第三節「道歩く理由」
『師匠、何処行くんだよ!! あんたオレに教えたい事があるって言ってただろ!!』
黄昏時。
必勝祈願の看板が外れかかった古びれた木造の講堂内部。
塾の生徒は最後の別れを惜しんで家路に着き。
もう誰もやってくる事の無い場所は熱気の余韻だけを残している。
そんな場所でイルトはそう己の師に食って掛かっていた。
『こっちだって波動錬金学とか秘奥の事、沢山沢山あんたに学びたい事があるんだよ!!?』
金の埃が舞い上がり、並ぶ机と椅子を染める。
夕闇に翳った男の顔。
まだ二十代後半。
己を未熟者だと卑下して憚(はばか)らない彼。
歳もそう離れていない男を最初に師匠と言い始めたのはイルトだった。
初めは誰もが先生と言っていたのに、いつの間にか師匠という呼び名は定着してしまって。
生徒達はまるで武芸術の師範にでも言うように師匠師匠と彼を呼んだ。
『イルト君……』
錬金術なんて今の大陸では流行らない落ちぶれた学問だ。
イルトにだって塾の経営が苦しいのは分かっていた。
七教会。
大陸最高の戦力を誇る者達。
その指導者の一人である聖女ハティア・ウェスティアリアが提唱した総合魔術理論【魔導技術(ハイ・クラフト)】の普及により、魔術結社の多くは廃滅の憂き目にあった。
旧き魔術体系は合理化された聖女の理論に負けて、殆どはもう魔導体系の一智識となってしまっている。
錬金術は魔術そのものに重点を置かなかった学問だった為、今も細々と基礎知識を習う必要から生き残ってはいるものの、年々その後継者は減り続けていた。
学問としての存続は危機的状況。
歳若い指導者が挫折から塾を止めるとしても不自然ではない。
しかし、イルトは知っていた。
他の塾生には対外的に経営が苦しいから止めるのだと言っていたが、師匠リュオ・クルミナスは実際のところ、そんな些細な理由で己の探究心を諦める輩では無いと。
『イルト君。僕は今ね。軍のお偉いさんからお誘いを受けているんです』
『お誘い? 軍?』
オールバックの黒髪を辮髪にして纏めた男。
鋭い相貌に眼鏡を掛けた痩身病弱な若先生。
近所の奥様達から大人気の片手間で医師までしている彼が何故か。
いつもの凛々しい姿とは違って、弱々しい笑みでイルトの瞳を覗き込んだ。
『あの星へ行ってみないか、とね』
リュオが指差した黄昏に染まる街の上。
蒼き星がある。
『まさか、師匠……』
『ええ、【天蓋蒼星(メイズ)】です』
頷いた男が嘗て探索者。
遺跡の捜索を主な仕事としていたとイルトは聞いた事があった。
その頃に己の才で培った伝手で錬金術の研究に必要な素材を集めているのだと。
『あそこには僕の探していたモノがあるんです』
『探し物?』
『僕はそれを探しに行かなければならない』
『―――だけど』
拳を握って俯いたイルトにリュオが頭を下げる。
『済まない。僕はとても勝手だ。君との約束よりも自分の事を優先すると決めた。だが、解って欲しい。この話がたぶんは僕の人生にとって最後の希望なんです』
『最後の希望?』
『ええ』
顔を上げた男が眼鏡の蔓を押し上げる。
『この人生を掛けて達成するに足る目標。手を届かせる唯一の機会。これを逃したら、僕はきっと自分の才能の無さに絶望しながら生きていかなければならない』
『……本気、なんだよな?』
頷く男の表情があまりにも真剣だったから。
今までそんな表情を見た事もなかったから。
イルトはもう引き止める事が出来ないのだと悟った。
『この数年間。僕が笑って暮らせたのは塾に通う生徒達と君のおかげだ。だから、これだけは忘れないで欲しい。君は僕の掛け替えの無い生徒。いや、真に貴ぶべき愛弟子だったと』
もう薄い土色の外套を纏い手提げ鞄一つの旅装束姿。
リュオがこれから往くのはイルトにも見れば解った。
ならば、後は恩師にただ頭を下げるしかなく。
『イルト。イルト・イナーシタ。君の前途に加護在らん事を』
背後でドアのベルがカランと鳴って。
少年は一つの決意をするに到っていた。
*
『…ル…ト』
「ん……」
『…ルト……タ!!』
「んぅ……」
『イルト・イナーシタ!!?』
ドカンと寝台が地震に突き上げられたような振動に襲われ。
「?!!」
泡を食ってイルトは床へと転げ落ちる。
「ふぅ。ようやく起きたか」
「フ、ファサルトス……さん?」
眩しい程に太陽が燦々と色褪せた部屋に降り注いでいた。
粗末な寝台とテーブルに椅子が二つ。
外套を掛ける天井から伸びた鎖付きの鉤(カギ)が僅かに揺れている。
「オレ、えっと……」
「まだ寝惚けているのか? それと気色悪いさん付けは要らん」
「あ、そ、そうだ!? オレ、確か昨日すげー疲れてて」
ようやく意識を覚醒させたイルトは自分が何処にいるのか理解した。
「此処は【天蓋蒼星(メイズ)】なんだよな?」
「そうだ。正確にはノースポール・アガスタ。極北の地点に近いアルファ・ヴィレッジだ」
「はッ!?」
そこまで説明されて昨日の大冒険と死ぬような戦闘を思い出し、少年は思わず立ち上がる。
「ど、どど、どうして此処にいるんだ!? イフィー!!!」
上ずった声で叫んだのも無理は無い。
イフィー・ファサルトス。
テロリスト少女の姿は昨日と違って外套を纏っていない。
それどころか少し薄着ですらある。
白い簡素な肌着は透けてこそいないが少女の輪郭を浮かび上がらせていて、青春真っ盛りのイルトには直視出来ない在り様だった。
旅装束は綺麗に部屋の端の籠の中に折り畳まれている。
それが何か見てはいけないもののような気がして、顔が逸らされた。
「何を言っているのだお前は?」
まるでダメなものを見るような視線がサクッと少年の心臓を鷲掴みにする。
少女の美しい貌(かんばせ)。
細く華奢な身体。
薄着の胸元。
白い全体的に身体を覆う下着の下。
鎖骨辺りの生々しさにゴクリと唾を飲み込んだのは青少年ならば致し方ない事だろう。
「昨日、宿屋を取って部屋に入った途端、倒れたのではないか。我が介抱していなければ、今頃は身体の節々を痛めているぞ」
「あ、た、確かに!? 部屋に入った途端に記憶ねぇや。イフィーが運んで寝かせてくれたのか?」
「だから、そう言っている」
「迷惑掛けた。ありがとな。重かっただろオレ?」
「魔術を使った。仔細問題無い」
「そ、そうか……」
自分の身体に少女が触れていないと知って、微妙に残念な気持ちになったのは世の男性の性と言うべきか。
イルトが床から埃を払って立ち上がった。
「でも、寝台(ベッド)をオレが占領してたなら、イフィーは何処で……」
「床だが?」
「ゆ、床だって?!」
当然のように言われてハイそうですかと頷けなかったのはイルトも男だからだ。
「すまん!? 女の子を床に寝せるとか。オレ最低だ……」
ズーンと落ち込む相手を面倒臭そうに見て。
やれやれとイフィーが肩を竦める。
「我は此処数年、床や屋外で寝る回数の方が多かった。気にするな」
「いや、でも、オレも男だ!! この借りは必ず返すぜ!!」
「……期待せずに待っていよう」
「おうとも!!」
ようやくまともに起床したイルトが早々扉へ向う。
「先に顔洗ってくるな」
「ああ、そうするといい。今後の事も含めて相談しよう」
扉を後ろ手に閉めて。
思い切り悶えたい気分でイルトは何処にあるかも分からない洗面所に向って走り出した。
(オンナノコと同室とか!? 何て勿体無い時間を寝てんだオレ!? おぉぅう!!? これが、所謂【朝チュン】というヤツなのですか!!? 神よ!!?)
別に七教会信者でもないイルトだったが、思わず神に祈りを捧げてしまう。
「それにしてもテロリストが可愛いなんて……反則だぜ」
ようやく見つけた洗面所で顔を洗ったイルトは置いてあるタオルで顔を拭き拭き、これからの事に思いを馳せた。
師匠を追い掛け密航し、軍人に名前までバレて、テロリストと共に逃亡。
(あぁ、こうして頭の中で整理してみると、オレの人生って此処二日で公的には終わってるんだな)
救いなのはイルト自身には大切な家族がいない事くらいだろうか。
それにしてもあの世で両親を泣かせそうな気がしないでもなく。
やはり、何処かでイフィーに対して一言物申す必要。
単純に言えばテロリストから足を洗うように言うべきなのではないか。
そう、しばし悩む。
(まぁ、はいそうですかって話には今のところならないよなぁ……)
身嗜みを整えた悩める少年が部屋に戻るとイフィーは昨日と同じ外套を既に羽織って待っていた。
「ようやく戻ってきたか。朝食はこちらで創る」
イフィーが部屋の横。
小さなテーブルと二つの椅子を指して片方へと座る。
「おう」
女子(テロリスト)と共に朝食。
男子としては波乱の予感である。
だが、イルトが向かい合うように席へ付いて首を傾げた。
「あの……作るってどうやってだ?」
「普通に此処(メイズ)の流儀でだ」
「ストーブや暖炉の類があるようには見えねぇぜ?」
「これだ」
「?」
少女が皮製の袋からジャラジャラと何やら小さなものをテーブルの上にぶちまける。
「これが、食い物?」
「そんなわけがあるか。本当に何も調べず天蓋蒼星(ここ)まで来たのだな。ある意味その豪胆さは買おう」
「褒められてないのは解る……」
ひょいっとイフィーの指が文字を形作る石ころを摘み上げた。
「これは【密碑(キャラクト)】だ」
「きゃらくと?」
「昨日。戦ったのを覚えているか?」
「あ、ああ。あの浮かんでる剣。今でもゾッとしねぇ」
「あれは天蓋蒼星内部に存在する敵性物体。名を【剣獣(ソーディアス)】と言う」
「そーでぃあす?」
「この惑星のどの階層にも存在する存在で、人が街から離れると襲ってくる」
「随分と物騒だな」
「そうだな。しかし、その存在はこの星で必須だ。何故なら、生活を支えるのは実質【剣獣(ソーディアス)】を破壊して発生する【密碑(キャラクト)】だからだ」
「生活を支えるって、これが何の役に立つんだ?」
イルトが何気なく両手で摘み上げた二つの文字をくっ付けた。
カチンと音がした瞬間。
輝きが文字の間に集まるとボフンと音がして質量が発生する。
「うおぁ?!」
手を離したイルトの前で【密碑(キャラクト)】を押し潰すように生じたのは……妙に薄い本だった。
「な、何だ!? 今のがその石ころの力なのか?!」
「ああ、そうだ。この石ころは特別な繋がりで合わせると物質を発生させる。例えば、水、あるいは肉、植物、何でもだ。幾つかの例外を除けば、創れないものは存在しない。これが大量にあれば、様々な条件から街が建築不能な場所でも生活出来るわけだ」
「おぉおおお!! すげーな!? そうか。これが師匠の求めてた力なのか……」
普通に考えれば在り得ない事象。
そもそも魔術や魔導だって完全な万能ではない。
錬金術でもそうだが、基本的に質量を生み出す、というのは難事だ。
物体を変換したり、空間を歪めたりというのは比較的高度ながらも魔術師や錬金術師が研鑽を積めば、到達が約束されている技能である。
しかし、質量そのものの創造、更には物質を一定の分子組成で固定するというのは限界スレスレの反則技(イレギュラー)と言えた。
それを石ころ二つから行えるというのだから、鉄を金に変える錬金術師と言えども尋常ではないと驚くに値するだろう。
「それにしても本か。一体どんな本なのか気になるな」
イルトがドキドキしながら表紙に何も描かれていない黒い本をチラリと開いて覗き込んだ。
「ぶッ?! ちょ、これぇっ?! エ、エエ、エ、エロ本じゃねぇか!?」
思わず噴出した健全なる男の子イルト・イナーシタが慌てて本を閉じる。
「エロ、本?」
「あ、いや、その……」
思わず視線を泳がせて、何を言うべきか迷ったイルトだったが更にイフィーの言葉で驚く事となった。
「えろ本とは、何だ? イルト」
「え」
「?」
疑問を頭に浮かべ、純真無垢な瞳で見つめられて、彼の中に衝撃が走る。
エロ本が何かを知らないのか。
それともエロという大陸中央式の語彙が解らないのか。
どちらにしてもエロ本が何かを純真無垢な少女に教えたくはないイルトである。
「イフィーくらいの歳の子には関係ありません!?」
「何が何やら解らないが、不用意に合せて刃物になっても事だ。今後はこちらで管理を行う事としよう」
数個の【密碑(キャラクト)】を残して他全てが袋に戻される。
そうして本もあっと言う間に仕舞い込まれてしまった。
「あ……」
「何だ?」
「い、いや、その本、どうするのかと思って」
「本ならば燃やせば暖が取れる。紙ならば幾らでも使いようはある」
言うや否やイフィーがカチンカチンと密碑を合せて、テーブルに食べ物を物質化していく。
「麺麭(パン)に果実に干し肉。本当に何でも出せるんだな……」
並んだものを前にしてイルトは感心しきりだった。
「では、食べよう。いただきます」
「イタダキマス?」
イルトが首を傾げる。
中央諸国では普通国教である七教会の一般的作法として神への感謝を唱えるのが殆どだ。
「東部式の食事開始の言葉だ」
「へぇ、イフィーって北部の人っぽいけど、東部にいたのか?」
「我は北部の出身だが、昔こうすると教わって以来、そうしている」
食事は粛々と始められた。
あんな石ころで出てきたものが本当に食べられるのかと半信半疑のイルトだったが、イフィーが何事もなく食べるのを見て自分もすぐに麺麭を口に運んだ。
「あ、普通に喰えるな」
「ああ」
「だけど、妙に硬い気が……」
「食事があるだけ有難い事とは思わないか?」
「そ、そうだな。一応、命掛けで手に入れたもんだもんな」
果実を齧って水分を補給しながらイルトは昨日の戦闘を思い出して背筋に嫌な汗を掻いた。
それから十数分。
すっかり腹が満ちたところで二人は宿を立とうと部屋を後にする。
宿のカウンターでイフィーが【密碑(キャラクト)】を払うのを見て、イルトはそれが通過代わりに流通しているのだと知った。
出立して数分。
「あ」
イフィーに半歩後ろを付いていき、はたと気付く。
「何だ?」
「あのさ。何処に向ってるんだ?」
「我は人探しだ。近くにあるギルドで待ち人がないか確認する。それが終わったら、お前の帰る算段を立てよう」
「何か悪りーな。全部、そっちに任せっ切りで……」
「致し方あるまい。此処は一般人が理由もなく来るところではない」
イフィーの言う事をイルトは素直に受け入れる事が出来た。
大陸中央諸国で戦闘に準じる行動なんて生活上必要になった事はない。
武芸術や魔術は教養の基礎として修める者も多いが、それだって実戦なんてするのは七教会の治安維持部隊や各国の軍に入隊した者くらいだろう。
私設の塾に通っていたくらいで実戦がどうにかなるはずもない。
それでも戦闘をこなしたイルトは自分が予想外に師から鍛えられていたのだと実感して、内心で感謝を捧げる。
「そう言えば、イルト。お前はどうして軍艦に密航していたのだ? コンテナの中からはあまり聞き取れていなくてな」
「あ、ああ、それはさ。オレの師匠が此処にいるからなんだ」
「師匠?」
「アンデリットの私塾でオレに錬金術を教えてくれてた人でさ。塾を止めてこっちに来てる。それで……」
「あんな無茶をしたのか?」
「そ、それはイフィーだって同じだろ!?」
「我は最初から途中で降りる気であの艦に乗り込んでいた。人が少ない格納庫を大規模な魔術でぶち抜く予定だったわけだが、人が多過ぎて使えなかったのだ。主に誰かさんが降下直前で見付かったせいだと言っておこう」
「う……その節はお世話になりました」
「ちなみに軍人に名前を聞かれたと思うが答えたのか?」
「それは……まぁ」
「はぁ、では、お前の家族にも迷惑が掛かっているな」
「いや、其処は大丈夫だぜ」
「どういう事だ?」
「オレ、家族いないからさ」
「む……不用意な事を聞いた。許せ」
「い、いや、いいって。学校も高等までは全額国持ちだし。此処に来るのを決めた時に退学届け書いてきたし。資産は全部精算して小切手。つー事で身軽なんだ。一応……」
「……その行動力があって、何故事前に行き先の事を調べなかったのかが不可思議過ぎるのだが?」
呆れた視線に少年は愛想笑いで返す。
「ほ、ほら!! あるだろ!! 誰にだって目の前しか見えない時って!!」
力説するイルトに肩を竦めてイフィーはようやく見えてきた街中の酒場風の建造物へと入っていった。
アルファ・ヴィレッジ。
ノースポール・アガスタの中心である停留地にも近い始まりの街。
元々は七教会の第一次探索部隊が使っていた仮設の幕屋群だった場所だ。
本格的な捜索本部が整備型逗留港(ドック)付近に新設されてから民間に払い下げられた土地は多数の流れ者、【潜星者(アイム)】達が集う。
しかし、その大半は七教会に遅れながらも資源を求めて下層へと降る各国の探索部隊へ随行する形で移動している為、あまり街に人気は無い。
常に下層へ人が流入する為、天蓋蒼星内で最も活気があるのは各国の輸送部隊とギルドが新設される最前線だ。
そんな理由でヴィレッジには十数軒の宿屋と生活に必要な各種施設、七教会の支部、そしてギルド以外には娯楽らしい娯楽施設も周辺にない。
木造式の建造物は真新しいものの、各国から入ってきた技術者達が作っている為、大陸中央の地方都市に比べて街並みは劣っている。
カラン。
半分開いている扉を小鐘(ベル)を鳴らしながら開けて、内部へと入ったイフィーとイルトは数人の男達から視線を向けられたものの、すぐに逸らされた。
【天蓋蒼星(メイズ)】に集う者達は食い詰めた流れ者や一攫千金を狙う山師、合法的に勢力を伸ばそうとする組織の末端、という者が殆どだ。
そんな彼らにとって他者への興味はある意味タブー。
首を突っ込んだ挙句に身を滅ぼした人間をそれなりに見てきたのだから、理由が無ければ、他人には極力干渉しないというのが暗黙の了解になっている。
新参者に触れないのが掟であり、興味は常に七教会の階層突破部隊や各国のギルドが出す穴場情報に向いているのだ。
「こういう者を探しているのだが?」
イフィーがそっと|篆刻写真(てんこく・しゃしん)を取り出してカウンターの内側でグラスを磨いている男に見せた。
「……ご注文は?」
「生憎と食事してきたばかりだ。水を皮袋一杯に貰おうか」
灰色の制服姿の男がカウンター内部からゴソゴソと皮袋を取り出すとイフィーの出した金貨一枚と交換する。
「二日前に此処を取り仕切る連中の一つと一悶着起こして【大流空壁(グレート・ダウナー)】近くに連れて行かれた。その後の事は知らない」
淡々と金貨を仕舞い込んだ男から情報を得たイフィーが皮袋を腰に紐で結わえてギルドから出た。
「イフィー。どうするんだ?」
イルトが何となく予想しながらも答えが返ってくるのを待つ。
「無論、助けに行く。お前こそどうするイルト?」
問い返されて。
振り向いた少女の瞳が真剣な事に気付いて。
此処で待っていると言ったところで責められもしないのだと理解して。
「オレは……まだ、借りを返してない」
「そうか。では」
イフィーがイルトの前に立った。
「人死にを出さず問題を解決したい。昨日と同じく前衛を頼んでいいか?」
それはつまり危険な目に遭えという事だ。
躊躇する自分がいて、テロリストの仲間になるのかと囁く自分がいて、それでもイルトは頷いた。
「ああ、任せとけ」
「頼もしい事だ」
「これでも女の子には優しいイルトさんで地元じゃ通ってたんだぜ?」
「ふ、では期待させてもらおう。これを」
「?」
イルトの前にイフィーが小さな水晶の玉を差し出した。
「お守りだ」
「護符、みたいなもんか?」
「ああ、此処を出るまで持っていて欲しい。何かと安心だからな」
「解った。預かっとく」
「ちゃんと返すのだぞ? 我の宝物なのだからな」
大きく頷いたイルトが自らの服の収納にそれを収める。
「では、行こう。我の道行きに必要な者を探しに」
二人はアルファ・ヴィレッジを後にした。
彼らが向うのは【天蓋蒼星(メイズ)】内にて恐れられる難所。
【大流空壁(グレート・ダウナー)】
惑星内部から吹き上がる巨大な噴流の竜巻。
あらゆるものを粉砕する死の渦を見渡す名も無き渓谷だった。
*
―――大陸中央諸国南部フラッツベルグ。
大陸中央諸国と言えば、平和と文化に溢れる国々。
そう言って差し支えないだろう。
五年前から続く不穏な空気も、テロ組織の人間が毎日のように捕まって新聞を賑わすのも、反七教会を標榜する革命闘志とやらになるのが若者の間で定着してきていても、あらゆるマイナス面がもはや日常として消化される程度には慣れの中に埋没している。
未だ文明的とは言えない大陸地方諸国は己らを自治州化し、連邦や連合として大国化を志向しているが、それが中央に及ぶ国力を持つまでになるには長い時間が掛かるだろう。
武器の携帯が制限され、免許制を敷かれ、一般人が夜も平然と歩ける通りしかない国家というのが如何に怖ろしいものであるのか。
地方の国々の高官達は重々承知している。
その差が埋まるとすれば、それは国民そのものが変わる時だと理解すればこそ、彼らは中央に表立った反発や揶揄をする事も無い。
黄昏時が終わる宵の中。
大陸各地の地方からやってきた複数ヶ国の国務省系の事務次官達は中央式の礼服(スーツ)にネクタイといったいでたちで高層建築の最上層階から見える景色に僅か感情を動かされ。
しかし、それを顔に出す事も無く。
自らの持ち寄った書類に不備が無いか確認していた。
ワンフロアの半分程を仕切って作られた一室は広大でインテリアの類は極めて簡素。
複数の暖色系のソファーとテーブル。
黒檀の執務机が窓際にポツンと置かれている。
しかし、その場所には誰も居らず。
彼ら40代から60代の実務者達は待たされているという事にも慣れた様子で静かに時間が来るのを待っていた。
壁に埋め込まれていた時計の針が6時45分を指した時。
キコキコと鏡のように磨かれた白い床の上を車椅子がやってくる。
それを押しているのは若い女だ。
まだ二十代だろう。
何処か掴み所の無い表情はボンヤリとしていたが、次官達を見ると頭を下げて、車椅子の主の耳元に何かを囁くと元来た道を戻っていった。
「今夜もお集まり頂き、ありがとうございます」
車椅子の主は自分の手で自らの乗り物を進め、執務机の前までやってくると魔術で浮遊し、その黒い革張りの椅子に腰を収めた。
「さて……では、さっそく各国への割り当てに付いて詰めていきましょう。こちらからの提示はいつも通りに……天蓋蒼星からの物資流入量から言って、今夜集まって頂いた皆様の祖国が今後の割り当て的には大口となります。規定数は確実に納入しますが、それ以上の数はいつものように各自で調整して頂きたい。ちなみに今回の超過数は15で確定しています」
それを聞いた男達が思わず僅かな驚きに声を漏らす。
「入金は常のように“現物”を“蒼き幸甚”の所有するイグニシアのメインバンクへ」
男達が頷き。
互いに率直な会話を始めた。
それを横目に椅子を回し。
車椅子の主は辮髪を揺らして一面ガラス張りの窓の外を見やる。
「………」
僅かに眼鏡の弦が押し上げられる。
彼の前で暮れていく世界には今日も何事も無かったかのような穏やかさが満ちていた。
だが、そんなものは見掛けだけだと彼は知っている。
世界はいつも激流に流され。
その中の小島を人類は小さな船で渡っているようなものなのだと。
「………イルト君」
ポツリ呟いて。
懐から彼が写真を取り出す。
其処には彼を含めた男女が四人映っていた。
(君は今、何処にいるのか……元気にしているのか。それとも窮地に立っているのか。何れにしても、僕は……僕だけが、あの天に蓋する蒼き星から戻ってきてしまった……)
己がもう何を言う資格も無いと知ればこそ。
男はそっとソレをまた懐に仕舞って。
遥か頭上。
太陽が沈んでようやく耀きを増し始めた……もう一つの世界を見やった。
「これが貴女の言った“大いなる禍”の前触れだとすれば、僕もまた準備しましょう。イクスピアリ・アン・レゼ」
事務次官達の話はまだ続いている。
だが、それも十分せずに終わるはずだ。
それを見越して、男は……天蓋蒼星(メイズ)よりの特殊物品の流通を手掛けるブローカーたる男は……己の仮面を取り繕って、笑顔で客に話し掛け始めた。
懐かしく苦い思い出と為り始めているもう一つの世界での記憶を胸に秘めながら。