第三章百二十七節「取り戻した日常Ⅶ」
―――アルヴァス亜人国首都ハガス南東部路地裏。
亜人の国にとって再開発という単語は正しく近年最も国民が聞く言葉だ。
六年前からの重工業化政策に端を発し、事件が多発したこの一年という短期間で復興と崩壊を都合3度以上経験したのである。
これで何度目の再開発だと言うのは笑い話であるが、その影で密かに改善した事が幾つかあった。
その一つが薄暗い路地裏。
要は犯罪の温床(と言っても犯罪率自体が極端に低いのだが)たる薄暗い場所が極めて少なくなり、日陰者の居場所が減った事で様々な区画において治安が向上し、殆どの裏稼業が消えたのである。
ついでに今まで裏仕事で食っていた人間が表側の仕事で食べるようになり、そういう“健全さ”というやつが都市を染め上げつつある、というのだ。
まぁ、光が濃ければ、闇も濃いという世の理が真実なら、更なる暗い場所に逃げ込むしかない者が増えるはずなのだが……アルヴァスの現状、これがまったく逆だと言うのだから、大陸中の捜査官やら治安維持の現場責任者などは在り得ない情報に目を丸くしているらしい。
これには亜人国において一つの方法が取られた事が関わっている。
『再開発地域に定住もしくは商売を行う犯罪者及び“特定の技能や経験”を持った者は当局に出頭し、再開発地域における特定の職業従事命令を受諾せよ。また、この時点における重犯罪者以外の者は減刑し、刑の軽重で罰金の長期支払い額と年数を定める。重犯罪を犯した者は特定の軍務を勤め上げた場合にのみ刑を減免する。対象者で告知する期限内に出頭しない者が捜査により把握された場合、国家反逆罪に問い逮捕、新規建造される監獄への収容を進める。この期間内に再犯した者は刑期と罰金の増加、減免条件の厳格化を行う』
このような犯罪者の就職支援に刑期や罰金を取り入れた新規の労働力確保が行われたわけだ。
命は助かった。
助かったが、それだけでは食べていけない者もいる。
だから、食べて行けるようにしてやるから、真面目に働け。
働かないなら犯罪が出来ないように永劫牢屋で過ごせ。
これが元老院が犯罪者の一掃と食い詰め者達の未来に対して出した回答だ。
他国で亜人がどのように扱われるのかを嫌になる程、数ヶ月喧伝しておいてからのお触れに軽犯罪が主流の亜人国のあぶれ者達は震え上がるか、大人しく従うか、国を出て行くかの三択となった。
刑法の厳罰化と出国した場合のペナルティーとして再入国禁止がセットで付いてきた為、ほぼ犯罪者という括りの者は商業の末端で働く事となったのである。
潜ろうとしても、国内にはもう潜る闇が無い。
時を同じくして組織犯罪への風当たりも官憲の増員や厳罰化で大きな転機を迎えた。
その追撃で数百人程の重犯罪者が国内から失せ。
2万人近くの軽犯罪者がお上の威光に渋々ではあったが、食べられるのならと従ったわけである。
それが今のアルヴァス亜人国の路地裏事情なのだ。
だから、石畳の上に妖しい露天商が何人も何人も足の踏み場にも困る程、気だるげに商売しているのはまったく今では普通の事。
政府と民間から出向する合同のプランナー団体が個人の資質と人格を見て適当だと判断した業種に付かせ支援する為、続かないとか、極端に売れず食うに困るという事も殆ど無い。
こうして薄暗かった小さな道には人々が通うくらいには人通りというやつが出来ていた。
そんな場所の先。
貴族の子息に見える風体の良い少年と従者だろう女給姿の少女がテクテクと歩いている。
本日の休日予定は白紙。
だが、しかし、毎日のようにハルトゥムかゼオ家の館で少女達に囲まれている少年はちょっと孤独を満喫しに出掛けた。
魔王として大陸を旅していた時の状況からすれば、噴飯ものな話だろうが、人間というのはあまり他者が傍にいても心がギスギスする。
適度な距離感や一人で過ごす時間というのも大切なもの。
従者だからとジト目で付いてきた璃紗にしてみれば、外に出ても街中では一人になれないのは街中へ買い物に行く事が多い仕事柄自明であったが、少年はそういう世間的な話には疎かった。
という事で静かな路地裏散歩になるはずが、現在あちこちから聞こえる買ってって買ってっての大合唱にゲッソリしつつ、イクス・ゼオはその場を早足に歩いている。
「何か墓穴を掘った気がする……」
「イクスって、世間知らず?」
璃紗の言葉に「昔から何処にでもある“普通な路地裏”なら詳しいんだけど……」という呟きが零されたが、路地が終わってマーケットの通りに出た為、喧騒に声は紛れた。
「これからどうするの? そろそろお昼だけど」
「じゃあ、一緒に此処で食べられるところ探そっか?」
「うん!!」
途端に上機嫌となる少女の子供っぽさに苦笑しつつ。
少年が逸れないよう片手を取って引く。
それに……自分の手袋越しの感触に……更に笑みを零して。
璃紗はキョロキョロとあまり来た事の無い場所を見渡す。
いつも行政区画近くにある市場などが主な買い物場所なので、庶民の台所感が強い猥雑な通りというのはあまり来た事が無いのだ。
少し専門的な品や独特な食品が売っているものだから、興味深げにあちこちの店舗を覗いて繁々と品定めするというのは少女にとって楽しい作業だった。
数分程して少年が良さそうな縦に狭いカウンターオンリーの店舗を見付けて内部へと入る。
店舗はまだ新築して数ヶ月しか経っていないというのも忘れさせるくらいに料理の匂いが染み付いており、元来鼻の良い亜人である獣人(ベスティア)の端くれである璃紗には思わずあちこちを見てしまうくらい混沌として感じられた。
「ヘイラッシャイ」
少年がカウンターの一つに自分の侍従を腰掛けさせ、横に座り……サラッと少し油っぽい皮膜に覆われている指紋付きのメニュー表から幾つか頼んで、即座に出てきたお冷へ口を付ける。
「イクス何だか頼み慣れてる……」
「え、そう?」
「うん。だって、迷わなかったもの」
「まぁ、昔からこういう店はよく入ったから」
「そうなの?」
「うん」
「昔ってどれくらい前?」
「……えっと、璃紗が生まれるよりもずっと前から、かな」
その言葉に僅か少女が何を言っていいのか分からないような困惑した表情となって頬を指先でポリポリと掻いた。
「そうなんだ……記憶、戻ったから?」
「記憶が無かった時に来れたら璃紗と新鮮にご飯が味わえたかもしれないから、それはちょっと残念だけど。今は美味しそうなものを食べさせてあげられるだろうし……それでいい、かな?」
「……イクス、ずるいわ」
「?」
「だって、そんな事言われたら、何も言えないもの」
「ごめん」
「謝るの禁止!!」
「ご……じゃあ、デザートも追加しておくって事で」
「う、ご、ご飯でカイジュウされたりしないんだから!! そんな安い女にはなっちゃダメってベルンが言ってた!!」
「要らない?」
「ぅ……要ります」
モニョモニョしながらも小声で呟かれて、少年が苦笑しつつ、店主に追加の注文を出した。
「璃紗とこうして二人で外で食べるのって久しぶりな気がする」
「それはイクスの隣にはいつも誰かいるから……前みたいには……」
六年前に出会った少女達と一年前に出会った少女達。
彼女達は単純に数が多い。
という事はそれだけ一人一人に避ける時間が短いという事だ。
それでも不満が出ていないのは誰もが自分のやるべき仕事や事案を抱えているからに他ならない。
璃紗とて、それは同じだが……まず何よりも少女は少年の従者だ。
あの実家とも言える月兎亭からゼオ家に来て後。
事件の時や一人で外出する以外では毎日一緒だった。
朝昼晩。
仕度から食事から就寝まで。
生活のあらゆる部分で顔を合わせていたのだ。
それが今現在はそうである時間こそあるものの。
他の誰かが大抵いるし、他の少女達のところに出掛けて離れてしまう状況も増えている。
これで一緒の時間が減ったと感じるのは普通の事だろう。
「寂しかったら言って、スケジュールとか調整してもらうから。エストリアに」
プクッと璃紗の頬が膨れた。
「エストリアさんとの時間が増えちゃうからダメ!!」
「さすがにエストリアもそんな事しな……とりあえず、たぶん増やしてはくれそうな気がするけど」
近頃『イクスさん分が足りません!! 補給!! 補給を要求します!! 切実に!!』と喚かれた事を思い出し、少年は途中で言葉を修正する。
「ヘイオマチ」
サクッと料理が皿で三枚ドドンとカウンターに置かれる。
どれもこれも湯気と芳香を上げており、香りは芳しいものから香ばしいものまで昼食としては十分だろう。
蒸した野菜にとろみの付いた餡を掛けた前菜。
炒めた海老を香草をふんだんに使ったタレで絡めた主菜。
南部から流入している食材である鳥肉の一枚丸々の香ばしい鼈甲揚げ。
どれもこれもご馳走だろう。
パンは多少固めのものが出てきたが、料理と一緒に食べ、水で口を湿らせれば、問題ないだろう。
「いただきます」
「頂きます」
少年がよくやる食膳のお祈りみたいな東部の慣習。
それも今は自分の癖のようなものだと少女は少しだけ顔を緩めた。
それからの三十分間。
然して会話も無く。
けれども、確かに微笑み合いながら、楽しい食事時は過ぎて行った。
*
「ん?」
少年が璃紗を連れてハガスの坂道テクテクと中央区画付近へと昇っている途中。
バッタリとハルトゥムの館の住人と出くわしていた。
刀と菊の紋が左肩に金糸で刺繍された黒い制服に制帽。
黒のツインテールに紅のリボン。
薄緑色の瞳。
楠花(しゃくなげ)を思わせる美しい相貌と切れ長な瞳がキロリと男装の最中に覘く。
【聖王同盟(サクラム・フェデレイションズ)】の麗人。
天御門紅亜(あまみかど・こうあ)
近頃はハルトゥムの国家化に尽力している大陸の防人。
いつも大抵はハルトゥムにある政庁と館と政治的な調整にアルヴァスを回っている彼女が今日はどうやら休みだったらしく。
傍らに白い少女を連れて逆三角錐のコーンに乗った氷菓(アイスクリーム)などを持っていた。
「兄様(あにさま)……」
その横には土御門烙南(つちみかど・らくな)
可愛いでも綺麗でもなく美しいと称すべき少女が着物姿でしゃなりと立っている。
玉石の鏤められた幾重もの簪(かんざし)。
飾り立てられた御髪は幾重にも背中で折り返されており、今は腰程のところで途切れていた。
夭逝の気配を漂わせる人形の如き相貌が少年に薄っすらと笑みを浮かべる。
大陸では【白変化(アルビノ)】と称される体質な館最古参の一人であるところの彼女は病的なまでに白い肌と赤い瞳が人を惑わせるくらいには工芸品とでも称すべき路上との場違い感を醸し出しており、歩く者の眼を引き付けて止まない。
日光に当てられる事を前提としていない彼女の身体は魔術で防護されている様子で傍目には東部風の衣装を身に纏った美麗な恋人達の散歩をいった風に見えるだろう。
アルヴァスの異相で一時、聖女の奇跡に囚われていた彼女は戻ってきてからも大事を取って静養していたが、数ヶ月の安静で今は普通に出歩けるようになっていた。
五年前に見た時よりも大人びた二人。
しかし、身体内部の成長こそしているが、外見そのものの成長は止まっているとの話で。
今も魔術で姿は誤魔化しているのだという。
「今日は学業はお休みですか?」
ててて、と小さく早足で寄ってきた烙南がすぐ傍まで来ると。
少年の袖をそっと摘んで僅かな笑みで訊ねる。
その品の良さ。
作法と言うよりも育った環境に寄るだろう仕草に少年の横にいた璃紗はドキリとした。
それが焦燥なのか。
嫉妬なのか。
分からずとも……その女から見ても何とも言えない心地になる……純白の幸薄そうな一輪を思わせる姿が、自分と対比されたような気がしたのだ。
「あ、うん。今日はちょっと一人になりたいなぁ……と」
「一人ではないようだが?」
さっそく白い目で紅亜が少年を見た。
その視線は璃紗の姿をシッカリと収めている。
「今日はやる事があると聞いていたが……これなら誘えば良かったな……」
溜息一つ。
ツインテールの麗人は少年の後ろにススッと近付いて、僅か恨めしそうにツンツンと背中を突いた。
「紅亜?」
「人が毎日毎日政治漬けにされている横で勉学に励むように見えて女を侍らせ、抱きまくっている男はやはり違うな」
「う……何だか批判、されてる?」
少年の顔が引き攣る。
「兄様は実の娘様も身篭らせるお方ですから」
「烙南が僕の知らない内にちょっと変わったような……」
瞳を細めた白い少女の笑みが少し冷たいように思えて、さすがの魔王も小さくなった。
「ふふ、嘘です」
「ああ、嘘だとも」
「えっと、何が?」
「さぁ、何でしょう?」
「ああ、何がだろうな。自分の胸に聞いてみるべきだと思うのは気のせいなのか。旦那様」
少年がやり込められているのを見て、璃紗は自分の知らない少年と少女達の絆に何処か居心地の悪いものを感じた。
これが世に言う修羅場というやつなのだろうかと考えても、人生経験豊富とは言えない彼女には分かりもしない。
「イクス……」
「璃紗?」
クイクイと袖の端を引いて、ジッと自分を見上げてくる少女の瞳。
その内心を読み取ったかの如く。
少年はポンポンとその頭を撫でた。
「どうやら我々はお邪魔してしまったようです。兄様の事、よろしくお願いします」
自分よりも数歳は年上のように見える烙南から柔らかく微笑まれて、少し恥ずかしげながらもコクリと少女は頷いた。
「この子の事をちゃんと見てやれ。それと私達の事もな」
「うん……」
頷く少年に東部出身者二人が互いに顔を見合わせてから、少し悪戯っぽい表情になって……左右に近付くと。
―――小さく頬を啄む音がした。
「(また、夜に……)」
「(困った旦那様だ。ふふ)」
「―――」
いつの間にか。
自分の知らない間に二人とも大人へ近付いているようだと。
少年は頷いて、僅かに手を振ると。
人に注目されるよりも前に璃紗を連れて歩き出す。
背後からは確かに何時までも少年を追う視線が角を曲がるまで背中を捕らえ続けていた。
*
あの事件から数ヶ月。
生活環境の一変を味わった国民がアルヴァスでは大半であろう。
しかし、職を変えた者は更なる多さに違いない。
それは亜人貴族達も例外ではない。
当時、軍役に付いていた大半の者は貴族階級への昇格を元老院から打診された。
だが、国難の時にあって、貴族になる事を固辞した者は多く。
また、体面が保てるような資金力が無い者や政治の矢面に立つ事を嫌った者はそれなりにいた。
貴族として位を捨てて、民間で働く者もあったし、国政よりも生活という事で已む無く薄給過ぎる下っ端貴族が貴族を辞めるという事もあった。
結果として亜人貴族の総数は二割程増えたものの。
全体的に倍増したという事実は無く。
往年の大家の幾つかが没落とは違って民間で辣腕を振るい始めたというのが国民的な感覚だろう。
そんな家々の中の一つに王狐(ヴルペス)の血筋。
バーゲルの名があったのは亜人貴族社会的には意外なものとして感じられていた。
没落していたとはいえ。
戦者としての偉業を成し遂げ、異相調査部隊の陣頭指揮を取り、事件の最終盤では魔族や屍蝋の化け物達の大群より、背後の民衆を守り切った防衛守備隊の隊長も勤めた。
立派に役目を勤め上げた当主は名誉を挽回したと言えるだろう。
なのにどうして貴族を辞めたのか。
静かに黙して語らない壮年の男はただ己の道を持って自分を見る者達へと示した。
剣術の名門でもあったバーゲルの家が貴族を辞めた後に興したのは総合軍事商社。
要は軍の下請け会社だったのである。
剣術指南や銃の射撃術を軸とした軍で運用される複数の戦闘技術、知識の総合教育。
また、優秀な門下生をインストラクターとして派遣し、相談役、顧問役も勤める。
それはバーゲルの家が積み上げてきた長年の功績も相俟って、すぐ軌道へ乗った。
軍からは優秀な新人の発掘を民間に任せ、即時戦力としてものになる国民層の形成が出来るとありがたがられ、亜人社会からは貴族、平民を問わずに軍での最短出世コースへの近道と見なされた。
『あの堅物そうな当主が商売も出来るとは……』と亜人貴族達の大半は驚きを持って、この事実を迎えたが、実際その見方は正しく、彼がこの商売を考えたわけではなかった。
そう、バーゲルの当主は民間で静かに余生を剣術の指南役として終えようと思っていたのである。
請われれば、軍に協力するくらいの立場として。
だが、単純にそれを許さなかったのは彼の親友と言っていいだろう赤鬼宗家の当主ドゥーズだった。
曰く。
勿体無い。
彼は親友の傍に自分の信が置ける民間の会計士やら商人やらを付けて、会社をやらせたのだ。
その点で言えば、バーゲルの家はお飾りと言えるが、家の理念と当主の意思を強く反映した会社は今や職を失い、あぶれものに近くなっていた【崩燼貴族(ソルヴァス・ノーブル)】達の受け入れ先ともなっていた。
というのも、国家規模で崩燼機関の廃止が決まった昨今。
新鋭の貴族階級達に自分達の立場を守る術が無かったからだ。
彼らの大半は軍の中でも技術職的な立場の者が大半であったし、工業系技能は今も重要視されている為に食いっぱぐれる心配は無かったが、貴族としての地位を固め切れる者は少なかったのだ。
これが赤鬼宗家の崩燼貴族達の暴発を防ぐ再雇用先、再就職先、受け皿作りという政策の一環である事はバーゲル側も分かっていたが、何かと縁があった者達に対して最後まで責任を取ろうという当主の一声で会社側は彼らを受け入れた。
「取締役!! 軍側から新規アサルトライフルの開発に付いて打診がありました!! 後で正式な報告を上げますので!!」
「取締役!! 今月の新規門下生は前期の二割り増しとなりました!!」
「取締役!! お嬢さんがいらしてますよ」
「ああ、分かった」
現在、社員300名。
工業部門と総合教育部門の二つを抱える【バーゲル社】はハガス西部の一角に社屋を構えている。
元々が崩燼貴族の中でも最大級の家が没落と共に売り払った大きな館である。
亜人貴族の家というよりは灰色のコンクリートで固められた研究所という外見だ。
今はその部屋という部屋が別にある西部の教育現場と北部の工場に命令を出す司令室となっており、忙しく誰もが立ち働いている。
本来は教育現場で剣術指南をと思っていた当主は現在、慣れない呼び名を受けながらも一日の半分を其処で過ごしており、社の舵取りをしていた。
この一年で皺枯れた樹だったような男の気配には生気が戻り、何処か溌剌しているのは毛並みからも分かる事だろう。
社の誰に対しても対等に意見を訊ね。
何かあったら自分に相談してくれと現場で社員と門下生の教育に掛かり切りとなっていた男はようやく落ち着いてきた近頃、とにかくソワソワするようになった。
その理由が娘の懐妊である事は彼の館に直接住まう高弟達や社の者達には知れ渡った話だ。
彼の経歴もさることながら、娘は赤鬼宗家の長女が屍蝋の仮面事件を解決する為に立ち上げた秘密組織【境界踏征(オーバー・フラタニティー)】メンバーの一人。
国家規模の英雄として名が売れている彼女が懐妊となれば、祝福しない者はない。
社屋の正面玄関内部。
エントランスの横で大きな乳房と腹部を抱えて白い紙袋を両手で持った姿を見て。
彼は少し早歩きとなった。
秘書を置き去りにした男は一人。
何処か落ち着かない気分で。
時折、社に差し入れを持ってくるようになった一人娘の前に歩いていく。
手を上げれば、僅かニコリと笑んだ顔。
近付いて立ち止まった彼に軽く頭が下げられる。
「お父様。お勤めご苦労様です」
「あ、ああ、お前の方こそ変わりはないか?」
「はい……この子達も順調ですから。もう少しで初孫の顔を見せて差し上げられると思いますわ」
「そう、か」
その初孫という言葉に複雑な思いと共に歓びが込み上げて、男は社屋の誰もに注目されているというのも忘れて、僅かに尻尾を揺らした。
九十対十(ナインティン・テン)だと蔑まれた娘は「王狐の血でありながら、残念だ」と言われるのが親戚達からは常だった。
没落してからは家の復興を目指しては武芸の道に邁進する姿をずっと見てきた。
だが、その幸せそうには見えない横顔が彼の脳裏にはいつも焼き付いていて、だからこそ……彼は娘の幸せを願い、武芸を止めろと辛く当たってきた。
それでも、どんなに苦しかったか想像すら出来ない道を越えて、屍蝋の仮面に普通の亜人からも離れた身体にされながらも、己の道を進んだ先。
今では誰も彼女を揶揄する者は無い。
「………ウル」
「はい?」
その柔和な笑み。
自分の下では決して浮かべられる事の無かっただろう表情に彼は娘の旅立ちを感じていた。
「彼は元気か?」
「ええ、今もあちこち飛び回ってますわ。学校にハルトゥムにゼオ家。いつも傍にいられないのは玉に瑕ですけど」
「そうか……付いていくのだな?」
その言葉にウルは静かな瞳で頷く。
少年の事を少なからず。
ウル・エイフォン・バーゲルは両親に伝えていた。
自分だけの愛しい人ではない事。
結婚はいつになるか分からない事。
彼が世に言われる魔王である事。
全てを聞いて、気を遠くした婦人と同じ気持ちを持ったのは彼も同じ。
しかし、その少年がどれだけ娘にとって支えだったのか。
どれだけ自分達のいない間に助け合っていたのか。
それを聞いて……男はもう何一つ娘に心配事を口にしないと決めた。
それが男の決断で、それが彼の伴侶の決断で、それが彼にとって娘の幸せに水を差さない唯一の方法だったからだ。
あのどうしようもなく破滅するだけの状況から生き残った。
その娘に何を意見する事も無い。
立派になった。
最初から立派過ぎた。
その独り立ちが早かった彼女の正しい決断を、ようやく……彼は肯定出来たのだ。
今も預かっているダークエルフの少年少女達が近頃よく家に帰った彼へ口とするのは『お爺ちゃんになるんだから、ウルさんとおにーちゃんの邪魔しちゃダメだよ』というものである。
また子育てをしているような感覚。
いや、子育てなど何一つしなかった自分がいつの間にか大人となった娘に置いていかれている事を悟ったからこその感慨。
時折、実家に帰ってくる娘とも仲の良い子供達が素直に祝福している様子に自分はそう出来ていないのだろうかと自問して時間もそれなりに経った。
(手の掛かる子供だったと言えないオレは……やはり親失格なのだろう)
「お父様?」
怪訝そうな娘の顔に銀の巻き毛が揺れて。
黄金だけが全てではないと。
また銀(べつ)の道もあるのだろうと。
男は親としての言葉を飲み込んで、ただ一人の男として、強く育った女に祝福を送る。
「お前の自由だ………何一つ、何一つとしてお前にしてやれなかったオレの……これが送る事の出来る最大の言葉だ」
「そんな?! わたくしはお父様がいたから!!?」
「いいや、お前の努力を、お前の信じていた未来を、信じてやれなかった……済まないと今更に後悔している……あいつにもお前にも……迷惑を掛け続けた……だから、オレが何を言う資格も無いのは分かっている。だが、それでも……親として、一人の亜人として……お前がどう生きても、この身が滅びるまであいつと共にその道行きを誇り続けよう……付いていけ……お前が認め、お前を見初めた男に……そして、いつか落ち着いたら、孫の顔を見せに来てくれ……」
「お父様……ッ」
涙一粒。
頷いた娘の顔があまりにも綺麗だから、彼は伴侶の若い頃を思い出した。
例え、どんな事があっても、守り抜くと誓った。
あの気持ち。
それが今は自分のものではない事が少しだけ心残りで……しかし、全ては若者に……娘の選んだ男に任せようと……彼はただその銀の頭を優しく撫ぜた。
「この子達の顔はすぐに見せてあげられると思いますわ。たぶん……此処から旅立つのはきっとまだ先の事になると思いますから……それと……今まで守ってくれて……ありがとうございますッ。これからはわたくしがこの子達を守っていきますわ……お母様やお父様みたいに……」
ボタボタと白い床に水滴が落ちる。
生まれて初めて。
子供の時すら無かっただろう。
その感情の本流に、その娘の姿さえ見えなくなる洪水に、男は自分が老いたのだと。
老いて知らぬ間に子供が巣立ったのだと理解した。
「お、お父様?!」
「いや、いや―――悪い―――はは、自分でもこんな事は初めてだ……ッ……ああ、そうか。オレはお前の父親で……やはり、不出来だったようだ……」
その只事ではない様子に秘書や受付嬢。
他の通り掛かった社員達も何事かと後ろでゴクリと唾を飲み込んで二人を見つめていた。
『あ、オジサンだ!!』
不意に声が玄関側から掛かって二人がそちらを向けば、ダークエルフの少年少女達が数人パタパタと駆け寄ってくる。
「あなた達……学校はどうしたんですの?」
子供達は小さなプリントを見せて、今日は早く終わったのとニコニコしつつ、号泣していたらしいバーゲルの当主の姿に目を丸くして、ニヤリとした。
『あ、ウルさんがお嫁に行っちゃうから泣いてるの?』
『オジサンて涙脆い人。いや、亜人だったんだな……』
『オジサンは良い大人なんだから、笑って送り出してあげなきゃダメじゃない!!』
特に少女達からの言葉がザクザクと背中に刺さり。
彼はその通りだと片手でサッと目元を拭った。
「あ、ああ、そうだ。その通りだ。ウル……もし式を挙げる事があれば、是非呼んで欲しい」
「そんなの当たり前ですわ。お父様やお母様を呼ばないなんて在り得ませんもの」
二人がようやく互いに笑顔となったのを確認した後。
子供達が大きくなったお腹を繁々と見やり、触りたそうにしているのを見て。
ウルが「優しくしてくださいね」と許可を出した。
そこからは「あ、動いてる」だの「いや、動いてないんじゃ」だの「音は聞こえるよ」だのガヤガヤと騒がしくなり、その合間に滑り込むようにして社員達が秘書と共にイソイソとやってくる。
「取締役が泣いているところなんて初めて見ましたよ」
「いや~厳しい顔の取締役も亜人の子だったんですね」
「こりゃあ、めでたい。生まれたら、お孫さんを是非、見たいものですな」
老いも若きもやってきて、父親の周囲で談笑する姿に父もまた自分と同じように変わったのだとウルはそんな変化が嬉しくなった。
その日、取締役号泣事件と名が付いた一連の話はまだ浅い社史に残る出来事となり、男は子供達と共に家路に着き、涙の跡を隠すように道場で声を張り上げる事となる。
家で全てを話した伴侶に「貴方もまだまだね」と妊婦への気遣いが出来ない祖父のレッテルを貼られた彼が『初めての初孫』だの『良き祖父として振舞う12の方法』だの『こんにちわ。お爺ちゃん』だの、孫が出来る高齢者向けの本を買って愉快な祖父としての地位を得るべく日夜努力し始める事になるのはまだ少し先の話。
ただ一つだけ確かなのは男の尻尾が幸せで揺れていたという事だけだった。
幸せは日常の中に。
日常は幸せの中に。
そう、これは一角の亜人貴族と謳われた彼と娘の慶びと和解の物語―――。