第二節「風見鶏の流儀」
―――民よ。
―――このファルティオーナにある全ての民よ。
―――まずは祝いの言葉を述べよう。
―――新たなる時代の幕開けに。
―――人の新天地を目指す姿に。
―――あの日より五年。
―――我ら大陸の民は空を見上げ続けてきた。
―――須(すべか)らく多くの種も同様だろう。
―――此処には未知がある。
―――人の知らぬ未来がある。
―――この夜だろうと燦々(さんさん)と輝く【天蓋蒼星(メイズ)】の地にて。
―――栄光と繁栄を掴みたいと願いし者達よ。
―――今此処にイグニシア・クルシス皇帝たる余の名において宣言する。
―――我ら大陸数千の全国家全国民の壮大なる願いを受けて立ち上がり。
―――あらゆる富と資源をその手で持ち帰るがいい。
―――此処に全国家の総代である余。
―――エト・エイラル・エイム・イグニシア・クルシスと。
―――マシア・ミクニス・アルヴィッツの連名にて。
―――七教会の名の下。
―――【天蓋蒼星(メイズ)】の真の解禁を承認する。
音声だけが遍く大陸の隅々にまで響いていた。
工業や商業あらゆる道徳基準の向上を齎す【近代化(レボリュション)】の発信地。
大陸中央諸国では歴史的な一頁(ページ)が虚空に映像で映し出され、多くの民が足を止めて空を見上げている。
青き天蓋の星。
【天蓋蒼星(メイズ)】
それは月の代わりに人々が毎日見る事となった大地の名だ。
五年前に突如として現われたソレは空を覆い、新たなる新天地として人々に期待された。
大陸秩序の再編に励む七人の聖女。
その手足たる七教会が調査して五年目。
問題無しとの結果に大陸各国は新天地の解放を請願し、二人の総代を立てた。
一人は大陸南部数百の国家を手中に収めた大帝国。
イグニシア・クルシスの皇帝。
一人は大陸中央諸国、文化と民主主義と教会の中心地たる大国。
アルヴィッツの元国王。
麗(うるわ)しき少女と矍鑠(かくしゃく)たる老人。
二人が同時に一枚の紙に名を連ねる事になるとは人々も五年前なら思ってもみなかっただろう。
大陸に普及し始めた新聞という文化は次の日には大陸中央から全土へ二人の写真付きの記事を薄い灰色の紙に印刷してばら撒くに違いなかった。
「おぇ~~~」
そんな歴史的な音声に耳を傾ける様子もなく。
当の【天蓋蒼星(メイズ)】の極北でイルト・イナーシタは喉の奥から込み上げるものを吐いていた。
岩陰での事である。
軍艦からスッポリ外に飛び出して、死のダイブを経験したのだ。
『あ、オレ死ぬな』と言う身も蓋も無い思考が頭を過ぎってから数十分後。
灰金(アッシュ・ブロンド)の少女イフィーに魔術で減速して貰った成果か。
五体満足で大地に降り立ったイルトは今も続く身体の不調に情けない顔で呻いていた。
「風情も何もあったものではないな」
やれやれと呆れながら。
吊目な少女は一人空に映し出される巨大に過ぎる映像へ見入っていた。
「うぷ。んな事言われても……」
「まぁ、吐き気が治まるまでは待つ。早めにな。えー、イラト?」
「イルトだよ!? さっきも間違ったよな!? オレ、言ったよね!? イルトだって!!」
「細かい事はいいではないか。男の器が小さくなるぞ?」
「うぅ……何か考えてみれば、オレまた罪状が増えたような気も……」
「我が知る限り、軍艦の破壊は超重罪。労働付きで無期懲役か死罪だったか?」
「それでもあんま代わらない罪状が恨めしいぜ。特に死罪とか死罪とか死罪とか」
どんよりと項垂れるイルトの肩がポンポン叩かれた。
「更に重犯罪者の逃亡幇助。危険物取り扱い法違反。他にも幾つか当て嵌まる。気にするな」
「それ慰めてる!? ねぇ、ホントに慰めてる!?」
思わず喚いて後ろを振り返るイルトだったが、少女の顔を見て『うっ?!』とタジタジになる。
「?」
そんなイルトにイフィーが首を傾げる。
少女は自分がイルトのド直球ストライクゾーンを射抜いているとは知らない。
「はぁ……で、ファサルトスさん。あんたは一体全体どんな悪い事したんだ?」
「七教会の研究機関から情報を収奪したり、七教会の研究機関から成果を強奪したり、追ってくる治安部隊を粉砕したり、各国の軍事機密を頂戴したり、七聖女の倉庫を漁ったり、喧嘩を売ってきた魔術結社を六か七程壊滅させたり、だったか?」
「うあぁぁぁ……ガチのテロリストかよ。そして、何故疑問系なんだ?」
ドン引きなイルトに『失礼なッ』という顔でイフィーが反論した。
「テロリストではない。我は個人的な用件で七教会と敵対しているだけだ。死人を出す革命闘士の過激派と同じ扱いはして欲しくないな」
「もしかしてオレ。とんでもない間違いを犯したかもしれないぜ。師匠」
ヒシッと両手を組んで何処にいるかも分からない師に今の心情を伝えてみるも、何が返ってくるわけでもなく。
虚しくなったイルトは口元をボロい布切れで拭いて体のあちこちを自己診断し始めた。
何度か肉体を動かして問題無しと確認した後。
ガシッとイフィーの手が掴まれる。
「何だ?」
「自首、しよう」
半眼になったイフィーにイルトが目をキラキラさせながら懺悔を強い始めた。
半ば現実逃避だろう。
「大丈夫だって!? オレ達まだ若いし!!?」
「ちなみにアンデリットの法では重犯罪者は縛り首+魔導による極限の拷問+魂の浄化という名目の魂魄洗浄。確か本も出ていたな。冤罪で掴まって刑が半分執行されて生き残った人間の本が。ちなみにどうなったかは聞かない方がいい。我も口に出すのは憚(はばか)られる」
「さ、さっさと近くの街まで行こうぜ!! 飯が食いたくなってきた!!?」
恐れをなしたイルトはサッと変わり身も早く白い歯を煌めかせた。
「理解してくれたようで何よりだ」
手を振り解きつつ、イフィーが太陽と遠方に見える巨大な竜巻から方角と場所を推測し始める。
「ふむ。まずは西に行こう。港より少し手前に街があるはずだ。我の待ち人もきっと其処にいる。お前は……他の国の艦に紛れ込めれば帰る算段くらいは付くだろう」
イフィーがさっそく歩き出し、イルトもそれに従った。
「あんた何か凄げーな。ファサルトスさん」
「その薄気味悪いさん付けは必要ない。我の事はイフィーでいい」
「いや、さすがにそれは……」
「何か問題でもあるのか?」
「オレ達まだ出会ったばかりだろ? 女の子を呼び捨てってのはどうかと……」
「お前は……大陸中央の出なのだな」
「どういう事だ?」
「いや、何でもない」
荒野を歩きながらの道程。
そもそもイフィーに全てを委ねた状況である。
ほぼ選択肢という選択肢がないイルトにしてみれば。
現在の事態は予想外の斜め上。
完全に制御不能な未来というやつだ。
(オレ、人生踏み外してるよな? たぶん)
会話を冗談風にしてみたところで何一つ本質は変わっていない。
イルトは錬金術師の卵という以外には取り立てて何かあるわけでもない普通の一般人だ。
普段は意識せずとも法律は遵守するべきだと思うし、警邏の治安部隊にも敬意くらい払う。
今回の事態は殆ど師を追いかけたいという衝動から出たもので、もしイフィーの介入が無ければ、大人しく本国に連れ戻されて刑に服していただろう。
(でも、放っておけないと言うか。か、可愛いと言うか)
チラリとイルトが横目にイフィーを見る。
口を開いて話していなければ、何処かのお嬢様のような容姿。
冗談で誤魔化していた時とは違い考える余裕が出てくると彼の脳裏は気になる事で一杯だった。
(そういや、手握っちゃったなオレ。おぉう!? この苦節十七年彼女がいない=人生というオレがオンナノコの手を握ってしまったというのですか!? これが吊り橋効果の魔力!!?)
余裕が出れば欲も出る。
更にこんなに可愛い女の子と荒野の中で二人きり。
マジデー。
チョーキテルンデスケド。
これがモテ期!!?
そんなニヤニヤが止まらなくなりそうな己と『テロリストダメ、絶対!!』的醒めた自分が悪魔と天使の如くぶつかって、イルトの顔を百面相よろしく凄まじい顔芸へと追い立てていく。
「ふ、神経が太いのか。それとも馬鹿なのか。分からないな。お前は……」
「お、男の顔には秘密が一杯なんだぜ!?」
イルトは片手で顔を覆って伏せた。
明らかに動揺し過ぎだ。
師に今の自分を見られたら、恥ずかしさのあまり死ねる。
彼は妙に浮かれた気分を振り払うよう首を横へ振った。
「と、ところであんた。イ、イフィーは、さ」
何とかウィットに飛んだ知的会話術で話し掛けようとした刹那。
少女がイルトを横っ飛びに押し倒した。
「おおぉうう!!? そ、そんなまだ早いって!? まだ昼間だぜ!!!? というか!!? オレ達出会ったばっかだし!!? 何故こんなに積極的なんだよ!!!?」
「何を喚いているのか知らないが、まずは状況を見ろ!!?」
「へ? 何の? のぉおおおおおおおってぇえええええ!!!?」
ザクン。
イルトの顔の真横に黒くスベスベとした金属光沢で平たいもの。
つまり、剣が突き刺さっていた。
ゴロゴロと転がって剣から遠ざかり、立ち上がった彼が見たのは周囲に浮かぶ複数の黒い刃だった。
「な、何なんだ!? 魔導か!? 魔術具の類か!? あの軍人連中の差し金なのか!?」
「違う」
埃を払って素早く立ち上がったイフィーが瞳を細める。
「これが噂の【剣獣(ソーディアス)】か!!」
「噂って何だよ?!」
イフィーの視線が何かダメなものを見るような色を帯びた。
「お前は本当に残念な頭をしているのだな。イルト」
「ちょ、初対面でガツガツ人の尊厳とか自尊心とか粉々にしてないでくれ!?」
「我は高速の近接戦闘には向かない性質なのだ。十二秒程頼む」
「え!? ええぇ!? いや、オレはしがない錬金術師の卵ぉおおおおおってぇえええええ襲ってくるしぃいい!!?」
浮遊した黒い十数本の剣が一斉に二人へと襲い掛かった。
その形は大陸基準では長剣(ロングソード)に当たるだろうか。
飾り気も何も無い硬質な黒鋼。
誰が柄を持たずとも振るわれる斬撃が褐色の大地に影を落とす。
「ぐぉ。お、重いじゃねぇか、よッッ!!」
咄嗟に懐から取り出した二本の金属棒でイルトが複数の剣を受け切り、力任せに弾き返した。
何とか距離を取りながら代わる代わる襲ってくる剣先を棒が凌いでいく。
「やれば出来るではないか。後ろに下がれ」
「うぐッ。こんなとこで実戦とか?! 師匠に習ってなかったら即死かよ!!?」
振り払った剣から跳び退った瞬間。
イフィーが展開していた魔術様式。
比較的ポピュラーな【秘儀文字(アルカナ)】で描かれた円形の方陣を起動した。
「来たれ雷。疾く我が敵を滅ぼせ!! 【招雷(フルミネ)】」
緻密に描かれた幾何学の刻印が輝きを増す。
それは一瞬で少女の指定した通り、周辺に漂う【大源(マナ)】を吸い上げて電荷を発生させ収斂。
空気を割って、一帯を薙いだ。
激音。
真横に滑る雷撃に黒い剣達が巻き込まれ、崩壊していく。
「うぉ!?」
思わず耳を押さえたイルトの前で剣が罅割れ輝きとなって失せた。
魔術方陣が消えると、ようやく二人の間に静寂が戻ってくる。
「ご苦労だった。イルト」
「勘弁してくれ。オレはただ師匠を追ってきただけなんだぜ?」
ペタンと尻餅を付いて。
平和な大陸中央では考えられない戦闘の余韻にイルトが座り込んだ。
「これが【密碑(キャラクト)】……聞いていた通りか。ならば」
剣達がいた場所で何かを拾っていたイフィーがイルトの傍まで戻ってくる。
「腹が空いていると言っていたな。そう言えば」
「あ、ああ、それがどうかしたのか?」
「何が喰いたい?」
「いや、もう何でもいいって。と言うか。早めに安全な場所へ行きたい……」
ガックリと疲れ果てた様子でイルトが項垂れた。
「では、干し肉でよいか」
カチンとイフィーの手元で硬質な音がして。
輝きが掌に集るとポムッと物体として実体化する。
イルトの前に干乾びた細長い肉の棒が差し出された。
下を向いていた彼は気付かなかったらしい。
「ほれ、これをやる。それと行かねばまた来るぞ?」
「あ、あぁ、ありがとさん。つーか、またとか、また、とか……」
初めて命掛けで剣を捌(さば)いた反動か。
半ばノイローゼのようになったイルトが干し肉を受け取り何とか立ち上がる。
「日暮れまで歩けば目的地。まずはそこで休もう。そろそろ日も暮れる」
言われて初めてイルトは空が夕闇へ移り変わっている事に気付いた。
「これでも巻き込んだ事は気にしているのだ。無事に故郷へ帰るまでは面倒を見る。安心して我に付いてくるといい。命の保障はしよう」
タフで優しい少女の笑みに彼が自嘲したのは言うまでも無い。
「……立場が反対だったら、恰好付くんだけどな。オレ一応男だぜ?」
「いいではないか。男が強ければいいなんて時代でもない。それに我はどちらかと言えば、こういう荒事や冒険の方が性に合っている」
共に戦った連帯感からか。
ほんの少し口角を下げた少女の表情。
それがあまりにも柔らかかったからか。
イルトが顔を逸らしてポリポリと頬を掻いた。
(ああ、オレ凄い勢いで墓穴掘ってる気がする。師匠、テロリストって恋愛対象になるかな?)
ガッチリ、イルトのハートを掴んでいるとも知らず。
イフィーはさっそく彼を伴って歩き出した。
二人が街に着いたのはそれから三時間後。
日が水平線に消える寸前の事だった。
*
一人の少年が街に付き泥のように眠り始めた頃。
夜を迎えたファルティオーナの南部。
広大な帝国を支える大穀倉地帯の一角にて。
【天蓋蒼星(メイズ)】へ直通する転移方陣が小さな館の中庭に生まれていた。
雑草が伸び放題になっている敷地内は外部から石垣によって隠されている。
館の裏。
椅子とテーブルだけのサロンで三人の人間がお茶を嗜んでいた。
「任務の成果を期待します。エーレイン。エリザリド。いえ、今は伯爵、子爵と呼ぶべきですか」
そう二人の女に貴族風の礼服(タキシード)に身を包んだ男が微笑む。
敢えて表現するなら病的な枯木。
骨張った全身とも相まって白骨が喋っているような錯覚を齎す彼こそはイグニシア・クルシス筆頭執政官。
D・グラム・ハイラン。
つまり、皇帝や一部の例外を除けば、実質的には帝国最大の権力者だった。
「いえ、執政官殿。貴方は今も陛下の片腕です。この若輩に畏まる事は露程もありません」
彼の言葉に否定を返したのは帝都守護職ヴァルガンノース総長。
イグニシア・クルシスの中枢である首都【アウテーナム・レクレス】の治安維持を一手に引き受ける女。
エーレイン・ディウアーズ・L・アルバストレ。
嘗て隊長という肩書きながらも四方数十kmに及ぶ大都市を守っていた彼女は……今や伯爵の地位を得て、肩書きも総長という堅苦しいものになっているが、数年前から変わらず男を上司として慕っていた。
紅と黒と金。
三つの色で染め上げられた衣装は彼女の為に仕立てられた特級品だ。
溌剌とした生命力溢れる美貌。
豊満な胸と高い背。
長い赤髪。
それらを包む制服はゆったりと気品を醸し出している。
無論、ただの服ではない。
イグニシア・クルシスが持つ最新の冶金工学や魔術の賜物であり、露出がまったく無い代わりに各所の紐や装飾には幾つも仕掛けが仕込まれ、それ単体で最新の軍艦一隻分にもなろうかという代物でもある。
「そうですよ。ハイランさんは今も昔も私達にとっては上司みたいなものですから、今まで通りエリザで」
エーレインに同調したのは栗色の髪を短く青い紐で結わえたうら若い女だった。
ぴょいんと癖っ毛が頭の上で飛び出ているのはご愛嬌。
獣皮と蟲殻を合わせた南部の伝統的な旅装束に身を包んでいるのは皇帝の側近にして妾の一人。
エリザリド・エンタンレ・ディオノース。
イグニシア・クルシスの北東部。
武帝と呼ばれる未開の土地。
豪族と部族達が住まう国から皇帝に許婚として嫁いだ彼女は女帝の秘書とも囁かれ、今や文官達や専業奴隷達から憧れの的となっている。
共に二十代くらいの二人は直接的に皇帝へ仕える者達の中でも特に忠誠において並ぶ者無い逸材だ。
彼女達から信頼を得るのは皇帝の信頼を得るよりも難しいとすら噂される。
そんな二人からの惜しみない言葉に男は苦笑気味に首を縦に振った。
「では、これからもそうしましょう。さて、そろそろ時間です」
「ええ」
「はい」
エーレインとエリザが二人が数m先で輝きを一層強くしていく魔術方陣を認めて立ち上がった。
「陛下のいる第一層【夜の帳】は比較的安全な層ですが、近頃の七教会の動きと呼応するように強力な【剣獣(ソーディアス)】も出ると聞きます。くれぐれも気を付けて」
エーレインが腰の帯剣をチラリと見て頷いた。
「七教会が【特務戦技官】を送ったとの話は先程もした通り。出来ればやり過ごす事をお勧めします。それと“彼”との合流を何よりまず最優先にしてください。必ず道行きにはその力が必要となるはずです」
「分かりました。あ、エトにはよろしく言っておいてください」
エリザが衣装の埃を払って腰裏の短剣を軽く触って確認する。
「陛下はこれより式典出席と折衝漬けの毎日ですから、何と言われるか」
主の渋い顔を思い出しながらハイランが苦笑した。
「では、我らはこれで」
エーレインがエリザを連れて魔術方陣の中心へ入ると輝きが増していく。
「武運長久を」
「はい」
「では、また」
燐光を上げて方陣が焼き切れた時にはもう其処に誰の姿もなくなっていた。
「……行きましたか」
ハイランが空を見上げる。
夜空には月の代わりに蒼い星が浮かんでいた。
星間長距離転移。
並みの魔術師には無理な芸当。
しかし、魔術結社にて【真名(エイリアス)】を受けた事もある男には瑣事(さじ)だ。
「リュオ……全ては貴方の手腕一つ。頼みましたよ」
男の呟きは静寂(しじま)の中で途絶えた。
夜も輝く蒼き星も今は夜。
それでも密やかに事態は動き始める。
*
―――浮遊大陸ハルトゥム魔王の館。
ジャージャーと片手持ちの丸鍋が魔力式のコンロの上で盛大な炎に炙られながら、踊っている。
エリザリド・エンタンレ・ディオノース。
現在、皇帝の秘書役な彼女はハルトゥムの住人達向けに料理の真っ最中。
野菜と肉と魚と香辛料。
四つある鍋の前でテキパキと作業手順を組み立て。
隙無く煮物、揚げ物、蒸し物、炒め物を完全な形で皿に盛り付ける姿は正に料理人。
その横ではウェイターよろしく。
相棒たるヴァルガンノース総長にまで上り詰めたはずの皇帝狂(エトダイスキ)第一号にして未だ【陛下に対する忠誠で負けなし】との評価を受ける赤髪の美女。
エーレイン・ディウアーズ・L・アルバストレが一枚で金貨数枚はするだろう転移の呪符を駆使して、其々の場所で屯する少女達へ出前を届けては戻ってきている。
ハルトゥムの館は広い。
屋根上から庭、玄関先、敷地内の花が咲く樹木まで月見に持ってこいの場所は多数存在するのだ。
玄関先にはハルトゥムの先住民と化した五年前に少年と出会った少女達が。
庭にはアルヴァスで出会った少女達が。
樹木の下にはひっそり聖女達が。
屋根上には少年と今日独り占め予定の少女達が。
其々の縄張りと言わんばかりに料理を食べ、時に酒精抜き在り両方の液体を嗜みつつ。
青き天蓋の星を見上げている。
「ふぅ。陛下に全て届けてきた。これでしばらくは仕込み時間が取れるな」
「アンタねぇ……休むって選択肢は無いの?」
呆れた視線で額の汗をハンカチで拭いつつ。
最後の料理を煮込んでいる寸胴に蓋をしたエリザが呆れた様子で再び台所のテーブル上に並ぶ食材を吟味し始めた同じ白エプロン姿のエーレインを見つめた。
「何を言っている?!! お前は陛下がひもじい思いをしてもいいと言うのか?!」
「ひも―――さっき、金貨二千枚くらいの料理が入ったばかりだと思うけど」
ダンッと両手の拳をテーブルに叩き付け、断固とした決意の表情でエーレインが続ける。
「金の話ではない!!? 陛下の胃袋はこの程度の量では断じてご満足されていないはず!! このエーレイン・L・アルバストレ!! 必ず最高のデザートを陛下に献上してみせる!!」
この五年でエトに対する忠誠心が高じ過ぎて、突き抜けた感のある美女に当の皇帝が微妙に腰が引けているのは本人に内緒だ。
エリザがエトから愚痴られる事も増えた。
思わず『その思いが重いって言っちゃえば?』と呆れた彼女が解決策を進言しはしたが、皇帝は最も信頼の置ける部下の期待に応えるのも皇帝の仕事だと努力表明した。
そんな事になっているとも露知らず。
皇帝を大食い選手に養成しそうな勢いのエーレインは並ぶ果実を鋭い眼光と嗅覚で選定し。
ザッと最高に糖度の高い実を宙に放ると。
無駄に高度な剣戟技能の応用で二刀流のナイフを振りまくり……一瞬で剥き身にしてボールへ落とした後、調味用の各種香辛料を合わせながら、調理し始めた。
嘗て、荒事くらいにしか役に立てない己の未熟さに勝手な絶望を抱いた挙句。
宮廷料理人達に皇帝の未来の為、自分へ料理を教えてくれと地面に土下座して獲得した技能だ。
身体能力の高さ。
魔力量の多さ。
刃術の膨大な叡智と技能。
それらが可能とするのは単純な料理人には為し得ない無駄に洗練され、無駄に高度で、無駄に早い、特級な美味さの料理である。
常時魔術方陣でボールの中の果実に何やら妖しげな光を降らせている横顔はもはや今日これをしなければ、死んでしまうのだろうかという気迫に満ちている。
(この熱意が在れば、エトと同格以上の偉人になれそうなのに……)
エリザがそう思うのも無理は無い。
それなりに長いエーレインとの付き合い。
その合間に色々と知ったのは彼女が到底及びも付かないレベルで本人がエト信仰者であるという事だ。
近頃はそれに感化された皇帝エト派の中でも“エーレイン閥”みたいなのが何故か政治的にも経済的にも幅を利かせていたりする。
もはや教主みたいな有様のエト大好き素晴らしい最高という演説に感動している人間がいるのだから……ドン引きである。
皇帝本人の『愛されるというのは苦行でもあるのか……』という遠い目の発言をそう言わせる当人は一生知る事も無いだろう。
「ああ、陛下♪ 今、すぐに冷やして持って往きます」
ブツブツと独り言を言いながら、主に褒められる夢想でもしているのか。
蕩けた表情となる美女は艶かしい。
現在、本人の住まう住居には皇帝グッズが溢れ過ぎて半ば倉庫と化しているとの事であったが、だだっ広い屋敷なのだから構わないとエーレインは常にホクホク顔だ。
前にエリザが『アンタにエトの事を考えてない時間てあるの?』と訊ねたが、答えは言うまでも無かった。
朝、皇帝目覚まし(皇帝の生声が出る市販品)で目を覚まし、皇帝ナイフ(皇帝も使っていると噂の没収品)で食事を作り、皇帝カップ(皇帝が普通に使っている特級品)で水を飲み、皇帝新聞(本当に存在する公にエトの日程が乗る新聞)を読み、皇帝アイテム特番(近頃始まった無線通信を使った魔術で受像する映像音声プログラム)に目を向け、皇帝の住まう宮殿域に直行するというのがエーレインの朝の日課だ。
昼バージョン、夜バージョンと無駄に長い話となった為、エリザは途中で意識が遠退いた。
結局のところ。
エーレインに私事という事は一つとて無いに等しい。
本人がそれに該当すると思っているのが違法な皇帝グッズの発禁処分を自分で出し、没収したソレを収集(普通に横領)する事だと言うのだから、重症である。
友情の証にと見せられた|皇帝娘々日記(こうていにゃんにゃんにっき)とか、皇帝の憂鬱な日常とか、皇帝陛下の生ブロマイドとか、皇帝の淫靡な日常(とても本人には見せられないのは確実)とか、諸々の書籍、絵画、違法グッズは今も大事にエーレインの屋敷の金庫に厳重保管されている。
(病気? ううん……もうこれは情熱というより生き方よね。実際……)
皇帝の為なら、何でも叶えてしまおうという魔法の杖の類ではないにしても。
それに近しいと言える美女に苦言を呈する者は忠誠を誓われる皇帝ですら見た事が無いはずだ。
イグニシア・クルシスで最も有名なのが皇帝エトならば、イグニシア・クルシスで最も人々が身近に知っている公的人物は間違いなくエーレインだ。
その皇帝に付き従う姿を見た者は何処でも語るだろう。
当世一代の女傑の話を。
数年前から有名ではあったが、今や彼女の異名はイグニシア・クルシスと関連のある国外の人間なら知らない者はない。
旅する劇団や歌劇場、吟遊詩人から紙芝居、人形劇、その他あらゆる娯楽媒体において皇帝エトとセットで出てくる皇帝が好き過ぎる女は正しく過剰脚色されてもまったく過剰どころか控えめだ。
一部出版界隈では近頃その事実に基き。
皇帝エトと従者エーレインを題材にして沢山の作品が増産されているとも言う。
大人以外読んじゃダメという代物から、子供向けの教材まで、その数は数え切れない。
「出来た!? 出来たぞ!? エリザ!? 陛下の小腹が空くまでもう少し……完璧なタイミングで提供しなければ!!? 今、行きます!! 陛下!!?」
ササッとデザートを繊細に皿へ盛り付けたエーレインが自己完結した様子で皿を一切揺らさず。
まるで滑るようにしてハルトゥムの廊下へと出て行く。
主の小腹が空くまでの時間を歩いて、デザートを適温にしつつ提供するのだろう。
「あの星で少しはアンタの事が分かったと思ってたけど、まだまだなのよね。きっと……」
皇帝エトを天才と称していいならば、従者エーレインは非凡と称されるべきだろう。
その二人の間で平凡なる秀才エリザはこれからも苦労するだろうと本人は見えなくなった相棒の背中に苦笑するのだった。