第三章ロング・エピローグ「天に蓋する青き星」
「これこそ我らが外套」
無明に黒の耀きが立ち昇る。
素に布、器に金の糸。
「これこそ我らが聖鎧」
無明に白の耀きが立ち昇る。
素に銀、器に獣の印。
「これこそ我らが火砲」
無明に紅の耀きが立ち昇る。
素に鉛、器に竜の灯。
「これこそ我らが鉄剣」
無明に蒼の耀きが立ち昇る。
素に土、器に獄の泥。
「これこそ我らが霊薬」
無明に紫の耀きが立ち昇る。
素に華、器に古の塩。
「これこそ我らが魔笛」
無明に黄の耀きが立ち昇る。
素に樹、器に空の気。
「これこそ我らが鋼杖」
無明に緑の耀きが立ち昇る。
素に骨、器に神の珠。
七つの三次元式魔術方陣。
いや、法術陣が世界の中心で其々の形を象り、番いと分かれて七色を宿し、巨大な真円内部で回り始めていた。
七対十四基。
紫、紅、白、緑、蒼、黄、黒。
一対の同色の陣が回る毎に周囲へまるで歯車が噛み合うような重苦しい金属音が響き。
方陣が加速して円内で互いに弾け合い……周囲に同じ陣の色をした文字列が逆さの滝の如く天へと駆け上っていく。
その周囲に存在する鋼の壁は円筒形をしており、半径で400m程だろう。
陣の全ては遥か頭上の光射す世界に向けられていた。
文字列が増える毎にザァザァと水が滝を流れ落ちるような音と共に中心部に設置された台座の上で鋼の玉が仄かに透明となっていく。
やがて、何もないかのように全てが消え去り。
文字の滝はピタリと動きを止めると陣と同時に剥落。
最後には其々の色を宿す燐光となって儚く散った。
「……成功ね」
コツコツと歩き出した者が呟く。
その声は優しかったが老いていた。
女だろう。
「さて、さっそくだけど、要塞の建造に取り掛かるわ」
老女が振り返る。
すると、其処には黄金の色を宿した魔力の人型が一人ウロウロしていた。
その様子は何やら狼狽しているようでもあり、何処か頼りない。
「各大家の建築家連中に声を掛けて頂戴。それと国境域の守備隊を出してる家に参加してもいいと決定のお触れを。ああ、後は呪導師(カーザイト)の技能がある連中で一番上にいるのを数人。交渉に使うものがあったら全部、家の倉からの持ち出しで構わないわ。いいわね?」
やはり魔力の人型は落ち着かない様子であっちでウロウロ、こっちでウロウロしていたが、結局は溜息を吐くようにして頷き、鋼の壁にある小さな扉から出て行った。
「良いのですか? お母様」
老女の背後でいつの間にか黒いローブを着た者が一人。
ポツリと呟く。
「良いのよ。所詮、この世は泡沫と生まれた時に決まっていた。何も必要だから取っておいたわけじゃないわ。どんなに望んでも永久の縁(よすが)は残らない」
「………昔、よく話して下さいましたね。永久の縁(よすが)の彼方まで、貴方の事を想う人……そういう女になりなさいと」
「おほほ。そんな事言ったかしら? すっかりお婆ちゃんになったから、忘れちゃったわ」
「……娼婦であった頃。自分には何もないと思っていた。けれど、確かに運命はあるのだと。いや、運命よりも強いものがあるのだと。そう知ったから、自分は戦い続けられたと」
「歳を取るというのは過ごした日々が遠くなってしまうという事なの。それもまた良いものだけれど、やっぱり振り返る事が多くなる。でも、そうしてばかりはいられない。いえ、そうしていてはいけないのよ、あたしは……抱く思いが消えていく。ならば、残そうと願う。そういうのはもう終わってゆく者だけの特権」
「まだまだ若いですよ。お母様は」
「……こんなお婆ちゃんになるなんて、あの寒い路地で男を取っていた時には思ってもいなかった。いつかという程でもない未来にはロクでもない病気でも貰って、何も出来なくなった挙句……今まで自分が見捨ててきた隣人みたいに痩せ細って誰にも看取られずに蛆と膿に塗れて死ぬんだと思ってた。今より先に何一つ大切なものなんて無いと思ってたのね……」
「………」
「覚えておきなさい。人の生き様に貴賎無し。でも、優劣は付くのよ。だから、あたしは……死ぬまで戦い続けるわ。あの頃、歩き出したからこの夢の国に辿り着いた。けれど、それは始まりにしか過ぎなかった。今もそう……あたしの人生は此処からが本番………終わってられないのよ」
「………」
「貴方の家に以降の事は任せます。遣り遂げてみなさい。これは親として子供である貴方に与える最初で最後の宿題よ。期限は一年」
「必ず……」
「期待せずに待ってるわ。他の子にも其々宿題を出したけれど、貴女に出したものは一番難しい……我が子を育てるようにおやりなさい」
老女の背後でローブ姿の女がそっと頭を下げて扉の先へと消えていった。
さて、と。
そう老女が歩き出し、台座の前までやってくる。
鋼の玉はもう存在しない。
しかし、彼女の手が虚空を捻るような仕草をした途端。
その台座が罅割れ、粉々に砕けた。
サラサラと音を立てて砂となったものの内部。
白布で包まれた人型の物体が現れる。
「………」
老女が腕を虚空に広げると人型が浮かび上がり、胎児のように身を丸めて、その手の中に納まった。
耀く遥か頭上の先には真昼の月が掛かっている。
「砂漠を見た事の無いあたしに雪原は似てるって言ったわよね。何一つも掴む事に意味の無い世界。けれど、進むべき道は確かに存在するって……」
布が一人手に解けていく。
「魔術は幻想ではなく。その人の願う望んだ形……ならば、あたしのコレはきっと……この日の為にあったのね……」
華が開くように。
しかし、それが途中で止まる。
「こんにちわ。お嬢さん」
老女は背後にいつの間にか存在する招かれざる客の声に唇を忌々しそうに曲げた。
「あらあら、こんなお婆ちゃんの背後を取るなんて、紳士のする事じゃないわ」
「背後を取る等とは……お嬢さんの背中が少し寂しげだったので声を掛けるべきかと悩んでいたまでの事……不意の来訪はお詫びしますよ」
誠実そうな五十台程だろう渋くも落ち着いた柔らかい声音。
老女の背後にいたのは若い時の優男ぶりが分かりそうでありながらも、何処か笑顔の優しい灰色の肌をした紳士だった。
細面に銀髪。
黒い礼服と長い帽子と外套、杖と靴まで調った社交界なら少し胡散臭いとも思われるだろう【高紳(ジェントリ)】だ。
整えられた顎鬚。
眼差しは未だ力強く。
その口元の笑みは決して揺るがないようにも思えるだろう。
「何をしに来たの? 公爵」
「本日はお別れを言いに」
「お別れ?」
「ええ……実はこれより大陸中央へ旅立つ事になりまして」
「そう。じゃあ、とっとと行って頂戴な。これからこっちは忙しいのよ」
「……時が経つのは早いものですね。お嬢さんが運命の消えた世界で糸を紡ぐ者になるとは……」
「あたしは蜘蛛じゃないっての」
「ははは、いや、失敬。それでなのですが、実はお嬢さんに贈り物をしたいと思いまして」
「結構よ」
「そう言わずに。まだ、三つしか揃えられていないのでしょう? 実はこの国を出るに辺り、身の回りの整理をしていたら、色々と出てきまして」
「整理、ねぇ……」
「外套と剣、杖と薬、お譲りしますよ」
「………本当に出て行くつもりなの?」
「ええ、此処でやりたい事はやり尽しました。騒がしくなる前にあちらでやらなければならない事がある……これはお嬢さんとの友誼(ゆうぎ)の証に……」
老女が人型をそのままに後ろを振り返る。
少し青白い肌をしたにこやかな紳士は大きな旅行用のトランクを片手に帽子を取り、腕を折って礼をしていた。
「………いいわ。受け取ってあげる」
「ありがとう。我が青春の君よ」
「気色悪いから、それは止めて」
「ふふ、嫌われたものだ……こちらです。どうぞお納め下さい」
男が帽子を持った手でサッと虚空を仰ぐ。
すると、老女の前に魔力の耀きと同時に男の言っていた品が現れる。
黒い外套。
東方の刃。
鋼の杖。
小さな薬瓶。
「確かに受け取ったわ……」
老女が指を弾くとソレらが全て再び虚空に消え去る。
「では、これでお暇させて頂きます。また何処かで会いましょう。お嬢さん」
優雅にまた一礼して。
男が帽子を被り直すとトランクを片手に背中を向けて歩き出した。
「……一体、何をしに行こうというのかしら。“クラウゼン公爵”」
男が立ち止まり、振り返りもせず。
「あの子が見た未来を変えに……」
小さく呟いた。
「そう……時が来たのね」
緩々と男は首を横に振る。
「時が来たのではありません。我々が進んだのですよ……」
最後にそう言い残して、その紳士は小さな扉から退出していった。
「………」
再び台座だった砂山の虚空で浮遊する解け掛けた布の人型を振り返って。
老女は小さく溜息を吐く。
「さぁ、始めましょうか。あの日の約束を果たす為に」
老女は優しく手で布を剥ぎ。
出てきた顔に微笑み掛ける。
「此処が貴方の望んだ未来である事を願うわ」
その声は確かに……少しだけ少女のような無垢なる響きを宿していた。
*
―――大陸北東部エルデナンド皇国領。
「何ッだよ。コレは!?!」
「人の屍骸以外の何かに見えるのか?」
「ッ、そういう事を言ってるんじゃねぇ。こんなッ、ここらは七教会とは縁遠いって話は聞いてるッ!! だけど、どうして連中がやって来てないんだ!!? あいつらはこういう事態が起きる時は必ず介入してくるってアンタ言ってたじゃないか!!!」
人が焼ける臭いというのはあまり一般的ではないが、戦場でなら嗅ぐ事もあるだろう。
人の腐る臭いというやつも未だ土葬が主流で公衆衛生の観念が行き届かない国家なら墓地の近くで知る場合も在り得る。
人の血の臭いなんてものならば、戦場でなくとも人は知る機会に恵まれるはずだ。
それが女ならば日常的であろうし、男ならば……喧嘩に決闘に戦場に路地裏に、ともかく危ない橋を渡る事があれば、まぁまぁ感じ取る事もあるものだ。
「……酷過ぎるだろ……」
激昂していた声の主はその声と同時に目の前に広がる光景と咽返る臭いに苦渋を滲ませて、搾り出すように呟き、唇を噛んだ。
一言では到底言い表せそうにもない国家の成れの果て。
いや、国家の中枢たる王城があったはずの場所。
其処にはただ臭いが立ち込めていた。
腐臭でも死臭でも血臭でもない。
それは華の臭いだ。
ただの華ではない。
人の口から生えた肉の華。
グロテスクであるはずの屍が何かのオブジェのようにも思える程、大量に……ただ、大量に……まだ心臓と内臓が動かしたまま……頭部だけを苗床にしてソレは華を咲かせていた。
赤黒い腑を切り開いて創ったと言われても頷けるだろう……おぞましいソレは城下一面の道端に生えている。
「……オイ。今、あっちに誰か見えた」
「そんなはずは……」
激昂していた声の主が大陸の地方なら何処にでもあるだろう煉瓦と木造を組み合わせた建造物の合間。
小便臭く薄暗い小道へと奔っていく。
本日は生憎の小雨日和。
己の外套が腐泥で塗れるのも厭わず。
(やれやれ……調査に来て見れば、コレか……七教会からアレが奪われたって言うのもあながち嘘じゃなさそうだ。このクラスの状況が起きる……まるで、七教会創設期よりも前……あの懐かしい日々が追い掛けてきたみたいじゃないか……)
ゴツイ鋼の鋲で留められた革靴で石畳を響かせて。
声の主を追って、呆れていた者が追う。
すると。
『大丈夫か!? オイ!? オイ?! しっかりしろよ!?』
そう、若く狂乱する悲鳴のような声。
いや、確かに悲鳴なのだろう必死な大声が響いた。
急いだ革靴の主は声の主を見付けて。
その腕の中に小さな襤褸着れを纏ったエルフの少女を見付ける。
どうやら、致命傷に近い傷を負っているらしい。
その背中には血に塗れた矢が十本と言わず。
見る限り、数えるには手間なだけ生えていた。
「クソッ?! オイ!? アンタ!? この子、助けられるだろ!? なぁ!? 助けてやってくれよ!?」
「………これが元凶か」
革靴の主が僅かに目を見開いて呟く。
「なぁ!? 何ボサッとしてんだよ!? この子!? まだ、生きてるんだぞ!? 死んでないんだぞ!?」
声の主は怒っていた。
必死だった。
確かにそれは純粋な嘆きだった。
助けたいと。
本当に心の底からの嘆願に違いなかった。
だが、革靴の主は泣きそうな声の主の中で少女が本当に綺麗な笑みで……本当に純真で無垢なのだろう死に際の笑みで……終わりを迎えようとしているのを察し―――。
咄嗟、声の主の首根っこを掴んで自分の背後へと思い切りブン投げた。
無論、少女の身体は宙を舞う。
そのあまりにも無情な革靴の主の行いに烈火の如き怒りと。
何よりも純粋な軽蔑の眼差しが向けられる。
それでも無常過ぎる選択をした……“彼”はザッと己の腰にある六種類の薬品の入った小瓶を目の前に放り投げ、虚空でぶつけて割り砕き、内容物たる劇薬を混合し、背後へと躊躇無く飛び退いた。
それから刹那、時間が止まったかのような、背後からのあまりの出来事に思考停止した後に来る……憎悪にも等しい視線を受けつつ。
腰から抜いた拳銃が0.25秒間に4連射。
宙を舞うエルフの少女の頭部を狙って放たれ。
弾丸が、虚空で背後からの剣の投擲で弾かれ。
爆裂する薬品の衝撃が二人をその場から弾き飛ばした。
「お前ぇええええええええええええええ!?!!」
その声が響き終わるより先に火炎がエルフの少女の肉体を飲み込み。
内部で急激な酸化現象を引き起こして、瞬時に全身を痛みすらなく火葬する。
だが、それでも遅い。
遅過ぎる。
カキュン。
そんな音と共にエルフの少女の頭部が黒い正方形状の物体へと昇華され、その内部から虹色の光弾が二人に向けて放たれた。
だが、肉体の消滅が一瞬遅れて全てを解決する。
攻撃は途中で頭部を覆っていた現象を途絶させ。
幼い肉体を完全に灰と化させたのだ。
爆発が終わって二秒後。
一体、何があったのかと呆然としながら、それでも咄嗟に受身を取りながら立ち上がった声の主は……自分の前で片腕の外側を抉られた男が蹲るのを見つめた。
「な、何が……あの子、どうなって?!」
「っく。そういう、事か……性質が悪過ぎる……ああ、そりゃぁ……国一つ滅ぶだろうよ」
「オイ?! 一体何がどうなってるんだ!? その傷!? あの子の頭が、く、黒くなった時に出てきた魔力の塊みたいなので!?」
革靴の主がゆっくりと立ち上がり、後ろを向いた。
「人間はな。邪悪なものには敏感だが、善意には鈍いもんなんだよ」
「―――」
「この仕掛けを作った奴はそれがよくよく分かってる。この分だと、今の子みたいなのがまだ何処かに沢山いるだろうな」
「?!!」
「七教会が聖女抜きじゃ絶対に解決出来ない状況だ……悪いが、救う気でいるなら殺すしかない。だから、此処の連中は……“同士討ち”の跡があったんだろうさ」
「何なんだ!? 一体、何なんだよ!!? ソレ?!! どうしてこんな事?!!」
ザアザアと雨が降り出した路地裏で。
革靴の主は声の主にこう呟いた。
「帰るぞ。お前の戦場もオレの戦場も此処じゃない。こいつは……聖女や魔王、そういう世界の理側の領分だ。少なくとも、法術師なんかの領分じゃないし、神の領分でも無い」
「答えろよ!? 何でアンタそうなんだ!? 人が死んでるんだぞ!? あの子がッ、さっき―――さっき痛いはずなのに笑ってた子が……オレなんかの為に心配掛けないよう……笑ってくれてた子がッ……死んだんだぞ……」
ポロポロと落ちるものは雨に紛れて。
搾り出すような声の先で項垂れた頭の下で。
拳が、何よりも白い拳が、握り締められる。
「……正義の味方じゃ救えない。世界の守護者じゃ守れない。悪の道でも不可能だ。でも、お前が本当に……ああいうものに対峙しようと言うのなら、誰も殺さぬ覚悟、正義から裏切られる覚悟、世界を敵に回す覚悟、何より……」
腕を庇っていた手が差し出される。
「自分を捨てる覚悟が必要だ。それでもいいなら、解決方法を教えてやる」
「解決、出来る、のか?」
その雨に俯いた呟きに頷きが返る。
「ラフィール。お前のかあさん達にオレは約束した。お前が為りたい者に為る手助けを、と……だから、まずは最強である事を示せ」
「最強?」
「何者にも屈しない強さ。全てを捻じ曲げる力。己を貫く意志。この世の全てを敵に回しても尚、勝らなければ、何も変えられやしない。ご立派な事を言いたいなら、お前はそれに見合う代価を払わなければならないって事だ」
「……代価……」
「差し当たっては帰って個人で大蔡に勝つ準備をしろ。王族とヴァルキリスを倒せる程度の力を得たら、お前の願いに一番近い道を考えてやる。それまではその感情、心の内に留めおけ。この一件に関わりたいなら、ソレが最低限のスタートラインだ」
「本当、だな?」
「ああ、二言は無い。それまでには事態も動いているし、オレのところにも詳しい情報が集まっているだろう。御三家たるお前の家なら、この世で最も怖ろしいモノと戦う為の準備くらいある」
「……分かったよ。先生……」
「素直でよろしい。では、往け。ベリアステル聖神使国の外交官たるオレの名で武官であるお前に帰国命令を出す」
「ああ、アンタの宿題……確かに受け取った!!」
革靴の主が己の腕の傷に構わず。
立ち上がって頷くと。
流れ出た己の血が滲む川となりつつある地面に両手を翳した。
途端、小さな城砦都市。
その壁内部へ光が射し始めた。
それは地面から吹き上がり、伝播し、領域全てを照らし出し、倒れている苗床達を溶解させて土に還し、雲へと焼き付く程の光量の方陣へと形を収束させていく。
「まずは墓を作ってやろう。それからオレは周辺を回って状況を探る。随時、経過報告はしてやるから、ちゃんと帰れよ」
「わ、分かった……」
「……せめて、祈ってやれ。此処の事は後で七教会に連絡する」
「ああ……」
二つの手がそっと胸に当てられ、黙祷が捧げられる。
「(この状況では周辺の街や村々も……この国の生き残りがどれだけいる事やら……数年前に魔王へ王女が生贄に出されたと言うが……エルデナンドの皇族がもう魔王の娼婦1人切りとは……世の中、何があるか分からんな……)」
革靴の主は描き出された陣が雲を掻き消し、差し込む光の中で小さく溜息を吐いた。
外交官として新米の部下へ初めての実地研修をさせた当日にその当人を失うというのだから、ついてないという言葉は既に通り越しているだろう。
「眠れ。常しえの安息がまた煉獄の環へ還るまで」
七教会の部隊がようやく到着したのは黄昏時の事。
彼らが見たのは壁の中にある無数の無骨な石の墓標とその全てに手向けられた一輪の白い花。
そして、魂の安息を願う壁一面に書き込まれた鎮魂の呪言という……一角の者に捧げられて然るべき丁寧な弔いの形だった。
*
チクタク、チクタク、チクタク、チクタク。
発条(ぜんまい)も無いというのに柱時計は正確に時を刻む。
本日は満月。
いや、そもそも月など出ていないが、天に蓋する蒼き星。
六年前から月を覆い隠すソレが満天を満たしていた。
現在、本星との間に抱える“外なる神々の窓”と呼ばれる物体は聖女の封印によって閉ざされ、月の満ち欠けの如く、今や大陸に莫大な富を齎す大資源産出地帯を時間と共に隠しては曝すという軌道を繰り返し周回している。
六年前より昔を知る者達は懐かしい三日月や半月にも似た蒼い星の有様に一時の歓びを得ている者もあるだろう。
煌々と空を飾る大きな光の塊に月見だと空を見上げる風流は今も昔も変わらず。
それは魔王の大地。
ハルトゥムにおいても同様。
六年前と同じ月の同じ日。
二日前に出された急な出立の話にハルトゥムに住まう者達が右往左往しながらも、小さな催しを各々の家で開いたのは正しく風流を解する故であった。
家の明かりはまだまだ少ないが、大陸の中心地たる魔王の館は程よい高さの場所にあり、人々が東部風の菓子である団子を手に高原や丘でのんびりと空を眺める様子を見る事が出来る。
「……セイリ。そちらの飲み物を取ってくれ」
「はい。分かりました。これでいいですか?」
「ああ、我が持ってきた団子の入った包みだ」
「余が持ってきた酒もあるぞ」
「今日は我々三人の貸切……努々、邪魔者は無いと知れ。魔王様」
「何だか、不思議な気分です。君が私の傍にいるなんて……ティア」
セイリ・ティウアズライト・エルメトロ・ニェハエル
鼈甲色の瑠織の衣装を纏い。
今や藩落の政治を一手に司る纏め役にして最大の権力者となった女王。
有力な都市国家の将軍の血筋である彼女はようやくまともに時間が取れて傍にいられるようになった少年へ微笑んだ。
「何だか、大人っぽくなった? セイリ」
「ええ、大人になりましたとも。君に助けられてから……色々と大変でした……ですが、あの夜の事を一度だって忘れた事はありません」
少年が肉体より旅立つ前。
交わした逢瀬は未だ彼女達の胸に熱く息衝いている。
「まぁ、肉体の成長は止まっていないが、老化しなくなるやら容姿の変化が無くなるやら、諸々事件はあったがな」
イフィミスラ・ハージェット・テトス・エルデナンド。
大陸北東部にある小国の姫であり、魔王に捧げられた生贄。
その幼子だったはずの少女は灰金の髪を伸ばしてこそいたが、当時からまったく変わらぬと言っていいだろう姿で魔術師の良く着る紺のローブに旅人風の衣装を身に付け、肩を竦めていた。
今は窮屈だからと容姿を変える魔術を切っているのだ。
「若作りするような歳ではありませんが、大人になってから感謝する事にはなるかもしれませんね」
セイリとてそれは同じ。
年を経たとは到底思えない。
成長期の少女にあるまじき身体の無変化さは少年と関わった少女達の宿命なのかもしれず。
彼女は……まだ分からない若さとやらの有り難味に苦笑していた。
「思春期特有の嬉し恥ずかし身体の成長記録が余から奪われた事は多大な損失であったが、此処は若作りの必要が無くなったと世の女達からやっかまれる我が身の幸運で相殺しておこう」
小麦色の肌に僅か茶の混じる金髪。
香油で整えられた尻尾のように長い御髪は金の装飾で結わえられ。
その横顔の美しさはさすが皇族と言ったところか。
瞳孔の存在しない菫色の左瞳がキロリと少年を見てウィンクする。
エト・エイラル・エイム・イグニシア・クルシス。
少年よりも少し高い背は未だ変わらず。
それどころか白いワンピースに百花繚乱な褐色の外套も同じまま。
あの変わったセンスで未だ帝国臣民達から『陛下の芸術だけは理解出来ない』と言われる皇帝は色々あっただろうに聊かも……心すら時を経たようには見えず。
ある意味ではずっと変わらない皇帝という位の重責を軽やかに弄んで、昔のまま少年に明るく皮肉げな笑みを浮かべていた。
『陛下ぁああああああああああぁああ!!! この千年醸造の酒樽で良いのですかぁああああ!? ハッ!? だが、この酒は辛口!!? 甘味には合わないのでは?! くッ!? ならば、まずは調味酒にするべきだったのか!? た、只今お待ちをおおおおおお!!? い、今からさっそく甘味にも合うようメイドにやらせますので!!!?』
『だ、誰がメイドよ!? 従者でしょ!! 従者!! あるいは侍従!! こっちにはエリザリド・エンタンレ・ディオノースって名前があんのよ!? この【皇帝狂(エトダイスキ)】!!!』
『何?! お前もようやく陛下の事を!? く、あの我々の大冒険も決して無駄では無かったのか!? このエーレイン・L・アルバストレ!! 感動したぞ!?』
『え、いや?! あんたと一緒にしないでよ!? 何で泣いてるの!? ガチ泣き?! 前後の文脈で意味を推し量りなさいよ!? どんだけ自分が貶されてるのか知りなさいよ?!』
『陛下ぁあああぁあああ!!? エリザが!! エリザが!! ようやく陛下の素晴らしさをおおおおおお!!?』
『人の話何にも聞いてないとか?!!』
あまりの喧騒に皇帝本人が風流もぶち壊しだとゲッソリした様子で聞こえないフリをする。
「……あはは、二人共元気そうで良かった……」
少年の言葉に皇帝はジト目になった。
「何なら、毎日あの喧騒と戯れてみるか?」
「謹んで遠慮しておこう、かな?」
さすがの魔王とて、物には限度というものがある。
「君は本当に変わらないのですね。いえ、少し昔とは違うようにも見える。でも、やはり……本質は何も変わっていないと思えます」
「そう?」
「ええ」
セイリがコクリと頷く。
「此処で色々あったから」
その言葉に団子を咀嚼していたイフィミスラがエトに続いてジト目となった。
「色々、か。その色々とは新しい女を次々に侍らせてハーレムを作った挙句、全員と関係を持った事か? それとも実の娘や過去の女まで含めて全員孕ませた事か? この六年ずっとお前を助ける為に奔走していた我に教えてくれないか? ティア」
とりあえず棘だけは自分の為にたっぷりと用意されていると知って、少年の笑みが曖昧になる。
「あ、はは……うん、まぁ……その……」
目が泳ぐ。
だが、泳がせた先にもイフィミスラと同じ瞳があった。
「そうですね。ハルトゥムのいきなりの出発で色々と予定も狂いました。本当に誰かさんのせいで私達全員が翻弄されていますね。ええ、別に誰かさんを責める気などこれっぽっちもありませんが」
セイリはニコリと笑う。
「余はこの六年間、仕事漬けであったぞ? ああ、まったく反七教会派作りで大陸各地の要人と三千回は会合を重ねたな。いや、本当に有意義な時間であった。ああ、まったくもって退屈とは無縁だったとも」
エトが鼠を苛める猫のような瞳で少年を見つめた。
「……みんな、大変だったんだ……その……ご苦労様」
「当たり前です」
「当たり前だ」
「当たり前であろう」
彼女達の間で縮んだ少年の持つコップに大型の氷の入った水差しから三人が次々にお酌をして、時間はゆっくりと過ぎていく。
「色々と聞きたい事とかあるかもしれないけど、僕も……みんながこの数年何をしてたのか聞いてみたいかな……随分と心配掛けちゃっただろうし」
その毒気を抜かれる事この上ない少年の優しげな瞳に三人は溜息を吐いた。
そう言われて、今までの不満なんて嘘のように、意気軒昂とした文句がシオシオと口内から消え去り、胃の腑の底に消えていくのを誰もが感じたからである。
「話してやりたいのは山々だが、一晩二晩で足りるとは到底思えないな。我とて何から話していいのか迷うぞ?」
「じゃあ、僕がアルヴァスで起きた頃辺りから聞いていい?」
「……ふむ。調度いいか」
「調度良いって?」
首を傾げた少年にイフィミスラが少しだけ真剣な顔を向ける。
「……お前に謝らねばならない事がある。ティア」
「?」
「貰ったお守りを他の者に貸して……壊してしまった」
「お守りって、もしかして水晶玉の事?」
「そうだ……お前が我やエフィリム達に渡してくれたものだ……お前の……お前の大切な部分の一部……我を何度も助けてくれた……この国でなら【源理粒子(イデアル)】と言ったか……」
罰が悪そうな顔。
それよりも貰った大切な絆の証を無くしたという事実こそが、イフィミスラの顔を曇らせていた。
「そんなに大そうなものじゃないよ。アレは僕の我侭で……いつも傍にいられない自分の代わりにって……そういう自分の不甲斐なさを補おうって代物だし……」
「大そうなものでないわけあるか。アレはお前の……お前の……心臓、なのだろう?」
他の二人は僅かに驚いた顔をしたものの。
すぐに少年ならやるだろうと内心で納得した。
「我がお守りを貸した者は助かった……だから、感謝している……そして、済まなかった」
頭を下げた少女の何とも言えない切なくも苦い表情に少年は堪らず。
そっと、その頭を胸に抱いた。
「そんなに気にしないで。誰が言わなくても此処にあるのは世界一安い命……僕は魔王で……君に迷惑ばっかり掛けてるって事に変わり無いんだから……」
「―――馬鹿、我が気にする……」
「うん」
優しく灰金の髪が撫ぜられる。
「まだ言ってなかったけど、そうやって伸ばしてるのも可愛いよ。イフィミスラ」
「ッッ……馬鹿者……そういうのは再会した時に言うものだ」
「ごめん……」
横で二人を見ていた少女達は少しだけ羨ましさと嫉妬を覚えながらも、その少年の愚直なまでの有無を言わせぬ優しさに笑みを浮かべるしかなかった。
気にしなくていいと言ったら、気にしなくていい。
そう納得させてしまえるだけの力強さが確かに少年の抱擁には宿っている。
「出会った頃、君は『気に入ったものが失われるのは忍びない。君は少なくともまだ此処で立ち止まるべきじゃない。そう思うから』……そう言いましたね。今、私は君にこう返せます」
セイリが僅かに微笑み呟く。
「貴方が傷付く事で自分も傷付く人がいる。だから、自分を大切にして下さい」
「セイリ………ありがとう」
「少しは余達を頼れ。お前は決して一人ではない。忘れるな……此処にいるのは誰もがお前に救われ、お前に親しみ、お前を求め、お前が傍にいるのを望む者達なのだと」
「エト……」
照れ臭そうに視線を逸らして。
皇帝陛下がそっと少年の左側に身を寄せる。
対抗心を燃やした様子でセイリもまた反対側に身を寄せた。
「……お前がこの国で目覚めた頃の話、だったな」
僅かに目元を袖で拭って、気を取り直し。
少年の腕の中でイフィミスラが笑みを浮かべると静かに語り始める。
「相応に長いが、語って聞かせよう。きっと、お前と共に歩いた日々と同じに忘れられない思い出を……」
少女は検めて蒼き星を見上げた。
「あの天に蓋する蒼き星……メイズにあの頃、我は七教会の船で密航していたのだ。お前の記憶……唯一場所が知れたソレを開放する為に……それが始まり……お前の事を想って……船のコンテナの中で少しだけ……泣いていた。そんな時だった……あいつに出会ったのは―――」
少女の瞳が向けられた蒼き月の光に照らされて、優しげな耀きを放ち。
声は夜の喧騒に甘く。
砂糖のように溶けていった。