第八節「其々の戦い」
旧い匂い。
苔(こけ)生(む)した森。
天も見えない地の奥底で空は星を鏤(ちりば)めて。
彼は胡乱(うろん)な視線を世界に向けた。
狂おしい月の拍動。
流れる川の音色。
戦(そよ)ぐ丘の旋律。
蟲(むし)鳴かぬ平原。
見入る程に何も無い原初の世界。
「ん……」
しばらく呆然としていたイルトは自分の意識がまだあるのだと気付いてゆっくりと身を起こした。
「痛ッ、よく、生きてたな。オレ」
身体の節々が痛いのは落下の衝撃からだ。
しかし、痛いだけで致命傷や内臓の破裂も無く。
彼は自分が助かったのだと実感する。
「あ、そういや……ピアリ!!?」
ようやく動き出した頭が共に落ちた仲間を思い出した。
辺りを慌てて見渡して、イルトが顔を青褪めさせる。
丘には誰もいない。
「ピ、ピア―――」
「あ、イルトさん。目が醒めたんですね!」
「え!? あ、ピ、ピアリ、か?」
声のした方角を振り返ったイルトは森の奥に人影があるのを確認して、ホッとした様子になる。
「ちょっと待ってて下さい」
草が踏み締められる音にドッと安堵が押し寄せてきて。
彼が俯き大きく息を吐いた。
「し、心配させないでくれよ。心臓に悪いぜ……」
「ごめんなさい。近くで水の音がしてたので確認しに行ってたんです」
「何処も怪我とかしてないか?」
ポタポタと水が滴る音にイルトが顔を上げて。
「はい。イルトさんが抱き締めてくれてたので♪」
「―――ごふぅ!?」
鼻の奥から込み上げてきた命の雫……この場合は鼻血を流して健全なる男の子イルト・イナーシタは七転八倒の勢いでやってきた少女に背を向けた。
「な、ななな、何で何も着てないんだ!!?」
彼が見たのは人生初の生!!女の子の身体である。
【近代化(レボリュション)】の影響で大陸中央諸国では道徳向上の名の下に不健全極まる人身売買、要は奴隷売買の廃止と風俗産業の取り締まりはかなり盛んだ。
だからこそなのか。
大衆文化として本が廉価に出回るようになったせいか。
多くの娯楽を提供する大衆本の創刊は如何(いかが)わしいカストリ雑誌を軸に後を絶たない。
イルトくらいの年齢ならば粗製乱造の仄暗いエロ本の一冊や二冊持っているのは常識。
と言っても、やはり画像と生の間には天地の差がある。
桃色髪の天然娘はイフィーと比べても身体の発育が良好だ。
締まった腰からふんわりとした安産型の臀部(でんぶ)。
胸部の大きさも凶悪とは行かないまでも随分大きかった。
「ちょっと汚れてたのでお水で身体を洗ってたんです」
にっこり笑顔のピアリが生まれたままの姿よろしくガサゴソ持っていた服を身に付け初めた。
「な゛ッ、ちょ、こ、此処で着替えるのかよ?!!」
「ふぇ?」
惚(とぼ)けた笑顔で頭にクエスチョンマークを浮かべながら、テキパキと下着が穿かれ、服が被られる。
「イルトさん。ちょっとお手伝いしてくれませんか? 頭の部分が引っ掛かってて」
「ば!? で、出来るわけないだろ!!? オレこれでも男だぞ!!?」
「あぅ~~洗ったらちょっと服が縮まっちゃいました」
パタタッと衣服から水滴が滴っていた。
(な、生々しいにも程がある!!?)
もはや言い掛かりだったが、人生初の“天然”という人種への憤り(決して興奮の類ではない)に顔を真っ赤にして、ソロッと視線が背後の衣擦れの音に向けられた。
「ぅ……」
そこには頭の無いテルテルボーズ少女が一人。
どうやら頭が服から出ないらしい。
間抜け極まる様子でイヤイヤしながら服を引っ張っている姿は思わず笑ってしまうくらい微笑ましい。
しかし、生々しい生足が太腿まで見えていて、水滴を幾筋か滴らせている事に変わりは無い。
このままでは会話も出来ないとイルトが頭の螺旋をキリリと締める。
「わ、解った。とりあえず後ろ向け!! やってやるから!!」
『ありがとうございます。イルトふぁん』
モゴモゴとくぐもった声でピアリが後ろを向いた。
鼻血を服から取り出したハンカチで拭き拭き立ち上がったイルトはようやく心を平静に保ってピアリに近付き、頭の部分を力任せに下へ下げた。
「ぷぁ!?」
ようやく頭が出た桃色髪がプルプルと振られて水滴が周囲に飛び散る。
「ふぅ。一生このまま頭が出ないかと思いました」
「んなわけないからな。はぁ……」
マイペースな様子に溜息を吐いて。
イルトはようやく普通に話せるようになった少女を伴って丘の上へと向った。
「夜だからあんまり遠くまで見えないな」
「ピアリが気付いた時にはもう夜だったので……ごめんなさい」
シュンとなったピアリにイルトが首を振る。
「いや、謝るような事じゃないって」
「そ、そうですか?」
「それより水を見つけてくれたんだよな? この状況じゃ水源を発見しただけで十分だぜ」
「あ、はい!!」
パッと輝く顔は瑞々しい。
その髪はまだ吹く風にも渇いていない。
さっきの光景を思い出しそうになって、ブルブルと首を振ったイルトが水源の場所まで行こうと行動を開始した。
「それにしてもよくオレ達助かったな。かなり落ちたと思うんだが……」
叢(くさむら)を移動する途中。
イルトが不思議そうに空を見ていた。
地下であるはずなのに星がある。
月すら見える。
なのに、落ちてきた穴は見えず。
落下地点には腐葉土すら落ちていなかった。
天蓋蒼星(メイズ)の奇想天外さには驚くばかりと言っていい。
「イルトさんが咄嗟にピアリを庇ってくれたからですよ♪」
「ええと、どういう理論展開でそういう話に?」
「きっと、神様が優しいイルトさんに機会を与えてくれたんです」
「そ、そういう事か。つーか、ピアリって七教会信者なのか?」
「ふぇ? 神様が良い人を助けてくれるのは普通だと思ってました」
真顔で言われて。
教会の聖典に同じような事が書かれてあったなぁと。
イルトはピアリの身元に繋がりそうもない情報(プロフィール)を脳裏で書き込んでおく。
「神様つったって、沢山いるからな。今の大陸じゃ殆ど顕現しないし、力を貸してる連中が良い人間だとも限らないし、近頃の定説じゃ教会の唯一神だけが人間全体の守護をしてたって話もあるし」
「神様はみんな良い人なんじゃないんですか?」
「じゃあ、死神とか貧乏神とか厄神とか外なる神々とか。そういうのは人に良心的かって話になるぞ」
「うぅ……ピアリにはよく解りません」
「オレもだ。師匠は魔術なんかに使う図形や絵、【意匠】の研究もしてたから色々と教えてもらったけど。結局のところ神様ってのは大概にして大事件が起きでもしない限り、現世には顕現しないんだってさ。頼まれれば力の一端を貸し出しもするけど、近頃は反応が無い奴も多いらしい」
「あ、見えてきましたよ」
「お、川か」
ピアリが先を指差した。
水音が近くなり、イルトが安堵の息を吐く。
これで飲まず食わずでも一週間は過ごせるとの思いからだ。
「飲んでも大丈夫、だよな?」
一瞬、脳裏に水を呷ってバッタリという場面(シーン)が思う浮かんだ故の呟きである。
「美味しいですよ」
普通に川の水を手で掬って喉に流し込んでピアリが微笑む。
「じゃあ、皮袋に幾らか入れてから食料探そう。師匠がこういう遭難時は食料と水の確保、それから一つどころで辛抱強く待つ事が大事だって言ってたしな」
「あ、そう言えば此処の近くに野苺を見つけたんです。忘れてました」
「野苺か。他にも探せば食えそうなものがありそうだな」
「それと落ちてたので拾っておきました。どうぞイルトさん」
ピアリが文字を模った石をイルトに衣嚢(ポケット)から手渡した。
「これって密碑(キャラクト)じゃねぇか!? さっきのところには落ちてなかったのに……」
「森の途中に一杯落ちてて」
「はは、何かオレよりずっとしっかりしてるよな。ピアリってさ」
「そうですか?」
「ああ」
「でも、少し変なんです。この密碑(キャラクト)」
「変?」
「うっかりくっ付けたら、コレになっちゃって」
おずおずとピアリが服から黒く撓(しな)るものを取り出した。
「これは……樹の皮、か?」
「確かめてみたんですけど、この密碑(キャラクト)からはコレしか出来ないみたいなんです」
「え、それってつまり……」
「はい。ご飯は……」
「そっか。ま、気にすんなって」
「イルトさん……」
「別にピアリが悪いわけじゃないだろ?」
「はい」
二人がさっそくイルトの持っていた幾つかの袋に水を入れて確保した。
「そういや、此処って生物は植物以外微生物すらいないんだっけか。魚が無理とすると、後は地道に森で茸(キノコ)や果実採るしかないな」
「あ、イルトさん。ピアリ、茸(キノコ)の事なら覚えてますよ」
「随分と局所的(ピンポイント)な記憶喪失だなぁ……」
「食べられるのと食べられないの、それから食べたら変になるのも解ります!!」
「微妙に不安だが、オレに選択肢とか無いんだろうな」
「はい♪」
近くに生えた野苺を採取した後。
森の内部を懸命に記憶しながら。
イルトはピアリと共に茸(キノコ)探しへと向った。
二人は未だ気付いていない。
夜だというのに視線は以外なくらい先まで見通せているという事に。
星が一向に動く気配もなく。
そのまままであるという事に。
第一層【夜の帳】。
それは永遠に朝日の昇らない迷宮の名。
二人は突破するべき場所へと辿り着いていた。
彼らは知らない。
自分達がいたのは第一層の表層である事を。
七教会の統制によって天蓋蒼星(メイズ)の公開情報は穴だらけにされているのだと。
*
はぁはぁはぁ。
息を切らしながらリュオは一人地面代わりの木の枝の上を進んでいた。
(く、途中で木の枝に引っ掛かるとは迂闊でした。二人とも無事だといいですが……)
リュオはイルトとピアリを追い掛け飛び降りて後。
一分程も落ちて途中の樹木に服を引っ掛けてしまっていた。
衣服が頑丈に作られていた事が逆に仇となった形である。
落ちていく二人を追おうと再び落下しようとした矢先。
上空から落ちてきた腐葉土が枝の間を埋めてしまった。
地面を繰り抜こうとしたのはいいのだが、すぐに剣獣(ソーディアス)達に追い立てられて逃げの一手。
不用意に攻撃魔術でも使おうものなら、篝火に舞い込む蟲のように敵がワラワラやってくるのは確実となれば、もうリュオには地道な探索作業しか出来る事は残されていなかった。
(それにしても第二層へ降る道だと聞いていましたが、暗いですね)
第二層【明星の檻】は地下でありながら空が在り、光が満ちている階層だと事前の調査でリュオは知っていた。
しかし、第二層へと降るはずの道には光源らしいものが何一つない。
(事前情報が間違っていた? いえ、それよりは何か重要な情報が抜けていると言うべきですか。僕は第一層が地表の事。そして、此処は第二層へ降る道だと思っていた。しかし、もしも情報が意図的に歪められているのだとしたら……あいつの情報も当てにしない方がいいですね)
己の知己。
魔術結社時代の同輩。
枯木の男から依頼を受けてから下調べをする時間はそれなりにあった。
しかし、天蓋蒼星(メイズ)の情報は過剰なくらいに細部が曖昧模糊としていて、更に帰還者達にも守秘義務のようなものが課せられていたらしく。
殆ど七教会の公開しているような情報しかリュオは集められていなかった。
(断定出来ませんが、第二層に降る迷宮そのものが第一層と呼ばれているのだとしたら、此処は未だ第一層の途中、という事なのかもしれません)
息を整え、回復用の薬剤を取り出した試験管から口にして。
リュオは先の見えない樹木の迷宮を進む。
剣獣(ソーディアス)達の気配が辺りにはウヨウヨしている。
薬品によって枝の下まで穴を開けるという事も考えたが、暗い場所で攻撃を受け続ければ、もしもという事もある。
となれば、地道に下へと続く穴を見つけるしかない。
「僕の腕も鈍りましたか。そうですね……あれからもう何年も経った……」
暗闇の中。
胸の中央。
服の下にあるものをキュッと握って。
リュオが一人樹木に背を預ける。
「……エミリー……僕はやっぱり君が言うような先生には成れませんでした……」
ギュオッ。
風切り音に逸早く反応した体が真横に跳んだ。
ズドッと今までリュオがいた樹木に剣獣が突き刺さる。
「くッ、見付かりましたか。ですが、僕にも探索者としての意地というものがあるんですよ!!」
次々にやってくる風切り音。
四方を囲まれ、あわや串刺しの刑。
ならば、と。
リュオが今まで温存していた薬剤の一つを取り出し、試験管から地面に零した。
瞬間、当たりを眩く照らす程の閃光が落下地点から迸(ほとばし)る。
高熱に支配されていく空間。
その中心で男は眼鏡を押し上げて獰猛に微笑む。
「―――あまり錬金術師を舐めない方がいい」
カッ。
構わずリュオを串刺しにしようとした剣達が爆発に巻き込まれ粉々になった。
業炎に周辺が燃え上がり、爆発地点を中心に大規模な崩落が起こる。
地響きと共に樹木の幾つかが倒壊する最中を服を燃え散らせながら落ちていく男は肌の表面を覆う断熱、防爆用の合金に身動きを固められたまま、遥か下へと消えていく。
(コレ一度使うと半日は動けないんですよねぇ。はぁ……)
ガン、ガン、ガガガガガガガガガガガガガガ。
あらゆるものにぶち当たり粉砕しながら。
危ない錬金術師代表リュオ・クルミナスは回る視界に翻弄されつつ、変わらぬ表情で吐き気を堪え続けたのだった。
*
「ん?」
第一関門で早くも仲間達と分断されてしまったイフィーは独り。
「気のせいか」
森の奥へと向っていた。
地面よりも高くなった枝の上。
彼女はイルトが言っていた推測を元に一つの結論に到っている。
それは七教会の階層突破部隊が目指した場所は平地ではなく森の高い場所ではないかという事だ。
そもそも部隊の来た時の場所が巨木の中央程だったのだとすれば、今の状況で平地を歩いても目的地には辿り着かない。
そうなら樹木の間を網目状に廻る枝上を目指して歩けば、自然と目的地に付くはずである。
最小限の魔術行使で剣獣を倒しながらの道程はそう難しい事でも無かった。
もし、魔力が切れてしまったとしても、暴発覚悟で魔術の使用は可能。
そう己に言い聞かせて二時間程歩いた灰金の少女はようやく目的地へと辿り着く事に成功していた。
「これは、ふむ」
枝が入り乱れる先。
半球(ドーム)状の場所が数百m規模の直径を持つ樹木の上に存在していた。
その中、樹木の中央の泉から水が溢れて周囲へと流れ出している。
(下から水を吸い上げているのか。ならば、この泉は下層に続いているな……)
泉の中央には黒い深淵(あな)が見えている。
「此処まで来て部隊が帰る理由か……?!!」
背筋に奔った一瞬の怖気から背後にイフィーが跳躍した途端。
ズオッ。
ドームの内壁の周縁から黒い硬質が飛び出し。
泉の中央。
下に続く穴の上で集結し、車輪の如く六角形を形成した。
「大きいな。一本で普通の剣獣(ソーディアス)の十倍程か?」
イフィーの前でシャラシャラと剣同士が擦れ合う音。
まるで気勢を上げる化け物の雄叫びにも似た奏楽が響く。
「ふ、階層突破部隊を退けた手並み。拝見しよう!!」
戦闘態勢に移行した少女が術を脳裏で編みながら跳躍した。
ギュララララララララララララララララララララララララララララ。
剣達が一斉に剣先を少女に向けて回り始め。
中心に輝きが生まれ、そこから光の矢が飛び出す。
「ぬ?」
身体を狙った矢は狙い違わず胸の中央を穿とうしたが、寸前で防御されていた。
「解析開始―――純粋熱量だけではないな。有機物と無機物の腐食作用……そうか。部隊が下がったのは高格外套(ソーマ・パクシルム・ベルーター)を温存する為か」
渓谷で攻撃を受けた際に編んだ防御方陣が完全な形で顕現している。
更にイフィーが脳裏で組み上がった術式に沿って、自分の肉体を囲う方陣を組み替えた。
曼荼羅を思わせる【秘儀文字(アルカナ)】の基本防御方陣は消え失せ。
幾何学模様の理論演算回路にも似た代物が波動、光子を持って組み上げられる。
すると、周囲に少女の魔力が凝っていく。
通常、魔力の性質は魔力形質に依る。
大陸で数千年に渡って研鑽されてきた魔術の体系は更に個人の帯びる魔力形質によって万差万別の有様となるわけだが、彼女の魔力は大陸で見られるものとは異なっていた。
「他の者がいれば、もっと冴えた遣り方があったのだろうが、悪いな。初撃必殺とさせてもらう」
魔力というには色がない。
魔力というには力がない。
森羅万象に宿る不可思議の力。
そう言うには聊か存在感が不足した何か。
まるで空気と違わない違和感。
その程度のものがイフィーの周囲に放出されていた。
「全ては―――の為に……」
ゾルン。
大気に満ちた何かが蠢いて。
剣の集合体達が次の刹那、もう既に無い肉体を動かし損ねて、自重で崩壊した。
例えるなら剣獣(ソーディアス)達の状態は歯型が付けられた小麦菓子(クッキー)。
肉体の大半を消失させられていたのだ。
知らず大怪我で動けば、自壊する以外ない。
「ふぅ」
相手に悟らせず致命傷を負わせた手並みは凄まじい。
通常硬度の剣獣(ソーディアス)とは比べ物にならない防御力と魔術耐性を持っていた存在である。
それが瞬きの間にやられたのだから、さぞかし魔力を使用したはず、なのだが……イフィーは魔力を過剰に消耗した様子もなく。
ちょっと疲れた様子で虚空から地面に降り立っていた。
「動かすだけでもコレか……制御用の方陣もこれでは……しばらく使用は控えた方がいいな……」
ジットリと肉体に浮かぶ汗を感じながら。
イフィーが自分の周囲に展開していた方陣が微細な罅で粉々に砕け散るのを見て、溜息を吐く。
「さて、行こうか」
再び魔術方陣が展開された。
しかし、今度は防御用や制御用のものではない。
漁師だって使用する事のある潜水用のものだ。
空気の圧縮と酸素の蓄積。
移動の際には吐いた二酸化炭素を放出して動きを補佐する優れた代物である。
不可視のソレは周囲の空気を容器(ボンベ)のように溜め込んですぐに準備を完了させた。
「待っていろ」
ドポン。
水を吐き出す泉の穴に躊躇わず飛び込んで。
(イルト。リュオ。ピアリ)
少女は仲間達の名を内心で呼んだ。
今も樹木の下で助けを待つであろう彼らの下へ辿り着く為に。
彼女は知らない。
ある者は意識が酩酊する茸(キノコ)でフラフラし、ある者は食べた野苺のせいで高熱に倒れ、ある者は鋼の如き身体で地面に頭から埋まっている事を。
前途多難はまだまだ彼らを掴んで離してくれそうにもなかった。
*
―――大陸南部イグニシア・クルシス首都アウテーナム・レクレス無名の公園。
世界が今日終わるとすれば、明日を夢見る事に何の価値があろう。
そう、道端に声を張り上げる演者が一人。
手入れが雑で妙に草木が生え過ぎた公園の片隅で箱の上に立っていた。
公園を利用しようとやってきた者達の大半。
母親と子供達はその変人を遠巻きにしいていたが、時折は立ち止まる者もある。
だが、殆どの者はすぐに離れていく。
しかし、めげる事もなく。
声は続ける。
この世の終わりがやってくる。
旧き神々の勃興。
真に深淵なる者達の跳梁。
おお、神代の到来は今すぐ其処に。
―――そろそろ不審者だと帝都守護職ヴァルガンノースへの通報……もしくは全員での帰宅が公園の片隅に集まる母親達の手で討議され始めた頃。
一台の馬車が公園内に止まり。
その中から出てきた人影が夕暮れ時に差し掛かろうとする世界に降り立った。
尚も粗末な箱の上で誰に語り掛けるわけでもなく空を仰いで終末を説く男は自分の前に来て、己の話を聞いている者の姿も視線に捉えず。
黒いローブ姿のまま、髭面のまま、血走った目のまま、狂人のように空へ声を張り上げる。
やがて、夕暮れ時に差し掛かり。
人がいつもよりも早く掃けた公園には男と聴衆とも言えない人影が一人だけ残り。
ようやく男は汗を拭って、自分の前で話を聞いていた相手に目を向けた。
「おお、最後まで聞いてくれた者が一人。何と言う行幸だろう」
その声は完全に枯れていたが、何故かよく空気に響いた。
「君は信じてくれるか? この世界が破滅に向かっていると……次の時代を切り開くには力と意思が必要なのだと」
「勿論、こちらは意思も力も集めている最中……彼方のような演者が是非とも必要だ。フラグライン・アストリエ・M・ローディー……終末の大賢者……いや、天蓋蒼星に降り立った初めての大魔術師」
「………」
男は黙り込み、乾いた瞳で自分の目の前に立つ女を見た。
蒼い男物の礼服(スーツ)。
それも完全な男装でネクタイも帽子(ハット)も完璧なまでにズレなく設えられている。
革靴は黒。
ステッキは銀。
顔面は不可視の魔術。
いや、他者の意識を除ける為の大規模な術式が化粧として掘り込まれており、認識すら出来ない。
「彼方のおかげで、あの世界の出来る事と出来ない事が明確になった。七教会に協力した為、魔術結社から追い出され、今では一人この公園の主となっているものの。それでも彼方の言葉には力がある……
「その遠き声、遠き瞳、遠き顔、遠き身体……因果律導線を薄れさせているな? 君はどうやら世界の外に身を置きつつあるらしい」
血走った瞳で、しかし……理性の篭る眼力が女の状態を推し量る。
「数年の間、色々と組織を大きくするのに無茶をした代償……男の勲章のようなものとお考えを。マスター・ローディー」
「………貴君の所属する組織を名乗りたまえ」
「蒼き幸甚」
「―――そうか。君が西部に身を置く女傑。赫毛の女。 キリア・ユエト・セマネか」
「有名なのはお互い様なようで」
「反七教会派の大陸規模での扇動、後方支援を司り、亜人、異種との繋がりも深く。この数年で裏社会を変革し、今や西部の犯罪者達の大半は軍隊のように統率されていると聞く」
「あぶれものには詳しいとの自負くらいは持ち合わせがあった。それだけの事」
「そんな君が一体、何の用だ? 南方進出にでも力を貸せと?」
「いえ、彼方の魔術を未来の為にお貸し願いたい」
「………」
「状況が差し迫っている事はお分かりなはずだ。彼方の言うように時間はもう然程無い」
「君の状態は特殊だ。しかし、君は凡人の類だと見受けるが」
「無論。だが、志しは人並み……七教会は今や割れ始めている。反旗を翻し、取り残された者達の居場所を確保し、次なる時代に備える為には彼方の力が必要だ」
「君が時代を受け入れるという選択が無いのか訊ねたい」
「無い。異論も認める。でも、我々のような者達は今もこの近代化の最中に彷徨い続けている。灯火が無ければ、後は墜ちていくだけ。それではあまりに哀しい」
「……滅びに向かう時代にその先を望むと?」
「我々は世界を救えない。我々は時代を動かせない。我々は旧く、時代遅れだ。けれども……己の世界で生きる権利を主張する程度は七教会も許容せざるを得ない。それが少し、そう……少しだけ、未来を変えてくれると信じられる」
「少し、か」
「ええ、少し」
男が息を吐いた。
「いいだろう……何を望む。狐の君よ」
女の唇の端が歪んだ。
「新しき世の人々が我々に押し付けられない世界を」
男は僅かに目を見張る。
女の瞳に確かな決意が浮かんだからだ。
それは女の印象が薄い事を差し引いても苛烈で。
「光に照らされてばかりでは何も良くは育たない。夜の闇が包んでこそ、人も時代も穏やかに過ごせるもののはずだ」
男は視線を俯けた。
「……己の10分の1も生きていない女に正論を言われるとは……男として恥じ入るばかりだな」
そして、ふぅ……と溜息を吐く。
「諦観へ沈んで数十年にもなろうか。その声は正しい。しかし、多くの時代に取り残された者達が諦めた事だ……抗う覚悟は……いや、聞くまでも無い、か」
男が顔を上げて周囲を見渡す。
その黄昏時の公園にはもう一般人は一人もいなかった。
ただ、彼と同じように旧い魔術師が用いる様々な色のローブを着た老若男女が数十人。
キリアに付き従うように立っている。
「だが、いいのか? この身の力は戦う為のものではない。戦力などにはならないぞ」
「だからこそ、欲しい。七教会に攻撃を投げるだけでは我々は何も為しえない。しかし、戦い方が選べるなら、彼方程に頼もしい相手もいない……旧き時代の先導者。弁舌の超越者よ」
男は箱の上から降りて、それを背中に担いだ。
「では、次の我が演壇をよろしく頼もう」
「何れ、この世の全ての者達に聞かせるだけの舞台を必ず」
「はははは、頼もしい事だ」
ローブ姿の者達。
何れも時代に取り残された大魔術師達が新たな同胞を前にして一礼を取って消えていく。
「何処に行くのか聞いても?」
その問いに女は帽子を取って、公園の先を指し示す。
「北へ。我々が次なる時代へ登壇する機会が其処に」
「ならば、初仕事に往こう」
やがて、黄昏は宵を運んで。
人影は何処からも消え失せた。
翌日、公園に再びやってきた母親と子供達は首を傾げる事となる。
何故なら、昨日まで何かがあったはずの場所には何もなく。
それが何であったかさえ、誰も知らず。
なのに、ポッカリと何か熱量のようなものが胸から抜け落ちている事に気付いたからだ。
翌日から公園に来る親子は減った事を何者も自覚する事は無かった。
この近代化の最中にあって、子供を塾へ行かせないなんて、
それでも子供達は急な大人達の変化に戸惑いながらも、公園で遊んだ思い出を胸に勉学へと向かっていく事となる。
無垢に遊んでいられた時代は終わりを迎えたのだと心の何処かで理解し始めながら………。