び泣く事で終結したのだった。
しかし、その空の上から全てを見下ろしていた七教会の制服を着た筋肉の化身が一人。
『ブラァアアアボォォォォ♪ いいわ~~いいわ~~今回も面白かったわよ~~んふ♪ やっぱり、何でもアリよりも、何もナイ方が面白いわねぇ!! あの優秀な子に制約を掛けた甲斐があったわ♪ 最初から一発逆転アリアリはナンセンスだったから、これからもこういうスタンスでいこうかしら? さ、次に行きましょうか……それにしてもあの契約を破り切るなんて、猫ちゃんの力も人間の知恵も侮れないわねぇ』
今や国家全体が山岳部のようになったアルヴァスを見ろ押して、嗤みが深く零される。
『アレが一杯食わされるなんて馬鹿げた展開になるとは思ってなかったし……まったく面白い事になったわ~~これで毎度毎度世界の外であの父親面を拝まなくてよくなったのも喜ばしいし、後はお母様次第かしら?』
暑苦しい筋肉がグネグネと隆起する。
『マリア。結局、貴女の予想良い方向で外れたわよ。アレに仲介した手前、全部滅ぶんじゃないかとすこぉし心配だったけど、大団円じゃない♪』
筋肉の化身の横で僅かに空間が揺らいで何かが輪郭を象っていく。
『さて、じゃあ、次もよろしくね~』
黒い棺。
それがカタンと震えて輪郭を弾けさせ、消えていく。
何処からか時計の音が聞こえる。
チクタクチクタク。
そうして、何処からか声が響いた。
ひひひ、ひひひ、ひひひ、ひひひ。
声は途切れる事無く。
虚空に集中すると仮面となって浮かび上がる。
契約の途切れた今。
無貌(むぼう)の面はただ白く。
何者でもない相貌を曝していた。
『ご苦労様。愉しんできたかしら? どうやらあの姿が気に入った方は戻ってこなかったみたいだけど、力は返してもらうわよ……この宇宙(せかい)はこちらの庭……アレの下僕たる自分なんて、真っ平ごめんだわ。従いなさい……』
仮面が大きな手に砕かれ、粉々になって消えていく。
『さてさて、次は北かしら? あの子も頑張るだろうし、またしばらくは楽しめそうね。あーはん♡』
次の瞬間。
空には何一つ痕跡無く。
人影は消えていた。
しかし、それを見つめる視線が二つ。
『アレし、ししし、知ってるし!! 怖いのだし!!』
『……北、其処にあの方が……』
『これ程に欺くのが容易いとはまったく滅ぼされたのも頷ける話だ。ぼかぁ、これから中央に向う。好きにするといい。まさか、聖女がああ出てくるとはまったく予想外だった。だが、だからこそ、時代が動く!! 親友への借りも返した事だし、ようやく真に自由の身だ』
『ドクトル。貴方は……』
『君もそろそろ大事な人の傍へ戻るといい。まだ、物語は終わらない。いや、終わっているならば、君が“覚えているはずも無い”』
『?!!』
『想い人の為にお互い頑張ろうじゃないか。何処(いずこ)かでまた会おう』
『行っちゃったし……ネハシム?』
『行きましょう。レア様の下に。僕には僕の出来る事がある……それを教えに行きます』
空の上の会話が途切れ。
地上で混乱の収拾に軍が動き始めた時。
ふとあらゆる異変を経験して心此処に在らずだった司令部の誰もが艦隊の動向はどうなったと慌てて動き出した。
国境域において仮面を退け続けていた軍の背後。
人々はようやく天変地異が治まった事に安堵しながら、不思議な光景を目にした。
それは蒼い柱が幾つも幾つも様々な空のあちこちに見えるという事態。
しかし、彼らは誰もがその柱の中から出てくる肉親や恋人や両親や友人達に何も言えなくなって、駆け寄って抱き締めるだけだった。
その中には今、王狐の末裔たる男が護る少年少女達もいた。
異相の中で生まれ、本当の日の光を知って数ヶ月。
もう会えないと思っていた白衣の男女が数十人。
彼らは自分達が犠牲にしたはずの相手すらも隣に見て、自分達を慕う子供達と同じように涙した。
そんな親子達の再会が起こった地域の端。
娼館の乙女達が集う一角にもまた蒼い柱が立ち。
前のめりに倒れ伏す老人を見付けて、人魚の女がそっとその身体を起こし、自分の胸に寝かせる。
老いも若きも女の誰もが自分達の館の主である兎耳の少年を中心にして噂した。
あのきっとアルヴァス一幸運な老人は誰なのだろう、と。
そんな浮気現場とは反対側の場所では獣人の父親と娘が身を寄せ合いながら、ポロポロと涙を零して……光の中から現れた……罰の悪そうなもやしっぽい少年に抱き付いた。
最初の言葉は馬鹿野郎。
そして、もう二度と勝手にどっか行くな、だった。
奇跡の朝。
各々が世界一安い命に贖われた今を生きて前を向いていた時。
首都ハガスの王城。
瓦礫の上に鋼の塔の如きものが地下から突出し、その表面装甲がスライドした。
白い外套姿の男達が呆然と自分達が生きている事に驚き。
自爆したはずの自分達の身体が未だあるという事実に愕然とし。
山岳部の天辺からの絶景に思わず笑い出して行く。
次々に吐き出される男達は押すな押すなの大合唱。
しかし、彼らは背後から重機の如き赤鬼に押し出されて空を飛び。
片手の拳を力強く振り上げた司令官に倣った。
それに連動するように鉄塔が、艦の艦首が、墓標というよりは剣山の如く何十本も地下から迫り出していく。
そのハガスの只中にある東部の館。
ゼオ家邸宅の前でその家主が自分の隠していた少年の器が全て消え去っている事に外側から気付いて、膝を地面に落とす。
しかし、その前に転移の燐光が舞い。
襤褸布のように千切れた翼に包まった一人で二人の姉妹が倒れ込んだ。
『だ、大丈夫!!? しっかりなさい!! 死んではダメよ!!』
そう言った彼女の前にまた燐光が一つ。
今度は真白い少女が一人倒れ込む。
肌も髪も白変化(アルビノ)の少女は自分が其処にいると知った瞬間。
空を見上げて―――涙は流さず。
ギュっと拳をその胸に当てて、動かない身体が動くようになるまではと胸の痛みに耐えた。
『ッ』
何もかもが奇跡だった。
誰もかもが奇跡だった。
それでもそれがどんな代償の末に齎されたものなのか。
知るはずの少女達は何も知らずに己の胸と感情が支配するままに泣いていた。
彼らを運んできた魚の船は壊れた鳥居の前で山肌に傾いでいる。
ようやく船から出てきた旧教会派の者達はこれが自分達の望んだ来るべき日ではないと知りながらも、各地の人々の様子を魔術で確認して、仕方ないと笑っていた。
微笑みや幸せの涙に水を差してまで欲しい救いなど、彼らには、少なくとも今の彼らには、有りはしなかった。
総主教たる少女もまた何かを忘れてしまった事に胸を痛めて樹木に背中を預けていた。
あやふやな記憶。
大切な言葉を忘れている。
それでも胸に残る温かさが、その哀しみを和らげていた。
そうして、聖なる娼館に集う女達は……最後に一際大きな光の柱が壊れた鳥居から空に放たれるのを見つめる。
黄色い魔力の波。
それは夜明けの雲を染めて。
全てを明るく照らしていく。
中から二人の敵が互いに少しだけ離れ出てきて。
その間からゆっくりと片手ずつを牽かれた相手が現れ。
彼女達は疲れ切った身体を無理やりに押して、得物と身体を構える。
「ちょっと見ない内に物騒になっちゃった気がするんだけど」
「は………?」
そう声を発したのは灰色の髪の少女だった。
「みんな……ちょっと背が伸びた? いや、魔術とかで誤魔化してるっぽいけど、もしかして何か身体に変化とかあっ―――」
“いつも通り”の少年の声が響いて、震えて、彼女達は敵が傍にいるというのに……何か言い知れぬ理不尽とどうしようもないくらいの喜びを、感じた。
一斉に敵を押し退けて少女達が殺到する。
押し合い圧し合いである。
「い、痛っ!! 痛いから?! か、身体は何か本物らしいけど、能力は普通に戻ってるような気がするから、出来れば普通に!! 普通に抱き締めてくれない!?」
ようやく、本当にようやく、何かを取り戻した少女達は、少年から少し離れて、力の入らない様子で灰色の少女に凭れた少年を見て、泣き出した。
「あの、えっと、その……泣かないで?」
「馬鹿を言うな!!?」
思わず耳元で怒鳴られて。
イフィミスラ・ハージェット・テトス・エルデナンドに抱き締められて。
少年は優しげな顔をする。
「ごめん」
「……謝るな。馬鹿者……この五年……どれだけ大変だったと思っている……」
「うん。ごめん……イフィミスラ」
「―――馬鹿、馬鹿、馬鹿」
小さく耳元で啜り泣きながら、嬉しそうに言われてしまっては……ただ、抱き締め返すしか少年に出来る事は無かった。
その騒ぎにようやく気付いた様子で境界踏征(オーバー・フラタニティー)と周囲の面々がやってくる。
しかし、彼らはやはり少年の事を未だ思い出せない。
思い出せないのに涙だけが溢れていた。
フラリと倒れ込みそうになる妹を時代遅れの魔術師ルックな青年が支える。
少年が抱き付いて来る少女に少しだけ支えて貰い。
エストリアの傍までヨロヨロと歩き出し、目の前まで来てから微笑む。
「ただいま」
次の刹那。
彼らの脳裏に戻って来たのは濁流の如き感情と情報。
「イクス、さん?」
ハイダル・エス・トリア。
「イクス?」
奏璃紗。
「パーパ?」
シルメイア・ゼオストス。
「イクス・ゼオ?」
奏美紗。
「イク……ス?」
ウル・エイフォン・バーゲル。
「野郎……」
ジルムス・デダル。
「イクス・ゼオ!!」
アーギスト・エス・トリア。
「イクスか?」
エンシェン・イル・フォイル。
―――!!!!
一気だった。
誰も相手の事など考慮しなかった。
ただただその手に触れ、頭を叩き、抱き付き、身を寄せ、胸に頭を引き寄せ、溜息を吐き、背中を叩き、胸に頭を擦り付け、とにかくやりたい放題という有様。
一分もせずにボロボロだった少年が倒れて慌てたイフィミスラが魔術で自分の方に引き寄せた。
「えっと、紹介するよ。みんな」
そのみんなに誰が入っているのかいないのか。
一つだけ確かな事があった。
少年の瞳は僅かに身を引いて、彼らを遠巻きにして立つ聖女達にも向けられている。
「此処にいるのは僕が……僕が大切に思う人達だ。だから、仲良くしてあげて欲しい」
まったく、こんな時に何を言うかと思えば。
そんな顔をする者が多数。
けれども、誰もが同じように苦笑した。
いつだって、少年はこうだ。
こうだったから、誰もが傍にいた。
こうでなかったら、少年ではないのだと。
「あ、それと言い難い事なんだけど」
「何だ?」
「何ですか?」
左右に付いたイフィミスラとエストリアが同時に訊ね。
「女の子は大体、えっと……僕のお嫁さんとその候補って事でその……よろしく、ね?」
場の空気が凍った。
そして、一瞬の苦笑が女性陣に通り過ぎた後。
此処から先は何一つ説明するまでもないだろう。
少年は叱られながら、怒られながら、涙されながら、それでもやはりいつも通りだった。
困った笑み。
けれど、誰にも分かる程に柔らかな表情。
「ありがとう」
顔を俯けた二人の聖女はその声にハッと顔を上げ。
確かに昔々、失ったはずのものを一つだけ取り戻した。
今日もまた誰もが明日に向っていく。
その事に安堵を覚えて、少年は幸せな喧騒の中に意識を沈み込ませていった。
これは一人の少年の物語。
何かを取り戻す為に戦い続けた。
霧の中を駆け抜けた少年少女達の記録。
「マァアアアアアアアアヲオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ♪」
そして、何処までも幸せな頭(ばしょ)で安眠を貪る為に頑張った黒猫のお昼寝日記に違いなかった。