※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第十節

第十節「傷付いた小鳥」

 

 この世には譲れないものがある。

 

 それを護る為ならば、如何なる犠牲も厭わない。

 

 人の業と言うなかれ。

 

 誰にだろうと一つは在るのだ。

 

 例え、滅びの虜(とりこ)になろうとも貫き通したいものが。

 

 故に彼女もまた自らの仇になる知りながら、人の命を奪わずにいる。

 

『このテロリストテロリストテロリストテロリストテロリストテロリ―――』

 

 憎悪とは愛の裏返しだと誰かが言った。

 

 しかし、その修道女を見てもまだ綺麗事を言える人間は少ないだろう。

 

 己の肉体を自壊させる寸前で扱った女の瞳から。

 

 毛細血管の破裂により血の涙が流れる。

 

 爪はあまりの握力に剥げ落ちて、四つの奥歯は砕け散った。

 

 呪う声は声帯を酷使したせいで擦れ、嗄れ、死者の声にも似て。

 

 歪んだ顔は暗い獄炎に焼かれた罪人さながら。

 

 見るものが見れば、心臓が止まってもおかしくない。

 

『―――リストテロリストテロリストテロリストテロリストテロリス―――』

 

 横たわる者の周囲が全てを物語っている。

 

 崩壊した街並み。

 

 風光明媚を旨とした小さな避暑地が今や瓦礫の山となっている。

 

 折れた柱、砕けた煉瓦、割れた樹木、崩れ落ちた階段、散って尚鮮やかな花弁。

 

 夕暮れ時の大禍時(オオマガドキ)に栄える街の跡。

 

 その惨状を見て泣き崩れる避難民達が遥か遠方にいる。

 

 半ば、破壊に手を貸したようなものである彼女も同罪か。

 

 されど、修道女の顔にあるのは悲哀ではない。

 

 憤怒だ。

 

『正しく我を追い詰めて。正しく我を殺さんとした。その意気、情念、見事だ』

 

『タオスタオスタオスタオスタオスタオスタオスタオスタオ―――』

 

 僅かに修道女の肉体が持ち上がる。

 

 もし、状態を確かめる医師がいたならば、悲鳴じみた制止の声を上げただろう。

 

 両手両足の粉砕骨折。

 

 全身の筋肉の断裂。

 

 脾臓、膵臓、肝臓、胃、小腸、肺。

 

 ほぼ全ての臓器の機能不全。

 

 背骨の十五箇所に裂傷。

 

 全血液の四分の一を喪失。

 

 左眼球の破裂。

 

 膝関節の破壊。

 

 何故、立ち上がる事が可能なのか首を傾げずにはいられないに違いない。

 

『だが、これは遣り過ぎではないか?』

 

『―――クダケクチレ―――』

 

 呪いは続く。

 

 もしも、その筋の魔術師ならば、憎悪だけで人を殺すに足る怨嗟。

 

『お前の信奉する聖女はこんな破壊を喜ぶ者なのか?』

 

『――――――キサマがソレをイウノデショウカッッッ!!!?』

 

 ガブジュッッッ。

 

 骨の突き出た足が動いた。

 

 大量の吐血に咳き込み、血で溺れる肺に構わず。

 

 暗い赤に染まった瞳が彼女を睨む。

 

『元気なのはいいが、人の迷惑くらい省みるのだな』

 

 憤死してもおかしくない。

 

 歪み切った顔で。

 

 未だ神経だけは繋がっている両腕の筋肉が巨大な銃らしき塊を投擲する。

 

 ボジュンッッ。

 

 腕が内部の筋力に耐え切れず肌を弾けさせた。

 

『今日のところは我の勝ちだ。大人しく回収されておけ』

 

 背中を向けて。

 

 彼女が去っていく。

 

 明後日の方向に飛んでいった鉄塊も気にせず。

 

 追おうとして。

 

 修道女はようやく酸素不足になった脳が齎す意識の混濁で倒れ込んだ。

 

 彼女は背後の様子を気にする事もなく。

 

 一人歩んでいく。

 

 七教会の治安維持部隊が急行するより先。

 

 その姿は跡形も無く消えていた。

 

 *

 

(敵ばかり増える……こんな戦い方をずっとしていたのだろうな。お前は……)

 

 解けた意識の狭間。

 

 浮上する理性が旧い地図を辿るように己を確認する。

 

 何かを忘れていないか。

 

 何かを見落としていないか。

 

 無防備の後に己が己である事を証明せずして、彼女は今まで如何なる夜も越えて来られなかった。

 

 それと言うのも全て七教会に叛旗を翻しているからだ。

 

 この五年。

 

 彼女が出会った者の中には“普通の女の子として暮らせ”とか“全て忘れて楽になれ”とか、そう言う者も大勢いた。

 

 実際、何度か己を“奪われそうになった事”もあった。

 

 その度に彼女が、イフィー・ファサルトスが学んできたのは自己の薄弱さだ。

 

 何処かにいる。

 

 誰にでもなれる。

 

 この世で如何にもありふれた存在。

 

 それが自分であるという事だ。

 

 彼女と同じ歳で同じ身長で同じ髪の色をした人間は何人いるだろう。

 

 学校に通えば紛れてしまうくらいに違和感なんてない。

 

 テロリスト呼ばわりされながら、公的機関を敵に回しての旅。

 

 そんな事をしていても彼女はやはりまだ少女にしか過ぎない。

 

 だが、それではダメなのだ。

 

 生温い風に浸って恋愛でもして甘いものが好きで青春を謳歌する、なんて。

 

 そんなのは彼女が望んだ自分ではないのだから。

 

 選んだ道は修羅の道。

 

 いや、修羅ですらない永劫の魔道である。

 

 嘗て決めて。

 

 今も求めて。

 

 尚届かないからこそ、彼女は手を伸ばし続ける。

 

(我は唯一の希(ねがい)を手に彷徨う者。善(よき)も倖(さち)も友とせず歩く者)

 

 片腕がもげた事がある。

 

(痛かった。お前はそういう痛みを越えていた)

 

 目が潰れた事がある。

 

(怖かった。お前はそれでも未来を見つめていた)

 

 海で溺れた事がある。

 

(苦しかった。お前はこんなものをいつも耐えていた)

 

 彼女は知っている。

 

 幸せに縋(すが)って何かを為せる程。

 

 この世界は優しくない。

 

 だから、イフィー・ファサルトスは。

 

 ―――七つの剣を叩き折り、光を切り裂くものとなる事を誓った。

 

(今の我は、お前のように戦って、お前のように笑顔を浮かべられているか?)

 

 思考の片隅で小さく名が呟かれる。

 

「ぷは!!」

 

 イギルの森で泉に潜って一日。

 

 莫大な水流に抗い進んだ先で彼女は何とか目的の階層へと辿り着いていた。

 

 紛い物の月と星が支配する夜天。

 

 遥か頭上から降りる一本の巨木。

 

 闇に紛れて視認不能の黒き水の通り道。

 

 その先にも泉があった。

 

 まるで壁の如き大樹の傍。

 

 周辺の森から注ぐ水は透き通り、水底を覆う光る苔が仄かに周囲を照らす。

 

 もしも恋人達がいたならば、ロマンスの一つも演じるだろう。

 

 が、独り切りの彼女は剣獣(ソーディアス)から身を隠す場として其処を選び。

 

 数時間の眠りを得ていた。

 

「水質検査を忘れていたな」

 

 水面に顔を出したイフィーがずぶ濡れのまま掌に術式を展開する。

 

 小さな掌に幾何学模様が奔り、水に触れて青く染まった。

 

「粘度が高い。樹木の蜜か」

 

 飲料用として十分な様々な検査が基準値である事を確認して。

 

 周囲に敵がいないか十分に警戒しながら、彼女が泉から上がる。

 

 その姿は肌着も着ていないほぼ全裸だ。

 

 付けているのは股間を覆う紐と布で構成された際どい水着(ビキニ)のようなショーツだけである。

 

 と言うのも、彼女の衣装は囮(デコイ)に着せている最中だからだ。

 

 泉近くの樹木にはイフィーの姿そのままの人形が背を預け、眠ったように力なくクッタリと座り込んでいる。

 

 近くで見ても本人とまったく見分けも付かないだろう精度。

 

 もし、攻撃を受ければ相手をそのまま捕獲する魔術の産物。

 

 時に衣装の質感や匂いが希薄でバレる事もある。

 

 結局、敵は来ず用意は無駄になった。

 

 が、水底で安眠出来たイフィーは充分に気力を充溢(じゅういつ)させている。

 

 休息はしっかりと取れた。

 

(水分を補給したら行くか)

 

 手で掬った水をコクコクと飲み干して。

 

 身体を伝う粘性の高い水に肌を擽(くすぐ)られながら。

 

 彼女は囮人形へと足を向けた。

 

「!?」

 

 タタタッと。

 

 軽い足音。

 

 思わず敵かと身構えた少女が泉の畔で攻撃用の魔術を編んだ瞬間。

 

「お、泉か!!? 此処ならピア―――」

 

 声の主が飛び出してきた勢いのまま。

 

 地面に着地する事も忘れて、ズビシャアアアアッと泉の中へと突っ込んだ。

 

 無論、イルト・イナーシタが唐突に現われたイフィーの姿に目を奪われ、絶句し、半自動的に首をその姿にロックオンしたまま、前方不注意をかましたからである。

 

 妙に粘性が高い水はテラテラと身体を濡らしていて。

 

 その素肌は輝かんばかり。

 

 灰金の髪がペットリと少女の項(うなじ)に張り付く様子。

 

 そんな光景は刺激的過ぎた。

 

 というか、思いっ切り構えていたせいで胸元が無防備だった。

 

 目に焼き付いた光景を現すならば、楽園。

 

 しかして、その実態は果実(サクランボ)が二つとか。

 

 微笑ましいなだらかな丘陵が二つとか。

 

 更に一瞬で頬を紅くした少女の羞恥と睨み付ける上目遣いの瞳がプライスレス。

 

 三ヶ月は脳内のお気に入り箱(フォルダ)に保存して、数日に一晩はお世話になる事請け合いである。

 

 勿論、三ヶ月を過ぎたら永久保存用の長期記憶にしっかり焼き付けるに決まっている決定的な場面でもあったが、それが叶う前に自分の身の心配をするべき状況なのは男性には言うまでもない話だった。

 

 ガボガボと溺れそうなイルトは水の中からイフィーの掌に物騒な魔術が浮かぶ光景を見た、はずだ。

 

 小さな閃光が泉の周囲に溢れ。

 

(これが極東で言うところのラッキー&助平(スケベ)ってやつなの、か―――)

 

 青少年の夢と希望とその他諸々を詰め込んだ記憶は呆気なく被害者当人の意向で永遠の闇へと葬られた。

 

 *

 

「ハッ!!?」

 

 目を覚ましたイルトが思わず懇願しようとして。

 

「ん?」

 

 何を懇願しようとしていたのかを失念する。

 

 そして、“誰に”という如何にもな疑問を浮かべて。

 

 自分の横でピアリが寝ているのを発見した。

 

「今のは夢?」

 

「ああ、起きたんですね。イルト君」

 

 泉の傍で何やら手を緑色に輝かせて何かを練成していた。

 

「師匠!?」

 

「君が探しに行ってからちょっとしてイフィーが迎えに来てくれたんですよ」

 

「イフィーが?」

 

「ええ」

 

 イルトが周囲を見回して灰金の少女の姿ない事に気付く。

 

「そういや。オレどうして此処に寝てるんだ?」

 

「君が此処に辿り着いた時、勢い余って泉へドボン。意識を失っていたところを彼女が助けたそうです」

 

「そうか。オレ確か泉を見つけて……アレ?」

 

「どうかしたんですか?」

 

「いや、何かスゲーものを見たような、見ていないような、ん~~~?」

 

 悩み込んだイルトは脳内の皺の隅から隅まで忘れている何かを思い出そうとフル回転してみたが、それらしい情報は一欠けらも出てこなかった。

 

「ま、いいか。で、イフィーはどうしたんだ?」

 

「ええ、周囲の警戒に行ってくれ―――」

 

 ドガンッッ。

 

「「!!?」」

 

 そんな音と共に泉が揺れる程の衝撃で地面が撓(たわ)んだ。

 

「師匠!!」

 

 思わず動こうとしたイルトだったが、リュオに止められる。

 

「待ってください!! 今はピアリさんもいます。迂闊に動いては」

 

「そ、そうだな!? でも、今のって明らかに戦―――」

 

 炎の光が泉より数十m先で上がった。

 

「クソ!? イフィーはどうなってるんだよ!!? 此処からじゃ見えねぇ!!」

 

 森林はイルト達に戦闘の一部始終を容易には見せない。

 

 その先で一人戦っている少女を思った彼の拳が握り締められる。

 

「イルト君。行ってください。ピアリさんの事は僕に任せて」

 

「いいのか!?」

 

「病人一人守れずして何が医者ですか。これでも僕は迷宮から仲間を三人背負って帰還した事もあるスペシャリストですよ」

 

 眼鏡がキラリと輝いて、親指が立てられた。

 

「すまん!! イフィーを助けたらすぐに戻ってくる!!」

 

「彼女の為に時間を稼いでください。此処まで響くような魔術を使用しなければならない敵です!! 即座に編む一工程の魔術では火力が足りないはずです!!」

 

「了解!!」

 

 イルトが懐から金属棒を取り出して練成。

 

 剣の形にして颯爽と駆け出していく。

 

 残ったリュオが周囲を警戒しながらピアリの横に付いた。

 

 今も響く魔術の轟音と輝きに目が細められる。

 

(彼女がこれ程に大きな魔術を使っても倒せない敵……並みの剣獣(ソーディアス)では……)

 

 弟子の無事を祈らずには要られない師の横顔には僅かな危機感が浮いていた。

 

 *

 

「くッッ!? こんなところに何故この化け物が!!? エルフの入領は禁止されていたはず?!」

 

 イフィーは虹色の光弾を動魔術、高速機動回避用の飛翔魔術式で辛うじて避けていた。

 

『イフィィイイイイイイイ!!!』

 

「な!? 馬鹿者!? 来るでない!!」

 

 驚いたイフィーが誘導していた“敵”がピアリ達の方に向くのを見て唇を噛む。

 

「【其は武の勇将にして魔断の剣】―――ヘリオス!!!」

 

 彼女の手の甲に浮かんだのは今まで剣獣(ソーディアス)に向けられていたような生温い術式の強化すら無かった素の式ではない。

 

 幾何学模様。

 

 現代の魔導理論に裏打ちされた脳の代理たる術式駆動回路。

 

 それを体表で奔らせながらも、旧き時代より人類を守護してきた神々の力をも借りる、そういう魔術だった。

 

 つまり、神々の【意匠】を載せた一撃。

 

「交渉。拒否。干渉。介入成功。受けろ―――【炎重絢爛(グロリオーサ・フレイマ)】」

 

 イフィーの背後。

 

 五十本近くの炎で作られた剣が地上。

 

 森林に潜む敵に向けられた。

 

 剣の表面に浮かぶ術式中核。

 

 それは炎の神の一柱ヘリオスを讃える四頭の馬と戦車の刻印。

 

 通常は一本で十分。

 

 数千度の密封された高温で相手を焼き切る攻撃魔術が乱打された。

 

『イフ―――』

 

 虹色の光弾が敵より発射される一秒前。

 

 呆気なく森林地帯に吸い込まれた剣の威力が、炸裂する。

 

 ズガァアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!!!

 

 大地を抉り、結界にも近い獄炎の領域が数十mにも渡って炎を吹き上がらせた。

 

 同時に効果範囲を厳密に定めていた一撃はイルトの数歩先で威力を炸裂させながらも、一切の熱量を遮断して、光のみを周辺に齎し、森林を無闇に焼き尽くす事なく立ち昇っていく。

 

『どぁああああああああああああああ?!!!』

 

 下から響いてくる声に元気そうだとの安堵した、その油断を突かれたか。

 

 揺らめく火柱。

 

 いや、炎泉の奥から光弾が一つ虚空を貫き。

 

 呆気なくイフィーの左足を消し飛ばした。

 

「グッ?! 収束せよ!! 効果範囲指定。目標補足。追加構成。【日輪(ソル)】」

 

 未だ大地を溶鉱炉の如き高温に包む結界が急激に収束。

 

 まるで燃やし尽したかと思われる一帯に八つの円環、炎の車輪として結実した。

 

 内部の敵が露になる。

 

『giigrewajlgjareilwgjlirjgali4ghil4hgaliwjerg;243ojaighila』

 

 意味為さない声を上げたのは“巨大な口”だった。

 

 流動する肉の塊。

 

 今は焼け焦げているものの。

 

 それでも数千度の高温に耐え切ったソレはハッキリとイフィーに向いている。

 

「弾けろッッ!!?」

 

 車輪が口に殺到しようと動き出し―――彼女は攻撃が遅れた事を悟った。

 

 虹色の光弾が口の奥から発射されれば、今度は逃げようも無く。

 

 肉体の大半を貫かれるのは確実。

 

『行けぇええええええええええええええええええええええ!!!!』

 

「?!!!」

 

 イフィーの車輪が命中するより、虹色の光弾が吐き出されるより、先に。

 

 炎の中を銀色の閃光が駆け抜ける。

 

 熱量による大気の歪みを計算し尽くした上で放たれた弓矢の一撃は狙い違わず。

 

 融ける前に巨大な口の後ろを捉えて。

 

 ドッ。

 

 僅かに光弾の軌道を逸らす。

 

 途端、殺到する炎の円環に呑まれ、口は呆気なく消滅していった。

 

『イフィィイイイイイイイイイ!!!!』

 

 魔力残量が空になるのを感じて。

 

 少女は瞳を閉じる。

 

 一瞬でも慣性を軽減する魔術を発動する為。

 

 魔力の精錬を大急ぎで行う為に。

 

(また、助けられてしまったな……)

 

 未だ数百度の高温を保つ領域をイルトが弓を捨てて躊躇無く走った。

 

 その肌はまだ焼け爛れていない。

 

 師が扱うものと同じ。

 

 錬金の技術で自らの肌に持っていた合金を塗布したのだ。

 

 耐熱用の合金が溶け出すより先にイフィーをキャッチし、師の下へ運ぶ。

 

 もう彼の脳裏にはそれ以外の事は無かった。

 

 暗雲。

 

 それは瞬きの間に雨を運んでくる。

 

 何が彼女をそこまで駆り立てるのか。

 

 平和な世界に生きて、平和な時代を疑いもしなかった彼は知らない。

 

 ただ、一つだけ確かなのは……。

 

 少女が傷付いて落ちていく姿に。

 

 この世には死よりも怖い事があると。

 

 そう理解した事だけだった。

 

 *

 

―――大陸中央西部エスノレア公国及びアイザート商業連合共同体。

 

「お話、ありがとうございました」

 

「いえいえ、こちらこそ……こんな遠い場所まで出向かせてしまって申し訳ありません。本来ならこちらから出向いていくか。もしくはちゃんとお伝えする方法があれば良かったんですが……」

 

「いえ、此処の事は有名ですから」

 

「大昔からの慣わしとはいえ。この近代化のご時勢に他国との遣り取りに長い検閲が掛かるなんて……遅れたものだと我が祖国ながら恥ずかしいものです」

 

「ですが、徹底的な情報の管理でこの国が旧き時代から栄えてきた事も事実でしょう」

 

「ええ、まぁ……エスノレア教団は今や七教会の外郭団体として認可されていますし、純教派は喜んで七教会を受け入れましたが、国外の方には分からないだろう葛藤……みたいなものがこの国の中にあるのも本当のところです。いつか、本当の意味で近代化出来ればいいのですが、他の中央諸国に比べても長い道のりになるでしょう。おっと、詰らない愚痴を聞かせてしまいましたね。もう時間も無いようだ……すいません。お忙しいでしょうにこんな話に付き合わせてしまって……」

 

「そんな、あの子の話を聞かせて頂き、本当に感謝しているんです。もしよろしければ、またいつか聞かせて下さい」

 

「ああ、そう言って頂けるとは……息子さん……イルト君、早く見付かるといいですね」

 

「はい。でも、そう心配はしていないんです。だって、あの子はきっと何処かで今日も元気に生きているはずですから……」

 

 頭を下げた老教師がそれ以上は何も言わず二人分の珈琲代を払って店から出て行った。

 

 それを見送った少し歳のいった40代程の品の良い緑銀の髪の婦人が奥で待つ夫の方へと向かう。

 

 対面に座った妻と同じく40代程だろう男が大丈夫かという瞳を向けた。

 

「そんな心配そうな顔しなくても大丈夫よ」

 

「そうか。でも、これで……あの子の手掛かりは尽きてしまった事になる」

 

 男の顔は僅かに沈んでいる。

 

「そうね。通っていたって言う塾の講師の先生も見付かってないし……確かに手詰まりかもしれない」

 

 そう言うものの。

 

 僅かに瞳を細められた婦人の顔には笑みが浮いている。

 

 それがどうしてなのか。

 

 訊ねようとした夫に彼女は苦笑しつつ、訊かれる前に答える。

 

「あのね。あなた……あの子、あの担任の先生にはいつも楽しそうに見えたって」

 

「楽しそう?」

 

「ええ」

 

 頷いた顔には穏やかな表情。

 

 それに男は今までの調査では出てこなかった素顔というものが、妻が聞いた話にはあったのだと理解する。

 

「塾の先生をいつも慕っていて、バイト先のオヤジさんの凄さを語ったら止まらなくなって、将来は土木建設の会社にでも勤めようかなって、そう言ってたんですって」

 

「そう……か」

 

 その息子の姿を僅かに思い浮かべて。

 

 男もまた少しだけ笑顔を覗かせた。

 

「七教会に頼んでた銀行の預金残高情報の照会。あれでもあの子、毎月自分で稼いだお金で生活してた……私達の残したお金は時々しか使わなかったみたいだし……きっと、逞しく育ってくれてたのよ……」

 

「ぁあ、そう、だな……」

 

「普通の学生生活をさせてあげたかった。毎日お弁当を作ってあげたかった。母親として沢山してあげたい事があったわ。でも……時間はもう戻らない。私達が帰ってくるまでにあの子は自分一人で立って歩き始めていた。それはちょっとだけ哀しいけれど、凄く誇らしい事じゃない?」

 

「……父親として、頼もしく思うよ」

 

「だから、見付からないとしても……二度と会えないとしても、私はあの子を信じ続けるわ」

 

「お前……」

 

 男の前で女は微笑んでいた。

 

 涙が零れているのも気付いていない様子で。

 

 その熱さすら忘れたように……熱に浮かされた様子で。

 

「だって、私とあなたの子ですもの。きっと、きっと……今だって逞しく、この大陸の何処かで……」

 

「ああ、ああ……そうだな……そうだ」

 

「あなた、帰りましょう。あの子がいつか自分の家を見に来るかもしれない。その時、もし私達がいたら……きっと、顔を見せてくれる……だから、あの場所にもう一度、家を建てましょう」

 

 涙がそっと拭われる。

 

「どうやら、死ぬまで働く事になりそうだ。ははは……」

 

「ええ、あの子が帰ってくるまで共働きでいいじゃない。それにあの子の通帳に少しずつ入れてあげて、もしも使う時がきたら、私達が帰ってきたって……生きているんだって分かるようにもしたいの」

 

「ああ……うん。いいんじゃないか? どうせならマイホームくらい建てられる分溜めとくか?」

 

「ふふ、過労死しちゃわないように気を付けて」

 

「それはこっちの台詞だろうに」

 

 男女が共に立ち上がる。

 

 涙を袖で拭いた妻がスーツのポケットから取り出した写真を見つめる。

 

 その中には学校の制服を着た……随分と大きく成長した息子の姿があった。

 

 笑顔で男友達と拳を天に突き上げる、だなんて……青春の1ページがその中には切り取られている。

 

「何処に行っちゃったのかしらね。ホント、あなたに似て目を離すとすぐ消えちゃうんだから」

 

「それはお前の血だろう。旅好きで好奇心旺盛。毎日のように学校帰り遠出して、帰ってくるのがあんまり遅くなると怒ってたのは何処の誰だ?」

 

「ふふ、大丈夫そうね。こうやって考えてみたら」

 

「ああ、大丈夫さ。きっと……」

 

 二人が蒼い星を見上げる。

 

 家族が一緒だった時には無かった星が今日も世界を穏やかに照らし出す。

 

「帰りましょう。我が家へ……働きましょう。再会を願って」

 

「ああ、そうだな。帰ってきた時、お前みたいに可愛い嫁さんを連れているかもしれないし、子供だって出来てるかもしれない……その時、格好良いお爺ちゃんと呼ばれたいからな」

 

「なら、私は可愛いお婆ちゃんと呼ばれる為に美容にも気を使おうかしら?」

 

「あんまり高い化粧品は無しだぞ?」

 

「そっちこそ。釣竿は一本あれば十分よ?」

 

 ふふふと。

 

 夫婦は笑い合い。

 

 店員に繁々見られている事に恥じ入って、手を繋いで歩き出す。

 

 やがて来るかもしれない未来を見つめながら。

 

 それが決して妄想の類ではないと己を奮い立たせながら。

 

 翌日、大陸中央諸国の曰く付きの土地の一角が20年ローンで購入される事となる。

 

 人気の無い場所が売れて不動産屋は喜び。

 

 一組の夫婦は再び其処へ家を建てる計画を立てた。

 

「行こうか」

 

「はい。あなた」

 

 やがて、二人は互いを労う為に旅行をする事となる。

 

 それはようやく一般人にも開放され始めた人気のスポットで。

 

 バカンスには持ってこいの場所。

 

【もしも疲れたなら気長においでよ。誰も知らない場所が君を待ってる】

 

 そんなキャッチフレーズに引かれた夫婦は約束された日に辿り着く。

 

 其処は燦々と光が降り注ぐ星の中。

 

 当主印のクラウゼン旅行代理店が企画する旅の内容はこうだ。

 

―――蒼き天蓋の星に見た!! 謎の緑銀の星潜者!! 見つけた方には金一封!! ついでに御当主様グッズ一式をプレゼント!! 貴方も幻のヒーローを一緒に探してみませんか?

 

 実はやらせ。

 

 実は普通にいる。

 

 微妙に買出しの時は上層の大きな街をウロウロしている。

 

 しかも、呼び出したらザックリ密碑4000で一大スペクタクル(練金生成による花火大会)までやってくれるという幻(笑)の星潜者と二人が出会った時。

 

 彼らはこう言うだろう。

 

 やっぱりね、と。

 

 きっと、笑い合い、涙しながら………。

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